はてなキーワード: 漠然とは
お金の話はいざこざを招くと知っていたので、お金、例えば奨学金の話を振られても「学費は出世払いなの~~」とか適当な返事をしていたけれど、
遊びに行くような友達は自分と同じような家庭出身の子達ばかりになった。
高校時代の友人らからは「やめときなよ~」とは言われたが、某有名ファストフード店でアルバイトをした。
確かに客層は悪かった。そこを辞めてコーヒー1杯400円前後の喫茶店のバイトに変えたら、
たった数百円の差なのに客層がよくて驚いた。
お金がない生活を送っていると精神的な余裕がなくなると知った。
もうすぐ大学を卒業して就職する。親のすねかじりをさせてもらう生活も終わる。
石破 茂 です。
謹んで新年のお慶びを申し上げます。本年も何卒よろしくお願い申し上げます。
昨日、一都三県を対象とした緊急事態が再宣言され、昨日発表された東京の感染者も過去最多の2447人となりました。
感染者の増加は確かに重大事ではありますが、冬になって空気中の水分が減って飛沫が遠くまで飛びやすくなるのは当然のことですし、寒冷地では換気の機会も減少することも考えられます。PCR検査数の増加によって陽性者が増えるのもまた当然のことです。
かくなる上は、感染者数ばかりに注目することなく、限界ある国家資源や医療資源を、重症者と死亡者を減少させることに重点化して配分すべきなのではないでしょうか。
「どうすれば重症化・重篤化しないか、どうすれば死に至らないかが重要であり、対策も情報発信も、このことを重視すべき」と昨年の感染初期よりテレビなどでも何度か申し上げてきたのですが、なかなかそうはなりません。
医療関係者の献身的な努力によって、アビガン、レムデシベル、ヘパリン、デキサメトゾンなどの薬、人工呼吸器類(ネーザルハイフローやECMOなど)、普及率世界一のCTなど(この多くを今回初めて知りました)を用いた治療法も随分と進歩し、救命率もかなり上がっているはずなのですが、そのような報道もあまり聞くことがありません。漠然とした感染者数よりも、基礎疾患を持つ方や70代、80代、90代の高齢の方の罹患率、感染者数と死亡者数の正確な分析などの方が知りたいと思うのは私だけでしょうか。
日本人が欧米に比べて人口当たりの感染者数や死亡者数が極めて低いのも、同じ都道府県内でも市区町村によって状況が全く異なることにも必ず理由があるはずで、その科学的な分析が進められれば、もっと精緻な政策が打てるのではないでしょうか。
生活習慣の相違、国民皆保険制度の存在、極端な格差社会ではなく分厚い中間層が存在していることは決定的に重要な要素であり、この持続可能性を維持できるかが最大の課題です。
諸外国、特にスウェーデンの対応についても様々な論評がありますし、同政府のコメントも承知していますが、この国において「『寝たきり老人』(とても嫌いな語感です)が居ない」ということとも関連性がある宗教観や死生観の問題が、改めて問われているように思われてなりません。
日本特有の同調圧力とゼロリスク志向の強さも改めて感じています。「自粛警察」などという不可思議至極な活動は、今のところなりを潜めているようですが、戦争中の「パーマネントはやめませう」「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」などという「愛国的な」活動が想起されて、とても嫌な思いが致しました。ヘルスリテラシーの低さについても、自らを省みて、これもまた然りと思います。
日本においては大勢の世論(「空気」)に抗って異論を差し挟むことは忌み嫌われますが、政治は世論に迎合しすぎてポピュリズムに堕してはいけない、よく自重自戒せねばならないと思っております。
失業率が1%上がると自殺者が1,000人から2,000人増えると言われていますが、ここ数か月の自殺者の増加、特に女性の割合の増加はとても気がかりです。また、病院にあまり行きたくない、ということで、がんの定期健診の受診数も大幅に下がっています。
風邪やインフルエンザが「根絶」されることがないように、新型コロナウイルスも「根絶」される、ということはないでしょう。ただし治療法が広く共有され、重篤化を防ぐことができ、ワクチンが広く行きわたり、感染拡大が収束した時に、自殺者が激増し、がんによる死亡者が大幅に増えてしまったとすれば、それは「人類がコロナに打ち勝った」証とは言えないのだと思います。
