はてなキーワード: 保護犬とは
スペックを示す。
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嫁がテレワークのためほぼ在宅
夫30代前半、嫁20代後半 子なし
先住犬イッヌ トイプードル2匹
住居、一軒家持ち家
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同棲のカップルや収入が十分でない人は審査に弾かれると思ったが、これでも全然通らない。
むしろ門前払いのような扱いを受けた。丁寧に扱われているのはアラフォーの子持ち家庭ばかりのようだ。
夫婦共に犬好きであり、生活的にも余力があるためこれまで不幸だった犬の一匹でも自分の手元で幸せに過ごさせて上げたらと思い
譲渡会に行ったが、上記のアラフォー家族との対応の差に驚き(恐らく最初から私達は対象ではなかったのかもしれない)
これまでイッヌを飼い始めて旅行は必ず犬も泊まれる宿泊施設だし、キャンプも連れて行くし、関東近辺の犬が行けるところ
(ヴィーナスフォート、油壷マリンパーク、横浜赤レンガエリア、三井のアウトレットモール系)は列挙できるくらい休日もイッヌと過ごす割りと愛犬家の部類
だと思ってたけど、面談やこちらの状況も興味も持ってくれない保護犬界隈に失望した。
保護犬を引き取るのも多くのところはタダではなくお金がかかるし、シニア犬であればすぐに医療費もかかる。全て承知で申し込んだのだがな。
正直休日にイッヌを家にお留守番させてまで保護犬の会に参加して時間が無駄だった。
逆に保護犬界隈はどんな人に飼って欲しいんだろうな?
保護犬譲渡の話が話題になってたけど、これ経済活動と思うと難しくてな
https://togetter.com/li/1889903
例えば需要が100、供給が100、供給のための単価が100円だったとすると、需給に変化がないなら100作って100円でそれを売って、全部で10000円の市場として安定している
でも、思ったように供給ができない事態とか、急な需要増や、販売の拡大なんかを目指して利益を上げていこうとか思うと、供給側は常に需要より少し多く作らないといけない
そうすると供給コストが10300円になるので、需要100への販売単価は103円になる
値上がり分で需要が減るのを見越すなら105円で販売して購入者は99なら、売り上げは10395円になるので、実際はこんなもんだろう
そうすると、経済活動する分には誰も困らなくて、需要側も手に入るし、急な需要変動や供給変動にも市場が乱れることもなくなる
とても便利で誰にとってもいい方向なんだけど、ただ、商品は4余るようになる
これがただのモノなら、SDGsとか物を大切にしなきゃとか、資源がとかいう面からはよくないかもしれないけど、でも別に誰も損しないし利便性もある
なので、保護活動というのは、経済活動から必ず生じるこの需給のギャップの4匹について引き取る活動じゃないと意味がない
つまり、「犬なんかいらないんだけど、余ってるなら面倒見てやってもいい」でしか価値がない
「犬は飼いたいと思ってるんだけど、保護に貢献したいから保護犬から」という思考だと、本来の需要が保護犬にシフトしているだけになる
そうなると需要はあるのに正規のペットショップから売れなくなるので、販売者側は保護犬としての販売方法に舵を切るしかなくなる
だから告発漫画みたいな「保護犬譲渡の皮をかぶった経済活動としての供給」をせざるを得なくなる
だから、そういう悪質?と言われてしまってる保護犬譲渡団体がなぜあるかって、正しい需要なのにペットショップから買わないからある
つまり、いらないんだけど庭が広いから、別にええで、みたいな感じじゃないと意味ないんだよなーと思う
でも、そんな人なんてたくさんいるわけもないので、本当に殺処分のない世界を目指したいのなら、ペットの流通、ペットを使った経済活動を全て否定しなきゃいけなくなるわねー
