はてなキーワード: 貴族とは
仕事が終わって帰宅すると「おかえり」と玄関まで来てくれる美人でも無ければブスでもない、いかにも普通の妻を見て自分に本当に釣り合っているなと実感する。
小学校、中学校、高校と男子の好みは多様だった。たまたま隣の席になった女子。電車でいつも同じ時間に乗る女子。家が近所の幼馴染。クラスの男たちで好きな女子の話をしていても様々な名前があがるし、外見や性格も様々だ。
男子が雨夜の品定めのようにたくさんの女子の名前をあげる一方で女子の視線はクラスで一人か二人の男子、つまり主人公に注がれている。小学校ではスポーツ万能な男子、中学校ではイケメンな男子、高校以降は学力などのレベルにもよるが大抵勉強も運動もそこそこでき、爽やかな顔立ちに少し長めの髪、そしてバランスの良いスタイルをもった男子だ。彼らは主人公なので、朝の何気ない挨拶や廊下でのすれ違い、仕草などちょっとした言動行動が全てフラグを立てる。そしてフラグを立てまくった中から容姿も性格も優れたヒロインを選んでカップルが成立する。感動のラブストーリーだ。この構図は以降の大学でも職場でもずっと変わらない。
では雨夜の品定めをしていた光らない男たちと、ヒロインになれなかった女性たちはどうなるのか。理想のラブストーリーを夢見ていた彼らも高校卒業の頃には自分たちが脇役であることを自覚する。そしてそれぞれのコミュニティの中で「好きじゃないけど無理じゃない異性」とうまいことマッチングして失った日々を取り戻すべく必死に恋愛ごっこを楽しむ。「この男性は顔は悪いし年収も低いけどスタイルが良いし面白い」「この男性はスタイルは悪いけど顔も性格も悪くないし仕事が安定してる」「この女性は笑うと歯茎がむき出しだけど、太ってないし優しい」「この女性は寸胴で平安貴族みたいな顔だけど料理もできて気も利く」という風に自分のなかで我慢できるところやメリットをなんとか探し自分を納得させる。やがて結婚し、脇役を再生産していく。こうして世の中は回っている。
現実として小中高と好きな子やヒロインと結ばれず風早くんではなかった僕は、好みではないけどそれなりに小綺麗で愛嬌のある穏やかな性格の妻を選んだ。黒沼爽子になれなかった(大学生や社会人の時に風早くんの気まぐれや暇潰しで遊んでもらったことはあるのかもしれないが)彼女は風早翔太くんではないが清潔感があって常識的で仕事も堅実な僕を選んだ。そして二人は結婚した。
これが不幸なことだとは思わない。なぜなら世の中のほとんどは風早翔太くんではない男と黒沼爽子ではない女でできているからだ。僕も妻も僕の両親も友達もみんなそうだ。
主人公ではない男たちと、ヒロインになれなかった女たちの世界の中ですらマッチングできない男女のことは知らない。きっと前世かご先祖さまが戦国大名で日本中の寺社を破壊して僧侶と女子供を殺し回ったんじゃないだろうか。知らないけど。
貧乏人どもはアホだから、高所得者が実際どれだけ税金を負担してるか、知りもしない。
たとえば年収300万だと、年間60万円くらいの税金を納めている。(社会保険料も実質的に税金と同じだからここに含める)
「年収が10倍だから税金も10倍だと年間600万円。まあ累進課税があるから、だいたい年間800万円くらいか?」
と思っているだろう。
正解は、「年間1200~1300万円ほど税金を取られる」。
いいか、総支給額じゃないぞ。手取りでもないぞ。自動的に天引きされる額が1300万円だ。
