はてなキーワード: 法事とは
https://anond.hatelabo.jp/20220327100332
私と、私の両親に限っての話なので皆さんがそう思うかどうかは知りませんが、実際にありましたよ。
もう10年くらい前のことになりますが、きょうだいが仕事で心を病んで実家に帰ってきて、状態良くなったら一人暮らしに戻ってちょっと働いてやっぱダメでまた実家戻って、みたいな生活を延べ3年くらい続けていました。
きょうだい、すごく遠いわけじゃない程度の他県で働いていたので、状態悪くなったら深夜でも親が車ですっ飛んで行って連れ戻してきたりとか、向こうで救急車で運ばれたりとか、まあそんなかんじで色々ありまして。
極論すればもっと本格的に動けない・働けないくらいまでいけば逆によかったのかもですが、本人は頑張って色々やって生きようとしていたし、本人がやりたいなら応援したいし、みたいなノリだった私たち家族も結果的には対応を誤ったんでしょうね。
最終的には実家療養中に吊っちゃったんですが、49日の法事とか色々済んだ頃に、親がポツリと
「今までは寝てる間に物音で起こされたりしたし、静かなら静かで手首でも切ってるんじゃないかと、自分が寝ていても常にどこか休まらなかった」
そんなことを言ってきました。
私としては「よくそんだけ面倒みられるなあ。きょうだいの自分的には、もし自分が面倒みる立場だったら悪いけどとっくに見捨てるか全力で入院させるかしただろうな」という思いで、要するに親が精いっぱいのことをしてきたのはわかるし、きょうだいに対する愛情だってあったことを知っています。
もちろん私にもきょうだいに対する愛情はありました。世間一般的にはけっこう仲の良い部類なきょうだい関係だったと思います。
ただ、心のどこかで、「今は親が元気だからいいけど、親が元気じゃなくなってきた時にきょうだいがこのままだとちょっと辛いよなあ。それまでに元気になってくれればいいけどなあ」と常に思っていました。
「正直に言えば自分もホッとしている部分がある」
と親には答えました。
ただ、それでも生きていて欲しかったと思っています。ていうか、生きていて欲しかったなあという思いと、死んじゃってホッとしたなあという思いは、アンビバレントかもですがけっこう心の中で両立してる感じです。うまく言えませんが。
元増田さんは釣りかどうか知りませんが、当面悲しいと感じてらっしゃらないようなので、そこは私たち家族とは違うでしょうが、それは直接的な迷惑度というかそういうのの積み重ねの結果だと思いますので、変にご自身と旦那様をクズだとか卑下せずにしていただければと思います。
以下余談
「死にたい」と普段から連発している人は本当は死ぬ気がない、とか未だに信じててさも当然のように言うやついるけどな! 本当に死ぬんだよ! なんかキッカケあったら!
願わくは、「死にたい」と普段から連発している人は本当は死ぬ気がない、とか言ったことのあるお前、今すぐ反省しろ。猛省しろ。ついでに何が原因だったのかとかわかったような口をきくお前も今すぐやめろ。原因なんか同居家族でもマジわからんわ! それなのに普段接してないお前らとかがわかるわけねーだろ!バーカバーカ!
あのさ、
町中華ってあるじゃない、
私がいつも道すがら通り道を車で走る際に通り過ぎていくビル中華屋さんが3つぐらいあって、
ああ言うのって、
なんか親族が法事なんかの用事で大勢集まったときに利用するって用途が主な目的の中華屋さんで
もしかしたら
私が気付いた初めての新ジャンルなのかも知れないわ。
今時もう第三のビールに新ジャンル言って言わなくなって久しいけど
私は新ジャンル中華としてビル中華って新ジャンル確立してもあってもいいかもしれないわね。
私はいまだかつて3階以上には登ったこと案内されたことないので、
なんかゲーム形式である程度の餃子のリョウを勝負して完食したら、
もしかしたら、
知らないうちに頼んだオーダーがきっかけになって
3階以上のフロアに登れるチャンス権を獲得できるのかも知れないわ。
とにかく、
おやっさん大将1人で切り盛りしている家族系の町中華にならんで、
ふとああいうビル中華って1人でランチでもなレヴェルで中華を堪能できるのかしら?
