はてなキーワード: 自然科学とは
オレは論理的で合理的だから「お気持ち」なんかに振り回されないぜ。
じゃあ当然ニヒリストなんですよね?って思う。
不快を避け快楽を得るための経済的に充実した生活を求めて金稼ぎのスキルを磨くだなんて、そんな「お気持ち」ベースの無駄な事はしませんよね?って。
死ぬ理由もないけど、生きる理由もないですよね?そこからどうやって「お気持ち」抜きで合理的な生き方をするんですか?
意味を問うのを止め、欲の炎を吹き消して悟りでも開いたら確かに合理的と言えなくもないかもしれない。
でもそんなんしてないっしょ。
社会に資本主義経済という舞台があるのは事実だけど、そこにコミットすべきだというのは規範の話。
「である」からといって一義的に「そうあるべき」という話にはならない。
社会を維持するのは大人の義務?なんで維持しなきゃならんの?「論理」だけで正当化するのは難しい。
個々の生存と幸福追求の場を守るため?なんで幸福なんか追求すんの?
生物は生存して種の保存をしていくものだから?優秀な子孫を残すべき?
確かに今までそうしてきたけど、これからもそうしていく「べき」という意見の正当性はどこから湧いた?
規範が無からポップする事はないし、理詰めで言えば存在しないものをあると言い張るなら、それは「論理的」な人が大嫌いな宗教ですよねって。
全ての規範の土台は快不快であって、土台が無ければ論理を積み上げていく事は出来ない。
論理的「だけ」で言ったら人間なんかいてもいなくてもどっちだっていいんで。
殴ったって盗んだって殺したって、不快が蔓延するという点を除けば何の問題もない。
ニヒリズムというと脊髄反射で厨二かよと思う人もいるけれど、自然科学が台頭して宗教が相対化されて以来、誰だって最低限心にニヒリズムの影くらいはあると思う。
自覚的であれ無自覚であれニヒリズムを土台(?)にして、そこから刹那主義や実存主義や消極的ニヒリズム、あるいは宗教(人権思想や生命の尊厳だって立派で有益な宗教ですよね)への回帰なんかを選び取ってる。
「お気持ち」に従ってね。
私は大い感情論者だし、生きるとは自分の納得を追い求める事だと信じて疑わない。
そのための近道をする道具として論理を使う事はあっても、どこまでいってもそれは道具で感情に先んじるものではないと思う。
人は理屈でカレーを好きになるのではなくまず先に好き嫌いがあって、そこから遡及的に論理的な分析が始まる。
カレーとはかくある理由で美味しく、あなたが嫌いなのはそれを理解していないからだ。
「本物」を食べれば分かる、とか山岡士郎みてーな事言う奴がホラ食え、ウマいだろ?と強要したらどれほどグロテスクか。
結局は感情論だよね、という話に対する極端な反論として「感情論がイイなら人殺しをしたいって感情もオマエは受け入れるんだよな?」
みたいな話はありがちだけど、それもまた論理や規範、道徳と言うよりは快不快の均衡の話だよねって思う。
殺したいと殺されたくないは等しく無意味で対等なので、まあ多数決的に殺されたくないが優先される。
大抵の人は殺したいより殺されたくないに天秤が傾くんで。
まあ私は別に殺したくても、実行したっていいと思うけどね。突っぱねられて終わりなんで。
その考えは尊重するけど、そこから出力された刃が自分に向けられたら当然抵抗する。
他者の考えを尊重する事と、それが自分の領域に入ってきた時に突っぱねる事は全く矛盾しないんで。対等であるが故の衝突。
アフリカで何万人が死んでますって情報を聞いてもほーんとしか思わんけど、目の前で人が死ぬ所みたら素朴にイヤな気持ちにはなるだろうと思う。
そこには単純な損得勘定で片付けられない道徳や規範について何かのヒントがあるかもしれないけど、何であれ突き詰めれば快不快の問題に収束する。
自然科学的な事実でなく規範を論じるなら、快不快からは逃れられない。
イヤ利他的な行いをする人間だっているだろ、人間快不快だけで動いてない、という反論もあるかもしれない。
主体的に他者へ奉仕するにしたって、その行いが自身の中で快楽を生む、あるいは少しのコストを払ってより大きな快楽を得られるからそうしてるんじゃないって思う。
それは別に偽善でもなんでもないけど、自身の快楽を求めるために働きかける先が自分が他人かの違いでしかないんじゃない。
規範について、例えば今は結果の平等より機会の平等の方が強めに支持されてる。
じゃあその機会の平等の実践として、等しく分け与えるべきか?持たざるものにより多くを再分配すべきか?
