2019-09-06

「嫌だと思ったら距離を置け」に対する思考実験

最近、主にTwitterだが「界隈や人が嫌だと思ったら距離を置け」と言われがちである。まあ、それは正しい。合わないものに無理にしがみ付いて心が折れては元も子もない。

…では、例えばの話。

この場合、「距離を置くべき」ものはどれなのか、思考実験をしてみたい。

自分自身の中で「好きなジャンルA」「好きなジャンルB」と、複数の好きなジャンルがあるとする。

そしてジャンルAが好きなフォロワーCと繋がり、いいねやリプ等のやり取りもするようになる。

しかしその後、フォロワーCが「ジャンルBが苦手」であることを公言……所謂地雷」だと判明する。

それが判明することで「これはフォロワーCの地雷だ」というフィルターがかかり、気付けば「ジャンルB=フォロワーCの地雷」だと刷り込まれ、徐々に自分自身ジャンルBに触れられなくなっていく。

ここで「フォロワーCをリムーブなりミュートなりすればいい」と思った際に沸くのが、「でもフォロワーCによるジャンルAの話は読みたい」という感情だ。ジャンルAを楽しむためのモチベーションの一つとしてフォロワーCにやるジャンルA話の存在がある場合フォロワーCを切ることでジャンルAへの気持ちが薄れてしまうかもしれない。

勿論他人の好みと自分の好みは違う、と切り離して考えられる人もいるだろうが(むしろ本来は切り離して考えるべき点だが…)、いずれかとは距離を置かねば自らの「好き」を保てない…となった場合、この段階で距離を置くべきは果たして

ジャンルA

ジャンルB

フォロワーC

Twitter自体

さあ、いずれだ。

個人的見解だが、正解は「どこに重きを置くか」によってくるはずだ。

例えばフォロワーCがジャンルBに対して何故苦手意識を持っているか…に何となく同意ができるのなら離れるべきはジャンルBだし、それでと作品への気持ちを大切にするならフォロワーCだ。しかしこの場合フォロワーCから離れたという事実再確認してしまい、共倒れジャンルAにまで嫌悪感を抱いてしま危険はある。

それなら「Twitter自体」が一番いいのだろう……と結論付けようとしても、Twitterに馴染み過ぎてしまったらなかなか離れるのは難しいだろう。特に創作活動をする人だと発表の場を失ってしまう。

距離を置くにしても「自分自身に取って一番大切なものは何なのか」、そこを見極めないと距離を置いても全く意味がないと私は考える。

そこを見極められずに闇雲に距離を置くだけでは、逆に「距離を置いた」という事実が枷になって、かえって未練が膨らむだけで完全に逆効果なのだ

今回はあくま思考実験だが、同じ状況に陥った時、「何を捨てて何を取るのか」「距離を置くべきはどれなのか」は、その時が来た際のために考えておく必要があると思っている。

……自戒も込めて。

  • 距離を置けという考え方から距離を置け

  • 腐女子の他人の楽しみを規正しようとするモーションマジで気持ち悪いから見えないところでもやめてほしい

  • きみが距離置かれてそう

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん