はてなキーワード: 物差しとは
自由律俳句とかピカソのキュビズムだとかを冗談混じりに何が良いんだか分からん!笑って言う事はあっても、マジトーンで言ったら鼻白まれるとと思う。実際よく分かっていなくても、無知無学の開き直りだと思われる事を避けて言わない人が多い。恐らく。
無知が事実であったとして、「解像度」が低いんだね、可哀想……とかウエメセで言われたら腹が立つと思う。そんな仮想敵に対する反論として、そもそも知識を積んだ所で「本当の良さ」なるものを理解した事になるのかという疑問がある。
形而下において宿される美なるものが存在するかどうか、みたいな話は言葉遊びか脳科学の問題になるだろうし、神様にしか分からないので置いておく。
例に挙げたものであれば、既存の様式から逸脱して新しい価値を提供した、という部分による評価が大きい。多分。しかし、新しい様式を提示した「から良い」というのは、「けど普通」にも「けどダメ」にも転じる恣意的な結論になる気がする。理由を積み重ねても、結局一番大事な物差しの部分が存在しない。
車なら速い、燃費が良い、安いだとかの評価軸がはっきりしているし、それはかなり客観的な指標だと思う。むしろ高いから良い、オイルを撒き散らすから良いだとかいった価値の転倒もあるけれど。実用性へ逆張り無駄を愛する趣味の心か。何であれかなり曖昧で恣意的な軸だ。
逸脱したものの価値に話を戻すと、恣意的とは言ったが、固有性というのは理屈抜きで人間が素朴に価値を感じる所だと思う。特別。オンリーワン。そりゃ魅力的だ。
素人がデタラメに描いた絵も一見固有のものに思えるけど、「素人の落書き」で一括りにされてしまう。型は嵌らなければ破れない。既存の様式を踏まえつつ、そこから逸脱するバランスを巧く保つのが作品の良さなのかもしれない。でもそのバランスっていうのも結局個々人の感覚に頼った判断にならないだろうか。
ピカソなら本当は既存の様式に則った絵も滅茶苦茶上手かったが、敢えて自分の作風を追求したという話も有名だ。しかし、その背景を踏まえた上で作品を鑑賞する態度は一つに絞られる訳ではない。目につかない裏地にこだわったポールスミスのジャケットを粋と思うか。「情報を食べずに目の前のものと向き合え」と思うか。
大衆娯楽を消費するような受け身ではなく、知識を詰み能動的に作品の細部を吟味した上でも、ほーん。で?となる可能性はあると思う。これこれこういう理由でこの作品は特別なんだな、そりゃスゴイ。それはそれとして、私の琴線には触れない。という事はあり得るだろう。それを以て「センスが無い」とか言われたら手が出そうな気がする。
ただ、知識をつけて見え方が変わった実体験はままある。ミーハーアイテム化してるので上で挙げたものと同列に語るのもアレかもしれないが、マルジェラの足袋ブーツなんかは最たるものだ。変な靴と思っていたけど、今はかっこよく見える。見慣れただけなのか。ブランドに惑わされ、情報を貪り食っているのか。他の靴と見比べた時の逸脱した独自性や、既存のモノの組み合わせから生まれる斬新さがある「から良い」と、知識が「正しく」導いたのか。あるいは、シルエットの美や服との調和といった「本当の良さ」が備わっており、色んな靴を見比べた経験によってそれを「正しく」受信する身体になったのか。そこの所ははっきり言って分からない。そういった区別について、明確な根拠は無いながらも確信を持っている(と思い込んでいる)人間こそが違いの分かる人間なのかもしれない。ただその区別が言葉に起こせないのならば、解像度って何ですのという話で。
絵画なんかは文脈依存も強いから単に教養に欠ける部分もあるんでしょうけど。
定量化できないものの評価が非常に苦手。「適切な評価」をつけるのではなくて、そもそも評価そのものをするのが。
だからと言って、定量化できる部分だけを見て、マックは世界一売れてるから世界一美味しい、とかは思いませんが。
