はてなキーワード: 多寡とは
人口動態の変化の要因の大半は、寿命の変化と、少子化ですよね。
本文中でも書いていますが、寿命の変化についてはある程度傾向が見えているのでその前提で将来予想がされています。
少子化については変化する可能性がありますので、様々なパターンで予想がされていますが、その中での最悪の場合での結果を今回は書いています。(少子化が改善しない状態が続くってことです。)
詳しい結果は財政検証レポートのデータでたくさん掲載されいるのでそちらを参考に
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/nenkin/nenkin/zaisei-kensyo/index.html
1人が2人を勧誘して、2人が4人を勧誘してってのが、ネズミ講だと思います。
年金はそのような仕組みではありません。
この仕組みの良いところは、大きなインフレや賃金上昇が起こった場合、現役世代の賃金も当然上がりますので、現役世代の負担割合を増やすことなく、年金を増やせます。
長期的に見ると今後は物価は上昇しますし、賃金も上がりますので、この仕組みの方が優れているとされています。
自分でお金を貯めて将来受け取る場合、例えばインフレ率2%だと、40年後には貯めたお金の価値は半分以下になっています。
ちなみにこれで借金が増え続けていると思ってらっしゃるかもしれませんが、十分もらわずに亡くなった方も昔は多かったのでお金が余りました。
なのでこれまでのバランスで言うと入金がかなり多く、出金が少ない時期がありました。
それがGPIFというところで運用して増やして現在240兆円を超えています。
また現在は税金からの定期的なお金の入りもありますので払った金額以上にもらえています。
ただ、それだと低所得者は困りますよね。現役世代に払った金額が少ない方は老後の生活費を支えるのにも少なすぎるって事になります。
なので累進課税でお金がたくさんある人から多くもらっている税金を利用させていただいて、特に低所得の方でもある程度年金がもらえるようにしてくれています。
その厳しい少子化が続く前提でシミュレーションしても支給される年金が2割減る程度で継続できるという計算になっています。
人口ピラミッドの形が変わると、老人が増えるはずですよね。
ところが老人の定義を変更すれば老人は減ります。若者の定義を変更すれば若者を増やせます。
昔は55歳以上が老人でした。それが60歳になり、65歳になりました。
将来的にこれがどうなるかは本文の方でちゃんと書いていますので確認してください。
制度設計をしっかりすれば、それほど年齢を上げなくても年金制度は維持できそうです。
そうです。団塊ジュニアの年代は人口が多いので、老人になると一気にバランスが崩れます。
そこから団塊ジュニアの世代が亡くなるまでの15~20年程度は人口ピラミッドが一番アンバランスになります。(老人がが多い)
ここで、GPIFのお金がかなり使われる予定です。その時のために、現在はGPIFは運用を頑張っていて、さらにお金を増やしています。
この時に全部使うのではなく、その後もある程度お金が残る予定で、その後もGPIFのお金で年金の金額を多少増やしてくれる予定です。
今後数十年間を見るとGPIFのお金が年金支給の1割以上を支えてくれる予定です。
なので、ある程度株式などにも投資をしてしっかり増やしてくれています。
少子化がそのまま続くと、人口ピラミッドはある程度決まった形で落ち着きます。(当然こどもはすくないままですが)
歴史的に見ると平均寿命から15年くらい引いた年齢くらいから支給されています。もしも平均寿命がかなり延びた場合は支給開始年齢も上がると思われますが、もらえないって事はありません。
人口動態、人口ピラミッドは年金にとって一番大きな問題で、当然ながらまずそれを重視して検討されています。
絶対に決まった将来は無いので、人口動態については予想を何パターンも作って検討しています。
今回書いたのは、もっとも厳しい(少子化は改善しない、経済はあまり発展しない)というパターンでのお話です。
おそらくあなたの周りには、貯金や財産額であなたを遥かに上回ってる人は何人もいると思うよ。
でも、それがばれるとあなたが傷つくのが明白だから、隠してくれてるんだよ。
それが親友の優しさだよ。
あまり残業も頑張らず昇進も出来ない人が、実家が不動産物件を複数持ってる大富豪の息子だった。別に給料が多少多くても少なくてもどうでも良い人生のようだった。
副業で大きく稼いでいるけど、会社では仕事できる雰囲気を全く出さない人もいた。