後者は甘え、世の中弱肉強食「であるべき」なんだから努力で補え、なんてのはネトウヨにありがちな言い草だと思う。
さりとて前者が「正答」だと決めたらその時点で宗教になってしまう。
元より答えなんてないんだから「合理的に考えて」、なんてカッコつけない方が良いと思う。
私はこっちだと思います、こうこうこういう論理的な理由もありますが、根っこの部分の判断としては私の心がそう囁くからです。
って言った方が誠実だと思う。
論理的に正答が導かれるのなら、道程は違えどちゃんと学べば全員が同じ結論に辿り着くはず。
でもそうはならないはず。
こういう話をすると文章読めない人が素朴な相対主義だ!拗らせ冷笑野郎だ!死ね!ってお門違いな説教をされるんですけど。
私自身はこの話を通じて所詮は「お気持ち」だよねとは言うが、それがダメだなんて一言も言ってない。
むしろそれに自覚的である事が誠実なんじゃない?的な放言をしてるんで。悪しからず。
そりゃ使うだろうけど、そんな革新的か?って話。
AlphaFoldが昔は2年かけて決定してた構造解析を数分に短縮ってやつとか、次元の縮約には主成分分析と特異値分解しかなかったところに、新星のように速くて高性能なUMAPが出現したときの衝撃に比べると、便利だけどなんに役立つの?
って感じしない?
ジャンルにもよるけどさ、自然科学って、90年代2000年代には測定器の性能が爆上がり。しかし、吐き出す情報の数が桁違いになり情報を処理しきれなくなった。
すげーデータはあるけどまとめられない、人間が理解できるところに落とし込めないって感じ。
多変量解析だヤッホーい、コンピュータならそれができる!というムードだったけど、情報爆発に解析技術が追いつかなくて、結局、ちゃんと考えて実験しないとダメダメ
それが、2000年代から2010年代にかけて、実験の目的とか意味とか抜きに、「とりあえずディープでポンすりゃよくね?アクセスログとかに比べりゃ科学のデータなんかビッグでもなんでもねーから」って感じで、計算機科学の連中が革新的な技術をくれた。
でChatGPTに話を戻す。
でも、科学の世界で困ってることって、言語情報をどう処理するかじゃなくない?分野にもよるだろうけど。
ChatGPTをどう活用するかみたいな話が盛んだけど、営業ならコールセンターくらいやってくれるだろうけど、それ以上どうなんだろ。
結局、営業って、人脈と人の心にどう入り込むかで仕事してるでしょ?AIが接待ゴルフしたりしてくれるわけじゃなし。
採用面接や人事考査したり、だれをどこに配置するって決めたりは高いかもしれないけど、そういうのってホワイトカラーは絶対にそういう仕事を手放さないでしょ?責任をとるのは誰だ的な話で。
も無理。経理は置き換わるかだけど、経理ってそもそも入力が文字情報じゃない。会計ソフトで十分。
https://www.extension.harvard.edu
間違いなく半数以上の女が、女に生まれたというだけで
そんなことも知らないでどうやって普段生活してるんだよと思うくらい自然科学の知識が欠けているし、
機械の操作や調べ物など、自分の知識不足に起因する面倒を男に押し付けるのが当然という態度の奴らばかりだ。
自分たちが被差別性で社会的に抑圧を受けている弱者だということにも気づかず、バカな奴らだと思われながら搾取されている。
相手にしても疲れるだけで作業効率が上がるわけがないし面白くもないから、
オレがここまで言うのは、今まで会ってきた女がほとんどバカだったからだ。
中流家庭に生まれ、普通の大学に行って普通の会社に勤めているが、
家族も同級生も同僚も、同年代の女でオレより賢いと思える奴には数えるほどしか会ったことがない。
男なら山ほどいる。
男性優位の社会構造がすでに出来上がっていて、周りの大人に価値観を刷り込まれ、それに順応した結果だろう。
自分が生まれる前から「そう」だった構造に疑問を持つのは難しいが、
誰かに容姿を気に入られて最終的に養われるのが幸せだと思ってる奴。
勉強しなくても他人に助けてもらえばいいと思っている腐った性根の奴。
そういう奴は迷惑だから、十分知識をつけるまでオレに関わらないでほしい。
匿名じゃないとこんなこと言えないけど、これがオレの本音です。
お前たちはこれをあざ笑っているが、お前たちは民主主義ということが分かっていない。
お前たち衆愚が集まったところで実のあることは何一つ出て来やしない。それはブクマカどもを見ればわかるだろう。愚の骨頂とはあれらのことだ。クソをいくら集めてもできるのはクソのヤマであってそんなものをありがたる必要はない。
