はてなキーワード: アルバムとは
秋元康のアイドルに対する視線が個人的に気持ち悪くて仕方ない。
欅坂46のファーストアルバムのタイトル「真っ白なものは汚したくなる」や、
乃木坂46の生駒里奈さんの卒業に寄せたメッセージも「ずっと乃木坂46の希望でいて」等。
アイドルをプロデュースしているというより、自分の欲望や理想郷をアイドルに押し付けているように感じてしまう。
秋元康が支持されて成功している事実はあるが、アイドルはサイボーグなのか?傀儡なのか?アイドル自身の感情は?ともやもやする。
ファンの方は秋元康ではなくアイドルそのものに惹かれているんだろうけど、ふとした時に秋元康がちらついてゾワッとすることはないのだろうか。
ある人、大学退学処分だってよ。その事実を知ったのは、ネットのニュースだった。
彼が所属するグループは10年という時を経てやっと、やっとだ、うまくいきかけていた。シングルが年に1度出せるか出せないかわからなくて、アルバムの発売も他のグループから比べると遅かったこともあった。コンサートしか仕事がなかった時期もあった。そのコンサートで全員揃わないことだってあった。セットリストは贔屓目を入れても上手いとはいえなかった。当たり前だ。だって曲が増えないのだから。
その中で彼はグループの中だと干されだった。っていうか下手すると事務所内でも干されに入ると思う。そしてその干され具合は現在進行形で、だ。それでも好きだった。なぜなら彼は出来ないことを少しずつできるようにしていった人だったから。彼がそうやって地道に頑張る姿を見て私も頑張ろうと思えたのだ。
けれど、私は降りることを決めた。他のメンバーからの「彼は出来ない子」扱いがとてもしんどかった。他のメンバーが仕事が決まるたびに「羨ましい」その気持ちが勝った。シングルを出しても曲のソロ割は少ない、音楽番組でピンで抜かれるのだって1~2回あればいい方だった。グループ内で差があるのは仕方がなかった。それでも。それでも悔しくて仕方がなかった。私の好きな人だって、踊れるようになったし歌も下手じゃない。かっこいいし優しい。他のメンバーに引けをとらないと私は思っていたけれど、そう思っていた心が砕けた。
きっかけは、ある年から、干され組と勝手に思っていた内の1人の人気が上がったことだった。色んな仕事が増えたのは彼が大学を卒業してからの話だった。嫉妬した。彼の努力が実を結んだと理解していても、「羨ましい」と心の内で叫んでいた。もう、何も見ていられなくて、ダメだった。なんでとどうしてが頭を支配してぐるぐる回った。好きなのにストレスになっているなら彼の応援をやるべきだと思った。だから、降りた。それと同時にふと、頭によぎったのは「私の好きな人も大学を卒業したら仕事(の幅)が増えるかもしれない」という淡い期待だった。その時は、また彼の応援ができるかもしれないと思った。残念な結果になったけれど。
彼が自分に自信がないのはだいぶ前から分かっていた。だから私は、メンバーにもっと彼を愛してほしいと思った。親身になって寄り添って手を差し伸べて頑張ろうねって切磋琢磨し合う関係でいて欲しかった。決して「何もできない癖に粋がるな」みたいな言葉を投げかけて欲しいわけじゃなかった。GPSで居場所がわかるのなら「ちゃんと学校行ってる?」って気にかけて欲しかった。
きっと彼が欲しかったのは、厳しさじゃなくてあたたかい優しさだった気がする。自分を卑下しがちな彼に「そんなことないよ」「キミにだっていいところあるよ」と言い続けて欲しかった。彼がちゃんと理解し、受け止める日まで。でも、本当はそんな言葉を投げかけてあげるべきだったのは私たちファンだったのかもしれない。もっともっと好きだよって伝えて、キャーキャー黄色い歓声をあげてあげれば良かったのかもしれない。
ねえ、『キミ』へ。今後どうしていきますか?
