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はてなキーワード: 落語とは

2024-08-11

立川志らくさんの言葉人間としては正しいけれど、メディア人間としては無責任まりない最悪の無能発言なので、こういう無能な人が力を持たない世の中であってほしい

https://twitter.com/shiraku666/status/1822233433948459115

嫌なのがここぞとばかり彼女のこれまでの非礼を取り上げてフワちゃん叩きを発信するタレントコメンテーター連中。普段から言えよ。卑怯者。まさに水に落ちた犬を叩く。それと批判はいいが、彼女に対してネット罵詈雑言をいう人々。フワちゃんやす子に言った言葉とどう違うのか?ちなみに落語は、人間は弱いもの、間違える生き物だと教えてくれる。それを良いと言っているのではない。人間とはそんなもんだと認めてあげる。それが落語

ネットメディアが絡まない場面では「ぐうの音も出ないような正論」ではある。

私もぜひこれが正論として成り立つ世の中であってほしい。

しかSNSが出来てしまい、これがPV至上主義と合体してしまってる以上、もはやこれは正論ではない。

ただのスローガンしかない。しか志らくさんのようなエスタブリッシュメントにとって都合の良い、ね。

今の世の中、SNSで影響力に格差ありすぎるから落ち目でない間はたとえ間違っている人でもケチを付けたらケチをつけた側が殺されるし、言えたとしても黙殺されて終わりだ。

一度水に落ちてくれない限りまともに文句が言えないし言っても意味がない。(森川ジョージ先生みたいに合わせてくれる人もいるが、基本的には無視するかファンネルに叩き潰させるかだ。)

そもそもからふわのことが嫌いな人はずっと嫌いって言ってたし、今までだって何人もふわのことを諌めてたってニュースにたくさん出てきてるじゃん。

でも、全部そういう意見は今まで無視されてただけ。

その声が大きくなって無視できなくなって初めて視界に入ってきただけ。

で、無視できなくなった途端に、メディア手のひら返して騒ぎだしただけ。

そこまでして初めてようやくあなたの視界に入っただけ。

そこまでやらない限り、あなたがたはすべての批判無視してなかったことにしてるだけ。

今ってそういう構造ですよね。

から金を払ってでもPVフォロワーを稼いで、インフルエンサーになりたがる人が多いんじゃないですか。

そういう構造なわけ。

こんなん男女格差とかよりはるかにわかやすく、誰の目にもわかりやす数字として示されてる。

しかもこれって今年とか去年に始まった話じゃない。

そういう構造になってしまっているからこそ、暇空さんや石丸さん、トランプさんみたいな人が求められるようになってしまったんじゃん。

こういう人たちが求められる世の中ほんとにやだけど、そういう構造を作ってるの貴方がたじゃないですかヤダー!

上手くいってる間は、PVを稼いで売上に貢献してる間はちやほやしろってこの構造恩恵をフルに受け取っておきながら何いってんだか。

時代錯誤も甚だしい。

そんなにこの構造が嫌なら、お前が10年前からメディア批判しろや。Twitterアカウント一時的に止めて抗議しろや。

お前らの無為のせいで今この状況になってるのに、ほんまなにいってんのこのおっさんしか思わんわ。

いじめ放置しておいて、いざその学校の生徒が自殺したり不祥事を起こしてから加害者に対してバッシングは良くない。普段からいじめはよくないと言え」って言ってるようなもん。

普段から言っとるわ。その声を握りつぶしてるのはだれだよお前だろ。

もっと人殺しの顔をしてほしい。 何善人ぶってるんだ。信じられない。

こういう「一見けが良いことを言って人気を得ようとする軽薄さ」はさすが落語家って感じがする。哲学とかそういうものを一切感じない。

今のリンチメディアGOサインを出してることが一番大きな問題なので、一番最初批判スべきはメディアなのに、そっちはお金もらってるから何も言わない。

落語家なんてメディア奴隷だねってのがすごく良くわかる。

賢い他の落語家はそれをわきまえてるから恥を知って黙ってる。

一人だけ恥というものを知らないから格好つけて的はずれなことを吠えている。

見ているだけで恥ずかしい。共感性羞恥がすごい。

2024-08-08

anond:20240808200831

最近インターネットってこういう落語的な書き込みが減った気がする。

溜めずにいきなりダジャレをぶっ放すか、下品で強烈な表現流行語大賞を狙うかってパターンが増えすぎた

2024-08-06

休職一ヶ月でやったこ

これ (https://anond.hatelabo.jp/20240702181549) を書いた者だけど、皆さん色々アドバイスありがとうございました。

トラバブコメも思ったより優しい言葉が多くて良い意味でびっくりした。

休職し始めて一か月くらい経ち、幸いなことに調子は戻ってきて、

会社復職を段階的に進めてくれるとのことなので、8月後半から復職し始める予定。

休んでみて、休職前の一年職場環境自分メンタルも劣悪な状態だったな…と客観視できて、

それだけでも一旦休んだ意味はあったなと思っている。

備忘として、この一か月でやってみて良かったことと悪かったこと、やらないようにしたことメモする。

同じ境遇の人が何するか迷った時の参考になれば幸い。

○やって良かったこ
釣り

メインでやったことの1つ。やったことなかったけど海釣りチャレンジした。主にシーバスを狙って、場所探したり釣り方をyoutubeで見たり。

全然釣れてないけど、潮の満ち引きとか釣りスポット探しとか、トライ&エラーが楽しくて良いリフレッシュになった。

完全に一人で行ったので、同行者の時間釣果を気にせずに「今日は上手くルアー投げれたからよかったな」「魚は居たかスポット選びは合ってる」とか自己満足できたのも良かったかもしれない。

