はてなキーワード: 架空とは
夢の中で美術館にいた。
わたしはある絵に惹きつけられてずっと見ていた。画家の名前をチェックして、ポストカードは売ってるかな、帰ったらゆっくり調べようかな、なんて思ったところで目が覚めた。
目が覚めてひどく落ち込んだ。夢かい。
その絵のタッチはミュシャに少し似てた。水色を基調した、男女の絵。男性がものすごく官能的に描かれていた。
他にもその画家の絵が何枚か展示してあって、どれもすごく素敵だった。
朝、スマホを開いたらよくわからないカタカナの文字列を検索した痕跡があった。
当たり前だが何もヒットしていなかった。
少し悲しい。
と同時にちょっと不気味だった。
こういう、歴史と共に積み上げられてきた社会学・フェミニズムの学説を前にして、ただちゃぶ台をひっくり返すことしか出来ない人々の言葉を読むと悲しくなる。
歴史とともにいくら積み上げても嘘は嘘でしか無く、フェミがそれらの正当な批判に答えたためしはない。
結果ありきの妄想ストーリーと「ミソジニー」と言うレッテルはりだけを続けてきた。現に、彼女らが自然科学的証明を行った試しはない。架空の「女性差別」ストーリーを展開し、男性の犠牲や労苦を顧みることないヘイトスピーチを続けて社会の持続可能性を破壊し続けている。
「通説」だろうがなんだろうが、ソースなき性差別を学問とは言わないし、言うべきではない。
君はただの権威主義者。
しかし十分な休暇になったとされている。
ひたすら宿題に振り回される日々を過ごした。
自由研究のテーマは二転三転し、最終的に辿りついた『夏休みを有意義に過ごすには』は貴重な資料として重宝されている。
だが誇張して書かれていたり事実関係が疑わしい箇所も多く、参考資料として疑問視する者もいる。
様々な資料にて利己的な振る舞いが記されており、巷では資本主義の象徴として挙げられることが多い。
そうして夏休みに稼いだ資金は、現代に換算してなんと約5兆アノニにものぼる。
物欲がなく、趣味は携帯端末でゲームをするくらいだったため、埋蔵金になっているのではと噂されている。
旅行もせず、遠出もしない、これといったイベントもない毎日を過ごす。
しかし自由研究で描かれた自分たちの姿は、誰よりも輝いているように見えたという。
全てが終わったときに息抜きにかける時間も気力も残っておらず、残りの期間は意地で休んだという。
新しい副業が見つかるまで、学校でのバイトで何とか食いつないだとされる。
ただ彼に関する資料は皆無に近く、存在が具体的に明記されているのはマスダの自伝のみ。
このため話の種で都合よく登場させた、架空の人物なのではないかとする説が支配的である。
その後、お土産の砂糖菓子を仲間に振舞ったとされるが、どのような食べ物だったかは判明していない。
マスダの書いた半私書で「これ要冷蔵じゃないのか?」という記述があるのみである。
この夏に始めた、自宅で簡単にできるセラピーによってリフレッシュ。
しばらくは耳栓なしの穏やかな日々を過ごす。
しかし後年の捻くれた言動は、この時の副作用ではないかとする向きもある。
菓子目的でラジオ体操を続けていく中で、その動きは神の粋に洗練されていった。
あの空間で底辺をさまよっていた自分は、のびのびと学び、正しい人との関わり方を学ぶということはできなかった
毎日消耗し続け、精神をすり減らしながら、少しずつ歪んで行った
いじめられることこそなかったが、下に見られて居場所を少しずつうばわれ続けた
そもそも、いじめられなかったのは、ただただいじめられないように必死に異常な自分を隠そうと取り繕っていたからだ。それは苦しい毎日だった
少ないが本当に信頼できる友人ができ、やっと一息つける居場所を見つけたのは高校だった。それすらも部活内のことで、教室に戻るとわたしはまた、出来るだけ馴染もうと普通のふりをしようとするだけの存在に戻った
教室に友人は1人。プライベートでは連絡も取らなければ遊びにも行かない、ただ2人組を作るとき、移動教室に行く時に必要なだけの友人だった。彼女が欠席すればたちまち1人になった。彼女のいない選択種目の体育は、輪の外で、浮かないようにするという虚しい行為に徹した。