先日行われた、日本では実に4年ぶりのブルーノ・マーズのコンサート
「BRUNO MARS 24K MAGIC WORLD TOUR 2018」。
なぜ私は行かなかったのだろうか。今、激しく後悔している。
その後悔の大きさは、私に初めての匿名ダイアリーを書かせるほどである。
とはいえ、私がブルーノ・マーズにハマりはじめたのは実に4ヶ月前。
この「24K Magic」というアルバムが、いや、まあ、凄すぎるからである。
(歳は30手前なので、全盛期からは外れているのだけど)
「キング・オブ・ポップ」的な何かを、誰かに託してみたいと願っていた。
でもさー、なかなかそんなのいないよね。
「Don't Stop 'Til You Get Enough」で最初に魅せた、比類なきリズム感。
「Thriller」や「Beat It」、「Bad」での、高い演出構成力に耐えうるリズム&ビジュアル&ダンススキル。
ダンスミュージック歌わせて踊らせたらもう女子はみんなメロメロだし(例えば「The Way You Make Me Feel」)、
正統派なポップで完全に世界を掌握するし(例えば「Black or White」。個人的には「Remember The Time」が好き)。
「You Rock My World」なんて、亡くなる数年前の曲だけど、
それまでで一番じゃないかってくらい名曲中の名曲で全然色あせないよ?
私が思う「キング・オブ・ポップ」は、
リズム、歌唱力、ダンス、ビジュアル、それらに支えられたカリスマ性、
それらが時代に合わせて常に変化しながらも、トータルに持ち続けられる存在だということ。
あー、うん、いるいる。そういう人、男性も女性もいっぱいいる。
でも現代で、元々マイケルを指した「キング・オブ・ポップ」を、
マイケル好きから真に後継者として認められる人は、多分まだいないんじゃないかな。
そこで私は「いや、ブルーノ・マーズこそ現代のキング・オブ・ポップ(になりうる存在)でしょ!」と声高らかに吠えたい。
「24K Magic」で一番凄いのは、それまでの彼の曲に比べて大きな振れ幅を持っている点である。
正直「Just The Way You Are」や「Marry You」のイメージからは、アルバムを通して全然異なっているのである。
9曲通して、リズムの変化球がすごい。そして、全体的に懐かしい。
敢えて「マイケルの再来」を予感させるような曲作りをしたとしか思えないが、
そのなかで、ブルーノ・マーズの歌唱力、そしてそれを支える米国プロチームによって、
懐かしいのに新しい時代を感じさせる、これはつまりどーいうことよ???である。まさにMagic。
(ちなみに曲解説はこの記事が分かりやすい。http://realsound.jp/2016/11/post-10314.html)
楽曲のクオリティの高さはもちろん、正直その変化の振れ幅に驚いた。
今後、どこまで変化してどんなふうにワクワクさせてくれるんだろう、と。
その振れ幅の大きさ、完成度の高さは、現代の「キング・オブ・ポップ」にふさわしいと思う。
舞台に登場して首の位置、手の位置を変えるだけで悲鳴が上がる存在ではないかもしれないが、
各個人が自分の好みに合わせて優れた音楽を方々から集めることのできる現代、
時代が違うわけで。
まあ、結局言いたいことは、
そういう「私的現代のキング・オブ・ポップ」の東京ツアーを逃す、ということは
次行けたとしても、「24K Magic」の曲はそんなにやってくれないだろうし・・・
と、未だにごねているのである。
現地まで行く往復の足の用意、泊まるホテルの確保、前日の荷造り、当日の物販とか諸々あって「あーーー行くめんどくさーーーー」って思うんだけど、いざ行ったら行ったで本当に楽しい。
新しいアルバムも流し聞きしてるだけだと、微妙すぎる…って思ってたのに、ライブで歌って、その曲に思い出がつくと、途端に良曲になってしまうんだよ。
既存曲歌ってくれた時も、今までのツアーとか色々思い出したりして涙がボロボ止まらなかった。
フリとかファンサに夢中になっちゃたり、メンバー同士で歌ってる最中に目が合って、時々歌詞飛ばしたりするけどさ、そう言うのも含めて愛しい。推しが笑顔になってくれるのが嬉しい。
