はてなキーワード: 逆効果とは
昔女オタクが男から叩かれてひどい目にあったみたいな話もあるんだけど、それは2chとかニコニコ動画のコメとかで声が大きい人がヤバいって話で、大半のオタクは当時の(そして今も)常識だった荒らしは無視の方針を決め込んで結果的にいじめられてるのを助けなかった印象を持たれてるだけだから(宇崎ちゃんを擁護してる女オタクたまにいるけどその勇気には感謝してる、ただ自分はほかのコンテンツが叩かれてるときに真似できそうにないし、それは大半の女性もそうなんじゃないかな)。
これなー。「荒らしは無視」本当にそれが良かったんだと思う。自分はそれができなくて、ミソジニー発言を見つける度に突っかかって行ってたんだが、逆効果だったのかなぁと。
そもそも中学生とか高校生とかそれくらいの年齢だったし、自分も馬鹿だったから、今思えば擁護すら雑で無意識に傷つけた女性すらいただろう。
いま擁護してくれている女性、全力で怒ってくれる人もいるし、すごくありがたい。そして何となくいいなと思うのが、「話題の宇崎ちゃん読んだー。面白かったー」みたいなことを呟ける人。いまこのタイミングで、あえて。
伊坂幸太郎の魔王って小説で、「クラレッタのスカートを直しに行く」ってあるじゃん?あれを思い出す。(余談だけど大須賀めぐみの漫画版は神。)自分も最近は、何かしらの差別集団を見た時、そういうことが出来ないかって考えてる。ここでどういう水滴を落とせば波紋を広げられるのか。反論に全力を尽くすというよりも、「どうすれば"流れ"を変えられるのか」を考えてる。それがどれだけ意味のあることかわからないけど。
現代において、血液提供は、いかなる場合も「自発的かつ無償」でなされるべきです。また血液提供者へは「強制すべきではない」とされています。その論理によって「血液提供者がその自由意志により全血、血漿あるいは細胞成分を提供」することが求められています。これらを満たすことによって「自発的」意志決定と定義されています。
献血は自発的な意思決定で行われるべし、という事ですね。なるほど。
『宇崎ちゃんは遊びたい』(以後、宇崎ちゃん)と言う作品は、いわゆる「ウザカワ」作品ですので、圧迫型のセリフが多く、血液提供者の自由意志への圧力的干渉が避けられません。勿論このポスターでは、干渉が成功するかと言えば、実のところほぼあり得ませんので、広告として余り意味がありません。むしろ逆効果であり、広告宣伝では、典型的な失敗と言えます。
意 味 が 分 か ら な い 。
という訳で、分解して少しずつ読解してみる。
『宇崎ちゃんは遊びたい』(以後、宇崎ちゃん)と言う作品は、いわゆる「ウザカワ」作品ですので、圧迫型のセリフが多く、血液提供者の自由意志への圧力的干渉が避けられません。
圧迫的干渉が成功しないと広告として意味がないのかよ!!!!!!!!!
圧迫的干渉はよくないよって話じゃなかったのか・・・なんなんだ一体・・・。
逆効果っていうのはつまり、あのセリフではホイホイされない、むしろ避けていくという意味だよね?本当に逆効果なのかは知らないけれど、少なくとも牧田氏の中では逆効果なんだよね?
だとしたら、牧田氏の脳内ですら血液提供者の自由意志への圧力的干渉めっちゃ避けられてるじゃん。後段で述べられてる“同調性圧力”みたいなパワー、全然ないじゃん。
あとそれ、話の流れからして「広告宣伝では、自由意志への圧迫的干渉ができてこそ成功と言える」と述べてるに等しいんだけど、気付いてます?
