はてなキーワード: 博物館とは
・お金がかかる
お互い社会人で同い年だが、食事に行けば支払い、ドライブになれば車を出し、テーマパークや博物館の入園料等も支払う。
ほぼ毎週お出掛けして、かつウィークデーも仕事が終わった後時々食事に行くことがあるので、それなりの出費になる。
それに食事と言ったってファーストフードや牛丼屋に行くわけじゃない。週末毎に2~3万ぐらいは使ってる感じ。
あとで彼女がお金を渡してくれることもあるのだが、負担割合はおそらく7:3ぐらいかな。正確に計算したわけじゃないけど。
休みの日は大体一緒に外出するので自分の趣味にかけられる時間が当然減る。
あと、一人暮らしなので週末まとめてやってた家事の時間なんかも。
・精神をすり減らす
喪男なので別れてしまった場合、次のチャンスがあるのかどうかなんてわからない。っていうかおそらくその望みは薄い。
となれば相手の機嫌を少しでも損ねない様それはもう必死。
相手に常に気を使い、自分の行きたいところ、見たいところ、食べたいものを我慢して相手の希望に合わせる。
とまぁこんな感じか。
なんかネガティブなことばかり羅列してしまったが、楽しいことも同じぐらいあった。
彼女のおかげで自分がこれまで全く興味無くて行かなかったようなところにも行ったし、おしゃれなレストランなんかも初めて入ったりしたし。
ただ、あくまで「同じぐらい」であって同等ぐらいに色々消耗してるのでトータルでみればプラマイゼロっていう気がする。
ともかく所詮喪男であるところの私が、彼女との関係を維持しようと思えばこれぐらいの「努力」やって当然なレベルなのだろう。
イケメンや金持ちならば、望まなくとも勝手に向こうから寄ってくるのだから。
ただ、今までのことは全くもって後悔はしていない。
たとえ今後別れたとしてもいい経験ができたと思うので。
やっぱり知識として知っている事と、実際に経験して感じることでは差があると思う。
とりあえずこんな具合です。
二次元の方が「楽」ですよ。
ってのが良くわからない。行列ができる美味いラーメン屋ってのを今まで何軒か食べてみたんだけど、まぁ確かに美味いんだけど、じゃぁその美味さに感動して涙出るかってほどでもないし、何十分、何時間も行列で待ってまで食べるほどか?って思うだけだった。例えば、ラーメン博物館で「すみれ」のラーメンを食べたら、確かに美味かったんだけど、んじゃまた行くか?って聞かれたら近所の天下一品でいいやーって感じ?
で思ったんだけど、「ラーメン」と括られている食べ物は、実はすごく細分化されたそれぞれ別々のメニューであって、「美味いラーメン」というよりは「俺が好きなラーメン」って考えた方がしっくりくるような気がするの。仮に醤油ラーメン好きの人達の間で絶賛されてる醤油ラーメンを、豚骨コッテリ系が好きなラーメン好きに食べさせたら、多分、美味いと言うと思うんだけど、その店が職場のランチ範囲にあったとしても、じゃぁ毎日食べに行くか?って思って、同じランチ範囲に天下一品があったら、それなりの頻度でそっちにも食べに行くと思うのね。反対にあっさり系好きの人に超絶品豚骨ラーメンを食べさせたら、美味いと言うとは思うんだけど、その人のラーメン屋ランキングには挙がってこないと思うし、もしかしたら「俺、豚骨ダメなんだよー」で一口も食べないかも知れない。豚骨って結構臭いがキツイし。
よくテレビや雑誌でやってる○○が選んだ美味いラーメンランキングってあるけれど、あのランキングは投票した人の好きなラーメンのジャンルに随分と影響されていると思うんだよ。「俺は醤油ラーメン好きだけど、美味いという点ではあの豚骨ラーメン屋が1位だな」なんて判断をして投票している人なんて皆無だと思うんよね。そういう点ではアテにならないと思ってる。
そういうわけで「お前は何を言ってるんだ」「お前のそのイカレた幻想をぶち壊す!」という方は、京都市内もしくは近辺の美味い醤油・塩あっさり系ラーメン屋を添えて反論してくださいm(_ _)m 自分はコッテリ系の細麺好きです! よろしく!ヽ(´ー`)ノ
美術館は人それぞれ感性が違うから、他人のひそひそ声でも聞かされるのは辛い
おまえらはこの作者のこと微塵も知らないくせに
っていうね、もうね、台無しなんだよね
この博物館や美術館で静かにしていないといけないかっていうまとめ(http://togetter.com/li/354672)見てどうしたものかと思った。
たぶん、美術館や博物館での最高に満足度の高い鑑賞スタイルは自分(たち)だけで見るってやつなんだろうなー。貸切り。
一人で見たい時も、誰かと見たい時も、子どもに解説したり模写したり授業したい時も、基本的に作品と自分(たち)だけの空間を望んでる気がする。
自分たちと同じ目的を持った人までなら最低限許せるみたいなね。でもVIPでもなんでもないパンピーはそうもいかんのが悲しいよね。
天皇家のどなたかがツタンカーメン展を開催一日前に見たってニュースあったけどすごい羨ましかったよ。
まあ体験なんて映画からディズニーランドまで何でもそうなんだけどな。慣れとか環境の問題もあるなのかな。演劇や映画鑑賞中に連れと感想を喋る人いるしね。
橋下市長が指摘「偏狭なナショナリズムが高まっている」 ― スポニチ Sponichi Annex 社会