たいして稼いでなさそうなフリーランスが毎年数千万稼いでるのを知ったときはびっくりしたけど、意外といた。
潰れそうな小さな会社の創業社長が、役員報酬は抑えているけど、会社に億単位のお金がもう溜め込み済みで老後まで安泰だったのも驚いた。
今回みたいな、社会的に幸せそうな方の、低月給・貯金なしアピールも嘘が多いよ。
だって給料や貯金まで上回ってしまったら、周りからさらに妬まれるのがわかってるから。
増田さんは、平均値と比較すると多いのは事実だけど、身近にあなたの資産をはるかに超える人が複数人いると思う。
増田さんは金額の多寡ではない、何か別の事でプライドを持てるようになると良いと思うよ。
貯金額って他人との比較が簡単にできてしまうので、もしもそれが自尊心の拠り所なんだったら、他人に負けたらプライドが傷つくしね。
例えば好きなグループを推しているとか、こどもが好きとか、友達と旅行に行くのが好きとかって、どちらが幸せか比較が難しいし、競争にならないんだよね。
我が家は、実家に近い住まいに住んでいるので、季節の変わり目やお盆には、お寺さんが来てくれる。
大体30分から1時間ぐらい。読経して、雑談して、お茶飲んで、だいたい5,000円ぐらい包んでる。(今のところ両親が負担している。)残念ながら宗派は伏せておく。
読経の時間は、瞑想時間に利用している。一定のリズムで詠まれる読経は、瞑想に入るバックグラウンドミュージックとして、とても良い。むしろ大学合唱部レベルの訓練を受けた人の生歌を聴きながら、瞑想できるとは、なんと贅沢なのだろう。
ちゃんとした線香を使えば、心地よい空間が演出できる。個人的な推し線香は白壇である。1,500円ぐらい出せば、ちゃんとした白壇の香りが嗅げるので、スタバのコーヒー3杯分で、100回ぐらい楽しめる。
そう、お寺さんがくる空間というのは、最近のスピリチュアルで推される要素をすべて満たした超良好空間なのである。
そして読経が終わると、お寺さんとの雑談をしている。近所の話題だったり、季節の事柄だったり、仏像の話だったり。
なによりもお伝えしたいのは、お寺さんの傾聴力の高さである。
色んな人と雑談するの仕事みたなものだと思うが、とても柔らかい物腰で聞いてくれる。このレベルの傾聴力があって、仕事できる人は、普通に都内で働いてる人なら、年収1000万クラスは硬いと思う。※某1on1支援企業に勤めている人を知ってるが、その人とくらべても遜色ないどころか普通にレベルはお寺さんの方が上かも。ビジネス的な側面だと1on1企業の方がわかってくれる感はあるだろうけど、一方のお寺さんには、地の利がある点で、わかってくれる感は上にくることがある。
坐禅・瞑想体験は、普通にセミナーに申し込んだら1回5000円~とか。某企業の1on1に申し込んだら普通に1時間数万ぐらいとか。自宅に来てくれた上で、2つセットで受けれるサービスなんで、普通はない。
このライフハックの一番むずかしい点は、接点を持つのが難しいところだ。入会要件が不明だからね。自分もあえて、寺を探そうとはならない。郊外住まいなのだが、いまのお寺さんは、お祖父さんが引っ越しをするタイミングで、本山に相談して紹介してもらったところだそう。
今のお寺さんの先代の人は、読経がうまくなかったので、おばあちゃんから難癖つけられていた。うまく代換わりで、お寺さんガチャに成功しただけかもれない。
お葬式になれば、だいたいちゃんとしたところを紹介してくれるし、変な葬儀会社紹介されてぼったくられるより安心。もし5,000が安すぎると思うなら、そのタイミングで課金すれば良いだけではある。懐事情も相談すれば良い※そういう意味では、お布施の多寡を問わないのは、所得の再分配機能をになっている。とも言える。
自分ひとりの体験では説得力に欠けると思うので、もう一事例を紹介しておく。奥さんの実家はそこそこ田舎なため、高齢化が進んでいる。そういう中で、ちゃんとニーズに合った活動をしていて、エンディングノートをテーマにした講演や、老後の資産活用のセミナーなんかもやっている。お寺で。下手な営業で詐欺に引っかかるよりはまともな人を呼んでくれているので、また信頼感をベースにしたコミュニティが維持されているようだ。
ということで、ライフハックとしてのお寺さんを紹介した。自分はたぶん、このままお寺さんとの関係は続けるだろうし、おそらくどこかでまた代替わりするかもしれない。お寺さんの良さみたいなものが少しでも、伝われば幸いである。
どうして「食欲」の話で「吐き気=嘔吐反射」が出てくるのか本当に謎です。
どういう理解をされたらそうなるんでしょうか?
