はてなキーワード: ヒッピーとは
ども。石屋の店長です。
パワーストーン・ブームも沈静化してきて、店も暇なので独り言の本音を書かせてもらいます。
■パワーストーンってなんぞや?
パワーストーンって言葉は和製英語。英語圏では、貴石全般を Gemstones と呼びます。
ニューエイジ…精神世界が大好きなヒッピー系wな人たちは、聖なる力を持つとされる石を HealingStones とか HealingCrystal なんて呼んでます。
装飾品に使うような見た目が綺麗で、産出量が限られた貴重な石、
見た目はともかくとして、人間の生活にとって便利な機能を持つ石、
それらの金銭的価値を持つ石を貴石と呼び、高価でなければ半貴石と呼びます。
たとえば…
赤くて情熱的なイメージがある→この石は人に精神的な活力を与える
その意味を多くの人間が信じ、活用してきたからこそ、パワーストーンってやつには力があるのです。
つまり、長年に渡る人類の【呪い】によって、力を持った石がパワーストーンだと、私は考えています。
金銭的価値という面だけで言うと、日本でパワーストーン・ブレスとして売られてるものの価値はひじょうに低いです。
たとえば、今や1000円とか800円とか500円で売られている水晶ブレスですが…
その手の安いブレスの仕入れ値は200-300円ぐらい。大量(100本単位)に仕入れれば120-180円にまで下がります。
ちなみに、中国の業者から日本の卸売業者の届く水晶ブレスは、本数単位の取引ではなく10kg単位です。(数えるのが面倒くさいんだろうなw)
はっきり言っちゃえば、ビーズ加工された貴石なんてゴミですよ、ゴミ。
水晶1kgを加工して出来るビーズの量なんて、本体の3割…300gぐらいです。7割は掘削ゴミとして、水晶さざれになります。
7割が掘削ゴミになるとわかっていて、本当に貴重な水晶を加工しますか?
これは他の石でも同じ。
貴重な石は、次の順番で売られます。
2)原石として形を残しインテリアとして売られる(一部カット、一部ポリッシュあり)
3)大きさを生かして彫刻などを施されインテリアとして売られる
4)ビーズに加工され売られる
一般的なパワーストーン・ブレスの金銭的価値は、売値の1-2割。これは覚えておいてください。
パワーストーンにはまって、数万円するブレスを次々に買ってる人がいますが…
この石の価値や、値段のからくりを知れば、少しは頭が冷えるのではないでしょうか?
パワーストーンとして持ちたいなら、家に原石を置くことを強くおすすめします。
原石を入手するとわかりますが、霊感?第六感?のない人間であっても、なにか不思議な感覚を得られます。
この感覚を大事にすると、石をパワーストーンとして置く意味がわかってくるようになります。
いつも、パワーストーンを持って歩きたいなら、ブレスよりも原石のポリッシュをおすすめします。
欧米では、握り石と呼ばれていますが、気分転換やリラックスのために、握りやすいサイズの石を選びます。
特に、ヒマラヤ水晶のポイントを、シルバーワイヤーで留めたペンダントヘッドはおすすめです。
■パワーのあるパワーストーンとは?
全ての石にパワーはありません。
パワーがあるのは、呪いがかかった石だけです。
だから、石に、呪いがかかっているか、呪いをかけるか、なのです。
1)パワーがあると言われてる石の種類を選ぶ
みんなが信じて、みんなが言っていれば、それも呪いになるのです。
だから、まずは「この石には、○○の効能がある」といわれてる石を選んでください。
2)自分が魅入られた石を選ぶ
次に、ショップに行って、石を選びます。この時、値段に左右されてはいけません。
高いからパワーがあるということは絶対にないのです。
それこそ、ワゴン・セールで1個300円のものでもかまいません。
自分が「これだ!」と思うまでは、何十個何百個の石を見比べましょう。
貴方にとってパワーある石との出会いには、必ず運命があります。
貴方が出せない値段の石は、貴方のもとに来る運命ではないのです。
もしも、どんなに石を見ても、自分にとって「ピン!」と来ないなら?
貴方には、その石は必要ありませんw
高ければパワーがあるわけではない、ってことだけ、覚えておいてください。
今風の洗練された雰囲気とは何だろうか。
引っ越して、久しぶりに一人暮らしとなった。一人になったことよりも、前より狭い部屋に移りリセットできる印象が大きい。
そこで、シンプルだけどセンスの良い「今風の洗練された雰囲気」を目指している。この漠然としたものの正体は何だろうか、と考えてみた。
例えば、Apple製品のデザインや海外サッカーの雰囲気、Wired Visionのようなイメージ。都会的と標章したく無いが、野暮ったくないもの。
Appleから想起して、金属やガラスがその本質というわけではないだろう。Jobsの加工への拘りが金属の次にガラスに移った、いわばマイブームを反映したものだから。彼が生きていれば、今はカーボン繊維や生体材料かもしれない。
シンプルだけど、寂しくない。つまり、「間」を考えてデザインされているのだろうか。今風のデザインとして、フォントを見直す作業がある。字間に注意するとか。ちょっと前のアイコンは、シンプルにした上で無駄に反射させるというもの。(無駄にというのは、光源とか必要性に気が使われていないから、深い意味はない)でも、確かにそれらは「今風の洗練された雰囲気」がある。いや、付随体験に引っ張られていることも否定はできないけれど。
シリコンバレーのヒッピーな文化に、侘び寂びが取り入れられていったことを気に留めると、「無いことに注意する」というのは流れの着地点としてあり得る。
IT企業の新オフィスです、みたいな記事を見ると、「変わったものが1つだけある」ことに気付く。基本的にモノが少なくて、片付いている。ユニークなのは、椅子だけ、壁だけみたいなのが多い。それで、数ヶ月後くらいの写真で、ものが増えているとどこか普通の雑然さが増している。
別にモデルルームと生活感ということは結論では無いと思う。ただ、掃除が行き届いている。常に綺麗というのはある。この辺は、5Sとか王道的な職場空間の発展のようなものが、きちんと含められているのだろう。
快適さがある。快適さとは、動きを妨げるものが無い他に、空間の要素として何があるだろうか。温度、湿度、風、匂いが最適だと上質だなと感じる。雨の日にホテルに入って、気持ち良いと感じるか、そうか雨だよなと蒸し暑さに顔をしかめるかは違う。この辺は、人に依る。だが、スタバの日本出店時に香りのために禁煙と話題になったことを考えると、空間の要素に匂いがあり、「○○ぽい」に影響しているのは確かだと思う。(香油は売り方が上手いだけだと思う)
要するに、「ものが無い場所が最適の空間」だろうか。デザインより、もう少し身近に気が使われているイメージとして。つまるところ、ものの有る無しに関わらず上質という感じ。女性に対する羨望の矛先が、太っている→痩せている→健康的と文化的に変わってきた流れに似せて。