私の事務所でちょっとお手伝いしてもらってた四川出身の娘さんがいたんだけど、
日本の中華はたいしたことないアルネ!って勝利宣言をしていたのが今でも忘れられないわ。
あれは結構日本にローカライズされた日本語版の餃子の王将だから
辛さの意味では全然四川省の本格辛み中華のそれには全く勝ち目がないのは戦う前から分かっていたはずよね。
私は止めるべきだったし、
負けると分かっている餃子の王将を放っておいたのも分かるけど、
それが全てではないって、
まるで
募っているけど募集ではない。
倍増だけど2倍ではないって
出身の四川省から持ち込んできたマイ辛み調味料で作る自炊料理は
そこに全ての四川省が詰まっているように、
辛かったけど。
私は日本の餃子の王将に戦いを挑んだファイティングスピリッツは凄いと思ったわ。
普通に彼女チャイナドレスでバス乗ったりとなかなかパンチあるスリットのそこまでは入ってなかったけど、
でもあれってきっと日本人が着たらなんだかヘンテコポンコツチャイナドレスでチャイナスープにして煮込まれるぐらいクレームが出そうなので
やっぱり着る人は着る服を選ぶのよ。
だから今思ったら、
バトルで勝たせてどんどん上のフロアに行かせてみることも出来たはずよね。
豚肉1日7000キロ卵1日5万個鶏肉3000キロ餃子1日100万個食は万里を越えてやってきた4000年の歴史を持つ四川省出身の人がいけば
きっとビル中華タワーも各界のボスを倒して攻略できたはずだわ!!!
でも今思ったら
彼女辛さにはめっぽう最強に強いんだけど、
大食いでは無かったのよね。
それを今思い出したわ。
でも万里を越えてやって来たのは本当よ!
うふふ。
今週は控えめにしておけば結果が良好に良くなる兆しが前向きに光が差し込むはずよ。
駐車場とかで、
前向きに駐車してね!って応援メッセージが書いてある駐車場のように
私も前向きにって
そろそろ麦茶もホッツにして飲みたいところだけど
ホッツよりやっぱりコールド麦茶ウォーラーの方が味が良いかも知れないわ。
これなら温かくても冷めて冷たくなっても
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
飼っていた犬が天国に旅立った。
最後の1年は痙攣がよく起こるようになって。
落ち着くまでに3~6時間かかってた。
痙攣は脳にダメージが行くらしい。
うちの子は半年で10回以上起こってたからとんでもないダメージだったんだろうな。
とりあえず仕事をやめてずっと側にいた。寝るときもリビングに布団ひいて一緒に寝た。
8月には前足もだめになった。
痙攣で神経にもダメージが行ってるとのことだった。
足が動かなくても、うまく座れなくても、
食欲だけはすごかった!
腎臓の数値も前から悪かったので、腎臓サポートのご飯をあげてた。すごい食い付きでいつも食べてくれてた。
というかうまく食べられない感じで、飲み込むのがしんどいのか、半分くらい残すようになった。
病院に行ったら腎臓の数値がすごく悪くなってるから、点滴をしたほうがいいとのこと。
4日間は病院で点滴と抗生剤の注射をしてもらって、あとは家で自分で点滴をすることになった。
最初はその抗生剤で体調がよくなってたんだけど、日に日にしんどいのか寝れない日が続いて。1時間おきに起きては暴れて鳴いて、抱っこして過ごすって感じで。
犬も飼い主も疲弊してた。寝れないってつらいよね。
点滴の量を増やしても変わりなくて、先生が、
そしたらグッスリ寝てくれて、体調が戻った!
でもそれも1日だけ。
次の日から抗てんかん座薬をもらって、しんどそうなときに入れてたんだけど、効果が2時間くらいしかなくて。
結局次の日またその注射を打ってもらって、ゆっくり寝かせることになった。その注射を処方してもらって、しんどそうなら打ってくださいと言われた。
その日、法事があって、家族が実家に集まった。その日はうちの子も注射後で体調がよかったのか、元気な姿をみんなに見せてた。ご飯もバクバク食べてくれた!
