はてなキーワード: 法事とは
これ、法事で年長の親戚にエエ声で聴かされたら、笑うに笑えへん場やし困るのやで(苦笑)
人それぞれだと思うけど、それこそ親殺しの顔して、帰省しなよね。
俺は五輪とか全く関係なく6月ごろの段階で、両親だけでなく接種の意志がある家族(賢明なことに我が家は全員)が
ワクチンが接種完了して2週間経過してれば帰省する、出来なければしないと決めてたしそう伝えてあった。
両親は7月の末に2度目を終えて、俺は8月末に終える予定で、妹や義弟たちは未定という状況なので予定通り帰省はしない。
俺だって家族に会いたいし、母が9月の誕生日で還暦を迎えるのに祝えない事も悲しい。
せっかく年始には盆で予約していた料亭もキャンセルするしかなかった。ワクチン完了は確実な正月に延期ですね。
五輪やったんだからとか、甲子園はやってるからとか、首相が気に入らないとか、そういう下らない話はどうでもよくて
ただ単に俺にとって俺の家族は自分の命と等しい位には大事な人たちだし、彼らの命を脅かす可能性がある行動は取りたくないというだけだ。
そりゃ良好な家族関係を持ってる人ばかりでもないから、コロナでも持って帰って運よく家族を葬り去れたら嬉しくて射精しちゃうってクズはいるかもしれないけど
そういう人たちは、家族と縁切っててそもそも帰省なんてしないんじゃないのかなと思うよ。憎悪や嫌悪まではしてなくても帰省が面倒な位の関係なら、これ幸いと帰らないでしょう。
こんな時に帰省したいって人たちは、少なからず家族のことを大事に思ってる、血の通った人間だと思うから、今の状況で帰るリスクを考えないはずないよね。
法事があるとか慶事があるとか外せない用事がある人たちや、もう両親の健康が思わしくないから会えるなら会いたい人は、不要でも不急でもないから、十分な用心をして帰ればいいと思う。
あなたが持ち帰ったお土産が、地域の人々を殺して、やがてあなたの家族を殺すことを、人殺しの顔で受け入れたらいいんではないかと思うよ。
特に今である必要がない俺の様な人たちにとっては、家族の事を思えば無理する必要がない。顔見て話したければZoomでも何でも使える時代だ、触れられなくても会うことは出来る。
大事な家族だと思ってるなら、相応の判断や準備、行動が出来るはずだよね。いい大人なんだしさ。
下らない政治的な怒りで、政府が期待する様な行動をとってしまう事が気にいらないとか言いつつ
家族の命を危険に晒せちゃうクズさんたち、他人を無自覚に煽ってるカスさんたちは、どんな顔してんだろう?よく鏡を見てごらんなさい、それが人殺しの顔ですよ。
飯を食いながら眺めていたら、途中で泣いている自分に気がついた。
彼らの年頃だった自分を思い出していた。
踊っているうちの一人に何故かその頃の自分が重なって見えたのだ。
もちろん彼らのようなアイドル性もないし、ダンスだってうまくない。
垢抜けた見た目どころか、ひと目を避けるように暮らしているくらいには陰気な生活だった。
もう25年以上前の話だ。
自分が周りと違うと強烈に理解したのは、小学校5年生のときだ。
それまで親友だと思っていた友達と喧嘩したときに、「韓国に帰れ」と言われた。
こいつは何を言っているんだろう。帰れとはどういう意味なのか。自分はここで生まれてここで育った。なぜここにいてはいけないのだろうか。
もちろん韓国にも帰るような場所はないし、在日が一部の韓国人からキョッポと言われてバカにされていることも知っていた。
考えても考えても意味が理解できず、しかし、今まで垣根なんてないと思っていた親友から、底の見えないような深さで線が引かれていたことだけは理解できた。
それから自分が韓国人であることを、知人に教えることはなくなった。
中学校に上がって、同じく在日の同級生が早々にいじめに合うようになった。
自分は隠し通していたのでいじめられることはなかったが、でもいじめを止めるようなこともできなかった。