結局、ポスターのセリフは圧迫的干渉ではないってのが真実なのに、それじゃ困るからってこんなわけのわからない論理展開しちゃうのはどうかと思います。
ネットに激増している「幼児の性的虐待」の実態 虐待画像や映像の数は過去最高に https://t.co/hweOtVxygg
「捜査は感情的にも心理的にも非常に負担が大きく、やめる人が後を絶たない」。実在児童への性虐待という地獄と向き合うよりは、二次元萌え絵を叩いて回る方が精神的にずっとラクなんだろうな。— ClaraKeene (@clarakeene) 2019年10月23日
こういう悲惨な現実を無視して、二次元規制に血道を上げてるのが国際児童保護団体という連中の実態なんだよ。特にECPATとかがそう。日本でも散々実在児童保護の邪魔したし、国連に創作物規制をさせようとした。https://t.co/PooQxk9tBB— 高村武義 #WalkAway (@tk_takamura) 2019年10月26日
https://toyokeizai.net/articles/-/309872
目的が本当に「思考停止してほしくない」というのであれば、「思考停止せずに」と書かくことは逆効果です。
「思考停止せずに」と書くと、相手はあたかも「思考を停止し、何も考えずに相手を痛めつける目的で言葉を発している奴」とラべリングされたと感じてしまい、余計にあなたの言葉のアラを探すようになって内容が届かないからです。(しかも相手は一人ではないのです!その多様性を無視して一人に諭すように言っても無駄です。)
こういった相手への伝え方や議論の仕方ついて、心理学に詳しい増田から本記事への言及がありますので、そちらをご参照ください。またその心理についてや過去事例・歴史事例の参考資料などはブクマカが提示くださいますので、そちらも併せて参照いただければ幸いです。
宇崎ちゃん関連のニュースで”献血に行くのは男性が圧倒的なので男性をターゲットにしたキャンペーンの展開頻度が高い”という記事を読み、マーケティングとしてはそうだよなと納得した。献血ルームで女性が少ないと思ったことはなかったが、おそらく女性看護師が多いからなのだろう。
女性で全血400mlしかやらない(一度体外に出たものを戻すのはなんか嫌)ので年に2回とかだけど、初めて献血に行った時の血液の検査結果が我ながら非常に素晴らしく、これを何かに活かしたくてここ数年献血に通ってる。
まあまあの二次元オタクなのでコラボグッズ目当てに行くこともある。献血に行く女の一人として、あのポスターの感想を書く。
まず最初に思ったのがこれだ。正直このセリフについては、赤十字は謝罪を出したほうがいいと考えている。
私もかつては献血未経験者であり、初めての献血へのハードルの高さはよくわかる。おそらく、献血を躊躇する人たちの一番の理由は”針を腕に刺す”ことだと思う。
自分の身体を傷つけることに感じる嫌悪感は本能的なものであり、食べ物の好き嫌い等の趣向的なものとは次元が違う。それを揶揄するような言葉を献血未経験者に投げかけたところで、”献血に行こう!!”と思えないのではないか。
ツンデレな彼女の挑戦的な台詞は、元来のファンには受けるのだろう。しかし、宇崎ちゃんを知らない人には逆効果だと思う。
もう一つ、このセリフについて忘れられている視点がある。あの台詞は既存の献血常連者の思いも無碍にしている。
献血の針が怖いというのは、献血をする人なら少なからず思っていることだ。
献血の針は検査用の針より太いし、少なくとも10分はその針を体に刺したまま。何度か通って多少慣れた私でも針を刺す時は緊張する。じーっと見てしまう。
それでもなんで献血に行くかって、やっぱり患者さんを助けたいからだ。みんな程度の差はあるかもしれないけど、献血に行く理由の一つだと思う。かつて自分の一部だった細胞達には、十分に働き輸血者の役に立ってくれと念じているし、見ず知らずの誰かがこれで少しでも楽になるといいなと思ってる。
前述の通り、身体に針が刺されることに抵抗があるのは本能的なものだ。針は怖いけど献血に通っている人には”注射が怖いんスか?”は、何当たり前のこと言ってんだコイツ、とちょっとイラッとくる。赤十字には、この点について事前にもっとよく考えて欲しかった。
ここまで書いておいてなんだけど、ipadでちまちま打つの疲れた、、、
これについてはいろいろなツイートやブログでよく触れられているので、主張だけ書いて割愛したい。