あんな苦しそうな姿を見たら他の家族は泣いちゃうかもしれないな、と思ってたから安心した。
その日の夜、みんなが帰ってからまたしんどくなったみたいで、注射を半量だけ打ってあげた。
多分みんなを心配させたくないからいいところ見せようと頑張ってたんだろうな。
次の日、なんだか息がしづらそうにしてた。ゼェゼェ口を開けて息をしてる感じ?喉から変な音がしてる。
翌日がどうぶつ病院が休みの日だったので、その日のうちに見てもらうことにした。
しんどくなる=部分発作が起こってるということなので、抗てんかん注射を1日に3本打って、まずその発作をなくしてあげましょう。と言われた。
その日も注射を打ってもらった。でも息が荒いのはそのままで、寝てる間もずっと口を開けて息をしてた。お腹から息してる感じかな。
お昼に起きて息がうまくできずにしんどそうにしてる犬に注射を半量だけ打ってあげた。でもあんまり効果なくて。
唯一抱っこしてる間は寝れたみたいなので、家族で代わりばんこに抱っこしてた。置いたら起きるっていう赤ちゃん状態。
その日の夜中、またしんどそうにしてる犬に、注射を打つべきかどうか迷った。お昼は効かなかったし、息苦しいのと発作が本当に関係あるのかちょっと疑問だったから。
でも犬が苦しそうだから、少しでも寝れたらと思い、注射を打ってあげた。
母は苦しそうな犬を見て隠れて泣いていた。
夜中に何回も起きては息ができない犬を抱っこした。途中、晩御飯で食べたちゅーるを吐いて、ちょっと楽そうになったので、詰まってたのかもしれないな…。
次の日の9月14日、自分が一人で犬を見てた。朝から息がすごくしんどそうで、抱っこをしてもしんどそうだった。
体温がいつもより低く感じて、エアコンを止めて布団を何重にも着せて抱っこした。
息が苦しく口が閉じれないので、舌がだらんと垂れていた。朝ごはんのちゅーるもひと舐めもできなかった。
あまりにも舌が乾いてたので指で水をすくって濡らしてあげた。
もしかしたら今日か明日が山場かもしれないと思った。苦しそうな犬を見て、もう無理しなくていいんだよ、と思う自分と、もっと一緒にいたいと思う自分がいて、むちゃくちゃに涙が出てきた。
犬が寝れそうだったのでベッドに置いて仕事をしようとしたら、犬がキャンキャン!と吠えた。苦しいみたい。すぐに抱っこしてあげた。大丈夫だよ~と声をかけながら背中をさすってあげた。
そこから、犬の呼吸が今までにないくらい荒くなって、キャンキャン!と言ったあと、私の顔を見ながら荒かった息がスッと止まった。
私はパニックになって、声をかけながら、カイロで体を温めた、大丈夫だよ、大丈夫だよ、って。
そしたらこっちを見ながら、口がガクガクッと動いた。
多分「もういいよ」って言ってくれてたんだろうね。
朝からずっと苦しそうな表情してたくせに、最後は私の顔を見ながらめちゃくちゃ可愛い顔で死んでいった。
昨日から閉じれなかった口もすっと閉じて、くりくりした目でこっち見ながら、私の腕の中で逝った。
もちろん、覚悟はしてた。
でも耐えられない悲しみが襲ってきて、犬の体がびちゃびちゃになるくらいに泣いた。
最後まで頑張らせてしまった。十分頑張ってたのに。心配させないように可愛い顔で死んでった。
おっきくこっちを見てくれてた目を閉じてあげた。スッと寝れたみたいに、すごく穏やかな寝顔だった。
この2週間、薬なしではしんどくて寝れなかったから、やっと穏やかに寝れたみたいで安心した。
そこからベッドに寝かせてあげて、次の日の朝までずっと散髪してあげたり話しかけたり撫でたり匂い嗅いだりしてた。目の前でただ穏やかに寝てるみたいだった。
次の日、火葬に送った。大好きだったおやつをこれでもかってくらい入れてあげた。朝食べられなかったちゅーるもいっぱい入れてあげた。そこでは泣かなかった。ちゃんと送ってあげられた。
でもそのあとどうぶつ病院に挨拶にいったとき、いつもは犬を抱っこして連れていくから思い出して号泣してしまった。