ある日親戚のお通夜でいじめられている同級生とばたりと出くわしたことがある。
なくなった人を通じて、遠い親戚だったようだ。
相手は信じられないと言った顔をしてこちらを見ただけで、一言も会話はなかった。
それからは学校で彼の顔をまともに見られなくなってしまった。いじめは卒業まで続いた。
皆が進路の話をし始めた頃、自分は漠然と高卒で働きに出るのだと考えていた。
一度兄に進学の相談をしたら間髪入れずに返ってきた言葉は、「俺らが就職できる日本の企業なんてない」という言葉だった。
パチンコで財産を築き上げたいとこだけが、有名大学に通っていた。
法事で親族が集まるとやれ同胞が暴力事件に巻き込まれただの、やれあいつが際どい仕事でどれくらい稼いだだのそんな話ばかりだった。
彼らは居場所がないなりに居場所を作ろうと必死になっている。しかし、その必死さが返って居場所を奪われる原因にもなっているのだろうと思いながら眺めていた。
そして、これから自分が生きていく世界にも、居場所なんてないのだろうと漠然と考えていた。
高校に進学はできたが、放課後はすべての時間を家の仕事の手伝いで消費した。
手伝いが終わって帰るのは日付が変わる頃で、何度学校に遅刻しても両親は何も言わなかった。
当然大学に進学できる学力はなかった。勤怠不良に加えて沢山の赤点があっても卒業できたのは、教師のお情けであるのか、お荷物を手放したかっただけなのか知る由もない。
ただ、目立ちたくないという気持ちだけで生活していたので、問題と言えるようなことは一切起こさなかった。
仲の良い友だちがいなかったわけでもないが、いつもとても大事なことを隠している後ろめたさがあったので、問題を起こさなかった代わりに関係を深められるような相手もいなかった。
小中高含めて、卒業してから同窓会というものに参加したこともなかった。表面上の案内以外の誘いが来るようなことも、当然なかった。
ただ自分が在日韓国人の家庭に生まれたということだけで、常に後ろめたさと一緒に生きるしかなかった。
何かで人に知られれば、いつ平穏が失われるかびくびくしながら10代を過ごした。
目立つことなんてもってのほかで、何かに打ち込むようなこともなかった。
そもそも放課後はすべて家の仕事で費やして、一日500円程度もらえる小遣いを休日に一人でゲーセンで浪費する生活だった。
唯一ゲーセン仲間とだけは、あだ名で呼び合うことで身元を明かさないで済む気軽さがあった。
もちろん通り名で生活しているので、名前くらいで本籍がバレることもないが。
ゲーセンの、ゲームの腕前だけが評価されるその場限りの関係が、自分にはとても心地よかった。
テレビの中で踊るBTSの一人が、妙に当時の自分と重なって見えた。
もちろん、何もかもが違いすぎるほどに違う。そもそも彼らは在日ではない。
ただ、少し癖のある髪型や、目元やちょっとしたときの表情が少しだけ重なって見えたのだ。
いや、恐れずに言うなら、当時の自分が化粧して同じ衣装を着たなら、見た目だけで言えば割と似ているかもしれない。
そう思えると、まるでそのメンバーが、もしもの世界を生きている自分のように思えてしまった。
どこかで間違えれば、自分にもこんな光り輝くような人生があったのだろうか。
あのとき、いじめを恐れずに在日であることを公表して、通り名ではなくて本名で生活していたらもっと自由に生きることができたのだろうか。
今となっては何もかもが遅く、しかし、今の日本で、韓国の若者たちがこうして受け入れられている現実が、自分は何もしてこなかったにも関わらず、少しうれしく思えた。
悲しかった。嬉しかった。言いようのない気持ちが心から湧いて出た。
澄んだ涙とどす黒い涙が決して混ざることなく同時に流れ出したような気がした。
家の仕事は全てなくなり、住んでいるところを追い出された。
すでに家庭を築いていた兄弟から支援を受けつつ、両親と狭いアパートで過ごした。