高校の卒業を機に、人付き合いを9割たった。もう友人を作ろうとしなくてもよいのだと思うと嬉しくて、大学では友人を作る努力をやめた。はじめの方だけ数人、挨拶をする人もいたが、やがてグループというものに吸収されて、輪となったので、自分はまた外側の人間になった。1人で買い物し、1人で外食した。1人でも生きていけるぞと拳を突き上げた。過干渉な親から離れられたことも、その開放感を手伝った。勝った気でいた。苦痛でしかないと思っていた人生の抜け道を見つけたような気持ちだった。
中学生の頃、昼休みの教室で1人本を読んでいたのを教育実習生に心配された。一緒にドッジボール参加しに行こうか?と誘われた。しかし、それから5年も経ってわたしは勝った。1人でも平気だと証明した。わたしは1人が好きなのだ。
そう思いながらも、生活の張り合いのなさを日々感じた。寝るか、ネット巡回するか、飯を食うか、寝るか、それだけの休日に意味を見いだすのは難しかった。元来人間は嫌いではない。わたしはおしゃべりな人間だった。話し相手を欲していた。だが、友人を作るのはあまりに面倒臭かった。それに伴う多くの苦痛で自分が摩耗していくのは目に見えていた。少ない友人に連絡を取るのも億劫だった。張り合いはないが特に不満があるわけではない現状を変える気にもなれず、成人式にも卒業式にも出ないまま大学を後にした。
すっかり人間嫌いになった。若い女の笑い声が嫌いだ。強いストレスを感じる。ガキが走り回ってる休日の混んだ駅も嫌いだ。うるさい外国人旅行客への嫌悪が日本人にまで拡大していったと言えばいいだろうか。
就職して、また、少しだけ救われた。部署の2人の同僚と最低限の日常会話をして、上司と業務連絡だけの関係を保ち、後輩にはお互い敬語で話す。1日の会話は、挨拶と、ほんの少しの立ち入らない雑談だけだ。時々、お土産に美味しいお菓子をもらえばみんなで食べる。だが、会話はほんの少しだ。わたしは今の部署がとても心地よい。こんなものでよいのかと思った。あの、30人も40人もひしめく狭い教室で溺れるような毎日はなんだったのだろう。
思うに教室は特殊すぎる空間だ。最下層のわたしは「社会性を身につける」どころか、「人とうまくやれなかった体験」ばかりを積み上げてきてしまった。子どもの頃はあんな場所が一生涯続くのだと絶望しながら生きていた。
教室は苦しい形だ。画一化された平等な形。だが、そこで生きていない子どもだっているだろう。そこで生きていけるようになれと、突き落としてしまうのはあんまりに乱暴だと思うのだ。もっといろんな形の教室があったらよかったのにと思う。「通っている今」も幸せであれる形の教室。40人の同僚とたった1人の上司の下で仕切りもない箱の中働くなんていう架空の将来のために苦しさを我慢する場所ではなく。
ゆたぼん君には賛同はできないが、彼を一様にバッシングする人々には驚いたし反感を覚えた。
体育祭は嫌いだった。なくてもよいのにとずっと思っていた。でも、多くの大人は体育祭を無くそうと言われれば、子どもが可哀想だと反論する。教室制度を否定すれば、そこでしか得られないものがあるという。1クラス40人だからこそ、我慢強さと社会性が身につくと。より効率的な、誰も取りこぼさない我慢強さと社会性を身につける方法なんか絶対に話さない。例えば同い年しかいない空間では上下関係のうちでのコミニケーション方法は身につかないといえば、それは部活があるという。じゃあ、ホームスクリーニング児童も課外活動で我慢強さを身につけさせればいいじゃないか。と言えば、それじゃあダメだという。社会は甘くないと。
訳がわからない。わからないから自分は1人だったのだろう。どうせもう、子ども時代に戻ることなんかない。学校大好き人間の自己満足の城でいくら不登校児が苦しんで低学歴の底辺に育とうがわたしにはなんの関係もない。だからもうどうでもいいのだ。教室が好きな人間が教室を作ればいい。……こうやって、確固たる正しい教室ができたんだろうなあと思う。
そう思えば、今の学校教育にはなんの不満もないな。クーラーがつくのはずるいもの。下の世代だけ教室から逃げていいなんてあっていいことじゃない。苦しめ。
今頃なにやってんだろうな
「PCを攻撃するツール書いた」とかで公開してたスクショが、どっかからとってきたPythonのコード丸パクリで
よく読むとMySQLの死活監視用の便利ツールで全然関係ない人がブログで公開してたやつだったり