↑はじめは「お前が言うな」と思ったが、ひょっとしてこれは彼は彼なりに真面目にそう考えているのでは、と思いなおした。
ここで出てくる「子どもに近現代史を学ばせる施設を造る構想」とは、大阪人権博物館(リバティおおさか)と大阪国際平和センター(ピースおおさか)とを統合して、「新しい歴史教科書をつくる会」などに助言を受けて作る新しい歴史博物館のこと。
「つくる会」呼んでおいて「偏狭なナショナリズムがどうこう」とか言うなよ、と思ったんだが、どうも本気で新施設で歴史観を養おうとしてる様子。
ひょっとしてこれ、橋下市長的にはつくる会の意見を入れて「両論併記」すれば自然とバランスのよい歴史観になると考えているのでは。
いや、もちろんただの推測なんだが、そうだとするとid:Apemanあたりが切れそうなので楽しみである。
とりあえす録画画像公開待ち。http://www.pref.osaka.jp/daitoshiseido/togohonbu/index.html
当方、アラフォー男性、独身、バツイチである。1年前に付き合っていた女と別れて以来、まったくの独り身だ。
今は独り身の寂しさよりも、独り身の自由の方が大きい。付き合うのはともかくとして、もう今後、誰とも一緒に生活をしたくないと思っている。
自由は何物にも替え難いが、それでも時どき寂寥が襲う。同じ境遇の古い友人に話したところ、ペットでも飼えばいいと言われた。
しかし、こちらはなにしろ出張が多く、生き物を飼える状況ではない。
それならば、ぬいぐるみを買えばいいとその男は言った。要は物理的な、温かさが欲しいだけなんだろうと。
そういう話ではないのだが、その男が言ったことはどこか頭に引っかかっていて、とはいえ、四十男がまさかぬいぐるみを物色するわけにもいかぬし、と思いつつ何日も過ぎた頃、某博物館の販売コーナーでで精巧な虎の子のぬいぐるみを見かけ、自然科学研究のためと言い聞かせながら、それを買い求めた。
こんなので日常が変わるのだろうかと疑問だったが、名前を付けて、生きているかのように扱い、食べる時も一緒、寝る時も一緒に生活をしてみたら、なんだか情が移ってしまった。
傍から見たら十分気持ち悪いのだろうが、家に帰る時も子虎が待っていると思うと、うきうきしてくる。考えていることや、悩んでいることも子虎に話すとまとまるというか整理がつくようになった。
子虎の性格も自然に出来上がって言って、虎なんだけど、うっかりしていると猫みたいな話し方をしていまい、途中でそれに気づいて「そうだにゃー、がおー」みたいに付け加える、ちょっとあわてんぼうの、ちょっとツンデレが入った性格をしている。
もちろん、ぬいぐるみであることは承知しているのだが、もはやただのぬいぐるみではなくなってしまった。
子虎が来て以来、生活に潤いと言うかはなやぎが出てきたのは確かだ。
昔から友達を作ることは出来るが一緒に何かをするという程までは仲良くなれない。
人とどこか一線をおいた付き合いをされていたし、していた。
学生時代からずっとそんな感じでご飯も一人で体育は先生と組む。
いじめられていたというわけではなかったがそんな感じで、気づけば一人で行動するのが当たり前になっていた。
ところで先日、知り合いから一緒に博物館に行かないかというメールが着た。こんなお誘いは何年ぶりだろうか。
しかしネットで展示物調べてみたころ、興味があるとは言い難いものだったので丁寧にお断りの返事をした。
するとまた連絡が着て「じゃあ、こういう系はどうですか」と別のものを紹介された。
それには興味があった。しかし一対一で行くことがとても怖かった。
いるときに何を話せばいいのか、帰るときのタイミングが分からない・・・当日のシミュレーションが頭を駆け巡り不安に襲われる。
一人ならば自由に自分のタイミングで行動でき、気になる展示物をずーっと見ることだって可能だ。
しかし一緒に誰かがいると相手の行動に気をつかわなければならない。帰るころには疲労困憊。返事を考えながら一人でゲッソリした。
決して相手の人が嫌いというわけではない。ただ誰かと一緒に行動することが私にとってとてもハードルが高い。
紛れてしまえば大丈夫だと思って複数人でいたこともあるが翌々日くらいまで疲労が抜けなかった。
お一人様もいいけど、社会的生活をするには人と関わらないといけないのが辛い。
http://unkar.org/r/recruit/1278332502
http://read2ch.com/r/recruit/1291774175/
www1.axfc.net/uploader/Sc/so/356063
情報元
http://note2ch.com/2c/n/recruit/1331782888/p2
業界情報まとめ
採卵鶏なら
肉用鶏(ブロイラー)なら
採卵鶏に詳しくなりたいなら、
「クレスト http://www.crestfarm.co.jp/index.html」、
これhttp://anond.hatelabo.jp/20120126193157の増田。
結果報告をしたいと思う。
同僚に選んでもらい、襟付きのシャツを買った。
で、デートの日。
もうめちゃくちゃ笑顔で。俺も食う方だから二人でめちゃ食った。
