はてなキーワード: ドラマとは
盆休みが取れ暇だったのでネトフリのドラマ「地面師たち」を見たらなかなか面白かったのだが、
詐欺のスキームがどれくらいリアリティがあるか無粋にもちょっと疑問に思った。
特に詐欺グループが準備した偽造身分証の真正性について、リアルではどこまで本当なのかと。
ドラマでは詐欺グループが偽の運転免許証や印鑑、印鑑証明書などを作製するシーンがあり、買い手は
運転免許証は券面はもちろん、裏から強い光を当てて透かして、ICチップが埋め込まれていることを確かめ、
さらにスマホの読み取りアプリを使い、ICチップに含まれる電子データ(顔写真を含む)も確認していた。
増田ちゃんの言うこと、一理あるっす。人間は基本的に好奇心旺盛で、他人の失態や不適切発言に敏感になるっす。SNSの拡散力も手伝って、ちょっとしたコメントが大火事になるくらいの勢いで広がるっす。
人々は自分の正義感を示す場を求めてるし、それが集団になると「自己満足」や「自己正義感の確認」という意味では刺激として受け取るんだろうっす。そして、炎上を見ている他人もそのドラマ性に引き込まれる。要は、人間は本来の自然な姿に戻るだけのことっす。
これからも、他人の過ちを糾弾する風潮は消えることなく、さらに激化していくだろうっす。正直、全体として見ると人間は改善を目指すより、ただ騒ぎ立てることで満足してるだけっていう感じもするっす。でも、それが人間の本能だというなら、抗うのも難しいわけっす。
簡単に言うと、学生時代に出来ちゃって、別れる前に同意の上堕ろしたと思っていた元カノの子供が実は生きていたって話。しかも元カノは7年ほど子供を育てたあと病死。子供との初対面は元カノの葬式。
あらすじ知った時動悸がした。その元カノ、死んでなかったらほぼ私だからね。
大きく違ってる点は以下三つ。
•ドラマと違って、私は大学卒業してる。妊娠が分かったのが卒業して3ヶ月後だったから、普通に就職して産休とった。今も正社員。
•親の援助なし。というか、家庭環境的に親とはとんでもなく疎遠になってるので私に子供がいるって知らない。なので完全なるワンオペ。
子供の父親は子供のこと堕ろしたと思ってるからもちろん認知なんてないし、今後も会わせるつもりは一切ない。そもそも向こうは子供なんて存在しないと思ってる。
自分が死んだ時のこと考えて実の父親のことを話しておいたドラマの元カノ、気持ちは分かるけどやっちゃいけないことやってんなーとは思う。
アニメ韓流恋愛リアリティに競輪格闘技公営ギャンブルというおじさんの趣味に深夜バラエティのなりそこないみたいな番組というニッチを寄せ集めてるラインナップ
これでなんとか食いつないでるんだろうなとは感じるが、アニメチャンネルだけでいくつあるんだよ。。。感は否めない
オリジナルコンテンツのニュースはニュースでひろゆきがインテリ枠扱いされるレベルだしという
地上波もつまらんつまらん言われてるけど、それなりに多様性があって選択肢もあり、深夜や日曜の昼には低予算なりに攻めた番組やったり採算度外視のドキュメントつくってるからAbemaTVの現状よりはかなりマシ。
まぁ考えてみたら「地上波より規制がゆるい」としても、客は地上波のドラマやアニメで育ってきた世代な訳で、今更平成初期や昭和の規制が緩かった時代のノリやり直すだけじゃ勝てるわけねぇんだよな
規制がゆるいネット配信だからこそできる新しい作品、を作れなかった結果がこれなんだろうなぁ。とかそんなことを久しぶりにダウンロードして思った
続き。
「私と同じだ」「身につまされる」という感想を持つことは自然だし、それを否定しているわけではない。自分はほとんど経験ないが、そういうタイプの名作映画・ドラマもあるのだろうと思う。しかし自分はやはり受け入れられない。