「適切な評価」は、「これが世間的には良しとされるんだろうな」というのが過去の経験から何となく察しがつくのですが、自分自身の思う「良し悪し」は全く浮かんでこない。
しかし、例えば食事なら気分による所が大きい。唐揚げの口の日に望みのものを食べてざっくり90点の満足度だなと思っても、別の日には全く同じものを食べて70点だったりもする。この数字も、他の料理の満足度とざっくり順番に並べ、相対的な整合性から適当に弾き出したきわめてアバウトなものです。
料理としての完成度も、何を以て良しとするかは「人による」としか言いようがない。人間なんて個体差はあれほぼ同じ構造なので、ある程度の普遍的な感覚というものはあるのでしょうけれど。
例えば映画なら、この映画は面白い。面白いが、☆がいくつかと言われると困る。「普通の面白さ」なら3つで、「手放しに全てを褒められる面白さ」なら5つなんでしょうけど、そうはっきりする事なんてそうそうない。そのグラデーションに境界を引くのはあまりにも難しい。
ましてや「良し悪し」となれば、恐らくは個人の「好き嫌い」から離れ、普遍的な視点に立たなければならない。
1点刻みの100点満点で評価するとか絶対に無理です。5段階でも怪しい。悪い、普通、良いの三段階でも、大半が普通に入ってしまいそう。
その辺の人を捕まえてその場で描かせた漫画と週刊連載されてる漫画を比べたら、流石に優劣はつけても良いだろうとは思います。しかし「なぜ優れていのか」を突き詰めていくと、結局「好き嫌い」に収束してしまうのではないかと。この例での「好き嫌い」にはかなり普遍性がある(ほとんどの人が恐らく後者を評価する)でしょうけど、そう極端な比較ばかりではありませんし。
ファッションに興味を持ってから、今まで変なのと思っていた服や靴をかっこいいなと思うようになった事なんかはあります。
しかしそれはネットでよく言われる「情報を食べている」状態なのではないかと自問した時、違うとはっきりは言い切れない気がします。
実家が割と余裕のある方だったので、色々なものに触れる機会は与えられてきました。それが「適切な評価」を下すのに役立ってはいるのかもしれませんが、「私の評価」の基準にはなっていない気がする。
自分自身があまりに「良し悪し」が分からないもので、世の中の人間もそこまで分かってないんじゃないかと勘繰ってしまいます。
やれこの映画は名作だの、この料理は不味いだの、点数をつけてはいるものの、ざっくりの印象を10点単位でつけて、詳細の加点減点部分を表すそれっぽい1点単位の数字を合わせているだけなのではないかと。
他者の顔色を伺わず、プリミティブな感性と積み上げてきた経験だけで瞬時に「あ、この料理は87点だな」なんて浮かぶ人がいるとは信じがたい。いるのかもしれませんけど。
イデアなんて言葉がありますが、物事に本質的な良し悪しなどなく、(例えば服なら耐久性や透湿性、手入れの手間といった明確な評価軸であらわせないような)あらゆる評価は突き詰めると「個人的な好き嫌い」に収束するのではないかと思っています。「社会的な選好」もまた個人のそれの最大公約数的なものに過ぎないとも。あるいは、誰かしらの好き嫌いがその人の立場によって権威づけられたか。
批判、批評においても、対象の細部について検討はされるものの、その細部を何を以て良しとするかは価値判断がついてまわり、つまる所は好き嫌いの問題になるのではないかと思います。
どれだけそれらしい理由を並べて普遍性、正当性を強調しても、根底は個人の好き嫌いでしかない。
しかし遡及的に見出された理屈であれ、それを言葉にして他者の「好き嫌い」を知り、時に理解し歩み寄る事は大事なのかもしれませんね。
(追記)
この世で本質的に存在する絶対不変の軸なるものはないんじゃないかと思ってはいますが、個人の好き嫌いが積み重なって形成されたある程度普遍的な評価軸の存在は否定していませんし、対外的には尊重しますよ。