事前に下調べして旨かったし、基本デブは味が濃いのが好きだから
この中華屋はかなり満足してもらえた。
そんなこんなで買い物したり、博物館行ったりして夜になった。
本当はその後の夜景がきれいなとこでするつもりだったけど先走った。
で、OKもらえた。
彼氏がいるかどうかも確認してなかったし、振られたらどうしようと思ってた。
でも、意外とすんなり言えるもんだ。好きなんだから好きって言うのは楽勝だった。
こんなんだったら毎日好きって言ってやれるな。
そのカフェを選んだのには訳があった。
で、ラブホテルの前を通った時、行っちゃうかって笑顔で誘ったら、
えーって言ったけど、強引に手を引っ張った(このやり方は同僚に教えてもらった)
以下、割愛。6連戦くらいしたと思う。
しかもデブは柔らかい。そして巨乳。あったかい。甘い匂いがする。
騎乗位は難しいけど、最高だ。
今週末は俺の部屋に来る。
ベッドが耐えられるか心配だけど、めちゃくちゃ抱こうと思う。
「童貞」という枠を意識しすぎると自分を縛ってしまう気がする。
俺も色々と難しく考えすぎたけど、息苦しいっていうか。
でも貞操は大事だ。簡単にすべきじゃないし、好きな人とだけ関係を持つべき。
以上、終わり。
例えば故宮博物館、国民党が国共内戦で敗北が確定したあと、清朝が所有していた文化財を可能な限り貴重な物から持ち出して台湾に持ち込んでいる。
一部といえどもその数は膨大で、季節ごとに展示品を総入れ替えしても、倉庫には未公開品が埋もれているという話。
シナに残った圧倒的多数の文化財は「O革」の熱狂的革命行為()で歴史を抹消しているので、シナの博物館よりも台湾に行く方が文化財を見れるという。
また、日本統治時代に開発された温泉は当時の日本の名湯100選に選ばれるほど温泉の質が良く、現在でも温泉街が大都市近郊に存在している。(清潔さや温泉の運営は日本が最も優れているが)
料理は、台湾で口に合わないなら、他の極東アジアの国は全滅と言っていいほど料理は揃っている、ここで色々食べてみて、合わないならアジアの都市に旅行に行くのは辞めた方がいいレベル。
また東岸一帯は土着の少数民族が代々生活していた土地であり、明らかに中華文明とは異質の生活や文化を見ることが出来る、景勝地なので自然を見るのもいいし、
珍しい昆虫が多く生息するので昆虫博物館も多い。発展は西岸よりかなり遅れており、昭和時代の様なのんびりした質素な街が点在する。
まあ、待ち行く人が簡単な日本語を話せる国なので、外国に来ているという感覚は薄いかもしれない。でも日本と違い確実にアジアの国だよ。
6 Reasons We're In Another 'Book-Burning' Period in History | Cracked.com
By: S Peter Davis
これを聞いた人の8割は私の顔を殴りたくなるだろうが、端的に言おう。
稀覯本を含む本を数万冊以上捨ててきた。
焚書と聞いて、一般にはおそらくナチスドイツを連想する人が多いんじゃないだろうか。
それは不寛容と反知性の象徴だ。
だが今回の焚書は違う理由で起こっている。
本を捨てているのは、利用者が誰もいないような辺鄙な田舎の図書館だけじゃない。
おそらく世界最高の権威がある図書館、大英図書館でも、本の廃棄が産業的な規模で行われている。
オーストラリアのニュー・サウス・ウェールズ大学やそのほかいくつかの大学では最近、本の処分に関するスキャンダルが起きた。
今年ボーダーズという書店がつぶれたときには、在庫は寄付されるのではなく廃棄された。
捨てられているのは、『TVガイド』とか重複所蔵の本だけじゃない。
17世紀に美麗に印刷されたシェイクスピアの作品集を想像してみてほしい。
奥付のページには、遠い昔に亡くなった所有者からの達筆なメッセージが付いている。
それをゴミ箱に捨てるのだ。
私は何度もその場にいた。
持ち帰ってeBayに出して売って、何百ドルかにはなったんじゃないだろうか。
これはオバマの共産ナチ新世界秩序に操られたソビエトの秘密作戦か何かではない。
血も涙もない官僚主義によって起こっているのだ。
というのも……
誰しも思うのは、恵まれない人たちに寄付すればいいんじゃないの、ということだ。
囚人でも、病気の子供でも、独立系の新興書店でもいい。寄付すればタダじゃないの、と。
蔵書であることが分かるようになっている。
その本を寄付したり売ったりするときには、印を消さなければならない。
盗品でないと分かるようにするためだ。
そればかりか、所蔵印が残っている本は、親切な人が見つけて図書館に返しに来てくれちゃったりもする。
そして、処理すべき本はとても多い。
図書館はやっきになって蔵書を減らそうとしている。
図書館館長になったつもりで、10万冊を処分しなればならないという報告を受けたと考えてみてほしい。
選択肢は二つ。
学者を何十人か雇って蔵書目録をもとに重要度や価値を評価させて、
また何十人かを雇って重要度の低い10万冊に一冊一冊処分の印を押させる、
というのがひとつ。
第二の選択肢は、コンピュータで貸出回数の少ない10万冊を列挙して、
数人に館内を回って集めさせて、シュレッダーにかけさせること。
第二の選択肢のほうがずっと速くて安いことはお分かりだろう。
そうなれば儲けがでることもある。