ただ、朝マヅメを狙ってほぼ徹夜釣りに行ったらそこから3日間体調を崩した…。体力的に無理は出来ないことも実感できたのが副産物か。

あとは、管理釣り場釣りもまたやろうと思っているので道具を買ったり。釣り楽しいね。

会社以外の知り合いと会う

これもよかった。大学時代転職前の友人、昔のバイト先の人と会ったりした。

仕事疲弊することや休職特別ではないことを感じられたり、自分では考えてなかった楽しい活動オススメしてくれたり、前向きになれた。

仕事に関わらず個人として気にかけてくれる人が居る」と実感できたのも、肩の荷がおりる思いだった。

・軽い運動をする

エアロバイク腕立て伏せスポーツセンタージムFitボクシングなど、ほぼ毎日どれか1つは実施した。

ゲーム読書しながらエアロバイク30~60分→終わったら腕立て、のセットが一番やりやすかった。

あと、プライムデーで安くなってたかプロテイン買ってみたけど、最近プロテインは滅茶苦茶美味くなってるのに驚き。10年前はもっと粉っぽかった。

ネット掲示板で知り合った人とdisocordで英会話

仕事を離れて英語使う機会が減ったので、英会話勉強として。

全くコミュニケーション出来なくなっていないか心配だったけど、まぁまぁ話せてよかった。

国は違えど、趣味が一緒だと全然垣根を感じなくて楽しい

こういう「何かタメになりそう」感がある活動は心の慰みになる。

漫画や本を読む、ゲーム

今まで読みたかったけど保留していた漫画・本・ゲームを進めた。

コロコロ無料開放してたから色々一気読みしたけど、ゴクオーくんがすごく面白かった。青年漫画少年漫画と比べても遜色ない名作。

シバトルや巻戻士も面白い。

ゲームティアキンと、MTGアリーナ。どちらも時間が溶けすぎるのでほどほどにしないとと思って、昼間はあまりやらないようにしていた。

・通院、傷病手当金書類作成など

最低限やらないといけないのでやったことでもあるが、社会との接点になってよかった。

観劇

落語ミュージカルなど。純粋楽しいし、一日に時間が定まった予定を入れることで、生活リズムの補助になる。

眠い時や疲れた時は開き直ってだらだらする

ある意味一番大事だったかも。どんなことも、無理しすぎないでやりたくなったらやる。

家族と過ごす

家族と買い物したり、ゆっくり過ごしたり。仕事なんかより家族大事だなぁと改めて感じた。

・必ず一度は外に出る

一回外に出て日光を浴びると一日が始まる気がする。

○やったけど良くなかったこと / やらない方がよかったこ
転職活動関係

休職始めの1~2週間は「転職も考えてみるか」と転職サイトやエージェントとの面談を何回かやってみたけど、調子が戻ってない状態転職理由説明したり相手から値踏みされるのはメンタル疲労してしまった。

休職であることを隠すか、どう説明するかとか余計なことを考えないといけないのも疲労の一因だったので、休職中の転職活動自分には向いていなかった。

パチスロ

負けた。やらんほうがよかった。

○やらなかったこ
・泊りのバイクツーリング

折角だから遠出の計画を立ててみたけど、暑すぎる&ゲリラ豪雨が怖いので断念した。昼間は一時間走るだけで頭がゆで卵になりそう…。

キャンプ

同上。やるなら春と秋だね。

日中飲酒

やろうと思えば朝から飲み始められるが、一段とマズいことになりそうなのでやめておいた。

働いてた頃より酒量が減ったのはよかった。


○その他感想
・本格的に仕事を忘れて「休む」ことを考えられるようになるには休職から1~2週間くらい必要だった。

欧米諸国の方々が一か月とか長期のバカンスを取るのは理にかなってるんだなと…。

日本も毎年1か月連続で休めたりしたら良いのに…。

2024-08-05

anond:20240805121420

ジェーンスーもたぶん話が上手いんだろうけど、話がうまくて何回も同じ話をする人と付き合うの嫌いじゃない

タダで聞ける落語だと思ってる

オチ知ってても話が上手い人の話って結構面白いんだよね

2024-06-24

anond:20240624155356

ChatGPT

まんじゅうこわい」を知っていますか?

はい、「まんじゅうこわい」は古典落語の有名な演目の一つです。この物語は、ある男が「まんじゅう和菓子)が怖い」と嘘をついて、他の人たちがその嘘を信じてまんじゅうを彼のところにたくさん持ってくる話です。彼は実はまんじゅうが大好きで、この嘘を利用してまんじゅうをたくさん手に入れます。この話は、欲張りや嘘の愚かさを面白おかしく描いています

まんじゅうこわい」と同じ意味英語ことわざ言い回しはありますか?

