はてなキーワード: 逆効果とは
皆、多少なりとも我慢して譲り合って生きているのだから、自分が少し人と違うからといって、声高にアピールしすぎてはかえって逆効果になるのではないでしょうか。もちろん、歴史的経緯などがあるので積極的に理解をすすめなければいけない、というのはその通りだと思いますが、とにかく平穏無事に日常を送れることが第一なのですから、敢えて人様を刺激するようなことは避ける方が懸命だと思います。
これまで散々、世の健常者を脅かしてきたLGBTさんが言えた立場かよ。
LGBTさんの悪行一覧
・↑を達成するために器物損壊
etc...
我慢もしてなければ譲ってもいないし、声高に言いたい放題言って敢えて人様を刺激するようなことばかり。
それがLGBT。
「陰茎つき女性も銭湯の女湯に入れるべき」との意見に対して生じる問題について話し合う流れへ…「騙りをどう対処すべきか」「女性の嫌悪感はどうする」など - Togetter
https://togetter.com/li/1401831
というのがホッテントリにありましたが、ポストオペMtFの(あくまで)一当事者としては、こういうことを大きな声で言わないで欲しい、と思ってしまいます。まあこの人の立場も理解はできますし、オペ自体については別にしたくなければしなければいいと思いますが、その人の心の安寧のために他の人の平安が脅かされて良いということにはならないでしょう。
わたしはオペ・戸籍変更(修正)して随分になりますし、結婚して日常普通に暮らしていますが、それでも公衆浴場に行こうと思いません。
ブコメで書いている人もいましたが、シスヘテロの人でも色々コンプレクスがあったり(あるいは単に習慣や趣味として)人前で裸になるのを嫌がる人がいるくらいなのに、とてもそこまで自分の身体に自信が持てません。よくよく観察したら違和感くらいあるでしょうし、それで少しでも他人が不快な思いをするなら、わざわざ敢えて公衆浴場に入る必要はないでしょう。家にお風呂がないなら仕方ないかもしれませんが、わたしならそれでもコインシャワーに行きます。
皆、多少なりとも我慢して譲り合って生きているのだから、自分が少し人と違うからといって、声高にアピールしすぎてはかえって逆効果になるのではないでしょうか。もちろん、歴史的経緯などがあるので積極的に理解をすすめなければいけない、というのはその通りだと思いますが、とにかく平穏無事に日常を送れることが第一なのですから、敢えて人様を刺激するようなことは避ける方が懸命だと思います。
だらだらと失礼致しました。
家庭の問題は逃げ場がないから厄介だよな。しかし増田は深刻に考えすぎだ。姉も姉だわ。
犬の散歩ぐらいで大ゲンカするなよ。介護の話とかそんなナイーブな話と関連づけるな。火に油注いでどーすんだよ。
好戦的な態度は逆効果だぞ。北風と太陽と同じで、父親を褒めて誘導するっていう作戦に出よ。
日本で韓国「政府」批判が高まると「日本人に危害を加えられそうで怖いです。韓国の悪口は言わないで欲しいです」という意見を在日コリアンの声として紹介する。
「私は在日3世」。彼女は手を震わせながら、渋谷で聴衆の前に立った。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.buzzfeed.com/jp/kensukeseya/korean-action-1
こういう個人を盾にして政府批判を封じようとする戦術は有害無益だとやっている人たちはいい加減に気付いてほしい。
同情からでもこれに乗っかれば、国(政府)とたまたまその国籍を持つだけの個人を混同する差別の構造を強化するばかりだ。
韓国の立法・行政・司法を批判したとしても、在日コリアン個人は関係ない。それだけで済む話だ。
自分が批判しているのは在日コリアンではなく、韓国政府を擁護するために在日を矢面に立たせる日本人だ。
在日のために良かれと思って、気の毒な彼らが「韓国を批判しないで」と震えながら訴える姿を日本人に見せつけて韓国政府批判を封じようとしているなら、逆効果のバカなことをやっているからすぐにやめろ。
最近、主にTwitterだが「界隈や人が嫌だと思ったら距離を置け」と言われがちである。まあ、それは正しい。合わないものに無理にしがみ付いて心が折れては元も子もない。
…では、例えばの話。
この場合、「距離を置くべき」ものはどれなのか、思考実験をしてみたい。
自分自身の中で「好きなジャンルA」「好きなジャンルB」と、複数の好きなジャンルがあるとする。
そしてジャンルAが好きなフォロワーCと繋がり、いいねやリプ等のやり取りもするようになる。
