はてなキーワード: 戦後日本とは
想像してみてほしいんだが、いま北朝鮮とたとえばアメリカが戦争になったとして、戦後にどういうことになると思うね?
「主体思想」を中核に置き、革命的社会主義を信奉し、朝鮮労働党の一党支配を前提とした現行憲法をそのままにして「改革」する?
当時の連合国から見た「全体主義(ファシズム)国家」ってそのレベルの存在だよ。
ちなみに、現行憲法を一方的な押し付けだとか、占領軍の指導をアメリカによる一方的な強制だと論じるのは、当時の日本側がそれとどのように交渉し戦後日本を形作っていったかを考えたことがない(考えさせたくない)右翼のプロパガンダだからね。戦後日本の問題を全部占領軍と左派勢力のせいにできるんだから、陰謀論てほんと便利だとは思うが、そんなレベルの低い宣伝を単純に信じるようにはなりたくないね。
[追記]
元増田は別に「いい悪い」の話をしてねーよな。「異常じゃないの?どうなの?」って聞くから、「異常じゃねーよ。今でも十分起こり得るだろ?」って例示して見せたんだが。おまけに、どこをどう見たら 馬鹿にしてることになるんだか。ああ、右翼だから馬鹿にされたと思ったのか? うん、そうだね、右翼は馬鹿だね。でも馬鹿に人権がないとは思わないから気にしなくていいよ。
ドイツは戦争責任の大半をナチスドイツになすりつけることができたけど、日本は当時の指導者を英霊で祀ることで切り離すことができなくなったのがでかいんじゃね?
ドイツは「ヒトラー含めナチスが元凶。ただそういった指導者を選んだドイツ国民にも問題があったので二度と同じ過ちは繰り返さない」って論理だから周りも納得できる。
一方日本は「同時の日本は誤った判断をしたが、国のために戦った英霊(A級戦犯含めて)には感謝。それに戦前の日本にもいいところはあった」って論理だから周りは「お前ら本当に反省してるの?」ってなる。
だっていくら日本国民に自覚がないとはいえ、靖国神社でA級戦犯含めて英霊全員に祈り捧げてるんだから、そりゃいつまでたっても戦争責任を問われ続けられるだろ。
いっそ当時の昭和天皇が絞首刑とかになってたら戦争全体の責任とったってことでけじめついてたかもしれんけど、それじゃ戦後日本の統治が難しいとGHQが諦めた時点で今のような状況になるのは最初から決まってたんだな。戦後直後の戦後処理の甘さが、60年70年たってどんどん積もって拗れたかんじ。
かといって国同士の約束事を平気でちゃぶ台返しする韓国のやり方にはまったく共感できないし。
外交って難しいよね。
下記に署名した日本研究者は、日本の多くの勇気ある歴史家が、アジアでの第二次世界大戦に対する正確で公正な歴史を求めていることに対し、心からの賛意を表明するものであります。私たちの多くにとって、日本は研究の対象であるのみならず、第二の故郷でもあります。この声明は、日本と東アジアの歴史をいかに研究し、いかに記憶していくべきなのかについて、われわれが共有する関心から発せられたものです。
また、この声明は戦後七〇年という重要な記念の年にあたり、日本とその隣国のあいだに七〇年間守られてきた平和を祝うためのものでもあります。戦後日本が守ってきた民主主義、自衛隊への文民統制、警察権の節度ある運用と、政治的な寛容さは、日本が科学に貢献し他国に寛大な援助を行ってきたことと合わせ、全てが世界の祝福に値するものです。
しかし、これらの成果が世界から祝福を受けるにあたっては、障害となるものがあることを認めざるをえません。それは歴史解釈の問題であります。その中でも、争いごとの原因となっている最も深刻な問題のひとつに、いわゆる「慰安婦」制度の問題があります。この問題は、日本だけでなく、韓国と中国の民族主義的な暴言によっても、あまりにゆがめられてきました。 そのために、政治家やジャーナリストのみならず、多くの研究者もまた、歴史学的な考察の究極の目的であるべき、人間と社会を支える基本的な条件を理解し、その向上にたえず努めるということを見失ってしまっているかのようです。
