はてなキーワード: 物差しとは
こういうセリフ吐いたらまず間違いなく
って問いを突きつけられるんだけども、その覚悟はできてる?
他者に寛容を求めるとき、自分もまたおなじ物差しを持つことを求められているっていう現実は理解できる?
増田の自衛隊が異常者を許容しろというのを拡大すると、増田が兵隊であったとき、「隣に異常者が居て、それが鉄砲を持っていることを許容する」と宣言していることにほかならないのだけど。
他者に寛容を求めるというエゴイズム、極めて冷酷かつ卑劣な態度にも少しは思いを致して欲しいところ。
増田の中にも厳然と「これはコストとして負担し合うにしても流石に割に合わない」というラインが有ることを突きつけられることに思いを致して欲しいところ。
カッコつけられるからと安易に博愛主義者を気取るなよ。リベラルみたいな末路を迎えるぞ。
*追記*
ごめんね。
否認と嘲りを中心とした社会の作り方をしているんだね日本は相変わらず。
人間の個体差に対しての対処を、目先の楽さ優先で終わらせ続けたら地獄ばっかが広がるだろ。
皆でそんなこと続けてさ、いざ自分が老人になってセルフレジが使えなくなったら、店員にキレて「ふざけるにゃ!僕はもうこの店には来ないぞ!」とセルフ出禁を続けるうちに最後は何も食えるものがなくなって餓死するだけじゃん。
面倒くせーけど個体差に対してのすり合わせを社会が繰り返していくしかねーなって態度で皆が挑んでいかんとアカンじゃろ。
全員でコストを払い続ける覚悟を持っていくことが、結果として自分を守るセーフティーネットを社会に形作ることになる。
「人に優しくしよう」というフワフワした話ではなく、「自分がコストを払ってもらう側になることを想定して、自分もコストを払う側としてやっていった方があとあと気持ちが楽だし、自分がコストを多く払わせる側になることも想定して、多く払わされてても気持ちの上でぐらいある程度は容認しといた方がいい。そうしないと後々自分の番になって自分の中にある恥の感情に殺されるぞ」ってことだよ。
大丈夫か?
こんなに他人に対して冷たい態度を繰り返していて大丈夫なのか?
それとも自分に有利な物差しを振り回し続けて「俺の悪癖はよくあるものだから許されるべき、俺が持っていない悪癖は極めて特殊な異常事態だから糾弾されるべき」みたいな事を言い続けながら自分は正しいと思いこんで他人からは影でアンフェアなクズとして後ろ指を指され続けるのか?
他の作品の悪口を言うから。特に今映画をやってるアイドル作品。本当にごめんなさい。
特に過激なスタリファンはカルナイやヘヴに対して言ってる。キャラクターだけじゃなく声優にまで言ってる。
色が同じだの得意な楽器が被ったの本当にくだらない。
Welcome to UTA☆PRI worldのときもそうだ。
他のグループが一緒に歌ったというだけで大事な歌が奪われたと言っていた。意味がわからない。
歌はみんなで楽しく歌うものだ。
何か気に入らないことがあると叩き出す。それに対して理由を言ってるが納得できるものはない。だって気に入らない人たちが勝手に決めた物差しで悪者にしているから。
叩いていることが間違っていると言っても聞かない。だって自分が絶対に正しい、正義だと思っているから。
せめて見えないように鍵かけて仲間内だけで言ってればいいのに見えるように言って、見えてしまった人たち傷つけて、傷ついた人たちが何か言ったら晒しあげて、あたかも自分達が被害者ですよって振る舞って。もう無敵の人たち。何を言ったってもう自分たちの都合のいい言葉しか聞かない。
そりゃうたプリファンが怖いって言われるよ。言われるようなことずっとしてるから。
美味しさって普通いろんなレイヤーがあると思うんだけど、それを一つの物差しで測ってるような違和感がある
高級イタリアンはもちろん美味いけど、コンビニのパスタや冷凍食品のパスタも最近はクオリティ高くてそれなりに美味しいと思う
でも冷凍食品のパスタが高級店に出てきたら「なんか…あんまり美味しくないね…」ってなるだろ
美味しさの受容度は期待値によって変わるので、期待値より上か下かで評価が決まるし、気分や場面によって行く場所のレベルを使い分けるのが普通
そういう意味でサイゼリヤは、普通の社会人が「今日は美味しいもの食べに行くか」的な期待値で行くところではないというだけでは?