そこまでせずに法でしばるなら、常に需要より少ない数の生産しかできなくなって、経済活動としては旨味は消え去るでしょう
あー犬手に入ったんだ、いいなあ、みたいな社会
まあ、それはそれでいいかなと思うが
先週の月曜日に拾った子猫を、今週の水曜日にひとにやった。ほんの短い間だけ、どたばたで面倒を見た。私の、女性の平均値をだいぶ下回った小さい両手にも乗るくらい小さな子猫だったが、それがたった一匹いなくなっただけで室内にすきま風が吹いたような淋しさがあり、改めて猫ってすごいなと思わされた。
とはいえ子猫に会いたいかというと、それよりも子猫の新飼い主に猛烈会いたくないという気持ちの方が遥かに勝るので、子猫には是非とも私の知らんところで幸せになっていてくれと願ってやまない。新飼い主には、子猫が思う通りにならなかったとしても、うちをあてにすることはしないで欲しいと思う。もう私は知らん。
https://twitter.com/Sato_adachi/status/1527562865292746753?t=VhTjz4vOS5ZMsOwStVliuA&s=19
これは犬の話だけれども。
もしも子猫の貰い手が見つからなかった場合は、動物愛護団体を頼ろうと思って色々調べたり各所に問い合わせをした。それで知った事をちょこっと書いておこうと思う。大して多くないけど。
というのも、犬の飼育は法律で登録制とされていて、また、野良犬は捕獲対象だからだ。ある程度人間には害のある生物視されているというか。
一方、猫は犬とは違い飼育に登録は不要で、野良猫を捕獲するための法的根拠がない。民家の庭にうんちをしたりゴミ収集所で生ゴミ漁りをしていても、それが迷惑だからといって駆除することはないらしい。
また、猫は繁殖力が強く、民家やその敷地内の狭い所に隠れるので、駆除しようとしたところでそれは無理なのだ。
じゃあ、野良猫をどうするのかというと……県庁や自治体のホームページを読んだところ、野良猫は地域猫とし、人と猫との共存を図るということだった。いくら野良猫が邪魔だとしても虐待したり殺したりするのは違法なのでやらないように。猫を捨てるのもご法度である。じゃあ人間は野良猫改め地域猫が増えて行くのを手をこまねいて見ているだけなのかというと、そうでもなくて、地域猫の避妊手術を行う活動というのがあるらしい。
ともあれ、犬はよく管理されているので保護犬の数は少なく、猫はそうでもないから保護猫は多い。
動物愛護団体の譲渡会は犬猫の両方を受け入れていても、実質猫の譲渡会のようになっているっぽい(これは動物愛護団体のレビュー情報)。
ネットで県内や近県の動物愛護団体の連絡先を検索したところ、数件ヒットしたのだが、後に県営の動物愛護センターに電話したところ、信用できる民間の動物愛護団体として紹介されたのは、たったの二件だけだった。
動物愛護センターに問い合わせたところ、もしも保護した子猫に対して情があって生きていて欲しいと思うなら、預ける先はここじゃない、と言われた。動物愛護センターで動物が保護される期間は短く、多くの動物が殺処分となるのが現状だそうだ。
動物保護センターでも譲渡会を行っているが、現実にセンターに収容されている動物は、新飼い主にお迎えされない何かしらの事情を抱えているものばかりだそうだ。
動物愛護センターから紹介された民間の動物愛護団体が、どちらもホームページを持っていたので、閲覧した。ウェブ上でも写真つきで猫の里親を募集していた。
アーカイブを見ると、やっぱりというか……成猫は長々と募集状態であり、子猫は里親決定済みかトライアル中となっていた。どんな犬猫でも受け入れるという決意を持っていても、可愛い子猫を見ちゃうと、この子がいいってなるんだな……。
数年前、動物愛護団体の譲渡会に里親希望として参加して嫌な思いをしたという事を書いた増田がいたが、では逆に譲渡希望者にとっての動物愛護団体はどう見るのか。