余談だが、あのイラストは3巻の表紙らしい。1巻の表紙には全年齢な可愛い宇崎ちゃんが描かれている。胸についてはそれが特徴なんだなと大した印象もなく、可愛いな、としか。なぜ3巻の表紙を選んだのか純粋に気になる。漫画好きとしては、こんなバズり方じゃなく宇崎ちゃんを知りたかった。純粋に作品として見たかったなと思ってる。
「片山さんは浩太朗さんと同級生なんでしょう。人柄はよく知っているんじゃないかしら」
「小学生のころのコータは知っているよ。でも大人になってからどんな風になっているかなんて分からないだろう。」
穏やかに語る片山を見ながら、暴れだしたい気分になった。酒を飲んですでにべろんべろんになっている。小学生のころカタブツだとおちょくっていた片山は社会人になってからも相変わらず堅物で、不真面目だった俺は相変わらず不真面目なつもりでいるのに「鰯野さんの仕事ぶりは真面目」というクソみたいな評価を得ている。
気がかりは浩太朗のことだ。小学生のころは愉快な奴だと思っていたが、傷害事件を起こして逮捕されたとき「俺は鰯野の知り合いだ」とわめいたらしい。デモの時におまわりの前でチ◯コを出して逮捕された俺の名前を出せば警察がひるむと思ったらしい。馬鹿野郎、逆効果だ。俺から警察から袋叩きの目に遭わされたことが勲章になっているが、それが致命傷になる人間がいる。それが分からないほど馬鹿だったか。
「まあ、警察の人権侵害なんか今に始まったことではないでしょ。浩太朗さんのことを信じましょう。」
俺はあたりさわりのない言葉で論評する。浩太朗が獄中で人権侵害だとわめいているのに俺が人権侵害だと言わないわけにはいくまい。
浩太朗が警察の取り調べのあとに反警察に振れるかどうかは気がかりだ。それなら反警察のシンボルとして生きる道もあるだろう。しかし、そうではなくて「もうこりごり」となった挙げ句、常識人を気取って「鰯野、警察なんか敵に回すもんじゃないぜ」と言い始める気がする。そうなれば俺は浩太朗を殴らざるを得ない。
そんなことを考えながら酒を煽った。いろいろ言いたいことはあるが、「仕事がいい加減だ」と片山に3時間説教されたので議論する気が起きない。あとで匿名掲示板で暴れれよう。ちくしょう。俺はなんで真面目だとか言われるんだ。
俺はおっぱいを協調したポスターくらいは許されてほしいと思ってるし、
オタクの皆さんはそういうのに何か言われるとすぐブチ切れちゃうじゃないですか。
それってすごい逆効果だと思うんですよ。
おっぱいを協調したポスターを貼って欲しくて屁理屈こねてブチ切れてる人は
あと全然エッチじゃないんですけど〜?みたいな言い訳してんのもキモいし
エッチさをそんな必死に否定したらエッチなことはいけないことという敵の論を強化しちゃうじゃないですか。
だからみんなもっとヘラヘラして別にエッチでも良くない?笑みたいなテンションでいてもらって
はてな匿名ダイアリーにおいてパート2というのはアリなのでしょうか…? 文化が分かりません。もし痛々しいようでございましたら申し訳ございません。
以前投稿した記事(https://anond.hatelabo.jp/20190926105149)にて私見を交え自分の持つ症状について解説いたしました。が、「タイトルとイメージが違う」とのご指摘がありそういえば元々は自分の人生について書いてみようとしたのだということを思い出しました。前振りだけでいい具合にまとまったのでそれで良しとしてしまっていました。
というわけで本題の発達障害者である私の自分語りをさせていただきます。自閉症と多動症を持って生まれた私がいかように生活してきたのか、振り返って書き連ねていきます。詳しい症状につきましては省略いたしますので、不明点がございましたら上述の記事を参考にしながらお読みください。
出生の頃から追って話しましょう。さすがに私の記憶は流石に薄れていますが、当時から私が育てるコツのいる子であることは母には察しがついていたようです。
目を合わせて話さない。集団行動ができない。特定のモノに極めてこだわる。このような特徴が見られたようです。もちろんこれらは赤ん坊であるならば持っていても変ではない特徴も含まれますが、私の場合は幼稚園年長くらいまで続いていたらしく「他の子とは明らかに違っていた」と言います。