それでもまだ多額のお金が残るから十分じゃないか!というアホも非常に多い。
あのな、この収入が死ぬまでずっと保証されてるなら、たしかにそうだよ。
でも来年どうなるか分からないのよ。今年たまたま年収3000万円でも、来年からゼロになる可能性だってあるのよ。
一口に「金持ち」と言っても、資産家と高所得者では全く意味が違うことを理解しろ。ストックとフローの違いだ。
代々の資産家で、株式などの資産が10億円あるけど無職なので今年の収入はゼロでした・・・という人は「低所得者」扱いで課税もほとんどない。
一方、ずっと貧乏だったが商売でたまたま当たって今年の収入はいきなり3000万円になりました・・・という人は「高所得者」扱いで多額課税。商売がすぐピークアウトして来年からまた低所得者に戻っても、すでに払ったこの税金は戻ってこない。
つまり何が言いたいかと言うと、日本は古くからの資産家・権力者はずっと富を保てるような仕組みになっており、成り上がりの新興金持ち(特に小金持ちレベル)はなるべく潰されるように設計されている。
要するにフローへの課税が凄まじい。ストックへ課税するもの(相続税など)もあるけど、その回避策がいろいろ用意されているのは貴族の流れを汲む人たちを見れば分かるでしょう。
さらに言うと、雇われサラリーマンなら、まだそれだけで「済む」とも言える。
しかし法人を立てて自分が株主・経営者だと、負担はそれだけでは「済まない」。
まず社会保険料は2倍だ。会社負担分も実質自分が払ってるのと同じだからね。
さらに法人として利益が出れば、そこにも各種税金がかかる。法人税、法人県民税、法人市民税、事業税、etc. むちゃくちゃ搾り取られる。
これを主張すると、「資本家=悪」「会社=悪」「金儲け=悪」みたいに考えている頭の悪い共産主義者がこう言ってくるのが定番だ。
「そのカネは従業員を酷使して搾取したカネだから、多額の課税されて当然だ! いい気味だ!」
みたいに言ってくる。
あのな、世の中の会社のほとんどは従業員なしで社長一人のみか、あるいはせいぜい家族しか従業員がいない超零細企業がほとんどなんだよ。
形式的に法人なだけで、実質的には父ちゃん母ちゃんでやってる自営業なの。街の八百屋とかと同じなの。
つまり、誰からも搾取なんかしてないの。頑張って働いて、それに対してお客さんが喜んでお金を払ってくれてるから稼げてるだけ。お客さんに喜ばれない商売だったらすぐ潰れてるんで。
「経営者なら経費使いまくりだったり、いくらでも節税できるんだろ!」と言ってくるアホも多い。
あのな、税制ってものすごく上手く出来ていて、何をどうやっても同じくらいの税金が取られる仕組みになってんのよ。
国もよくある節税策とかそんなことは百も承知で、抜け穴なんか全部ふさがされてるのよ。
そういう事実も知らずに、「会社経営=従業員から搾取=悪」みたいに単純に考えてる小学生レベルの低能が多くてマジでうんざりするわ。
話が脱線したが、とにかく高給取りはすでに応能負担しまくりで、それどころか各種手当や助成金などは全て打ち切りというダブルパンチを食らっている。
それでも雇われサラリーマンなら高給取りでもまだ負担がマシなほうで、経営者(株主)だと非常に厳しい課税などの嫌がらせがすごいことをより多くの人に知っておいてほしい。
私たちはいつから肉食になったのか?日本人の肉食の歴史を徹底解説!
