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2024-02-21

anond:20240221133528

ヒューマニズムとかプリヴィレッジとか単語も背景も意味も何も知らんのに、Twitterの聞き齧りで知った気になって口を挟もうとしてしまう奴〜〜〜w

2023-12-09

エクソシストの新作観た。

取り憑かれての異常行動も割と控え目だったし、ホラーって感じはあんまりしなかった。前のもそうだけど、悪魔に蝕まれていく辛さみたいなのが大きい。

タイトル通り、悪魔の誘惑に耐えて信じ続ける話だなと思った。

キリスト教に限らず、人生に対する希望と言い換えても良いような「信仰」がテーマになってた。

悪魔祓いは色んな文化圏であると繰り返し言われてたり、非キリスト教聖職者が参加してたり、主人公無神論者だったりと。悪魔の囁きも抽象的な信仰というよりは具体的な人生の後悔を掻き立てるものばかりだった。

前作主人公が出てくる所でアツいやつじゃんと思ったらあっさりやられたし、神父も満を持して参加したかと思えばあっさり殺された。その辺でもやっぱりキリスト教抽象的な話というよりは普遍的ヒューマニズムに寄せてる気がした。

最後は信じ続けた主人公勝利な気もしたし、悪魔の勝ちと言えたような気もした。

サブリミナル?というかモンタージュ?は初代のアレより自然な感じがした。

2023-11-10

ゴジラ-1.0のドラマパート酷すぎない?

ドラマ怪獣=7:3 序盤に至っては9:1ぐらいなのに酷い

今までのシリーズもピン・キリだったと言えばそうなんだが、ドラマが酷い時は怪獣パート比重高めてたから耐えられた。

でも今回は怪獣パート少なめでドラマパートメインなのにドラマパートが酷いからもう目に余る。

時代背景を無視して超現代人的価値観で語りまくる登場人物、致命的に語彙力のないセリフ挙げ句重要な場面ではついに全ての語彙を失い泣き崩れる始末。

とにかく総じてセリフが安っぽくて説明的。

せめて「説明的ではあるが芝居がかった面白みがある」「リアル言葉キャッチボールで芝居臭さがない」とかにして欲しい。

芝居臭くて、表現陳腐で、説明的で、戦後舞台とは思えないような喋り方をしてくるってのはもうマジでしんどかった。

とにかくドラマパートの大部分がカメラを止めるな初見の前半ばりにしんどい。

なんとか我慢できるのは学者と艇長の演技ぐらいで、他はもう演技指導が悪いのか役者が悪いのか、そもそも脚本がしんどすぎて読んでる側も「こんなんどう演技してもゴミみたいなドラマパートしかならんわ」とあきらムードなのか、とにかくキツかった。

怪獣映画における人間パートなんてホラー映画における退屈な恋愛シーンみたいなただのツナギの前フリでしかないと言えばそうなのかもだが、それにしたって全体の比重デカすぎる。

特に初代とは雲泥の差

あとなまじ初代を思わせるせいで初代と比較してしまう。

とにかく登場人物が全体的に幼く、その中でも主人公がぶっちぎりで子供っぽいのがしんどい

そんな主人公特攻ヒューマニズムの折り合いをつけた道を探る物語として全てが構築されているのは分かるが、そこまで一人の兵士フォーカスしてしまったらもうそれはゴジラじゃなくてエヴァンゲリオンだ。

たとえばこれが庵野が作ったシン・ゴジラ-1.0だったら「はいまたいつものヤツ。コイツはほんま……」で終わるんだが、なまじ別の人間がやっているだけに諦めきれねえ。

一人の人間に向かって運命収束しすぎていることのおかしさに気づいて止められる人は誰も居なかったのかよ……。

まあそれでも、台詞回しの表現力がもっとずっとマシだったらそれなりに形になったのかも。

子供でも分かるようにを意識しすぎたのかペラペラ台詞回しに加えて碇シンジ型の物語構造という組み合わせが、まるで子供向けの冒険ファンタジーを見せられているような気分にさせられてしまう。