集団行動の苦手さを表す具体例としては、前回の記事にも書きました幼稚園から脱走していたことが主だったモノとしてあげられます。とにかく放っておくといなくなる。あまりにいなくなるものだから、見失わないように私だけ違う色の帽子を被せられていたり園長先生が抱っこして確保していたり特別な措置が取られていました。「差別的ではないか」と保護者会で話題になったとか。まぁ当の両親は正しい判断であると先生にいたく感謝をしていたようですが。
まぁ幼い子であれば”ひょうきん”だとか”手のかかる子”という表現だけで済むのです。迷惑はかけましたが面倒な問題にはなりませんでした。
ここであげておきたいことが”目を合わせて話さない”という点とそれに対する母の対策です。
子供は成長しながらコミュニケーション能力を身に着け、その一環で「目を合わせて話す」ということの重要さを学ぶものです。大人の真似をし、後々意義を理解するというのが発達の基本ですからコミュニケーション能力もそうやって身に着けるのでしょう。
ただ私はとにかく誰かが話しかけてもそちらの方を見ないし、私が誰かに話しかけるときもこちらを見ない。私には会話中に相手の顔を見るという発想がなかったらしいのです。おそらくですが、やる意味は分からなかったのでしょう。「そういうものだからそうする」とか「みんなそうしてるから」といった発想は私には薄いのです。ゆえに真似をせず、発達が遅れる。この性分が字のごとく発達への障害になっています。
今思えばこちらを見ずに話しかけるサマというのは、やや気味の悪いように見えたことは想像に難くありません。
この悪癖を放っておいたらいけない、と母が実践したことが「とにかく自分から顔を見て話す」ということ。
子は親を見て育つ、それで覚えないならもっと見せていくしかないという発想のようです。とにかくちょっとした会話でもしゃがみ込んで目線を合わせる。呼びかけられたら自分から私と目が合う位置に移動する。意図が分かりやすいよう、たまに口でも「目を合わせて話してね」と言う。母の行動は徹底していました。
そうしているうちに、私は目を合わせて話すようになったんだとか。
つまるところ、覚えが悪い子もちゃんと教え込めば理解できるようになるのです。特に口で言うことは大事です。「こっち見てくれないと誰に言っているのか分からないから」など理由もつけましょう。意義が理解できればやるようになります。言い過ぎると逆効果という例もありますから、難しいところではありますが…。
また今更なのですが、ハッキリ言って私は親に恵まれています。「うつ病ブログ見てたら”恋人が助けてくれて~”とか書いてあった」とか「食費節約の記事見てたら”米は実家から送ってもらって~”とか書いてあった」などに近い事案かもしれません。ご了承ください。うつ病患者にとっての恋人とか、米を送ってくれる実家みたいな存在に自分がなるんだという気持ちで知識をつけることにこの記事が役立ってくれるなら幸いです。
問題が徐々に起き始めるのはこの頃からです。先生から露骨に出来ない子という扱いを受け、いじめを受けたりいたします。もう”ひょうきん”で済む年齢は終わってしまったのです。
実際私は色々なことができませんでした。運動は大の苦手で、漢字テストは毎回落第し、常識はずれな行動も多く、そして正直に色々言い過ぎます。私としては何がなんだか分からないまま先生に怒られ続ける日々でした。本当に何がいけなかったのか分からないので、具体的な問題の例を挙げられません。ただ先生から見たらよほど出来の悪い子だったのでしょう。そんな私がクラスメイトに標的にされるのは自然なことでした。
いじめのトドメになったのは噛み癖があったことです。どうも私は触覚に安らぎを覚えるようで、自分のモノは噛みたくなるし顔にこすりつけたがります。鉛筆他色んな所有物をよくかじっていました。正直言って、これに関してはいじめられる側の原因と言えます。
私に触れることはアウト、私の触ったモノはアウト、しっかり拭けばセーフになる。他の生徒からはそのような扱いを受けていました。
さてまぁ壮絶な過去に見えますが、我ながらこの時期はずいぶん気丈に過ごしています。
まず絶対親にこのことを言いませんでした。というのも、大事な人が傷つくのは嫌だったのです。偉いとか優しいとかではなく、それが破ってはいけないこだわりの一つだったのです。
学校でいかように過ごしていたかと言えば、とにかくクラスメイトに話しかけました。嫌な顔をされたりするのは当然ですし、拒絶された記憶もいくつかあります。