今年で結成して5周年。ファンの中じゃ年齢的にババアで最近は片身狭いけどさ。出来る限り応援するよ。ライブお疲れ様でした。楽しい時間をありがとう。
私は性格はとてもネガティブ。頭も顔もスタイルは中の中といったところだ、決して美人ではないがブスでもない。キツめな顔立ちだがそれなりに告白もされたし結婚を申し込まれたこともある。ごくごく平凡だ。そしてとても親不孝者だ。
父は既に他界した。
記憶にある限り父は働き通しの人だった。成人式で一般的な家庭では記念に家族写真を撮るだろう、我が家でもそうだった。しかし私は写真を撮るときに笑顔が作ることが出来ない。どうしてかいつからかは分からない。自分が醜いと心の底から理解したときなのだろうか。他人からの世辞も鳥肌が立つし告白の言葉も友達の言葉もどうせ嘘だろうと受け止められない、そういう捻くれた心のせいなのか自分の笑顔に吐き気を感じる。当然のように「ハイ、笑って」と言われる写真は心底苦手なものだ。振袖を着て、ドレスアップした家族と写真館に連れて行かれたとき私は笑顔を浮かべることがどうしてもどうしても出来なかった。頬が引き攣り動悸が激しくなり涙が溢れた。一生に一度の記念写真を撮ることすらままならない。写真館のスタッフも家族も困惑したことだろう。写真が嫌いなことを知っている母でさえそれ程とは思っていなかったのだろう、自分まで涙を浮かべていた。本当に申し訳ない。どうして笑えないのか、どうしてそんなことも出来ないのか。そんな当たり前のことも出来ない自分に情けなさと悔しさと悲しさと全てで苦しかった。結局安くない代金を支払い、記念となるはずだったそのアルバムを家族の誰も受け取りに行っていない。もし私が普通の子たちのようにカメラの普通に笑うことさえ出来れば普通に撮影を終えることが出来ていたのなら、仕事ばかりであまり写真のない父の遺影になっていたかもしれない。遺影写真を母と探したときにひっそりと申し訳なさで涙が出た。仲が良い家族とは言えなかったが大きくなってからの家族写真は本当に一枚もない。
親の兄弟含めても私が初孫だった。だから一番に甘やかされさぞ可愛がられたことだろう。姑に少しいびられていた母から私がどんなに祖父祖母から甘やかされ放題だったかという話を思い出話とセットで昔よく聞いた。みんな私の結婚式に出たいと孫の顔がみてみたいと言っていた免許を取ったらドライブに連れていって欲しいと言っていた。私が心配だと言っていた。最後を看取ることは出来たがみんな意識が戻らぬ状態のまま亡くなったので誰とも最期に言葉を交わすことはなかった、父とも。もし言葉を掛ける時間があったとして、私に何か声を掛けることが出来ただろうか。父の遺品整理のときに常に持っていた財布から私が子供の頃に書いた手紙を見つけた。頭が痛くなるほど泣いた。なんて親不孝者なんだろう。
母はまだ元気に笑っているが私は彼女に申し訳ない気持ちしかない。
彼女は賢くはないが明るくよく笑い周囲に気を使うことが出来る。カウンターで隣り合わせになった相手ともすぐに打ち解けられ店員とも友達になるようなタイプ。そんな彼女は子供が大好きだ、だから彼女自身も早くに結婚して子供を産んだ。私にも学生の頃から貴女の子供が出来たら可愛いよ子供が出来たらいつでも面倒見るからねとあれがしたいこれがしたいと話をされ、同級生の誰ちゃんが赤ちゃん産んだみたい抱っこさせてもらった可愛かったよと笑顔で話をされる度に私は子供好きじゃないからと嫌々と返していた。申し訳ないが本当に苦手なのだ、小?中?学時代の子供の頃から既に例え結婚したとしても子供は産まないだろうとずっと思っていた。私は自分自身が大嫌いだから自分の子供も愛せないだろうとその事実に子供の頃から気が付いていた。しかし成人をとうに過ぎ三十路を迎え婚活の必要性を友人に説かれたとき、ふと自分が好きなところを見つけて結婚に至れる相手の子ならば愛せるかもしれないと思った。母が大好きな子供を、初孫を抱かせてあげえることも出来ると思った。それが唯一出来る親孝行のような気がしたのだ。結果として婚活は中断しているが、きっとこの先も独身のまま天災に巻き込まれるかどこかで孤独死するのだろう。結婚相談所に入会することを母が気付いたとき彼女は喜んでいた、退会を伝え孫はもう無理だろう諦めてほしいと伝え面と向かって謝罪したとき彼女は泣いていた。ある日、母の友人に孫が産まれたという話を聞いていると「もし私に子供出来てももう丸一日面倒見てあげることは出来ないね、私も取ったんだなぁ」と言われた。前は孫とどうしたいと理想を話してくれた、近年はその度に申し訳ない気持ちでごめんねと返していたが段々とそのやり取りもなくなってきた。きっと自分が娘を産んだ時から私のウエディングドレス姿や孫を抱く日のことをそれはそれは楽しみにしていたんだろう。それすら叶えることが出来ない不出来な娘で親不孝者で本当に申し訳ないという気持ちで苦しくて、突然涙がこみ上げる夜がある。