まんじゅうこわい」に完全に一致する英語ことわざ言い回しはありませんが、似たような概念を持つフレーズとして「Reverse psychology(逆心理学)」があります。これは、人が望んでいることを手に入れるために、あえてその逆のことを言う技術を指します。

例えば、「I don't want any chocolate, it's too sweet for me」と言って、本当はチョコレートが欲しいことを暗に伝えるような状況です。「まんじゅうこわい」の場合も、主人公まんじゅうを怖がるふりをすることで実際にはたくさんのまんじゅうを手に入れるので、逆心理学の一例と言えるでしょう。



Claude

まんじゅうこわい」を知っていますか?

はい、「まんじゅうこわい」という言葉を知っています。これは日本の有名な落語演目タイトルです。

この落語は、まんじゅうが怖くて食べられない男性の滑稽な物語です。主人公は、子供の頃にまんじゅうを喉に詰まらせた経験からまんじゅうに対する強い恐怖心を持つようになりました。

物語の中で、主人公はさまざまな状況でまんじゅうに遭遇し、それを避けようとする姿が描かれます。この落語は、不合理な恐怖心や固定観念ユーモアたっぷりに描いており、聴衆を楽しませると同時に、人間心理についても考えさせる内容となっています

この演目は、恐怖症や偏見といったテーマを軽妙に扱っており、日本の伝統的な話芸の魅力を示す良い例として知られています

さらに詳しい内容や、この落語が持つ文化的な意義についてお話しましょうか?



Gemini

まんじゅうこわい」を知っていますか?

はい、「まんじゅうこわい」を知っています

まんじゅうこわい」は、古典落語演目の一つで、広く知られた噺です。あらすじは以下の通りです。

長屋若い衆が集まって、「怖いもの」の話をしていました。へび、たぬきクモこうもり、毛虫、アリなど、様々な怖いもの話題に上がりますしかし、松つぁんだけは、怖いものが何もないらしいのです。

ところが、松つぁんには、なんと「まんじゅう」が怖いという秘密がありました。名前を聞くのも、見るのも、言うのも、触るのも、全てが怖いというのです。

この話を聞いた若い衆たちは、松つぁんをからかおうと、まんじゅうを使って様々ないたずらをします。障子に穴を開けてまんじゅうを見せたり、まんじゅうを投げつけたり、まんじゅうを枕元に置いて寝かせたりと、松つぁんを次々と恐怖に陥れます

しかし、松つぁんは必死我慢し、ついにまんじゅうを食べる決心をするのです。そして、一口食べてみると、まんじゅう想像以上に美味しくて、松つぁんの恐怖は消えてしまます

こうして、松つぁんはまんじゅうの恐怖を克服し、若い衆たちから尊敬されるようになったというお話です。

まんじゅうこわい」は、ユーモラスな語り口と意外な展開で、多くの人々に愛されている落語作品です。また、克服できない恐怖心を持つ人間心理コミカルに描いた作品としても評価されています

まんじゅうこわい」について、他に何か知りたいことはありますか?

2024-06-03

巨人背中に乗っかる笑い

映画彼女とみます

彼女が笑ったシーンを思い出すように喋る

彼女、笑う

これは楽だぞ。

2人で落語の時ソバみたあとでおはじき数える彼女に「今何時」って聞くみたいな。

この増田好意的コメントが集まるの目眩なんだが

一言では何も表してないし解らないから聞いてきてるのだろ?称賛してるブクマカ大丈夫か?

相手目線にすら立てない人間が「人として接する」ことを語ってるのだけど、俺は落語でも見せられてるのか?