欲というのは大雑把に言うと脳の働きを指す単語であって、胃の蠕動運動は食欲と関係する話題じゃないでしょう
胃液がたくさん出てきたことをもって、食欲を感じるんですか?イヤイヤ胃液の多寡なんて逆流性食道炎でもなければ知覚できませんよね?
まずそうなものを見る、想像する→食欲が減衰する→唾液が引っ込む
人間の身体ってこういうメカニズムじゃないですか?なんでここで「吐き気」が食欲の例として出てくるんでしょうか?
百歩譲って、上の例で言う「唾液が引っ込む」のところが「何も食べてないのに吐き気をもよおす」だったとすれば、まあいいんですけど、
その場合は吐き気って因果の果であって、因果の因こそまさに「負の食欲」ですよね?
たとえば、いわゆる警告色の生物
https://billionaire-wolf.com/2017/07/05/poison-frog-warning-colouration/
を見て、ウワ~これはうまそうだと唾液をしたたらせる人間がいますか?いないですよね?煮ても焼いても食えなそうだし唾液は引っ込むでしょ?
具体例でいえば、そのとき感じる感覚を「負の食欲」と呼んでいるのであって、うんまそうな唐揚げとか見た時の感覚と全く反対になると魂で理解できませんか?
ヤンキーVIP車のハの字のタイヤ(鬼キャン)のエントリがバズっていたので尻馬に乗って軽く書いてみる。
多くの人は車のタイヤは全部直立してると思ってるだろうが違うのだ。
そもそもなんでキャンバーが必要かという事が判らないと、ハの字にするのがカッコ良いとう文脈が出来たって事が判らない。ヤンキー文化というのは大抵、カッコいいの特徴を極端にし過ぎて独自文脈に至っているというのが多い。
『「タイヤがハの字」のクルマ、たまに見かけるけど何のため?→専門家の解説が的確すぎた!』
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/diamond.jp/articles/-/349720
まず、多くの人が抱いている直立タイヤを模式化する為にペンと小皿を用意して欲しい。ペンを直立に立てて小皿をペンにくっ付けて立たせる。ここの小皿がタイヤでペンがハンドルを切った時にタイヤが向きを変える軸だ。
ペンを動かさずに小皿を動かしてみると、小皿はその場で向きを変えるんじゃなくてペンの周りをグルっと回るような動きをする事が判る。
これが自動車だとこの小皿=タイヤには車重が掛かっているのだ。数百キロの重さが掛かっているタイヤ2本をこうやって位置を動かす、しかも腕の力で、というのははっきり言ってチャックノリス以外は無理である。だからこの構造だと停止状態でハンドルを切るという事が出来ない。更にブレーキを踏んでいたらタイヤの動きがロックされるので物理的に無理となる。
初期の自動車もこの問題に直面した。その為、18世紀フランスで造られた蒸気自動車google:image:Cugnot Fardierも19世紀のベンツ初の車、モトルヴァーゲンgoogle:image:Benz Patent-Motorwagenも前1輪の三輪車だった。
でも3輪だと安定性と積載性に難がある。そこで4輪、つまり前の舵輪が2輪で運転に難が出ない仕組みが試行錯誤され、こういう風になった。
1.タイヤの向きを変える為の軸(キングピンという)をハの字に傾斜させる
こうすると、キングピンの旋回軸を延長して地面にぶつかるところとタイヤが設置する場所を一致させることが出来る。つまり、ハンドルを回してもタイヤは接地面を移動させずに向きを変えるだけなので、停止状態でもハンドルが切れるのだ。
剥き身になってる車では見やすいのでこれを見て欲しい。https://youtu.be/13WS1UpG38I?si=46LZ8ChZ6ftGXrZ9&t=180
3:00の辺りから前輪の内側が見えるが、スポークホイールの内側にブレーキドラムがあってその内側にキングピンが見えるが、キングピンは傾いている。またタイヤも逆ハの字に少し傾いていて、キングピンの軸の延長をタイヤの接地面が一致しているのが判るだろうか?