うちは結局、譲渡会に足を運ぶ前に子猫の貰い手が見つかったので、直接ボランティアの人達と対面することはなく、電話で話したきりだったけれど。でも、電話で受けた説明やホームページに書かれた事を信用するなら、普通に頼れそうな感じだった。
譲渡希望者が個人情報を根掘り葉掘りされる事はなさそうだった。ただ、サインすべき書面があり、提出しなければいけない書類もあった。保護動物の健康診断書、検便検査結果(陰性でないと譲渡会には参加不可)、ワクチン接種1回目の領収書だ。
保護動物の健康診断書を出すからといって、譲渡会に参加できる動物が健康体に限るという訳ではなく、持病や障害があってもよいそうだ。どういう病気や障害があるのかを知るための健康診断書なので。
ワクチン接種代の領収書の提出必須な理由は、譲渡会の参加資格に関わるからだった。譲渡会に参加する時の月齢・年齢なりに受けるべき予防接種を受けていることが譲渡会参加資格の一つだ。それと、ワクチン接種代は里親になる人に、貰い受ける保護動物の面倒を生涯見るという決意表明として支払ってもらうという。ボランティアスタッフが里親に請求し、得た代金はそっくり譲渡人に返される。
譲渡会当日は、譲渡希望者は会場に出向いて動物とそのエサと使い慣れたトイレをスタッフに預け、提出書類を出し、参加費を納め、書面にサインをして、あとは譲渡先が決定するか閉会までは会場の外で待つ。里親希望者との交渉はボランティアスタッフの担当だ。それはコロナ対策のためだそうなので、平常時は譲渡人も会場に居れるのかもしれないが、そこの所は詳しく聞かなかったのでわからない。
もしも譲渡会に出した動物に貰い手がつかなかったら、譲渡者は動物を自宅に連れて帰って世話をし続けなければならない。その動物愛護団体では、人手と費用の問題から動物の預りは行っていないのだそうだ。
なお、私が問い合わせた動物愛護団体の場合、譲渡会の参加費=動物愛護団体への寄付金だった。譲渡会の参加費は里親希望者が5000円以下で、譲渡希望者はその半額以下だった。
これが相場なのかどうかは知らないが、Twitter漫画の怪しい動物愛護団体とそれが運営する譲渡会と信用できる動物愛護団体とその譲渡会とでは、金額も譲渡会規則もだいぶ異なっていることは確かだった。
動物愛護団体のホームページの里親募集コーナーで、先に登録された成猫にいつまでも貰い手がつかず、後から登録された子猫が早くもトライアルに入っているのを見たら、子猫を譲渡する時には頼れると感じる一方で、子猫のために「(自称)どんな猫でも受け入れる覚悟がある」を里親希望者を先に登録されていた成猫から奪ってしまうようでどうなのかなと思った。ま、成猫の保護猫でずっと貰い手のつかない猫にはそれだけ事情があるのだろうし、簡単に子猫の可愛さになびいてご宗旨変えするような人間になんか引き取られない方が幸せかもしれないが。
なぜならほぼすべての動物愛護団体には、単身男性を一方的に潜在的な動物虐待犯として敵視する差別意識が浸透しているからだ
すべての原因は動物愛護団体界隈に存在する、単身男性に対する差別意識だ
この事件は単身男性に対する差別が積み重なり、動物愛護団体という名の差別主義者団体が単身男性に対してならば窃盗という犯罪を正当化できるとまで思い込むに至った結果発生したと言える
単身男性は単身男性というだけで白い目で見られ、「独身男性にお断りしているんです」とまるで自分が動物虐待してたかのような差別的な扱いを受ける
実際には動物愛護団体が差別をし、単身男性を侮辱し、単身男性に対する犯罪すら犯す犯罪者集団だというのに!!
世間および動物愛護団体界隈は、今回の事件の背景に存在する差別を直視し、二度と動物愛護団体による単身男性差別が発生しないよう監視しなければいけない
犬の散歩してたら突然、オバちゃんから強い口調で言われた。ウンコ片付けていってよ!