昨日の夜、注射打たなかったら、もしかしたら、と思ってはあんなに苦しい思いをもうさせたくない、あれでよかったんだと色んな気持ちが葛藤して、涙が止まらなかった。
家に帰ってまだ犬の匂いがするブランケットを抱き締めて、いるはずの場所にいない虚無感に襲われて泣きながら寝てしまった。
起きたら犬は遺骨になって家に戻ってきた。
骨になった犬を見て、もう会えないんだなと実感した。
また涙が止まらなかった。
次の日もまた次の日も、仕事をしてたら大丈夫なんだけど、ご飯を食べてたり、テレビを見てたりすると、ふと最期が思い浮かんでは涙が出た。
犬を送って3日目、それが今これを書いてる今日。
昔の写真を整理しようと思って見てたら、2000枚以上あって、おバカなことしてる動画だったり、ご飯くれって吠えてる動画だったり、見てたらすっごく笑えて、色んな思い出が蘇った。
最後の1年間の介護生活の印象が強すぎて忘れてたけど、犬は17年間すっごい幸せに私たちと暮らしてきたんだった。
絶対に世界一幸せだったよね、ってくらいみんな犬のことが大好きだったし、犬も家族が大好きだった。
この辛さは多分人生で一番の辛さで、人生で一番の悲しみだけど、昔の犬の写真を見てるときだけが今唯一笑える時間。
天国では、自由自在に走り回って、大好きなおやつを食べまくって、グッスリ寝られてるといいんだけど。
もうきっと犬を飼うことはないけど、私が天国に行ったら絶対にまた一緒に過ごそう!
これから前向きに生きていくために記録として書かせてもらいました。
小学生のころからずっと一緒に育ってきた弟みたいな存在だったので、心にポカンと穴が空いてしまった感じで。最期腕の中で死んでいったのを思い出しては泣いてしまう感じです。
祖父母や両親がいた頃は父の兄弟の家族とは交流があって、普通にお正月集まったりしてた
祖父母が亡くなって盆暮れ正月集まるようなことはなくなり、さらに両親が死に、父の兄弟も相次いで奥さんを亡くした。社交的でよく幹事になっていた叔母が亡くなったのがでかい
いとこは3人いるが、歳が離れているせいもありいとこ同士のつながりがほとんどない。それは私と他のいとこだけでなく、私以外のいとこの間もそう
両親亡くなったのが成人してからだったので親戚に何か気にかけてもらったりするような機会もなく、自然消滅した感じ
今になって親の子供時代の話とか聞きたいしみんなどうしてるか知りたい、地元に繋がりが欲しい、自分は親戚と遊んだりしていたから子供にもそういう環境を与えたい、と思うも何から始めていいやら
人それぞれだと思うけど、それこそ親殺しの顔して、帰省しなよね。
俺は五輪とか全く関係なく6月ごろの段階で、両親だけでなく接種の意志がある家族(賢明なことに我が家は全員)が
ワクチンが接種完了して2週間経過してれば帰省する、出来なければしないと決めてたしそう伝えてあった。
両親は7月の末に2度目を終えて、俺は8月末に終える予定で、妹や義弟たちは未定という状況なので予定通り帰省はしない。
俺だって家族に会いたいし、母が9月の誕生日で還暦を迎えるのに祝えない事も悲しい。
せっかく年始には盆で予約していた料亭もキャンセルするしかなかった。ワクチン完了は確実な正月に延期ですね。
五輪やったんだからとか、甲子園はやってるからとか、首相が気に入らないとか、そういう下らない話はどうでもよくて
ただ単に俺にとって俺の家族は自分の命と等しい位には大事な人たちだし、彼らの命を脅かす可能性がある行動は取りたくないというだけだ。
そりゃ良好な家族関係を持ってる人ばかりでもないから、コロナでも持って帰って運よく家族を葬り去れたら嬉しくて射精しちゃうってクズはいるかもしれないけど
そういう人たちは、家族と縁切っててそもそも帰省なんてしないんじゃないのかなと思うよ。憎悪や嫌悪まではしてなくても帰省が面倒な位の関係なら、これ幸いと帰らないでしょう。