ゴジラはよかったよ。

でもドラマは酷かったと思う。

マジで

これを高評価してるしてる人はどうやってこのドラマの酷さを乗り越えたのか教えてくれ。

「加点式で評価してるからゴジラがオッケーならそれでいいんだ」って感じとは思えないのに高評価してる人がたまにいるのマジで気になる。

2023-10-14

謎の存在不条理にも蹂躙される話って、理屈をつけてしまうと結局人間同士の内ゲバかに収束してしまって陳腐なっちゃう。陳腐というと語弊があるかもしれないけど、人間の愚かさだの悪意だのが招いた事態だ、みたいな感じだと結局そこかよ……って思う。

進撃の巨人とかはその辺の政治劇に軸を移してからもも話が丁寧だったって言われてるみたいだけど。

さりとて謎を謎のままにするのも気持ち悪い。でもそういう不条理ホラーというか、理屈などない。ただ襲われ、それに抵抗するという事実があるだけ。みたいな作品のほうが好きかもしれない。

新劇なんかはもう完全に親子関係で話をまとめて、マジで使徒とは何だったのか……状態だった。ただ暴れ回る怪獣しかなかったやん。

謎は謎のままにして、それはそれとして完全に別軸で人間関係の話を強引に進めていった感がある。

ヒッチャーとかは結構好き。

動機関係も謎のままだけど、最後には晴れやかさのようなものがある。

エイリアンも良い。宇宙人です。人を襲います。以上。戦って、倒す。人外人間が争い、人間が勝ち残る。シンプルで良い。

逆に負けてしまってもいいかもしれない。そうなると不条理パニックといった感じだろうか。そういうアンチヒューマニズム丸出しの作品もっとあっても良いかもしれない。

理屈をつけるにしても、内ゲバじゃなければ割と好みかもしれない。マブラヴとか?よく知らんけど、珪素生物がどうのみたいな。それだと設定が膨大で煩雑になりがちなのがネックなのかな。

そういう設定についてきてくれるような既存フォロワーを持たない人が初手で大風呂敷を広げるには、エロゲって良い媒体なのもかもしれない。Fateとか月姫とかも詳しくないけどそんな感じなんだろうか。

2023-09-01

「極めてなにか生命に対する侮辱を感じます」っていう宮崎駿言葉、すごい好き。

目の前で行われたプレゼンに対する、たった1センテンスでの言葉の撫で斬り。

たった一文で、何やらヒューマニズム立脚した倫理的ポジションを明確にする高潔さ。もしくは狡猾さ。

相手反論を与えない、ロジックではなく感覚による感想

怖いおじいちゃん

2023-08-03

センチメンタリズムはあってもヒューマニズムがない

タイトル上岡龍太郎元ネタ

バービーで盛り上がってるみたいだけど、ホント情けないお涙頂戴。

間内でやる分には勝手にすればいいけど、外を変えたいと思ってやることが悲惨アピールだなんて。

米国人にしてみれば、祖父日本兵に殺された方がよっぽど悲惨でしょ。

お涙頂戴はあっていいけど、外部も共有してくれるはず、と思うのがホント花畑

それで政治家アクション起こしてもスルーするんだからなー。

共産党現実無視路線放置でいいと私も思うけど、公明党とかちょっと前進レベル提言してるでしょ。

そういうのに支持が集まれば、票集めに使いだす議員も出てくるだろうに、感傷に浸ってるだけなので現実アクションには目が向かない。

国内政治ですらムーブメントに出来ないのに、米国人をどうこう出来ると思うのは傲慢まりない。

2023-08-02

anond:20230802082122

マッドマックスシェイクスピア劇のような人の高潔さを描いた作品ですが、特にフューリーロードには下品なシーンはありませんし、正直に申し上げますと、それを下品と断ずる増田様の教養が足りないのだと思われます

増田様の挙げられた作品ヒューマニズムというものを題材としております

これらは米国アカデミー賞、あるいは英国の作劇アカデミズムにおいて重要視される要素であります

俳優の表面的な美しさだけではなく、汚辱や辱めを受けながらも立ち上がる姿を見せる姿勢特に彼らの持つ作劇史、文学史において重要とされているのです。ご納得いただけましたか

2023-07-12

anond:20230711164417

そのトロッコ線路に乗ってるのは、植物動物かじゃない

  

ヒトの健康動物の命。 

 