まりにも偉そうな物言いでびっくりした。

からないと聞いてきた相手に返す言葉じゃないし、そんな言葉から始まったら書いてある内容なんて素直に頭に入るわけがない。

「厳しさは愛情」とか言うなよ。それはハラスメントをする側の常套句しかいからな。

元増田もこんな増田の書いてあることなんて鵜呑みにせず、わからないならわからないままでどうすれば「人として接すること」ができるのかを悩み続けることが一番大事だ。

なぜなら、人には育ってきた人の数だけ歴史があるし、それにあなたのそうした良心を利用して騙そうとしてくる人間だっているからだ。

あなたが心底大事にしたいと思えた相手がいれば、その相手歴史や背景を、聞き出すのではなく行動から見極める。

しかけた言葉の一つ、プレゼントしたときリアクション一つ、他人自分に対する反応の違いの一つ一つをじっくりと観察して、相手に寄り添うとは何かを考えれば良い。

ただ、1点、注意すべきことがあるとしたら、相手言葉だけを信じてはダメだ。何を言ったかより何をやったかを積み上げていこう。

言葉は嘘を付く。行動も嘘を付くがその積み重ねは本当になる。

もちろん自分言葉だって、行動が伴わなければ嘘になる。

そうやって不器用ながらも積み重ねて作り上げるものが「人として接する」という結果になっていく。

人には得手不得手があるのは仕方ない。

苦手なら人よりもじっくり時間をかければいい。

得意な人と同じだけの人間と仲良くなろうなんて考える必要はない。

対になる言葉は「ものとして接する」だ。

相手感情好き嫌い権利尊厳無視して、自分の都合のためだけに扱うこと。

まさに元増田がこの増田にされたことだよ。

ブクマカからのしょうもない承認欲求欲しさに、君という尊厳を踏みにじってモノ扱いした。

この増田非難されなくて誰が非難されるのか。

世の中は、こうやって口ではわかったようなことをいいながら自らの行動の矛盾に気づかない人間ばっかりで本当にうんざりする。

元増田よ、そういうときは怒れ。怒っていいんだよ。

そうやって自分経験すらも、人のために利用していこう。

老婆心ながら一つアドバイスをするなら、相手を大切に思いたいなら、相手の大切に思っているものを大切に思ってやってくれ。

なぜなら、あなたのその大切にしたい相手は、その相手が大切にしてきた色々なもので作り上げられているからだ。

それができるようになれば「人として接する」を超えて「大切な人として接する」ことができるようになる。

相手の心を開くことは簡単ではない。ダメときダメと諦めることも肝心だ。

どちらにしても、何かを押し付けているようであれば、それは「ものとして接する」以外にはならない。

そこに男女の差はない。

とっかかりの部分では多少なり異性、同性の抵抗感はあるかもしれないが、人の心の深い部分に限ってはその差は存在しない。

この2つで考えていけば、もしかしたら元増田は心優しい人間になれるかもしれない。

間違っても増田みたいに頭ごなしに相手を切り捨てるような増田にはならないでくれ。

anond:20240602174645

anond:20240603094735

落語とかけて、淫夢ときます。そのこころは、「オチがついてくるでしょう」。

落語聞いてるけど全然聞き取れない

聞き取れても面白さがわからない

もうすこし耳を慣らさなければ

2024-05-12

anond:20240512100742

あかねから落語つながり(?)でじょしらくとか。

※ テンプレとして、「落語やってねえだろ」→「こまけえこたぁいいんだよ」

詩とか俳句短歌について思うことメモ

もう人生の折り返し点をすぎて久しい。目を通す文字は、仕事書類ばかりとなった昨今。

でも小学校高学年から中学生にかけての頃に、文学少女に憧れた時期があった。

書店の奥のほうにいっては新潮文庫コーナーで、適当に数冊手に取っては解説に目を通したりしていた。

まれて初めて自分で買った詩集は、井上靖詩集だった。小学校5年生か6年生の頃だと思う。

頁を開いたとき、これは詩なの?というのが最初感想だった。普通に文章だったからだ。

調べてみると、井上靖の詩は、散文詩という形式らしい。なにが自分の知っている詩と違うのだろうというところで

「韻」という言葉もその時初めて知った。

井上靖詩集を手に取ったのは、国語教科書に載っている著者の本でなるべく読みやすそうなものを探したからだった。

というわけで、あすなろ物語のついでに手にしたのが、人生最初詩集だった。

小中学生の頃、国語の授業で、詩や短歌に少し関心をもった私は、韻を踏む、という作法が苦手だった。

季語などルールがあったり、韻で楽しめなければならない、みたいなもの短歌俳句だとすると、ちょっと縁がないなと。

特に覚えているのは、中学校の時習った在原業平短歌に、かきつばたを詠みこんだものがあるが、韻だけでなく、言葉ニュアンスにいろいろな仕掛けを作らないと詩として成立しないのかと思うと到底自分には向いてないジャンルだった。しかし、そうはいっても、短い言葉で何かを表現してみたいという思いは消えず、ひそかに詩集をつくって引き出しの奥底にいれていた。


井上靖の詩のなかに

幼少の頃、川辺の石段の下で手を洗っているとき不意に石鹸が手元を離れ、深みに落ちていったという情景の詩があった。その喪失感をその後の人生でも刻まれているという内容だった。これなら自分でも書けるかもしれない、と思った。

自分世界表現の仕方や詩の味わい方を学べたのも井上靖の詩の影響が大きかった。

例えば、雪という詩がある。


 ―― 雪が降って来た。

 ―― 鉛筆の字が濃くなった。

 こういう二行の少年の詩を読んだことがある。

 十何年も昔のこと、『キリン』という童詩雑誌

 みつけた詩だ。雪が降って来ると、

 私はいつもこの詩のことを思い出す。

 ああ、いま、小学校教室という教室で、

 子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。

 この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。

 勤勉、真摯調和

 そんなものともどこかで関係を持っている。

井上靖詩集運河」より

中学生の私は、なるほどと思った。

詩というのは、雪が降って鉛筆の字が濃くなったという描写やその言葉なかにあるのではなくて、物語は書かれてない背景のなかにあるのだなと。

鉛筆の字という描写だけだったら、だから何?という感想しかない。しかし、鉛筆を持つ誰かの表情を想像し、その背景を想像して足してあげることで一枚の絵になる。

井上靖の次に手に取った詩集もよく覚えている。

武者小路実篤だった。やぱり散文詩だった。

当時、大好きだった先輩が「友情」を読んで感動したといっていたので、友情ともう一冊詩集を手に取った。その後しばらくして、私の失言が原因で先輩は私からフェイドアウトしていった(つまりフラれた)ので文学をダシに先輩と仲良くなろうという作戦は失敗した。しかし、武者小路実篤の詩はそんな私をなぐさめる言葉にあふれていた。