SNSを眺めていると頭がおかしくなりそうになることがある。鳥肌が立ち吐き気に襲われることがある。
どう見ても可愛いと思えない子の自撮りした笑顔が流れてくることがある。どうしてそんな笑顔で写真に写ることが出来るんだろう。その写真を見て気持ち悪いと思われるとは思わないのかその顔が周りを不快に不愉快にさせるとは考えないのか。もし私がその顔に生まれていたら即整形している。その姿でどうして幸せそうなのだろう。わからない。
どう見ても可愛いと思えない子が母になり子供との笑顔が流れてくることがある。性格が良かったんだろう料理が上手かったんだろうもしかしたらその顔が好みだったのかもしれない。そうだろう理由なんてそれぞれに山とあるのだろう。どうして私にはそれすら叶えることが出来ないのだろう。どうしてどうして。マウンティングという言葉を聞いたときなるほどなと感じるが私のそれはもっと根本的で病的なものだ。あの子が不細工だからというところに強調がつくのではなく、そこに劣るほど自分が駄目な人間であるというところに強調をつける。私はどうしようもなく醜く駄目な人間なのだ。
明るく社交性が飛びぬけている母とは違い不器用な人だった父。
私たち家族は仲の良い家族ではなかった。みんな帰宅してもそれぞれの部屋に籠るような生活になっていたし父が死ぬ前数年間は言葉も交わすことも少なくなっていた。父が倒れる前の晩、最後に声を掛けられた私が返した言葉は「なんでもない」だ。本当にどうしようもない。それでも血縁者であり家族であることに変わりない。父に似ているとよく言われたことが多くある。どこでこうなったのかわからない、不器用な人だった父もきっと生きるのは大変だっただろう。それでも一般的に恋愛結婚し仕事を貫いた点で彼は私と比べるまでもなくまともな人間であったのだろう。もし私が母に似て愛嬌たっぷりになっていたのなら人生は違っていたのだろうか。私には愛想笑いすらとても難しい。笑顔での接客対応ですら必死で仕事終わりには顔が痙攣することもある。いつも笑顔の母とは似ても似つかない。
両親の兄弟を思い返しても血縁を切ったような相手しか浮かばない。もしかせずとも我が家の家系はここで途切れるのだろう。かもしれないと別の可能性を見出すことすら出来ない。私が母と出掛けねば手入れされていないお墓を想像がつく。祖父祖母に申し訳ないと思っていた、両親に申し訳ないと思っていた。ほんとはそれだけではなくもっともっと多くの人に申し訳が立たないんだろう。私はどこまでも親不孝者なのだ。
先日母に頼まれて年金保険というものに加入したが受け取る日はこないだろう。痴呆が始まるようになった日には自殺しようと心に決めている。吐き気がするほどネガティブな私にもいまが幸せだと思う瞬間はあった、それを忘れてしまうくらいなら自分で幕をひく。家系的にそう長生きするタイプではないから平均寿命もいかないだろう、きっとあと40年もない。30年程とすればゴールまで折り返しだ。憎まれっ子世にはばかる渋柿の長持ち論で性格の悪さから長生きする可能性もあるが、それを上回るメンタルの弱さで心から蝕まれているのでことわざ効果は大いに打ち消してくれていることだろう。人生は死ぬまでの暇つぶしに過ぎないという言葉を聞いたときほんの少しだけ心にある澱みが軽くなったような気がした、そのまま日々ゆるりと死に向かっている。最近体調がすぐれないこともあるが無性に眠い。抗えない虚脱感と眠気に襲われるときこのまま死ぬのだと毎度感じる。いつの日か本当にそのまま死ぬのだろう。何を産み残すこともなく継がせることもなく。誰に何を返すことも出来ず。本当にごめんなさい。