元「慰安婦」の被害者としての苦しみがその国の民族主義的な目的のために 利用されるとすれば、それは問題の国際的解決をより難しくするのみならず、 被害者自身の尊厳をさらに侮辱することにもなります。しかし、同時に、彼 女たちの身に起こったことを否定したり、過小なものとして無視したりする ことも、また受け入れることはできません。二〇世紀に繰り広げられた数々 の戦時における性的暴力と軍隊にまつわる売春のなかでも、「慰安婦」制度 はその規模の大きさと、軍隊による組織的な管理が行われたという点におい て、そして日本の植民地と占領地から、貧しく弱い立場にいた若い女性を搾 取したという点において、特筆すべきものであります。
「正しい歴史」への簡単な道はありません。日本帝国の軍関係資料のかなり の部分は破棄されましたし、各地から女性を調達した業者の行動はそもそも 記録されていなかったかもしれません。しかし、女性の移送と「慰安所」の 管理に対する日本軍の関与を明らかにする資料は歴史家によって相当発掘さ れていますし、被害者の証言にも重要な証拠が含まれています。確かに彼女たちの証言はさまざまで、記憶もそれ自体は一貫性をもっていません。しかしその証言は全体として心に訴えるものであり、また元兵士その他の証言だけでなく、公的資料によっても裏付けられています。 「慰安婦」の正確な数について、歴史家の意見は分かれていますが、恐らく、 永久に正確な数字が確定されることはないでしょう。確かに、信用できる被害者数を見積もることも重要です。しかし、最終的に何万人であろうと何十万人であろうと、いかなる数にその判断が落ち着こうとも、日本帝国とその戦場となった地域において、女性たちがその尊厳を奪われたという歴史の事実を変えることはできません。歴史家の中には、日本軍が直接関与していた度合いについて、女性が「強制的」に「慰安婦」になったのかどうかという問題について、異論を唱える方もいます。しかし、大勢の女性が自己の意思に反して拘束され、恐ろしい暴力にさらされたことは、既に資料と証言が明らかにしている通りです。特定の用語に焦点をあてて狭い法律的議論を重ねることや、被害者の証言に反論するためにきわめて限定された資料にこだわることは、被害者が被った残忍な行為から目を背け、彼女たちを搾取した非人道的制度を取り巻く、より広い文脈を無視することにほかなりません。
日本の研究者・同僚と同じように、私たちも過去のすべての痕跡を慎重に天秤に掛けて、歴史的文脈の中でそれに評価を下すことのみが、公正な歴史を生むと信じています。この種の作業は、民族やジェンダーによる偏見に染められてはならず、政府による操作や検閲、そして個人的脅迫からも自由でなければなりません。私たちは歴史研究の自由を守ります。そして、すべての国の政府がそれを尊重するよう呼びかけます。
多くの国にとって、過去の不正義を認めるのは、未だに難しいことです。第二次世界大戦中に抑留されたアメリカの日系人に対して、アメリカ合衆国政府が賠償を実行するまでに四〇年以上がかかりました。アフリカ系アメリカ人への平等が奴隷制廃止によって約束されたにもかかわらず、それが実際の法律に反映されるまでには、さらに一世紀を待たねばなりませんでした。人種差別の問題は今もアメリカ社会に深く巣くっています。米国、ヨーロッパ諸国、日本を含めた、十九・二〇世紀の帝国列強の中で、帝国にまつわる人種差別、植民地主義と戦争、そしてそれらが世界中の無数の市民に与えた苦しみに対して、十分に取り組んだといえる国は、まだどこにもありません。