「船頭多くして船山に登る」の一言で終わる話だ。
組織の運営方針について構成員が全く理解していない状況は問題だが、「どういった方針を定めるべきか」についてを全員が考えることほど無駄なものはない。
「経営者サイドが運営方針について悩んでいるのだから、それを全員に分かって欲しい」なんて言うのは甘ったれた無意味な行為だ。
「新人は給料が少なくて困っているから重役の方針も同じレベルに合わせて欲しい」ともしも言われたらどうするつもりなんだろうか?
「僕が大変だから同じように苦しんで欲しい」とはそういうことだ。
「そうじゃないよ。この組織がどこに向かいたいのかを共有するために皆が経営者として考えてほしいんだ」なんていうのは、本当に全員が経営者の組織であって初めて成立する話だ。
何故なら、もしも末端の従業員が「経営者的な感覚で考えたのですが」と方針を打ち出したとして、それは組織の中のどこにまで届くのだろうか?
きっと何の影響も及ぼすこともなく、「下っ端が戯言を抜かすな」と握りつぶされるだろう。
ならば、経営者感覚を持つというのは組織として完全に無駄なのだ。
「自分が考えたことが、形になる」と思えるから人間は真剣に考える。
真剣に考えもしないならそれに脳のエネルギーを使うことは無駄でしか無い。
「経営者感覚を皆に持って欲しい」と思ったとき、それが単なる甘えでないのなら、自分が経営を相談できる相手をちゃんと雇うべきだ。
無駄金くらいの嘘つきだらけではあるが、彼らには彼らなりのノウハウが有る。
経営について何のノウハウもない従業員に無駄な考えを巡らせ、その時間で学ばせるべきだった本来のノウハウを蔑ろにするぐらいなら詐欺師まがいの連中に試しに金を渡してみるほうがまだマシなのだ。
何故なら、無駄な考えを巡らせる時間は従業員を遊ばせているだけであり、それは人件費の無駄であるだけでなく、成長機会の剥奪でもあるのだから。
経営とは結局のところは金勘定でしか無いわけで、対して実務とは様々な要素が絡み合う複合的なものだ。
実務の持つややこしいあれやこれやを経営に持ち込みすぎると、組織の運営方針はグチャグチャにこんがらがって迷走していく。
経営は投資と似た側面があり、下手に動かずにドッシリと結果を待てることが重要になる。
対して実務は小さな改良を何度も繰り返していく必要があるものだ。
もしも経営に小さな改善を持ち込もうとすれば、それは小さなムダを削るために大きな時間をかける巨大なムダへと繋がりかねない。
逆に経営のような単純な物差しで実務を測ろうとすれば、それは小さくこじんまりとした競争力のない仕事や、逆に実現性のない巨大な夢に向けた片道切符へと繋がっていく。
組織の中で果たすべき職務にはそれに適した考え方が必要であり、それらは時に切り離して考えるほうが上手くいく。
誰もが同じ感覚を持った組織というのは脆弱なものであり、経営者サイドのチャチな孤独感を癒やすために組織の色をやたらと染めたがるのは弱体化しか生み出さない。
経営者感覚を全員に持ってもらおうとするのは絶対に辞めた方がいい。
もう一度いうが、組織規模が5人程度で全員が共同経営者ならばそれでもいいだろう。
だが、組織の中に経営者ではないものがいる組織で、経営者でもないものに経営者感覚を求めるのはやめろ。
むしろ経営者感覚では測れない見方をしてくれる相手の存在を維持し続けるために、下手に経営者感覚を持つなと伝えていくべきだ。
何度も言うが、くだらん「皆が僕と同じことで頭を悩ませて欲しい」という考えに囚われるのをやめろ。
仕事で色々な人と関わるとこのひとやりやすいなーって人と、この人やりづらいなーって人がいる。
端的にいうと柔軟か柔軟じゃないかなのだが、柔軟じゃない人は見通しが立たないととにかく動かない、自分の視野の外からの意見は否定から入るので、物事が進まないし進ませるためのコミュニケーションコストが高くついてしまう。
特に昔からいる人とか、自己学習しない年齢いった人に多いなぁと感じる。若い人は物事の物差しがないためとりあえずやってみてくれるし素直だ。若くなくても自己学習をして変化に対応できている人も柔軟。
あとは上から目線の人は自分の視野の範囲内で他人を評価する傾向にあるので扱いづらい。自分の得意領域以外のことはしようとせず、得意領域はある程度評価されるものの全体を見たときにどうかというと微妙だったりする。
端的に言うなら、プロアマ問わずクラシック以外のジャンルで活躍できる取っ掛かりが少なすぎる。
それもあって弾ける人になればなるほど、クラシック一辺倒の価値観に染まりすぎているという問題があったり。
そもそもクラシックのヴァイオリンの奏法は「芯があって抜けがある音」を必ずベースにするという、原点にして絶対的なルールがある。