どこかに書きなぐりたくなった。
まだ好きなんだけど他に好きな人が出来てしまって完全にそちらに比重か傾いている。
タイトルの通り。高校時代の友人8人のグループLINE上で繰り広げられる妊娠出産報告や子供の成長報告が面倒臭い。
8人全員が既婚者で、私ともう1人の友人以外は2人以上の子供がいるが、ここ数年のLINEが妊娠しました、出産しました、子供が卒園しました、などの報告と写真で埋まっている。世の中のみなさんがそうしているように、心の中はどうあれ「おめでとう」「かわいいね」「大きくなったね」という当たり障りのないコメントを返信しているが、もうそれも面倒臭くなってきた。仕事で疲れた夜に、出産直後の新生児の写真に対して「かわいいね(ハート)」と返す気力がない。
遠方在住のため私はここ数年不参加にしているが、今も一年に一回程度は地元で集まっているようで、その度にLINEグループにアルバムが作られる。友人たちの写真はほとんどなく、子供たちの写真ばかりが並ぶアルバム。「子供の成長は早いねー」と、毎回同じようなコメントばかり返信しているが、きっと誰もそんなことには気づいていない。
こういう感想になってしまうのは私に子供がいない(そもそも子供が得意ではない)からで、もしも子供がいたらみんなと同じように楽しめるということはわかっている。私がマイノリティということも。でも、さすがに少し疲れてきた。ここ1年ほどは通知がくるたびに憂鬱になるのでそのグループだけをミュートにしている。
とはいえ古くからの友人なので縁を切ることもしたくない。子供の成長はどうでもいいけれど、彼女達は大切な友達だ。
子供達が大きくなるまでの、あと数年の辛抱なのだろうか。結婚もそうだったけれど、それ以上に子供ができるできないで全く別のステージになるものなんだと実感している。
"Sometimes It Snows in April" はアメリカのミュージシャン、プリンスの楽曲。
プリンス自らが主演、監督を勤めた映画『アンダー・ザ・チェリー・ムーン』のサウンドトラックでもある8枚目のアルバム
"Parade" (1986年発売)に収録。プリンスが作詞、作曲、プロデュース。
プリンスのバンド、ザ・レヴォリューションに在籍していたウェンディ・アンド・リサが作詞に加わった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Sometimes_It_Snows_in_April
http://strongerthanparadise.blog.fc2.com/blog-entry-475.html
いい男かどうか判定の対象にする男が少なすぎるのではないか?という話。
勤め先でめちゃくちゃ好きな彼氏が出来てから気付いた。私の初恋はYくんだった。
小学生の頃の話だ。
ずっと茶髪で足が速くて、反抗的なのに教師に気に入られていて、喧嘩もドッジボールも強くて、愛嬌と言える程度にバカで、誰とでも仲が良かったMくんが、私の初恋だと思っていた。
あらためてアルバムを見ると言うほど綺麗な造形だとも思わないが、イケメン!と女の子みんなが言っていたし、私も思っていた。女の子が5人集まったら3人はMくんが好きだった。
もう1人Nくんという弁護士を両親に持つ秀才で運動もでき、教師の覚えもめでたい子がいた。5人のうち2人はNくんが好き!と言っていた。その2人で人気を大体2分していた。(余談だが、Nくんはアルバムで見ても美少年だった。人づてに1000万はかたい大手に就職したと聞いた。Nくん派だった子達は見る目があると思う。)
さて話を戻す。私はYくんが好きだった。
Yくんは、Mくんの右腕的な子で、バスケをやっていた。とてもお調子者で面白く、気遣いもでき、優しく、よく食べ、話題に上がらない程度には勉強をこなす、とても愛嬌のある子だった。
みんなYくんのことが大好きだったし、ムードメーカーとして欠かせない存在だった。
でも、びっくりするほど恋愛的な人気がなかった。バスケチームのコーチの方針で少年野球みたいな、ほぼ坊主みたいな髪型をしていたが、ブスでもデブでもなかった。
Yくんは言わば2番手の男であった。男の子も女の子も、みんなYくんのことを「いいやつ」として評価し、分類していた。でも恋愛とか、付き合うとか、そういう対象として見る相手ではなかった。