いじけて 他人にすかれるよりは 欠伸(あくび)して他人に嫌われる也 夏の日。 嫌う奴には嫌われて わかる人にはわかってもらえる 気らくさ。


ほどなくして、種田山頭火という自由律俳句というジャンルを知った。

山頭火面白い普通俳句じゃないところがいい。規律から解放されるってすばらしいことだと。

定型詩嫌いな私にとっては、ある意味で、俳句短歌エントリーポイントとなって、

新聞の俳壇や短歌欄に時々目をやるようになった。

いわばお勝手からこっそり入門したような形だ。

しか俳句は、季語の煩わしさにどうしてもなじめず、自分には遠い世界のままだった。

いつしか手にしていたのは、興津要解説する江戸川柳 誹風柳多留だった。古典落語にはまり始めた時期だった。

剣菱という酒を飲むことを江戸時代の人が剣菱る(けんびる)と言っていた、など、現代言語感覚と近い、興味深いことがいろいろと書かれていた。

エロい川柳結構好きだった。今でいうサブカルチャーだ。

その後は巴毎晩組み敷かれ

木曽義仲の元を離れ、和田義盛に見初められ身柄を預けられた巴御前、ネトラレ系の元祖ともいうべき味わい。思春期の私はこうした江戸時代川柳妄想たくましく想像し、手が動いた。五七五だったら、こっちの世界のほうが楽しい

一方、短歌のほうは、というと、当時の朝日歌壇は毎週とても楽しみにしていた。

俵万智サラダ記念日ベストセラーになったからというのとは全く関係なく、プロではなく、市井のいろいろな人が短歌を詠んでいるということが興味深かった。

例えば、こんな一首。

わが胸にリンチに死にし友らいて雪折れの枝叫び居るなり

あさま山荘事件を起こした連合赤軍幹部坂口弘収監中の東京拘置所から毎週のように短歌朝日歌壇投稿していた頃だ。

朝日歌壇では他にも穂村弘がいた。短歌表現する世界の幅広さを朝日歌壇で知った。

そして渡辺松男太田美和が常連投稿者として名を連ねていた。

風花って知っています

さよならも言わず別れた陸橋の上

渡辺松男太田美和は実社会で互いに関係があるわけではなく、それぞれの思いを歌に込めていたのだと思うけど、なぜか不思議と互いに呼応し合うものがあった。これは当時の歌壇リアルにみていた人にしかからないことだけど。雨の森や樹々など独特の世界観を表現する渡辺松男に対して、雨の日に部屋にこもれば憂鬱発酵すると詠んだりする太田美和。

生活で恋をしていた私は太田美和の言葉自分を重ね合わせた。


でもこのころが私の文学少女期のおわりだった。

大学卒業したものの、就職できずに苦しむ時期がやってきた。就職氷河期というやつだ。

生活が一変した。

書店で立ち寄るのは、奥の文庫コーナーではなく、店の前の新刊コーナーであり、資格取得のコーナーだった。

購読紙も朝日新聞から日経新聞に代わり、東洋経済となった。

世の中からどんどんと取り残されてゆく焦りでいっぱりになっていた。

山頭火武者小路実篤もへったくりもない、そんなことより面接資格だ!という日々。

就職が決まってからは、病気になったら人生終わりだし、干されたら終わり。もう一歩先に、もう一歩とただひたすら走り、走らされる人生が始まった。

たまに思い出しては、現代短歌最近の潮流を知りたくなって、枡野浩一の本を手に取ってみたりはしたものの、ピンとこなかった。

若い頃あれほど好きだった渡辺松男も改めて著作をみると作風が変わったのかと思うほど、何一つ言葉にくすぐられることなく、不感症になっていた。変わったのは自分のほうだ。


それから数十年、あるとき気が付くと、新しい家族が増え、家が建ち、旅行などしている。

そういえば何十年も詩や短歌を目にしていない。寺山修司の本は引っ越しのどさくさでどこかにいってしまっていた。

思春期のことを遠く思い出すようになった。実家の部屋の引き出しにはまだヘンな自作ポエム集が眠ってるはずだ・・。自分死ぬ前にはなんとしても奪取してこないといけない。

中年になっていいかげん自分限界を悟って、ふっと一息いれた、という形だ。

ふと思い出すのが、最初に買った井上靖詩集

 ―― 雪が降って来た。

 ―― 鉛筆の字が濃くなった。

この二行の子供の詩を、何十年も経って思い出す井上靖感覚がとてもよくわかるようになった。


これは人生の楽しみを食に見出して、ワインをたしなむようになってから思ったことでもある。

詩を楽しむということとワインを楽しむことには、ひとつ共通点がある。

どちらもウンチク語ってめんどくさい奴がいる、という意味じゃない。

鉛筆の字が濃くなる、という情景として、勤勉で真摯子供の姿を思い浮かべる、という

文として書かれていることと、書かれていない想像の背景の補完的な関係は、ワイン食事、一緒に食事するひととの関係によく似ている。

ワインの味や香りは、それだけで勿論、それぞれのワインに特徴があるし、品種ビンテージ気候土壌などさまざまな情報がある。

しかワインのおいしさを決めるのはそれだけではない。過去に飲んだ記憶とか、一緒に食べているもの、そしてそのとき話題、体調などに大きく左右される。

だって同じことで、喉が渇いているときの一杯と会議中にやり込められているときの一杯は全然違うはずだ。

マリアージュという言葉があるように、ワイン一種調味料として機能するため、食べ合わせ重要だ。

またワインプロファイル情報あるかないかも味を左右する。

ブラインドで呑むワインはどんな高級ワインだろうが、初見ワインしかない。ワインの特徴まではわかってもそこまでだ。

逆に偽の情報表現かに補完してしまえば、コンビニ販売しているワインを高級ワインと偽って出してもたいていの者には気が付かれないだろう。

ワインを色やら香り、余韻など物理的に因数分解した表現ができても、美味しさは客観的規律として表現することはできない。

詩も同じだと思う。規律ばかりを語るひとがあまりにも多い。本居宣長には悪いけれど、歌をつくるのは道だとしても楽しむのは道じゃないと思うんだよね。

井上靖が「小学校教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。」というとき井上靖にとってその詩に初めて出会ってからの何十年間が効いてくる。井上靖は詩は規律ではなく、詩との出会い方だと教えてくれた人だ。

