2019-09-16

教室健全精神を育成できなかった

あの空間底辺をさまよっていた自分は、のびのびと学び、正しい人との関わり方を学ぶということはできなかった

毎日消耗し続け、精神をすり減らしながら、少しずつ歪んで行った

いじめられることこそなかったが、下に見られて居場所を少しずつうばわれ続けた

そもそもいじめられなかったのは、ただただいじめられないように必死に異常な自分を隠そうと取り繕っていたからだ。それは苦しい毎日だった

少ないが本当に信頼できる友人ができ、やっと一息つける居場所を見つけたのは高校だった。それすらも部活内のことで、教室に戻るとわたしはまた、出来るだけ馴染もうと普通のふりをしようとするだけの存在に戻った

教室に友人は1人。プライベートでは連絡も取らなければ遊びにも行かない、ただ2人組を作るとき、移動教室に行く時に必要なだけの友人だった。彼女が欠席すればたちまち1人になった。彼女のいない選択種目の体育は、輪の外で、浮かないようにするという虚しい行為に徹した。

高校卒業を機に、人付き合いを9割たった。もう友人を作ろうとしなくてもよいのだと思うと嬉しくて、大学では友人を作る努力をやめた。はじめの方だけ数人、挨拶をする人もいたが、やがてグループというものに吸収されて、輪となったので、自分はまた外側の人間になった。1人で買い物し、1人で外食した。1人でも生きていけるぞと拳を突き上げた。過干渉な親から離れられたことも、その開放感を手伝った。勝った気でいた。苦痛しかないと思っていた人生抜け道を見つけたような気持ちだった。

中学生の頃、昼休み教室で1人本を読んでいたのを教育実習生心配された。一緒にドッジボール参加しに行こうか?と誘われた。しかし、それから5年も経ってわたしは勝った。1人でも平気だと証明した。わたしは1人が好きなのだ

そう思いながらも、生活の張り合いのなさを日々感じた。寝るか、ネット巡回するか、飯を食うか、寝るか、それだけの休日意味を見いだすのは難しかった。元来人間は嫌いではない。わたしはおしゃべりな人間だった。話し相手を欲していた。だが、友人を作るのはあまりに面倒臭かった。それに伴う多くの苦痛自分が摩耗していくのは目に見えていた。少ない友人に連絡を取るのも億劫だった。張り合いはないが特に不満があるわけではない現状を変える気にもなれず、成人式にも卒業式にも出ないまま大学を後にした。

すっかり人間嫌いになった。若い女の笑い声が嫌いだ。強いストレスを感じる。ガキが走り回ってる休日の混んだ駅も嫌いだ。うるさい外国人旅行客への嫌悪日本人にまで拡大していったと言えばいいだろうか。

就職して、また、少しだけ救われた。部署の2人の同僚と最低限の日常会話をして、上司業務連絡だけの関係を保ち、後輩にはお互い敬語で話す。1日の会話は、挨拶と、ほんの少しの立ち入らない雑談だけだ。時々、お土産に美味しいお菓子をもらえばみんなで食べる。だが、会話はほんの少しだ。わたしは今の部署がとても心地よい。こんなものでよいのかと思った。あの、30人も40人もひしめく狭い教室で溺れるような毎日はなんだったのだろう。

思うに教室特殊すぎる空間だ。最下層のわたしは「社会性を身につける」どころか、「人とうまくやれなかった体験」ばかりを積み上げてきてしまった。子どもの頃はあん場所が一生涯続くのだと絶望しながら生きていた。

教室は苦しい形だ。画一化された平等な形。だが、そこで生きていない子どもだっているだろう。そこで生きていけるようになれと、突き落としてしまうのはあんまり乱暴だと思うのだ。もっといろんな形の教室があったらよかったのにと思う。「通っている今」も幸せであれる形の教室。40人の同僚とたった1人の上司の下で仕切りもない箱の中働くなんていう架空の将来のために苦しさを我慢する場所ではなく。

ゆたぼん君には賛同はできないが、彼を一様にバッシングする人々には驚いたし反感を覚えた。

体育祭は嫌いだった。なくてもよいのにとずっと思っていた。でも、多くの大人体育祭を無くそうと言われれば、子ども可哀想だと反論する。教室制度否定すれば、そこでしか得られないものがあるという。1クラス40人だからこそ、我慢強さと社会性が身につくと。より効率的な、誰も取りこぼさな我慢強さと社会性を身につける方法なんか絶対に話さない。例えば同い年しかいない空間では上下関係のうちでのコミニケーション方法は身につかないといえば、それは部活があるという。じゃあ、ホームスクリーニング児童課外活動我慢強さを身につけさせればいいじゃないか。と言えば、それじゃあダメだという。社会は甘くないと。

ともかく何であれ、自分の受けた教育こそ正しいという。

訳がわからない。わからいか自分は1人だったのだろう。どうせもう、子ども時代に戻ることなんかない。学校大好き人間自己満足の城でいくら不登校児が苦しんで低学歴底辺に育とうがわたしにはなんの関係もない。だからもうどうでもいいのだ。教室好きな人間が教室を作ればいい。……こうやって、確固たる正しい教室ができたんだろうなあと思う。

そう思えば、今の学校教育にはなんの不満もないな。クーラーがつくのはずるいもの。下の世代だけ教室から逃げていいなんてあっていいことじゃない。苦しめ。

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