しかしその後、フォロワーCが「ジャンルBが苦手」であることを公言……所謂「地雷」だと判明する。
それが判明することで「これはフォロワーCの地雷だ」というフィルターがかかり、気付けば「ジャンルB=フォロワーCの地雷」だと刷り込まれ、徐々に自分自身がジャンルBに触れられなくなっていく。
ここで「フォロワーCをリムーブなりミュートなりすればいい」と思った際に沸くのが、「でもフォロワーCによるジャンルAの話は読みたい」という感情だ。ジャンルAを楽しむためのモチベーションの一つとしてフォロワーCにやるジャンルA話の存在がある場合、フォロワーCを切ることでジャンルAへの気持ちが薄れてしまうかもしれない。
勿論他人の好みと自分の好みは違う、と切り離して考えられる人もいるだろうが(むしろ本来は切り離して考えるべき点だが…)、いずれかとは距離を置かねば自らの「好き」を保てない…となった場合、この段階で距離を置くべきは果たして、
・ジャンルA
・ジャンルB
・フォロワーC
さあ、いずれだ。
…個人的見解だが、正解は「どこに重きを置くか」によってくるはずだ。
例えばフォロワーCがジャンルBに対して何故苦手意識を持っているか…に何となく同意ができるのなら離れるべきはジャンルBだし、それでと作品への気持ちを大切にするならフォロワーCだ。しかしこの場合、フォロワーCから離れたという事実を再確認してしまい、共倒れでジャンルAにまで嫌悪感を抱いてしまう危険はある。
それなら「Twitter自体」が一番いいのだろう……と結論付けようとしても、Twitterに馴染み過ぎてしまったらなかなか離れるのは難しいだろう。特に創作活動をする人だと発表の場を失ってしまう。
距離を置くにしても「自分自身に取って一番大切なものは何なのか」、そこを見極めないと距離を置いても全く意味がないと私は考える。
そこを見極められずに闇雲に距離を置くだけでは、逆に「距離を置いた」という事実が枷になって、かえって未練が膨らむだけで完全に逆効果なのだ。
今回はあくまで思考実験だが、同じ状況に陥った時、「何を捨てて何を取るのか」「距離を置くべきはどれなのか」は、その時が来た際のために考えておく必要があると思っている。
……自戒も込めて。
昔、そこそこ仲の良かった男子が結構くだらない事でめちゃくちゃ叱られてグレてしまった
グレたと言っても、自習時間に机をドンドコしたり、補習をサボってバッセンに行く程度だったけど、まあうちの学校ではグレてる部類だった
彼はそのうち課題を出さなくなり、その事で他の先生にもしょっちゅう叱られるようになり、余計態度を硬化させる負のスパイラルに陥って
もともと下がっていた成績もガタ落ち、結局3浪して消息不明になった。f欄に行ったという噂も聞いたが、謎だ。
彼を叱った先生とついこの間お話しした際に、彼についての話も出たのだが、「怒りすぎちゃったなあ」と後悔していた。他にも彼の没落の原因はあったのだろうが、アレがキッカケになったのは確かだった
「宿題やったの!?」「今やろうと思ってたのに!」みたいなの、大人になってもずーっとあるよね。あんまり叱られすぎると反感や怒りが先行してしまって、なかなか自分を省みることが出来なくなる
叱られて伸びないタイプの人は、やんわりと諭してあげるのが一番良いのだと思うが、叱る側に立つと結構難しい
「叱る」とはどうあるべきなのだろう
鬼の生活指導に叱られて、不登校になってしまった女の子が中学時代いたが、彼女にとっての「叱られる」は、しょっちゅう叱られている剽軽な男子にとっての「叱られる」とは同じ叱られ具合でも全く違うものだったろう
クラスメイトの前で「ちゃんとやれよ!」と一言言う事だっておとなしく真面目な子と活発で不真面目な子とでは受け取り方が全く違う
前者の場合「先生にみんなの前で怒られた」という羞恥を引き起こす、精神的苦痛は絶大だ
本人のタイプに合わせて指導法をきめ細かく変えてやるのが一番人を伸ばす叱り方だと思うが、「人によって叱り方が違う」というのは集団に不公平感を生む
教室のような閉じた、それでいて壁のないオープンな集団の中で人によって態度を変えながら叱るのは難しい
そう考えると、何か悪いことをした子はそっと別室に連れて行き叱るのが適切なようにも思える
しかし、自分自身小学校のころよく知らない先生と二人きりの教室で隣に座って密着されながら委員会資料の作成をさせられたのは軽くトラウマなのでそれはそれで問題があるように思う
一対一での指導、は多分ロリコン教師を欲情させるシュチュエーションになってしまうし、閉鎖的な空間で上下関係が残るのも監獄実験のような状態になって「叱りすぎ」を誘発しそうだ