究極的には全てに意味がなければ物差しもない、ハイ終わり。というニヒリズムではなく、無意味を認めた上でそこから価値を積み上げていく実存主義的なスタンスという事です。冷笑と言われ少々カチンと来たので、念のため。
(追記)
・定量化できないものを数字にしたり相対評価したりするのは難しい
・評価対象について知識を積み重ねて吟味することは、他者のモノの見方、感じ方を知り、時に自分の中に取り入れる事で捉え方が重層的になるかもしれない
一方で、「情報を食べる」と言われるように、良し悪しを考えるという事が他人の評価軸に合わせる、他者の顔色を伺うような事にもなってしまわないか(それが全面的にダメだとは一言も言っていない)
・評価対象にまつわる知識を積み重ねても、結局良し悪しを決める軸は好き嫌いに帰結しないか
・「世の中一般で好かれる≒良いもの」でもない、「私が好きなもの」でもない、「私が良いと判断するもの」なるものは、何を以てして決まるのか
まとめると私が思っているのはおおよそこんな所です。
それに対して、初めから好き嫌いとはまた異なる「良し悪し」なるものが存在する事を前提として、それが分からないのは理解が足りないからだ。という反応が多かったので、あまり噛み合っていないのではないかと思いましたね。
その「良し悪し」が人々の好き嫌いが集まって作られたものを指すのなら、それは好き嫌いと同じとは言えませんが、全くの別物とも言い難い。さらに、では結局良し悪しとは「情報を食べる」事に過ぎないのではないか、という話に繋がる。
しかし、全ては好き嫌いに過ぎないという態度では美という概念をいささか否定するようで、矛盾するようですがそれもまたどうなのかなとも思ったりします。
小中高と皆勤で、大学受験も2年間東大合格者のいなかった県立高校から東京大学文科一類に現役合格した。しかし、大学から何故か怠惰かつコミュ障を発揮。進振りも法学部ではなく、今思えばどう考えても雰囲気が合わない国関にしたことから留年を何度も重ねてなんとか卒業。現在は地元の小さな塾でバイトを週2、3回入れて小遣いのみ稼ぎ、衣食住は実家に寄生しているニートである。
父は「まともな就職先を見つけろ」と口煩く言うが、「今更A.T.カーニーにも、アクセンチュアにも、ゴールドマン・サックスにも、三菱商事にも、官公庁(国家総合職)にも入れないのにまともな就職先など軽々しく口にしないでもらいたい。大学に進学してすらいないあなたの物差しで物事を判断しないで欲しい」と一喝して小言を撥ね退けている。
そんな僕の趣味はドライブである。Appleミュージックでお気に入りのアルバムを流しながら館山、箱根、静岡、浜松などへ繰り出し、景色を堪能する。そして、現地のグルメに舌鼓を打つ余裕はないため、セブンかファミマでチョコホイップロールパンとコーヒーを買い腹を満たす。今日もコンビニのイートインでロールパンを食べ、外の灰皿で一服しながらこれを書いた。
俺は小学校の頃親の都合で転校したことがあって、言葉の訛りが発端になって転向後しばらくいじめられていた
悪口言われるとか無視されるとかなら別にどうということはなかったのだが、隣のクラスの多動系クズの行為がエスカレートして、そいつが休み時間のたびに物差しで頭を殴りにくるという状況になっていた
最初は怒鳴り返すくらいだったが、あまりに頭にきて一度そいつの腕をカッターで切りつけてしまった
ちょっと血が出たくらいで大怪我させたわけでもないのだが、校内で問題になって「友だちと刃物でふざけていて怪我をさせた」ということで親も呼び出され、治療費も払わされた
俺は納得がいかず「相手は友だちでもないし、遊んでいたのではなくて自分の身を守るためにやったことだ」と何度も訴えたが、聞く耳は持ってもらえなかった