しかし、心当たりがない。
「別の方だと思いますよ」
他に言い方あるだろって感じだけど、動揺してこんな感じで答えた。オバちゃんそんわけないよ!と怒っていたが、埒が明かないので無視してその場を離れた。
数年前にも別のオバちゃんから絡まれた。その時は大声でこちらに向かって叫んでる感じだった。「いつもこんなところにウンコさせて!汚い!最低だ!」みたいな感じ。
その時は保護犬だったうちの犬を飼い始めて一週間くらいで、やっと環境に慣れてきて外に出ることに同意してくれたのではじめて連れ出した日だった。ウンコなどしているはずもない。大きな声で犬がビビっていたのなんやこのババアと思った思い出
こころぴえん④
四
七夕があった。
私はというとまた失声気味になっていた。
顔面の半分がしびれて麻痺したような。これだと七夕の伝説を解説できないから。
そりゃあ困ると思ったけど代替になってもらえる人もいないから、課長に付き添ってもらって死ぬことにした。
そう私は先生に言った。
そしたら先生は優しく私の首に手をかけて私のことを殺してくれた。
でもねこれだけは言っておくんだけど、その殺傷のおかげで私は今これをこうやって書いてる。
生きてる!
生きてはてなーになって駄文を二人して巻き散らすのも悪くないかもしれないよね。
でも私いつまでたっても先生よりバズれないの。
先生は先生ですんげーおもろいツイートしてるのにいいねが一生0なの。
うけるよね。
そうやってお互いネトストし合ってうちら生き延びちゃってるんだよね。
単芝失礼。
あ、そーだ。柴犬飼おうよ。保護犬になっちゃった柴犬を引き取れるようになろうね。
大人になんなくちゃ。
真っ赤なバラと白いパンジーと子犬と私の横に先生がいてくれるのかはわかんない。
けどこうやって増田に書いてたら先生がでんちゃ♪でんちゃ♪でんちゃっちゃ~♪に乗って
銀河鉄道に乗って
ワイの街まで来てくれるんじゃないかなって思ってるの。
でもいつになったら会える?
私より先に逝ったらそのときだけはおこだよ。
激お子ってハンネで活動し始めるかも。
東京オリンピックが閉幕したら死のうと思っていたのだが、あれよあれよという間に結婚していた。妻と出会ったのはほんの数ヶ月前のことだったのにも関わらず。
この北京オリンピックも盛り上がりを見せてきたところで、自殺願望もとりあえず重箱の隅に仕舞いこんでおける水準になっていることに気が付いた。
経緯を増田に簡単に書き残しておくことで、誰か必要としている人に届けば良いと思う。
僕はかなり重度の自殺願望の持ち主だ。
いや、正確に言い表すのならば、「自殺願望の持ち主だった」。
元々、どこから湧き出てくるか不明な死にたい気持ちの源泉を抱えて生活してきた。精神強者にはあまりわかってもらえないことなのだが、「生きていること自体が自傷行為」なのである。
学生時代も挫折と絶望の繰り返しで、それなりに死んでしまいたくなることはあった。なんとか資格で食っていける学位を命からがら取得し、赴任地や所属といった諸々の見通しがたった後は、気を紛らわすような生きて行くための指標を見失い、ずっと「一体、これから俺は何のために生きていけばいいのだろうか?」と迷子になりかけていた。
趣味でも、恋愛でも、誰かこの人に尽くす為に生きてゆきたい。そういった、生きる痛みを和らげ覆い隠すだけのわけが必要だった。
私にはこれといった趣味がない。何か気分がいい感じに紛れるモノを探す努力もしてみたが、一向に見つからなかった。元々根は不真面目な社会不適合者なので、昇格昇進を目指して仕事に打ち込むことも出来なかった。恋活はじめいわゆる婚活と呼ばれる活動にも参入してみた。だが、案の定誰からも愛されることは無かった。
誰からも求められず、自分は何のために生きているのかわからないまま大阪で過ごす日々は、着実に心身のHPを削っていった。
婚活で出会う女とやり取りするうちに残りギガも減りゆき、やはり自分のように価値のない人間が愛されるにはネットだけでなくリアル対面が必要なのだと思うようになった。そして、遠隔でもいいから分かりあえるパートナーと生涯を共にしたいと熱望するようになった。