ことに司書にとっては、それはまるで、
ゾンビに噛まれた親友を前にして、自分だけが銃を持っているようなものだ。
それに、捨てられた本のなかに救われるべき本が埋もれてしまうことも忘れてはならない。
このやり方では明らかに、ものすごく貴重な本が引っかかってしまうことがある。
2011年版が書架にあるのに、『白鯨』の初版本を書庫から借りようとする人がいるだろうか。
コンピュータで出した貸出数ランキングではそうした区別ができない。
また、このやり方をする場合は、本は完全に破壊しなければならない。
ただゴミ箱に放り込むだけでは不十分だ。
盗られるかもしれないからだ。
誰も読もうとしないように本を引き裂くか、ゴミ箱に漂白剤を入れておく必要がある。
とにかく、ゴミ箱が「ご自由にお取りください」状態になってはまずい。
そして作業をする図書館員が16世紀の貴重書を見つけたとしても、
館長はそれを救えとは言えない。
捨てる代わりに調べるように命じていることになりかねないからだ。
どんな本か分からなければ捨てるのも楽になる。
みなさんがこの事実をご存じなかったとすれば、
ほとんどの場合、一般人が気づくのはゴミ箱に大量の本が入っているのを誰かが目撃してからのことだ。
とはいえ司書がこっそり話し合っている掲示板はいくらか見受けられるが。
2004年ごろ、ニュージーランドのビクトリア大学は13万冊の本を廃棄することを決めた。
計画では、廃棄対象の本に赤いテープを貼り、
それを救いたい人がペンでチェックマークを付けることになっていた。
ご想像のとおり、誰もが怒りをあらわにした。
ある教授は図書館を「野蛮人」と呼んで学内に電子メールを回し、
図書館をめぐりすべてのテープ付きの本にチェックを入れるよう、
職員と学生に呼びかけた。
私の場合は、本の廃棄に気づいたのはそれを盗んで逮捕された人だけだ。
一般人が気づくころには、すべて終わっていて、反乱の機会はなかった。
それに図書館は気づかせることのないよう巧妙な言い回しを使う。
たくさんの書架を空にして、本を書庫に送ったというとき、彼らは嘘をついているわけではない。
ただ、書庫はすでにいっぱいで、新しい書庫行きの本の分だけ廃棄をしているということを言わないだけだ。
本の廃棄を推進する人たちは、図書館の機能を「本の博物館」だとする見方に反対する。
みなさんは愛すべき古典文学の書架に代表されるたくさんの書架の集合こそが図書館だとお思いかもしれない。
通貨が少し下がったり上がったりすれば、外国雑誌の価格も少し変わるだろう。
さてここで、購読するのは数冊ではなく10万冊だと考えてみてほしい。
そして、いま降りかかっているのは小さな変動ではなく、大恐慌時代以来の最悪の不況だ、と。
これは一夜にして旅客機一台分が財布から飛んでいくことを意味する。
その旅客機の代金が払えないと、まずいことになる。
そうなったらとりうる手段は、燃え盛る蜂の巣を手放すように、
購読を打ちきることしかない……とお思いだろうか?
ところがそれは図書館のパワーユーザー、学者と学生が毎日必要とするものなのだ。
必要のないもの、それはたとえば、手書き挿絵の入ったネクロノミコンだ。
どれほどかけがえのない所蔵物であろうと、とにかく場所がないのだ。
というのも……
図書館が蔵書を引き裂く必要がある理由のひとつは、この不況だ。
悲しいことだが、それはそれで仕方ない。
コーヒーショップと引きかえに土塊にされているとしたらどうだろうか?
オーストラリアのニューサウスウェールズ大学でまさにそれが起こっている。
その図書館では、社交的空間を作るため、1850年代からの蔵書と新聞雑誌が廃棄された。
ピーター・スレツァク教授はそれを、図書館を「スターバックスのようなもの」に変えるものだと評している。
しかし、図書館の立場にたってみれば、それを要求しているのは、
彼らは本を保管することだけではなく、本を使う場所を図書館に求めているのである。
そして出版社は無数の本を出してくる。
ということで、図書館は、一方では新刊書を所蔵するために拡張を迫られ、
一方ではカプチーノを飲んで腰を下ろす場所を作れと言われているのだ。
問題は、その費用を誰も出してくれないということだ。
この報告書でも分かるように、図書館へお金を出している組織は予算増額をものすごくいやがる。
図書館が「拡張の資金が必要」と言えば、大学当局は「他を当たってくれ」と言うだろう。
ほとんどの図書館に他の当てはない(建物に放火して保険金をせしめるという手を勘定にいれなければ)。
本はもはや流行らない。このことは認めざるをえないだろう。
2010年最後の三カ月のAmazonの売上データで、電子書籍は紙の書籍を上回りはじめた。
最近のハードディスクであれば、場所をとらずに事実上無限の数の本を入れることができる。
小さめの図書館ならUSBメモリ一つでで置き換えられるとしたら、
巨大な防火設備で本を守り続けさせる原動力は、人々の愛しかない。
現在の経済状況下では、その愛はなかなか発揮されることがない。
この動きは三十年前に遡る。
1980年代、図書館のスペース問題を解決したのは電子化ではなくマイクロフィルムと呼ばれる新技術だった。
本や新聞雑誌をスキャンしてマイクロフィルムとして保存すれば、