まあ学年が変わると担任も話のわかる人に変わって学校生活は安定したのだが、俺はその多動クソ野郎のことは許してなかったしいつか絶対に償いをさせてやると思っていた
それが30年前の話だ
小学校粗卒業してから、そのクソ野郎とは大学生の頃一度だけ顔を合わせた
すると二人はクズ男の両親と合流して、女は彼女じゃなくて妹だということがわかった
ほっとしただけじゃなく、あの妹をめちゃくちゃに犯されたらあいつはどう感じるかなとか考えてしまった
次の日から俺は卒業アルバムからそいつの住所を調べて周辺をうろつくようになった
そいつの家は低所得者向けの市営住宅で、便所も汲取式のみすぼらしいものだった
庭では年老いた犬がいつも寝ていた
別になにかしようと思っていたわけじゃない
実際、そいつら一家と鉢合わせたことはなかったし、正月休みが終わると俺はそのまま東京へ戻ってきた
それからも実家に帰ると俺はなんだかんだと理由をつけて家を抜け出し、自転車でそいつの家の周りをぶらついた
俺は先日40歳になった
ちょうどその誕生日とかぶる日程で父親が海外に出かけることになり、見送りにいった
時が流れたんだなと思った
いい歳してあんなことはもうやめようと思った
そう固く決意して実家へ戻ったが、いつも使ってたママチャリが目に入った瞬間に決意が溶けて消えた
ただ、本当にこれで最後にしようという気はあった
いつものように何事もなく、周囲をふらついて、あいつが出てきたら殺してやるのに、妹が出てきたら犯してやるのにという呪詛を内心で唱えて、ただ帰ってくる
鉢合わせと言うか、すれ違っただけだ
妹は小さい男の子の手を引いて自宅に向かって歩いていた
喪服姿だった
俺は数十メートル走ってから自転車を停め、徒歩で背後から妹を追った
それを取り出して右手に持った
不思議なことに興奮も緊張もなかった
俺は歩調を速めながら、幼児の速度でのんびり歩く妹との距離を少しずつ詰めた
息を潜め、チェーンを握り直す
しかし俺は妹に追いつくことはなく、彼女はあのみすぼらしい長屋に入っていった
薄そうな木製の玄関ドアを俺はしばらく見つめていた
妹が残したものか、それとも家の中からなのか、線香のにおいが漂っていた
犬はまだ生きていた
薄汚れて毛並みも悪く目も濁っており、どこからどう見ても老犬だ
あまり散歩に連れて行ってもらえていないのか庭の済に放尿した跡があった
俺はチェーンを振り上げ、その一端を汚い犬の頭に振り下ろした
「あふっ」とかなんとか声を出したので、やばいと思ってもう一度、思いきり殴りつけた
急に怖くなって周囲を見回した
俺は早足で現場を離れ自転車に飛び乗り、投げるように実家に自転車を乗り捨ててタクシーで駅に向かった
新幹線で東京に向かう間、ついにやってやったぞと思うとにやけ顔が抑えられなかった
遅れて来た興奮で震えるほどだった
それが良くなると同時に犬に申し訳ないことをしたという罪の意識が俺を支配した
俺はかねてより「暇」や「無駄」が社会人は多いと思ってる。順番待ち。連絡待ち。客待ち。納品待ち。移動時間など。暇な時間が勤務中多い。一日のうち結構暇してる社会人は世の中にごまんといるんじゃないか。
会社の数も日本は多すぎる。だからいちいち経理が各会社に必要でそれもまた無駄。
これから働き手が減るんだから会社の数も減らし、無駄を無くすべき。内情は知らんがもうどこもコンビニ業界ぐらい会社数少なくっていいのではないかな。待ち時間も無駄だし営業マンの移動時間も無駄。過剰な競争や多すぎる競合他社や頭のおかしなワンマン社長がサラリーマンをいじめるべく誠意という謎の物差しを持ち出してごっこ遊びするのも本当なんなんだろうって感じ。
そういうの全部取っ払って効率よい社会にしないと少ない人数じゃ回らないぞ。競争じゃなくて、これからは本当の意味で共存していく意識でいかないとそもそも人が足りないんだから。
もちろん本当の意味でイノベーティブな個人はその能力を発揮できる環境に身を置くべきだとは思うけどね。でもそんなの少数だろう。
