はてなキーワード: アニメ映画とは
アニメ映画などで声優をそのへんの芸能人にやらせることがあるけど、声優はやはりプロに任せるべきだと思う。
声優業もできる俳優ならまだ分かる。声優系のレッスンも学んできているはずだから。
だが、ちょっと売れてる感じの若手芸能人などを起用するのが信じられない。
そもそもまともに俳優業としても演技ができていないのに、そんな芸能人に絵に合わせて声を当てるという仕事ができようもない。
声優さんがね、劇団に所属していたりするのは俳優としてのレッスンもしているからだよと。
絵コンテに合わせて声を当てるレッスンもまともに受けてない芸能人が、多少即興でレッスンを受けたとしても上手く出来るはずもないわけだよ。
話題の芸能人を使って宣伝したいというのが一番の理由なんだろうけど、作品として絶賛を受けて長く評価されたいのであれば
わずかなレッスンではなく、長期的なレッスンを行う必要が有ることを学ばないといけないし、芸能人側も限界までレッスンをしないといけない。
話題性だけで公開して「作品はいいのに声が糞」って評価を聞いてしまえば、最初に映画館に行った人とファンくらいしかお金を払う人も減っちゃうわけで
次回作を…なんて話が出ても、どうせまた下手くそな芸能人を使うんだろう?というそういう話で評価が下がっちゃう。
それって作品自体ももったいないし、芸能人の評価ももったいないんだよね。
声優としての標準レベルまで出来上がっていれば、芸能人の評価も上がるわけだし。
そういう事考えてないし、そこまでコストかけらんないわーって言う人が一時の話題で売ろうとすると作品が台無しになっちゃうから
もちろん、芸能人が声優を行うのであれば前述したように厳しいレッスンを乗り越えて声優として標準値を超えていればいいんじゃないかとも思う。
でも、実際の所そこまで上手いって人もいないし、結局失敗してる作品は多い。
となるとやっぱり本職に任せるべきなんだよね。
https://anond.hatelabo.jp/20180625184652
この延長上にあるお話
本来子供向けだったアニメが長い年月を経てオタク向けに変容してしまったものを、
さらにもう一度子供向けにシフトしていくっていうトレンドが今後の主流になっていくのかもしれない。
ベイマックスは天下のディズニーが送り出したおかげでその日本的オタクテイストと大衆向けアニメ映画の健康的テイストが程よくミックスされて大ヒットしたのは記憶に新しい。
そこからもう一歩オタク寄りの立ち位置でライバルであるドリームワークスがヴォルトロンなんていうものを送り出した。
よくtogetter辺りでは日本と海外アニメの表現に関して「完璧だが不自由な健全主義」vs「自由だが混乱を生むエログロ主義」みたいな文脈で勝手に対立煽りのネタにされちゃったりするわけですが、
そんなアフィの下らない思惑なんか簡単に消し飛ばしちゃうのがヴォルトロンの凄さだ。歴代日本産アニメの総復習みたいなことをやり遂げちゃってるのだ。戦闘シーンはSWやスタトレというより
大艦隊の真っただ中に飛び込んで姫を助け出せ!ワープで逃げても追ってくる敵を危険な星域に入ってやり過ごせ!スペースランナウェイ!なイデオンやヤマトだったり、
敵艦に潜入しての等身大での戦いは群がるロボット兵をキック!アタック!電光パンチ!ビーム剣で大切断!と血湧き肉躍るアクション満載!そしてわざとらしい露出やピッチリスーツは無いのに何故かエロい!
主人公サイドだとシロとキース、この二人がホンマにエロい!ふとした瞬間に魅せる表情がハートに直撃する。ノンケの男アニオタも堕ちる。実際堕ちた。
現地の子供向けレーティング基準は完全に満たしてて、ここまでオタッキーに攻めたことが出来るのかって驚愕したよ。
そして公式も自分達の作品が子供だけでなくオタクに観られていることを意識して、主役五人の設定上の誕生日には必ず特集と声優さんのコメント動画をハッシュタグ付きでtwitterにアップしたり、
スタッフやプロデューサーのインタビュー記事を定期的にオタク向けニュースサイトで組んだりと、広報関係も万全の体制で挑んでいる。
こういう流れ見ていると、二次創作があーだとか手下の民度がどーので荒れてる場合じゃねーぞ日本のディズニー!って叫びたくなるわ。
ヴォルトロンもその手のゴタゴタは日常茶飯事ではあるけれど、こっちは英語圏全般を巻き込みますからね。地球丸ごと超決戦ですよ、ハイ。
それでもその手のアピールをドリームワークスが続けているのは、オタク文化と大衆文化の更なる融合、垣根そのものを無くして新次元の表現を産み出せる環境作りを目指しているのかもしれない。
今までもこれからもオタクはオタクであり続けるし、世の中に揉め事は尽きない。でもせめてアニメを見ている時間だけは仲良くしようぜ?