しかしこれだと問題も発生する。例えば右に傾いた円盤を転がすとどうなるだろうか?右にどんどん曲がっていくよね。だから逆ハの字に傾いたタイヤは走り出すとずっと右のタイヤは右に曲がろうとし、左のタイヤは左にっ…て状態になってて、無理にねじ伏せて走る事になる。タイヤのゴムはずっと「消しゴム掛けてる」状態になってるから直ぐに減ってしまうし燃費だって悪くなる。
そこでこうする。
右のタイヤは右に行こうとするので左向きにする。すると右に行くのと左に行くのが釣り合って直進するのである。
左タイヤはその逆に。
なんだが無茶苦茶で無理させてるように見えるが、実際にはちゃんと安定する。そしてこのタイヤの整列状態が戦前から1970年頃までの標準となった。
この為に逆のハの字が標準状態なので逆ハの字がポジティブキャンバーと言われる。上から見て前側を狭めるのはトゥインという。トゥはつま先で、つま先をすぼめた内股で立ってるイメージだ。ポジキャン+トゥインが70年頃までの標準ね。
だが逆ハの字の車というのは今は見ないだろう。それは駆逐されてしまったからなのだ。
まずレースなどのスポーツ走行。カーブでは外側のタイヤが踏ん張るのだが、車体が遠心力で外側に傾く(ロール)。するとタイヤも一緒に傾くので、逆ハの字が強くなってしまう。この状態だと踏ん張りがきかないというのは判ると思う。
だったらレースカーは駐車場の据切りとか考えなくていいのだから、最初からハの字(ネガディブキャンバー)にしておけばロールした時に直立状態になるからカーブを速く走れる。
という事でレースカー=ハの字となり、つまりはネガキャンは速さの象徴となったのであった。
特に1970年代まで多く使われていたタイヤは今のものと構造が違う。今使われているタイヤはラジアルタイヤといって、空気を入れる前も入れた後もタイヤの形が同じになるように構造がしっかりしている。更に接地面は平らになる様に鉄のワイヤを編んだベルトが入っていて、空気圧の多寡で形が変わらないようになっている。
だが70年代までのタイヤはバイアスタイヤといって、形が変化するように柔軟な構造になっていた。自転車のタイヤと同じである。空気を入れるとトレッド面(地面に当たる外周部分)も丸っこく変形する。だが接地面は車の重みで凹むので、これが接地面積になるという構造だった。
こういうヤワな構造のタイヤではタイヤが突っかい棒の方向に向いていれば踏ん張れるが、逆向きだとヨレてしまって全然踏ん張れない。
更にポジキャンが車界から駆逐されてしまったもう一つの理由がFF化だ。
FFは前輪を駆動する方式の事だが、初期のFF車には重大な欠陥があるものも多かった。
歩くほどの一定速度でアクセルを踏まずにハンドルを切ってぐるぐる回ると、前輪の向きと前輪が通るルートは一致している。だが速度を上げていくとタイヤはゴムなので外側にジリジリと滑りながら曲がるようになる。
ここでタイヤが大幅にスリップせずに路面とハンドルに追従するのは接地面のグリップ力によっている。このグリップ力を超えると滑りが大きくなってスピンや外側の壁にぶつかってしまうわけだ。
前輪駆動では駆動力が前輪にかかるが、グリップ力はカーブで踏ん張る力と駆動力で折半しているのだ。
これがどういう事かというと、首都高の急カーブでハンドルを切っているのにちゃんと曲がらず、外側に膨らんでしまうという時、グリップ力の限界付近になっている。
ここで慌ててアクセルを戻すと、駆動力分に割り振られていたグリップ力が全部カーブ踏ん張り力にやってくる。するとハンドルが効きすぎて急旋回し内側の壁に突っ込んでしまう。曲がらないからとハンドルの切り増ししていたら最悪だ。
だから首都高カーブでの事故というのは、外側の壁にぶつかるよりも内側にぶつかる方が圧倒的に多い。