ヴィーガニズムはヒトの健康のほうを蔑ろにする非倫理的クズ。反ヒューマニズム人類の敵。

2023-06-03

インターネット自己愛に毒されたイラスト界隈はAIによって自壊する

生成系AIイラスト周りの話は正直まともなコト言ってる人がほとんどいなくてうんざりしているし、だからもう当事者応援する気も起きない。多分まともな人は、それこそ一部のヘイトを盛り上げたり筋の悪い話をばらまいて軽薄ないいねをもらって嬉しくなってる人間について迷惑だと思っているんだろうけど、そういうのも含めて近づきたくないムーブ観測することは多い界隈だからはっきり不愉快のほうが勝ってしまう。



例えばならず者AI絵師特定作家名前使って「〇〇風」とかやったとして、それってどこにどういう問題があるのか、ということについて説得力のある話を目にしたことはない。しかし例えば「作家名前ブランドであり商標から保護対象他者営利目的で利用してはならない」という主張は立ちそうとか、少し考えれば思いつく。



じゃあ次に「〇〇風」をタイトルから取っ払って純粋作風が似ている作品販売したときにどうかとなる。すでに模倣や盗用についての判例はあるので、それに照らせば大部分のものについてはオリジナルと認められるだろう。「でも明らかに絵柄が似ているし、この人の作品学習しているAIだ」と来るだろう。で、じゃあそれのなにが問題なのか、という点を説明する必要がある。



絵柄が似ていることも、作品学習することも、特に違法性はない。同じことを生身の人間がやったときのことを考えればわかりやすいだろう。「いやこれは人間じゃなくて機械がやっていることだから問題なのだ」とくるとする。ではまた機械であることの問題点はなにか、という話になる。



例えばそれは「コスト問題だ」とする。人間よりも圧倒的に短時間・低コスト学習・生成をしてしまうことが問題で、作家仕事を奪ってしまう、と反論したとする。しかしてあらゆる産業が常にあらゆる技術によって変化し淘汰されている今の社会にあって、なぜイラストけがコストパフォーマンスを無視して保護対象となりうるのか。工業機械によって不要になった職人や、自動運転不要になるドライバーと、何が違うのか。



そもそも人類の叡智がようやくたどり着いた技術について「低コスト」だなんて無理があるだろう。作家自分技術のために費やした時間努力について触れ、だから作品には価値があるといったりする。ならば生成AI今日の形に至るまでに積み上げられた人類の歩みにも少なく見積もって同じくらいの価値はあるだろう。



さてクリエイティブとは人間特権なのか。人間が書いているか意味があって、そこに思いがあって、だから作品が生まれるのだ、それこそが価値なのだ。と、ヒューマニズムに訴えるとする。しかしその先に待っているのは集団的疑心暗鬼だ。「あいつは手で書いてると言っているがAIを使っているに違いない」なんてくだらない話が山程出てくるのは想像に容易い。



この筋を進めていけば、手書きは常に手書きであることの証明要求されるようになり、一方で生成AIは幅を効かせていくので、純粋手書きオーガニック野菜のような自己完結型の閉じた価値観の中で踊る道化と成り果てるだろう。



そもそもこれは絵柄の類似性とその模倣を見出すことができる例についてにのみ論じられている。人気作家作風を真似るほうが儲かるから結果的作風差別化されている人気作家模倣が多いということだろうが。これは裏を返せば、作風に明確なスタイルや傾向がない、あるいは分かりづらい作品作風については保護する必要はないと言っているに等しい。クリエイティブには優劣があり、できの悪いものについては知らない、となってしまえば掲げたヒューマニズムも一気に足元がおぼつかなくなってくる。



で、ここまでまともな話をしてやったとしても聞く耳を持たない奴らは大勢いるだろう。自分らが墓穴を掘っていることにも気づかずに、グラグラの足元を棚上げしてよくわからない、筋が悪いことを声高に叫んで、いくらかにしょーもない共感を集めて、それで満足してしまっている。


何も私は絵師憎しでこんないじわるを書いているわけじゃない。むしろこのテーマについて真剣機械人間共存議論し、方向性模索するべきとさえ思っている。人間創作をやり続けることには大いに意義があることで、それをなるべく大きな塊として残すのが重要だ。