ちなみに会社だけの話じゃなくって政治も当然。政治家なんて無駄の権化だからな。
無駄こそ余裕の表れとはよくいうが、余裕がないので仕方ない。どんどん人が減って、技術を持った年老いた職人が後世に何も教えもせずに辞めていく。ちゃんとした大企業の枠組みの中で、それら一つ一つの技術を吸いだし、継承していく努力をしなくてはただ口をポカンと開けてああ少子化だ困った困ったでは数年後、今の赤子に馬鹿呼ばわりされることになる。
業界の上の方にいる人間がこの辺りを正しく認識し、意識の共有をしていくこと。下の人間も一人一人が社会にとって必要な能力を身に着けること。トップダウンとボトムアップの両方が為されなければ変わらない。
ま、ザックリひとつのことを話したが、なんにせよ少子化ってワードが出てきたときにどうやって子供を増やせばいいか以外の「じゃあどうするの」を考えてない人が多すぎ。今から仮に子供を増やすことができたとしたって働き手の数が減り続けることは明白なんだから、今後10年20年をどうすべきか具体的な解決策を考え実行すべき。
この話、TV広告並に自主規制して欲しいという話のような気がしてきた。
気に食わない広告出てきた時に普通は不買運動なんかで広告主に抗議の意思を示せるかと思うんだけど、この手のクレーム入れる人って「元々買ってる人」でも「規制に乗ったら買う人」でもないので、企業側が自粛するメリットはあんまりないんだよね。not for you。
だとすると攻撃すべきは広告主側ではなく広告掲載側、つまり駅とか公共施設と言われる側なんじゃないかと思う。というか攻撃じゃなくて話し合いですね。
だとしたらTVでいうACジャパンのように、駅での広告掲載規定、献血ルームでの広告掲載規定を申し入れるべきなんだと思う。町内会レベルのことは町内会にお任せしろ。金を落としもしない外野が文句を言うな。広告主だって金落とさないで文句しか言わない相手に広告見せたくないんだわ。
それをすっ飛ばして「私の感情に従って法規制しろ」と言うから、恣意的運用されると分かりきってる側と規制される側が身を守ろうとしてるんだよ。
エロに関して君ら規制派は『ここからは絶対不可侵(許可)』を客観的な物差しで定義できないじゃん。それこそ「実在非実在を問わず、女性は絶対に肌を見せず、髪を見せず、顔を見せず、体型を見せてはいけない、外出の際は必ずゆったりとした服で全身を覆わねばならない、でなければエロとみなして死刑」とかまで行き着く可能性がある訳だ。しかも犯してない犯罪を引っ張り出してきて「エロを見た人間は性犯罪を犯すんだ!」と言い出して。
法で全面的に規制しろって騒ぐ前に、掲載側の広告掲載規定について話し合うべきだと思うよ。それも冷静に。
親は子に見せたくなくても、子はエロから学習意欲を得ることもあるんだよ。本とかネットリテラシーとかプログラミングとかさ。自分の思春期はどうだったのさ……。
甘えとか言われそうだけど、
先天的(資質や性格とか)や後天的(経験や教育)に、社会人に向いてない人っていると思う。
職種に対する適正ではなく、労働そのものに対して適性がないみたいな。
障害がある人はまた別として、そんな適正が低い人とバリバリ出来る人をまとめて同じ物差しで測ってる今の世の中に違和感がある。
倫理的にどうこうって水掛け論にしかならんだろ。倫理的というのならその倫理に基づいて何が悪くて何が悪くないを「客観的に」示してくれ。
うん、倫理的な問題は個々人の問題だから、統一的な決着はつかないね。
自分の倫理観からある言動を批判の対象にしているってことで合意できてなにより。
自分の倫理的には問題ないから別にいいだろって思うのも自由だしね。
ある人がある行為を批判するということの是非なんだからそれで十分だよね、
ある集団に対して性的嫌がらせを押し付ける行為が悪いという倫理観を持っただけだけど、それ以上何か必要?