政権は厳しい状況の中であらゆる方面からの批判に晒されながらも可能な限りの対応をしているのであり、我々は少しでも国民の支持と理解が得られるように努めなくてはなりません。
昨日のアメリカ議会へのトランプ支持者の乱入と死傷者発生の事態について、トランプ大統領に責任がないとはとても言えない状況でした。選挙結果について異議を唱えるだけならともかくも、支持者に対して議会への乱入を扇動するようなスピーチなどは、民主主義の実力行使による否定と紙一重であり、見たくもない光景でした。
トランプ大統領が就任した時、「言を左右して相手を困惑させ、自分にとって最も有利な取引を仕掛ける『サスペンスとディールの大統領』となるのではないか」と申し上げたと記憶していますが、まさにその通りの4年間であったと思います。大統領当選時の勢いをもって議会選挙を経た結果、共和党も明らかに変質を遂げました。昨年の大統領選挙でトランプ氏に投票した米国有権者は7380万人、この人々が更に先鋭化するのかも全く見通しは立ちません。
自由を建国の精神とするイデオロギー国家、国民の8割が神の存在を信じ、4割が毎週日曜に教会に通う宗教国家、アメリカ国民という意味での民族国家、こういったアメリカの本質はバイデン政権になっても変わることはありません。そうであれば、それぞれの自画像、理想像、基本的な価値観が対立する米中の軋轢は今後一層激しくなり、日本はより一層厳しい選択を迫られることになります。安全保障についての法体系も、装備も、運用も、アメリカ依存から脱却し根本から見直すべきだと思いますし、今までのような問題先送りでは国益を損じると考えます。
それでもなお、同盟国である米国が新政権によってその美点である復元力を発揮し、アメリカ民主主義の理想に立ち戻ることを心より期待しています。
年末年始、生来の怠惰さに加え、雑事に追われて勉強らしい勉強も出来なかったのですが、中川恵一准教授(東大附属病院)の「コロナとがん」(海竜社)、小林よしのり氏の「コロナ論」(扶桑社)、橋爪大三郎氏の「中国VSアメリカ」、同氏の大澤真幸氏との対談「アメリカ」(共に河出新書)、加藤陽子氏の「それでも日本人は『戦争』を選んだ」(新潮文庫)、は極めて示唆に富む大変に興味深いものでした。
合間に久々に再読した、没後50年となる三島由紀夫の短編・中編(新潮文庫)の文章の独特の華麗さにも魅了されたことでした。
週末の日本列島はまた寒波の襲来に見舞われそうです。皆様ご健勝にてお過ごしくださいませ。
人間それぞれは自分なりの最善を尽くしているって考えていて、それ以上はなかなか自分では気が付きづらい。
だからこそ政府や組織のリーダーが旗を振って、具体的にこういうことをしていきましょうというように、常識をコントロールしていく必要がある。
ところが政府は、外食ばかりを目の敵にして、営業自粛やら補償やらで勝手に板挟みになっている。
もっと1市民レベルで対策を強化できることはいくらでもあって、まずはそこを具体的に示していこうよ。というのは、今回の緊急事態宣言の会見を聞いててずっと思ってた。
手洗い、消毒の再度見直し。
外食では食事中の会話を小声で、最低限にする。それに合わせてBGMも絞る。
人と直接会うことを回避して、リモートでできることはできるかぎりする。そのためのサービスなんかを民間に募って情報サイトを立ち上げる。
などなど。
そういう話をなくして、営業時間短縮、外出自粛を叫んだってどうすんの?とは思う。
コロナが流行りはじめて1年経つっていうのに、未だにデビ婦人見たく「意識高いから大丈夫」っていう人が一定数いるのは驚きでしかないんだけど、でも、それが現実。
そういう人に「無症状でも感染します。」って何回言ってもわからない。
直前に抗体検査受けたって1時間後に体内でウィルスが急増してないとも限らないし、検査で検出されなくったってウィルスを持ち込んでないとは言い切れない。
だからただ「会食禁止」ってするのではなくて、何人まで、換気の徹底、食事と交流の時間を分けてマスク着用をする、とか、開催するならこうしなさい的なガイドラインをどんどん作り上げていったほうが健全だよなとは思う。
リベラルやポリコレを支持する人の多くって、そのような論に触れた時になんらかの救い――救いが言いすぎならば共感を持ったから、左派になったと思うんだよな。