理性的な人間が理性的な判断を下せば、必ずや同じ判断に到達できる。そして人類は遅かれ早かれ必ずや同じ思想、即ち共産主義に到達する。なぜならばそれが最も合理的だからだ。正常な知能で合理的に判断すれば、数式に必ず解があるが如くこの地平にたどり着くことができる。到達できない?それはお前が愚昧であるか、精神病者であるからに他ならない。前者は到達者が教導し、真に自由な状態に引き上げてやる必要がある。それは反動に対する苛烈なさばきも含まれるであろう。後者は病人であるから徹底的な治療が必要となるだろう。いずれこの浄化を経ればお前たちも理想の血にたどり着ける。感謝するがいい
これは自然科学と全く同じ。人類はまだそこに伸びる手を持っていないが、いずれ必ずや全世界の理を表現する数式を手に入れるだろう。これと全く同じことが社会で、政治で起きるのだ。我々に隷属する史学も、人類の発展は必ず同じ段階を通していることを証明している。故に人類は政治も正しい道と理論を通り、必ずや正しい共産主義に至る手を獲得するだろう。だからこれを科学的社会主義と呼ぼう。
これを指導するためには正しい理論を学ぶ集団が必要だ。それこそが共産党に他ならない。そしてその領袖こそが、人類で最もその手に近い、全く民主主義の体現者なのだ。
ここまでくればもうお前たちにも分かるだろう。正しさは絶対であり、それを体現した者が指導することこそが正しい民主主義なのだ。その思想を忠実に学び、理解できぬにしろ忠実に実践する、それこそが民主主義であって、お前たちの言う「ハナシアイ」「投票」は意味がなく、愚か者に付き従うだけの反動行為に他ならない。我々は今寛容の心を以てお前たちを教導してやっている。しかし愚劣な反動が我々に攻撃を仕掛けた時、その心をいつまで保っていられるかは、保証できない。一刻も早く正しい科学的な道に立ち戻ることだ
「解像度」:自分はこの事について分かっているんだとアピールしたいが、知識がなければ頭も悪いので何も語れず、取り敢えずこの言葉で否定しておけばその気になれる言葉。
解像度がどう高い/低いのかを言えなければ何ら意味がなく、興味のない話を流す時に使われる「深い」「考えさせられた」「哲学的」などの言葉と同類。
「あなたは解像度が低い」という非難の言葉が昨今のネットではよく見られる。「差別する権利」などと抜かす人間をこの言葉で一蹴するのは気持ちが良い。が、なぜそうなのかを説明しないのとできないのとは、実際に説明しない限り他者からは判別がつかない。人間はエスパーではないので。
バカ相手に一々丁寧なコメントなんかしてられない、と思っている間に「しない」のではなく「出来なく」なる事も多い。
「冷笑」:こういう事書く奴は左叩きのネトウヨ冷笑野郎だ、と考える人間が多い。ネットのこういう場でこういう事を言う奴は確かに大抵はそうで、それは自然な判断ではあるのだが、その「自然」が既に毒され過ぎていると言って良い。
冷笑を「冷笑野郎じゃん笑」というのも十分に冷笑的である。この投稿も同様である。冷笑を止めるには無視するか、誠実に毅然と反論する他ない。
「お気持ち」:人権思想だって突き詰めればお気持ちだ。人が幸福に生きたいと思うのは、感情を排して論理化する事は困難だが、誰もが等しく素朴に思う所である。
常に「お気持ち」はダメ、という事ではないのだ。「である」の話ではなく、自然科学の領域では扱いきれない「べき」の話をする時、真に中立かつ客観的な意見をできる存在など神だけである。意見はポジショントークで当然。
理解と納得は異なる。「お気持ち」への訴えかけと論理を併せて駆使し、各々の意見に他人への説得力を持たせ突き合わせるのが社会というものである。
「何か言った気になってる」:ネットの人間はすぐメタ分析を気取ってウエメセの事を言おうとする。
が、大した知識も理解力もない人間が多い。個の話を「結局それってこういう話でしかなくて〜」と矮小化しにかかるが、ネット言説の受け売りしか喋れない人間も然り。真に受けない方が良い。
PNASは分野外なのでぶっちゃけそんなに評価されない エコノメ系のジャーナルが強くてすごい(感想) 機械学習系もトップ会議多くて凄い(感想)
特に経済系は論文一本一本が重くて、博士課程の間に論文受理までいけることがないくらいなので一部自然科学系ほどポンポン論文が出ないから、あの年齢でこの速度は業績ある方だと思う 海外だとまぁいるだろうけど、国内なら文句言える人ほぼいないと思う