今日の日本は、最も弱い立場の人を含め、あらゆる個人の命と権利を価値あるものとして認めています。今の日本政府にとって、海外であれ国内であれ、 第二次世界大戦中の「慰安所」のように、制度として女性を搾取するような ことは、許容されるはずがないでしょう。その当時においてさえ、政府の役 人の中には、倫理的な理由からこれに抗議した人がいたことも事t実です。し かし、戦時体制のもとにあって、個人は国のために絶対的な犠牲を捧げることが要求され、他のアジア諸国民のみならず日本人自身も多大な苦しみを被 りました。だれも二度とそのような状況を経験するべきではありません。
今年は、日本政府が言葉と行動において、過去の植民地支配と戦時における侵略の問題に立ち向かい、その指導力を見せる絶好の機会です。四月のアメリカ議会演説において、安倍首相は、人権という普遍的価値、人間の安全保障の重要性、そして他国に与えた苦しみを直視する必要性について話しました。私たちはこうした気持ちを賞賛し、その一つ一つに基づいて大胆に行動することを首相に期待してやみません。
過去の過ちを認めるプロセスは民主主義社会を強化し、国と国のあいだの協力関係を養います。「慰安婦」問題の中核には女性の権利と尊厳があり、その解決は日本、東アジア、そして世界における男女同権に向けた歴史的な一歩となることでしょう。
私たちの教室では、日本、韓国、中国他の国からの学生が、この難しい問題 について、互いに敬意を払いながら誠実に話し合っています。彼らの世代は、 私たちが残す過去の記録と歩むほかないよう運命づけられています。性暴力 と人身売買のない世界を彼らが築き上げるために、そしてアジアにおける平和と友好を進めるために、過去の過ちについて可能な限り全体的で、でき得 る限り偏見なき清算を、この時代の成果として共に残そうではありませんか。
あっちの界隈で時々見かけるけど、無理筋だよね。
そりゃ、日本が併合する前の韓国なんて旧弊な中国の属国で、近代化なんて無理だったんだろうし、日本がインフラつくったり、ハングルの教育すすめたり、白菜持ち込んで白菜キムチの発展に寄与したのは事実かもしれないけどね。
でも「だから日本に感謝しろ」ってもそこは素直に感謝なんかしにくいだろ?
あっちの界隈の人たちが、原爆落として本土決戦を回避しつつ、旧弊な大日本帝国を滅ぼして、戦後日本が、一時的とはいえ世界第二位の経済大国になるためにいほいろやってくれたアメリカさんに心から感謝するかというと、んなことはないでしょ?
戦後日本では、自民党が長い間与党であり続けた。野党は、自民党が出してきた法案に賛成するか、反対するか、どちらかでよかった。
どちらにしても自民党が出してきた政策ありきで、自民党の政策立案能力にある意味依存し続けてきた。
現実の課題に直面して、いちから利害調整などをして実効的な政策を立案するという経験を、自民党以外の政党はほとんど体験してこなかった。
選挙になれば公約は出すけれど、現実に利害調整などをして法律や政策にまとめ上げることまでは想定していなかった。
だから、野党は今一つ政権担当能力を持つことができなかった。民主党政権の失敗は、実効的な政策を立案する経験をしてこなかった政党が、いきなり実効的な政策を立案しなければならない立場に立ったためだ。
ただ、政策立案能力を自民党が独占するのは、あまり好ましいことではない。野党にもちゃんと政策立案能力・政権担当能力を持ってもらわなければならない。政党間競争がなければ、政治は腐敗するばかり。
野党にも、現実に直面して、いちから政策をまとめ上げ、実際にその政策がもたらした効果を知り、再び政策を修正する、そんな能力を持つことが必要だ。
ところが、今のところ、政策立案能力・政権運営のノウハウは、自民党が独占している。野党を鍛えようなんてつもりはこれっぽっちもない。いつまでも国会では数の力で押し切り続け、野党は与党の横暴をなじる。そんな風景がずっと続いている。これではいつまで経っても野党は万年野党だ。