誰かとリプライ送り合って「@hogehoge つまりバリデートトランザクションは三層でプルリクしないと相手のPCは攻撃できないってわけ」みたいな専門用語まぜこぜのかっこよさそうな話をしてるんだけど
リプライ先のアカウントが架空で、専門家同士のすごい話し合いを演出みたいなことをしてたり
素晴らしい行動をいっぱいしてくれてた。
そろそろ「ツイッターのトレンドで調べてみたら鬼畜エロゲーが出てきて吐き気でゾッとした!恥ずかしい日本!極めて不快!」みたいな増田が上がってくる時期
そしてそれにウキウキしながら「そうだそうだ!アメリカ人の同僚(架空)が絶句してた!」とかブコメをつけるはてなー
今日辺りから最高気温30度を切ってじきに秋本番なんだからいい加減インターネットやめて人生を始めろ
インターネットやめろ
毎日現場へ足を運んで思うのは、「なんだかしんどい」ということ。
別に仕事がきついわけでもなく、上司が厳しいわけでもなく、朝がめちゃくちゃ早いというわけでもないが、一週間のうち3,4日はなぜだか精神的につらい。
日々の生活や働くことに対して意味を見出せなかったり、自分に自信が持てない。
そんなことがいつもつらく感じ、徐々に生きる希望が無くなってきた。
夜寝る前や朝の通勤電車では、別にもう死んでしまってもいいんじゃないかっていう考えに頭を支配されている。
もしこの仕事を辞めたら、もう再度就職できるやる気やアテもないだろうし、有り金全部使い果たして死んでやろう、その時の計画を立ててやろうとか、この数日間は本気で考えている。
だが、よく考えたら自分は高校時代からこんなことを頻繁に考えている。
人との関わりだとか趣味だとか、一瞬は楽しめるが、すぐに言いようのない違和感を感じてしまう。
どの場面でも本当の自分を偽って、架空の自分を演じてるような気がする。
コミュニティ属せたことは一度もないし、自分の居場所はどこにも無いような気がしていた。
いわば全てが場当たり的であり、自分には信条が全くもって存在しない。
他人とかかわるのが苦手だから一人でできる趣味に走るとか、逆に人と一緒に何かしたいから積極的に行動を起こすとか、そういうのが自分には全くない。
働くにあたり自分の考えを行動に移すということはどうしても必要で、このままではいつか立ち行かなくなる時が来てしまうと思う。
自分は何をしているときに楽しく、またはつらいのか。過去の自分と向き合って、嫌な過去も貴重な経験として振り返って少しずつひも解いていこうと思う。
この年齢になり、こんなことを考えるのは遅すぎるかもしれないが、
前々から大絶賛で勧められていたものの様々な騒動でネガティブなイメージもあり食指が伸びずにいた。そんな中で聴かせてもらった曲が良かったので、試しに音ゲーをやらなくても読める3部までは読んでみた。想像以上に私向けではなかった。勧めてくれた友達の見えるところでは言えないので吐き出したい。好きな人は気分が悪くなるとは思う。
登場人物達が他作品のキャラクターに似ている点は今まで色んな方々に散々指摘と検証をされてると思うので省くとして、それを差し引いても言葉の端々やキャラクターの言動に度々おじさんを感じて夢中になれなかった。
■六の人について
正直二次元の金髪の男が好きなので見た目はいいなって思ったけど、ふた昔くらい前の人が考えた軟派な白人って感じがしてつらい…。架空とはいえ北欧がモチーフの国の立場ある人間がキャットコールなんかするかね?ってところが気になって仕方なかった。ナンパが迷惑行為だとは思ってない人が考えたんだろうなって感じ
■八の人について
クールに見えるが熱い男っていう設定は私が好きになりがちな要素だし主人公への好意も一瞬応援したくなったこともありもしも真っ当にハマってたら推していたことだろうと思う。けど「女は甘いもの好きだろ?」って主人公にケーキ押し付けたり「どうして俺に可愛い彼女がいないんだ」みたいなことを言い出したりスッと冷めるような発言で決して推させてはくれない…
無理…。モブとはいえ女性シンガーに対して悪意ありすぎなシナリオでつらかった。虎に関してはそういうタイプのクズはアイドルに求めてないんだよ…という印象を拭えないまま3部終わってしまって、4部でどんなにフォローされてたとしてももう好きにはなれないだろうという気持ち
虎の人のユニット自体もかなりヘイトを稼いでたと思うけどあのあと手厚いフォローされるんです…?