ここまで考えて、「2クリックでたどり着く」みたいなUIのデザインは、実は身近なもので、(SEではないが)仕事や生活へどんどん取り入れるべきものなのかと変に腑に落ちた。
東京は思ったより緑が多い。ただし、山なんかとは逆に存在する。緑の中に轍があり道の端っこに石があるのではなく、石の間に緑がある。だけど、最近は冷たさは感じない。管理されている安心感というより、考えられている嬉しさを感じているかな。
window - The album leaf
no surprise - radiohead
I wanna be adored - The stone roses
someday - The strokes
1979 - The smashing pumpkins
time to wonder - gypsy & The cat
そして僕は途方に暮れる - 大沢誉志幸
summertime clothes - animal collective
夜を駆ける - スピッツ
署名とかデモで何か変わると思ってる連中って、何百年も前から何も変わってねえんだろうな〜と思って見てるよ。
残念だけど、どんなに叫んだって奴らにゃ何も届かねえ。
都合の悪いコトを知覚する器官がねえ、というより、まさか自分に矛先が向いてると思ってないから。
人のせい、過去のせいにして、どこかに責任をおしつけて、自分はむしろ被害者だとすら言いたげだ。
どんなに声が集まったって、諸悪の根元を直接叩かねえ限り何も変わらねえし、諸悪の根源なんてそもそも無いかもしれない。
何十年もかけてガチガチに構築された腐ったシステムの中に生きてて、そのシステムを変えろったって無理なんだよ。
ここまでバカにされて、テロリストの気持ちが身近になってこない方がおかしいんだよ。まあテロでも何も変わりゃしねえだろうけど。
じゃなかったら、諦めて自分を殺して生きてくか、どうにかしてこの腐ったシステムから出るかだ。
あっちが何十年もかけてじわじわ戦争仕掛けて来てんだよ、早く気づけよ。
加害者になってる連中は自覚して無えんだろうけどさ、それが話をややこしくしてるってのもある。
平和的解決だとか生ぬるいこと言って安心してる連中も思考停止してる。残念だけど、どんだけデモやったって届かないんだよ。
必死になって叫んでも、コアまで響かない。コアに、コアの自覚がないからね。
だから海外ではテロまでして自分の声を届けようとしてる。それでも届かないね。まったく。悪魔に悪魔の自覚が無いからね。
自分がぐちゃぐちゃにした残骸をその目で見ようとしないから、連中はいつまでたっても自分が悪魔だと気づかないのさ。
これれまで何十年も、何百年も、もしかしたら何千年も積み重なってきた人類の悪の全てを背負い込むのが自分だとは、誰も自覚なんかしたくないよね。
腐ったシステムを変えるってのは無理だよ。本当に残念だけど、一度滅びなきゃ。
奴らのために、上書き不能のシステムになってるんだよ。奴らはそういう自覚も無い。何度も言うけど、奴らには自覚が無いんだよ。
奴らのために作られたこのシステムを変えるには、世界から奴らを消すしかないんだよ。
沢山の自覚のない悪が作り上げたシステムのせい。誰のせいでも無い。もう止められない、生きるしくみのせい。
人類は同じ連鎖を繰り返す。戦争は絶対なくならない。戦争反対だとか簡単にも言えない。
戦争反対と言うことは、世界のどこかに戦争をしかけていることと同じだ。
戦争反対と言って自らの命を断つのなら本物だけど、そんな馬鹿げたこと無い。戦争はなくならないんだ。
資源があって、それがなきゃ生きられない世界に生きている限り、抗えないこと。自然なことなんだ、きっと。
戦争が嫌なら、便利で快適に見えるけど、本当は腐りきったシステムから出なきゃいけない。
そのシステムから出るのは戦争をするのと同じくらい大変だと思う。
システムから出る方法を考えなきゃな。だとするとヒッピー的になるのかな。
ヒッピーって見た目が趣味じゃないからなりたくはないんだけどな。大麻とかやるのはなんでなんだろう。
インディアンとか理想に近いかもしれないけど、食料を目的に争うってのは避けられないね。
右だとか左だとか言い続けてる連中は馬鹿ばっかり。左右どっちでもいいじゃん。主義主張を押し付けあうな。
誰かを幸せにするのがうまくて、それを自分の幸せだと思えるやつが国の長になるべきなのに、ね。
お笑い芸人とか、いいと思うんだけど。ほんと。
起業に必要なのはそもそも能力じゃない。「カネとシゴトを引っ張る力」ただこれだけだと思う。
いや、俺はITな人じゃなくて単なる自営業者だからそもそも土俵が違うのかもしんないけど。
でも、それって逆に言えば「そこさえクリアすれば敵は少ない」ってことでもあると思うのね。
だから、若手があんまり起業するようになると困るな。俺のパイ減らさないで欲しいよ。
日本じゃ「若くして起業した」ってだけである種のカリスマ性になるわけだし。
みんなが「ノマドが・・・」とか言ってる間に俺は金持ち口説いて出資を得てたわけで。
若い世代はみんな揃ってマト外れなことしてて欲しいな。金持ちの絶対数は限られてるから。
みんなドラッガー読みながらジョブズのご尊顔を拝んでノマドノマド言ってフェイスブックで交流して講演会に感動してればいいと思う。
ところで「ノマド」って言葉の枠の中に自分をハメ込んで属性付けをしてる時点で、原義から言えばそれノマドじゃなくね?
というか、おまえらただのおくれて来た脱構築主義者じゃねーか。40年くらい前に流行った概念の名前変えただけだろ。
主人公が知恵遅れだけど、ひょんなことからいろいろ活躍して人気者になったり金持ちになったりするコメディ。
で、そのヒロインは主人公が小学校の時に、唯一主人公をいじめずにやさしく接してあげたんだ。
で、月日は流れ、その女は普通に成長して普通に恋人を作るんだ。
でも、主人公がなにか有名になったり、社会的に成功したりすると、ひょっこり連絡を取ってくるわけ。
そいつ恋人もちゃっかりいるんだけど、急に会いに来たり電話してきたり。
恋人は毎回違うのさ。
取っ替え引っ替え、非モテの俺にはそう見えたけど、時間的に数年経ってるわけだし、恋人が変わっててもそれが普通なのかな。
ごく普通の、当時の社会情勢とか流行とかを考えたら妥当な相手のように思うよ。
大学生になったら大学で彼氏を作って、その当時平和運動とかヒッピーとか流行ってたからそういうところで彼氏を作って。
俺は見てて「殺すぞ」って気になったけどね。
自分に好意を抱いてるのを知ってて、わざわざ会いにきて、恋人とうまくいってない風のことを匂わせて、結局その恋人のもとに去っていくってことの繰り返し。
まあ、最後は主人公とくっつくんだけどさ、胸糞悪くてしょうがない。
これがさ、女がみると、
ひたむきで真っ直ぐな主人公の愛にようやく気付いた!いろいろと道に迷ったけど、最後に愛したのは主人公!
みたいな感動の話になるらしい。
最後だなんてふざけんな。
処女厨みたいに絶対に最初!っというふうなこだわりはしないけど、オーナーが5回代わって20万キロオーバーで事故歴ありの中古車とかは無理!