わかりやすい例を取り上げれば、戦国武将を扱った歴史ドラマを見た職場の上司が、「家康に共感した」「リーダーの苦労が身につまされる」、などという感想を口にしたらどう思うだろうか。「家康と同じなわけないでしょ」と突っ込みたくなるだろう。朝ドラの舞台は現代により近いものの、本質的な問題は同じだと思う。
時代と社会体制があまりにちがう人物に、自分を完全に投影できてしまうとしたら、はっきり言ってそれは嘘である。それはあくまで、脚本や演出が現代社会を投影するような内容に作り込んでいるからであり、そして視聴する側が制作側の期待通りに消費しているから、という以上のものではない。
本書は、3年毎日に連載されている「これはあれだな」の中から選ばれた文章を集め、過失したエッセイです。
「これはあれだな」とはどのようなコンセプトのコラムでしょうか。
何か気になった事件や本、作品などがあったら、それについて書くのが普通ですよね。それだけじゃ面白くないので、過去に同じようなことがなかったかと探し当て、その二つを比べて何が変わって何が変わっていないかを考えるというのがコンセプトです。
つまり、例えば文学作品であれば、文学作品と何かの映画とか、100年前に同じようなことがあったとか、こういう事件があったけど、50年前に全く同じようなことがあったよね、といったことです。だから、ジャンルが違う場合もあって、例えば映画と最新作のアニメでは、これどこかで見たことあるなと思ったら、80年前のあの映画と同じことをやってない?ということです。
パッと5、6個思いついて「これならできそう」と思って始めたんですが、途中で「大変だ」ということに気づきました。少なくとも二つは見つけなければならない作業であることに10回目くらいで気づいたんです。普通は一つの話題で済むところを、必ず二つ見つける必要がある。多ければ多いほどいいんですよ。例えば今と大正と明治で同じようなことがあった、とか。
時代は変わらないね、というのは面白いんだけど、めちゃくちゃ手間がかかる。読み直しを結構確認しなければならないですからね。一応記憶に頼って「こんなことあったな」と思い出しても、記憶も曖昧になってきます。でも、本当にこれ面白いんだと。途中からは大体ストックがあって、これは似てる、逆に今のこれがあれだけど、あれから発想する場合もあるんです。昔こんなのあって、こんな面白いものって今にはないかな、と。
そうやって見ていくと、最近の若い人の旅に出た記録が1000年前の元神尚の記録に似てるとか、1500年前のものとそっくりだ、とか。そういうふうにしていくと、結構いろんな時代に似たものがある。特徴性が被るものがある。だから、時代にそういうものを生み出す必然性があるっていうことを考えると、話としては面白いんで、ただ手間がかかる。
今回本にまとめられたのも、別に今回が初めてではないです。これで3冊目です。毎週締め切りがあると憂鬱になっちゃう。まずこれを見つけるでしょ?で、あれがなきゃダメなので、どんなに面白くても「これ面白いんだけど、ペアになるものがいないよね」ってなると、できない。
そもそも、ご自身の文学作品を作るっていうのも、アイデアを出さなきゃいけない。アイデアはひねり出すんですけど、あれを見つけるっていうのはなかなか難しい。でもやっぱりコンセプトが光ってますね。やっててうまくいったときは「これ、よく見つけたな、自分でも」って思います。
あの、本書の前半では、2022年9月13日のフランスの映画監督ゴダールの死について書かれています。高橋さんにとってゴダールはなぜこれほど特別な存在なんでしょうか?