だけどそれは当事者たちがこの問題真剣に向き合ってくれればの話で、そうでなければ彼らを応援することもできない。



ただ私はなんとなくわかってしまった。彼らは決して作品や、創作活動や、産業について憂慮して声を上げているわけではない。ただ創作を通して居場所見出し創作活動と自分作品自分アイデンティティのように大切にし、それは承認欲求自己愛の形を取り、インターネットという道具で持って大いに、そして無意味肥大化し、そしてそれが奪われるかもしれないということについてただ喚いているだけなのだ



人間が未熟で動機稚拙で知能が残念だから自分の弱い心を手っ取り早く守るためのくだらない言葉しか出てこない。



そんなものに、誰が関心を寄せてくれるだろうか。

2023-04-13

『生きる Living』を見た

普段アニメ劇場版くらいしか見ないのだが、割引チケットが使えずに余ったのでせっかくならとはてブで見かけたこ作品をと前日に思い立ち、翌朝大学へ行く前に見た。

原作黒澤明作品については全く、有名だという雪の中公園ブランコをこぐ老人の画のことなども全く知らず、そもそも映画に全く明るくない自分である

ヒーロー世界ごと我々を救いに来る話でない、青春の燦々と輝く汗を我々に振りまく話でない。この物語は小さな人生を、普遍的人間怠惰を認めながら、挑戦への契機を残してくれる、まさしく鑑賞者を生かしてくれるものだった。

そんな小さくて地味な物語を2時間も飽きずに見ることができるものかと、ヒューマニズムを描いたドラマなど見ることはないだろうと思っていたが、原作から引き継がれた構成の巧みさ、戦後イギリス生活の目新しさ、心の底まで侵入する繊細な画面作り、空想現実に構築する演技、それらすべてに圧倒されてあっという間に終幕であった。

結局何も変わらないかもしれないけれど、長い人生の中何度目標を見失ってもいいから、ふとした時に誰かのことを思い出して何か変化を起こすことができれば、きっと誰かに何かを残すことができる、そう控えめに背中にぬくもりをくれた。

増田って何か始めるのにちょうどいいよね、自分を背負わず目標を書けるから、達成できなくても罪悪感がない。

俺は今年こそ、こんな感じのアウトプットを定期的にやる。今年こそ。

2023-03-08

大学生になってから映画いっぱい観て、有名どころはざっくり抑えた。それでも未だ、ガキの頃DVDが擦り切れるくらい観たスターウォーズが与えてくれた興奮や、空想の素晴らしさの何たるかを未だ超えることがない。

SWが名作なのもあるし、慣れや愛着による補正も大きいと思う。でも何より、自分フィクションに求めてるものが、現実から離れる所にあるからだと思う。

作り話は素晴らしい。

心躍る物語はそれだけで観る価値がある。それに寓話を混ぜ込めば、理屈だけでは至らない納得の境地に実感を以て現実に思いを馳せる事ができるだろう。

劇的でなくとも、リアルっぽい人間関係ちょっとの嘘の愛を込めたら、たちまち胸打たれるものになる。それを観て、自分人間関係を顧みるのも良い。

でも自分もっと、遠い昔、遥か彼方の銀河系へ連れて行ってくれるような物語が好きだ。

SWも友情や愛に恵まれなかった親と恵まれた子の人間ドラマを対比的に描き出す。それは勿論大きな魅力だ。しかし何より、その世界観自分を惹きつけてならない。

色んな容姿生物、色んな機械が色んな言葉を交わし合う。現実を見ているだけではとても辿り着けない興奮に誘ってくれる。空想からこそ、空想しか行けない、現実限界を超えた場所だ。

ヒューマニズムに胸打たれ人の愛を信じるも良し。逆に露悪的なストーリーに触れて人の善性の限界を考えるも良し。不条理物語を観て世界無常を感じるも良し。作り話のナラティブを通じて社会問題に関心を抱くも良し。

でもやっぱり、ライトセーバーを振り回す妄想には勝てない。空想であっても、その時感じる喜びは紛れもなく現実のものだ。

2023-03-03

ハイパーインフレーション最終決戦の面白さが分からない奴向けの解説

ビックリしましたよ。

これが分からない人がいるらしいですよ?