職員室で叱るという手もあるが、他の先生の前で叱られるというのも精神的な負荷が大きいだろう(忘れ物が酷くて何度やられたことか)
保健室で「厳しい担任の先生」と話をそばで聞くだけの「優しい保健室の先生」という二対一のお説教が思いつく限り一番良いように思う
仕事量を考えると養護教諭ではなく、昼休みだけ来る外部カウンセラー数人で回すのが風通しが良く現実的な形になるだろう
これが家庭の場合「厳しいお母さん」と「優しいお父さん」のような役回りでの叱り方になるのだろう
しかし、甘やかすだけ甘やかす父(母)に子供がなつき、損な役回りをさせられる母(父)の言う事を子供がきかなくなる、というようなケースも聞くので、適宜「厳しい」と「優しい」は交換しながらやっていく必要がある筈だ
「叱る」一つの手前でも、どちらがどちらの役割をするのか話し合う必要があるのはやや面倒だが、子供の糧になる「叱る」のためにはそのぐらいの手間は必要ではないだろうか
職場で叱るケースでも、教育係を一人に一任せず「直属の厳しい教育係」と「見守る優しい先輩」というロールで叱ってみるのも一つの手なのではないだろうか
我々は普段から「叱る」と「怒る」を混同し、ただ感情を発露させるだけの行為を目下の相手にしてしまう事が多いが、効率的に人を成長させるためには「叱る戦略」をきちんと考えて叱るべきだ
個人的に、教育現場における「叱る=怒鳴る」は論外である。怒鳴る事によって相手を萎縮させ、内省させる間も与えない行動が反省を促すとは到底思えない。
生徒、部下の立場は怒鳴られても怒鳴り返すことの出来ない立場である。おずおずと返答をしても「言い訳をするな」と一蹴される恐れがある。怒鳴る行動は対話の機会を奪うのだ。
勿論、いじめや命を落としかねない悪ふざけには少なからず「怒鳴る」のコマンドが必要かもしれない。事の重大さに気づかずヘラヘラと対話による説教を聞き流すような生徒もいる。なぜ「怒鳴る」が必要になるのだろうか。この場合「怒鳴る」はどのような効果を発揮しているのだろうか。
主観的かつブラッシュアップの足りない考えではあるが、一つの仮説がある。「怒鳴るとは上下関係をわからせる手段ではないか」という仮説だ。そもそも、動物としての観点で見ると大声とは威嚇の手段の一つである。動物のように大声を上げることで、相手を威嚇し、上下関係を再確認させるのだ。プラスして、感情をあえて大袈裟に表現することで「自分は真剣だ」と伝える意味もあるだろう。(しかし演者時点が自身の演技に呑まれる可能性はかの有名な監獄実験で示されている通りであるので、十分な精神力と慎重さが求められるだろう)
社会性動物である我々は猿山の猿のように、狼の群れのように序列に弱い。だから不真面目な相手を前にした場合、この「怒鳴る」という行為はある程度有効なのだろう。怒鳴るは相手の「話を聞く真剣さ」を+5するというようなコマンドなのかもしれない。
人間の感情は複雑なように見えて案外単純だ。悲しい時に怒る、傷ついた時に傷つける、というような行動も一見ブラックボックスを抜け出たものに見えるが、案外類型的なものである。それはピンボールの玉がピンに当たって跳ね返りながら、最終的にはいくつかの穴に収束していくのに似ている。無限の可能性を持ちながらも、個々のピンでの跳ね返り方はある程度の予測がつく。我々の行動自体が、大したパターンを持たないからこそ、我々は相手の気持ちを思いやり、共感できるのだ。
「宿題やったの!?」という言葉が子供時代の私たちにもたらしてきた感情は「後ろめたさ」「反省」「反感」である。この感情のパターンが類型的だからこそ、私たちに「先に言われるとやる気なくすよね〜」という共感をもてる。
というように、人間の感情がある程度パターンとして把握できる以上「叱る」のマニュアル化は可能ではないだろうか。
「優しく諭す」というコマンドは相手の「真剣さ」には効果が薄いかわりに「反感」の数値はあまりあげない。だが「真剣さ」の数値が低いと「反省」には至れない。
「怒鳴る」というコマンドは逆に「真剣さ」には絶大な効果を持つ、が、「反感」のポイントを高めてしまう。「反感」の数値が一定を超すと「反省」への道は閉ざされる。
前述の優しい医者と怖い医者戦略も、数値化で説明してみよう。怖い医者は「真剣さ」「内省を促す」方面に強いキャラクターであり、優しい医者は「反感」という感情に共感し、怒りを和らげ「落ち着き」を取り戻させるヒーラーのような役割のキャラクターである。