個人的に二次元のアイドルものに良い意味でない男らしさとかクズ要素とか生臭いものは求めてないかなぁ…。とはいえ友人は夢中だし本当に私に合わなかったってだけなのだろうね。
そのネトゲはアバターを着飾る要素が豊富で、こだわる人は結構なお金をつぎ込むほど。
ネトゲ内でバーチャルオシャレに熱中する女子中高生、さらに大人の姿も見受けられた。
まあ、アメーバピグって言うんですけど。
「ピグアイドル」だ。かわいく着飾ったアバターたちが、手作りのバーチャルのステージ上で歌って踊る。
いつからそんな文化が流行ったのかはわからないが、そのネトゲ内では確実な地位と知名度を持っていた。
そのアイドルは非公式だ。アイドルをやりたい、と思った人間がメンバーを募って、集めて、歌って踊るライブだとか、ブログだとか、たまに総選挙なんか開いたりして。
そういうのを私は当時、異常だ、気持ち悪い、と思った。
なんてたって、歌って踊る、なんか言っても、実はそれは既存の歌の歌詞をチャットで並べ立てて、それに合わせてアバターがそれっぽく動く。歌は脳内再生。それでも女子中高生たちには無類のウケ型をしていた。なんだろうね、今ティックトックとかやってるような層にウケてたんですよ。そういうもんに陰キャはどうしようもない反骨心を抱いちゃうわけじゃないですか。
私は抱きました。もちろんそんな陰キャたちはたくさんいて。まあちょいちょい馬鹿にする程度だったんですけど、あるときそれが爆発して。
アメーバピグには、コミュニティって制度があって。まあギルドみたいなもんかな。誰でも立ち上げられて、メンバーを募集して、各コミュニティには専用エリアが与えられて。まあだいたいいつも遊んでる連中とかで結成されて、たまり場みたいにする。
ある時「アンチコミュニティ」が爆裂に増えた。きっかけはまあ、陰キャたちの中でも名前がデカい有名人みたいなやつ。といってもほとんど悪質な荒らしなんですけどね。そいつが一番有名な某ピグアイドルのライブにいろいろ嫌がらせをけしかけて。いつも悶々としたいら立ちを抱えてた陰キャたちは大喜び。次々と便乗して加勢して、「祭り」状態。標的になったピグアイドルたちはまあ、ほとんど無視。まあインターネットで活動してて嫌がらせに反応してたらきりないですからね。それでも、ちょっと叩いてみればブログの画像はどこどこの盗用だとか、メンバーのこいつは未成年だとか、(当時のアメーバピグは18歳以上は禁止ということになっていた)まあ、活動しているのは若い女の子たちなので、叩けば叩くほどホコリが出てくる。集中攻撃を受けてメンヘラムーブをかましたメンバーも出たりして、陰キャたちは大盛り上がり。
アンチブログというのも次々立ち上がった。叩いて出たホコリを延々と紹介する。最初は年齢詐称だとかメンバーの暴言だとか、まあしゃーない、と思うような内容だったが、次第にゴシップ誌みたいなウソかホントかわからない情報まで流されるようになってきた。
やがて飽きる陰キャも次々出てきた。私もその一人で、やがてアメーバピグ自体をやめた。
そうして年月が経って、アメーバピグも終わるらしくて。ふと思い立って、あのとき熱心に覗いては粗探しに励み、荒らし活動に励んでいた某ピグアイドルのブログを覗いてみた。
更新は止まっていた。三年ぐらい前に。どうやら他メンバーも音沙汰なしになっているらしい。まあ、アメーバピグ自体そのころは既に出会い厨と小中学生とニートしかいない「オワコン」状態だったので、自然消滅してしまうのも、仕方ないと思う。むしろ今もやってたらビビったかも。
当時一番、ファンからもアンチからも人気のメンバーであった一人のブログを見た。彼女はどうやら実家が相当太いらしく、日々豪遊の写真がブログに挙げられていた。当時の私たちはやれ捏造だ嘘だ流用だと叫んだが、具体的な証拠はなかった。更新は、やっぱり三年ぐらい前に止まっていた。