漠然とした日々の苦しみや欲求不満を言語化してくれて、その原因も解説してくれる人が人気を集めるのは、政治的立ち位置に関係なく、永遠の青春小説と呼ばれる太宰治も、ヘッズ(客)のプロップス(支持)を集めるラッパーも同じだ。
「あなたは苦しみを感じてますね、それはアレのせいです、一緒にアレに立ち向かいましょう」
そういう、僕たち私たちの代弁者であり羅針盤になるような思想や話者が心をつかむのは、どの時代のどの場所でも同じだ。
これがポピュリズムなのか民主主義の基本なのかはわからんが。というかポピュリズムの定義ってちょっとっググったら曖昧なんすね。
さておき、このように考えると、現代日本でいまいちリベラルやポリコレが好かれていないのは苦しみの代弁がうまくできていないからじゃないか。
既に左派な人間からすると「私たちの苦しみを語ってくれてる!」と思って支持しはじめたのだから、「いやちゃんとやってくれてるぞ」と言いたくなるのだが、数字的には多数にはあまり響いてないようだ。
オタクに右派や反ポリコレが多いってのは、そもそもオタクに限らず左派支持が少ないだろという話なんだけど、少なくとも「左派が僕たち私たちの苦しみと欲望をうまく代弁してくれない、右派の方がわかってくれてる」と感じた消費者や創作者は右に共感を強めるのだろう。
オタクが昔より地位がマシになったのは、今でいうポリコレ的な左派思想の影響が大きいとは思うのだが、昔世話になったことと今の共感は別である。
あと、「私はオタクで左派支持だぞ無視すんな」みたいに言いたくなった奴、個人の話はしとらんからな。
今年成人を迎える人は、様々な思いが胸に去来していることと思う。
長期休校やテレワーク、先の見えない漠然とした不安を抱えている人もたくさんいることだろう。
沢山のものを感じ取り、たくさんのことを成し遂げるエネルギーが新成人の君たちにはある。
そのエネルギーの源は"若さ"であり、不可逆的な変化で色褪せ朽ちていく。
若人は、この状況を悲観するよりも、今できることをなすべきだ。
(ちなみに、ハタチの一年は人生の体感時間の中で、5%程度だ。 ジャネーの法則 https://www.sekkachi.com/entry/integral_Life)
理由に関しては、さまざまであるが成人式を挙行してもこれだけの人数はすでに営利企業が作った”一生モノ”よりも大切なことを見つけている。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000153.000006827.htm
私見ではあるが、成人式に行かなかったことで「よかったこと」・「後悔したこと」を挙げる。
「〇〇大に入った」、「〇〇と付き合っている」、「〇〇に就職して稼いでいる」、といった野卑な自慢話をされることはない。
かわいい子が激太りしていたり、イケメンが薬やってそうな痩せ方をしていたり、そういった思い出が壊されるような出来事はない。
酔った勢いで…なんていうことはない。
よかったことと表裏一体ではあるが、艶やかな女の子、端正になった男の子の凛とした姿を見ることができない。
成人式のあとの祝賀会で小中学校の恩師がいたりする。成人式に出ないと、地元になにかツテがない限り会えない。
小中学校の同級生とは成人式で会えなかったら基本的に縁がない。
成人式がきっかけで…なんてことはほとんどない。仲が良かったら普段から連絡とってるし、連絡が切れた人間とは何かがきっかけで再会してもそのあとつながり続けることは基本的にない。
成人って勝手になっているものだから、学校の卒業とか苦労して手に入れるものに比べると10年経つとどうでもよくなっている。
というか、20歳が人生のピークになっていたら人生100年時代の残り80年の存在価値はどうなるのか。
一日悪い事1つ、良い事3つをその時の感情を含めて書いて、寝る前に見返すとと気分が落ちるつくという某メンタリストの助言の通り今年日記を書いている。
やってても気分が沈んでどうしようもない時があるが、それはそれとして、これは意外といい。
なにがいいって、1年で何が起きたかなんて、よっぽどインパクトの大きい事でないと忘れてるもんなのだ。
たまに見返すと「夏はこんなんだっけ」って思い出すし、今の気分が沈んでる時に、大体どれくらい前からなのか記録として残ってる。