日本の児童文学は終わると思う。魔女の宅急便の原作読んだことあるやつって少ないだろ。でもみんなジブリで知ってる。映画化されるだけで読んでみようという人もでてくるし、何より原作として存在意義がある。他のアニメ映画はほとんどが漫画が原作だ。それに最近は子ども目線で作ったアニメだけど大人が見ても見応えがある、ではなく、ぶっちゃけ大人目線のアニメだけど子どもも楽しめるに傾いてる。これは原作が漫画だからだと思う。映画の世界にとどまらず、昔はみんなよく見ていただろう世界名作劇場の原作はだいたい児童文学だし、制作に携わった有名人と言えば宮崎駿だ。
ジブリが消えたら、誰が児童文学の素晴らしさを映像におこしてたくさんの人に広めることができるのだろう。それよりも、子どものためを第一に思って作った映画やアニメがいつかなくなるんじゃないかと危惧してる。
いや、アベンジャーズも十分ヒットしてるから言い過ぎなんだけどさ。
これはもうはっきりしてるんだよね。
全然複雑な話じゃない。
シリーズ物を追っていくトレンドがないとかじゃない(ヒットしてるコナンは長期シリーズだしね)
アベンジャーズがそこまでじゃない理由は(比較的)女性に受けてないから。
一応6:4くらいの比率では有るんだけどね。
これはデータを取ってる会社もあってはっきりしてるんだけど、日本の映画館は女性の観客が男性より圧倒的に多い。
女性も見れるよねって。
最近のアニメ映画が興収ランキング常連なのはこれが原因だと思ってる。
映画館の映画としては例外的に男が見ても女が見てもいい映画だと思われてるってこと。
つまり日本で大ヒット作を作るには当然女性に受けた上で、男性にも受けなきゃだめってこと(女:主 男:従)
じゃないと壁が超えられない。
はっきり言うと論争になりそうなんだけど、海外で日本の実写映画・ドラマが受けないのも女性にターゲットを絞ってるから。
だって海の向こうでは男性に受ける映画・ドラマ(かつ女性に受ける映画・ドラマ)をつくるのがヒットするセオリーなんだもん。
実は俺たちが想像してる以上に海外のコンテンツ視聴者ってマッチョなんだよ。
誰にも伝わらなくていい自分用
ROM専鍵アカしか持っていなくて反論する術もないしわかってもらいたい相手もいないけど言われっぱなしは嫌なので。
百合が好きな男性を「百合豚クソオス」と呼び「百合に関わる女性ごと彼らの為のポルノ」と、百合の創作を楽しむすべての女性を踏み躙る発言、本当に許せない
百合を楽しむ男性、女性、異性愛者、同性愛者、すべての人にとってあまりにも失礼
私が百合を読んだり描いたりするのは「百合豚男」に「消費」されるためではない
女性と女性との間にある様々な関係性や物語に胸が高鳴り、自分の経験に重ね合わせたり、経験のない感情に思いを馳せたりして、その時に感じたことを自由に表現したいから
ちなみに「動く肉」という発言について「あの発言は悪くない」と言わないのは、あの発言が悪いと思っている人たちが誤読をしていて、私は発言者がどういう意図でその言葉を使ったのかわかっていて「悪い」と思っていないから(過激で誤読を生む言葉のチョイスだとは思うが)
リズと青い鳥の試写会の写真に百合が好きな女性が映っていないというけど、アニメ映画の試写会って内容に関わらず声優が好きな声優オタクが集まることもあるんじゃないですか?「リズと青い鳥の試写会に女性が少なくて男性が多い」は事実だけど「リズと青い鳥の試写会に女性の百合好きは少なくて男性の百合好きばかり」は妄想ですよ
あさがおと加瀬さん。がマイナビティーンズで女性限定試写会の募集をかけているのは、「百合豚」が10代女性を「消費」するためではなく、あさがおと加瀬さん。という作品が君に届けのような少女漫画風の作品だからじゃないですか?