性的嫌がらせをする、根拠なくステレオタイプを押し付ける、これを倫理的に認めたくないというじゃあダメかね
そういう倫理観があるってくらいは理解できるだろうし、あなたもその倫理観で共通化しろとは言っていないしなあ。
法的な定義はアウトセーフの判断基準として社会に是認されているものなので、セクハラをその物差しで判断するのは当然で、反論するならこれにまさる客観的な判断基準示してくれ。
法的な話とは別の一般的な用語でのセクハラ使用と何回繰り返せば理解してくれるの、私の書いたこと読んでないでしょ。
いや、あなたがこれは狭義の法的な用語しか認めないというならそれでいいけど、
それなら本件はセクハラの定義にあてはまりません。よって、セクハラという意味での法的な問題は生じません。合法であなたの言う通りです。よかったね。
id:wuzukiのコメントが問題ないことはズリネタ発言がセクハラの要件をクリアせず表現の自由を妨げる理由になり得ないことから示せてる。批判派はあのブコメが問題であることを全く示せていない。自由権を妨げる必要がある客観的な理由をきちんと書いて批判しましょう
コメントを削除しろなんて言っていないので、自由権を妨げるななんて大上段に構えられても藁人形に斬りかかるなとしか言えないよ。
私は好きという表現も嫌いという表現もできますし、性的嫌がらせという範疇に入ると主観的に私が認識しているので当該コメントは嫌いですね。
まあ人の性的嗜好を勝手に決めつける行為は客観的にも適切とは言い難いと思うけど、主観ってことでいいよ。
女性がミニスカートにするのは男性にレイプされたい願望があるからだとかの言説があったとしてまったくもって合法だけど、批判はするよ。
セクハラと用いた場合に、法的な意味でしか考えない人がいる可能性があって、
そうなると違法性を帯びてくるので、セクハラと指摘することが削除を強制させると思わせてしまうという点は配慮が必要かもですね。
倫理的にどうこうって水掛け論にしかならんだろ。倫理的というのならその倫理に基づいて何が悪くて何が悪くないを「客観的に」示してくれ。
じゃないと「みんなわかる」が妥当かどうか誰も判定できないよ。フェミの言う倫理的って、自分のお気持ちだけでしょ?そのお気持ちを言語化して示した上でコモンセンスであるエビデンスを出してくれ。
法的な定義はアウトセーフの判断基準として社会に是認されているものなので、セクハラをその物差しで判断するのは当然で、反論するならこれにまさる客観的な判断基準示してくれ。
id:wuzukiのコメントが問題ないことはズリネタ発言がセクハラの要件をクリアせず表現の自由を妨げる理由になり得ないことから示せてる。批判派はあのブコメが問題であることを全く示せていない。自由権を妨げる必要がある客観的な理由をきちんと書いて批判しましょう
コミュニケーションの仕方には人より気を配っている自負があり、日頃から丁寧な態度や言い回しを気にしてしまう。
そこまでは良いのだけど、無意識に他人にも同じレベルでの対応を期待してしまい、それが期待を下回ると途端に丁寧に扱ってもらえなかったと感じ、残念な気分になる。
もちろん街中や関係値の低い人たちにはわざわざ期待することはないので気を落とすことはない。
少しでも言い回しが荒かったりトゲがあると敏感に反応して気を落とし、傷付いている。
何度かパートナーともこの話をしたことがあるが本人は普通に対応しているだけだと言うのでやはり過敏なのかもしれない。
職場で60超えたおっさんに注意を受けた。おっさん曰く「制服で出社してはいけない」とのこと。
確かに就業規則にて「通勤は制服NG」との規定がある。だからおっさんの言っていることは正しい。