こんな時に帰省したいって人たちは、少なからず家族のことを大事に思ってる、血の通った人間だと思うから、今の状況で帰るリスクを考えないはずないよね。
法事があるとか慶事があるとか外せない用事がある人たちや、もう両親の健康が思わしくないから会えるなら会いたい人は、不要でも不急でもないから、十分な用心をして帰ればいいと思う。
あなたが持ち帰ったお土産が、地域の人々を殺して、やがてあなたの家族を殺すことを、人殺しの顔で受け入れたらいいんではないかと思うよ。
特に今である必要がない俺の様な人たちにとっては、家族の事を思えば無理する必要がない。顔見て話したければZoomでも何でも使える時代だ、触れられなくても会うことは出来る。
大事な家族だと思ってるなら、相応の判断や準備、行動が出来るはずだよね。いい大人なんだしさ。
下らない政治的な怒りで、政府が期待する様な行動をとってしまう事が気にいらないとか言いつつ
家族の命を危険に晒せちゃうクズさんたち、他人を無自覚に煽ってるカスさんたちは、どんな顔してんだろう?よく鏡を見てごらんなさい、それが人殺しの顔ですよ。
飯を食いながら眺めていたら、途中で泣いている自分に気がついた。
彼らの年頃だった自分を思い出していた。
踊っているうちの一人に何故かその頃の自分が重なって見えたのだ。
もちろん彼らのようなアイドル性もないし、ダンスだってうまくない。
垢抜けた見た目どころか、ひと目を避けるように暮らしているくらいには陰気な生活だった。
もう25年以上前の話だ。
自分が周りと違うと強烈に理解したのは、小学校5年生のときだ。
それまで親友だと思っていた友達と喧嘩したときに、「韓国に帰れ」と言われた。
こいつは何を言っているんだろう。帰れとはどういう意味なのか。自分はここで生まれてここで育った。なぜここにいてはいけないのだろうか。
もちろん韓国にも帰るような場所はないし、在日が一部の韓国人からキョッポと言われてバカにされていることも知っていた。
考えても考えても意味が理解できず、しかし、今まで垣根なんてないと思っていた親友から、底の見えないような深さで線が引かれていたことだけは理解できた。
それから自分が韓国人であることを、知人に教えることはなくなった。
中学校に上がって、同じく在日の同級生が早々にいじめに合うようになった。
自分は隠し通していたのでいじめられることはなかったが、でもいじめを止めるようなこともできなかった。
ある日親戚のお通夜でいじめられている同級生とばたりと出くわしたことがある。
なくなった人を通じて、遠い親戚だったようだ。
相手は信じられないと言った顔をしてこちらを見ただけで、一言も会話はなかった。
それからは学校で彼の顔をまともに見られなくなってしまった。いじめは卒業まで続いた。
皆が進路の話をし始めた頃、自分は漠然と高卒で働きに出るのだと考えていた。
一度兄に進学の相談をしたら間髪入れずに返ってきた言葉は、「俺らが就職できる日本の企業なんてない」という言葉だった。
パチンコで財産を築き上げたいとこだけが、有名大学に通っていた。
法事で親族が集まるとやれ同胞が暴力事件に巻き込まれただの、やれあいつが際どい仕事でどれくらい稼いだだのそんな話ばかりだった。
彼らは居場所がないなりに居場所を作ろうと必死になっている。しかし、その必死さが返って居場所を奪われる原因にもなっているのだろうと思いながら眺めていた。
そして、これから自分が生きていく世界にも、居場所なんてないのだろうと漠然と考えていた。
高校に進学はできたが、放課後はすべての時間を家の仕事の手伝いで消費した。
手伝いが終わって帰るのは日付が変わる頃で、何度学校に遅刻しても両親は何も言わなかった。
当然大学に進学できる学力はなかった。勤怠不良に加えて沢山の赤点があっても卒業できたのは、教師のお情けであるのか、お荷物を手放したかっただけなのか知る由もない。