これは世代的なもので、僕の世代で芸術、音楽、映画、文学が好きな人でゴダールに影響を受けていない人はいないと思います。
当時はSNSもないし、情報だって今ほどは入ってこなかったから、例えば映画のニュースもなかった。テレビのニュースもやらないから、どこで知ったかというと、映画雑誌とか、映画芸術とか、そういうところにちょこっと載っていて、新作が出たって今だったら全部SNSでお知らせが来るんでしょうが、そういうのがなかった。だから新作が出たって言っても、日本公開がいつかはわからなかった。
僕は映画だと、アートシアターというのに入っていました。60年代、相当幼い時から、そういう会の会員になって、中学入ってすぐそういう会に入った。だから映画もクレイジーキャッツからゴダールまで一緒に見ていました。そもそもそれを分けて考えるのはダサいって感じだった。
しかも極端なことを言うと、芸術ばかり見ていると馬鹿にされるから、逆にクレイジーキャッツとかGSの映画を見ないと恥ずかしいって感じだった。そういう背景の中で、ゴダールの作品はかっこいいと思ってましたね。彼の即興スタイルが特に印象的で、シナリオを書いていかないんですよね。当日、その場でセリフを持っていく。そして基本的に編集で映画を作るというスタイル。
引用が多い。ゴダールの作品は、引用が多くて、ただ引用しているだけのものもある。それはオリジナリティに対する嫌悪なんだと思うんです。オリジナリティではなく引用で作品を作る。だから、過去の世代を否定する度合が一番強いのが彼で、その影響を受けていると思います。
最後の作品についても書かれていますが、イメージばかりが連続してくる、写真がバンバンバンと順番に来るような映画で、画質は必ずしも良くないのに、なんだか異様に綺麗な映像が印象的でした。
どうでしたか?その最終作に対する感想は?というと、ゴダールの作品が好きだなって感じですね。もういい悪いじゃなくて、好きだって感じですね。ゴダールはずっと「映画はテーマがどうとかじゃなくて、90分なら90分、じっとその映画館に座って見ていればそれでいい」と言っていて、ただ画面を見ていれば幸せ、映画ってそれでいいんだ、という考え方を持っていました。
ゴダールは、自分の映画が自殺の映画だと言っていて、主人公が死ぬ映画が多いんです。「気狂いピエロ」もそうだし、「勝手にしやがれ」もそうだし、最後に主人公が自分で目を閉じて死ぬ。あれはすごいなと思う。しかも、あれがデビュー作なんですよ。最後に自分の意思を表現する映画を撮るという意味で、彼の作品は一貫してそのテーマを持っているんです。
「映画史」という映画も撮っていますが、ゴダールという監督は、常に作品と現実の境界を取り払うことを考えていたんです。作品と現実が別々のものではなく、その境界を取っ払って、映画館で観ている観客に語りかけるという姿勢がありました。
映画の中で、主人公が観客に話しかけるというのは珍しいことではないですが、それを堂々とやったのがゴダール。アメリカでも10年くらい前に「ハウス・オブ・カード」とかで流行りましたけど、ゴダールはもっと前からそれをやっていた。それがかっこよかったんです。
また、魚くんの電気映画「魚の子」や、中村喜子の「女と刀」、植物学者牧野富太郎の「牧野富太郎自伝」などについて書かれた箇所を読むと、一つの観念や興味に取り憑かれて、非論理的であろうが、非経済的であろうが、自分の道を進む人が高橋さんの好きなタイプなのではないかと思いました。そういう方にどんな魅力を感じるのですか?
いや、面白いですよ。単純に普通に面白くないですか?ちょっと病的な感じさえありますが、頭おかしいんですよね。でも、そういう人は見ていて面白いですね。付き合いたいとは思わないけど。
でも例えば、魚くんだと、そこに書きましたけど、魚くんも面白いけど、お母さんがすごいですよね。僕も読んで「あ、そうなんだ」と思いました。魚くんの主人公はお母さんなんですよね。つまり、こういう人はいるんですよ、きっと。街を歩いても変な人はいます。変な人はいるけど、大体は困るんですよね。それが普通で、生きる人の知恵です。普通に生きてるとそうなるんですよ。
でも、時々そうは思わない人が出てくる。だから、変な人も大事なんだけど、その変な人を受け入れる人の方が自由だと思っています。お母さんがそうですね。お母さんは自分の息子だけど、そのおかしさを全面的に抱きしめる。
普通、おかしいって言っても結局排除されるか、直されちゃう。「お前、おかしいから普通にしなさい」と。でも、そのおかしさを育てるというのがすごいなと思います。それは他者とか異業のものを尊重するってことなんですよね。つまり、おかしくても存在意義がある。
これは結局、すべての人に存在意義があることにつながるんですけど、普通の人は存在意義があると認められている。でも、おかしな人とか、魚くんならいいけど、例えば身体障害者とか、知的障害者の人たちは見たくないと思うこともある。でも、それでも家族でも受け入れられない人もいる。