いっそのこと手っ取り早く障害者手帳を取得し、ハートフル割でTwitter婚活に専念しようかと考えた。しかし手帳を申請する前段階の診断書ゲットで躓き、身動きが取れなくなってしまった。
処方薬の大量服用を試みた。失敗した。目が醒めたからだ。次はもっと致死率の高い量と血中濃度を計算しようと誓った。
いずれにしても、「実行できなかった」。自殺願望を持つ者の中でも、思い描くことと実行することには大きな隔たりがある。「俺は本当にいつでも死ぬことの出来る人間なんや!」という思いを確かにし、ずいぶん勇気づけられた僕は、急な断薬をすることにした。
サナトリウム的な保養所に連絡してサポーター氏と減薬調整を進め、彼らから「お前の寛解を認める」という言葉が得られたのは、雪がとけゴールデンウイーク目前となった頃で、私は44歳になっていた。
「寛解」という言葉の軽々しさに、「これが誤診だったらいいな」と執着心を捨てきれずにいた僕だったが、そこから次元を上昇するかのように幸福が立て続けに起こった。
元職場の上司が菓子折りを持って過去を詫びにきたり、身内が出産したり、別の身内が学会で表彰されたり、海外の親戚が帰国し、その勢いで一族での花見をやったりした。短い期間に懸賞に連続で当ったことも、一度や二度ではない。
そのわりに仕事がうまく行くようなことは無く、再開した婚活でも坑精神薬の服用歴があり厳密には完治したといえない僕のような人間を愛する異性なんているはずもなかった。
そうして悶々としているうちに、疎遠になっていたそういう友人たちのうち何人かと交流を再開するようになった。しかし僕の心の隙間は一向に満たされる気配はなかった。
もう何をやってもこの人生はなるようにしかならないと悟り、私は何を思ったか一匹の保護犬を引き取ることにした。ミニブタの飼育もはじめようと思い付いた。
そんな折、婚活仲間として意気投合し、一緒に遊んでいるうちに希死念慮を打ち明け合うようになり親しく付き合っていた友人から連絡が来た。私の数少ない、大事な親友だ。
それは、「一緒に死のう」という申し出だった。「さもなければ一人で死ぬ」という話だった。
私はその申し出を断固拒否した。その代わり、友人と
文章はここで途切れていたので、今こうして続きを入力している。
私は友人にとって特別な存在になることができた。それだけでもう、苦しんで生きた甲斐があったというものだ。そしてもう私の生きる意味も役目を遂げた。
ここから先にあるのは、更に苦しく孤独な未来しかないと思った。私自身の心ももう、本当に限界を迎えていた。
もういつ死んでもいいと思っていたが、最後にせめてやり残したことを全て終えてからにしようと思った。
さらに文章はここで途切れていたので、今度は私がこうして続きを書き込んでいる。
文章の推敲をしていると、近所に住んでいるというフォロワーの方から連絡をもらい、会うことにした。
私は彼女のことを何度も見たことがあった。見るに耐えうる程度には美しく、刺身の上にタンポポを載せるような仕事をしている人だった。
彼女は、「あなたのファンです」と言った。何故か僕が近くに滞在していることを知っていたのだという。そして彼女は、「私は、あなたの人生に責任を負う覚悟があります」と言った。
だが、僕は自分で言うのも何だがわりかし顔の造形が整っていて陰キャでコミュ障傾向にあるが自殺願望や希死念慮から起死回生を図った逞しいマッチョである。彼女のようなどこか気が抜けていてポンコツで味のある(一応誉め言葉だが彼女に文意が伝わるか定かではない)女が、僕のことなど好きになる知能を持ち合わせているはずはない。分かり切っていた。
しかしまあ、騙されても奪われるものなど無い私は、彼女の言うがままデートを重ねた。そうして数か月経った頃、気付いたときには結婚し、主夫になっていた。息子と娘も誕生した。
人生は塞翁が馬みたいな感じだ。こうなるのには奇跡のように途方もない強運が必要なのは間違いないが、しかし一つ言えることは、私は、「ぎりぎりまで生きるのを延長していた」ということだ。