Google エンジニアの Steve Yegge 氏、Google+ への懸念を漏らす
http://japan.internet.com/busnews/20111013/8.html
で記事になってたけど、原文とちょっと要旨が変わっちゃってサービスへの警鐘みたいになってしまってたので、全文訳してみた。くそ長い。お暇な方どうぞ。
(2011/10/19 08:14)ありがたい誤訳の指摘をいただいたので3カ所修正。
Stevey の Google プラットフォームぶっちゃけ話
僕は6年半ばかり Amazon にいて、今はそれと同じくらい Google にいる。この二つの会社について強く感じることは(しかもその印象は日々強まるのだけれど)、 Amazon は全てにおいて間違っていて、 Google は全てにおいて正しいということだ。そう、やりすぎな一般化だけど、驚くほど正確だと思う。いやもうとにかくね。百、いや二百のポイントで二つの会社を比較することが出来るだろうけど、僕が正しく覚えていれば、 Google はそのうち三つを除いて優れている。実にある一点に関してはスプレッドシートを書いたんだけど、法務が外に出すなって言うんだ。リクルーティングは惚れ込んだみたいだけどね。
つまり、まあ簡単に言えば、 Amazon の人事採用プロセスってのは基本的に欠陥品なんだ。だって、チームがチーム毎に、自分達のために人を採用するんだぜ。だから、色々平均化の努力はしてるみたいだけど、採用基準はチームによって信じられないくらいバラバラさ。そんでもって作業工程ってのも腐ってる。ソフトウェア信頼性工学なんてお呼びじゃないし、エンジニアに何でもやらせようとするんだ。コーディングする時間もないくらい。もちろんこれもチーム毎にバラバラで、要するに、運次第ってところ。施しやら困った人を助けるのやら、コミュニティに貢献するのやら、そんなのはもってのほか。バカにしに行くんでもなけりゃ、近寄るべきじゃないね。それにまた施設も染みだらけの壁に囲まれた箱みたいな家畜場で、装飾やらミーティングエリアなんてものには一銭も使ってない。給料やら福利厚生なんてのも最悪だ。まして最近じゃあ Google やら Facebook っていうライバルがいるのにね。社員特典なんてものも見たこと無かったな。採用通知の番号を照合して、ハイ終わり。コードベースも悲惨そのもの。エンジニアリング基準ってものがないんだから。チームによっては個別にがんばっていたくらいかな。
公平に言えば、彼らは良いバージョン管理ライブラリシステムを持っていた。これは僕らもまねるべきだし、僕らのところには同様のものが無い、良い pubsub システムもあった。でも多くの部分で彼らが使っていたのは、ステートマシンの情報を RDBMS に突っ込んだり読み出したりするだけのくそみたいなツールの塊だった。僕らならただでも欲しくないようなね。
僕が思うにその pubsub システムとライブラリ管理システムが、まさに Amazon が Google より優れている三つのうちの二つだ。
早期にリリースして、狂ったようにイテレートするってのも彼らのうまいところじゃないかって言うかもしれない。けど逆もまたしかり。彼らは早期にリリースすることを何にもまして優先する。品質保持やらエンジニアリング規則、その他長い目で見たら重要になってきそうなものはみんな後回し。そんなだからたとえ市場で競争相手よりアドバンテージがあったとしても、結局ちょっとしたことをやるのにも問題を起こしちゃうよね。
でも、一つ、そんな政治的な、思想的な、技術的なへまを補うだけの、彼らが本当に本当にうまくやってることがある。
Jeff Bezos は悪名高きマイクロマネージャーだ。彼は Amazon の小売りサイトの1ピクセルまで管理する。彼は以前 Larry Tesler を雇った。 Apple の主任科学者で、たぶん世界で最も有名で尊敬される HCI エキスパートさ。そんでもって、 Jeff は Larry が言ったことを、 Larry が辞めるまで3年間無視し続けた。 Larry は大規模なユーザビリティ研究もやっただろうし、少しの疑いの余地も無く誰もそのひどいサイトを理解できないってことをデモしたに違いない。けれど、 Jeff は1ピクセルたりとも動かさせはしなかった。トップページにぎっちりつまった内容の1ピクセルたりともね。それらはまるで何百万という彼の貴重な子供達なのさ。けれど Larry はそうじゃなかった。
マイクロマネジメントが Amazon が僕らよりうまくやっている三つ目ってわけじゃあない。つまり、まあ、彼らはうまくマイクロマネジメントをやっていたと思うけど、それを強みって言いたいわけじゃ無い。まずは何が起こっているかみんなに理解してもらうための文脈を準備しているだけさ。僕らはこれから、公衆の面前で、 Amazon で働きたけりゃ私に金を払えと言ってのける男について話すわけだからね。誰かが彼に反対したときは、彼は彼の名前入りの小さな黄色いポストイットを手渡して、誰が会社を動かしているかを常に忘れさせまいとする。思うに彼は全くの… Steve Jobs なのさ。ファッションとデザインセンス抜きのね。 Bezos はとんでもなく頭が切れる。誤解しないで欲しい。彼の前じゃ、普通のコントロールフリークなんてヤクが極まったヒッピーみたいなもんだよ。
それである日 Jeff Bezos が指令を出した。まあ彼がいつもやってることなんだけど。その度にみんなはピコピコハンマーで叩かれるありんこみたいに走り回るんだ。でもそのある一度、2002年かそのくらいのことだったと思うけれど、彼は指令を出した。とんでもなく巨大で、目の玉が飛び出るほど重たいやつを。普段の指令が頼んでも無いボーナスに思えるようなやつを。
彼の巨大な指令はこんな感じだった。
1)この時点より、全てのチームはサービスインターフェースを通じて全てのデータと機能を公開すること。
2)各チームは各々そのインターフェースを通じて通信しなければならない。
3)その他の全てのプロセス間通信は許可されない。ダイレクトリンク、他のチームのデータソースから直接データを読むこと、メモリ共有モデル、バックドア、全てを禁じる。ネットワーク越しのサービスインターフェースを経由した通信だけが許可される。
4)使用する技術は問わない。 HTTP 、 Corba 、 Pubsub 、 カスタムプロトコル、何でも良い。 Bezos は気にしない。
5)全てのサービスインターフェースは、例外なく、外部に公開可能なようにゼロから設計されなければならない。すなわち、チームは全世界のデベロッパに向けてインターフェースを公開することができるよう、設計し、計画しなければならない。例外は無い。
6)そうしない者は解雇される。
7)ありがとう!良い一日を!