それからフリーターから肉体労働から、高卒でもある程度稼げる仕事を転々として、今の会社に拾ってもらえた。
職種は伏せるが、当時は底辺と言われた業種ながら、健全化が進み今では一つの市場として認められている業種にいる。
色々あったが、ここまで帰化する必要のない人生を歩んでこれた。
韓国人であることに誇りなんてないが、日本人になる必要もなく生きてきた。ただそれだけのことだ。
自分が生きていた頃に比べれば随分と選択肢は増えているだろう。
当然今までも韓流ブームはあった。
しかし、今までと違うのは、メディアが作り出そうとしている中高年向けのブームではなく、若者が主体となって作り出された、メディア後追いのブームだという点だ。
これからの世界を作り出していく若者たちに韓国人が受け入れられているという現実に、今までにない、どこか安心感にも似た嬉しさがある。
”感染するリスクが親か子どもBだけだというのなら確率という点では子どもBが夫婦Aよりもウィルスを運んでくる確率は高いでしょう”
この点について同意いただけて良かったです。
つまり、他の条件が一緒だと仮定した場合には、子Bとの接触を減らせば、それだけ感染確率が減らせることになります。
”どちらもワクチン非接種者である子どもAと子どもBで差別を正当化できるほどの感染拡大の違いの根拠を今の状況で説明できますか?”
”しかし、あなたは親がワクチン接種をしているかどうかだけを基準にしていますよね?”
確かにおっしゃるように、親のワクチン接種有無以外にも子の感染リスクは種々あり、それらを総合的に判断材料にすることに強く同意いたします。
しかし、上でお認めいただけたように、他の条件が一緒だと仮定した場合には、子Bとの接触を減らせば、それだけ感染確率が減らせることになります。
ですので、コロナの集団免疫が獲得されるまでは、子の体調や親の体調、直近のリスク行動の有無(例えば、一週間以内に法事で会食をしているような場合や、反マスクデモに参加している場合)、そして”親のワクチン接種の有無”を含めて考慮したうえで、
親は子の付き合いについて口を出すことは”当たり前”と認識できることがわかりました。
私は未婚ですし、子供もいないので、子供に口出しをすることはありませんが、非常に参考になりました。
ありがとうございました。
当時私は24か25で、週末は友だちと会ったり、都心に買い物に行ったりすることが多かったんですが、なぜかその日は久しぶりに、父と自転車で西友に行くことになったのでした。買い物のためというよりも、恒常的に太っていた父の、運動のためだったかもしれません。
スーパーから家まで自転車で10分ちょっとの道、なんとなく父が先を走り、私が追いかけていく中で、自然と父の背中が目に入って、思ったんです。
あれ、パパの背中、思ってたより小さいんだな…と。
身長170cmちょっとに対し体重は90kg近くあり、どちらかというと「大きい」印象を与える父でしたが、背中を丸めてママチャリをこぐ姿は、食卓でビールとウィスキーと焼酎をちゃんぽんで飲んで管を巻いているときよりも、少し縮んだように見えました。
父はその頃60歳近いので、多少は本当に縮んでたのかもしれませんが、小さく見える理由はそれだけじゃないこともわかっていました。私が就職したことで、私のほうの見え方が変わっていたんです。
その頃はネットバブルと言われた時期の真っただ中で、私はそんな会社のひとつに、運良く入れていました。
そこは日本ではわりと大きな「ITベンダー」とか言われる会社の子会社だったので、親会社からエラい人が続々と天下ってきていました。でも当時まだ光ファイバーはおろかADSLすらほとんど普及してない時代、Windows 95が出てから数年って時代なんで、大手ITベンダー出身のはずのエラい人たちでも、じつはパソコンをほとんど使ったことがなかったり、せいぜいメールの読み書きができる程度だったりしました。そんな人たちがいきなり、ネットの会社の役員として送りこまれてくるわけです。しかも親会社はセミナーと称して顧客集めのイベントを開いて、子会社に送り込んだ役員を登壇させ、「ネットで御社のビジネスが変わりますよ」みたいな話をさせるんです。