なおその根拠は、ヴァイオリンが生まれた当時のヨーロッパで、それが最も自然かつ上質な(≒耳に心地よい)音だったから程度の話にすぎないと推測される。
つまりクラシックの奏法を至上とするような価値観に、実のところ大した説得力はなかったりするのだ。
しかしヴァイオリンが誕生してから現在に至るまでの数百年間、ヴァイオリンの表現技法はクラシックな奏法をベースに、
もう少し具体的に言うなら「芯があって抜けがある音」で弾けることを前提ないし出発点にした演奏体系のもと発展してきた。
なのでクラシックな奏法を無視した全く別の体系の奏法、あるいは新しい奏法を開拓するのは容易ではないし、
クラシックに拠らない奏法を教えられる教室も指導者も、クラシックを教える先生に比べたらほぼ皆無と言っていいくらいに少ない。
というわけで多くの奏者はクラシック以外のジャンルでも、クラシックな奏法という「型」からどの程度外れても問題ないか…という物差しで演奏することを余儀なくされている。
このスタンスが、ライブや配信における選曲および機材の設定にも大きく影響していることは確実だろう(どう頑張ってもヴァイオリンに向いている曲が限定されてしまう)。
つまりヴァイオリンはクラシックな奏法によって守られているのと同時に、枷にもなっているのだ。
そんな、事実上クラシックの奏法で学ぶしか選択肢がない環境でヴァイオリンの弾き方を体得する人が圧倒的多数なため、
特に幼少から現在までヴァイオリンを続けている人ほど、知らず知らずのうちにクラシック中心の感性になってしまっていることもまた、こうした状況が好転しない一因になっていると考えられる。
上に書いた「どのようなジャンルでもクラシックの奏法から外れすぎない」ことに腐心する感覚に始まり、クラシックの奏法で演奏しないorリスペクトしない奏者に極めて冷淡な人が多いのだ。
別の言い方をするなら、相対的な価値観でもってクラシックの奏法に重きを置かない者を、ヴァイオリン弾きとして認めない風潮が強いということになる。
これはクラシック一辺倒で弾いてきたことにより、クラシックの奏法に拠らない弾き方で発せられた音に違和感が強すぎて、耳が受け付けなくなってしまった結果である。
要するに「生理的に無理」ということであり、更には
「たとえ同好の士であっても備えている知識や教養のレベルに差がありすぎると、話していて辛くなる」
という、美術とか文学とかでも普遍的にありそうな話でもあるので、この差別主義的とも言える空気はそう簡単に変わらないと思われる。
ヴァイオリンは本当に美しい楽器だが、クラシック以外でも輝く美しさに幼少から触れられる環境が、これからもっと増えていってほしいと願うばかりだ。
← それって逆なんじゃないの? このような社会的な不公平に関する指標としてIQが使えるという示唆でしょ。社会的な不公平がこんなにまでもIQの数値に表れているという観察。
オレも(これほど言葉がキツくはないけど)そうおもった
アフリカでの「あなたは一人で電話をかけられますか」は全然難易度が違う問題なんだ
交通事故にあわないための信号の見方が生き残りに必須な知識である国もあれば、
大型動物におそわれないための行動が生き残りに必須な知識である国もあるんだ←いっとくけど日本も昨日ジブリパークすぐちかくに熊が出たんだぞ
でもIQ測定問題つくってるのは欧米人なんで同じ問題つくっておいて全く疑問をもたない
そんな恣意的なIQを統計科学での物差しとして使おうとするほうが草もはえない行動だとおもうぞ元増田
なお横の横だからな
追記:
もちろんジブリパークから逃げたのでは無く野生熊が発生してる話だよ
4月27日以降、海上の森内においてクマらしきものの目撃情報が複数あります。
かいしょうのもり
https://www.pref.aichi.jp/kankyo/sizen-ka/shizen/shizenho/12.html
https://www.google.co.jp/maps/dir/%E3%82%B8%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%80%81%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C%E9%95%B7%E4%B9%85%E6%89%8B%E5%B8%82%E8%8C%A8%E3%82%B1%E5%BB%BB%E9%96%93%E4%B9%991533-1+%E5%86%85+%E6%84%9B%E3%83%BB%E5%9C%B0%E7%90%83%E5%8D%9A%E8%