発言の是非と業績は関係ないしそもそも成田さんってそういうの専門なのかよくわからんというのがある 医者が交通事故の論評してるようなもん
知的作業の本質を論じることは困難。数学の最も重要な特徴は、自然科学、もっと一般的に言えば、純粋に記述的なレベルよりも高いレベルで経験を解釈するあらゆる科学との、極めて特異な関係にあるとノイマンは考えていた。
ほとんどの人が、数学は経験科学ではない、あるいは少なくとも経験科学の技法とはいくつかの決定的な点で異なる方法で実践されていると言う。しかしその発展は自然科学と密接に結びついている。
まず幾何学。力学や熱力学のような、間違いなく経験的な他の学問は、通常、多かれ少なかれ仮定的な扱いで提示され、ユークリッドの手順とほとんど区別がつかない。ニュートンのプリンキピアは、その最も重要な部分の本質と同様に、文学的な形式においてもユークリッドと非常によく似ている。仮定的な提示の背後には、仮定を裏付ける物理的な洞察と、定理を裏付ける実験的な検証が存在する。
ユークリッド以来、幾何学の脱皮は徐々に進んだが、現代においても完全なものにはなっていない。ユークリッドのすべての定理のうち、5番目の定理が疑問視された最大の理由は、そこに介在する無限平面全体という概念の非経験的性格にあった。数学的論理的な分析にもかかわらず、経験的でなければならないかもしれないという考えが、ガウスの心の中に確かに存在していたのである。
ボリャイ、ロバチェフスキー、リーマン、クラインが、より抽象的に当初の論争の形式的解決と考えるものを得た後も、物理学が最終決定権を握っていた。一般相対性理論が発見されると、幾何学との関係について、全く新しい設定と純粋に数学的な強調事項の全く新しい配分で、見解を修正することを余儀なくされた。最後に、ヒルベルトは、公理幾何学と一般相対性理論の両方に重要な貢献をしている。
第二に、微積分学から生まれたすべての解析学がある。微積分の起源は、明らかに経験的なものである。ケプラーの最初の積分の試みは、曲面を持つ物体の体積測定として定式化された。これは非軸性で経験的な幾何学であった。ニュートンは、微積分を基本的に力学のために発明した。微積分の最初の定式化は、数学的に厳密でさえなかった。ニュートンから150年以上もの間、不正確で半物理的な定式化しかできなかった。この時代の主要な数学的精神は、オイラーのように明らかに厳密でないものもあったが、ガウスやヤコービのように大筋では厳密なものもあった。そして、コーシーによって厳密さの支配が基本的に再確立された後でも、リーマンによって半物理的な方法への非常に独特な回帰が起こった。リーマンの科学的な性格そのものが、数学の二重性を最もよく表している例である。ワイエルシュトラス以来、解析学は完全に抽象化、厳密化され、非経験的になったように思われる。しかし、この2世代に起こった数学と論理学の「基礎」をめぐる論争が、この点に関する多くの幻想を払拭した。
ここで、第三の例。数学と自然科学との関係ではなく、哲学や認識論との関係である。数学の「絶対的」厳密性という概念そのものが不変のものではないことを示している。厳密性という概念の可変性は、数学的抽象性以外の何かが数学の構成に入り込んでいなければならないことを示す。「基礎」をめぐる論争を分析する中で、二つのことは明らかである。第一に、非数学的なものが、経験科学あるいは哲学、あるいはその両方と何らかの関係をもって、本質的に入り込んでいること、そしてその非経験的な性格は、認識論が経験から独立して存在しうると仮定した場合にのみ維持されうるものであること。(この仮定は必要なだけで、十分ではない)。第二に、数学の経験的起源は幾何学と微積分のような事例によって強く支持されるということ。
数学的厳密さの概念の変遷を分析するにあたっては、「基礎」論争に主眼を置くが、それ以外の側面は、数学的な "スタイル "の変化についてであり、かなりの変動があったことはよく知られている。多くの場合、その差はあまりにも大きく、異なる方法で「事例を提示」する著者が、スタイル、好み、教育の違いだけで分けられたのか、何が数学的厳密さを構成するかについて、本当に同じ考えを持っていたのか、疑問に思えてくる。
極端な場合には、その違いは本質的なものであり、新しい深い理論の助けによってのみ改善されるのであり、その理論の開発には百年以上かかることもある。厳密さを欠く方法で研究を行った数学者の中には(あるいはそれを批判した同時代の数学者の中には)、その厳密さの欠落を十分認識していた者もいたのである。あるいは、数学的な手続きはどうあるべきかというその人自身の願望が、彼らの行動よりも後世の見解に合致していたのだ。たとえばオイラーなどは、完全に誠実に行動し、自分自身の基準にかなり満足していたようである。