「あ〜、2ヶ月前はクソ忙しかったなー、こっからかな」とか、「俺、これについてずっと悩んでるな」とか、「この問題はずいぶんマシになったな」とか。
いい方でも「春先のアレはよかったな」とか「夏のアレは楽しかったな」「10月のアレは良い判断だった」とか。
ただ漠然と悩んでいると、長く悩んでいて、これからも悩み続けるかもと不安になる。
ある程度「どれくらい長く悩んでいるのか」と「どんな楽しいことがあったか」が記録としてあると、すこし気分が軽くなる、ということもあるのかもしれない。
俺も一回なんとなくの書き込みがすげーバズって短期間ながらTwitterのトレンドにまで行ったことがあるんだけど、数日は睡眠時間が2時間くらい削れた
バズり慣れてたらたぶん平気なんだが、パンピーに千とか万とかの単位の感想・反応が突如くるのは良くも悪くも影響大だ
俺の場合は幸いそんなに悪くは言われなかったんだけども、やっぱこうなんか、キますよ
特定要素とか一切なかったのに漠然としたビビリがあるし、ちょっとした批判コメントも地味にダメージ入る のについ見に行ってしまう
そもそも、「本人に届くことを前提としてない、歯に衣を着せない批判」を直接目にすることってないじゃん、一般人
「バカだなーこの人」程度のショボい罵倒でも結構効くんだよな そういうのが積もると体調崩すくらいの威力になるのは間違いない
でも見に行ってしまうんだ これは本当に体験しないと分かんないと思うけど、大バズしたらエゴサしてしまうのが人間の本能だと思う なんせマズローの欲求ピラミッドの頂点だしな
そして大量の反響に晒されるわけですよ 普段屋内を歩いてるだけの人間がイキナリ屋外を裸足で走り回るような感じかもしれん 弱い足裏だからヘチョい小石もグサグサ刺さる!
4℃女、俺個人としてはそんなに好きなタイプじゃあないんだけど、あの人が日常的にバズりまくってるインフルエンサーとかじゃないんだったらさぞキツかったろうなと思うので、結構同情している
エゴサは止められないし、ダメージは確実に負う 基本的にポジティブなフィードバックばかりでもノーダメージとはいかないんだから、あの感じのリアクションだとそれはすごいことになろう
あのままの感じで特に寝込んだりもせず元気にSNSを続けられたらガチで超人だと思う(すでに寝込んだと書いてた気もするが…)
別に親は他宗教を熱心に否定するというわけではないのだが、かといって取り入れるというつもりもない。
バレンタイン・ハロウィン・クリスマス・エイプリルフール、他宗教由来のイベントはウチでは尽く無関係として扱われた。
あるとき、子供会のクリスマス会に参加しないかという誘いが来たとき、うちの親は「他の家とクリスマスの話題になると却って辛い思いをするから」と断ったことを人づてに聞いた。
そういった包み隠さずに自分たちの異常性を認識した有り様は、私にとっても有り難かった。
実際、ウチはおかしいと親に伝えると、たしかにそのとおりだ普通とは違うだろう、と素直な返答が帰ってきた。
だが、普通と同じでなければいけないなんてことはないし、私達もお前に何でも普通と同じかそれ以上を求めるつもりもない、と言われてしまうと、自分が今まで親に許されてきたような諸々が浮かんできてなんとも気まずくなりそこからは何も言えなかった。
クリスマスプレゼントを貰ったことがないことを不幸の象徴のように言う人がいるが、私は特にそうは思わない。
結局の所、不幸が先にあって、そこに象徴としてクリスマスプレゼントの不在が触媒として機能するだけなのだ。
私は親からそれなりに愛されて育った自覚があるし、誕生日プレゼントだとかも辞書や知育玩具のような親のエゴと無理解の象徴のようなものを押し付けられることもなく、その時に欲しい物を普通にねだれば普通に買ってもらえる環境だった。
我が家の教育方針は、とりあえず自分に素直になれというものだった。
きっと私が本気で「クリスマスケーキが食べたいから買ってほしい」と頼めば親も買ってくれただろう。
だが、ケーキぐらいなら親が時折買ってきてくれる分で十分に感じたし、大きいところから切り分けるという事に対して特段憧れを抱くこともなかった。
これは貧乏とも裕福とも遠い家で育った人間なりの素直な偏見なのだが、クリスマスを特別に感じるのは、きっとそういう時でないとケーキが食べれなかったり、プレゼントを貰えないような人なんだろう。