ただ、目立ちたくないという気持ちだけで生活していたので、問題と言えるようなことは一切起こさなかった。
仲の良い友だちがいなかったわけでもないが、いつもとても大事なことを隠している後ろめたさがあったので、問題を起こさなかった代わりに関係を深められるような相手もいなかった。
小中高含めて、卒業してから同窓会というものに参加したこともなかった。表面上の案内以外の誘いが来るようなことも、当然なかった。
ただ自分が在日韓国人の家庭に生まれたということだけで、常に後ろめたさと一緒に生きるしかなかった。
何かで人に知られれば、いつ平穏が失われるかびくびくしながら10代を過ごした。
目立つことなんてもってのほかで、何かに打ち込むようなこともなかった。
そもそも放課後はすべて家の仕事で費やして、一日500円程度もらえる小遣いを休日に一人でゲーセンで浪費する生活だった。
唯一ゲーセン仲間とだけは、あだ名で呼び合うことで身元を明かさないで済む気軽さがあった。
もちろん通り名で生活しているので、名前くらいで本籍がバレることもないが。
ゲーセンの、ゲームの腕前だけが評価されるその場限りの関係が、自分にはとても心地よかった。
テレビの中で踊るBTSの一人が、妙に当時の自分と重なって見えた。
もちろん、何もかもが違いすぎるほどに違う。そもそも彼らは在日ではない。
ただ、少し癖のある髪型や、目元やちょっとしたときの表情が少しだけ重なって見えたのだ。
いや、恐れずに言うなら、当時の自分が化粧して同じ衣装を着たなら、見た目だけで言えば割と似ているかもしれない。
そう思えると、まるでそのメンバーが、もしもの世界を生きている自分のように思えてしまった。
どこかで間違えれば、自分にもこんな光り輝くような人生があったのだろうか。
あのとき、いじめを恐れずに在日であることを公表して、通り名ではなくて本名で生活していたらもっと自由に生きることができたのだろうか。
今となっては何もかもが遅く、しかし、今の日本で、韓国の若者たちがこうして受け入れられている現実が、自分は何もしてこなかったにも関わらず、少しうれしく思えた。
悲しかった。嬉しかった。言いようのない気持ちが心から湧いて出た。
澄んだ涙とどす黒い涙が決して混ざることなく同時に流れ出したような気がした。
家の仕事は全てなくなり、住んでいるところを追い出された。
すでに家庭を築いていた兄弟から支援を受けつつ、両親と狭いアパートで過ごした。
それからフリーターから肉体労働から、高卒でもある程度稼げる仕事を転々として、今の会社に拾ってもらえた。
職種は伏せるが、当時は底辺と言われた業種ながら、健全化が進み今では一つの市場として認められている業種にいる。
色々あったが、ここまで帰化する必要のない人生を歩んでこれた。
韓国人であることに誇りなんてないが、日本人になる必要もなく生きてきた。ただそれだけのことだ。
自分が生きていた頃に比べれば随分と選択肢は増えているだろう。
当然今までも韓流ブームはあった。
しかし、今までと違うのは、メディアが作り出そうとしている中高年向けのブームではなく、若者が主体となって作り出された、メディア後追いのブームだという点だ。
これからの世界を作り出していく若者たちに韓国人が受け入れられているという現実に、今までにない、どこか安心感にも似た嬉しさがある。
”感染するリスクが親か子どもBだけだというのなら確率という点では子どもBが夫婦Aよりもウィルスを運んでくる確率は高いでしょう”
この点について同意いただけて良かったです。
つまり、他の条件が一緒だと仮定した場合には、子Bとの接触を減らせば、それだけ感染確率が減らせることになります。
”どちらもワクチン非接種者である子どもAと子どもBで差別を正当化できるほどの感染拡大の違いの根拠を今の状況で説明できますか?”
”しかし、あなたは親がワクチン接種をしているかどうかだけを基準にしていますよね?”