その情景を自分のなかでセットできるかどうかは、鑑賞眼の問題ではない。

どちらかというと、そのような情景がセットされてしまう、長年の思いの蓄積、その詩と出会ったときメンタル、いわば偶然の力だと思う。

渡辺松男太田美和が並んで歌壇掲載されていたあの空気感にしても、あのとき限りのものだったのだろう。

失恋をして武者小路実篤の詩に慰めれられた思い出もそう。まさに一期一会

先ほど、卒業してから詩どころではなくなったと書いた。

そのとき自分が置かれれる状況やそれまでの経験によっては、詩に対して、鈍感になることだってあるのだ。


ところで、先日、Yahoo芸能ニュースをみていたら、TBSプレバトというバラエティー番組で、俳句を競う企画があって、ある芸人俳句先生から5点と酷評されたと報じていた。

お題は「文房具」で彼女が読んだのは

消しゴムが 白き水面に ボウフラを

というもの。作者は「頑張って勉強して、消しゴムを何回も消すと、消しカスがたくさん出る。それが白いノートにたくさん積もっていると、ボウフラのように見えるという句です」と意味説明したものの、腹が立つ、とまで評者先生にののしられている。

ちょっと間抜けた感じはするものの、正直、なんでそこまで素人俳句酷評されなければならないか理解できなかった。だが、番組演出脚本としてはそれがオチなのだろう。

演出もさることながら、これは、他の出演者俳句が以下のようなものだったことも影響しているように思えた。

迎え梅雨 紙端に滲む 友の文字

虹の下 クレヨンの箱 踊り出す

天王山 黒ずむ袖に 薄暑光

薫風や 隣の君と 教科書

こんなふうに優等生を気取った俳句がずらりと来たら、それは「お約束」として、こき下ろすしかないのかもしれない。

バラエティー番組のなかで俳句を味わうということはつまり、こういうことなのだ。その芸人に対するイメージ作品クオリティが補完されてしまうのだ。

しかし、この句が仮にお笑い芸人ではなく、どこかの学校児童生徒が作ったものであったとしたらどうだろう。

消しゴムをかける姿は、情景としては授業中であることを示唆している。5月番組文房具からまだ気持ちフレッシュだ。だけどがんばろうという気持ちは長続きしない時期でもある。

ぼうふらにみえるほど消しゴムをかけるくらいだから、授業中、何度も消していて、その間、ノートをとる手が止まることになっただろう。

それでも授業はお構いなしに進んでいく。溜まってゆく消しごむのカスからは、授業についていく焦りとともに、生徒のひたむきさ、間違って消すことが多い生徒のどんくささも垣間見られる。

いかげん疲れたかもしれない。めんどくさいと思ったかもしれない。

一方で白い水面(ノート隠喩)は、清潔さや純粋さを象徴している。

ふと手を止めた瞬間に、そこにボウフラがいるようにみえた、というのは、一瞬立ち止まってボウフラ?などとくだらないことを想像してしまった自分の不純さや切れた集中力で抜けてしまった気力(投げ槍感)との鋭い対比となっている。

と、このように解釈すれば、俳句としてむしろ「ボウフラを」で間抜けた形で止めた意味が出てくる。そこから先は、苦笑いなのだ

ボウフラを季語と認めるかどうかはわからない。しかし、純粋に詩としてみれば、消しゴムとボウフラという組み合わせは非常にユニークだ。

また、どんくさいもの弱者がボウフラというノート上のより小さい存在視線フォーカスする、という手法小林一茶方法とも通じるところがある。

番組の評者は、この芸人俳句酷評したうえ、次のような添削をしたという。

しかすはボウフラみたい夏休み

夏休みかよ。口論の途中で勝手に話の前提を変えられたときのような不快感を覚える添削だった。消しかすって文房具じゃないし。

しかし、誰しも詩に対して鈍感になる、そういうことはある。端的にあれバラエティ番組からね。

ただ、私の場合、やっぱり俳句には縁遠いのだろうと思った。俳句がメインのカルチャーであろうとする、優等生を選ぼうとする、そのいやらしさも嫌だ。上品そうな季語を競うかのような世界一種ルッキズムだ。夏休みかいって勝手おめかしさせようとするんじゃねーよ。

そういうところがまさに、かつて私が川柳などのサブカルに引き寄せられるひとつ動機だった。ボウフラにシンパシーを感じる感受性は恐らくはかつて親しんでいた落語川柳で身につけたものだろうからゆりやん一句を悪くないと思うのは邪心かもしれない。そもそも番組ADがテキトーにつくりましたってオチかもしれないんだけどね。