正直、推せると思ってしまった。
なんてたって彼女は、ネトネトした感情を並べ立てることなく、ただただ人生を楽しんでいる。金と時間を潤沢に使って、目いっぱい楽しんでいる。たとえそれが親の財産だったとしても、豊かに育てられた彼女は楽しかった!ウケる!とかキラキラした感情を出力している。キレイなものでできている。私たちの届かない世界で暮らしている。最終更新には、今はNYの学校に行ってる、と書いてあった。
どんな形であれど、人気者になる、というのはすごいことだ。それがどんな稚拙なものでも、人が集まるなら一定の魅力がある。
某ピグアイドルにはアンチも沢山いたが、ファンも沢山いた。たとえそれが小中学生の女子であっても、夢を与えてワクワクさせている。そんなこと小手先じゃできない。し、バカにする連中だってたくさんいる。そんな声に負けずに続けていくのは相当難しいだろうし。
本当最近Twitterぐらいしかやってないんで、陽キャインターネット文化にはよわよわなんですけど。ティックトックしか知らないんですけど。あれもね、すごくいいと思います。なんてたって誰もがスターになれるんですよ。そこで人気者だったら、そりゃまあすごいことだと思う。だって私が昔魂込めた小説なんて一日3PVぐらいで、そんで三日で挫折しましたもん。
表現者っていうのは続けることで確立されるってどっかで読みました。続けることはなんだって難しいです。
どんなにくだらなくても、黒歴史でも、馬鹿にされそうでも、若いうちになんか続けときゃよかったなあ、って思ってます。若いうちって中高生ぐらいですかね。その頃の私っていうのはインターネットの陽キャムーブのアンチ活動に必死で。なんも生産性ない奴なのにね。
なんか表現として続けられて、それで誰かのハートを掴んだっていうのはすごいことです。神さまになるみたいなことです。
神さまになりたかった。冷笑する態度を続けてると創造のインスピレーションっていうのがみるみるしぼんでくんですよ。脳の架空のオタクがアンチしてくるんです。それでなんも考えられなくなる。
インターネットでなんかやってる皆、みんなみんな愛してるぞ。
日本の外交は専守防衛である。他所の国から「おまえらコレはどうなんだ?」と詰め寄られて初めて動き出す。いい加減それ、やめませんか?
例えば捕鯨、例えば死刑制度、例えば児童ポルノ。「海外からかかる圧力」はあっても、「日本が海外にかける圧力」はまるで聞かない。自称愛国者はそんな日本を「謙虚だ」と褒め称えるんだろうが、国民を守り国を支える上で表面的な謙虚さなんて要らないんだよ。
私は死刑反対派なので、海外からの圧力なんてあろうがなかろうが死刑はなくすべきだと思っている。一方で、死刑ごときで海外から「野蛮な国」呼ばわりされる筋合いもないと思っている。日本にも「銃の管理が世界一厳しい」っていういい所もあるんだよ。気軽に発砲、容疑者を銃殺する国とは違うんだよ。
そういった論点は、ネットではよく聞く割に海外には届かない。私が死刑反対派であるとか以前に、国として死刑にこだわる必要なんてぶっちゃけないのにね。ただ、「無条件で日本が屈した」という前例にしてはいけないとは私も思う。国と国は常に「合法的な内政干渉と治外法権」を求め合っている。それが外交なわけ。
海外にだって日本人は住んでるし、旅行にだって行く。人ごとじゃないんだよ。えっ、「犯罪者の処遇なんて一般市民には関係ない」って? あるんだよ。直接的には麻薬の運び屋云々とかもあるけど、ここで話題にしたいのは間接的なこと。国際社会の中で日本の存在感を高めていくには、日本の価値観が世界に浸透することが必要不可欠。もちろん日本にも海外にもいい所もあれば悪い所もある。悪い所は変えていけばいい。その代わり、いい所は広めていこう。