25年生きてきて、初めて将来の夢ができました。
地味だけど平和な少年時代を過ごし、自分の実力で狙える大学に入り、アルバイトとサークルを程々にこなし、大手ではありませんが決して待遇の悪くない企業に入社し今に至ります。
昨年夏に25歳の誕生日を迎えそれまでの人生を思い返しました。人を傷つけず、自分も傷つかず、波風を立てず、親を安心させるような人生。しかし、それは決して僕が望んでいたものではありませんでした。
幼馴染と両思いになる人生。大谷翔平選手のような人生。体育祭のリレーのメンバーに選ばれる人生。バドミントンで全中やインターハイに出場する人生。好きな人と結ばれる人生。自然科学でノーベル賞を受賞する人生。僕が望んでいたものはそんな人生でした。実際には、幼馴染はクラスで1番人気の男子に夢中でした。少年野球は怖い上級生に下手くそと揶揄われて辞めました。体育祭の騎馬戦では自分よりも身体の大きな野球部の下級生とぶつかり親の前で気を失いました(相手も故意ではないですよ)。バドミントンは少年野球を辞めた後に始めましたが、中学でも高校でも未経験者に追い抜かれ団体メンバーに選ばれることはありませんでした。女性が僕を異性として意識することはありませんでした。興味よりも就職率を見て無難な大学の無難な学部を選びました。
身体能力、自信、行動力、容姿などなど。自分の望む物を手に入れるために必要な物を、僕は何一つ持っていなかったのです。
今更本当に望んでいた人生を手に入れることはできません。何もかもが遅すぎます。もし「全てが自分の思い通りになる、しかも何度でもやり直せて、何度でも作り直せる世界」が存在しているのならば、僕はその世界の中で何度でも人生をやり直し、何度でも世界を作り直し、理想の人生を何度も送ることでしょう。しかし、残念ながらそんな世界は存在しません。だから、そんな世界を僕が創ることにしました。
そうは言っても知識が足りません。この半年間、人生で初めて主体的に勉強しました。様々な分野の書籍を読みました。大学の授業以来プログラミングに取り組みました。しかし、独学では限界があります。
そこで大学に進学することにしました。学費、生活費、自分の研究したい分野、将来の生活費の確保など様々な点を考慮し、地元国立大学の医学部医学科を第一志望とし、現在働きながら受験勉強に取り組んでいます。高校生の頃の自分に「国立医学部を目指せ」と言っても「無理に決まっている」と一笑して終わりだったでしょう。今は違います。英語、数学、物理、化学、国語、世界史。全ての科目について楽しみながら勉強に取り組めています。一人暮らしの環境で仕事をしながらの勉強ですが、高校生の頃よりも遥かに集中して取り組めています。もちろん問題を解いていて躓くことはありますが、自分の不出来な身体から僕の脳と神経系を解放し、コンピュータに繋ぎ、コンピュータで再現した理想の世界を恣に生きる未来の自分を想像すればそんなもの苦ではありません。
自分にとって気に入らない人文系の学者がネット上で気に入らない発言をしたからといって、その発言をブクマしてあげつらったり、コメントでぶつぶついってもなんの効果もない。
これらの人物が本当に忌まわしく感じられ、消えて欲しいと心から思っているのなら、彼らの研究業績の剽窃/
方法は(いわゆる)自然科学系の学者の剽窃チェックと変わらない。
気に入らないと思っている学者の研究ポータルだの大学のプロフィールページ等で論文一覧を入手し、ネット上に転がっているplagiarism checkerにかけて剽窃チェックをし、疑わしい箇所があれば所属研究機関の研究倫理委員会にどんどん通報すればよろしい。
これらの御仁は大学の先生であることが唯一のアイデンティなので、研究業績の不正を指摘し、研究業績の不備を理由として研究機関に所属できなくすることがもっとも効果のある排斥方法となる。
もっとも、日本の人文系のアカデミアは日本語という言語の壁によって守られてきた。つまり剽窃や捏造のチェックが外部から入りにくかったのだ。標的とする学者が日本語の研究業績しか発表していなければ、関連する研究分野の学会誌や地方大学の紀要バックナンバーで全文検索をかけるなどして、地道にマッチング作業を行うしかないかもしれない。本当に相手のことが気に入らず心から消え去ってほしいと思っている人にとって、それくらいの作業は苦ではないだろう。