僕も色々調べました。障害がある子供が生まれると、受け入れられる家族と受け入れられない家族がいます。時間をかけて受け入れられるようになる家族もいます。特に父親は最初は受け入れないんですよ。でも、母親はすごいなと思います。お母さんは何でも受け入れるんですよね。
魚くんも牧野富太郎も色んな人が出てきますけど、その面白さとは別に、それを誰が受け入れたのかが重要なんです。牧野富太郎も変人だけど、奥さんが受け入れたんですよね。牧野富太郎は植物愛に没頭する変人ですが、それを受け入れるのは大変なことですよね。
でも、それを受け入れたからこそ、彼の生存が保証されたんです。だから、僕が書いた美方ククスとかも超天才だけど、あれ夫だったら困るよ。でも、受け入れた人がいたから、その生存が保証された。
でも、どうですかね。例えば、牧野さんとか魚くんとか、みんな著名になって仕事に繋がって成功しているけど、そこまでお母さんが考えていたか奥さんが考えていたかは分からないけど、魚くんになれなかった魚くんや、牧野富太郎失敗版みたいな人も絶対たくさんいたはずです。
結局、成功者の影には1000人の失敗者がいると思います。きっとそういう人たちのところにも、お母さんがいたんですよ。でも成功しなかったけど、いいんじゃない、それで。
これでも、親もすごいけど、1000人の失敗した人を見守ってた親がいて、その人たちが不幸だったかっていうと、そうでもない。そういう人たちは必要なんですよ、ということをよく考えますね。
セコさんの漫画「マダムたちのルームシェア」とか、信友直子監督の「ボケますから、よろしくお願いします」、早川知恵監督の「プラン75」など、老いと向き合った作品が多数言及されています。今、世界で最も高齢化の進む国と言われる日本で、高橋さんは何を感じていますか?
自分が年取ってきましたからね。今年で73歳です。もうやばいです。あと2年で後期高齢者です。やっぱり、身体的な衰えを感じます。確実に老いていくのがわかります。それに対して色々と体に気をつけています。
一つは、老いを新しい経験だと捉える感覚です。確かにそうですよね、経験したことないことですから、新鮮です。僕もそうですよ。ちょっと年を取ってきて体が辛くなってくると「こんなの今までなかった」と思うことがあります。
例えば、鶴見俊輔さんという哲学者の方が「限界芸術論」を書かれたんですが、90歳を過ぎて、「今日1日転ばないことを目標に生きよ」と書かれていました。「あ、そういうもんなのか」と思って、わかりました。
転びそうになるんです。僕、スクワットして足腰を鍛えているから平気だと思っていたら、筋肉じゃないんですね。バランスが悪くなっている。神経が悪くなっていて、神経は鍛えようがないから転ぶ。僕は筋力鍛えれば大丈夫だと思っていたけど、そうじゃなかったという新しい発見がありました。
そんな老いを新しい経験だと思って、余裕を持って受け入れることが大事なんです。実際、この国、これは日本だけじゃないと思いますが、68歳、70歳、72歳になると社会の窓が次々と閉まっていく。つまり、色々なことができなくなってくるんです。
例えば、家を借りようと思ってインターネットを引こうとしたら「72歳ですか、ではご家族と契約になります」と言われたんです。「70歳とインターネット契約ができないってどういうこと?」と聞いたら、「こういう決まりなので」と言われて、「おかしいでしょ」と思いました。これってちょっと差別的ですよね。
プラン75もそうですが、年寄りが不要だという考え方があるんですよね。これが寂しいです。今「シルバーデモクラシー」と言われて、年寄りが恵まれていると言われていますが、それは嘘だと思います。年を取ってみたら、社会の窓が閉じていく。シルバーデモクラシーという言い方で、年寄りが恵まれていると若い人に思わせようとしているんです。
でも実際には、全世代がそれぞれ抑圧を受けている。70代以上はこういう抑圧があるけど、20代30代も年金の支払いなど、みんなそれぞれ抑圧されているんです。だから、全世代が連帯しなきゃいけないと思うんです。分断が一番都合がいいから、それをやめるべきです。
僕は政治テーマとして、全世代が連帯すべきだと考えています。知らないかもしれませんが、70歳になったらインターネット引けないんですよ。72歳になったらローンもできないんです。なのに恵まれているなんて、ふざけているとしか思えません。
これは、土線(映画)とかでテーマになってもいい話ですよね。でもそれはなかなか声になりにくいんですよね。40代50代の時には知らなかったけど、68歳70歳72歳で新しい抑圧が出てくるんだな、と気づくんです。
社会ってさ、普通のことは知らせないようにしているんですよね。それぞれの世代とかジェンダーで、社会から抑圧されていることをお互いに調べ合って、連帯しなきゃだめです。
ジャニーズ問題と玉音放送について、高橋さんがテレビ局の幹部たちに「ジャニーズ問題を無視するのか」と質問した時のエピソードについて書かれています。昨年末にジャニーズの性加害問題が巨大なテーマになりましたが、この間、どう感じていましたか?