私はこの人生をもはやどうでも良いと思っていたが、ひとまず「とりあえずこれをやる」というものを探し、生きるのを何度も延長した。
死ぬ前に、小説を書き上げようと思った。コロナ対策をしつつ旅に出ようと思った。ブログを書こうと思った。ふわっちやInstagramをやろうと思った。とりあえずなるべく他人と会おうと思った。
そうして何度も何度も生を僅かずつ、ほんの少しずつ延長していなければ、妻が私を見つけることは無かっただろう。
そして妻の人生もまた尋常なものではなく、私に共感を覚えるような深い悲しみを抱えている人だった。そして全てのタイミングがピックアップしたパズルの破片のように奇跡的に当てはまり、ネットの海から掬い上げられた。
自分のことを特別にして求めてくれる誰かに愛され生きることは、思っていた以上に私を楽にしてくれた。
妻は、私がナルシストでニヒリズム主義でいることを許してくれるし、妻にとって私は、今のところ良い主夫として何とかやれているみたいだ。来年の春には新しい職場で働くことが決まっている。きっと能力者扱いされると思うけれど、なろう主人公程度には大丈夫だろうと思えるくらいにはなった。
だから死にたいなんて甘えだとか、問答無用に生きるべきだとか、大事な人が悲しむだとか、生きてることに感謝しろだとか、そんなトンチンカンなことを言うつもりは金輪際ない。
一度「死ぬ」ルートに入った人間を掬い上げるのは本当に困難だし、何の代償も支払うことなく他人の人生を救うことなんて、基本的には誰にも出来ない。
だけど、もしこれを読んでいる人の中に死にたいと思っている人がいたら、死ぬ前に、何か言い訳をしてみて欲しい。
あのYouTuberが配信するから今日はとりあえず夜までは死なないだとか、映画を見まくって、芸術に触れて、ときには創ってみて、食って寝て、会いたい人に会って、未練が残らないように、ギリギリの本当にギリギリまでやることを見付けて、やり尽くして、それでも未だ死にたいと思うのなら、好きにしたら良いと思う。
その最期の一瞬までに、これを読んだあなたのことを誠実に見てくれている誰かがいて、手を差し伸べてくれることを切に願う。
フランスでのペットショップでの生体販売禁止や、繁殖屋「アニマル桃太郎」代表の逮捕など
これまでは、動物愛護法や虐待なんてまったく見向きもされないことがほとんどだった。
「ペットの闇ブーム」として素人知識ではあるものの、ここに軽くまとめておく。
【1:繁殖屋】ーー→ オークション/審査会 ー(通った)→ 【3:ペットショップ】
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(通らなかった) ーーー (売れなかった)
↓ ↙︎
購入したペットが死んだら「代替ペット」をご用意してくれるそうな。
https://twitter.com/nanamaru_mamy/status/1314331118271750144?s=12
売れない生体は半額(奇形はタダ)にする代わりに5年間フード定期購入の契約を結びつけたりと商売に必死。
もちろん途中解約は不可
最近は繁殖屋で使えなくなった犬を「保護犬カフェ」という名目で新たなビジネスを始めたようだ。
代表が若くして年商19億だとかマイバッハとかいう高級車を乗り回していたという話もある。
https://twitter.com/nizikotokeiko/status/1365161828506947590?s=12
沖縄浦添店での劣悪な環境が話題になったものの、そうではない良心的な店舗も多いようだ。
購入者が泣き寝入りしてしまう「子犬子猫の移動販売(わんにゃんフェスタ)」で有名。
どうみても体調が悪い状態で販売し、そのほとんどが先天性の病気を持っていたり
あるいはジステンパー、パルボウイルスなど致死性の病気にかかっており
連絡がつかず、被害者が泣き寝入りしている事件が相次いでいる。
https://twitter.com/jongjonnu/status/1455729412389830662?s=12