そこで私がやってた仕事のひとつが、子会社に来て早々に付け焼き刃トークさせられる役員のために講演資料を作ることと、講演当日のカバン持ち(会場のプロジェクターにパソコンつないだり。当時はパワーポイントみたいな大きなデータを相手先に送るのも、容量制限でできなかったりしたのです)でした。私自身もその会社に入るまでネットにほとんど触ったことのないニワカだったので、資料作りといっても実際はもっとコアな先輩社員に依頼してネタ出ししてもらったりする、窓口的な役割です。
そんな、ニワカな私がニワカな役員をサポートする不安な構図だったんですが、講演はそれなりに(多分)好評で、親会社主催のものだけでなく外部のイベントに出張っていくこともありました。大きなホテルの「なんとかの間」とかの華やかな壇上で、スポットライトを浴びながらネットのビジネス活用を語る役員たちは、頭頂部が多少ハレーションしていても(だからこそ?)、いかにもエラい人っぽく見えました。エラい人「っぽい」だけでなく、ニワカであっても数百人を相手に堂々と話ができる、それは一朝一夕には身に着けられないスキルだと今でも思います。
大企業出身のエライ人たちはトークができるだけでなく、部下の扱いも丁寧で、いや私が若い女だからということもおそらくあったのですが、とにかくそういった講演サポート業務の後は、「お礼」と称して素敵なレストランなどに連れて行ってくれました。私はただ窓口になっただけなので、と言うと、じゃあネタ出ししてくれた人たちもみんなで、となり、ずいぶん大人数でごちそうになることもありました(それが会社のお金だったのかポケットマネーだったのかは不明)。
そんなわけで私の会社の人たちは、上司も先輩も同僚も、そこそこ大企業文化の中にいて、都会慣れしていました。「肩で風を切る」ってほどじゃないにしろ、少なくとも必要なときには背筋を伸ばして堂々と振る舞える、そんな人たちが、いつの間にか私にとっての「普通」になっていたのです。
それに対し父は、そんな平成っぽいスマートさとは無縁で生きてきました。そもそも、なぜ私が父を「パパ」と呼ぶことになったのかまったく理解できないような「おとっつぁん」的な風貌だし、人前で話す機会があるとしたら会社の朝礼か親戚の法事くらい、しかも話がムダに長くてつまらない、と家族の中で有名でした。素敵なお店なんか結界が張ってあると感じていたらしく、まれに家族旅行で伊豆のホテルに行ったときには、入り口から赤いじゅうたんが敷いてあることにおののき、「あのー、この、じゅうたんの上、歩いていいんすけ?」(いつも語尾がモゴモゴしている)と質問して失笑を買った、とか、ファミレスでアイスクリームを注文するときに、「フレーバーを選ぶ」という概念をまったく知らず、「えーこの、バニラ・チョコレート・ストロベリー・アイス、頼んます」と全フレーバーを読み上げたとか、そんなエピソードには事欠かない人なのです。
そしてその日も、うら若い娘とお出かけの機会だというのに、会社の作業服だか私服だかわからない、着心地だけが最高の服装で、ボロボロのママチャリに乗って、西友に行くくらいしかできないのです。
でも私は、だからといって、父の存在が恥ずかしいとか、引け目を感じるとかいうわけでもないな、とも思いました。
むしろ、その小さな背中にかかっているものの重さを、改めて感じたんです。