逆ハの字のポジキャンではこの挙動が起きやすくなってしまう。因みに初期FF車でこの特性が強く出て問題視された車にはgoogle:image:ホンダ1300セダンなどがある。ホンダ1300は後から2ドアクーペが出るのだが、クーペの方が穏やかでセダンの方がじゃじゃ馬という不思議な車だ。
また車の駆動力は内側から伸びるドライブシャフトで伝達されるわけだが、この時、力を受ける軸の方に曲がろうとする特性がある。つまり両輪とも上から見て内側に向こうとしてる訳で、これはトゥインと同じ状態だ。これをこのままにしていると加速の度にタイヤが減ってしまうしハンドルも安定しない。
だったらFFではトゥアウトにしておけばいい。トゥインと逆にガニ股につま先を開いた状態だ。
トゥアウトにしたら加速していない時に備えて、キャンバーをハの字にして辻褄を合せなきゃならない。
という事で、FF車や4WDが殆どとなった現在、逆ハの字のポジティブキャンバーは見なくなってしまった。一番最後のポジキャン車は恐らく1990年終売のシトロエン2CVかと思われる。google:image::Citroen 2CV
市販車でネガキャンが可能になったもう一つの理由はホイール形状の変化だ。
昔はスポークホイールだったが、今は鉄のプレスホイールやアルミ鋳造のホイールが多い。ホイールのディスク面を外側にずらす事(オフセット)で内側に空間が生まれる。更にタイヤもホイールも太いものが主流になっている。
するとステアリングの旋回軸の先をホイール内に入れてしまう事が可能だ。するとこの旋回軸の延長にタイヤ接地面を持ってきて更に緩いハの字にする事が出来るようになった。
ところで、この10年ほどで省略される事が多くなったが、その前は黄色く細いスペアタイヤ(テンパータイヤ)を積んでいるのが一般的だった。
そもそも細いので接地面の位置が合わなくてチグハグな状態になる。その上で、上記のバイアスタイヤが抱える問題を抱えていて、FFのフロントに付けた場合は上記の危険な特性を呼び出してしまう可能性があるのだ。
なので、FFでフロントがパンクしたからとそのまま黄色いスペアを前に付けると危ないのだ。更にそれで高速に乗っちゃったりというのはもう自殺行為でしかない。だから黄色いスぺアには「FF車の前輪には絶対につけるな」と書いてある。
まず、道路を走行する車の規制法は二つあって、役所も二つある事を踏まえよう。
規制法は、車両法と道交法、規制役所は警察と国交省(運輸局)だ。
で、警察は道交法と車両法を扱い、国交省運輸局は車両法だけを扱う。
車両法の政令は「道路運送車両の保安基準」、略称保安基準と言って、具体的にどの部品はどういう風でなきゃいけないかという事が書かれている。改造する場合や荷台などを付ける場合はこれを参考して判断する。
保安基準ではタイヤは車体からはみ出して露出してはいけない。これは元は水はねを予防するための基準だった。
だがこれは違う意味で大事な規制になっている。それは歩行者との接触時にタイヤ周りの回転物を接触させない為だ。ボディに接触したのとタイヤやホイールのナットなどに接触したのでは受傷程度が全然違うのだ。タイヤへの接触では巻き込んで踏んでしまう可能性が高くなるし、ホイルナットなどに接触すると抉るような力が人体に掛かって重篤な傷害を負わせてしまう。
ネガキャン強めくらいだと上の方はタイヤハウスに収まっているし、張り出した下側もボディ外寸内に収まる。故に警察に検挙されるという事もない。
しかし鬼キャンともなると、明らかに下側が出過ぎているし、ボディ外寸を超える。だから警察に検挙されうる。
では車検は?というとこれは多分ネガキャン強めでも鬼キャンでも通らないはずだ。