確かにおっしゃるように、親のワクチン接種有無以外にも子の感染リスクは種々あり、それらを総合的に判断材料にすることに強く同意いたします。
しかし、上でお認めいただけたように、他の条件が一緒だと仮定した場合には、子Bとの接触を減らせば、それだけ感染確率が減らせることになります。
ですので、コロナの集団免疫が獲得されるまでは、子の体調や親の体調、直近のリスク行動の有無(例えば、一週間以内に法事で会食をしているような場合や、反マスクデモに参加している場合)、そして”親のワクチン接種の有無”を含めて考慮したうえで、
親は子の付き合いについて口を出すことは”当たり前”と認識できることがわかりました。
私は未婚ですし、子供もいないので、子供に口出しをすることはありませんが、非常に参考になりました。
ありがとうございました。
当時私は24か25で、週末は友だちと会ったり、都心に買い物に行ったりすることが多かったんですが、なぜかその日は久しぶりに、父と自転車で西友に行くことになったのでした。買い物のためというよりも、恒常的に太っていた父の、運動のためだったかもしれません。
スーパーから家まで自転車で10分ちょっとの道、なんとなく父が先を走り、私が追いかけていく中で、自然と父の背中が目に入って、思ったんです。
あれ、パパの背中、思ってたより小さいんだな…と。
身長170cmちょっとに対し体重は90kg近くあり、どちらかというと「大きい」印象を与える父でしたが、背中を丸めてママチャリをこぐ姿は、食卓でビールとウィスキーと焼酎をちゃんぽんで飲んで管を巻いているときよりも、少し縮んだように見えました。
父はその頃60歳近いので、多少は本当に縮んでたのかもしれませんが、小さく見える理由はそれだけじゃないこともわかっていました。私が就職したことで、私のほうの見え方が変わっていたんです。
その頃はネットバブルと言われた時期の真っただ中で、私はそんな会社のひとつに、運良く入れていました。
そこは日本ではわりと大きな「ITベンダー」とか言われる会社の子会社だったので、親会社からエラい人が続々と天下ってきていました。でも当時まだ光ファイバーはおろかADSLすらほとんど普及してない時代、Windows 95が出てから数年って時代なんで、大手ITベンダー出身のはずのエラい人たちでも、じつはパソコンをほとんど使ったことがなかったり、せいぜいメールの読み書きができる程度だったりしました。そんな人たちがいきなり、ネットの会社の役員として送りこまれてくるわけです。しかも親会社はセミナーと称して顧客集めのイベントを開いて、子会社に送り込んだ役員を登壇させ、「ネットで御社のビジネスが変わりますよ」みたいな話をさせるんです。
そこで私がやってた仕事のひとつが、子会社に来て早々に付け焼き刃トークさせられる役員のために講演資料を作ることと、講演当日のカバン持ち(会場のプロジェクターにパソコンつないだり。当時はパワーポイントみたいな大きなデータを相手先に送るのも、容量制限でできなかったりしたのです)でした。私自身もその会社に入るまでネットにほとんど触ったことのないニワカだったので、資料作りといっても実際はもっとコアな先輩社員に依頼してネタ出ししてもらったりする、窓口的な役割です。
そんな、ニワカな私がニワカな役員をサポートする不安な構図だったんですが、講演はそれなりに(多分)好評で、親会社主催のものだけでなく外部のイベントに出張っていくこともありました。大きなホテルの「なんとかの間」とかの華やかな壇上で、スポットライトを浴びながらネットのビジネス活用を語る役員たちは、頭頂部が多少ハレーションしていても(だからこそ?)、いかにもエラい人っぽく見えました。エラい人「っぽい」だけでなく、ニワカであっても数百人を相手に堂々と話ができる、それは一朝一夕には身に着けられないスキルだと今でも思います。
大企業出身のエライ人たちはトークができるだけでなく、部下の扱いも丁寧で、いや私が若い女だからということもおそらくあったのですが、とにかくそういった講演サポート業務の後は、「お礼」と称して素敵なレストランなどに連れて行ってくれました。私はただ窓口になっただけなので、と言うと、じゃあネタ出ししてくれた人たちもみんなで、となり、ずいぶん大人数でごちそうになることもありました(それが会社のお金だったのかポケットマネーだったのかは不明)。
そんなわけで私の会社の人たちは、上司も先輩も同僚も、そこそこ大企業文化の中にいて、都会慣れしていました。「肩で風を切る」ってほどじゃないにしろ、少なくとも必要なときには背筋を伸ばして堂々と振る舞える、そんな人たちが、いつの間にか私にとっての「普通」になっていたのです。