「叱る方と叱られる方」という絶対的な上下関係に、そのどちらでもない第三者を加える事で、叱り手の感情の暴走を抑えるとともに、第三者による「共感」で叱られる側の精神的負担を減らし、自分を省みる余裕を与える。
無論、感情の数値の動き方には個人差があるので、叱り手は自分のコマンドが相手にどんな影響をどの程度与えるのかを考えながら叱り具合を調節していく必要がある。 と言っても、その個人差もある程度はパターンに当てはまるように思う。不真面目だが誠実な子、真面目だが反抗的な子、結局は要素の集合体である。実際に「元気な子(そして剽軽で悪戯っ子)」「明るい子(そして優しくてポジティブな子)」「大人しい子(繊細で真面目な子)」という安易なパターン化はあらゆる人間関係において常に行われている※。タイプに応じてコマンド駆使の仕方のマニュアルがあれば、どんなボンクラでも効果的な「叱る」ができるだろう。
※これには幾らか問題がある。私のように「大人しい子(割合図太く不真面目で陰険な子)」という相反するイメージの要素を持つ人間は取りこぼされる。そして不理解な大人に失望し私は余計陰険になった。教室のような大人数を把握すべき空間では、雑なラベリングが横行して、かえって正確な人格の把握の障害となるかもしれない。ここにもいくつかの心理検査を用いた人格のパターン化による把握が必要かもしれない。
このように数値化して考える方法を主張すると必ず人の心が通っていない、愛がないという人が現れる、が、なんの考えもなしに相手の叱られた後の情動を予測せずに感情をぶちまける事の方がよっぽど動物的で、「人の脳味噌」という回路を通わない非効率不合理なくだらぬ行動だと私は思うのだが。
(だいたい愛の鞭なんて言うが、恐怖政治よりインセンティブによる動機付けの方が効果がある事なんかもう数十年前から言われているのだからいい加減卒業してほしい。)
叱る、は上手くいけばとてもポジティブな効果を発揮する。しかし下手にやればかえって人から反省の機会を奪う。説教や正論は気持ちが良すぎるので、叱り手側は容易に権力を振りかざす楽しさに呑まれてしまう。だから、叱る前に一呼吸置いて、叱る戦略を立ててみるのはどうだろう。戦略という言葉は大袈裟かもしれない。叱る前に叱られた相手の気持ちを考える、それだけの事だ。
人材育成、教育現場、家庭での指導法においては、「叱り方マニュアル」の作成も試みとして楽しそうだ。心理テストで振り分けられた生徒や人材ごとに診断チャートを作成し、それを参考に叱り方戦略を立てる。大規模に実験し調査結果を取り続ければ有効性を立証できるかもしれない。最終的にはAIが掛けるべき言葉を演算し、叱り手という演者がそれに従うようなディストピア教育が出来上がるかもしれない。AIの愛のない教育、は痛烈にこき下ろされそうだが、「データを集め、型に当てはめ、パターン化された指導をする」という一連の行動は学習行動として常日頃個々人が行なっている事であるし、そこに統計処理がより得意なAIを解すのはそれほど不自然でないように思う。
教育者には当たり外れが多すぎる。一生涯呪い殺したいようなクソもいれば、人生の節目のたびにあって感謝の意を述べたくなるような聖者もいる。マニュアルさえあればどんなクソにも一定ラインを超えた指導ができるようになる筈なのに……!と思うと悔しいばかりだ。しかし、こうなると今度は「マニュアル一辺倒の叱り方」という批判が生まれてくるだろうか。教師のマニュアル依存、なんてニュースが流れるようになるのも嫌な話である。優しい医者と怖い医者も何も知らずに信じ込めるとステキな装置ではあるが、そんなプログラムだと言われてしまうと薄っぺらさにがっかりしてしまう。マニュアル化した叱り方は叱られる側に不信感をもたらす逆効果となるかもしれない。うーん、難しい(そこまで進んだ未来だと生徒もプログラムが組まれたのをわかった上で乗れるほど慣れるかもしれない、AIカウンセリラーを利用したマインドセットが人生の基本になるのだ!←楽しそう)
まあ、今のところは感情的に怒る前に、相手の情動を予測しながら諭してあげるというのがいいと提案してみることにします。つまるところは思い遣り。プラスして、叱るときは座って目線を合わせるっていうのも提唱してみる。叱り手側も怒りをセーブしやすいし、叱られ側も対等な立場での対話であると感じやすい、と思うから。(座って足組んでる奴から立たされて叱られるのも、立った状態で目の合わない相手を見上げながら叱られるかもつまらないもの。)それと、誰かが厳しく叱られていたら、優しい第三者として「反感」や「落ち込み」に共感してあげたりね。まあ普通のことです。しかし実践はクソムズイ。人生手強いね!