これ、なんとかならんだろうか。与党は直面している現実を詳らかに明かし、国会の場で与野党で政策論争を行い、そして一つの政策・一つの法律を作り上げる。そんな作業を繰り返していくことが、野党を鍛えることにつながる。
だけど、自民党には野党を鍛えるつもりはないんだろうな。いつまでも自民党が政権を独占していたほうが、そりゃ自民党にとってはいいんだもんね。
自民党は「愛国心」を言う割には、国家国民のために健全な政党間競争を育てるつもりはこれっぽっちもない。そうか、これが55年体制というものか。
箸の持ち方やマナーに関して何やら揉めているようだが
ちゃちゃこ正直クソババアお母さんという下品なハンドルネームの女や
もじゃもじゃ頭のNO科学者が「持ち方の自由」を主張している。
だが、騒ぎの本質は「正しい」という表現への脊髄反射。それだけ。
これが子供ではなく、いい歳した大人の態度というのだから驚きだ。
動作や操作に関しては「適切なフォームやポジション」が存在する。
私は筋トレが趣味だが、いわゆる「正しいフォーム」というのがあり
その「正しいフォーム」とは「数多の先人達による膨大な試行錯誤と経験則」から
「平均的、あるいは好ましいフォーム」として定まったと解釈している。
そして「正しいフォーム」は自ずと美しく見える。
もちろん平均から外れる人もいる。私も種目によっては正しいフォームが合わない。
「正しいフォーム」を頭ごなしに否定し自由で良いんだと言うのは
結局「使いやすければどんな持ち方でも良い」を突き詰めれば
必ず、前述した「数多の先人達による膨大な試行錯誤と経験則」の繰り返しになる。
「正しい」とされるに至るプロセスを辿らず表面だけ見ているとそんな事にも気付けない。
基礎を禄に学ぼうとしないのに「なんとなく」「雰囲気で」調理する。
満足しているのは自分だけ。
ただ「正しいとされたきた」全てを肯定しているわけではない。
例えば「下半身強化には走り込みが常識」という主張には反対だ。
筋力が上がるどころか下がるリスクの方が高いというの学んだからだ。
強化の観点からすれば走り込みは裏付けのない根性論でしかないとわかる。
マナー・エチケット・フォーム・ポジションなどをご破算にし「自由」の行使を主張するなら、
今後、他者の無礼や無作法を「自由」の名のもとに受け入れる覚悟があるということか。
「お前が言うな」と嘲笑されても甘んじて受け入れるか見ものだ。
従来の正しさを葬ったところでまた独自の正しさを押し付けてくるのは明らか。
それが予想できないペラペラ人間には、モジャモジャ毛の生えたハートに箸を、いや釘を刺して
「いっぺん死んでみる?」と言ってやりたくなる。
現代に生きる自分が必ず最良の選択していると勘違いするのだろう。
「親の躾がなっていない」と。私は酷く憤慨した事を覚えている。
今思えば憤慨は恥ずかしさを隠すためだった。
魚や肉を綺麗に切り分けたりしているのを見て
同じ箸を使っているのにどうして自分にはできないのだろう、
そんな疑問が浮かび訊いてみた。
答えは簡単「あなたの持ち方がおかしいのよ」。たったそれだけ。
それから懸命に持ち方と動かし方を真似て練習。するとどうだろう。
今まで何となく不便を感じていた箸がまるで最適な道具になったかのよう。簡単に物を掴める切り分けられる。
米粒でも豆腐でもツルツルした煮豆でも容易く掴むことができた。
正しいフォームを反復練習するだけで、こんな大きな違いになるのか、
自分なりに使いこなそうとしていたのはなんだったんだと、己の視野の狭さと浅はかさに唖然とした。
そして何より箸を考案し正しい持ち方までも無償で提供してくれた昔の人にありがとうと思った。
ちゃちゃこ正直クソババアお母さんという女、ちらっと見ただけでも
その覚悟もなく子作りをした結果、子育てに窮し不平不満を爆発させ
どうせ子育てについて「正しさ」「適切さ」に反発して碌な情報収集や勉強もせず
「己を犠牲にしない自由な育児」なんてアホなお花畑思考だったのではないだろうか。
