「解像度」:自分はこの事について分かっているんだとアピールしたいが、知識がなければ頭も悪いので何も語れず、取り敢えずこの言葉で否定しておけばその気になれる言葉。
解像度がどう高い/低いのかを言えなければ何ら意味がなく、興味のない話を流す時に使われる「深い」「考えさせられた」「哲学的」などの言葉と同類。
「あなたは解像度が低い」という非難の言葉が昨今のネットではよく見られる。「差別する権利」などと抜かす人間をこの言葉で一蹴するのは気持ちが良い。が、なぜそうなのかを説明しないのとできないのとは、実際に説明しない限り他者からは判別がつかない。人間はエスパーではないので。
バカ相手に一々丁寧なコメントなんかしてられない、と思っている間に「しない」のではなく「出来なく」なる事も多い。
「冷笑」:こういう事書く奴は左叩きのネトウヨ冷笑野郎だ、と考える人間が多い。ネットのこういう場でこういう事を言う奴は確かに大抵はそうで、それは自然な判断ではあるのだが、その「自然」が既に毒され過ぎていると言って良い。
冷笑を「冷笑野郎じゃん笑」というのも十分に冷笑的である。この投稿も同様である。冷笑を止めるには無視するか、誠実に毅然と反論する他ない。
「お気持ち」:人権思想だって突き詰めればお気持ちだ。人が幸福に生きたいと思うのは、感情を排して論理化する事は困難だが、誰もが等しく素朴に思う所である。
常に「お気持ち」はダメ、という事ではないのだ。「である」の話ではなく、自然科学の領域では扱いきれない「べき」の話をする時、真に中立かつ客観的な意見をできる存在など神だけである。意見はポジショントークで当然。
理解と納得は異なる。「お気持ち」への訴えかけと論理を併せて駆使し、各々の意見に他人への説得力を持たせ突き合わせるのが社会というものである。
「何か言った気になってる」:ネットの人間はすぐメタ分析を気取ってウエメセの事を言おうとする。
が、大した知識も理解力もない人間が多い。個の話を「結局それってこういう話でしかなくて〜」と矮小化しにかかるが、ネット言説の受け売りしか喋れない人間も然り。真に受けない方が良い。