社会性が未発達だったメスの私は、みんなが恋愛対象として評価していない男の子を好きだと認めるのが恥ずかしかった。失礼な話である。
だから手近で、恋愛対象としておおいに評価されていて、そこそこ仲が良かったMくんへの羨望を、初恋だと思うことにしたのだと思う。
Yくんのような、2番手で誰からも愛され、ルックスも悪くない「いいやつ」は他にも何人かいた。
ご近所付き合いで母の聞いてくるところによるとMくん派の急先鋒だったHちゃんは中学に上がってSくんとお付き合い、時にお突き合いをするようになったらしい。HちゃんはずっとSくんが好きだったそうだ。私がSくんなら「は?」って感じだ。
お受験を乗り越え、無事女子校こじらせ女に成長した私には小学校のことまでしか分からない。
ただ、原始的な集団では、初めから恋愛対象になれるオスが決まっているから特定のオスにメスが群がるのかな、と思った。
うちの彼氏は休日バンドマンで、バンドマンしてる時はすごくモテるらしい。動画を見せてもらったがきゃーイケメン、と騒がれていた。が、勤め先ではお調子者のムードメーカーさん、だ。つまりモテない。10くらい下の女子大生のバイトさんにおちょくられたり、小馬鹿にされている節がある。
対して、モテる女の子は比較的分散している気もする。人気者のAさんやSちゃんだけでなく、男女問わないそこそこの人数からいじめられていたKちゃんやNちゃんもひそかに告白されていたらしい。アルバムで確認すると、2人とも顔が可愛かった。(それこそモテる男の子がKちゃんに告白していたそうだ。振られたらしいが。)
男の子の、その、好きだ!を忠実に実行出来る感じ、ほんとうに感動する。羨ましい。
最近久々にMinecraftをプレイしてるんだけど、やっぱり最高に面白いな〜と改めて実感している。
見渡す限り未知が広がっていて、地形や近くの物資を確認しながら、頭の中で今後の開拓方針を組み立てていくあのワクワク感はなかなか他のゲームには無い感覚のように思う。
自分はあまり一つのゲームに熱中するタイプではなく、ハマったゲームですらクリアせずに飽きてしまったりする。
だが、その分繰り返しやりたくなったりするので、手持ちのゲームのプレイ時間は無駄に多かったりするのだが、その中でも特にやり返してるゲームは、始めたての序盤が最高に面白いゲームが多いんだよな〜と思ったのだ。
ゲームの序盤って、基本的に自由度に乏しくやれることが限られるものだと思うけど、その分「この後何ができるのか」という期待感が煽られるというか、簡単に言えば一番ワクワクする時期であると思う。
そもそも序盤とか中盤の区切りというのが曖昧なものではあるけれど、わかりやすいのはレベルとかだろうか。レベル100が上限のゲームだと、なんとなく20くらいまでは序盤というイメージがある。
或いは図鑑やアルバムといった収集欄が全然埋まってない、これからのことを想像する余地が大いにある時期が最もゲームの世界観に没入できるタイミングなんだろう。
から書く。
今サークルで卒業生のためのアルバム作りをしている。これが結構大変だ。この人とこの人は仲が悪いから載せちゃダメだとかこの人とは仲良しだからたくさんのせろとか、でも卒業生の先輩の顔なんか全然わかんないし。写真が少ないとか配置がダメだとかあの先輩がいないとかダメ出しされるし、でも作り直すのは私達だし。
一年生みんなできて協力してさっさと仕上げましょう!って話だったのに一回も来ないやつはあるし一回だけ来て参加した気になってるやつもいるし。
なんで旅行行けるの?思いつきで旅行〜とかいうストーリーあげちゃうのなんで?
今日だって7時間くらい作業してたんだよ、まぁ雑談してたしお菓子も食べたけど。
でも作業してた。知らない顔をこの人じゃない?みたいな感じで分類して写真切ってレイアウトして。全然違う愚痴だけど完成させたページ全部張り替えられるし。まぁそれは先輩の意図があったんだろうし一年目の私が毎年のそれを変えるわけにはいかないからいいけど。よくない。でもアルバム作りに二月からやってたんだよ? 二月のうちに直してくれても良くない?
卒業生の一人は「見ないから作らなくてもいいよ笑」なんていうけどいやそういうわけにもいかないから!!!!