ハハ!。ここにいる君たち150人ちょっとの元 Amazon 社員ならもちろんすぐにおわかりの通り、7番は僕が付け加えたジョーク。 Bezos は間違いなく君たちの一日なんかに興味ないからね。
それでも、6番は、本当だった。だからみんな一生懸命会社に行った。 Bezos は、さらに上級のチーフ熊ブルドッグであるところの Rick Dalzell に率いられた数人のチーフブルドッグを雇って、成果と進行を監視させた。 Rick は元レンジャーで、陸軍士官学校出身で、元ボクサーで、元 Wal(ごにょごにょ)Mart で拷問のような削減をやってのけた人物で、デカくて愛想の良い、「堅牢なインターフェース」という言葉を連呼する男だった。 Rick は歩き回り、「堅牢なインターフェース」について語り回り、そして言うまでも無く、みんなたくさんの進展をし、 Rick にそれを知らせた。
それからの数年間、 Amazon 内部はサービス指向アーキテクチャに姿を変えていった。その変化を形にしている間に、彼らは非常に多くのことを学んだ。 SOA に関する学問や論文は当時もいくつかあったけれど、 Amazon のとんでもない規模からすれば、そんなもの、インディ・ジョーンズに向かって「通りを渡るときは左右をよく見るんだよ」って言うくらいの意味しかない。 Amazon の開発スタッフはその途上でとにかくたくさんの発見をした。そのほんの一部をちょっぴり挙げると、こんな感じだった。
とまあこれらがほんの一例。他にもたくさんの、おそらく何百の、 Amazon が見つけた個別の発見や教訓があった。外部サービスにはおかしなところがいくつもあったけれど、君たちが考えるほどじゃあない。サービスに対して組織するってことは、外部のデベロッパを信用できないのと同じように、お互いを信用することなんてできないんだということを、チームに教えてくれたんだ。
なんか鏡に向かって『お前は誰だ?』って言い続けると気が狂うって都市伝説を想像してると思うけどそれとは違うんで心配しないでいいw
瞑想とかヨガっていうのは自分の体験だとか自己同一性を変容させることだから、もちろん絶対に危険性がないとか、安全とは言えない。
世の中には様々な瞑想法があって例えば激しい呼吸法とか精神の裏側を覗き込むことを目的にするとかマリファナやりながら音楽聞いて瞑想とかはそのリスクが高いと思う。
ここではないどこかへを求めてたヒッピーと瞑想との親和性を考えるとわかりやすい。トリップにはバッドトリップが付き物。
でも、この瞑想法はそういう激しいやり方じゃなく、メジャーな瞑想法でいわゆる宗教的じゃなくて科学的で安全でそれでいて効果があると実体験として思う。
瞑想にはパーリ語でサマタ(高い次元での集中)とヴィパッサナー(洞察、観察)っていう二つのやり方があるけど、
一人でやると危ないのは前者。もちろん、前者にもちゃんとしたやり方はあるんだけど、後者は「あっち側」に行くのを目的にしていない。
というより、その対極で、妄想に気づけってやり方だから、安全だと99.99%言える。
何か認知療法に近いものがあるのではないかなと個人的に思ったら、こういうのがあった。http://www.wikihouse.com/cognitive/index.php?%C7%A7%C3%CE%CE%C5%CB%A1Tips%204
「瞑想」っていう言葉はほとんどの日本人は知っているけど、禅の影響で空だとか「心を無にする」だとかいう漠然とした理解で
豊かな生活のような従来の形では、若者はもう未来への明るい希望なんていうのを持ち得ない。
じゃあ、40年前のヒッピーよろしく、物質的な豊かさよりも人間同士の精神的な繋がりでひとりひとりが生き生きとした喜びをみたいなのが実現するのかと言えば、そんなことはない。
ほとんど、とは言えないけれどもかなりの数の若者が、自分の未来に物質的な豊かさも人間的な豊かさも期待できないでいる。
この層の人たちの心の状態はホームレスとほとんど同じだ。死なないから生きているというだけだ。なにをやっても報われないという意識が強いので、学習性無気力なみの意欲の無さ。実際こういう若者は学習性無気力の状態なのだろう。よく考えてみればそれも当たり前のことかもしれない。今の30代、20代は、団塊世代やバブルの親たちの生活が世間体のために幸せそうに繕ってはいるが、その実、ほとんど破綻している例をたくさん見て育った。仕事も結婚も、こんなことをやっていたら自分は惨めで不幸な人生に塗れてしまう、と学習している。じゃあ違う道を選ぶことができるのか、というとそれもなんだかできそうにない。
行くも地獄退くも地獄、のような状況で立ちすくみ、ただひたすら意欲を失う。こういう人たちがほんとうに増えてきたのだと思う。
こういう人たちはどうすればいいのだろう。
ある朝、この無気力症に片足を突っ込んでしまったことを自覚したわたしは「なんだか、もういろいろとどうでもいいな」という気分に襲われた。そして、きっと若い人達の間でこういう気分が広がっているんだろうなと思って、なんだかとてもやりきれない気分でいる。
現在の日本の高齢者というのは、「金の卵」世代といって日本が好景気で(慢性的な人材不足で仕事も有り余っていました)何の苦労もせずに就職できた世代なんです。団塊世代という名称の方々が若者だった時代、こう呼ばれていました。
■金の卵世代: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E3%81%AE%E5%8D%B5
周知の通り、彼らは今では考えられないくらいのボーナスを、退職金を、年金を享受しているのです。それはもう、現在の若者達には味わえないんですよね。もちろん価値観も時代も違うでしょうから一概には言えませんが、それでも事実上、世代間の貧富差は顕著に表れているのです。
金玉世代を支えるために若者が毎年嵩む負担を課せられている現状を直視してみていただきたい。街の空き地を、自然を、外で遊ぶ場所を取り上げて、幼少期から塾に通わせ、マニュアル通りに生きて人間的な何の楽しみも味わえず恐慌に放り込まれ、自殺してゆく若者達。我々は見ていられないのです、あまりにも可愛そうだと思うのです。
自分の事しか関心が無かった金玉世代に子どものことをとやかく言える資格などないと、我々はそう思っています。テレビを受動的に40年も見て育てば、あのような親になるのもしょうがないのでしょう。思い出して下さい。「戦前」世代が何と言っていたか。戦前世代「センゴ(金玉世代)はいまに報いを受けますよ」。
戦前世代の予言通りの状態になりました。突然死、怪死、孤独死、早死、この傾向が金玉世代に現れています。良いじゃないですか、それを反面教師にして若者は育てば良いのです。嘆いていてもストレスで寿命を縮めるだけですよ。お年を召された方は特に。金玉世代はそろそろ墓石を新調し仏塔にでも参られるのがよろしいかと思います。
ご存じでしょうね、1960年代の若者に起こった全世界的な現象を。「ヒッピー」です。
■ヒッピー: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%BC
我々は現在の若者を「第二次ヒッピー」と推定しています。世界的な現象なんですよ、日本もそうです。1960年代の若者(現在の大人)と違って現在の若者は大麻もやらなければタバコも吸わなくなっていますよ。彼らが車に乗らず化石燃料の消費量を落としてくれている現実を一度だって鑑みたことがありますか。
これらは彼らが旧世代より聡明になりつつある証拠だと思っています。大量消費社会に翻弄され洗脳された大人を見て、社会システムに危機感を持ち、能動的就職ストライキを起こしている若者をなぜ励まさないのですか?哲学者のフリードマンやフーコーが心配していた問題を、彼らなりに解決しようとしている状況にまだ気づきませんか。