https://intojapanwaraku.com/culture/48024/
疲れている時、あるいは気合を入れて勝負に臨みたい時、もちろんなんでもない時にでも「お肉食べたい!!」と思うことはありませんか? 焼き肉、から揚げ、ハンバーガー、さまざまなお肉をわたしたちはすぐに食べることができます。しかし、こうしてお肉をなんのためらいもなく食べられるようになるまでに、わたしたちのご先祖さまたちは葛藤を繰り返してきたのです。
日本人の肉食について『肉食の社会史』(山川出版社)の内容と、著者である上智大学教授・中澤克昭先生のお話をもとに追ってみました。
うつりかわる肉食への考え方
日本史の教科書などで「文明開化」の言葉とともに「牛鍋」を食べる人の絵を教科書などで見て、なんとなく近代(明治時代)以降に肉食が始まったと思っている人は圧倒的に多いのではないでしょうか。けれども中澤先生によれば、肉や魚を食べることは、伝統的な食文化だったそうです。ただ、平安時代からは「食べないことが高貴な身分のふるまい」「食べるのはいやしい」と思われるようになったとか。また、家畜は労働力を提供してくれる大切な存在であり、食べる対象としては見ていなかったようです。
3世紀ごろの日本(ヤマト)には、誰かが亡くなった際、喪主は肉食をがまんする習慣があると『魏志倭人伝』に書かれているそうです。これは「物忌み」のひとつとして肉食を慎む「禁欲」だったと考えられています。つまりこの時点では日常における肉食は「禁忌」ではなかったのです。その後、6世紀に仏教とともに「殺生」を「罪業」とする考え方が伝来します。喪に服したり何かを祈願したりする時に肉食をガマンする習慣と仏教の殺生罪業観、このふたつが融合して、のちの肉食忌避(タブー)につながっていくのです。
しかし、肉食忌避が強まるのは中世からで、古代には天皇も肉を食べていました。天皇は各地でとれたものを食すことで統治していることを示していたからで、イノシシやシカも食べられていたことが、さまざまな記録や古代の遺跡から出土した木簡からわかっています。中澤先生によれば、「大地を象徴する生き物を狩ることで土地の所有権を確認する儀礼でもあった」と考えられているそうです。
古代には禁欲の対象だったお肉も、平安時代になると禁忌つまり忌避されるものへとかわっていきました。たとえばイノシシは何世代も飼育されるとことで「豚」という家畜になりますが、奈良時代にはヤマトでも豚が飼育されていたそうです。ところが平安時代になると、食用に育てられている動物が確認できなくなります。野生のイノシシを食べることは続くので、家畜は食べないほうがよいというメンタリティを持っていたことはまちがいなさそうです。
「天神さま(菅原道真)の牛のように、神話や伝承の世界にも動物は出てきますが、家畜を食べるという物語はまずありません。タブーだったのです。死んだ家畜、いわゆる斃牛馬(へいぎゅうば)はいわば産業廃棄物で、専門の人々によって処理されましたが、その仕事にあたっていた人は捨てずに食べていたと思われます」(中澤先生)。ただ、そのことは公の記録には残っていません。馬刺しも牛の内臓(ホルモン)も食べられていたはずですが、身分の高い人には忌避されていたのです。おおっぴらに食べられるようになったのは、近代以降ではないでしょうか。
新鮮な馬肉
では、鶏肉に関してはどうだったのでしょうか。「鶏も『時を知らせる、占いをする』という性質が強いので、おおっぴらには食べられていなかったと思います。卵は食べたはずですが、それもあまり記録にのこっていません」(中澤先生)。闘鶏に使われた軍鶏などは「筋肉質で硬くて、現在の鶏ほど美味しくなかったでしょうね」と先生はいいます。「牛も体脂肪が少なく、現在の『霜降り』のような食感とはほど遠かったのでは」とのこと。
なお、近代以前に肉を地方から京都や江戸へ運ぶとき、塩漬けにするか干し肉にする場合が多かったそうですが、キジの新巻や干し肉も存在していたとか。案外さまざまな加工肉があったそうです。……鮭では見たことがありますが、鳥が新巻にされるなんて想像もつきませんでした。また、少し前にグルメ界を席巻していた熟成肉もあったそうです。遠くから生で運ばれた場合、その可能性が高いとか。よく食べられていたのはシカやイノシシでしたが、貴族社会の宴会ではメインディッシュとして鳥のキジが好まれたそうです。焼くだけでなく、刺身でも食べられたそうですが、味付けは摂関家であれば、ひしお(現在の味噌・醤油の原点と考えられている調味料)や酢などが使われたと考えられています。