A8%98%E5%BF%B5%E5%85%AC%E5%9C%92(%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF)/%E3%80%92489-0857+%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C%E7%80%AC%E6%88%B8%E5%B8%82%E5%90%89%E9%87%8E%E7%94%BA%EF%BC%93%EF%BC%90%EF%BC%94%E2%88%92%EF%BC%91+%E3%81%82%E3%81%84%E3%81%A1%E6%B5%B7%E4%B8%8A%E3%81%AE%E6%A3%AE%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC/@35.1857351,137.0783633,14z/data=!3m1!4b1!4m14!4m13!1m5!1m1!1s0x600367450203d0b3:0x36164b7a69c5128b!2m2!1d137.0885101!2d35.1758569!1m5!1m1!1s0x600367095a8b5507:0xd6484e3f32c536ea!2m2!1d137.111377!2d35.187924!3e2?hl=ja
他にも神戸の住宅街にイノシシがでたりしてるのにこのブクマカは「けものをおりに入れろw」でやり過ごすのかなw
https://anond.hatelabo.jp/20230417120220
私は山上徹也に同情する。つまり情状酌量の余地があると思っている。
『テロリストの主張に沿った物言いをすることがテロ容認だ』や『目的の正しさは手段を正当化しない』というコメントを目にしたが、山上のやったことが正しいことだとは思っていない。
手段は誤っており、殺人で、有罪である。しかし情状酌量の余地がある。この2つは両立する。
「同情する」という感情は私だけのものではなく普遍的に存在する。しかし社会の大きな枠組みとして存在するわけではなく、個人の意思に委ねられるので、消すのは難しい。というか無理である。
例として、ある会社で社員の不注意により事故が起こった。今後事故を起こさないようにするにはどうすればよいかを考える。「もっと注意する」は効果が薄い。人間のミスは無くせないから。根本的原因を解決するか、事故が起こっても大事に至らない方法を考えるのが正しい。
これと同じように「犯人に同情する」という消せないものを消すことに力を注ぐのは何かずれてるなという気がする。そんなことでこの負の連鎖は解決しない。
次に、『テロの背景を知るとか原因に対策するとかという議論がナンセンス。テロの主張にスポットを当てること自体が、次のテロの原因になる。テロを起こせば言い分を聞いてもらえる社会なら、テロがなくなる訳ない。』という意見。
「テロ」とは「政治的目的を達成するために殺害など苛酷な手段で、敵対する当事者さらには無関係な一般市民などを攻撃し、そこで生ずる心理的威圧や恐怖心を通して譲歩や抑圧などを図るもの」とされている。
無差別殺人テロであれば私だって「情状酌量の余地なし」と思うけど、山上は「安倍元総理の隣の人に当たらないくらいの距離まで近づいた」と言っている。正直なところその他の殺人事件被害者1人との量刑差を見いだせない。
今回のテロであれば敵対対象が明確な分恐れもない。知らないうちに国に巣くってるカルトの方が怖い。
一部ではあるが『いかなるテロも容認できない』と主張する方々の中には一方で『いかなる差別(実際には区別)も絶対的な悪だと決めつけてしまうと、自分は悪ではないので差別しない→自分がしているのは差別(区別)では全くないという誤った認識に陥ってしまう。ある程度の"区別"は社会に必要だよ。』なんてブコメしている人もいる。都合がいい物差しじゃないか。そして根拠薄弱の自覚があるのか自らの主張を「民主主義に対する脅威」として権威付けする。
個人ではなく国として「テロ犯の要求は聞かない」という方針はありだとは思うけど、だからって自民党議員の半数近くが教会と接点を持つような脅威とカルトを放っておくのはなしでしょ。結果的にそれが山上の主張に沿う形になったとしても対応すべきだよ。
何より山上からすると旧統一教会のせいで家族が崩壊した中で、国に頼ろうにも政権与党が「政治的な正しさや国民の苦しみよりカルトとの癒着による議席の確保が大事」だとしてきたわけで「ではこちらも正しさなど知ったことではない。」と山上に言われたら返す言葉ないじゃん。