動物愛護法は今年6月に改定されたばかりだが、それ以前からこの狭いケースに展示していたというのはあまりにも可哀想。
同代表で「株式会社ASASHO」という法人も存在するが現地民ではないのでなんともいえない。
これも「子犬子猫の移動販売(わんにゃんパーク)」で有名。イベント名が適当シリーズ。
同様に購入した生体がことごとく病気持ちで死んでいく。
こっちの方が致死率が高く、イベント後には地元の動物病院は大忙しだとか。
一部の活動家による声明のおかげで先月のスッキリで取り上げられていた。
30〜50代あたりにとっては「動物愛護団体=触れちゃいけない人」みたいなイメージが定着していないだろうか。
しかし、近年こういった団体が動いているおかげでペットの殺処分数が10分の1にまで減っているのも事実だ。
気になる方はYoutubeチャンネルで検索することをおすすめします。和む。
今回ここに書いたのは少しでも実態を知ってもらいたかったためです。
などという趣旨ではありません。
できれば胸が痛むことは誰にも共有したくありません。
・ポリコレだの動物保護だの政治がどうだの余計なこと喋らない、協賛もしない
・少なくとも金に困っていない(クラファンとか乞食行為をしない)
犬猫アカウントは途中から猫を買う資格がないとかなんとかニュースに反応する奴が多すぎるから
ニュースにいちいちコメントつけたり保護犬猫ガーペットショップガーしないやつ
毎日自分のペットのカレンダーとかのグッズの宣伝とかもしないやつ(タイムラインで邪魔)
手料理とか旅行系は写真メインで夫婦仲がいい(旦那の愚痴とか一切かかない)、または独身
あるいは医者の妻など金に苦労してない、余計な政治思想を喋らないやつ
子どもの写真でもいいけど、なんか子どもで金稼いでるみたいで嫌なので料理の方がいいかな
とにかく投稿者の余計な主張が入ってこないタイムラインが欲しい、今のフォロワーだと
四六時中どれかの話題があって非常に目障りなので インスタはやってません
保護犬を受け入れてる人な気がする
一週間前、行きつけのラーメン屋に行ったら警察が止まっていた。
何かの事件かと思ってよく見たら、1匹の老犬を囲んで警察や家族が話をしていた。
足がガタガタ震えていて、鼻には大きな傷。首輪が付いていた。
痩せ細っていたので飼い主とはぐれてから2ヶ月は経っているはず。
うちの地域では野犬は珍しくなかった。むしろ捨て犬なんて言葉は最近知ったくらい、それくらい野犬が多かった。
だから自分は殺処分させるくらいならその辺でのびのびさせとけって思ってたんだけど。
大きい犬だったが近づくとすごく怖がって、でもお利口にしてくれた。
他の犬と喧嘩したのか、鼻の傷が痛々しい。(流れ星銀みたいな戦いを想像した)
怖かっただろうな。
まもなくして店主が「ラーメンできたよ」というので一旦店に入った。ラーメンの味がわからなかった。マジで何しにきたんだ。
店を出てからもまだいたのでもう一度近づいてみる。
すると私の顔を見るや否や、ロープを持った警察官を引きずってまで
助けてくれと言わんばかりの目に見えた。
もしくは、ずっと待ってたよ。というような…安心した目をしていた。
勝手な思い込みなのかもしれないけど、最初の怯えた目ではなかった。
きっと人間にたくさん愛されて育てられたのだろう。
私はこの犬を二度も裏切ってしまった。
何度も何度もこの犬は裏切られた。
そう思うと今も悲しくて涙がこぼれ落ちてくる。
ごめん。保護できなくて…
飼い主のこと殴れなくて、何もしてやれなくてごめん。
するとあの犬の写真が…
まあまあ拡散されていたものの、いまだに見つかっていないようだ。
警察も家族もラーメン屋の店主もかれこれ5時間はそこに留まっていたようだけど
とか思い耽っていたら、近所の小学生が最近犬飼ったんだよね〜なんて軽々しく話してきた。
「ちゃんと注射した?マイクロチップとか登録とかした?」と聞くと
「何もしてない」と知らん顔。
犬は無邪気に私の顔をペロペロ舐めたり、飛びついてきたり。挙げ句の果てに嬉しょんされた。