疲れる。
全員がやってたらまだ仕方ないと思えるけど、「全然参加できるよー、行く行く!」って言って一回しか来なくて旅行に行きまくってるやつやハナから参加する気がない奴がいるのがムカつく。
卒業しないでください○○さ〜ん!って。
今後ずっと残るけど時間がない中。
最終的に選んだ写真は、親戚にも好評だったので良し。
背景は塗りつぶさずに写真の景色をそのまま生かした。異例だが綺麗だったからだ。
元々、プリクラも好きじゃないぐらい、自分の写真が好きじゃない。
そもそも人間が被写体の写真にそれまで興味がなかった。自分だろうが他人だろうが。
いい景色の写真は好きだが、人間が写るのって生々しい気がしていた。
自撮りなんてしないタイプだが、いい料理の写真なんかはたまに撮る。
だいたいよく考えたら、遺影に使うような写真って、きれいなのを選ぶから他人に撮ってもらったやつを探す。
亡くなった時と離れすぎた年齢の写真じゃ、なんか違う気がする。
人間、いつ死ぬかわからないんだから、用意はしておいた方がいいかも。
このままだと一番年齢が近い免許の写真か、大目に見ても履歴書の写真が遺影になる。
死んだあとのことなんぞ気にしなくていいんだろうが、ちょっとこれでは人生しょぼい気がしてきた。
今後、人が亡くなったときは、スマホやデジカメのデータを起こして、写真を選ばれたりするんだろうか。
生きてるうちにいい写真を残しておくのも、家族への親切かもしれない。
あと、自分のための自分の写真を残しておこうと思った。別に人になんか見せなくても、アルバム充実させたい。
楽しい思い出を増やしたい。
レミオロメンの3月9日がラジオから流れてきたのでついでに調べてみた。
JASRACに登録された曲名に算用数字または漢数字の表記があるもののみを採用し、曲中の歌詞の有無や曲の洋邦は問わないものとする。
○:日付のみが算用数字で表されている
☆:年や曜日、時刻等が特定されている:
△:算用数字の日付+他の表現
●:日付のみが漢数字で表されている
▲:漢数字の日付+他の表現
□:架空の日付
×:なし
記号が重なった場合は上の記号を優先する
1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | |
1日 | ○ | △ | ○ | ○ | ○ | △ | △ | △ | ☆ | △ | ○ | △ |
2日 | ○ | ○ | ○ | ☆ | ○ | ☆ | ○ | △ | △ | △ | × | ○ |
3日 | △ | △ | △ | ☆ | × | ● | × | ○ | ○ | × | ○ | △ |
4日 | ● | × | ○ | ○ | △ | ○ | ○ | △ | ○ | ○ | × | ○ |
5日 | × | ● | ○ | ☆ | ○ | × | △ | ○ | × | △ | △ | × |
6日 | ☆ | × | ○ | ☆ | × | ○ | ☆ | ○ | × | × | △ | × |
7日 | × | × | △ | ☆ | × | × | ○ | ☆ | △ | △ | × | ☆ |
8日 | ○ | × | ○ | ☆ | × | ○ | ○ | ● | × | × | ○ | ○ |
9日 | △ | × | ○ | ☆ | ○ | × | ○ | ☆ | ○ | △ | × | × |
10日 | △ | × | ☆ | ☆ | × | × | ○ | △ | ○ | ○ | ○ | × |
11日 | ○ | ○ | ○ | ☆ | △ | △ | ☆ | △ | ☆ | △ | × | × |
12日 | × | △ | × | ☆ | ○ | ● | ○ | ☆ | ○ | × | × | ○ |
13日 | × | ○ | △ | ☆ | ○ | ▲ | ○ | × | × | × | × | × |
14日 | × | ○ | ☆ | ☆ | △ | × | ○ | ● | × | △ | × | ○ |
15日 | △ | × | ○ | ☆ | △ | ☆ | × | ○ | ▲ | × | ▲ | × |
16日 | × | × | ○ | ☆ | ○ | ○ | △ | ○ | × | ☆ | △ | ○ |
17日 | ☆ | × | △ | ☆ | △ | × | △ | ☆ | × | ○ | × | ○ |
18日 | × | × | ○ | ☆ | △ | △ | × | × | ● | △ | × | ○ |
19日 | ○ | △ | ☆ | ○ | × | △ | ○ | × | △ | × | △ | ○ |
20日 | × | × | △ | ☆ | △ | × | ○ | △ | × | ☆ | × | ○ |
21日 | ● | ○ | △ | ☆ | ○ | × | ○ | △ | ☆ | ○ | ☆ | ○ |
22日 | × | × | △ | ☆ | × | × | ○ | × | △ | ☆ | ● | ○ |