図書館ひとつがキャビネットひとつに収まるというのが謳い文句だった。
ニコルソン・ベイカーは、マイクロフィルムブームの悲痛な記録を本にした。
それによると、大英図書館、アメリカ議会図書館といった世界の名だたる図書館が、
数千冊の古い貴重書を引き裂いてスキャンし廃棄したそうだ。
世界中の本好きたちがこれに抗議したところ、司書がマイクロフィルムを掲げて
今日では、インターネットの普及によって、本の圧縮はますます推進されるばかりだ。
ある組織では廃棄する本の選定にあたって、グーグルブックスに載っているかどうかというシンプルな基準を用いているそうだ。
もちろん、本好きの心はそれだけでは慰められない。
彼らは本の内容だけではなく、本それ自体に価値があると信じている。
彼らにとっては、同じ版の本がほかの場所にあるからといって、
貴重な書物を捨てることは正当化できない。
道は事務書類で敷き詰められていて、
これが現実だ。
http://anond.hatelabo.jp/20110815225307
ということで先日はじめて台湾に行ってきた。
なんやかんや言って香港などよりも、下手すれば中国本土よりもずっと中国的なところだと思った。
中正紀念堂に書かれた儒教思想および日本で翻訳され中国にも輸出された近代西洋思想に基づく孫文の訓示。
美しい繁体字を皆達者に書く。
南京路とか重慶路とか中国の都市を基にした地名が非常に多くニューヨークなどと同じく植民地の地名そのものだった。
中国ではすべて横書きに統一しているが、台湾は日本と同じく新聞など模範的な文章は縦書きで書かれる。
香港では北京語は通じない。少なくとも、香港人は北京語を聞き取りはできても話せず英語のほうがよほど通じる。
名前も英名が公式に使われる。
台湾や中国でも最近は英名を名乗る人が増えたけど香港ほど公式ではない。
日本人ならダニエルとかマイケルとかメアリーとかキャサリンとかとても名乗れないだろう。
英国植民地の面影が色濃く残る香港やポルトガルのそれであるマカオはアジアの国とは思えなかった。
英語を母語とする中国人とムスリムとインド系の街であるシンガポールは、
すでにアジアなのかどこなのかわからない無国籍国家という印象だった。
ベトナムも中国とフランスとが混交していてカオスな雰囲気を醸し出していたし。
日本語が通じる人もこれまで行ったどこの国よりも多かった。
片言の中国語で、英語と筆談の助けを借りながら住民と会話した。
少なくとも西洋言語のみが全人類に受け入れられる世界共通言語になり得る。
英語を否定するにもそれを手段として使わなければいけないという時点で、英語を否定できないことが証明されてしまう。
何が入用で何がそうでないかの判断はこのように割合容易につく。
言語はアイデンティティ(帰属意識、同胞意識)の確立の手段、という重要な機能を持つが
それがコミュニケーションの手段という機能を上回ることはない。
文化は発祥した地よりもむしろ影響を受けた衛星で保管されることも多いのではないかと思った。
どこの文化圏でも土着の文化よりも舶来の文物を珍重し上位に置く一定の傾向がある。
土着の文化は卑近で生々しいのに比べ舶来のものは「よく理解できない」ために神秘的だからだ。
日本語では大層難しく聞こえる漢語や外来語が、中国や西洋では子供でも使う日常語であることは多い。
儒教思想や陰陽五行思想はむしろ朝鮮で本家中国よりも忠実に継承されている。
お箸単独で食事をするのもやたらお辞儀をするのも深々と頭を下げるのも日本人特有の風習であるし、元号も今や東アジアで日本しか使っていない。
唐服に影響を受けあるいは呉服に起源を持つ?和服も今や日本の象徴である。
国家元首の名前と元号の名前を漢籍から採るということも中国ですらしてない。
花咲くいろはの聖地となった湯涌温泉に先日行ってきた。個人的には非常に印象が良い温泉街であったが、この温泉街が抱え持つんじゃないだろうかという悩みも分かったような気がしたため、あくまで一観光客の暴論ではあるが書き留めることにした。
まず、湯涌温泉街に入ってすぐ抱いた印象は、ここが上品な「静かさ」を持つ温泉街であり、こうした選好を持つ個人客向けにぴったりな温泉街だろうなというものだった(一例とすれば、温泉街にありがちな射的や場末的バーがない)。これは私個人とすれば、この温泉街に希少な強みのように思え、この「静かさ」を壊しかねないアニメファンの流入をなぜ許そうと思ったのか?ということが非常に気がかりであった。
詳しく言えば、うらぶれていない「静かさ」というものを湯涌はブランド価値として認識しているのだろうか?そもそもそれを、ブランドとして認識しているのか?次に認識しているとしたらなぜいろは招致を行ったのか?そのリスク管理をきちんと計算しているのか?というのが気がかりであった。
さて、観光業もまた普通の産業と同じように、投資のリターンを得る産業である。簡単に言えば、高山鉄道を作ったり、そこに歴史ロマンがあるのだというアピールをしないアルプスは単なる険しい山だ。観光地のPRの宣伝文句自体が、宣伝文句と同じブランド意識を作るのであり、ブランドイメージは絶え間ないPR戦略によって形作られる。では、湯涌が長年投資してきたブランドイメージとは何か?