百合憎しで目が曇り、自由な心で創作活動や百合作品を楽しむ人々を「男様の奴隷」というような言葉で踏み躙るのはやめてもらいたい
あとただの独り言です!
名探偵コナンの最新作を見た。
めちゃめちゃ数字がいいらしい、毎年コナンの映画を楽しみにしてたし、安室さんがメインらしいということは知ってた。
安室さんがなんでそんなに人気あるかよくわからなかったけど、まわりのおたく仲間の反応を見てかっこいい映画なのかなーって思っていた。
映画を見てみたら、犯人のトリックにインターネットに接続してる家電を燃やすっていうところがあった。
導入の爆発もインターネットの回線工事が遅れていなければ起きない事件だった。
ITOの家電やガスをトリックに使ったという説明があった、私はそれを商いにしていたからものすごく悲しかった。
子供向けのアニメなのだからそんなことにケチつけてはならないのはわかっているけれど、(博士のドローン犯罪だし)
ぜーったいに有り得ないし、そんなの関わってる会社を全部買収して家電そのものを燃えるように作り替えでもしないと起きない。(園子なら可能だ…。)
全部が安室さんスゲーする物語なのに、これ成し遂げた犯人の方がよっぽど優秀だなぁと思いながらエンドロールの後の予告まで見て、座席を立った。
その際に近くの子供が「スマホ燃えちゃうの?」と母親に聞いているのを聞いて子供は真に受けちゃうよなーと思いながら帰った。悲しかった、私たちだって24時間365日人々の便利な生活のために頑張っているのに…。
アニメだけど、誰かを夢中にできるパワーのある作品で楽しめない自分に悲しくもなったけど、私だって公安の降谷さんに負けないくらい仕事を愛していて、日本の役に立っているっていう自負があったんだなぁと気づかされた。
真実がひとつで正義の方法がたくさんあるがテーマなのに警察なかでごちゃごちゃやってるのがファンタジーなんだよねぇ、安室さんスゲーコナンスゲーしないといけないから仕方ないんだけど、家電メーカーもインターネット業者も実際なら他人事どころか賠償問題だ…。と家に帰ったら冷静になれた。
去年の私怨で爆発ドーン!の中の平次の男前とかの方があの短時間なら分かりやすかったし面白かったなぁと思わなくもない。
なんだこれなんだこれなんだこれ。
あまりにスッキリしなくて映画館でてからも身震いのような気持ち悪さが引かず肩を縮こまらせてみたり腕を拭ったりぴょんこぴょんこ跳ねてみたけどそれでも気持ち悪い感覚が引かず最寄りの喫茶店に駆け込んでカフェラテを飲みながらこれを書いてる少し落ち着いてきた。
アニメ映画に限らずエンタメであることが求められるこのご時世にこれだけ監督が気持ちいいもの垂れ流しました的な物語が劇場公開できてかつ絶賛されてるのをみると世の中健全だなあというか捨てたもんじゃないなあと思うけどやっぱ許せそーにねーわっていうか辛い(言えたじゃねえか)。
でまあ何が気持ち悪いかっていうと希美なんなのアイツってことなんだけど。
本音言わないにもほどがない? ずっと嘘くせー笑顔うかべてるしさあ。一番「あ、こいつキチガイだな」って思ったのは優子がキレてるところでもニヘラニヘラしてたところだな。あそこは普通なら申し訳ない顔をするなり逆ギレするなり何なりリアクションがあったはずなんだよそれを普段と変わらない笑顔でやりすごすとかさすがに何なのコイツってなるわ。
そういう本音を一切語らない希美が描かれた末にみぞれが羽ばたいてあーこっから変化きますわ変化って思ってたら何も起きずむしろ語らなさが強化温存されてENDってさすがにねーわ音大行くのやめたのみぞれにけっきょく言ってねーだろ何だコイツ。
それでもメタ的にそれを指摘するパースペクティブが用意されてるならいいんだけど(嫌だけど)でも作品として「disjoint→joint」ってやっちゃうわけじゃん。いやこれで解決されてるとか主張するのはさすがにソシオパシス疑うわwww
もう少し話を整理する。
この話はTVシリーズからずっと続いていたみぞれの希美に対する一方通行的な気持ちにどう決着をつけるかって話だ。