じゃあ全力で解説してやりますか。

金で繋がった信頼=相手の理性への信頼

この物語マクロ視点でまとめると「ガブール人という人種が、帝国信頼関係を築くまでの物語」なんだよね。

ルーク提案により帝国政府とガブール人の間には「400億ベルク借金」という経済的な繋がりが誕生した。

もちろん帝国政府武力などを背景に「ガブール人から借りた金とか知らねえよ」と言えば踏み倒すことは可能だ。

しかしそれをやってしまえば「帝国政府は金の話を平気で誤魔化すような奴らだ」→「こんな奴らの作った紙幣は信頼できねえ」→「ベルク暴落」→「ハイパーインフレーション」→「帝国経済終わり」というシナリオへと進んでしまう。

これによって帝国政府が受ける打撃は400億ベルクなんかでは効かないので、帝国政府はこの取引を裏切れないのである

巨大な経済という歯車の間に両者が挟まることにより、両者の裏切り不可能になる。

もちろんこれは両者が理性的判断を下し続けることを根拠にしているが、逆に言えば両者が理性的であり続ける限りは当面裏切り心配はない極めて強い結びつきとなっている。

差別利益の逆説的な関係

今までガブール人は帝国政府に対して「いざとなれば武力でひっくり返せば良い」という状況に「人間相手になんて酷いことをするんだ」という感情論で対抗するしか無かった。

だが帝国にいる多くの人々は「逆に言えばガブール人を人間扱いしなければ搾取できるじゃん」と差別を繰り返していたのだ。

差別反対論者の多くも「近代的な思想を持つ人格者であるという信頼」を得るためという利益を求めて差別に反対していた。

反差別感情の根幹にあるのは優しさやヒューマニズムではなく利益なのだ

だが、その他大勢人間、そんな所で利益を得る必要のない人間にはガブール人差別が出来ていた。

利益差別関係は、A利益が出る→A差別をする//B損害が出る→B差別をしないの順番なのである

だがここからはガブール人に対して不当な扱いをするかどうかが400億ベルク取引のものへの信頼となっていく。

もしも帝国ががブール人への不当な扱いを繰り返せば、「400億ベルクもいつかひっくり返すのでは」という懸念が産まれ、それは「じゃあ先に裏切って少しでも利益を出すか」という判断をガブール人に起こさせかねない。

その金の繋がりによって帝国人のガブール人差別はこれから少しずつ改善されていく未来が予想される。

信頼関係の根幹には利益があるが、逆に言えば利益で繋がれさえすれば信頼関係は構築していけるのだ。

ルークは「ガブール人と帝国の間に不当な取引はない」という関係性を、互いが利益で繋がることで生み出したのである

いから裏切れない⇔賢くないから裏切れる

登場人物の多くが信頼関係でつながった中で、最後最後ハブられたのがイェルゴーと裏社会人間たちだ。

では何故彼らがハブられたのだろうか?

答は一つ。

「裏切っても損をしない」と判断されたかである

裏社会人間もイェルゴーも偽札取引をしていたという後ろ暗さがあるため政府に助けを求めることが出来ない。

それに対して裏社会側は「グレシャムと今後も取引を続ける機会」を、イェルゴー側は「奴隷を開放するという約束」を担保としていた。

だがグレシャム闇金の不当金利によって得る利益はその組織が今後提供する利益を上回っていたため裏切られた。

イェルゴーの場合そもそも約束を守ることがない」という理由から裏切られたのである

どちらも裏切られた理由は、「裏切らないだけの担保提供することが出来なかった」ことにある。

まりは、賢くなかったのだ。

いから動きが読める→動きが読めるから信頼できる→賢さを証明すれば信頼できる

ルークがガブール人として帝国との間に気付いた信頼関係の核はここにある。

互いの知性を信頼するに値しない同士であれば、互いに踏み倒すつもりで空手形を切るだけの関係になるが、互いが本当に賢いのならば正式取引をするしかない。

どちらかが愚かな関係最初から破産にするつもりでの約束が成立してしまう。

グレシャムから見た裏社会組織、イェルゴーから見たルーク、そしてルークから見たイェルゴーがそれだ。

賢いもの一方的にそれをやれば搾取に終わり、賢いものと愚かなもの場合は互いが裏切る形になる。

では賢い者同士ならどうなるだろうか?