旧世代が自覚せず自己本位に生きてきた結果が今、社会に露呈しているのです。東京電力、九州電力はその良くも悪い見本でしょうね。旧世代を責める気はありません、長くはない寿命ですから大切にしていただきたい。ただ、若者自身の人生を賭けた社会運動を口だけで批難している小狡い嫌がらせは止めていただきたい。1960年代のヒッピー現象がフランスで「構造主義」を生んだことは勿論ご存じでしょうね。若者文化を語るのなら我々と同程度は学んでいるはずです。ヒッピー無くして今日の国際社会は存在し得なかったということです。国際社会の未来を切り開く第二次ヒッピーの評価について今一度再考願いたいと思います。芽を潰すのではなく、まずは、彼らの可能性と未来について、もちろん責任もあるでしょう、相互理解が大事ですよ。話はそれからです。
応援されたら頑張ってみようかと思うのが人間でしょう。
今のように「お前らなんて駄目な奴だ」なんて言われてたら、何も意欲なんか起きないでしょう。
現在の日本の高齢者というのは、「金の卵」世代といって日本が好景気で(慢性的な人材不足で仕事も有り余っていました)何の苦労もせずに就職できた世代なんです。団塊世代という名称の方々が若者だった時代、こう呼ばれていました。
■金の卵世代: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E3%81%AE%E5%8D%B5
周知の通り、彼らは今では考えられないくらいのボーナスを、退職金を、年金を享受しているのです。それはもう、現在の若者達には味わえないんですよね。もちろん価値観も時代も違うでしょうから一概には言えませんが、それでも事実上、世代間の貧富差は顕著に表れているのです。
金玉世代を支えるために若者が毎年嵩む負担を課せられている現状を直視してみていただきたい。街の空き地を、自然を、外で遊ぶ場所を取り上げて、幼少期から塾に通わせ、マニュアル通りに生きて人間的な何の楽しみも味わえず恐慌に放り込まれ、自殺してゆく若者達。我々は見ていられないのです、あまりにも可愛そうだと思うのです。
自分の事しか関心が無かった金玉世代に子どものことをとやかく言える資格などないと、我々はそう思っています。テレビを受動的に40年も見て育てば、あのような親になるのもしょうがないのでしょう。思い出して下さい。「戦前」世代が何と言っていたか。戦前世代「センゴ(金玉世代)はいまに報いを受けますよ」。
戦前世代の予言通りの状態になりました。突然死、怪死、孤独死、早死、この傾向が金玉世代に現れています。良いじゃないですか、それを反面教師にして若者は育てば良いのです。嘆いていてもストレスで寿命を縮めるだけですよ。お年を召された方は特に。金玉世代はそろそろ墓石を新調し仏塔にでも参られるのがよろしいかと思います。
ご存じでしょうね、1960年代の若者に起こった全世界的な現象を。「ヒッピー」です。
■ヒッピー: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%BC
我々は現在の若者を「第二次ヒッピー」と推定しています。世界的な現象なんですよ、日本もそうです。1960年代の若者(現在の大人)と違って現在の若者は大麻もやらなければタバコも吸わなくなっていますよ。彼らが車に乗らず化石燃料の消費量を落としてくれている現実を一度だって鑑みたことがありますか。
これらは彼らが旧世代より聡明になりつつある証拠だと思っています。大量消費社会に翻弄され洗脳された大人を見て、社会システムに危機感を持ち、能動的就職ストライキを起こしている若者をなぜ励まさないのですか?哲学者のフリードマンやフーコーが心配していた問題を、彼らなりに解決しようとしている状況にまだ気づきませんか。
旧世代が自覚せず自己本位に生きてきた結果が今、社会に露呈しているのです。東京電力、九州電力はその良くも悪い見本でしょうね。旧世代を責める気はありません、長くはない寿命ですから大切にしていただきたい。ただ、若者自身の人生を賭けた社会運動を口だけで批難している小狡い嫌がらせは止めていただきたい。1960年代のヒッピー現象がフランスで「構造主義」を生んだことは勿論ご存じでしょうね。若者文化を語るのなら我々と同程度は学んでいるはずです。ヒッピー無くして今日の国際社会は存在し得なかったということです。国際社会の未来を切り開く第二次ヒッピーの評価について今一度再考願いたいと思います。芽を潰すのではなく、まずは、彼らの可能性と未来について、もちろん責任もあるでしょう、相互理解が大事ですよ。話はそれからです。
応援されたら頑張ってみようかと思うのが人間でしょう。
今のように「お前らなんて駄目な奴だ」なんて言われてたら、何も意欲なんか起きないでしょう。
現在の日本の高齢者というのは、「金の卵」世代といって日本が好景気で(慢性的な人材不足で仕事も有り余っていました)何の苦労もせずに就職できた世代なんです。団塊世代という名称の方々が若者だった時代、こう呼ばれていました。
■金の卵世代: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E3%81%AE%E5%8D%B5
周知の通り、彼らは今では考えられないくらいのボーナスを、退職金を、年金を享受しているのです。それはもう、現在の若者達には味わえないんですよね。もちろん価値観も時代も違うでしょうから一概には言えませんが、それでも事実上、世代間の貧富差は顕著に表れているのです。
金玉世代を支えるために若者が毎年嵩む負担を課せられている現状を直視してみていただきたい。街の空き地を、自然を、外で遊ぶ場所を取り上げて、幼少期から塾に通わせ、マニュアル通りに生きて人間的な何の楽しみも味わえず恐慌に放り込まれ、自殺してゆく若者達。我々は見ていられないのです、あまりにも可愛そうだと思うのです。
自分の事しか関心が無かった金玉世代に子どものことをとやかく言える資格などないと、我々はそう思っています。テレビを受動的に40年も見て育てば、あのような親になるのもしょうがないのでしょう。思い出して下さい。「戦前」世代が何と言っていたか。戦前世代「センゴ(金玉世代)はいまに報いを受けますよ」。
戦前世代の予言通りの状態になりました。突然死、怪死、孤独死、早死、この傾向が金玉世代に現れています。良いじゃないですか、それを反面教師にして若者は育てば良いのです。嘆いていてもストレスで寿命を縮めるだけですよ。お年を召された方は特に。金玉世代はそろそろ墓石を新調し仏塔にでも参られるのがよろしいかと思います。
ご存じでしょうね、1960年代の若者に起こった全世界的な現象を。「ヒッピー」です。
■ヒッピー: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%BC
我々は現在の若者を「第二次ヒッピー」と推定しています。世界的な現象なんですよ、日本もそうです。1960年代の若者(現在の大人)と違って現在の若者は大麻もやらなければタバコも吸わなくなっていますよ。彼らが車に乗らず化石燃料の消費量を落としてくれている現実を一度だって鑑みたことがありますか。
これらは彼らが旧世代より聡明になりつつある証拠だと思っています。大量消費社会に翻弄され洗脳された大人を見て、社会システムに危機感を持ち、能動的就職ストライキを起こしている若者をなぜ励まさないのですか?哲学者のフリードマンやフーコーが心配していた問題を、彼らなりに解決しようとしている状況にまだ気づきませんか。
旧世代が自覚せず自己本位に生きてきた結果が今、社会に露呈しているのです。東京電力、九州電力はその良くも悪い見本でしょうね。旧世代を責める気はありません、長くはない寿命ですから大切にしていただきたい。ただ、若者自身の人生を賭けた社会運動を口だけで批難している小狡い嫌がらせは止めていただきたい。1960年代のヒッピー現象がフランスで「構造主義」を生んだことは勿論ご存じでしょうね。若者文化を語るのなら我々と同程度は学んでいるはずです。ヒッピー無くして今日の国際社会は存在し得なかったということです。国際社会の未来を切り開く第二次ヒッピーの評価について今一度再考願いたいと思います。芽を潰すのではなく、まずは、彼らの可能性と未来について、もちろん責任もあるでしょう、相互理解が大事ですよ。話はそれからです。