なぜそんなことをしたかと言えば、話していい人と悪い人を判断するためです。クラスメイトが全員いじめに参加していましたが、それが全員の本心というわけでもないのです。心底私が嫌いな人、みんながやっているからいじめに参加している人、実はほぼ嫌悪感を持っていない人など色々います。なんというか、これが分かっていないと学校生活で困るのです。分からないことや授業中など、学校生活では会話は必ず必要になります。ですからこの人は話しかけていい、この人は絶対ダメという判別をする必要があったわけです。給食の配膳なども私が配るものを受け取る人受け取らない人がいるので、それも覚えていた方がスムーズでした。
それで大丈夫だったのかなんて思う人がいるかもしれませんが”私に触ることはアウト”なので殴る蹴るは絶対にされないわけで、だから私もこのような行動をとっていました。ちなみに話しかけていい人にも必ず距離を置いて話していました。これらのおかげで嫌悪感をぶつけられることも減りましたし、触らなきゃ話せる相手もできたので大成功だったと言えるでしょう。
今思うと自分でもやや呆れる行動ですが、このような割り切った行動ができるのは発達障害者の強みだと理解しています。
ちなみにダメージが無かったかと言えばまったくそんなことはなく、ストレスが振り切れて”触ったらアウト”をということを使って逆襲したりもしました。本気で泣かれたことがよりショックで私も泣きました。発達障害者も人なのです。無関心でいられるのはよかろうとも嫌悪は精神的に来ます。
はてさてそんなのが一年ほど続いて、私の噛み癖も抑えられた上にクラス替えでいじめがウヤムヤになった頃の話です(子供のいじめなんてそんなものです)。
いじめが無くなったとはいえ、私が色んな事が出来ない状況は変わりありません。未だ先生の心証は良くなかったようで、三者面談では母が怒りかけるほど小言を言われたそうです。
これではいけないと判断した母は育児について調べ初め、発達障害について知るやいなや私を児童精神科に連れていき、正式に診断を受けることになりました。診断結果を話した結果、先生の対応は一変。連絡帳を通してたくさんの配慮をしてくれるようになったそうです。
診断を受けるということは自分が症状を理解することはもちろん、相手に配慮を求めることにも役立つのです。
私の母などもそうですが、先生の態度について色々思うことがある人もいるかと思います。ただ実際にいじめを目の当たりにしてできることはあまりにも少ないですし、しつけのなっていない子が存在するのも事実です。ですからやはり自分で自覚して問題を起こさないためにも、ただ出来ない子と思われないためにも診断は大事なことなのです。診断には強い説得力があります。少なくとも小学校教師になれるほどの英才の方であれば、医師の判断の重大さは分かるはずです。
さて通院や教師の配慮を通して自分が他の子とは違うことを十分に理解し、列から抜け出さないとか家に勝手に帰らないだとか当たり前のことは覚えながら成長していました。大人の方はみなそうですが、私の問題を挙げても存在否定はいたしませんでした。今自分のことが大好きなのはこのおかげであると考えております。
中学生になった頃には自閉症的な特徴がプラスな要素になることも多くなっていました。他人に無関心という点などは特に強かったですね。
なにせ中学校はけっこう面倒な社会です。どこのグループにいて、誰と誰が喧嘩して、あいつはどこに受験して、あの先輩はあんなことしてて…などなど。面倒です。そして誰もが面倒と思っているのに、多くの人はこの面倒な風評を気にしてしまいます。ただ自閉症患者としてはこれは本当にどうでもいいことなんですよね。立ち位置とか気にするの面倒なのです。知らんわ。
そういうわけで私は特定のグループにいることはなく、基本的に面白い人なら誰だろうと話しかけていました。それのおかげか誰とでも平等に話すなどと評価されることが多かったです。よく気軽に話せるなどと言われました。あとは趣味に偏見がなかったのも大きいでしょうか。バント、小説、アニメにスポーツ、変わったところではジャニーズなどの話を聞いていました。自分が知っているわけではないものも多くありましたが、楽しく話せる分には何でも歓迎でした。しがらみがない人間というのは中学校においてはとても貴重な人材だったのでしょう。ゆえに”他人に無関心”はお気に入りなのです。健常者に自閉症マウンティング取れますね。
また他人からしてみれば強烈に個性的に見えるようでけっこう人気がありました。良くも悪くも目立つ人だったのでしょう。
さてかなり上手いこと発達障害を個性にできたと書けば見栄えは良いようですが、決して楽なだけではありません。