正直複雑だった。
なぜなら、その小学生は「これから散歩に行く」というのにビニールも何も持ってないからだ。
これから子供が大きくなって面倒が見れなくなったら、この犬もあの捨て犬のようになるのでは。という不安が頭をよぎった。
今はありえないと思うかもしれないが、いつかその日がきてしまうのかもしれない。
あの犬のおかげで、自分で世話できなくてもこういう団体がいるということを知れた。
少し前まで辺りをのびのびと彷徨っていた野犬に似た犬が、知らない人とルンルンで散歩しているのを見かけるようになった。
今まで自分が気付かなかっただけなのかもしれないけど。
犬、めちゃくちゃ好き。
もう1年くらい毎日通勤中に必ずすれ違う犬がいて、特に好きだ。あまり犬種に詳しくはないが多分なにかしらの大きい和犬で、焦げ茶色である。最近ちょっともっさりしてきて、冬らしい感じなのが良い。
品の良いご婦人と相当ゆったりめのペースで歩いており、やや前をとつとつ歩きながら、自信と活気に満ちた表情をしている。たまに振り返り、すぐまた前を向くのだが、その表情がすごく良い。自分が愛されているということに微塵の疑いもない様子がありありと伝わる、すんっ、というか、てんっ、というか、そういう収まりの良い擬音がつく顔である。
ほとんど毎朝見ているため、なんとなく犬のほうも私を知っているとみえる。角を曲がった先にいると、おっ、みたいな顔をする。そんな気がする。
そして犬というものは犬に敵意のない人間を理解できるのか、あなたは悪い人ではなさそうですね、そしてわたしに興味がありそうですね、というような表情をしている。そんな気がする。
先日いつもしていた白い首輪が赤いハーネス型のものに変わり、おっ赤も似合うじゃないの…と思いながら見ていたのだが、その目線も理解できていたのだろうか、彼または彼女のそれに対する反応も、分かりますか、いいでしょう…という感じの自信に満ちた様子があり、それもまた非常に良かった。
話しかけてみたい、撫でてみたいという気持ちは常にあるのだが、あまり人様の家族に気安く手など出すものではないということ、もしも他人から触れられる行為が好きではない犬であれば可哀想だということ、何より、あのご婦人と犬の間に漂う一幅の完成された絵画のような静謐な雰囲気に私が立ち入ってしまうと、何かが壊れやしないだろうかという懸念もある。そうこう考えているうちに、今日も彼女と一匹は、アスファルトと爪が触れ合うときの、ちゃっちゃっとした快活な音を残して去ってゆくのだった。
彼または彼女だけでなく、あらゆる犬のことがかなり好きなのだが、それゆえに却って犬を飼うという選択肢が選べないでいる。というのも、私は独り身だし、出張や転勤もあるし、家には庭もない。それに大して収入もないから、有事の際に出来ることには限りがあるだろう。
そういった制約下でも犬を飼うことは一応できるだろうが、幸せにできる確率は客観的にみて有意に低いだろうし、またその自信もない。私の望むところというのは犬が幸せにあることで、犬を飼うこと自体は望みではなくその実現における一つの手段に過ぎない。
ここ数年はボーナスを貰うと保護犬シェルター等に多少の寄附をしているが、これも時期が予定されていてかつ生活の不自由にならない金額であって、犬を飼う人々やそれに関わる人々が、彼らの病気や怪我など生命についてまわる数々の不確実性に向き合っているその覚悟に較べれば、実に都合のいいものだ。
たとえば毎朝すれ違うあの犬の背中に賽銭箱か何かが付いていて、良いね…という思いを多少なりとも彼または彼女の暮らしに還元できればと思うのだが、そういう訳にもいかないだろう。
祈るばかりで特に何もできないことが歯痒くもあり、もどかしくもあるのだが、世の中にいるすべての犬が幸せにあらんことを、と思わずにいられない。そして犬を飼っているすべての方は、あなたによって幸せに暮らしている犬が、世の中の誰かにとって良く思われていることを覚えておいていただきたい。そして、可能であれば犬の写真や動画をインターネットなどによって見せて欲しい。