というのも、車検では「サイドスリップテスト」というのがある。上記で説明した、タイヤに無理な力が掛かっていないか、トゥインとキャンバーの組み合わせが釣り合っているかのテストだ。
具体的には横にスライドする鉄板の上をゆっくり通過する。釣り合っていなければ鉄板が横に動くので「サイドスリップ ×」と電光掲示板に表示されて車検落ちだ。
キャンバーいじってあるとここで落ちてしまうので車検は通らないという事になる。
このサイドスリップは改造車じゃなくても駐車場で縁石にぶつけた、サスペンションのゴムブッシュが経年でヘタっている、とかでもタイヤの整列が狂って落ちてしまう事が多い。
だが警察はこのサイドスリップテスターを持っていないのだ。そこまで厳密な検査で車両法違反を摘発するという運用になっていない。だからサイドスリップでは車検には通らないが、警察には検挙されないという状態である。
というわけで、ハの字のネガキャンはレースなどの速さの象徴が過剰化し実用の範囲を飛び出して、速く走れなくなったというヤンキー文化にありがちな代物である。
だが昔は逆ハの字のポジキャンが車の当たり前であって、その中でハの字のネガキャンにするというのはレーサー標榜の不良であった。
しかしエンジンの高出力化、車重の増加により太いタイヤが主流となってネガキャンの方が都合が良くなった上に、FFの主流化によってトウアウトにする必要からネガキャン必須となった。
故に今は嘗ての不良の象徴だったネガキャンしか世に無くなった。そうなると不良性を売り物やファッションのアイデンティティとする者にとっては、実用性ブッパする程の鬼キャンにするしかアピールする方法が無くなったとも言えるのである。
だから「なんであんな異常なキャンバー角付けるの?」と問われたら「”世間側”の全てが不良側に寄って行ったからその先に逃げるしかなかった」というのが一つの答えになるのだ。
私人間効力の話は無視するとしても、ある別異取扱が合理的な区別が不合理な差別かは、その別異取扱の対象となる権利の性質や別異取扱の目的や効果あたりを総合して判断することになるだろう。
これを本件食べ放題についてみるに、別異取扱の対象たる権利は数千円程度の財産権であって生命に直結するような重要な人権ではなくもともと市場経済で定まるものに過ぎず、その別異取扱の目的は食べ放題によって享受される肉の量の多寡を料金に反映させるものであって、その効果も平均的な男女の食べる量の違いを反映した経済的に合理的に算定した額を定めるものであって目的に適っている。
したがって本件食べ放題は不合理な差別ではなく合理的区別にとどまる。
なお増田指摘の①は権利の性質に関する指摘を曲解するものに過ぎない。③は既に指摘のとおり。④は子どもの人権を無視するものであり論外(たとえば「大人と子供は平等では無いから子供は奴隷にしても良い」とはならない。)。②⑤の主張者は死ね。
単純にそれが間違った意見だからだよ。金の多寡で考えて、実体経済を考えれていないという過ちを犯している。
金なんて所詮はヴェールであって、それで動く労働力その他の実体経済が大切なわけだが、高齢者のために使われる実物資産というものは多くの研究者にとって関係がない。介護などの肉体労働に若年労働力が吸収されなくなったところで研究者にとって大して利益とならないわけ。労働力に限らず機材なども高齢者向けとの競合にはあまりならない。
で、だったらどうして研究者たちが金がないから研究に打ち込めないと嘆いているかといったら、潤滑油としての金を出し惜しみされているから。これは所詮は潤滑油レベルだから出せないものじゃないんだけど、出す出さないの判断によって出されなくなっているわけだ。
たとえば調理している人と食べている(調理していない)人の立場が入れ替わることがあるか。
権力の勾配がある場合、そのことを認識して相手が発言しやすいよう配慮しているか。