岩手県の奥地でだいたい10人兄弟の3〜5番めくらいに生まれた父(兄弟姉妹の半分くらいが子どものうちに亡くなってるのでいろいろ曖昧)は、中学校を卒業すると集団就職で上京し、小さな運送会社に入りました。最初は15歳で運転もできないので、助手として荷物の積み下ろしから始めて、18歳で免許を取って運転手になり、20代でその運送会社の社長の娘と結婚、30代で子どもが生まれ、それが私の姉と私になります。姉が生まれたあたりから、家族は会社のすぐそばに住むようになり、姉と私は毎日、祖父や父、社員の人たちが働く姿を見ながら育ってきました。
祖父の会社はオイルショックとかいろいろありながらも、高度成長期とバブル景気でそこそこに拡大、多いときは社員(「若い衆」と呼称)数十人を抱えるまでになりました。祖父は会社の仕事より、地元の運送業の顔役的なことをメインでやるようになっていたので、成り行き的に父が現場の切り盛りをしていました。
でも90年代、バブル崩壊以降は会社の業績が右肩下がりになり、銀行からも貸し剥がしを受け、頻繁に資金がショートするようになっていました。高度成長期に「若い衆」だった運転手さんたちも実際はもう全然若くなく、平均年齢50歳くらいになっており、お子さんがいる人たちもたくさんいました。2021年の今と違って景気は悪く、ネット通販からのドライバー需要も発展途上で、万一倒産した場合、ベテラン運転手さんでも簡単に次の仕事が見つかる見込みはありませんでした。
これがドラマだったら、私みたいなネット企業で多少の経験積んだ娘が家業に乗り込み、会社をITで立て直し、引いては業界全体を改革していく…となりそうなところです。でも、そうはなりませんでした。まず私自身、いきなり乗り込んで何か改善できるという自信がなかったし、何ができるかもわからないのに親のコネで会社に入るなんて、社員の人たちに申し訳ないと思っていました。また祖父や父には、私に苦労をかけたくないという思いもあったのだと思います。
なので私としては、今にも倒れそうな会社というボロボロの自転車を、とにかく倒してはいけない、続けなきゃいけないんだという思いで漕ぎ続ける父を、ただただ後ろから、見守ることしかできなかったのです。
高価なスーツを着てスポットライトを浴びることもなければ、お洒落なレストランに部下を従えていくこともない父だけど、私はどんなに誇りに思っていることか。
西友からの帰り道、緑道にかかる橋をのろのろと上っていく父の背中を見ながら、パパの子どもに生まれて本当に良かった、と思いました。
いきなり お疲れさまです だの その日は難しいです だの書かんやろ。
誰宛なのか書いてくれ
わかりました って書く。
分かりました 了解しました 承知しました 承知いたしました どれかにしてくれ。
わかりましたってお前、小学生か?
こっちがお前の直属の先輩に 増夫くんの日程、未だ連絡ないけど、増田の予定はこの日以外埋まってるよ、大丈夫? って言って、2日経ってやっと連絡きたな。
こっちが提案した日程に対して、開口一番に その日は家の用事があります って書いてたな。
まずは 予定空けてくれてありがとう、次に その日は空いてません申し訳ありません でしょうが。
お前が連絡してこないせいで、増田の用事は埋まってしまっていましたが、お前の仕事は見ないといけないので無理矢理空けることになりました。
出ないよ?
今回だけのことならそんなに怒らなかったし、むしろサシで話したことない初対面だから優しくしたと思う。
でも、これまで毎日毎日遅刻遅刻欠勤遅刻、同じグループにそういうやつがいるって聞いてたら、今回のメールは許せないよね。
以上すべてが気になる。
でも癪に触るんだもん
『お前は、お前自身が大して困っているわけでもないのに』
法事用の菓子がないことで私や家族が対応に追われて困ったことは事実だし
休日丸1日私だけ買い出しのお供に連れ出されるのも困っていると書いた
おばさんを筆頭に程度は違えど皆困ってるよ
私がこの日記で言いたいのは
「パートのおばさんの謎縛りによる菓子送り合いで困っている」ということ
なんか知らんけど元増田がこうすればいいだけだとイチャモンつけてくるのは何?