私のように、ただ漠然とそれなりのものを与えられ、それなりに暮らし、それなりに愛され、結果としてある種の無感動な人生を生きていくと、クリスマスの不在なんてものになんら意味は見いださなくなるのだろう。
俺たちはドッペルを追いかけた。
だけどスタートダッシュで引き離されているのもあって、差を縮めるのは困難を極めた。
さらにドッペルは右に曲がったり左に曲がったり、フェイントを入れて直進したりしてくる。
俺たちはそれに後手で反応しなくてはいけないので、どんどん心身が削られていく。
特に痛かったのは、最も体力のあるシロクロが早々にリタイアしたことだ。
「回り込んでやるぜ」と別ルートを走っていって、それっきり。
あいつのことだから、たぶんドッペルの逃げる方向と逆に行ってしまったんだろう。
「シロクロは当てにできなさそうだけど、私たちも回り込むべきかしら?」
「だめだ、その隙にドッペルに変装されたら見失ってしまう。このまま視界に入れ続けて追いかけるべきだ」
この時、参謀役のミミセンは既に体力の限界がきており、脳に酸素が行き渡っていなかった。
そのせいで「三手に分かれるなりすればいい」という発想が出てこなかったんだ。
ブレインであるミミセンがその調子なのだから、俺とタオナケはひたすら走り続けるしかない。
アドレナリンっていうんだっけ。
そういうホルモン的なものが分泌されまくって止まらないんだよ。
「待ってくれ……」
「話を、話をしましょう……」
「もう話すことなんてないよ!」
「いや、ある、あるはずなんだ!」
ここで見失えば、ドッペルは二度と俺たちの前に姿を現してくれない。
そんな漠然とした不安だけが、今の俺たちを突き動かしていたんだ。
実際のところ、クラスメートだから明日には学校で会えるんだけど、そこまで考えを巡らせる余裕はなかった。
大した理由なんてないけれど、この時の俺たちにはそれで十分だったんだ。
どれくらい経っただろうか。
ドッペルは走り疲れて、その場にへたり込んだ。
それを確認したと同時に、俺も近くで崩れ落ちる。
こっちも本当にギリギリだったので助かった。
「はあ……こんなに走ったの久しぶりなんだけど、前は何の時だったっけ」
「ああ、それよ、それ。あの時はドッペルがいたから、もう少し楽できてたけど」
息を切らしながら、ドッペルとタオナケは何気ない言葉を交わした。
「あ、そうだったかしら」
結局、ドッペルの言っていた“自分”とは何なのか、その答え合わせはしなかった。
でも、そんなこと関係ない。
本音で包み隠さず、何でも話すことだけが仲間の条件じゃあないからだ。
「見つけたぞ! ここまでだドッペル!」
「遅いよ、シロクロ」
「お前……マジで何してたんだよ」
そう言って袋からペットボトルを取り出すと、それぞれ俺たちの方へ放り投げてきた。
気を利かせたつもりなんだろうけど、そもそもシロクロがヘマしなければ、こんなに汗をかかなくて済んだんだ。
言い知れぬ不満を抱えながら、俺たちはペットボトルの詮を開けた。
プシュッと大きな音をたて、飲み口からどんどん液体が溢れてくる。
「シロクロ、これ強炭酸……」
まあ、お汁粉とかコーンポタージュじゃないだけマシってことにしよう。
へぇ、やっぱり三浦春馬氏ような芸能人だって30年生きてこれ以上は生きていたくないと思うのか。
今年7月、彼が自殺した報道を目にした最初の感想は、驚愕でも悲嘆でもなく「ああ、やっぱりそうなんだ」というある種の安堵だった。
三浦春馬氏が何を思い、何に悩み自殺したのかは彼本人にしか分からない。だが彼の苦悩は彼個人だけの物ではなく、もっと多くの人が抱えている普遍的な苦悩であるように思えてならなかった。
青年と中年の間、というより魂は干からびてもう中年になってしまった私だが、自殺した三浦春馬氏と同じ30歳の時には、人生がまだ折り返し地点さえ過ぎてない事にうんざりしていた。早く楽になりたい。早く楽になりたい。そんな思いばかりが日に日に強くなる。
人にとって最適で、幸福な人生の長さはどれくらいなのだろう? 30歳になるよりもっと以前、成人したての頃には既にそういう事を考えていた。
例えば10歳の小学生が中学に進学したくないから12歳で自殺する計画をしているとする。流石にこれは人生の結論を急ぎすぎている。小学生の身近にいる年長者の多くは彼の計画を止め、考えを改めさせようとするだろう。私だってそうする。
では、20歳の大学生が社会に出たくないから22歳までに自殺しようと計画した場合はどうだろうか?
