2024-07-29

フランス革命矛盾象徴する人物、オランプ・ド・グージュ

フランス革命勃発後は、オランダで始まった女権運動に刺激を受けて、フランスでも女権運動を開始して、女性新聞を創刊し、愛国募金運動女性のための第二国営劇場建設などを計画した。

そしてフランス語では人間意味する言葉は同時に男性意味するため(仏 : homme)、『人間市民権利宣言人権宣言)』の中の「人間」には女性が含まれていないと考えて抗議運動を始める。

1791年憲法では実際に女性権利無視されていたこから9月14日9月5日)に自ら17条(人権宣言と同じ条数)から成る女性および女性市民権利宣言』を書いて発表した。

オランプは積極的演説活動を行い、記事を書き、愛国を謳った劇も書いた。彼女公然ロベスピエールやマラー批判ジロンド派を支持し、急進派の山岳派ながら"寛容派"のダントンを賞賛した。

1792年12月15日、オランプはルイ・カペー(前ルイ16世)の裁判に先立ち、元国王の弁護をしたいと国民公会に申し出たが却下された。

これが原因で彼女王党派と疑われ、家には人が押し掛けて脅迫を受けた。また女権伸張論を快く思わない革命派は彼女の行動を取り上げて嘲笑を浴びせたが、彼女問題にしなかった。

1793年7月20日、オランプはロベスピエールらを批判するポスターを貼る準備の最中に、反革命の容疑で逮捕された。

共和制連邦制立憲君主制のどの政権を選ぶか住民投票にすべきと呼び掛ける本を著したことによって反革命的と見なされた。

11月3日裁判が行われたが弁護士が出席せず、代わりの弁護士を付けることを願い出たが却下され、オランプ自身自身の弁護を行った。

彼女無罪確信していたが、扇動的な態度や王政復古を企てたとして有罪判決下り、同日午後4時に処刑された。

  • フェミやるのも大変なんやで もうちっとリスペクトしてくれや

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