(思い出話あるあるを書こうと思っていたのに、思いのほか筆が乗って長文増田になってしまった。noteにでも貼るべきだったかな、図解しながら書き直したくなってきた。ところで、25件を無限リロード中の増田様方には大変ご迷惑をおかけします、すまない。途中送信しちゃっただけなので再投稿の甘えではないんだよ!)
運転中に煽られたら、路肩に止めて110番、というのが最近あちこちに書かれている。
それに異を唱えるつもりはないが、そもそも煽られないようにした方が楽じゃね?という視点はいまいち少ないように思う。
そんなわけで、煽り歴0回、煽られ歴2回、イラっとした歴無数の増田が、
普段気を付けていることを書いてみたいと思う。
まぁ大体の人は実践してると思うけど、ペーパードライバーには役に立つかもしれない、と思って書いている。
書いてみたいと言ったが、これがほぼ全てだ。
何故イライラするか?そこに邪魔する奴がいるからだ。なので、そいつを邪魔しないことが第一となる。
肩身を狭くしながら走れ、と言われているようでムカッとするかもしれないが、
他車に配慮した運転をやろう、と書けばそうでもないのではないだろうか。ものは言いようである。
余談だが、「マイペースで運転すれば安全である」というのは、必ずしも正しくない。
マイペースで運転するということは、言い換えると他車のことなんて知ったこっちゃないという運転だからだ。
では具体的にいってみよう。
左車線は遅い車、右車線は速い車が走る、というのが原則だ。
大抵速い車は右側からブイーンと抜かしにかかる。それが法律で認められているからだ。
そんなときに右側でタラタラ走っている自動車が居たらどう思うか?
法律を守って法定速度で走っているから大丈夫?いやいや、関係ない。邪魔かどうかが全てなのである。
後続車の加速度合いがわからないのであれば、さっさと左車線に入った方が良い。
いや、お前が遅いからスピードを合わせざるを得ないだけかもしれない。
そもそもいつ後続車が来たのか、どれくらいのスピードで追いついてきたか確認しているか?