肉食を考えるうえで必ず登場するのが「鷹狩り」です。鷹狩りは、神々へのお供え物の調達手段としても大切で、仏教の殺生禁断の思想が広まってからも続けられました。古代には貴族の間で行われて、鷹狩りのための狩場もつくられ、鷹狩りに用いる鷹の繁殖のために狩猟や入山を禁じた巣山や巣鷹山と呼ばれる山もありました。その後、貴族から武家に権力が移ると、キジだけでなく白鳥や雁もよく狩られるようになり、小型の鶴が狩られたこともあったようです。武家の食事のマナーでは、鷹狩りの獲物は箸ではなく指で食べることになっていました。食材としての価値が高く、食べ方にも特別な作法があったようです。
江戸時代になると、徳川家康が好んだ鷹狩りを、代々の将軍が受け継ぎ行っていました。江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉が発した「生類憐みの令」のころまでは史料上確認できますが、その後しばらく姿を消してしまいます。復活するのは8代将軍・徳川吉宗のころ。吉宗は徳川家康を尊敬していたので、家康が好んでいた鷹狩りを復活させたようです。その後、大政奉還が行われ明治新政府が発足した後は、鷹狩りは大名の特権ではなくなりました。明治天皇も御料場で鷹狩りを行ったようです。在位中の天皇が狩猟に出かけたのは、白河天皇が1073年に嵯峨野で鷹狩りをして以来のことでした。天皇は800年ものあいだ狩猟をしていなかったわけですが、この800年はそのまま武士の時代と重なっているのが興味深いところです。
明治天皇は1872年に牛肉を食べましたが、近代以降もしばらくは肉食に対する忌避感がありました。しかし、食の欧米化や大規模な多頭養豚経営、乳用種雄の肥育牛の食用への転用などにより、1955(昭和30)年ごろからは急速に肉食が一般化していきます。結果、戦後生まれの世代からは肉食があたりまえの世の中になって現代に至ります。食肉生産が進み、ブロイラーが出てきたからこそ「帰りに焼き鳥でちょっと一杯」ができるようになりました。そんな生活も高度成長期にようやく成立したもので、まだ現在のような「お肉を食べたい」「お肉を食べよう」の歴史は50年ほどしかないのです。
一方で2030年ごろには、世界の人口の増加が食肉生産を追い越してタンパク質が足りなくなる「プロテイン危機」が起こるという研究があり、昆虫食の研究などが進んでいます。今のようにお肉を食べられる時代は、日本史のなかの、ほんのわずかな期間で終わるのかもしれません。
「動物を殺す」肉食に対してはさまざまな意見もありますが、人間の食欲がそれを抑え込んでいるのが今の時代です。お肉はいつでも好きなだけ手に入りますし、食べることもできます。「中世には動物を殺すことやそれを食べることがタブーとされていましたが、実際に食べる人は少なくありませんでした。うしろめたさと食欲との葛藤があって、そこからさまざまな言説が生まれました。現在も肉をめぐってさまざまな問題があります。もう少し葛藤があっても良いのかもしれません」と中澤先生は言います。「お肉が食べたい」という気持ちを自由に満たせる今だからこそ、食文化についてちょっとだけ考えてみませんか。
ごめんまだ230年くらいだったわ
フランス革命(フランスかくめい、仏: Révolution française, 英: French Revolution )とは、フランス王国で1789年7月14日から1795年8月22日にかけて起きたブルジョア革命[2]。フランス革命記念日(パリ祭)はフランス共和国の建国記念日でもあり、毎年7月14日に祝われている[3]。
フランス革命を代表とするブルジョア革命は、封建的な残留物(身分制や領主制)を一掃し、
資本主義の発展(法の下の平等・経済的自由・自由な私的所有など)
資本主義憲法の確立(人民主権・権力分立・自由権(経済的自由権)等の人権保障を中心とする原理、典型例としてフランス憲法)
を成し遂げた[2][4]。