そもそもそんな約束はしないのである

お互いが真に相手の知性を信じていれば担保のない取引であることが明らかである時点で、取引が結ばれないのである

そしてその状況で結ばれる取引は、互いが互いの担保を握り合う形となり、裏切りが生じないのだ。

そのために必要ものが2つあり、1つが担保、もう1つが知性への信頼である

もしも相手が愚かならば、自分の側に返ってくる刃の見積もりを誤り安易裏切りへと動くからである

イェルゴーは偽札の正体を見破れなかったが故に、自分けが一方的に裏切れるだけの担保を得たと思いこんでしまい、それ故にその報いの大きさにより自滅したのだ。

ルークを筆頭としたガブール人国家帝国関係はそれとは全く違う。

お互いが正しい判断をするだけの知性と、裏切れば損をするだけという担保証明を揃えている。

裏切れないのだ。

(当面の間は)暴落することのない信頼関係、それこそがルーク達の手にしたものである

偽札という極めて暴落やすい信頼を積み上げてこの結果にたどり着いたという経緯こそが、ガブール人の知性を証明し、そこから生み出される取引において強固な信頼を得たのである

まり、”ハイパーインフレーション”(コレが言いたかったので書きました)

2023-02-24

総じてフィクションの悪役側は人の弱さを信じて主人公側は人の強さを信じ、最後には後者が勝つというヒューマニズム一般化できるんだなって二十数年生きてて今いきなり思った

2023-02-23

シン・ウルトラマンみたいに異星人が人間他者として尊重するやつが大好き。

大好きなんだけど、外人にニホンスゴーイと言わせる番組のような気持ち悪さも同時に感じる。

異星人のパペットを使って腹話術してる訳だから

ダメな所もきちんと見た上で、それでも人間人間を自ら肯定するのがヒューマニズムだと思うので。

フィクションを通しているというだけで、人間自分肯定してはいるんですけど。そのやり方にやや狡さを感じるというか。

2022-12-30

不当ではあるが不正は無いって現時点で言って良いの?

Colaboの当初のスタンスでは会計は適切に処理している」だったもの不正な公金利用は行っていない」へ主張が後退していることは認識できているよね?
では、これからColabo関連公文書の開示および会計検査院の調べがある中で現在不正な公金利用は行っていない」から更に後退する可能性はあるんじゃないの?

いや確かに擁護へアクロバティックな思考を導入すれば不正な公金利用を行っていないとは即ち会計を適切に処理しているということだ」という解を導き出すことが可能ものの、それは現時点で可能なだけであって、アクロバティックなその擁護は現時点から主張が更に後退すると崩壊しかねない危ういものだよ?

しか現時点で既に東京都はColaboへ対して監査をまともにやれていないことが東京都監査委員から指摘を受けているのでColabo自身が言うように是正された東京都指導に従わなければならないことが確定しているのは理解しているよね?

まりColaboはこれから起こる会計検査院の調べへ対し是正された東京都指導の元で第三者に拠る検証可能性を明らかにした会計を示さなければならない状態にあるので、現在不正な公金利用は行っていない」という主張から更に後退する可能性は十分にあり得るんだよ?

そのような状況の最中にアクロバティックな不正な公金利用を行っていないとは即ち会計を適切に処理しているということだ」のような擁護を現時点で主張するとColaboが主張を後退させた時点でColabo自身の手によってその擁護梯子は外されることは理解できるよね?

本当にColaboを想うのならば、現時点で不当さが指摘されている状況を真摯に受け止め、是正された東京都指導へ真っ当に対応をし、会計検査院の調べに備えて欲しいと主張するべきなのではないだろうか?
それが出来ないのならば今後一切ヒューマニズムフェミニズムも若年支援も主張しないで欲しい。我々のやる不当は良い不当とも受け取れる主張をする人たちがやるヒューマニズムフェミニズムほど信用できないものはないので。