この女は悪知恵も働くようだ。
子育てしている主婦なら誰でも直面する不安を不平不満に転換させ肥大化と正当化を煽る。
悪いのは夫だ!親だ!環境だ!社会だ!と責任を他に求めるよう誘導し
あなたは一人ではありません、私のサロンで仲間と学び人生を謳歌しましょうと
夫のことを平気で「旦那」なんて呼べる品の無さと
「正直さ」と「あつかましさ」を履き違えたデリカシーの無さは見苦しい。
こんなのがチヤホヤされているのを見ると
未だに橋下や堀江を有難がっている人がいるのも頷ける。
【対案を出せ!】中野剛志が改革バカをぶった斬る【大阪都構想】
https://www.youtube.com/watch?v=EduqZb9Xf0o&feature=youtu.be&t=79
論理性をなくす背景に、新しいこと、普通、改革と言われている「Change」
「New Change」は何か良い事をもたらすはずだという漠たる…
変化を恐れるなとかですね。
それがずっと続いているんですね。
セリフ同じなんですよ。
お前起爆してやるっていうw
http://www.nicozon.net/watch/sm20102492
17:42~
そしてこれまでが全部悪かったんんだ、これまで全部否定して良いんだと言って始まった人達は
行き詰まってくると、またそれをやりたくなる。
これ言葉があるんですよね。
英語では「The Myth of the Clean Slate」って言うんですが
今のシステムチャラにして1からやり直すのが一番良いという発想です。
これをやりだすと大変なことになる。
で、壊すと言うことは何やら「現状に風穴を開ける」ということで
日本国憲法第四条に曰く、天皇は「国政に関する権能を有しない」という。
戦後日本は立憲主義の民主主義国家となったのだから、血統による継承を行う地位に付随する政治権力を持たせないのは当然のことである。
しかし、同時に日本は自由と平等の国となったはずなのだ。憲法に、特定個人の権能を制限する条文が堂々と書かれている。まったくもって自由とも平等ともかけ離れた事態だ。
真に自由と平等を指向するのであれば、法に特定個人の参政権を制限する条文があってはならない。
こんなことを書くと、多分不敬だなんだと騒ぐ者が現れるだろう。題に掲げた通りだ。私は天皇に敬意を抱かない。
私の持論では、戦後日本の天皇という『機関』(今更天皇機関説かよ、と言われるかもしれないが)は、日本国挙げての人権侵害装置である。
職を選ぶこともできず、生まれた時から人生を決められて、一生を縛り付けられる国の奴隷制だ。
だから私は、"天皇"に敬意を抱かないし、抱いてはならないと考えている。
究極の貧乏籤をひかされた"天皇"に対し、敬意を抱くということは、この悪しき制度を次代へ、さらにその次へと引き継ぐ力となってしまう。
私は、それを許容しない。
つまり、はっきり言ってしまえば、私は天皇制を廃止すべきだと考えている。
たとえ建前であっても、現実がそうなっていなくても、人間には平等に権利が存在する。
現実に流されて理想を語ることをやめたら、世の中はそれ以上良くならない。そして、私の理想とする社会には、生まれで権利を制限されるような人がいてはならない。
一方で。
30年という長きに渡って、自動的に背負わされた重責を、言動の一つ一つが見張られているような状態で勤め上げた明仁という方に対して、私は敬意を表したい。
これは、天皇に対する敬意ではない。私という人間が、明仁という人間に対して対等の立場で抱く気持ちである。
天皇と対等だなどと思い上がりも甚だしい、不敬だなんだという声もあるだろう。だが私はそれを聞き入れるつもりはない。
もちろん、私は彼のことを知っているが、彼は私を知らないだろう。会ったこともない。
そうだな、会ったこともない人に対して呼び捨てをする行為は、立場がどうであれ普通に失礼かもしれない。
だから、こうしよう。