ただ、こちらは自転車通勤で、制服の上から制服を露出しないように夏でも長袖長ズボンを着用しており
それらを脱いでそのまま現場に行っているだけだ。制服での通勤はしていない。
確かにグレーな部分ではあると思うが、当方以外何人も同じような形で出社している人もおり
過去に管理職から注意されているのは、制服が露出した状態で出社している人であった。
草の根かき分け調べたわけではないが服装規定がしっかりしている会社で何人もの人が同じことをしていることから
制服を露出しないように出勤している人には未だ注意はいったことがないのだと思う。
納得できなかったので、上記に記載しているようなことを言った。管理職にも注意されたことがないと。
ただおっさんはいう「社会人として、着替え用のロッカーがあるのであれば使う、これが常識である」と。
おっさんは同時に余計な忠告であるかもしれないので、これ以上言わないといったのでこれ幸いと無視した。
これ幸いに「納得できなかったので無視しときます」と宣言した。
社会人として10年弱の日々を過ごしている中で、新卒ほど学生意識で仕事をしているわけではない。
ただ昭和の時代を生きてきた人たちに迎合するような価値観でもない、所謂ゆとり世代の価値観である。
「みんな苦しい中頑張っているんだ、お前もやれ」ではなく
「みんなが苦しいからちょっとでも楽になるようなやり方を考えよう」な価値観で業務改善に取り組んでいる。
超絶忙しい商品担当の人たちに手助けできることがないか聞いて回り、ツールやマクロを作成し、
少しでもみんなが定時に近い時間で帰ることができればいいな、を原動力に日々社畜している。
これが当方の物差し。困っている人がいたら助けようを社会人としてというより人としての常識として持ち合わせている。
だがこのおっさんにはそれがない。
自分はご意見番であるという自負でもあるのか、口は出すが手は出さない。
まあ言っていることは正しい。
「社会人として、与えられたロッカーで着替えることは当たり前である」というのは
「社会人として、業務過多で困っている人がいたらできる範囲でサポートする」に比べてえらいしょうもないと感じてしまったのである。
昔から床屋で飛び交う「何センチ切りますか?」という単位系に疑問を感じている。
明らかに1cmが1cmで勘定されていないのである。更に人によってもぶれ方が異なる。
西に1.5cmといいつつ3cmくらいを量り取る理容師がいれば、東に5cmはこのくらいですと人差指と親指をピンと張る者も居る(15cm弱だろうか)。
昔あまりにも時空を歪める店員に堪えかねて、それは私の知ってるセンチメートルじゃないと抗議してしまったことがある。
するとその店員が答えていわく、髪は生えている場所によって伸びるスピードが異なるという。
頭のこのあたりで2cm切ると、一番(伸びるのが)早い部分でこのくらい切ることになります、とのことだったので、なるほどそういうことだったのかと得心し、
じゃあサンプリング地点を明確にして指定しないと何の意味もねぇじゃねえかと今後一生センチメートルでの指定はしないと誓った。
ところが困ったことに「では○センチ位切りますがよろしいですか?」という確認をしてくる奴が結構な頻度でいるのである。
今日世話になったのもこの類で、もうその手は食わんぞと「センチメートルで言われてもわからないので…」と突っ張ってみた。
おじさんは謎の生き物を見る目をしながら1.5cmを指で作ってくれた。親指と人差指が平行だった。
なんとなく、「全体をその長さの分短くするということですか?」と聞いてしまった。これは「いいえ」になるはずの問いであった。