社会人になっても人生の墓場に入るわけではない。それどころか自分の場合は社会に出てからの方が自由が増え、毎日が充実している。彼もしくは彼女だってそうなるかもしれない。命を終わらせるのはあまりに惜しい。そう考える人は大学生の自殺を止めようとするだろう。
違った考え方の人もいる。思春期が人生の絶頂期という考え方は正しい。自殺という能動的な人生の終了は選択しなかったが、別に自分は22歳までに死んでも良かった。そう考える人は自殺を積極的に手伝わないまでも、大学生の自殺の意志を知って何もせず放置するかもしれない。
というかお前もう成人してるんだから、生きるべきか死ぬべきかなんて重要な選択を他人に委ねるな。自分で判断しろよ。そう考える人も大学生が自殺するか自殺をやめるまで放置するだろう。もし本当に大学生が自ら命を絶ったら不愉快な気分にはなるだろうが。
三浦春馬氏が亡くなった30歳という年齢は、現代人にとって絶妙な人生の長さに思えてならない。
自分を含め、「自殺という選択肢が脳の片隅に少しでもある人」の場合、30歳になるとこんな事を考える。
思春期が人生の絶頂期という主張は極論だ。だが思春期が終わってからの数年間も、広い意味ではモラトリアムのような物。モラトリアムが人生の絶頂期という考えであれば、なるほどと腑に落ちる。20代の終わりという年齢が人生の一つの大きな節目である事は客観的に見ても事実であろう。
20代の終わり頃から頭が固くなり、新しい物を取り入れる柔軟さが衰えてきた。なので、自分が今抱えている希死念慮は5年・10年という短いスパンで解決する事はおそらくない。場合によっては一生付き合う覚悟が必要になる。希死念慮を抱えながら生きる今後数十年という長い人生、真綿でじわじわと首を締めるような緩やかだが確実に精神を蝕む苦痛に、自分はこれから耐えれるのだろうか。
中高年の中には日々を惰性で生きる者、生きる事が苦痛でたまらないのに、何らかの事情で自らの命を絶てない者や、命を絶つ覚悟も、そのための行動を実行する気力もない者が大勢いる。後悔のない人生を送る人間はいないかもしれない。きっと彼らだって自ら望んでゾンビのような生き方を選んだわけではないのだ。では自分はどうだろうか。彼らのような中高年になりたいか問われれば答えは「NO」である。だが自らの命を絶つための気力がまだ残っているか問われれば「YES」と答える。
もうここまで生きたのだから、これ以上生きられなくても別に構わないと考えるようになり、ある程度自分の人生の見通しが立ち、精神が未熟な頃から抱えていた漠然とした不安が実感となって襲ってくる。それが30代という年齢だ。
ここで断っておく。
私は当分の間は自ら命を絶つつもりはないし、誰かにここまで生きたのだからもう休んでいいのでは、と自殺を推奨するつもりだってない。2020年が終わる前に、自分の考えを記録しておきたかった。ただそれだけだ。
三浦春馬氏よりも若い20代か10代の若者がこの文章を読むと負の衝撃を受けるかもしれないが、匿名ダイアリー利用者の年齢層はもっと高いはずなので、若者の目に入る可能性は低いだろう。
まぁ、もし若者を憂鬱な気持ちにさせてしまっても、別に気の毒だとは思わないが。
人生に大した喜びもなく惰性で寿命を消費しているだけの中高年の怨嗟が渦巻いているこんな場所を覗いて、「ほら見ろやっぱり年長者だって、もっと早く死んでおけばよかったと考えてるじゃないか!」と、人の生が虚しい物である事をわざわざ確認している若者なんて、どうせ歳をとっても暗い人生しか送れないに決まってる。
医学の発展により人の寿命は伸びたが、人類の多くは伸びた寿命をいかに幸せに過ごすかという、幸福になるための努力を怠ってしまった。肉体を維持する技術の進歩に大抵の人間の精神はついて行けてないのだ。
もうこれ以上長生きしたくない。生きるのが苦痛だ。そんな悲鳴と虚しさがこの国を、この世界を覆うようになって、個々人の幸福を置き去りにして進んできた人類の長寿のための医学の歩みはやっと足を止めるのだろう。