湯涌温泉観光協会によれば、湯涌温泉のブランドというのは、「名湯がある静かな温泉街」であろう。湯涌温泉は、このブランドイメージのために投資を続けてきたのであり、それは後述するように恐らく成功しているといっていい。
問題は、こうしたブランドを花いろ招致が傷つけるのだろうか?という点にある。しかし、これは表層的な次元の話なのでもう少し深い次元についての話をしてから述べたい。つまり、そもそもなぜ、「名湯がある静かな温泉街」というブランドイメージから通常、広告を打つべき20代以上女性層、30代以上男性層ではない層に宣伝したのかという話である。「名湯がある静かな温泉街」というブランド自体に湯涌温泉側が価値を見いだせなくなっているのではないか?これが極めて重大な深い次元での問題である。
湯涌温泉の経済状況ははっきり言って分からない。以下、本項では一般的な温泉街へのイメージであるやや経済的に苦境に立っている温泉街というイメージを湯涌に勝手ながら当てはめる(潤ってたらすいません)。つまり、「名湯がある静かな温泉街」では競合他社が数多く存在し、このため他にもう一つアピール材料が欲しいともがく湯涌温泉、そもそも「名湯がある静かな温泉街」というブランドに魅力があるのか怪しんでいる湯涌温泉というイメージである。
繰り返しになるが、一観光客として湯涌温泉の魅力として感じたのは、「静か」であることであり、団体旅行客向けと一瞬で分かるような老朽化した大型ホテルがないという2点だった。湯についてはその効能が他の温泉と何が違うのかよく分からなかった。ただし、白鷺の湯の盛況ぶりを考えれば地元の人々に非常に愛されていることが分かり良いお湯なのだろうということは分かった。「名湯がある静かな温泉街」というのは、概ね成功しているようである※1。
であるが、やはり「名湯がある静かな温泉街」のみではメインターゲットである宿泊客は集客できないという判断があったのだろう。そこで、湯涌には「名湯がある静かな温泉街」以外のアピール材料として、それは夢二館と江戸村を設定しているようである。しかし、夢二のアピールはそれが単独で温泉街を支えられるほどの魅力かはあやふやなものであろう(東京に美術館があり、生まれ故郷も宣伝し、他の温泉街でも夢二アピールする場所があり、そのなかでなぜ湯涌が選好されるのかは分からない)。江戸村は総花的な江戸時代博物館となってしまっており、金沢の奥座敷というブランド宣伝と違ったファミリー向けの平凡な教育施設となっている。夢二館と江戸村も既存宿泊客(リピーター)に害をなすような施設ではないため加点要素は少ないが減点要素はないのは幸いとはいえる。とはいえ、とどめをさすようで気が引けるが、web上にある湯涌温泉街MAP(事前の予習に非常にお世話になった)を見ていただきたい。右端には大正ロマンの街散策と書いてある一方、左端には武家・街やゾーンがアピールされている。これでは何を見ればいいのか分からない。湯涌の自己意識の分裂ぶりが明瞭に映し出されていると言っていい(もちろん、江戸時代から明治・大正につながる構成になっていれば文句ないのだが、江戸の住宅と夢二に大した関係はない)。
結局のところ、現在、湯涌温泉の獲得している資源とは、「静か」であることと「うらぶれていないこと」である。「名湯がある静かな温泉街」というブランドイメージは一応確保していると思われるが、メインターゲットである宿泊客をひきつけることに成功していないのではないだろうか。白鷺の湯目的で来るような人間の訪問時間を増やそうという目的があるだろう夢二館、江戸村は、しかし、一泊させることにはつながっていない。どっちとも見ても温泉に入って日帰りで帰れてしまう。いろは聖地巡礼も同じである(それでも、日帰りでくるような客層はファミリーであるため、「名湯がある静かな温泉街」というブランドは大して傷つくことがなく、メインターゲットである宿泊客に不快感を与えることはおこらなかったはずである)。
勝手な憶測だが、湯涌温泉とは、メインターゲットである宿泊客が減少する中、これを「名湯がある静かな温泉街」というブランドイメージのみでは防げないとして、新たなアピール材料を探しているが既存の施設(夢二館、江戸村)では十分に成功していないという温泉街なのではないだろうか?そこにアピール材料としての新候補としてやってきたのが花咲くいろはである。
では、ようやく元に戻る。さて、この「名湯がある静かな温泉街」というブランドを花いろ招致は傷つけるのだろうか?はっきり言うが、現状のままならば傷つけるに決まっている。4月9日の配布イベントだが、あれを宿泊客が目撃したらどう思うだろうか?あるいは爆音をならしながらバイクで聖地巡礼をする人間について宿泊客はどう思うのか?しかし、これは湯涌温泉としては当然予想できたことである。問題なのはブランド価値を傷つけるリスクを負ってまで花いろを招致したことに、どのような意図があるのかということである。
1つは、メインターゲット自体を変えたいということが考えられる。つまり、宿泊客から日帰り客に客層をシフトさせたいという意図が考えられる。「静か」というブランドに価値がもうないと判断しているという可能性がある。もう1つは、花いろ招致は、今までと同じような単なるPRの一つに過ぎないと湯涌温泉が考えており、それがブランド価値を減ずるものと分かっていないという可能性がある。あるいは、ブランド価値を減ずることは分かっていも、新規客層の増加のメリットの方が大きい(騒ぎも半年もすれば収まる)と判断している可能性がある。
第一の可能性の場合、今のところ湯涌温泉に落としそうなお金は個人につき1000円以内だろうということが予想され、この単価引き上げが急務だろう。サイダーは温泉側にとっては最悪な商品になりかねないことを肝に銘ずるべきである。1本200円のあれ(店だと189円でした)は瓶そのものもお土産としての価値があるため、食べ物+グッズという選択肢を見事に消してしまえている。いろはにおいてはグッズ問題は解決するはずだが、日帰り客にシフトさせたいのならば単価引き上げは急務だ。白鷺の湯の規模的に日帰り客を狙うことはあまり考えていないように思える(あたらしや、やました、戸田屋では日帰り客を狙った展開を考えているようである。このアピールはもっと強調してもいいだろうが、現時点では諸刃の刃と認識されているのか扱いがいまいち見えない)