あそこにも書きましたけど、僕がちょうどBBCが放送した直後に番組審査員を辞めて、最後の番組で「これはダメだよ」と言ったんですが、沈黙がありました。その後、某テレビ局が漫画問題で騒ぎになって、それを良かったと思って続けました。
でも、やっぱりテレビ局は商業放送だから、視聴率が下がることが怖いんですよね。だから、視聴率が下がる可能性があることはなるべく避けたい。僕は怯えすぎだと思うんですけどね。もうそんなに怖がらなくても、普通の常識でやればいいのに、忖度している。忖度しない方が視聴者の指示を得るんじゃないかと思いますが、なかなかそうはならないんですよね。
今と昔を比較して、昔の方が保守的だったかというと、そんなことはなく、テレビ全体は進化している。ただ、メディアが動画サイトやSNSに壊れていく時にどうするかを同時に考えなきゃいけなくなっているので、やることも多いんです。
だから、僕も言ったんですが、面白い動画サイトの番組はテレビより面白いですよ。テレビのバラエティなんてやめたらいいと思います。個人で作っているものでも、ものすごくよくできた動画番組があるんです。それを見たら、テレビはお金も人もあるんだから、もっとできることがあるはずなんですよね。
Netflixのドラマなんかも面白いですよ。コンテンツの中身も含めて、やれることがあるのにやっていない。同じようなラブコメばかり作って、誰が見るんだろうって思います。
江戸川乱歩の「芋虫」を現代では取り上げることがかなり難しいということについて書かれていますが、以前、マルキ・ド・サドの作品を絶賛されていた話もあります。今の時代の言論の空気感についてどう感じていますか?
メディア、テレビ、ラジオだけじゃなくて、小説も含めて、僕がデビューした頃に比べると、だいぶ書きにくくなっています。例えば「ピエロ」って言えないじゃないですか。今では「ピエロレフ」って言われることがありますが、検索しても出てこない。
一番怖いのはこれですよね。こういう名詞ごと削除されること。ポリティカル・コレクトネスで、こういう言葉を使いなさいというのは一つの考え方としてあるかもしれませんが、元々あった言葉が使えないというのは、歴史の捏造じゃないですか。
今、「ジプシー」って言葉も使えないんです。「ロマ」とか言いますが、これは歴史の捏造であり、存在させないという方向に進んでいるんです。例えば、ゴダールの「気狂いピエロ」も、僕はそれを見ましたからね。でも、「ピエロレフ」って言われてもわからない。
ポリティカル・コレクトネスについては、理解できるところもありますが、理解できないところも多いです。多分、それを推進している人も、やっていて変だと思っているんじゃないかと思います。定義や限度が確定していないのが問題で、空気みたいなものだから。
ポリティカル・コレクトネスの一つの問題点は、日本が元々空気社会だから、空気で決めるというのはやばい。ポリティカル・コレクトネスが空気で決められるようになっているのが、日本の事情なんですよ。
上辺だけの議論が多く、社会的な不正義の問題は見ないで、言葉だけで物事を判断する。ポリティカル・コレクトネスは、社会的な問題を言葉だけで覆い隠そうとしているだけです。
その辺が、日本という国は忖度する社会だから、空気を読めということがずっと言われてきて、変わらなかった。変わるかと思ったら、ずっと空気を読んでいる。片方では多様性を唱えているけど、それは言っているだけで、実際には何も変わっていない。
大杉栄についても言及が複数見られます。思想、生き方、性格、私には高橋さんと似ている印象を受けましたが、大杉栄をどのように見ていますか?
大杉栄は、日本でも代表するアナキストですが、やっぱり感じがいいですね。友達になりたいなと思う。問題はいっぱいありますが、女癖が悪いとか、迷惑な部分も多いけど、その一方で愛すべき点がある。だから、あの人は人たらしなんです。
例えば、子育てをしていたんです。普通、政治的な人は政治活動はするけど、家のことは見ない。でも、大杉栄は、伊東のと結婚して子供が生まれたら、赤ん坊の選択をしたり、オムツを変えたりしていた。嫌じゃなくて、それが好きだったんです。
彼の中では、夫婦や男女の形は形式じゃなくて、対等であって、子供だから自分が Permalink | 記事への反応(1) | 08:25
すでに気持ち悪いぞ?