それに対し父は、そんな平成っぽいスマートさとは無縁で生きてきました。そもそも、なぜ私が父を「パパ」と呼ぶことになったのかまったく理解できないような「おとっつぁん」的な風貌だし、人前で話す機会があるとしたら会社の朝礼か親戚の法事くらい、しかも話がムダに長くてつまらない、と家族の中で有名でした。素敵なお店なんか結界が張ってあると感じていたらしく、まれに家族旅行で伊豆のホテルに行ったときには、入り口から赤いじゅうたんが敷いてあることにおののき、「あのー、この、じゅうたんの上、歩いていいんすけ?」(いつも語尾がモゴモゴしている)と質問して失笑を買った、とか、ファミレスでアイスクリームを注文するときに、「フレーバーを選ぶ」という概念をまったく知らず、「えーこの、バニラ・チョコレート・ストロベリー・アイス、頼んます」と全フレーバーを読み上げたとか、そんなエピソードには事欠かない人なのです。
そしてその日も、うら若い娘とお出かけの機会だというのに、会社の作業服だか私服だかわからない、着心地だけが最高の服装で、ボロボロのママチャリに乗って、西友に行くくらいしかできないのです。
でも私は、だからといって、父の存在が恥ずかしいとか、引け目を感じるとかいうわけでもないな、とも思いました。
むしろ、その小さな背中にかかっているものの重さを、改めて感じたんです。
岩手県の奥地でだいたい10人兄弟の3〜5番めくらいに生まれた父(兄弟姉妹の半分くらいが子どものうちに亡くなってるのでいろいろ曖昧)は、中学校を卒業すると集団就職で上京し、小さな運送会社に入りました。最初は15歳で運転もできないので、助手として荷物の積み下ろしから始めて、18歳で免許を取って運転手になり、20代でその運送会社の社長の娘と結婚、30代で子どもが生まれ、それが私の姉と私になります。姉が生まれたあたりから、家族は会社のすぐそばに住むようになり、姉と私は毎日、祖父や父、社員の人たちが働く姿を見ながら育ってきました。
祖父の会社はオイルショックとかいろいろありながらも、高度成長期とバブル景気でそこそこに拡大、多いときは社員(「若い衆」と呼称)数十人を抱えるまでになりました。祖父は会社の仕事より、地元の運送業の顔役的なことをメインでやるようになっていたので、成り行き的に父が現場の切り盛りをしていました。
でも90年代、バブル崩壊以降は会社の業績が右肩下がりになり、銀行からも貸し剥がしを受け、頻繁に資金がショートするようになっていました。高度成長期に「若い衆」だった運転手さんたちも実際はもう全然若くなく、平均年齢50歳くらいになっており、お子さんがいる人たちもたくさんいました。2021年の今と違って景気は悪く、ネット通販からのドライバー需要も発展途上で、万一倒産した場合、ベテラン運転手さんでも簡単に次の仕事が見つかる見込みはありませんでした。
これがドラマだったら、私みたいなネット企業で多少の経験積んだ娘が家業に乗り込み、会社をITで立て直し、引いては業界全体を改革していく…となりそうなところです。でも、そうはなりませんでした。まず私自身、いきなり乗り込んで何か改善できるという自信がなかったし、何ができるかもわからないのに親のコネで会社に入るなんて、社員の人たちに申し訳ないと思っていました。また祖父や父には、私に苦労をかけたくないという思いもあったのだと思います。
なので私としては、今にも倒れそうな会社というボロボロの自転車を、とにかく倒してはいけない、続けなきゃいけないんだという思いで漕ぎ続ける父を、ただただ後ろから、見守ることしかできなかったのです。
高価なスーツを着てスポットライトを浴びることもなければ、お洒落なレストランに部下を従えていくこともない父だけど、私はどんなに誇りに思っていることか。
西友からの帰り道、緑道にかかる橋をのろのろと上っていく父の背中を見ながら、パパの子どもに生まれて本当に良かった、と思いました。
いきなり お疲れさまです だの その日は難しいです だの書かんやろ。
誰宛なのか書いてくれ
わかりました って書く。
分かりました 了解しました 承知しました 承知いたしました どれかにしてくれ。
わかりましたってお前、小学生か?
こっちがお前の直属の先輩に 増夫くんの日程、未だ連絡ないけど、増田の予定はこの日以外埋まってるよ、大丈夫? って言って、2日経ってやっと連絡きたな。
こっちが提案した日程に対して、開口一番に その日は家の用事があります って書いてたな。
まずは 予定空けてくれてありがとう、次に その日は空いてません申し訳ありません でしょうが。
お前が連絡してこないせいで、増田の用事は埋まってしまっていましたが、お前の仕事は見ないといけないので無理矢理空けることになりました。
出ないよ?
今回だけのことならそんなに怒らなかったし、むしろサシで話したことない初対面だから優しくしたと思う。
でも、これまで毎日毎日遅刻遅刻欠勤遅刻、同じグループにそういうやつがいるって聞いてたら、今回のメールは許せないよね。
以上すべてが気になる。
でも癪に触るんだもん