第二の可能性の場合はかなり末期的であるとしか言いようがないので考えないことにする。
最も考えられそうなのは、第三の可能性、一時的にブランド価値を減ずることは分かっていも、新規客層の増加のメリットの方が大きいという判断である。花いろの良いところは視聴層が10代、20代と非常に若いため潜在的顧客を長く保てるという点にある。このため長期的に見ても、花いろ招致はプラス面を強く持つだろうことは予想できる。しかし、それでもだ。既存客にダメージを与えるマイナス面にはやはり注目すべきであり、この管理もまた重要ではないだろうか。マイナス面についてはもっと慎重に考えるべきではないだろうか。長年投資してきた「名湯がある静かな温泉街」というのは意外に貴重である可能性が十分あり、現状のリピーターを奪ってしまう可能性は深刻なものと受け止めるべきである。
では、湯涌温泉は花いろについてどう対処すべきなのだろうか。答えはシンプルであり、少しでも不快な事態が起これば、PAワークスにすぐ苦情を申し立てたり、出来ればファン向けに何らかの注意を呼びかけるべきである。バイクについては深いところまで入れるべきではないだろう。イベントについては他箇所に譲る、あるいは、逆に大々的なものにしてしまいファンではない他の客を一笑に付させてしまうのが良いと思われる。湯涌温泉に分かっていただきたいのは、作品を愛するアニオタの敵は、その作品世界観を壊そうとするアニオタであり、激しい同族嫌悪が我々の特徴であるということである。そして、このアニメは作品を愛するファンを数多く生み出すことが予想できるのだから、過剰反応と思われない程度には警告を発し続けるべきである(出来るだけマナーを守るファンとそうでないファンを分断させるような方法で)。
さて、長くなったが、まとめると、
①花咲くいろはは朝ドラ・昼ドラ的なものをアニメに移植させ新しい科学反応を試すという冒険作であり、いわゆるアニメとは違ったアニメになるだろう(信者的目線では)。しかし、それはアニメを見ればの話であり、アニメを見ない層からはいわゆる深夜アニメでしかない。
②湯涌温泉が長年投資してきたブランドとは、「名湯がある静かな温泉街」であるが、名湯はアピールしきれておらず、「静かな」は花いろ信者の来訪によって傷つけられる可能性がある。
③花いろ効果は②のマイナス面を打ち消して余りあるものになると思われるが、それでもマイナス面については慎重に考慮すべきである。苦情を言ったところで、それはファン間の内ゲバになるだけで、ついてくるファンは数多くいる。
④そもそもこうしたブランド価値を傷つけかねないPR誘致を行った原因についてはきちんと整理するべきであり、湯涌温泉はブランド戦略について徹底的な議論を重ねるべきである。
⑤とりあえず、日帰り客は大してお金を落としていないので、客単価を引き上げる行動をするべきである。
以上の事を、先日感じました。物事にはプラス面とマイナス面があるのは当然なことですが、今回の場合、そのマイナス面が湯涌温泉が投資し続けてきた資源を傷つけかねない(元々観光地で生計を立てていたというところが鷲宮等と決定的に違う)のが気がかりです。花いろ誘致は大正解だと思いますが、慎重に取り扱ってほしいなと。ま、アニオタ専用温泉とかに開き直るのもいいのかもしれないけど、個人的にはそうなったら行きたくないので。
※1
個人的には、この路線の徹底的な深化が議論に上がったかどうかが非常に気になってしまう。先ほど述べたように、湯がどれほど良い湯なのか一見でも分かるようにアピールし尽くせていないのは問題である。本当にいいお湯ならば、どういう比較優位があるのか等アピールし尽くすべきであろう。湯が本当に良く静かならば、高価格路線(現在の湯涌は中価格)でも全く問題ないはずだが、この可能性はなかったのだろうか。あるいは、金沢駅から立地が近く、それでいて静かな温泉というのは相当貴重なはずであり、立地の優位を生かして個別・ファミリー別に送迎するなど中価格ながら高品質なサービスを提供するのも手であったはずである。
小学校くらいまでの間に、都道府県内くらいの色んなところに親に旅行に連れて行かれた経験がない人って、自分が住んでいる街の近くについての地理感覚が付かないのかな。
俺は小さい頃から親に車で行ける色々なところ(でかい公園・山登り・キャンプ・湖・博物館・科学館etc.)に連れて行ってもらっていたんだ。観光地も行ったしアウトドアも。そして今俺は地図は読めるし、地理もそれなりに分かってる。特に自分の住んでいる市や都道府県については大体の位置関係や交通網について把握している。
だけど、彼女が違うんだ。決して頭が悪くはないのに、隣り合う市を挙げられない・海の方角が分からない・JRや地下鉄の通ってる場所をほとんど知らない・観光名所の位置が分からない。○○とか行ってみたいなーとかって、車で1時間くらいの場所の地名を挙げてもほとんど知らない。そういう事に興味があまりないみたいなんだ。
彼女は本当に自分がよく通る道だけしか知らないし、市内中心部でも相対位置が分からないからいつもと違うところを通れない。地図を読む練習をしてないからだろう。流石にまずいと思ったので地図を読む練習をさせ、市内中心部の住所の割り振られ方を教え、都道府県の位置を覚えさせ、世界の主な国々の位置を覚えさせた。だが、根本的に地理に対しての興味が薄いため、これも知らないのかということだらけで気が滅入る。
常識であるはずの事をなんで知らないんだろうと思って色々聞いてみたところ、どうも家族でどこかにちょっと遠出するっていうことがほとんどなかったらしい。小さい頃に色んなところを見て感じて経験を広げられなかったからこうも地理に弱くなったのだろうか。これから色々なところに実際に連れて行って、綺麗なところとかを体験させれば、根本的な解決になっていくのだろうか。