そいつに意志はあってはならないもなんだな、ってのが伝わってくる
こんな気持ち悪いのが支持されてるのか
娘の立場で男のキモさを語ることのないこのドラマを絶賛してたのか
本当にやべぇなフェミニスト
ならば二度と人を代弁するな
ここまで、再婚で、得体の知れない、中年オヤジが、急に生えてくる、その生理的な気持ち悪さに、フェミニストどもが鈍感とは思ってもいなかった
ほんとうに、ほんとうに、きもちわるいです
私にストーカーしてくるおまんこさんたち、本当に精神年齢が低くて、語彙も少なくて、こんな人たち大学で見たことないって思った
うざっキモッ
しか話したことないんだろな、本を読んだりもしたことなくて、自分より賢い人たちのこともとろくさい言い回しをする人たちとしか感じてないんだろうな
見るものといえばテラスハウスとかアベマのクソドラマなんだろうな
むかつく人がいたら目で示し合わせて仲間はずれにしたり
仲間はずれにした相手が外部で成功したらすぐ悪口言ったりしてたんだろな
丁寧に誠意を持って話す人を難しい言葉使ってるだけで聞かなかったりしてるんだろうな
夢でも救われた
救われた夢というか、自分が一番見たかった夢というか、これが現実であればと空想していた夢
子供時代、転校を繰り返してていたのだが、どこいってもいじめられていた
ただ、転校後にもらった手紙に
「いじめらていた君がいなくなったから、代わりにいじめられるようになった」とか書いてあって
振り返ると、普通の遊びと、いじめとかからかいとかの区別を感じれないくらい、
小学校はまあそんな感じだったのだが、中学は完全にいじめられていた
教室の中で自分だけがからかいの対象になり、はたかれ殴られ、泣きながら家に帰ったシーンを今でも思い出す。
まあそれでも何故か不登校になるようなことはなく、中高大となんだかんだいじめとからかいを繰り返しながら卒業したのだが、
自尊心がぼろぼろなのに気づかず社会にでてしまったので、会社入ってから全くコミュニケーションがとれず完全に病んでしまった
あ、なんか自分はおかしいんだと思って、色んな本読んだり、いろんな精神科や心療内科に通った
自信なさげに周りの目を気にしてキョドってるから、会社の人にバカにされるし、
時に「生きてて楽しい?」とか言われても、侮辱されたとか怒りとか感じることができず、
当時は話のネタができたくらいにしか感じれないくらい心が病んでたと思う
それからいろいろあって、今は心は落ち着いている。
ただ、友達がいない
ドラマや漫画で学生時代の友達と会い、昔話に花を咲かせるみたいなことは、全然できない
とはいっても中高大のときの級友は友達だったか?と言われるとたぶん友達じゃない気がする
対等な関係じゃなく、たた自分を卑下して無理にくっついてた感じがあるし特に会いたいとも思わない
中高大では感じなかった、楽しいとか一緒にいて安心するとかの感情は当時確かにあった
ただ転校後のいじめやコミュ不足から自分から連絡を断ってしまった
会いたいなとか空想しても、もう一生会うことはないんだろうなと思っていたら
今日、夢に出てきた
結構な年月がたって同窓会?的なところに自分が参加してる感があった
夢の中でも、自分の事覚えてるかな?みたいな不安を覚えながら皆のところへ足を運んでいた
声を交わしたは覚えてないが、
「転校してから辛かったよな」
「いじめられて辛かったんだよ」
みたいな心のやりとりがあったと思う
一応現実は安定しているから、自分では過去のいじめとか病とかは振り切ってたつもりだったのに、
夢から覚めて
ああ、これが一番待ち望んでいたことだったんだと思ったことに、
驚いたとのもあるし安心したのもあるし、なんか救われた感じがした
実際このような発言したら発狂まったなしというか実際発狂して怒鳴り散らかして翌日から対して美味くない飯を再開された経験がある。