2022-12-11

ヒューマニストヒューマニズム

って、AI自我を持った世界ではAI人権を認めない人たちを指す呼称思想意味する言葉になりそう。

そういう意味では忍たま乱太郎の『勇気100%』も、無機物排斥する隠喩としてアウトな表現になるかもしれない。

2022-08-18

anond:20220817173650

フェミニズム根本思想は正しい

フェミニズム根本思想とはなにかについては、個々人で議論が分かれる

こんなに短いのに明らかな矛盾がある文章を書いてしまうから否定されるのではないかと思いました

別にアンチフェミニズムでも何でもないんですけどね

自分の中ではフェミニズムの言説で首肯するところもあるし受け入れがたいこともあって

よくよく考えると根本的に正しい(と私が思っている)のはたぶんフェミニズムではなくてヒューマニズムなんですよね

フェミニズムの一部でそこと重なる部分もあるけれど、やはり女性を冠するだけあって弱者男性トランスジェンダー、その他の生きづらさや障害の話になると相容れないと思うことは多いです

2022-08-03

anond:20220730110856

フェミニズム大前提ヒューマニズムすら投げ捨てて「フェミニズムは(生物学的な)女のもの」「トランスは出ていけ」「男のことは男が勝手にやればいい」みたいなこと言い出す自称フェミニストワラワラ湧いてる時点でもうどうしようもないでしょ。

2022-06-20

フェミニズムが発想はヒューマニズムなのに、態度は新自由主義である理由

個人複数属性統合体であるわけで、仮に男の生きやすさが70、女の生きやすさが50だとすれば、じゃあ、男に10負担を強いて、60:60にしようと言うのがフェミ根本発想なのだが、言うまでもなく1人の人間は、ただ男であるけがなく、ただ女であるわけでもない。

美醜で、ある男の生きやすさが10、ある女の生きやすさが90だとすれば、性別+美醜の合計での生きやすさは、男Aが60+10=70、女Bが60+90=150になる。つまり、より弱者である男Aから女Bはリソース収奪しているわけで、これがつまりは「非モテが反フェミである根本理由だ。

非モテは、アファーマティアクション否定しているのではない。それが結果的にアファーマティアクションとして機能していないと主張しているのだ。

「そちらはそちらで頑張ってください」

と、そうした非モテ弱者を突き放すのがフェミ定型的な対応になっているが、これは①弱者ヒューマニズムで救済すると言う自らの理屈を裏切っている、②自らが加害者に結果としてなってしまっていることに対して修正措置をとるべきであることを理解していない、と言う2点においてロジカルにも道理が通らない態度だ。

「そうですね、ありとあやるゆる弱者性が救済されるべきです」

と言う穏当な態度にどうして帰結しないのかと言えば、合計150点の女が負担を強いられることになるからだ。基本的には貧乏人のためには1円も払いたくない業突張りと同じマインドである

必ずやフェミニストは地獄で裁かれるだろう。

2022-06-03

anond:20220601214919

この増田が偉いのはちゃん女性だけの街実現のための方向性を示しているところ

現状では難しいと一貫して言っていて現状の問題解決すると実現するかも知れないという前提がある

しかもその根底にあるのはヒューマニズムとしてのフェミニズム特定性別優遇しようという考えではない

男性基準労働是正することで性別によらず雇用機会を平等化していこうという話

ブコメでこの増田フェミニストと言われるのがわかる

2022-05-04

中絶禁止フェミニズム市民社会に適合できるかどうかの試金石

フェミニズムを巡る疑念糾弾齟齬の根幹は、結局はそれが「女権のみ拡張主義であるのが普遍的人権思想に根差しているのかによる。「○○のみ拡張主義」はナチズムが「アーリア人権利のみ拡張主義」であったように最悪の結果をもたらすし、それによって公共が左右されることはファシズム以外の何物でもない。

「ならば男性男性自分たちで男権を主張してください」

この種のフェミナチたちは、誰かが対抗理屈(と言うか対抗屁理屈)を発明するとそれに群がって考えもせずに多用し始めるが、これが問題であるのは、「○○のみ拡張主義」で公共を左右しようとする試み自体ナチズム/ファシズムとして糾弾されるべきだからであって、常に公共への働きかけは普遍的人権思想に基づく公共の福祉の調整でなければならないかである

まり普遍的人権思想に根差して、公共の福祉の調整と言う観点に基づかない権利主張はすべてファシズムなのであって、他者に対する人権弾圧である

これが「女権のみ拡張主義」「ならば男性男性自分たちで男権を主張してください」の人たちが言葉の正確な意味合いにおいて社会害悪であり、積極的排除されなければならない根本的な理由だ。また、これが世界の主流派フェミニズムが急いで、ユニヴァーサリズムに方向転換しようとしている理由でもある。