応援されたら頑張ってみようかと思うのが人間でしょう。
今のように「お前らなんて駄目な奴だ」なんて言われてたら、何も意欲なんか起きないでしょう。
現在の日本の高齢者というのは、「金の卵」世代といって日本が好景気で(慢性的な人材不足で仕事も有り余っていました)何の苦労もせずに就職できた世代なんです。団塊世代という名称の方々が若者だった時代、こう呼ばれていました。
■金の卵世代: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E3%81%AE%E5%8D%B5
周知の通り、彼らは今では考えられないくらいのボーナスを、退職金を、年金を享受しているのです。それはもう、現在の若者達には味わえないんですよね。もちろん価値観も時代も違うでしょうから一概には言えませんが、それでも事実上、世代間の貧富差は顕著に表れているのです。
金玉世代を支えるために若者が毎年嵩む負担を課せられている現状を直視してみていただきたい。街の空き地を、自然を、外で遊ぶ場所を取り上げて、幼少期から塾に通わせ、マニュアル通りに生きて人間的な何の楽しみも味わえず恐慌に放り込まれ、自殺してゆく若者達。我々は見ていられないのです、あまりにも可愛そうだと思うのです。
自分の事しか関心が無かった金玉世代に子どものことをとやかく言える資格などないと、我々はそう思っています。テレビを受動的に40年も見て育てば、あのような親になるのもしょうがないのでしょう。思い出して下さい。「戦前」世代が何と言っていたか。戦前世代「センゴ(金玉世代)はいまに報いを受けますよ」。
戦前世代の予言通りの状態になりました。突然死、怪死、孤独死、早死、この傾向が金玉世代に現れています。良いじゃないですか、それを反面教師にして若者は育てば良いのです。嘆いていてもストレスで寿命を縮めるだけですよ。お年を召された方は特に。金玉世代はそろそろ墓石を新調し仏塔にでも参られるのがよろしいかと思います。
ご存じでしょうね、1960年代の若者に起こった全世界的な現象を。「ヒッピー」です。
■ヒッピー: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%BC
我々は現在の若者を「第二次ヒッピー」と推定しています。世界的な現象なんですよ、日本もそうです。1960年代の若者(現在の大人)と違って現在の若者は大麻もやらなければタバコも吸わなくなっていますよ。彼らが車に乗らず化石燃料の消費量を落としてくれている現実を一度だって鑑みたことがありますか。
これらは彼らが旧世代より聡明になりつつある証拠だと思っています。大量消費社会に翻弄され洗脳された大人を見て、社会システムに危機感を持ち、能動的就職ストライキを起こしている若者をなぜ励まさないのですか?哲学者のフリードマンやフーコーが心配していた問題を、彼らなりに解決しようとしている状況にまだ気づきませんか。
旧世代が自覚せず自己本位に生きてきた結果が今、社会に露呈しているのです。東京電力、九州電力はその良くも悪い見本でしょうね。旧世代を責める気はありません、長くはない寿命ですから大切にしていただきたい。ただ、若者自身の人生を賭けた社会運動を口だけで批難している小狡い嫌がらせは止めていただきたい。1960年代のヒッピー現象がフランスで「構造主義」を生んだことは勿論ご存じでしょうね。若者文化を語るのなら我々と同程度は学んでいるはずです。ヒッピー無くして今日の国際社会は存在し得なかったということです。国際社会の未来を切り開く第二次ヒッピーの評価について今一度再考願いたいと思います。芽を潰すのではなく、まずは、彼らの可能性と未来について、もちろん責任もあるでしょう、相互理解が大事ですよ。話はそれからです。
応援されたら頑張ってみようかと思うのが人間でしょう。
今のように「お前らなんて駄目な奴だ」なんて言われてたら、何も意欲なんか起きないでしょう。
現在の日本の高齢者というのは、「金の卵」世代といって日本が好景気で(慢性的な人材不足で仕事も有り余っていました)何の苦労もせずに就職できた世代なんです。団塊世代という名称の方々が若者だった時代、こう呼ばれていました。
■金の卵世代: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E3%81%AE%E5%8D%B5
周知の通り、彼らは今では考えられないくらいのボーナスを、退職金を、年金を享受しているのです。それはもう、現在の若者達には味わえないんですよね。もちろん価値観も時代も違うでしょうから一概には言えませんが、それでも事実上、世代間の貧富差は顕著に表れているのです。
金玉世代を支えるために若者が毎年嵩む負担を課せられている現状を直視してみていただきたい。街の空き地を、自然を、外で遊ぶ場所を取り上げて、幼少期から塾に通わせ、マニュアル通りに生きて人間的な何の楽しみも味わえず恐慌に放り込まれ、自殺してゆく若者達。我々は見ていられないのです、あまりにも可愛そうだと思うのです。
自分の事しか関心が無かった金玉世代に子どものことをとやかく言える資格などないと、我々はそう思っています。テレビを受動的に40年も見て育てば、あのような親になるのもしょうがないのでしょう。思い出して下さい。「戦前」世代が何と言っていたか。戦前世代「センゴ(金玉世代)はいまに報いを受けますよ」。
戦前世代の予言通りの状態になりました。突然死、怪死、孤独死、早死、この傾向が金玉世代に現れています。良いじゃないですか、それを反面教師にして若者は育てば良いのです。嘆いていてもストレスで寿命を縮めるだけですよ。お年を召された方は特に。金玉世代はそろそろ墓石を新調し仏塔にでも参られるのがよろしいかと思います。
ご存じでしょうね、1960年代の若者に起こった全世界的な現象を。「ヒッピー」です。
■ヒッピー: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%BC
我々は現在の若者を「第二次ヒッピー」と推定しています。世界的な現象なんですよ、日本もそうです。1960年代の若者(現在の大人)と違って現在の若者は大麻もやらなければタバコも吸わなくなっていますよ。彼らが車に乗らず化石燃料の消費量を落としてくれている現実を一度だって鑑みたことがありますか。
これらは彼らが旧世代より聡明になりつつある証拠だと思っています。大量消費社会に翻弄され洗脳された大人を見て、社会システムに危機感を持ち、能動的就職ストライキを起こしている若者をなぜ励まさないのですか?哲学者のフリードマンやフーコーが心配していた問題を、彼らなりに解決しようとしている状況にまだ気づきませんか。
旧世代が自覚せず自己本位に生きてきた結果が今、社会に露呈しているのです。東京電力、九州電力はその良くも悪い見本でしょうね。旧世代を責める気はありません、長くはない寿命ですから大切にしていただきたい。ただ、若者自身の人生を賭けた社会運動を口だけで批難している小狡い嫌がらせは止めていただきたい。1960年代のヒッピー現象がフランスで「構造主義」を生んだことは勿論ご存じでしょうね。若者文化を語るのなら我々と同程度は学んでいるはずです。ヒッピー無くして今日の国際社会は存在し得なかったということです。国際社会の未来を切り開く第二次ヒッピーの評価について今一度再考願いたいと思います。芽を潰すのではなく、まずは、彼らの可能性と未来について、もちろん責任もあるでしょう、相互理解が大事ですよ。話はそれからです。
応援されたら頑張ってみようかと思うのが人間でしょう。
今のように「お前らなんて駄目な奴だ」なんて言われてたら、何も意欲なんか起きないでしょう。