みぞれは希美に対してオンリーワンだけど、逆はワンオブゼムにすぎない。お互いがお互いに抱いている感情が等価ではないという問題はこのふたりにずっと横たわっていて、TVシリーズ2期の序盤でこれを取り上げることによって一定の解決をみた(が、実はTVシリーズは視聴者を慮ってか原作に比べてかなり手加減したつくりになっている。原作ではこの落差を青春が持つ残酷さとしてストレートに描いており、解決がつくどころか希美の無理解さが強調されるエグみを持っていた)。
さて『リズと青い鳥』においては同名の架空の海外小説とそれを原作とした吹奏楽曲を補助線とすることでふたりの距離に改めてスポットを当てている。
『リズと青い鳥』はひとりぼっちのリズのところに彼女を哀れんで青い鳥が少女となってやってくるという話である。最初ふたりは幸せに暮らすが、リズはやがて少女が青い鳥だと気づき、彼女は大空を自由に羽ばたくべきだと主張する。ひとりぼっちだからといって己が鳥かごになって大空を自由に飛べる青い鳥を閉じ込めることは許されないというわけだ。それはリズの愛である。青い鳥はそれを悲しむが、リズの気持ちに応える形で大空へと旅立つ。
当初みぞれはリズに自分を重ね合わせる。闊達で皆の中心にいる自由な希美を遠くから眺め、自分なら青い鳥を手放しはしないのに、リズの気持ちはわからないと言う。だが臨時コーチの新山との対話の中で、青い鳥がリズの愛に応える形で飛翔することへは理解を示す。良かれとおもって彼女の元に来たことが却って彼女を苦しめるなら大空へと羽ばたく姿を見せることをもって彼女を幸せにするのだ、という解だ。だがそれは現実のみぞれと希美の関係にはそのままオーバーラップしない。
吹奏楽『リズと青い鳥』においてみぞれオーボエ希美フルートはそれぞれソロパートを担当する。曲の成否を決める重要なパートだ。だが希美のクオリティが低く、みぞれが無意識的にそれへ合わせることで滝も麗奈も納得しない出来になっていた。それをみぞれが「羽ばたく」ことで解消する。しかし希美はリズじゃない。覚悟を決めて申し出たリズと違って、希美にとってみぞれの「羽ばたき」は寝耳に水で目をそらしていたみぞれと自分との力の違いをまざまざと見せられることになってしまう。希美はみぞれに「手加減してたんだね」「みぞれはすごい。自分のような凡人とは違う」と醜い感情をぶつける。ここまでは理解できる。が、ここから先がないことは理解できない。事件は起きた。が、解決とまでは言わないまでも変化がないことは理解できない。みぞれと希美の関係は、あのなんか表面だけを取り繕っている妙な関係に戻ってしまうのである。本当に理解できない。
希美が音大進学を諦めたことは参考書を借りている描写からもわかる。くどいほどに強調されていた希美が一歩先を行きながらみぞれといっしょに音楽室に向かっていた今までから希美は図書室に勉強へ、みぞれは音楽室に練習へ行っていることからも道が分かたれたことは明確に描写されている。
だが音大進学をやめたことを伝える描写はないし、おそらくみぞれもそれに気づいていない(それぐらいノーリアクション)。希美はみぞれの目の前で参考書を借りているし、練習したみぞれが図書室で勉強していた希美と落ち合ってお茶して帰る描写があるので、現象として「希美音大進学あきらめた」はみぞれの目の前で展開しているのであるが、みぞれはノーリアクションなのでやはり気づいていないと考えるべきだろう。気づいてなお普段を演じているのだとしたら、希美以上にみぞれがぶっ壊れている(付言しておくと図書館が普通科の大学、音楽室が音大を暗喩し、それぞれを出て合流してお茶するところが、道が別れても一緒にやっていけることを暗喩してはいる(映画けいおんのセルフオマージュ感はあった)。しかしそれは言葉だけでそう表現されているに過ぎず、何も解決されていないことから額面通りに受け取ることはできない)。
事件は起きた。が、変化が起きないどころかお互いの距離と無理解が強化温存されてしまった。それなのに「disjoint→joint」とやってしまうのは、さすがに気持ち悪いとしか言いようがない。
ただ歩いてるだけであんな音はぜってーしねえと冒頭からツッコミ待ちな辺りそうとう振るっている。音がもたらす強烈な違和感によって、アニメーションだからこそ描き得る「体温」とでもいうべき何かが嫌でも強調され、作品の表現したい内容がプリミティブな形で視聴者の前に突き出される。