そんなこともわからないようであれば、左車線だけ走っておいた方が無難である。
後ろから来た車に気付かない、というのは論外だと個人的には思う。
なお、高速道路で追い越し車線を走り続けると、法定速度は関係なく法律違反になる。
その点からも、慣れていないドライバーが右車線を走り続けるのはお勧めしない。
法定速度50km/hの道路では、大抵の車が50km/hもしくはそれ以上で動いている。
止まるのは良い。が、その後の加速が遅いと後続車のイライラの原因となる。
法定速度50km/hの道路でいつまでも40km/hで走っていると
「なんだこいつ?」と思われるのである。
最終的に50km/hまで加速するのであれば、最初にグンとアクセルを踏んで50km/hまで加速した方が良い。
安全確認はしっかりとやろう。そのうえでアクセルを踏むのである。
大体のドライバーは、前の車だけ見て運転しているわけではない。前の前まで見て運転している。
前の前を見て大丈夫だと判断しているときに、前の車が変なタイミングでブレーキをかけると
「なんだこいつ?」と思われるのである。
メーターが法定速度を超えそうになった?後ろのドライバーにとってはそんなの知ったこっちゃない。
人を引きそうになった?そりゃブレーキを踏んでも仕方がない。
右折したくなった?ブレーキを踏む前にウィンカーを出せ。右折するならブレーキ踏むのはわかる。
周囲に挙動不審な車だと思わせてしまうような運転は、間違いなく下手な運転だ。
自分がどう動きたいのかを早めに周囲に知らせれば、周囲はそれに合わせて運転できる。
右折したいときに先に右折ウィンカーを出していれば、後続車は左に寄って避けることもできる。
ブレーキを踏んで減速して、その後でウィンカーを出していると、
「さっさと避けれたのに邪魔しやがってなんだこいつ」と思われるのである。
ブレーキを踏む充分前に、ウィンカーを出すようにしよう。
道を走っていると、左右から合流してくる車があるだろう。
それらの車を自車の前に入れてあげることもあると思うが、やりすぎると自車側の流れが悪くなってしまう。
横から1台入る分だけ、こちら側が1台遅くなってしまうのである。
こちらが優先道路であるにもかかわらず、優先して走ることができない状況が続くと
「なんだこいつ?」と思われるのである。
優先道路を走っているのなら、優先して走れば良いのだ。それで警察に文句言われることはない。
法定速度をかたくなに守ろうとする車がいる。それ自体は悪いことではない。
が、得てしてそういう車は安全かどうかをスピードだけで判断する傾向があるように思う。
スピードメーターだけ気にして、田んぼの真ん中でブレーキランプを踏んだりしていると
「なんだこいつ?」と思われるのである。
ただし近くにパトカーが止まっていると感謝されるのでこの限りではない。
法律を守るなというつもりはないが、個人的には速度より車間距離の方が断然重要だと思っている。
どうしようもなく運転が下手なら、初心者マークを貼っておくのも悪くはないのではないかと思う。
「なんだこいつ?」と思われたときに、「あー初心者なら仕方ないか」と思ってくれる余地を残しておくのである。
ただ、この辺は逆効果になりそうなところもあるので何とも言えない。
基本的には、1~6を守っておけば良いのではないだろうかと思う。
なお、免許を取って1年以上経ってたとしても、初心者マークを貼るのは法律違反ではないらしい。
ここまで書いた通り、法律を守っていれば煽られることはない、なんて言えない。
法律を忠実に守ろうとすればするほど、煽られる側に立ちやすくなることすらあるだろう。
法律は安全に走るための道具である。安全に走ることが目的なのだ。
安全に走ることを第一に、法律を守ることを第二に、くらいで丁度良いと思う。私見だが。
周囲への配慮という意味でも問題が生じがちじゃないかと思っている。
ありきたりではあるが、早めに返納できる環境であれば、返納した方が良いのではないかと思う。
こないだ東北道で若干渋滞してる時に車間距離を詰めてくるトラックを見かけたけど、
そんなもんいくら事前に注意を払ってもどうしようもない。
渋滞してる時にスピード出して逃げるとか車線を変えるなんて無理なのだ。そういう時はため息をつきながら距離を置いて見守るしかない。
個人的には、GPS付きのドライブレコーダーを警察に提出したらシステマチックに検挙してくれるシステムが欲しい。
誰か作ってくれないものか。
(追記)
「あおり運転」という名前で車の窓越しに殴る事件が盛んに報道されてるが…いくら何でも、あおり運転の定義広がり過ぎじゃね?単なる暴行だろ?