300円でおいしく飲めるワインもあれば、駄作でも楽しめる作品もある。そういうことだと思う。

2024-05-05

ふっくらすずめクラブについて思うこと

ふっくらすずめクラブリニューアルをして早くも1ヶ月以上が過ぎた。

これまでのふっクラを眺めてきて、率直に思うことを書いてみたいと思う。

まずはじめに、私はふっくらすずめクラブに対して元々そんなにいい感情を抱いていなかった。

オモコロチャンネル軌道に乗った所で、姉妹チャンネル?として大々的に始めた第二のバー社員チャンネル

率直に言うと、オモコロチャンネルに比べてパッとしない面子だと思った。

まあでもそれは仕方ない。一軍はオモコロチャンネルに集められているのだから。それに動画になったらまた違う良さがあるかもしれない。かまどがオモコロチャンネル無茶振りされる苦労人として輝いていたみたいに。

そう考えながら視聴したふっくらすずめクラブは、あんまり面白くなかった。

メンバーオモロへのシナジーもなく、ツッコミもなんだかギクシャクしており、おまけに編集クオリティオモチャンに比べてあからさまに低かった。

企画だけならオモコロチャンネルよりよっぽど面白そうな物が多かったのに、パッとしないやり取りでぼんやり進んでぼんやりと終わっていく動画たち。この企画オモチャンでやったらかなり面白そうだなって何度も思った事がある。

今日オモチャンつまらなかったなと思っても、ふっクラを見るといやこれよりは面白いなと思える。要するに私にはふっクラはあんまり合わなかったのだ。合わない物は仕方ない。

私にとってふっクラは、気が向いた時にたまに見て相変わらず面白くなりそうであんまりならないなって思う程度の存在だった。

そんなふっクラも、ほのぼのして仲良しで好きと言ってくれる独自ファンを獲得し、オモコロチャンネルコネをフル活用して、低空飛行ながらもじわじわ成長していった所で例の騒動は起こった。

会社しか友達がいない。

ただでさえうっすらつまらなかったふっクラが、どストレートにめちゃくちゃつまらなくなってしまったのだ。

4月1日のいう日付、週2からいきなり毎日投稿宣言、あまりにもあんまり改名露骨に安っぽくなった動画クオリティ。きっとこれが合わさってのモキュメンタリー騒動だったのだろう。

私はモキュメンタリーなわけねえだろと思ってはいたが、かと言ってモキュメンタリー派を馬鹿にする気にもなれなかった。

だって、何の意図もなくただ急に好きなチャンネルの全てのクオリティが下がるなんてあまりにも残酷すぎるだろう。

モキュメンタリーって言い出した人たちも、ただふっクラを信じたかっただけだろう。いくらふっクラでも、ここまでつまらないのにはきっと意味があるはずと思いたかっただけだろう。

ふっクラになんの思い入れもない私ですら引いたくらいだからファンからしたら相当ショックだっただろう。

ふっクラだからいや純粋に滑り散らかしただけだろと冷静になれただけで、オモチャンが同じようなリニューアルをしたら私もモキュメンタリー説に縋っていたかもしれない。そのくらいには酷い有様だったと客観的に見て思う。

お気持ちがどうこう繊細だなんだとかファンが叩かれてたけど、そりゃ騒ぐだろあん惨事になったら。穏やかに全てを受け入れろ、嫌なら静かに去れなんて無茶だろう。

逆に騒ぐのがおかしいって言ってた人達会社しか友達がいないをいいと思ってるの?マジで?どさくさに紛れて気に食わないファン層叩きたかっただけでは?

まあ感性は人それぞれなので(旧ふっクラが好きってのも個人的にはマジで?って思うし)そこは仕方ないけど、騒いだおかげで会社しか友達がいないがふっくらすずめクラブに戻ったんだから、今回に関しては騒いで正解だったんじゃねと思う。

だって本当にろくでもないし。会社しか友達がいない(笑)大喜利で「嫌すぎるYouTubeチャンネル名、なーんだ?」ってお題の回答として出しても違和感ないレベルじゃん。

ふっくらすずめクラブがいいチャンネル名なのか?って言われたら別に…とも思うけど少なくともうわぁ…とは思わないからなあ。その差はでかい

あんまりきじゃないはずのふっクラにこんなつらつらと色々お気持ちを書いてしまったので、なんだかんだで私はふっクラに思い入れがあるのかもしれない。この感情がかまどの言う落語なのだろうか。わからん

オモコロチャンネルにこんな長文書く気一切おきねえもん。だってオモチャンは面白いから。週5で面白くなるって言って、今の所本当に面白いから。

方向性を全く変えずに数だけ増やした。これこそふっクラの行くべき姿だったんじゃないだろうか。今の動画なに?内輪受け特化に舵切ったの?なんで?それで人気出るほどメンバーに華ないだろ。

YouTuberである前に会社員だし、動画なんて裏方の存在もかなりでかいから内部で色々あったのかもしれないけど、それにしたってあんまりだろう。

最後に、改名が滑ったとふっクラ側は認識しているっぽいけど、それは違う、全てが滑ってたか炎上してあん露骨再生数下がってんだぞと言いたい。

2024-05-03

見せ算

さや香落語の「つぼ算」に着想を得たのかな、と思ったりもしたが全然そうじゃなかった。


つぼ算」、ドラえもんのび太ジャイアンアイスお金も奪われるエピソードがあったが、これが元ネタね。

2024-05-01

ハンサム落語」に失望した愚痴

けっこう前に見に行った舞台に出ていたへっぼこ役者愚痴が今さらふつふつと再沸騰したので吐き出し。

推しが「ハンサム落語」というシリーズ企画舞台に出たので見に行った。事前発表のビジュアル写真衣装も素敵で、落語俳優二人組の掛け合いで演じるというコンセプトも気になった。