お前らだって金の卵世代のやっかいになってるだろwとか言われたら確かに今の若者は金の卵世代の恩恵は享受してるけど、金の卵世代も少なからずその前の戦前世代の恩恵を享受してきたわけで、もう少し前には高等遊民なんてのもいた。むしろ先人の遺産を分け合っているようなもんだと思う。戦前視点で見たら金の卵もヒッピーもニートも当時の愚かさではそう変わらないはず。若者は社会の鏡なんてよく言われるけど。
現在の日本の高齢者というのは、「金の卵」世代といって日本が好景気で(慢性的な人材不足で仕事も有り余っていました)何の苦労もせずに就職できた世代なんです。団塊世代という名称の方々が若者だった時代、こう呼ばれていました。
■金の卵世代: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E3%81%AE%E5%8D%B5
周知の通り、彼らは今では考えられないくらいのボーナスを、退職金を、年金を享受しているのです。それはもう、現在の若者達には味わえないんですよね。もちろん価値観も時代も違うでしょうから一概には言えませんが、それでも事実上、世代間の貧富差は顕著に表れているのです。
金玉世代を支えるために若者が毎年嵩む負担を課せられている現状を直視してみていただきたい。街の空き地を、自然を、外で遊ぶ場所を取り上げて、幼少期から塾に通わせ、マニュアル通りに生きて人間的な何の楽しみも味わえず恐慌に放り込まれ、自殺してゆく若者達。我々は見ていられないのです、あまりにも可愛そうだと思うのです。
自分の事しか関心が無かった金玉世代に子どものことをとやかく言える資格などないと、我々はそう思っています。テレビを受動的に40年も見て育てば、あのような親になるのもしょうがないのでしょう。思い出して下さい。「戦前」世代が何と言っていたか。戦前世代「センゴ(金玉世代)はいまに報いを受けますよ」。
戦前世代の予言通りの状態になりました。突然死、怪死、孤独死、早死、この傾向が金玉世代に現れています。良いじゃないですか、それを反面教師にして若者は育てば良いのです。嘆いていてもストレスで寿命を縮めるだけですよ。お年を召された方は特に。金玉世代はそろそろ墓石を新調し仏塔にでも参られるのがよろしいかと思います。
ご存じでしょうね、1960年代の若者に起こった全世界的な現象を。「ヒッピー」です。
■ヒッピー: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%BC
我々は現在の若者を「第二次ヒッピー」と推定しています。世界的な現象なんですよ、日本もそうです。1960年代の若者(現在の大人)と違って現在の若者は大麻もやらなければタバコも吸わなくなっていますよ。彼らが車に乗らず化石燃料の消費量を落としてくれている現実を一度だって鑑みたことがありますか。
これらは彼らが旧世代より聡明になりつつある証拠だと思っています。大量消費社会に翻弄され洗脳された大人を見て、社会システムに危機感を持ち、能動的就職ストライキを起こしている若者をなぜ励まさないのですか?哲学者のフリードマンやフーコーが心配していた問題を、彼らなりに解決しようとしている状況にまだ気づきませんか。
旧世代が自覚せず自己本位に生きてきた結果が今、社会に露呈しているのです。東京電力、九州電力はその良くも悪い見本でしょうね。旧世代を責める気はありません、長くはない寿命ですから大切にしていただきたい。ただ、若者自身の人生を賭けた社会運動を口だけで批難している小狡い嫌がらせは止めていただきたい。1960年代のヒッピー現象がフランスで「構造主義」を生んだことは勿論ご存じでしょうね。若者文化を語るのなら我々と同程度は学んでいるはずです。ヒッピー無くして今日の国際社会は存在し得なかったということです。国際社会の未来を切り開く第二次ヒッピーの評価について今一度再考願いたいと思います。芽を潰すのではなく、まずは、彼らの可能性と未来について、もちろん責任もあるでしょう、相互理解が大事ですよ。話はそれからです。
応援されたら頑張ってみようかと思うのが人間でしょう。
今のように「お前らなんて駄目な奴だ」なんて言われてたら、何も意欲なんか起きないでしょう。
どうも。こないだまで就職王って名乗ってましたが、今は無職王です。
で、前回書いたコレhttp://anond.hatelabo.jp/20110429004257に
なんかすごい真面目なトラックバックが来てたので、なんか書かなきゃなーと思いました。
二代目ロストジェネレーションが失ったもの。望み。そして、僕らは何からはじめるべきか
http://d.hatena.ne.jp/thinking-terra/20110529/1306640590
で、これ読んで思ったんだけれども。
ぼくが思うに、現代日本の若者における問題ってのは最早「価値観」の問題ではないと思うのね。
いうなら、それは生存の問題だし、もっと明確に言えばいかにクサレ年寄りから椅子をムシリ獲るかってことなんだと思うんだ。
「既存の価値観に乗ることは出来ない」とテラケイさんは仰る。でも、ぼくはそれは違うと思う。
むしろ、現時点に於いても生存戦略としては「既存の価値観にドップリ漬かる」は限りなくベストに近い。
「世代」のことを考える前に、「自分」のことを考えて、グダグダ言わずに東大を出るべきなんだ。
もちろん、東京大学というのはかなり極端な例だけれども。
ミクロで考えるなら、まだ現代日本は個人の力で「なんとかなる」社会だとぼくは思う。
ぼくの「就職王」コラムは個人化戦略の極地のようなものだけど、実際あの程度でなんとかなってしまう。
でも、もちろんマクロで考えるとこれは明確に間違っている。
だって、椅子の数が限られているなら誰かは必ず負けるんだから。社会には一定水準の競争が必要である、という
命題を真であるとした上でも、社会を構成する一定層はそれなりの職を得て暮らしていけなきゃまずい。
それに、ぼくのような口先だけで逃げ切るやつが評価される企業の土壌というのも、あんまりよくない気がする。
やっぱり、社会は少しずつでも変えていかなきゃならない。ぼくらの世代が楽しく生きるために。
「社会を変える」って言いにくい世代だよね、ぼくらは。上の世代が派手にコケたから。
どうせ社会なんて変わらない、馬鹿どもの轍を踏んでたまるか。そういうところがある。
デモやる?って言われても「それ頭の悪い年寄りが大分前に失敗した」としか思えない。
カウンター・アクションは必要だけれど、それはやはり時代に即したものでなければいけない、と思う。
少なくとも「就職クソッタレ」って言って変わるものがあるなんて考えられない。そうじゃないか?
ウザイ自分語りで申し訳ないけれど。ぼくが就職したのは「箔をつけるため」だった。
今、起業をするために色々じたばたしてるんだけれど、やっぱりカネを出して貰うにはそれなりのものが必要になる。
少なくとも、「真っ当に勤めていれば生涯年収4億近かったですよ」くらいのことは言えないと、
与えられたカネの代わりに差し出すものとしては、とても足りない。実はこれでも全然足りないんだけれど、
それでも何某かのバックボーンにはなる。使えるモノは、使わなきゃ損だ。就職して数年踏ん張るだけで得られる
ステータスって、実は結構お買い得な気がする。ある意味、大学の名前以上に。
この日本社会は実にクソだと思うけれど、使えるものを使わずに戦うのはいかにも勿体無い。
「価値観を変える」なんてのは、ヒッピーになるのと同じだ。ヨガをやってもマリファナやってもロックフェスをやっても、
実はどーにもならない。それは、かつてアホな連中がもうやった。ぼくらがそれをやる必要はない。
ぼくは巷で見る就職活動批判にすごく違和感を感じていて、つまるところそれはどこまで言っても
「負け犬の遠吠え」としか認識されないんじゃないか、ってこと。
かつての頭の悪い年寄りには「世界同時革命」みたいな強烈なイデオロギーがあったから、「就活のバカヤロー」よりは
スケール感もまとまりもあったけれど、ぼくらの世代にはそれもない。あるべき社会のモデルすらない状態で、