法事もオバサンどものつながりもそんな単純に切り捨てられるものじゃないんだよ
だから皆で困ってんだよ
家族も困ってる
法事用のお茶菓子がなくなった時は買ってきた私よりも祖母や父が困ってた
ちなみに私の話ではなく、私の伯母さんの職場の話だ。
悪習でうちの家族もまるっと困っているので、状況整理がてらここにブン投げておく。
パート仲間も全員いい年したオバサン達で構成されており、会社員の愚痴を言い合いながら仕事をしているらしい。
(まあ別にこれはどうでもいい)
昼は弁当が支給されるらしいのだが、必ず毎日オバサンたちのうち誰かが『お菓子』を持ってこないといけない。
暗黙の了解で『適度なタイミング』で各々がお菓子を持ってくることになっている。
起源は過去に在籍していたパートのオバサンたちによって作られた。
よほど仲が良かったのか…。
お菓子を送り合う習慣が、当時のメンバーがいなくなった今でも受け継がれている。
休憩時に甘いものを持ち寄って、ほっと一息つきたいのもわかる。
「必ずローテーションで毎日誰かが送らないといけない」ということと
「誰かが既に持ってきたことのあるお菓子はダメ」ということだ。
もうこれは伯母さんの問題なので伯母さんで解決してほしいところだが、
若い感性が欲しいのか、わざわざ私をスーパーやショッピングモールに連れ出して選ばせる。
「私パッションフルーツ系の味がダメなの。」と堂々宣言された例もあるらしく、
必ず2つ買い、まず自宅で味見をしてから渡すかどうか決める。(ここで落ちて振り出しに戻る場合もある)
スーパーなどでめぼしいものがなければ、モールのお高めなお菓子を買ったり
それでもダメなら有名店のお菓子を買ったりするので出費がかさむかさむ。
「1つ食べたらこの前買ってきたお菓子より美味しかったから…」という理由でパート全員分ごっそり持っていかれ
来客に出すお茶菓子がなくなってしまったことも片手では数えきれない。
「もうテキトーにカルディの輸入菓子でも持っていけば?被らないだろうし」と言うと
「でも美味しいかどうかが重要で…嫌いなものがあるパートさんもいるわけだし…」と味見味見味見。
完全に何かに取り憑かれている…。というかパンチって何だ。何を求めてるんだ。
元々気にしすぎる性格の伯母さんだが、こうなるともう誰も止められない。
まず伯母さんに言いたい。味覚は皆同じではない。
自分が美味しいと思っても、相手も美味しいと思うかなんてわからない。
悪習がパート全体に染み付いてしまってもうやめられないのなら、適当な菓子を渡していなすくらいでいいだろ。
パートのオバサンどもも、他人の持ってきた菓子に文句をつけるのはやめてくれ。
気にしすぎる性格の人間はどこまでも配慮して結果がんじがらめになる。
好みじゃない菓子の1つや2つ送られてもその場では礼をして、帰宅したら自分の息子や娘にでもあげてくれ。
「あ…またお菓子買ってこなくちゃ…」と言い出すと家族の雰囲気がちょっとピリつく。
「もうやめなさいよ!」
子どものころから漬け物が苦手で、カレーに添えられた福神漬けはもちろん、その色素で赤く染まったごはんさえも食べたくないと駄々をこねる子どもだった。コマーシャルで「きゅうりのキューちゃん」とか「しば漬け食べたい」とか聞くたびにおぞましい気持ちになった。ハンバーガーのピクルスはいつも抜いてもらった。出されたおにぎりの具が梅干しと判明したならおなかがいっぱいだとウソをついた。