とにもかくにも自己分析を続ける日でした。「お前は客観視ができない」と両親からひたすら言われ、客観視とはなにかから始まり自分がどういう特徴があるのかズラズラ考え続けていたものです。あるモノにどういう特徴があるか知る時の基本は、他のモノと比較することです。障害の本もいくつか読みましたが、自分は平気でやるが他人がやろうとしないことを色々見て知ることが一番客観視につながったのだと今では思います。まぁおそらくそんなことは小学生の頃にやっておくのが一般的なのでしょうが…。
意義が分からない限りやらないのが私でございます。自分を理解しないと人に迷惑をかけることになると知って、ようやくこういったことを始めたのです。
まず自分が失礼なことをたくさん言う人であると理解いたしました。ウケ狙いとかではなく、何とも思わず指摘するのだからタチが悪い。特に女性の容姿については言うべきではないと学びましたね。
それに自分は集中すると周りが見えなくなるし、やると決まったことは徹底的にやるし、陰口は言いたがらないし、ツッコミで強く手を出しやすい方だし、婉曲な言い方が理解できない。こういうことをとにかくたくさん知りました。この記事を書くこと自体も客観視の一環ですね。
しっかり向き合ってみれば結構分かるものです。ただまぁ前回の記事の通り「~~という特徴であるらしい」とか上手く自覚の出来ない特徴も多くありますが。ただ、これを知るだけでも行動は変わるものです。怒られたり驚愕されることはずいぶん減りました。
月並みではありますが、大事なのはとにかく障害に向き合うことです。なんでも知っておけば「あっこれやったらダメかも」と分かるモノです。「これはしちゃダメ!あれはしちゃダメ!これはしろ!」といったようにルールを決めるのではなく、特徴を知ってその都度対応しましょう。ルール決めが必要な時があったとしても、第一優先はそこではありません。
ここまで書いて気付きましたが、中学校でのエピソードに欠けていますね。強いて挙げるなら友人がバカにされてハチャメチャに怒ったことでしょうか。
やけに他人を見下す阿呆がいまして、彼奴が私の友人を散々に罵倒したと聞いて教室に殴りこんだことがあります。結局ロクな解決にもなりませんでしたが、他人に無関心というのは「他人がどうでもいい」のではなく「自分が好いている人以外がどうでもいい」のだと知ったキッカケです。友人は他人に入らないらしく、むしろ思い入れが強いのかもしれません。
前回の記事で発達障害者がストーカーになったなどと反応がありましたが、なるほどと少し納得いたしました。
高校時代についても書こうと考えましたが、エピソード不足でありますし少し疲れたのでここで筆をおきます。
さて前回にて「アスペで友人がいるなど詐欺だ」などという反応がございましたが、実のところ私も不思議に思っていた時期がございます。おそらくはとにかく正直で、フラットで、好きな人にはそれなりの接し方をしていたからではないかと結論付けています。20年生きてきて分かりましたが、正直は美徳と言うわりにそういった人は案外少ないものです。外面を固めるのが上手い友人が私の前では豹変したようにドサドサとキツイ言葉を吐くサマは中々愉快でございます。私が楽しいから友人といるのと同じく、彼らも私といて楽しいからいてくれるのでしょう。友人への敬意と多少のユーモアがあれば、あとは個性として楽しまれるのではないでしょうか。
記事の中では母についてはいくつか触れましたが、父の出番はありませんでしたね。というのも父は私のことを本当に放っておいたのです。好きなことをしていればそれでいい、とそれだけは言っていましたが強く干渉することはありませんでした。実際に父も自分の好きなことをたくさんしていました。食事が大好きで今ではメタボなほどですが、誰の忠告も無視してまだ食べ歩きを続けています。子は親を見て育ちます。私が自分に正直に、好きなように生きているのは父が影響しているのでしょう。結局両親ともども私のために色々してくれたのです。
ご参考になれば幸いです。
夫多分捨てられたくないんだろうね 逆効果で笑うな
自分の特徴の一つに、大体何をしてもすぐに人よりうまくなるというものがある。
歌、絵、カメラ、スポーツ、乗り物、勉強、仕事、、、などなど、これといって始めればうまくいかないなんてことはない。
でも、最近ではそれが原因で人生が息苦しくなってるんじゃないかなって思うようになった。