映像にしてもそうである。潤む瞳や流れる髪などアニメーション的誇張を重ねて表現された絵は、アニメーションであることの自覚ぬきに成しえない。アニメーションだからこそようやく可能な表現に挑戦した意欲作だと言える(アニメ『めぞん一刻』において、五代が「なんで泣くんだよ。なんで……」と言った響子さんの涙を思い出した。あれもアニメでなくては表現できないし、成立しない映像表現である)。
■2018/4/28追記
https://anond.hatelabo.jp/20180427225401
いやいや。
希美は内面を表情に出さない本心を語らない(いつも嘘くさい笑顔をはりつけている)キャラクタとして設定されていて、その強調として彼女を中心とするクラスタが表面的な付き合いに見えるような描写は繰り返しされている(むろん希美にはみぞれ以外の友人が沢山いる、希美しかいないみぞれとは違って、というためのものでもあるが)。
みぞれの後輩である剣崎梨々花が「先輩といっしょにコンクールに出たかった」と号泣するのはそれとの対比であり、畢竟、希美とみぞれ及びそれぞれのキャラクタの周りにいる誰が本心を語っているのかということを浮き彫りにするためにほかならない。
優子に詰められた時の対応などを見ても、希美が(本心を語らないという意味で)信頼できない語り手的登場人物として描かれていることは疑いようがない。そこから彼女が「変化」したと捉えうる描写もないため、増田が「濡れ場」と称する場面でも彼女の表情や言葉を額面通りに受け取ることはできない。
そもそも(原作)ユーフォは、みぞれと希美がそれぞれ相手に寄せる好意の量の差異を赤裸々に露わにし、青春とはかくも残酷なのだと描写した物語だ。物語がその残酷さに直面したとき、原作においては久美子が「うわこれキッツ」というようなリアクションを密かにすることで、それをどう物語として扱うかというパースペクティブが用意されている。が、リズと青い鳥にはそれがない。
希美が相談なく吹部をやめたことでみぞれはショックを受けた。相談がなかった、知らされなかった、自分はその程度の友人でしかないのだという事実が彼女を傷つけた。希美の音大やっぱやんぴはそれの繰り返しであり二度目だからこそ余計につらいわけ。だから優子はキレた(なのにニヘラニヘラしてやりすごす希美!)。じゃあ実際みぞれがそれを知ったとき彼女はそれをどう感じるのか、ということは「食事やトイレに行」く描写があるかどうかとかとはまったくもって次元の違う、映画において回避すべきではない描写にもかかわらず映画はそれ回避してしまう。ずいぶんと不誠実ではないか。
みぞれは最後、オーボエを続ける選択をする。それをどう解釈すべきか。
みぞれは希美といっしょにいるためにオーボエを吹いていた。一歩下がってついていくようなみぞれは希美に嫌われたくない。だからオーボエも、希美に合うようにもっと言うなら彼女を超えないように抑えられていた。鳥が自由に羽ばたくところを見れば、地べたを這いずり回るしかない人間はあるいは鳥を嫌いになってしまうかもしれない。そういう恐れを鳥が抱いても不思議ではない。だが青い鳥は、リズに励まされ、大空を舞う。翼はもともと持っていたものだが、リズの励ましによって青い鳥はもういちど空を自由に舞うことを選択する。それこそが、あなたがわたしに望んでくれたことだから。だからこそ大事にしたい、続けたい。
という読みが妥当だろうが、納得してそう受け取るには希美が音大に行くことをやめたと知ったみぞれの描写なくしては無理だし、リズが青い鳥を支えたように希美がみぞれのオーボエを支えると口にされても、希美への信頼がゼロなのでそれは難しい。そういった明らかな構造的不足を映画は無視したまま終わってしまうので、信頼もへったくれもない。
ところでこういった感想は、映画を見て心で感じたことを言語化して初めてでてくるものであって、「小難しい理屈」などでは決して無い。ということぐらい最低限理解してからコメントをつけるべきだろう。
ハヤトとカツって連邦軍人として死ねてるのか? 遺族年金とか気になるぞ。
ZZのごたごたの流れでうまいことブライトが処理してそうだけども。
レツ、キッカ、名前のないハヤトとフラウの子供の3人を抱えて地球で生きて行くには中々辛そうだ。