現代社会になるにつれて漬け物は消えていくかと思いきや世の中はひどいもので、高菜チャーハンだの豚キムチだのキムチ鍋だのが流行りの食べものとして出てきた。注文したことも食べたこともない。幕の内弁当にはいつもご丁寧に漬け物が添えられる。いつも残してきた。昼飯をぼーっとして食べていて、弁当のデザートにパイナップルが付いてる!と喜んで食べたらたくあんだったことがある。人前だから吐き出すわけにもいかず間違えた自分を呪った。
何がイヤって酸っぱいのが嫌いなのだ。酢のにおいが大嫌いで、寿司屋のそばを通るときだってこっそり鼻を抑えているくらいだ。理科の実験で酢酸を扱ったときなんかは本当に最悪だった。CH3COOHは憎しみとともに覚えている。酸味が嫌い、酸っぱいにおいも嫌い。そんな感じで30数年生きてきた。
その私が、最近、もしかしたら変われるのかもと思いはじめた。きっかけは奈良漬けを食べたことにある。普段の法事で出されても手を付けずにきたのだが、去年は法事そのものがなくなって、代わりに奈良漬けが送られてきたのだ。いらねー!と思ったが捨てるわけにもいかないとも思って、粕をぬぐったその切れ端をおそるおそる食べてみた。意外なことに食べられた。酸っぱくないからなのかはわからないが、初めて漬け物をすすんで食べたのは良い経験になった。
それから周りに酸っぱくない漬け物を教えてもらうようになった。全然酸っぱくないと勧められた中にはかなり酸味の強いのがあったりして、他人の味覚を信じきることはできないなと思いながらも少しずつ食べるようになってきた。それで今、もうちょっと酸っぱいのにチャレンジしてみてもいいのかもしれないと思っている。今興味があるのはキムチなのだが、はたしてこれはちょっと酸っぱいのカテゴリなのかわからないでいる。最終目標は酢で締めた魚を食べられるようになることだが、これは無理だろうと思っている。
地方の実家には帰ってないし、来ないでくれと言われてる。父親の葬儀も欠席した。
隣県の義実家にも行ってない。義父の法事も同居の家族のみでやったそう。
子供の学校がクラスターになって、仕事や地域の人にいろいろ言われたよ。あそこの学校の子が来るなら塾には行かせませんとか、(子供が感染してないとはいえ)どうして自費であなた自身がすぐにPCR検査を受けに行かないのとか。子供に向かって「人殺し」と言った人もいた。子供は家から出れず無気力で、私も仕事を辞めさせられると思った。
去年の夏も盆に帰らないつもりと書いて、バカじゃないって言われたんだよな。
なんだ、みんな出かけてるんだな。
福音派って日本のキリスト教におけるシェア的にはどうなん?少数派じゃない?
おそらくそれ以外のプロテスタント系が、カトリック系と比べて「ゆるい」てのは紛れもない事実だと、オレの体験的には思ってるよねw
20年ぐらい前だけど、結婚しようと思って、いわゆる「式」も「披露宴」もやらないでシンプルに婚姻届と友人知人等にハガキ出すだけにしようとしたけど、親が頑なに「式」をやれ!って言い張るので、キリスト教の教会でやることになったんだよね。
で、カトリック系だと、ちゃんとした信者じゃないとダメとか、事前にキッチリ研修みたいなの受けないとダメとかウルサかったw
プロテスタント系の教会は、そんなこと全然言わずに受け入れてくれて、事前に一回打ち合わせに行っただけで、無事結婚式を挙げられたんだよなー。
まぁ、20年以上たって、最近は変わってきてる可能性もあるかもしらんが、プロテスタントが分かれて500年くらいってことを考慮すると、可能性は微粒子レベルかw
なんでもかんでも、巷に流布する宗教的な行事シキタリなどを、教義や意味など深く考えることなく、無意識に取り入れるよw
神社に詣でるし、お墓に線香立てるし、法事で坊さんのお話もありがたく聞くし、クリスマスやバレンタインにご馳走食べるし、ラマダンか〜ダイエットしよかな〜くらい考えたりするよw