ただ、自分の考えとしてはやはり子供が考える「これって無駄でしょ?」に近い。
はっきり言って、それが子供っぽいと言われようが、俺はそっちほうが直感として正しいと思うんだよね。
時代を積み重ねたということに重きを置くのが保守だけど、俺はそこを否定してるわけじゃない。
何というか、もっと現実的な面で、つまり伝統を守るということが現実のこの時代に生きる人間の負荷になるのは困るという感じ。
俺は古代ギリシャの彫刻や文学、その他にも平安の文学やら万葉仮名やら建築や哲学その他多くの歴史を否定してはいない。というより肯定してる。
そういうのが出来るだけ残ってくれるのはありがたいと思うし、記録・保存する人たち(図書館司書など)には敬意を抱いている。
ただし。
それをこれでもかと押し付ける行為が気にくわない。
つまり、「これは時代の試練を経てきた名著だ、だから読め」って言って学校で強制的に読ませたりする行為。これが本当に嫌。
俺が言ってるのはそういうことで、実は祭りや伝統的な街並みそのものを否定してるわけじゃない。
興奮するとそこがごっちゃになることはあるけど、たとえば伝統的な街並みというのであれば、写真などの資料を残し、ミニチュアをつくって博物館に飾るとか、そういうことは大いにやってほしい。
ただ、現実の物理的な世界にそれをどかっと残し続けることは嫌だ。なぜなら、伝統的な街並みは歴史の中でのほんの一部分において「正しい」とされたモデルケースにしか過ぎないのに、まるで未来永劫その正しさが続くかのような雰囲気があるから。
高層ビルだって所詮はこの時代の価値観に基づく正しさにすぎないのだけど、少なくとも合理性や人々の居住というものに関する意識の変化から言ったら理にかなってると思う。
ヨーロッパの伝統的な街並みを見ていると、美しいと思う一方で、そこに住んでる人達は哀れだなと思う。仕事としてその家に住み続けているならまだしも、伝統だとかそういう付加価値を下手につけられてしまったために、壊すことも出来ないんだろうなと。もっと新しい世界を知りたい人達はこんな街に住みたくないだろうなと。
俺が言いたいのは必要のない伝統は記録・保存されるべきで、現実に無意味に干渉してくるなということなんだ。
伝統の多くが必要なくなったのは、それはまさに現代が「変化の時代」だからであって、それ以前の、変化しないように必死で頑張ってきた時代とは全く様相が違うからだと思う。
伝統みたいなものは、科学技術が存在せず、人々はただひたすら自然の脅威・具体的に言えば「風化」から身を守るために作ってきたんじゃないか?現代は、記録する手段や方法はいくらでもあるわけで、さらには科学技術のおかげでどんどん人間にとって都合の良い世界が作り替えられていく。
科学以前はそもそも世界を作り替えるどころか世界を制御する方法すらなかったから、変化を恐れるしかなかった。今はもう違う。なら、今の時代にあっていないものは、資料という形で物理世界からは切り離してほしい。そういう考えなんだよね。
俺が抱くもう一つの嫌悪感は、伝統を守りたい人々っていうのは、それがなぜ守られなければならないのかなんて考えたことなんかなくって、子供の頃から守れって言われてるから仕方なく守ってるっていうところにある。それどころか、守るために守るっていう感じで、もう伝統の意味なんかなくなってるんだよ。祭りみたいなものはものすごい長い歴史があるのかもしれないけど、その元々は雨乞いとかそういう超プリミティブなところから始まったんだと思う。今でも厄除けの祭りとかあるけど、あれだって完全にプリミティブでしょ。あれで厄除け出来るなんて信じてる人間はいないわけで、別に信じてもいいけど、少なくとも祭りがおこなわれるようになった古代というのはほとんど全員が信じていたからああいうのが成り立ったわけで、ほとんどの人が逆に信じていないような状況で厄除け祭りすることに何の意味があるんだと俺は思う。
アメリカ賛美するわけじゃないが、アメリカが素晴らしいのは歴史を持たないことだ。
だからあれだけアメリカは科学技術国として発展できたし、妙なしがらみからも解放されてる。
日本はアメリカの影響を受けたおかげなのか地震対策なのか、街並みを保存することにはあまり関心がないみたいだけど、良いことだと思う。
ヨーロッパの状況は良くわからないけど、伝統的な街並みは観光のために残しておくとして、そういうところと実際の経済活動が行われる場所は区別すべきだと思う。
ごっちゃにするから良くない。東京はそういう意味では、完全に作り替えてしまうべきだし、今も未来都市なんて言われてるみたいだが、未来どころか超未来都市くらいは目指すべきだ。アメリカがその面ではなんだか停滞してるみたいなので、「俺がお手本だ。良く見ろアメリカ!」と言えるくらい大胆なことはやってもいいと思う。
以下の条件に一つでも該当しない人は異常であり、人格的に欠陥があります。
3.BMI24以下
4.財布の中に年齢×1000円以上入っている。
5.貯金が年齢×100000円以上ある。
6.家事の「さしすせそ」が一通りできる。
7.部屋が散らかっていない。
9.家の中ではなく、自宅の外を中心とした趣味を持っている。
13.海外旅行に行ったことがある。
15.15歳以降の人生の中で、彼氏/彼女がいた期間がいなかった期間よりも長い。
16.なおかつ、少なくとも1年以上続いた相手が少なくとも1人いる。
17.愛してもいない相手とのセックスは考えられない。
18.性欲の対象とする範囲は自分の年齢を基準に決まる。無条件に若い男/女が好きなどと言うことはない。
19.『今度の休み、遊びに行こうぜ』と言って付き合ってくれる友人が3人以上いる。
20.初対面の人とでも会話を持たせることができる。
23.敬語が一通り使える。
25.思想的に極端に左右に寄っていない。
26.五大紙のどれかを購読している。
27.TOEICで600点以上取れる。
29.漢字検定二級が取れる。