とか、考えてたら、ミライさんたちの家族と付き合いあってもおかしくないよな。
ハサウェイとチェーミンたちと似たような年齢なんだし、仲良く……
まあ、ハサウェイと仲良くは無理そうだな
それにしても思うのが、アムロにしろカツにしろハサウェイにしろカミーユにしろ、NTだなんだ言う前にちゃんとコミュニケーションとれよな
まあそのジュドーも時折意味わからんくなるが、それにしたってこいつらよりはましだわ
なんつうか、今こうして改めて宇宙世紀ガンダムを思い返すと、ZZやF91が面白いのなんの
そうやあ子供の話題で思い出したけど、シーブックの子供はリガミティアに入ってるってエピソードがあるけど、その子はどうなったんだろうな
ダストに出せそうだよな、トビアの子供、シーブックの子供が共闘するとかテンション上がる
つうか、一年戦争時代のキャラの子孫とか出ないのかな、ガンダムってあんまりそういうのしないよな
カイとか認知してないけど子供いそうじゃん(認知してないのは認知しなかったんじゃなく、そういうことを知らせないタイプの女と付き合いそうって意味)
あと……
もともと日常に何かあるわけでもなし、かと言って特別感情の起伏があったわけでもなし。ま、あるにはあるんだけどあまりに私的だしただの私怨だし、聞いてて楽しいものでもないし言いたくもないから割愛。要はただただ鬱だどうこう言うのを封じられるともうほんとに何も言うことがなくなる。
相変わらず自分の稚拙さに苛々する以外は特に。どうしてこうもおこちゃまなんだって自覚はある。
先日久々に某ねずみの国の会社のアニメ映画を見た。人魚姫のだ。前までは普通に可愛い〜と思って見てたんだけど、最近になって見直したら彼女の末っ子っぷりに苛々してしまう。アナ雪が流行った時もそうだったんじゃあなかろうか。
年下っていつもそうだ。
今日あったことで妹と弟がすごく苦手になった。元から苦手意識あったけど。
年下の兄弟がいない友達と話すと「なんで?年下の子って可愛いじゃん!」とか言われるけどそうでもないよ、ほんと。
いや、憎くはない、憎くはないけど可愛いと思えることは少ない。
先述のアナ雪だとかちびまるこちゃんだとか、年下の子メインの物語って、まあ作品は嫌いじゃないんだけど「年下のこういうとこ苛々するよね〜わかる」みたいに思える。そして年下キャラがやってることに他人事なのにハラハラしちゃう。
逆に年下の人が見れば「姉/兄のこういうとこウザいよね〜」って感じるのだろうか。
そんなわけでロリショタ属性が嫌いじゃないけど萌えない。小さい子、なら可愛いんだけどお兄ちゃん/お姉ちゃんがいる、媒体によっては自分が年上で扱われるのがなんか萌えない。
めっちゃ可愛いロリ少女に「おにーちゃん♡」とか言われても「はあ…」としかならないと思う。ショタに「おねーさん♡」と呼ばれるのもならないなあ。うーん。
まあそれはどうでもよくて。
ネット見てたら週刊ダイヤモンドの記事で「ドラえもんの映画が復活した理由」というのがあった。
内容は、声優や作画、主題歌、脚本など常に変化に挑戦してきて今のヒットがある、というもので、それに特に異論はないけど、復活した理由を語る前に、落ち込んでた理由を考えなければならないはずだと思った。
作者が生きていた頃の旧ドラの場合でも、確か日本誕生辺りをピークにして後は落ち込んでいくばかりだった。90年代は映画ドラえもんは、とにかく「子供向け」アニメ映画でしかなかった。その「子供向け」でも、ジャンプ人気の勢いに押されて、コロコロコミックを中心に展開する映画・大長編のドラえもんは子供の興味の脇に追いやられていた。今から振り返ると、作者が長生きしていた場合、いつまで大長編ドラえもんが描かれ続けていたか、と考えてしまう。どっちにしろ声優交代した辺りで、藤子氏も大長編の原案を考えるのを止めていたのではないか。
そんなドラえもん映画が復活したのは、トヨタCMなどいろんな展開をすることで、幼児・児童向けの映画から若者・大人も見に行くコンテンツに変化させて客層を広げたこととともに、ジャンプの漫画が高年齢層向けにシフトして小学生離れを始め、ライバルがいなくなったところをコロコロ勢力・ドラえもんが繁栄することとなった。