23日 | × | × | △ | ☆ | × | × | △ | × | △ | ☆ | △ | ○ |
24日 | × | × | × | ☆ | × | ○ | ○ | × | ○ | ○ | × | ○ |
25日 | × | × | × | ○ | × | ○ | ○ | ○ | △ | × | × | ○ |
26日 | × | ▲ | ● | ☆ | × | △ | ○ | × | ○ | × | × | ○ |
27日 | ○ | ○ | × | ☆ | ○ | × | ○ | ○ | × | × | × | ○ |
28日 | ☆ | ○ | ● | ☆ | △ | × | × | ○ | × | × | × | × |
29日 | × | ○ | △ | ☆ | △ | ○ | ○ | △ | × | ○ | × | × |
30日 | × | □ | △ | ☆ | × | ☆ | × | ○ | ☆ | × | × | ○ |
31日 | △ | □ | ○ | × | × | × | △ | ○ | × | × | × | ○ |
32日 | × | × | × | × | × | × | □ | □ | × | × | × | □ |
なお4月に☆がやたらと多いのは、『Fantomas』がアルバム『Suspended Animation』で『2005年4月1日金曜日』~『2005年4月30日土曜日』の30曲を発表しているため。
生まれた時から人と違った。上唇と上顎の一部が欠損した口唇口蓋裂という形で生まれた。
この欠損は特別珍しいものでもなく、500人に1人くらいの割合で起こるものらしい。また現代の医療は素晴らしく、成長期までに複数回の外科手術をすることで本当に目立たないようにしてくれる。でも目立たないのと自分の中のコンプレックスは別。物心ついた頃から、「自分は人と違う。出来損ないだ」って思ってた。思春期の頃はアルバムを引っ張り出して赤ちゃんの頃の写真をビリビリに引き裂いて捨てるほどだった。普通になりたかった。だから将来の夢はサラリーマンだった。
小中学校では、「普通の人たち」に認められたくて、たくさんの友達を作った。ギャルっぽい女子も暗い男子もヤンキーも関係なく話しかけて100人くらい友達がいた。大人に認められるために良い子を演じてたから授業も真面目に聞いて、成績も良かった。でも、どこか劣等感を抱いていたので、少しでもコンプレックスを取り除くために進学校と呼ばれる偏差値の高い高校に行けた。
高校では、それなりに運動ができるようになりたかったから、体育会系の部活を一生懸命取り組んだ。
すごくキツい部活で何度も辞めたくなったけど部活動加入率が90%超える高校だったので帰宅部は普通じゃないと思ったので耐えきった。部活を必死にやってたので学力は落ちた。周りの奴らは部活も勉強もできる奴らばっかで、みんな早慶とか国公立に行く人ばっかだった。相対的にバカな私は一浪して、自分の中でまぁ納得出来る大学までいった。
大学生活コンプにならないためにサークルもバイトも人並みにやったと思う。相変わらず友達をたくさん作ったのでレポートとかテストもいろいろな人の力を借りて乗り切れた。留年はしなかったけど成績は良くなく、下から数えたほうが早い席次だった。自分のいた大学では理系の8割くらいは大学院に進学した。普通を求める自分は、とくに何も考えずに進学を希望した。
元いた大学は研究界隈ではコンプレックスを抱きかねないくらい設備に乏しい。だから大学院では東大に行った。ちょっと残ってた学歴コンプも研究能力コンプも払拭するつもりだった。研究室での2年間はしんどかった。優秀で、勉強も運動も恋愛も遊びも就活も要領よくこなす奴らに囲まれた。かたや自分は、知識も経験もモチベーションも全て中途半端だった。周りの優秀な東大生はもちろん社会的にも評価されて、大企業から内定をもらってた。私は大企業だと生き残れないと思ったので、ワークライフバランスを重視している中堅企業に狙いを絞って、なんとか一社内定を貰えた。就活が終わって、久々に元々いた大学の友達と飲んだとき、彼らも一流企業の内定をもらってた。優秀な人たちだったから、納得は出来た。でもやっぱ彼らに対して劣等感を抱いてしまった。俺は東大にいっても変われなかったんだって悟ったのかもしれない。
ねじ曲がった心から生まれたサラリーマンという夢も叶えられたし、就職先もひっくるめて今までの人生に後悔はしていない。友達も尊敬できる人にもたくさん出会えたし、自分のできる限りを尽くして生きてきた。しかし私は東大生に求められる能力を持っていない。コンプレックスも解消できなかった。どんなに頑張っても牛の尻尾にしがみつくのが限界だった。ESでは、なんでもできる努力家を偽っていた。しかし現実は全て中途半端でADHD気質のコンプ持ち落第生だ。来月から会社でやっていけるのだろうか。一生懸命頑張ってもいつも周りには「より優秀な人」や「もっと頑張れるヤツ」がいる。
どれだけ、いつまで頑張れば私はコンプレックスをなくすことができるんだろう?
どれだけ走り続ければ私は幸せになれるんだろう?