・逃げ場があるか
調理したものについて論評する際に、好みの違い、時間や金銭の制約、調理した人の能力などの条件を無視して相手を責めていないか。
調理したものについて論評され、それがもし不快だった場合に、解決する手段があるか。「文句を言うなら自分で調理しろ」と言える状況や関係性か。
こうした条件が整っている間柄であれば、調理したものについて論評することも構わないだろうと思います。
逆にいえば、対等ではない関係性で逃げ場もない状況で、調理したものについて論評されて傷ついている人が多いということではないでしょうか。
凄く失礼で差別的な言い方だと思いますが、あくまで私の感想なのですが、私にとって、話をしていてつまらない人だな、と思うような人ほど収入が高いのではないか、とよく思うことがあります。私の価値観が多くの他人と大きく乖離している可能性がありますが、あくまで私にとってですが、私にとって人間的に魅力がない人ほど高収入だったりするのが、ちょっと不思議なのです。能力が低く、仕事もできなくても、学歴や世渡り上手なだけの職歴で、転職を繰り返して高収入を得たりしています。世の中、そういうものなのかもしれませんが、やはり自分には腑に落ちないというか、納得できないところがあります。あなたはどう思いますか?
そのような感想を持つことは自然なことだと思います。社会の中には、私たちが期待する基準とは異なる要素が成功や高収入に結びつくことが多々あります。
まず、収入や成功は必ずしも人間性や個人的な魅力とは一致しません。職場での成功には、コミュニケーション能力や仕事のスキル、適応力などが影響を与えますが、同時にタイミングや人脈、運なども大きな役割を果たすことがあります。また、高学歴や職歴の積み重ねによって、高収入を得ることができる人もいます。これらの要素は、必ずしもその人の内面的な魅力や他人との親しみやすさと直結するわけではありません。
さらに、世渡り上手な人は、自分の強みをうまく活用して機会をつかむ能力があることが多いです。これが時には「つまらない」または「魅力に欠ける」と感じられることがあるかもしれませんが、それでも社会的な成功を収めるための重要なスキルとなることがあります。
一方で、他人にとって魅力的であっても、収入や仕事での成功がそれに比例するとは限りません。価値観や人生の目標は人それぞれであり、収入の多寡だけでは人の価値や幸せを測ることはできません。
最終的には、社会には多様な成功の形があり、必ずしも自分の価値観と一致しない場合もありますが、それを理解しつつ自分自身の価値観や目標に忠実でいることが大切です。自分にとっての成功や幸福を見つけることが最も重要だと思います。
そうですね、自分の軸をしっかり持つことは、社会の中で迷わずに進むための大きな助けになると思います。何かまたお話ししたいことがあれば、いつでも聞かせてください。
オリンピックで金メダルをとった場合とパラリンピックで金メダルをとった場合の
日本は障がい者差別が世界で最もひどい国の一つだと国際的には知られているが、ここまでひどいとは思わなかった…
このことを今朝、ホームステイ先のダディ
(40後半くらい。県庁所在地の名前を冠した地方国立大学を出て従業員3-40人くらいの中小企業で働いてる)に話したら
「パラリンピックは障がいの種別で階級が細かいから」と言い出して噴飯してしまったlol
柔道やボクシングのような階級分けの多い競技についてはバスケのように階級分けのないスポーツより報奨金を減らすべきだし、
競技人口の多寡で判断するのであれば、レスリングのような競技人口の少ない女子スポーツや冬季オリンピックの競技の報奨金も減らすべきであるのに
(この辺りの競技は障がい者のメジャースポーツより競技人口が少ない)