これって「テロを起こせば言い分を聞いてもらえる社会」だからではなく「テロでも起こさないと言い分を聞いてもらえない社会」だったからだよね。(岸田首相襲撃の木村容疑者に関しては何も分かっていないため今判断しても的外れになるので書かない。)
欺瞞だと言っている時点で良心の呵責はないのかと言って責めているのと同じだよ。
あなたこそ不必要な十字架を背負っている自覚は持った方がいいよ。
セルフネグレクトという言葉を調べてみると良いね。判断能力が低下した本人自身が正しいと思っていることが必ずしも意識がはっきりしていた頃も正しいと思っていたかとは言えないんだ。
本人の意思が不十分である以上それを責任者か社会の物差しで正すのが福祉の仕事でもあるんだけど、それに基づいて病院や施設に収容することもあるからその場の本人の意見を聞いていたら騙していると思うかもしれない。
でも糞をこねくり回して楽しそうに笑いながら口に入れる人間をそのままにしておけるほどこっちは悪ではいられないんだよ。
もちろん法律上問題ない形で、なおかつ他の専門職との打ち合わせや緊急時対応してくれる家族の意向を確認した上での対応にはなるけどね。
あなたみたいな人から在宅から施設へ移すことがたとえ親不孝だ、騙していると言われても、こっちはその人が他人の物を盗んだり車へ飛び込んだり笑われるような言動をしたりしないようにこれ以上周囲から貶められないように保護しているだけだから結局本人のためなんだよ。
家族にも福祉サービスに頼ってよかったですということも福祉の仕事だね。
WBCフィーバーはいまだ冷めやらぬ中、どこかしこも大谷くん、大谷さん、大谷選手、メディアでは大谷翔平……と彼を称賛する文言の多さが日本を席巻している。
そんな中あの大谷翔平を「オオタニ」と呼ぶ一人の日本人野球選手の逆襲を期待したい。
彼の名は藤浪晋太郎、198cm82kg。大谷翔平より10kgは軽いが上背はほとんど変わらない。
大谷翔平と同い年で高校生時代は大阪桐蔭で甲子園を制覇。愛工大名電の左腕浜田と3人並んで高校生BIG3と言われてNPBへ。
そして今季からはオークランドアスレチックスで腕を振るたった1人の日本人選手だ。
オープン戦ここまでの成績は3勝0敗3.86、まずまずの数字が並ぶがNPB時代から相変わらずの四死球率は変わっていない。
特筆するのは被安打率ではあるが、全ての投球内容やニュースを追っていないので、数字上この投球を大谷級と呼ぶには少し遠いことは間違いない。
野球に詳しくない人からしたらそもそも「藤浪? だれ?」の世界ではあるが、そもそも藤浪はデビューして3年はあの大谷翔平を彼方へ置いていく活躍だったことは間違いない。
10勝6敗して新人特別賞獲得、様々な記録に「高卒初」の文字が紙面に踊り、3年目にはシーズン200奪三振。松坂を超えるスピードで成績を積み重ね200勝も狙えるポテンシャルであったことは間違いない。
大きなケガも無く、その将来は大谷より先にメジャーへ到達することが約束されていたようだった。
しかし結局それはかなうことはなく、大谷翔平という名前が世界で認知された後、ひっそりと今年阪神をポスティングで放出されこのオークランドへとたどり着くことになった。
その藤浪を獲得したアスレチックスはかつてマネーボールと呼ばれた運営の本質は変わらず、2022年シーズンは年俸総額約64億円で日本の球団でいうとソフトバンクと変わらないコストで運営されている。
2023シーズンに限って言えば想定額約42億円なので、楽天~巨人~ヤクルトあたりのコスト感になっている。
短縮シーズンの2020年に優勝したもののファイヤーセールで選手を大量放出し、2022年は100敗を経験して凋落。
阪神タイガースの4,5,6番手を争っていた藤浪を獲得して先発2番手に据えるほどには選手に困窮していることは見て取れる。
藤浪は一方で大谷を超える選手とされ、一方では終わった選手とされ、一方ではアスレチックスを救う救世主とされ、また一方では思い上がりのメジャー挑戦とされた。
お互いの立場は違えど、世界のヒーロー大谷翔平と相まみえる日がおそらく来る。
ただ言いたいのはいつだってスポーツはジャイアントキリングが待っていてもおかしくないということだ。
かつて自分を置き去ったライバルがいる地へ、道は違えど彼もまたたどり着いたのだ。
かつては肩を並べ、時には自分の後塵に拝していた大谷に遠慮なんていらない、同級生なんだ。そんな彼の自然なプライドがあの大谷翔平をオオタニと呼ばせるのだ。
腐らず飄々として、何年たっても垢抜けず、大谷翔平とはまた違った野球小僧のような風貌の彼が、アメリカの地で再び大谷翔平と対峙する日を心待ちにしたい。
藤浪頑張れ! 俺は応援してるぞ!