フランス革命はアメリカ独立革命とともに、ブルジョア革命の典型的事例である[2]。フランスでは旧支配者(宗教家・君主・貴族)の抵抗がきわめて激しかったため、諸々の階級の対立・闘争がもっとも表面化した[2]。
れいわの、国会決議への反対ね、あれ大層非難されているけど、経緯認識としてはだいたいあってる。と言うか、あの激動の89年をリアルタイムで経験した人たちなら、言わずもがなのことだから、却って文献資料に残ってないため、「NATO不拡大方針の合意」がロシアの陰謀扱いされてしまってるのかなって思うわ。89年から92年までの新聞、読んでみて。むしろそう言う解釈がデフォルトだから。ゴルバチョフがそれを求めて、ベイカー国務長官が「まあ、そうよね」と発言して、そのうえでのマルタ合意ってのは順を追っていけば分かるようになっている。もちろん他国の主権を、ボス間で合意する内容だから、正式に文章として組み込まれるはずがない。
ゴルバチョフとブッシュとの間で問題になったのは、旧東欧圏の扱いだけども、NATO不拡大の方針自体は、ソ連が要求を出して、アメリカが「まあ、そうね」になったからこそ、マルタ合意と言うカタチになっているのだ。
キューバ危機も、あれは逆にアメリカによる主権国家への武力恫喝の例だけども、ケネディとフルシチョフの間で正式な文書として合意があったわけではない。そんなものが外交文書として残るわけがないのだ。
ロシアの側から見れば、WTO諸国に手を突っ込まれて、バルト三国に手を突っ込まれて、旧CISにまで手出しをされた、どこかで歯止めをかけなければならないとなるのは「良いか悪いかは別にして」、当たり前ではある。戦争の多くはそうした予防戦争として発生した。
であるから、平和を望むのであれば、主権国家は「疑いをもたれない、巧妙で丁寧な外交」が必要になるのだが、能力的にそれが出来ない国もある。スイスが永世中立国を続けていてベルギーが止めたのは、ベルギーは地形が平坦であるため、自力で守り切れないからだ。つまり列強としては、中立国が他国に屈さずに中立国として振舞う能力があるのであれば、得にも損にもならないから放置しておいてもいいのだが、無能力であれば、別の列強に占領されて、敵を太らせる餌になりかねないから予防として占領しておくか、となりやすい。
ウクライナはこの、ロシアの疑心暗鬼を宥めると言う外交タスクに失敗した。それはやはりウクライナのせいなのだ。予防戦争に手を染めていない列強が歴史上、ただの一ヶ国もない以上(直近ではイラク戦争は予防戦争の典型例)、ウクライナは①ロシアに配慮した外交政策を採り、疑心暗鬼を解く必要があった。②国防力を高めて、侵攻した場合のロシアの見積もり損失を高くしておく必要があった。のいずれにも失敗したと言えるからである。これは法理的な話ではなく、能力の問題、力学的な話である。
なんでも、「定点観測をしていてたらドイツをたたいときゃいいだろと雑な発想している奴がいてプゲラ」的な雑な反応をしているヤカラもいるのだが、ドイツが責められるべきなのは、ロシア弱体期に率先してEU拡大、NATO拡大を推進したのがドイツだからである。ドイツとしては国境を東に移したいと言う欲求のなせるわざであったのだが、平和を毀損する行為であったのは間違いない。平和とは弱者の犠牲の下に築かれた強者間の合意に過ぎないからである。
これは平和主義者が、異様に共産政権などの圧制下で苦しむ人々に対して「ウイグル話法」などと言って嘲笑的に振舞い、冷酷である理由である。基本的には彼らは、「フランス革命前の穏やかに暮らしている貴族」であるに過ぎない。
私はドイツとウクライナを批判したし、ある意味、ロシアを一部免罪した。これは構造的な話であるが、起きてしまえば、表徴として問題を処遇するしかない。これはNATO拡大に関して確たる定見が無かったアメリカの外交的失敗のせいでもあるのだが、この表徴的に言えば「だからと言って侵略が許されるわけがない」と言うのは現代の国際法では当たり前の話だ。ここに今回のれいわの行動の問題点がある。