あおり運転、昔は単に「走行中に前方車両との車間をわざと詰める」だけの意味だった。今でも40代以上は、この意味で覚えてる人が多いのでは。
それが、昨今の事件のせいで、どんどん意味が広がっていき、高速道路で前方車両を追い抜いて急ブレーキ踏んで無理やり停車させたり、暴行振るうことまで「あおり運転」という名前で呼ばれるようになってきた。
「あおり運転」という名前で厳しく非難すると、ちょっと車間が狭くなっただけで、「あおり運転」認定して、後続車両を攻撃していいと思うやつが逆に出てくるので、逆効果だと思う。実際、俺はそういう変なやつに1回あった。一般道で信号待ちの時に車間狭かっただけで、前方車両に後ろに回り込まれて自宅まで追跡され、ドアを開けられ「あおり運転しただろ!」と自宅前の駐車場で怒鳴られて引きずり出されて胸ぐら掴まれた。
そういう変な正義感持ったクレーマーみたいな奴を醸成するだけだから、「あおり運転」の名前は使わずに、ちゃんと暴行って言ってほしい。
自分はとにかく顔が薄く血色が悪い。
血管が透けるほど白く、小学校一年生の時からクマが濃いので周りから心配されてきた。
色白は七難を隠すというが、幸の薄い顔だと逆効果だというのは自分が証明する。
顔が薄いということは、化粧映えするということではない。
塗ったところでほとんどの変化がない。
濃く塗れば、浮きすぎる。
モードなメイクも、コンサバな囲み目も、まつげエクステも、赤リップも
自分がすると「無理している」仕上がりになるのが鬱だった
30も近いので、百貨店で揃えた品のある化粧品を薄くつける毎日
付けても付けなくても一緒のくせに、少しでもマシになるはずと思い込んでいた
ここのコンセプトは「インビジブル」。
2/5発色のリップや、塗るとうっすら血色が良くなるチークが有名だった。
そのコンセプトに見事に合致した自分は早速カウンターへと足を運んだ。
年配のBAさんにタッチアップしてもらって、自分は初めて化粧の効果を感じることができた。
クマは消えるわけではない。
透けた血管も、紫色の唇も、塗りたくることでカバーすることはない。
ほんの少し色を足すだけで、そこから視線をそらすことができる。
全アイテム、20%程の発色のそれを顔にのせるだけで見違えるように元気な顔立ちになった。
色々購入し、そのままの顔で恋人に会った。
「どうしたの!」と驚かれて、「今日すごいいいね!」と喜んでくれた
「白目がきれいにみえる」「肌が粉っぽくない」「すっぴんでかわいい人みたい」
うれしい言葉をたくさんもらった。
そんなブランドがこの秋から販売を縮小し、来年の秋には販売を終了する。
似たようなブランドなんてない。
あのリップも、チークも、アイシャドウも、どれもこれも、どこにもない
私はまた、血色の悪い顔に濃い粉を塗る日々に戻るんだろう
CHICCA、どうしてなくなってしまうの
俺は人の狂気が好きだ。誰にもわかるように狂人のごとく発露した狂気ではなく、冷静さの内に潜む狂気が良い。目的のために手段は問わない、普通なら選べない選択肢を躊躇なく選ぶ、その先に破滅が待っているとわかりながらも突き進む、そういう狂気が好きだ。
ただし、狂気が打算的ではいけない。目的のためには狂気的な計算高さを発揮しなくてはいけないが、狂気に浸ってはいけない。目的のためにただただ純粋にいなければならない。そういう100%の狂気が愛おしい。
例えば恋愛なら、ただのストーカーのような狂気はダメだ。ストーキングは手段の一つとしてありかもしれないが、相手に自分の存在を明かすようなことは逆効果で、そんなただ欲望のままに相手を追いかけているだけでは狂気とは言えない。絶対にそれとわからないように圧倒的なまでの情報を集め、さも常識人のように相手に近づき、情報を元にした策略で、時間をかけて囲い込み相手を落とす、そういう愛が良い。
恋愛は例えの一つだが、とにかくそういう狂気が愛おしい。人であると感じる。その狂った思いに人間性を感じるのだ。理性を残したまま狂ってこそ人間らしい。知性によりもたらされる最高の美しさがそこにはある。
女が上方婚ばっかするから、男は結婚から降ります!とか言って遠回しに女をディスるのが流行ってるけど
本気で女の上方婚やめさせたいわけじゃないんだな、つーか逆効果でお前ら弱者男性には余計寄り付かねえよと思ったりするんだが弱男はそのあたり気がつかないだろう。
それこそ弱男が弱男でしかないことを表してる。周りで見ててミソジニーすごそうだしわざわざこっちから降りて行ってやる必要ないじゃんってのが女の意見。
お前ら弱男がやるべき手法は
下方婚女性をひたすら讃え、褒め、社会的に立派な人間であるとして持ち上げることだよ。
なんで女が上方婚目指すかってそんなのうまくやったら周りから羨ましいとか親からは安心だとか言われるからだよ。
下方婚したらどうだ?誰にも羨ましがれないどころか痛くない腹を探られる。自分の評価が落ちるのw
夫に貢いでるとか言われるんだぜ?騙されてるとか、ダメンズが好きなの?とか。
一切いいことない。
下方婚者を増やしたければ、それが価値がある目指すべき事だと世間一般に認識されなければならない。