自分より下手な人間には嫉妬され、自分より上手い人間には見下されていることに気がついたのだ。
大体コツを掴んでSNSで発表すればいいねが人より沢山集まる。
すると最初のうちは「○○さんすごーい。わたしもがんばてみてるけどそんなにうまくできなーい」とお世辞を言われるのだが、気がつくと「大して努力もしてない人間がちょっとうまくなった程度で調子に乗っている」とか陰口を叩かれるようになる。
誓ってもいいが人を卑下するようなことは言わないし、人前で(物陰でだって)自慢するなんてことはない。
ただ、自分の中ではうまく行っていることが楽しいので、次々に写真を撮っては世に出し続けている。
そうすれば自然と失敗もするし、失敗をすればどうしたらうまくいくかを考える。それが上達の必須条件だと自分では考えているからだ。
そうなると人に紹介されるとき、写真の上手な〇〇さんというような紹介のされ方をするようになる。
自分ではそれほど上手だとは思っていないので、「好きでやっている程度です」と割と本音に近い言葉を返す。
さて、困ったのはそれからで、そういう紹介をされるとどこからともなくとてつもなく上手な人が現れたりする。
わたしのことは上手な人間だと紹介されているので、まずはどんなものかと品定めから始まる。
当然そこでもはったりをかましたり上手い人の作品を知ったような口で語りだすこともない。
素直に誠実に、今自分が取り組んでいることや相手の作品から感じ取ったことなどを口にする。
するとやはり最初のうちは「すごいですね。趣味の範囲を超えていますね」とかお世辞を言われるのだが、これもまた気がつくと「確かに上手いけど、プロならあれくらいは当たり前だしずばぬけてセンスがいいわけではないね」などと自分がいないところで言われるようになる。
別にプロになりたいだなんて思ってもいないし、楽しいだけでやってるのだからセンスだとかなんとか言われる筋合いはない。
しかも腹立たしいことに、そうした陰口の類はいつも同じ趣味を楽しんでいてくれるわたしの親友がいる席に限って話題に挙がるのだ。
親友はどちらかというと何をしてもあんまり上達しないタイプだが、いつもわたしに色々な趣味の話しを持ってきては一緒にやろうと誘い出してくれる。
この親友がいなければ、自分ひとりではこれほどまでに色々な趣味を経験することもなかっただろう。
だからこそ、わたしがいないときに限って親友にそんなわたしの陰口をいう人間が許せないのだ。
今回写真を辞めたときも、親友は泣きながらわたしに電話をくれたことがきっかけだ。
なんとなく趣味でつながった人間同士で集まった、わたしが参加できなかった食事会のときの話だ。
わたしの陰口を聞いてしまったことがショックだったと、涙ながらに教えてくれたのだ。
これだけどこにいっても人からうらまれるのだから、何か自分では気づいていない大きな原因がわたし自身にあるのだろう。
もしかしたらしらずしらずのうちに人のことを傷つけるようなことを言っているのかもしれない。
だからといって、どうしてそんなことをわたしの親友に告げ口する必要があるのか。
わたしと親友の仲を裂きたいなら逆効果だとどうしてわからないのか。
「酒飲みに『酒を飲むな』と怒るのは逆効果」だと、
悩んで求めた情報のほぼすべてに書いてある。
「怒るな」「責めるな」は不可能なんだよな。わたし菩薩じゃないし。
怒らないように気をつけられる日もあれば、怒って大喧嘩になる日もある。
ここ数日、うちの旦那は
依頼された原稿も遅れて、
SNSで大暴れして、
知人と喧嘩して、
家族であるわたしは家にいることに耐えられず、避難(外泊)したりしている。
「本人もつらい」そんなこたあ、わかってる。
頭では。冷静でいられているときは。そりゃそうなんだけど。
「酒のせいだ」って本人も薄々気づいていることに自ら蓋をして、
だましだまし生活している。
数年前に別居して、その間もずっと悩んでいて、
何度も何度も、お酒の問題で泣かされたり問題を起こされたりしていて
別居のままでもしんどくて、
とうとう1年前に「酒をやめるか離婚するか選んでくれ」と伝えた。
そしたら、今まで見たことのない態度でまっすぐに「お酒をやめたい」と言ってくれた。
ようやく少し蓋があいたかな…と思って、最後のチャンスを与えるつもりで同居に戻した。
数ヶ月でほぼ元通り。
「今までと同じ飲み方を続けたいならもう別れよう」って何度もお願いしているのに
「そんな話には乗らない」と、向き合ってもくれない。