いったいどこの国の政党のつもりなのか、と言うことだ。言ってみれば「情状酌量の余地がロシアにまったくないわけではないにしても」、ロシアが現在進行で侵略をしているのは事実であるし、日本の政党がそれをかばいだてする理由は皆無なのである。異常なのは、れいわがこの件だけに限って極端なプラグマティストとして振舞っていて、ウクライナの国民真情としては列強に合意があろうとなかろうとも、数百万人の犠牲を強いたロシアとは「距離を置きたい」と思って当たり前だ。NATOにすがりたいと思って当たり前だ。
これはまさしく、平和主義者が人権侵害国家の圧政の被害者に対しては極端にサディスティックに振舞いがちだと言う典型例であって、国益の観点から言っても、いまさら表向き、ロシアに同情的な姿勢を示しても日本には何一つ益がない。構造に基づいてドイツを批判するのは、個人の資格で考察としてやるか、あるいはG7の席でないないにやるべきであって、日本国の損得勘定から言っても、れいわの行動は日本の国益を害している。そこが問題なのである。
16世紀:ポーランド「なんや荒野に『コサック』っていう連中が住み着いてオスマン帝国を襲撃して略奪しとるわ…怖…」
→ポーランド「自治を認めたるからワイらのためにオスマン帝国と戦ってくれや」
1648年:フメリニツキー「ポーランドの貴族どもが横暴やからコサックのみんなを集めて独立するで!」
1654年:フメリニツキー「同盟しとったクリミア国に裏切られたから、ポーランドに対抗するにはロシアの保護下に入るしか無いわ…」
→ロシア「共通の先祖から分かれた兄弟がまた元通りひとつになれたんやね(にっこり)」
→ロシアとウクライナの共通の源流にキエフ大公国があり、ロシア的には「生き別れの弟が兄を慕ってやってきた」みたいに受け取ったらしい
1656年:フメリニツキー「スウェーデンに対抗するためにポーランドとロシアが同盟結んだんやて! ほならスウェーデンと同盟してまた独立や!」
1657年:フメリニツキー「と思ったけどワイはこれまでや…ほな…」→死去
1667年:ヘーチマン国家「フメリニツキーが死んだら内戦続き、結局はポーランドとロシアに分割されてしまったやないけ…こらあかんわ…」
→以降、ポーランド側は「右岸ウクライナ」、ロシア側は「左岸ウクライナ」として統治され、徐々に自治権を奪われて滅亡。
1783年:ロシア帝国「ワイら上り調子で『ロシア帝国』名乗らせてもらってます。そんでオスマン帝国に勝ってクリミア半島も併合したったで!」
→オスマン帝国支配下にあったクリミア・ハン国がロシア帝国に併合される
1793年:ロシア帝国「かつての強国・ポーランドも虫の息や。戦争に勝って右岸ウクライナをもろたで!」
1853年:ロシア帝国「オスマン帝国と戦争してたら何故かイギリス・フランスとも戦うはめになってしまったで!」
→ロシア帝国「クリミア戦争はほとんど負けやった…ワイらは遅れとるわ…」
19世紀:ウクライナ「周りの国は民族主義とか国民国家とか盛り上がっとるみたいやで…ワイらもそろそろ『コサック国家』の復活を目指すべきちゃうか?」
1917年:ロシア帝国「第一次大戦では敗色濃厚…何もかもうまくいかんまま共産主義者どもにやられてもうたわ…ほな…」
1918年:ウクライナ「うおおおお!!! これを機にワイらは独立するで!!!」
1922年:ソビエトロシア「ソビエト連邦っちゅうのをつくるんでウクライナくんも参加してくれや」
1932年:ウクライナ「作った小麦がぜんぶロシアに奪われて飢饉がヤバいねんけんど…」
1941年:ウクライナ「ワイらの国が戦場になって国民が死にまくっとんのやけど…」
1986年:ウクライナ「ワイらの国に建設された原子力発電所が爆発したんやけど…」
1991年:ウクライナ「ソ連が崩壊した! ついにワイらが独立するときが来たんや!」
2004年:ウクライナ「独立したとはいえ未だロシアの影響は大きい…EUに加入すべきやないか?」
→親ロシア派が当選した大統領選への抗議運動が盛り上がり再選挙で親EU派が当選(オレンジ革命)
2010年:ウクライナ「あれから親EU派は内部抗争でグダグダしとるで…今回の大統領選はどうなるんや…」
2014年:ウクライナ大統領「マジで経済がヤバいんや! EUよりも今はロシアから融資をもらっとこうや!」
→ロシア「親ロシア派が多いクリミア半島は『もうロシアに入りたい』言うてまっせ」
→クリミア「ワイらはウクライナから独立してロシアのお世話になりますわ」