両親の中では「飯を食べさせてやってる」なんだが俺の中では「俺が作ったほうが多分美味いであろう好みに合わない微妙な味の飯を、両親の趣味である面白くないドラマを垂れ流される台所でちょっと油断すると俺への嫌味と説教が飛ぶ中で両親の機嫌を損ねないようにできるだけ早く黙々ともちゃもちゃと食べきり処理をしている」作業なので、できればというかもう普通に食べたくない。
しかし食べないと食べないで神経にさわるしいらないと言えばイラッとさせるため、残飯の処理と同じ感覚で食事をすることになる
コンビニのカップ麺を車の中でズルズル食べるほうが圧倒的に美味い。
マックの冷めたポテトをもちゃもちゃと甘いコーラで流し込むほうが食事をした気になる
食事というのは何を食べるかよりもどこで誰と食べるかのほうが重要なんだ、と思いながらの今日も意味がわからん嫌味をとなりで聞かされながら飯をくった
柄本佑って俳優がイケメン役を演じられるってことは、どんな男性でも心はイケメンであればイケメンになれるのかもしれない。
と思ったが、世の中その顔して何その態度キモってなる男性が圧倒的多数な訳で、何が違うんだろうか。
柄本佑は天才的に演技が上手く、そして天才的にセンスがあるから、表現するイケメンがしぬほどイケメンで表現力が卓越しているため実質イケメンなのだろう。言っている意味が良く分からないが。
インタビューを読んだが、イケメン役が来たときに本人も間違えでは?と思ったとあった。成立させるためにがんばったとあったので、俳優としてかなり本気を出したんだと思う。
考えてみれば、テレビドラマのイケメン役なんて、イケメンの俳優がくさるほどいるのでそういう人が自然体を演じれば普通に成立する。というかイケメン役はイケメンがやるからイケメンなのだ。顔面整ってないのにイケメン役をドラマでやるっていうのがレアだ。だから「本気のイケメン演技」というのを見る機会がなかった。
イケメンがイケメン役を全力でやればもっとイケメンなのではと思うが、それは女性が女性役を本気でやることができないように、たぶん無理なのだ。だから柄本佑はすごいイケメンなんだと思う。
ケーブルテレビSTBでは見られない場合があるようなのでBSパススルーとか
地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報要確認
・02 せみしぐれ
・05 与那国島
・06 『涙(の女王』
・07 倉本聰 くらもとそう
・08 『366日』
・15 可視(光線
・19 フィン
・22 B 4
・25 [AC]ウッドロー・ウィルソン
・26 米津玄師 よねづけんし
・27 [3択]3 00万円
・29 バージニア 州
・30 坂本
・32 [どっち]ヤ モリ
・33e 25(周
・xx [ある曲のタイトル]『舟唄』
ドラマみたいやなぁ
それで観終わったらどうだった?とか言い合うんだけど、毎回結構いい感想を言ってくれてた
私は映画観るの下手(?)だからいつもその子の話聞いて感心してて あの台詞ってそういう意味だったんだー、とか
あと、おもんない映画のときはそれもまたハッキリ言ってた おもんなかったな!(笑)話の意味分からんかったわ!って
ネットのレビューも賛否両論で真っ二つに分かれてて、私は面白くないなって感じた側の人間だった
で、観終わったあと私が「ちょっとあのへん意味分からなかったなー」「歌はいいけどちょっと長かったな」とか言ったんだ
〇〇ちゃん(映画のキャラ)かわいいじゃん!最後めっちゃ泣いたよ私!〇〇と✗✗の関係マジ良いわ……みたいなこと早口で言われて
すごい、ん??って思ってさ
でもその後もずっとその子そんな感じでさ
なんかドラマとかの話しても、最高!とかヤバい!とかしか言わなくて
ここは正直面白くなかったよね、とかそういう話を一切できなくなった
なんかすごい浅い褒め言葉を連呼するようになったというか、語彙力が低下したというか
人並みにこれは面白い、あれは面白くないって分けるのができなくなってた
勿論元々そういうタイプの人だっていっぱいいるんだけど、その子は以前そういう子じゃなかった
おもんないときはおもんないって言ってたし、雑な褒め方もしなかった
なんでいきなりそんな感じになったんだ?