「価値観を変えろ」って言われても、それは「解脱しろ」とか言われるのと一緒だ。シャクティーパッドとかポアとか
そういう語感にしかならない。そんなことにはほとんど何の意味もない。
つまりところ、それがミクロの問題であれマクロの問題であれ、既存社会からの断絶というのは不可能なんじゃないかと思う。
テラケイさんは価値基準を語るときに「外部」と「内部」という言葉を使っているけれど、ぼくには価値観に於いて明確な
「外部」ってのがあるとは思えない。テクストに外部はない、みたいな学問を専攻してたせいもあるんだけど
それを差し引いても、既存の価値観を排除して生きていけるなんてとても思えない。そんな強くないからね。
ロストジェネレーション世代にニーチェじみたものを押し付けても、それは「レッツ自殺!」って結果しかもたらなさないのではなかろーか。
我々が目指すべきものは、この社会から乖離したものではなく地続きにものでなければいけない、と思う。
じゃあ、どうすべきかってことなんだけど。
とりあえず、まずは団結すべきだと思うんだ。勝ってる奴も負けてる奴も。
世の中はクソで、なんとかしなきゃ楽しい人生は送れそうもない、って意識を共有することだと思う。
ぼくはかつて、ものすごく貧乏で大学の学費にもメシ代にも汲々としてた時期があったんだけど、
その時、やっぱり同じような奴らと相互扶助的に生きていて、それは例えば部屋を分け合ったりとか
僅かなカネを分け合ったりとか、電気釜を共有したりとかそういう話だったんだけど、そういうところからだと思う。
例えば、イタリアの話。イタリアは、失業率がアホほど高いけど、自殺率は低い。これは何故かっていうと、一説には
一族主義が強く根付いているからだ、と言われている。縁のある誰かが食えてなければ、誰かが食わす。そーいうところがあるらしい。
じゃあ、我々悲惨な現状にいる連中も、そーしとけばいいんでないかな、と思ってる。
とりあえず、屋根とトモダチがいれば死ぬことはない。ぼくはそー思う。
こうすることで何が得られるかといえば、リスクを取るのが非常に容易になる。
「1人が1のリスクをとる」ことと「10人がそれぞれ1のリスクを取り、リターンを分配する」ことは大分違う。
もちろん、10人全員が敗れ去るパターンもありえるけれど、かなりのヘッジが出来ることになる。
そして、何よりだけど精神的にとても楽だ。ぼくは「起業」の道を選んだけれど、他にもロースクールに行ったりとか
そういう道を選ぶことにもやはりリスクはつきまとう。金銭的なリスクもそうだけれど、孤独化してしまうことが何よりヤバイ。
官僚から政治家目指すぜ、みたいな道にしてもやはり同じだ。そういうとき、価値観を共有出来るつながりがあることは
何より強いとぼくは思う。いや、今んとこカネを得て起業に漕ぎ出したところだから、この先なんかわかんないけどね。
仲間にも全部見捨てられて、一人ひっそり首を括るって可能性も全然あるわけだし。
それで、社会批判の話に戻るんだけれど。ぼくが「就職王」でやりたかったことは
「就職活動批判」のちょっとスマートな形を提示するってことなんだ。
確かに、マクロ的に考えると我々は既存の価値観に乗っかることは出来ないかもしれない。
しかし新しいマクロな価値観とライフスタイルを創造することも、おそらく出来ないだろうってこと。
その行き詰まりの中でクリティカルなクリティークを社会にカマすとしたら、
既存の価値観に乗っかって踊り狂いながら、同時にそれ自体を批判として成立させるしかないんじゃないかと思う。。
ダンスパーティーを台無しにしたいなら、まず誰より上手く踊らなきゃいけない。そうでなければ、誰も話を聞いてくれない。
やはり、我々はこのクソみたいな社会で戦っていくしかないし、クソみたいな社会を否定したところで
クソじゃない社会の青写真を描けるわけじゃない。それは、大分昔に失敗した。
だから、このクソだめみたいな社会の集団的蛆虫として既存の価値観と地続きの世界をサバイブしていく以外に多分道はない。
そして、九人がダメでも、一人が生き残れればそいつが他を引き上げればいい。もちろん、現実的にこんなことが上手く行くか?
ってところはあるけれど、独力で社会と隔絶された「価値観」を作り出すよりは、十人で価値観を「共有」するほうがまだ成功率は高い。
「悟りを得た」人はそんなに多くないけど、「宗教にハマって死んだ」人は腐るほどいる。
その程度の価値観共有なら多分できるんでないか、そういう風にして戦っていくしかないんじゃないか、と思ってる。
人間、上手いこと価値観を刷り込まれれば飛行機でビルに突っ込めるんだから、それくらいできるんじゃね?と。
まー、なんというか。
これはぼくの戦略っぽく見せかけた誇大妄想だから、なんのあてにもならないけれど。
とりあえず、若い人間はもーちょい戦略的に生きるべきだと思うし、また同時に団結すべきだと思う。
個人の内面のナイーヴな話に閉じてしまうのは、なんかどーなんだろーな、とぼくは思うんだよね。
これから具体的にどーするか、どのようにして生き残ってリスクを取っていくかを論じるべきじゃないだろうか。
まだまだやれることあると思うんだよね、実際。
ところで、死ぬほどどーでもいいけど、「ロストジェネレーション」って若い頃第一次世界大戦に遭遇して、何か価値観がクラッシュしちゃったよーな世代の作家達を指す言葉で、「二代目」っていうとちょっとおかしいことになるよね。ロスジェネの「二代目」世代ったら、ビートの時代でケルアックとかギンズバーグとかを指すと思う。
不況なんかにぶつかった「貧乏くじ世代」を指す意味で「ロストジェネレーション」って語を使うと、今の世代は何代目になるのか、すごくめんどくさい議論が要るね。個人的に、「ロストジェネレーション」を現代の「失われた世代」に当てはめるのは色々ムリがある気が。字面はいいけど、原義から考えるとスゲービミョーな感じ。ロスジェネ論争とか言われると、今更ヘミングウェイとか論じてんの?って思っちゃうのはぼくだけじゃないと思う。
軽井沢のキャンプ場で女子会キャンプやるので参加者募集みたいな貼り紙を見た。
そこのキャンプ場のオーナーと話しをしたら近ごろ女のキャンプが流行ってるらしい。
道具を一切持たずテントも張ってもらえる姫キャンプなる集いもあるそうな。
そんなイベントキャンプが行われてるのは整備されたキャンプ場だろうし、行動範囲とは被ってないんでまあ関係ないかなと思って無関心でいた。
山で縦走しててのテン泊ならまだ理解出来るんだけど、日程的にやむをえずとかじゃないのに、女がわざわざソロキャンプをする意味がわからん。
まさか「キャンプをする人に悪い人はいない」とでも思ってるんだろうか。
車中泊やユースハウスでも大して費用は変わらないだろうに、なんでソロキャンをわざわざすんの?
一昨日、久しぶりのキャンプに行った。ツレと一緒だったんで、普段の行動範囲とは別の奥多摩のテン場に泊まったら、次の日の朝テン場がざわざわしてた。
連休中で家族連れも何組かいたし、ファミリックな雰囲気のテン場だったんだが、不穏な空気。
テン場には女のソロキャンパーがいた。本屋で見かけたランドネの表紙に載ってそうな服で、目立ってた。頭にハチマキの巻き方でインディアンみたいな紐を巻きつけた。ツレが言うにはヒッピースタイルらしいがよくわからん。
騒ぎの中心はその女キャンパーで、前日緊張で眠れなかったんだと。そんで具合が悪くなったんだと。緊張で眠れなった理由は隣のテントの男(大学生ぐらい?)が怖かったんだと(実際は何も遭ってないようだがジロジロ見られたり、足を見られたりしたと言っていた)
不審者扱いされた男が実際のところどうだったのかは誰も知り得ないことだったので、女の証言のみで男が窮地に立たされていくのがわかったが、管理人が女をなだめてなんとかひと段落した。
男はすぐに荷物をまとめて発った。
実際のところどうだったのかはわからない。でも彼女が怖いと感じる体験をしたのは事実だろうから、これに懲りてソロキャンやろうなんて考えないといいな。
濡れ衣ってこともあるしね。