ナチズム下においては、人権定義が大きく制約されることになった。通常の殺人範囲に含めないことでユダヤ人大量虐殺可能になったのである

従って、アフターナチス世界で求められるべき「人間」とは定義恣意的意図によって左右されない絶対性によって規定されるべきであろう。死刑廃止運動とはまさしくこの観点から為されている。死刑囚人権擁護のためではなく、「人間」の不可侵性を守ろうとする思想である死刑廃止運動においては、このことを理解しているリベラル中絶問題になれば、まったく態度を翻すのは理解しがたいことである

人間定義には政権イデオロギー恣意性に基づく冗長性があってはならないのであって、アプリオリ絶対的なものでなければならい

現在は、胎児は「全身が母体から出てからが人であってそれ以前は物」と言う考えが主流であるが、これは恣意性のもの定義である。例えば頭部のみが出ている段階で、赤ん坊ナイフで刺せば器物損壊罪で、1秒後に全身が出たところで刺せば殺人罪と言うのは科学的な説明がつかない。物体それ自体は同じだからである栄養従属であるかどうか、つまりは臍の緒でつながっているかどうかであれば、帝王切開をするかしないかでも他者による恣意性が入り込むことになる。

1秒前までは物、1秒後は人間、と言う科学的なアプリオリに基づかない恣意性から脱却するためには、結局のところ受精卵に人間性を求めるか、少なくとも胎盤への着床後にそれを求めるしかないのであって、理屈の方は中絶禁止派の方が科学的には通っている。

「女の体は女の物」

「私の体の決定権は私にある」

レイプされて子を産めなんて自殺する人も出てくる」

と言う人たちは、徴兵制によって徴兵されて死を強制されて来た男性兵士たちのことを考慮してみた方がいいと思う。彼らもまた、同じことを言いたかっただろう。現在徴兵制があるかどうかは問題ではない。それがあり得る政策として現在も許容されているということが問題なのである。そしてこれは、同時に、「女性のみが男性リソース負担をかける形で体育成績で優遇されている」「女性のみが需給法則雇用自由に逆らって男性の機会リソース負担をかける形で男女雇用機会均等法がある」「女性のみが男性権利侵害する形で女性専用列車がある」「女性のみが男性税金雇用機会に負担をかける形で女性センターがある」等など数え上げればきりがないが、最終的には男性身体性を毀損する形で、公共の福祉の観点から調整が図られているのだ。その結果が著しい性差が偏った寿命格差幸福度の差、自殺率の差であっても、許認されているのである

まり、利害が対立する局面において、他方の損失が生存に負荷をかけるような重篤性がある場合は、「女性がこの社会により適合性を持たないのは男性のせいでは無いが」、公共の福祉の観点から調整が正当化されるのである

それが市民社会なのであって、中絶問題はつまり女性が、他者利益のために公共の福祉を成立させる自己犠牲を受け入れられるかどうかが問われているのである

女性身体自由性、女性の心身の健康もかなり人権的には重篤レベル権利ではあるが、それが胎児生存権に優先され得るかどうかが問題になっているのだ。

胎児から人間ではないので胎児人権それ自体存在しない」

という主張は、既に見たようにアプリオリものでも無ければ科学的根拠に基づくものでもない。恣意性に基づいていると言うこと自体批判されるべきであるが、恣意性に基づいているのであれば別の恣意性によって動かし得るものなのである。そしてこれを免れ得ないので、中絶賛成派は、アプリオリ定義科学に基づく議論には決して深入りをせずにただ相手キチガイ呼ばわりしてそれでおしまいにするのだ。

女性身体不都合胎児生存権、どちらを優先するかは人権思想に基づくのであれば、後者とせざるを得ないのである。なぜならば私たちは二度とユダヤ人人間定義から外した恣意性に戻ってはならないかである

フェミニズム流派が言うように、フェミニズムヒューマニズムの一形態であるのであれば、ここが女性人権思想を本当に尊重し得るのか、市民社会プレイヤーとして相応しいのかどうかが問われる試金石になるだろう。他者生存権を尊重できないようであれば、フェミニズムイコール関係においてナチズムに他ならないのである

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