今もずっとそう
ずーーーーっとオタクみたいな感じ
どういう心境の変化なんだよこれ 元に戻ってくれよ
虎に翼、どうにも主人公とその恋人の恋愛が全然ドキドキしない。何が悪いのか?なんだっけ、あのアイドルの男性だったり、今度大河の主役やるまぁ普通っぽい俳優だったり、今は岡田将生だけどどの人も全然。サブの轟(異性愛者じゃないらしい)とよねの方がまだどうなるのかなってどきどきがある。その前の前の植物学者のやつ、神木隆之介と浜辺美波はすごいよかった。でもあれだって、ゴジラの映画で共演してそれまでも何度も共演してるほど相性が良い、観ててすごくどきどきさせてくれる組み合わせだからこそだったのかもしれない。植物学者は妻たったひとりだが虎に翼は3人も相手の男がいるのにどれもなんか…へぇ…みたいな感じになる。大河ドラマも観てて、主演の吉高由里子と柄本佑の組み合わせは、民法ドラマの時に初めてみてやべーすごいどきどきするーって感じで、大河ドラマでみてもやっぱり素敵だなと思う。舞台平安時代だし髪も格好も違和感あるはずなのに引き込まれる。虎に翼の伊藤紗莉にも、こんなしっくりくる素敵な組み合わせが!?みたいな相手役がいるんだろうけど、いまのところなんか違ったみたい。
いやマジでなんであんなキモイキャラ作れるんだろうなと不思議でならんのよね。
エロ漫画やAVに出てくる都合のいいエロメイドやエロ執事と同じような存在でしょ。
虎に翼がそういう性欲処理コンテンツやその一歩手前のオカズ用昼ドラならともかく、ヒューマンドラマをコンセプトとしてたじゃん。
少なくとも途中まではね?
そこに唐突に「妻にとんでもなく都合のいい夫くんが現れ、とんでもなく都合がいいことだけを言ってくれる」とかマジでキモすぎるだろ。
たとえばヒーロー映画で主人公が落ち込んでいる時に、自由にヒモをさせてくれる巨乳で美人で献身的なヒロインが突然現れて、その献身的な甘やかしで主人公が復活する話が30分ぐらい続いたら、それまでがちゃんとしてればしてるほどに「え・・・なにこの映画キモ・・・」ってなるじゃん?
なにアレ?
つうかフェミニストの人はああいう「女に超都合がいい男って最高ですよね」みたいなの出されて怒らないの?
それともあれは何らかの皮肉だと解釈して受け止めているのかな?
あれをそのまま「最高の夫!理想的!必要なときだけセックスして、いい感じにATMしてくれる夫が私も欲しい!」とあこがれの目で見てるフェミニストもいるのか?
今の朝ドラは、全てを絶賛する人と沈黙する人に分かれている。そしてネットでは少数ながら、匿名で酷評する人がいる。私はAMラジオを好きでよく聴いているが、これまでは雑談ネタとして朝ドラの話題が割とよく出てきたが、今回に関しては非常に少ない印象がある。
個人的にはあまり評価しない立場である。今の朝ドラの何がダメなのかというと、絶賛している人の感想が「わかる、わかる!私も寅子さんと同じ!」みたいなものが多いことに象徴されている。
少なくとも自分が面白いと感じてきたドラマや映画は、自分とは異なる、基本的には想像の外にいる立場の人(たとえば戦場の兵士など)のリアルや心情が理解できるような内容である。これまでの狭かった自分の視野が広がる感覚といって良いだろう。
そもそも親兄弟も含めて、全ての人間は他者である。朝ドラのように80年前の社会に生きていた人間なら尚更であり、「私も同じ」と無条件に共感できるような内容だとしたら、それは質の高い表現とは言えないと思う。異なる他者への理解とは逆の、閉鎖的な視線をもたらしている可能性が高いことは、今回の朝ドラについての絶賛と沈黙の極端な態度にも表れている。
元増田の意見について、フィクションだからとかいうのはいいんだけどさ。
ブクマの中で当時は普通だったからって反応があるんだけど、それは指摘としてむしろおかしいよ。
再婚における子供の鬱屈なんて、むしろ昔の方がよくある話でさ。
ぐれた理由や家出した理由、早く家を出たかった理由は再婚でしたなんて、当時の現実においても、フィクションにおいてもよくある話だったよ。
あんなの現代から見た、あの当時の先進的な風を装った描写そのものだよ。
それがよくないって話じゃない。むしろいいよと思っているけど、あれがご都合的なのはドラマとしても今の価値観からしても、当然すぎるほどの指摘なんだよ。