また予め言っておくと、私は鯨肉が嫌いだ。一度食べたことがあるが、この世の地獄かと思うほど生臭くて吐きそうになった。二度と食べない。ネットを見るとやはり鯨肉は人気がないようだ。
しかし、「食べるために殺す」ことを悪とする理屈は危険である。批判者はなぜか牛や豚は例外とするのだが、もちろん命に例外はない。人間社会の内部である限り、取り扱いに関する例外は人間自身と、その"所有物"だけである。
しかし、「平等に慈しむ」という観点から(多くの人が)許容できない行為があることも事実だろう。「食物として命をいただく」ことは許容されても、劣悪な環境で飼育することはやはり許容できない、"ということになっている"はずだ。しかしこうしたルールはしばしば守られない。
これは、単なる動物愛護の視点のみから問題視しているのではない。ルールがルールである以上、それは守られなければならない。公正な競争から外れた違法なルートを用いて儲けている業者があるなら、それは批判されなければならない。これは市場と経済の問題でもある。
例えばフォアグラの生産方法の残酷さは有名である。フォアグラは確かに美味しいのだが、美味しいからこそ問題なのである。つまり、日本はフォアグラを輸入するという立場にあり、フォアグラは「日本製の食品と競合する」立場にあるからだ。その生産方法に「公正であること」を求めるのは、貿易において日本が主導権を握るために必要なことだ。
例によって予め言っておくと、私は児童労働の観点から「児童ポルノ」にも「子役」にも反対だ。性的であるかどうかに関わらず、児童を用いて商売することは全て搾取であるとする立場である。何なら私は人間を性的に見ないセクシャリティを持つので、「年齢に関わらず人間と人間が性交渉することに反対だ」と言ってもいい。それらの是非はあなた方が勝手に議論してくれればいい。私は興味がないので。
最も大きなねじれが観測されるのは、やはり「架空の児童」を対象とするポルノに関する議論だろう。LGBTの議論は「クィア」なる言葉が出てきた頃から現代社会の遥か先を行くようになった。「クィア」とは日本語では「変態」とも訳すべき言葉で、あらゆるペドフィリアも含む性的嗜好を内包し、「セクシャルマイノリティ」を理解するための新しい視点を提供した。
とかまあそういうことはどうでもいいのだが、そうした文脈を通ってみれば、「架空の存在を性的に見るセクシャリティ」もまたここに発見されるわけである。時々「フィクトセクシャル」という言葉も使われるようだが、私は昔ながらの「二次専」という言葉を使う。私自身が二次専である。
「実在人物を性的に見る」ことに何の疑いもない人々は、性的な創作を見て「それが現実の事件のトリガーとなる」と主張する。それ自体は一定の説得力があるのだろう。この世の現象にはあらゆる事象が影響するのだから、「影響がない」ものを探す方が難しい。しかし彼らは、「我々がセックスをすることが、レイプ事件を引き起こす。セックスをやめるべきだ」とは言わない。なぜなら、彼ら自身が困るからである。彼らはセックスをやめられないからである。ではなぜ創作表現は気軽に批判してしまえるのか? 彼ら自身が困らないからである。ここにセクシャリティの非対称性があり、差別意識が発見されるのである。
と、長々と書いたのは前提で、ここからが本題。今まで日本がやってきたことは、海外から「(架空の児童を対象にしたものであっても)児童ポルノをなくせ」と圧力をかけられ、その度に応戦するという形でしか行動してこなかった。日本はアニメ産業に目をつけ「クールジャパン」などと言っているが、本当に日本の二次元文化を世界に広めたいなら、各国で「児童ポルノ」と認定されるような作品をこそ売り込まなければいけないんだよ。そのためには、「日本国内の文化を守る」だけじゃなくて、各国の理不尽な規制に対する批判を日本から積極的に発信していかなきゃいけない。「それは人権侵害だ」と。「セクシャリティを尊重しろ」と。