舞台当日は推しのいろいろな側面や、様々な役を演じ分ける演技力の高さや、好みのビシュをバッチリ堪能した。その舞台ならではの企画もあり、舞台のものはとても楽しめたし行って良かった。演出音楽美術もすべてが最高だった。

ただ、共演者に何人かへっぼこ役者いたことだけがずっともやもやしている。悪ふざけが過ぎる連中だった。その場のノリで悪ふざけをして姑息に場を引っ掻き回せば「ウケる」と思っている連中だった。

彼らの演目は酷かった。舞台のコンセプトとして落語を演じる以上は、その元ネタに敬意を払って欲しかった。

古典芸能には「守破離」があり、習熟度に応じて型を守る、型を破る、型から離れる、という段階がある。その舞台シリーズに何度も出演経験があるらしいへっぼこたちは、「今さら真面目に演じてもサムいだけ」とでも考えていたのだろうか。それとも生来の悪ふざけ好きなのだろうか。

とにかく落語登場人物を茶化し、その型を破ることに腐心していた。

そしてその悪ふざけはあまりにもサムかった。古典芸能は、洗練されているがゆえに古典となっている。長い年月を経ても消えなかった落語たちを、小手先姑息にイジって面白くなるわけがない。そのイジり方で面白くなるのであれば、先人たちがすでにそうしている。それでは面白くないからこそ、今の型で伝承されてきているのだ。

古典という根のしっかり生えた樹齢数百年の大木相手に、枝葉を追って笑いを誘うような真似はあまりにも無様であり、気分が悪かった。

リハーサルと異なる演技をしたり、女性役をオッサン風に演じてみたり、悪ふざけのすべてが「出オチ」でしかなく、出オチで一瞬の笑いを取った後はひたすらに寒かった。

私の推し初心者らしくしっかりと型を守って演技をしていて、生真面目なその役者としての在り方を見てまずす好きになった。

そしてさすがは落語、見よう見まねでも初心者でも、きちんとやればそれなりに面白くなる。役者さんが演じるから演技はうまいしか企画が素晴らしく、掛け合いを二人組で演じるところがミソで、初心者役者でもちゃん落語として見られる仕上がりになる。

真面目に演じればそれだけできちんと面白ものになる舞台だ。しか落語にはさまざまな登場人物が出る。推しが一舞台でいくつもの役を演じ分ける様を見られたのは大満足だった。

へっぼこたちはそんな推しを巻き込んでくだらない悪ふざけをした。そしてへっぼこたちの演目は余りにもつまらなかった。

から推し活躍には満足しつつ、ずっとがっかり感を抱えている。推しが良かったんだからいいじゃないか、と思う一方で、古典落語を粗末に扱うへっぼこ役者を目の当たりにしたのが残念だった。

舞台のコンセプト、企画演出脚本美術音楽衣装もグッズもなにもかも素晴らしかった。和洋折衷の色っぽい衣装も、演目を切り替えるとき演出も、お洒落な照明も、客入れの案内からグッズ販売スタッフまで感じが良かった。

からこそ、悲しい。

へっぼこ役者たちはこの舞台常連らしい。つまりあれだけの舞台を作り上げられる企画グループが、あのへっぼこ役者たちの悪ふざけを良しとして、繰り返しオファーしているのだ。

私は「あのへっぼこ役者さえいなければ素晴らしかったのに」と思っているが、へっぼこ役者たちの悪ふざけが企画者の本意ならば、この舞台に関しては私の方こそ「お門違い」なのだ

あの素敵な舞台から「お前はうちの客じゃない」と言われた気がした。好きになったから、悲しかった。

どんな漫画ドラマ小説舞台も、自分が楽しめなければ悪いのは自分だと思っている。ただ、Not for meなだけだ。作品に「私好みじゃなかったんですけど!」と言っても意味はない。ただ去るのみだ。

多分もう見に行かないと思う。すくなくともあのへっぼこ役者が出ている回は。

今日たまたま配信で見た舞台作品に、一番へっぼこに悪ふざけが過ぎた役者が出ていた。やっぱり悪ふざけしていて、そのくせ声量がなくてダサくてやっぱり寒かった。第一印象が悪すぎてもうよく見えることはなさそうだ。

2024-04-15

落語は疲れる

落語を聞きに行った

弟子

師匠

弟子

師匠

休憩10分

師匠

で3時間

youtubeばっか見てて集中力10しか持たない体になってしまったものにとって

一人喋りを長時間聞くのがきつかった。

弟子はやはりヘタクソで初めは気を付けていたようだがだんだん演じ分けがあやふやになってきていた。

その点師匠はうまかった。長い噺では落語を中断して彼の師匠逸話を入れて見たり。

とはいえ疲れた

それと隣のおっさんがとにかく一人大声で笑うのにも閉口した。

まあ完全に笑いに来てるんだろうな。

年齢層はやはり高く75歳くらい?

顔見知りらしく(後援会?)皆あいさつを交わしていた。

師匠の噺は面白かったけれどそれでも同じ人から3本はきつい。

次行くのなら師匠クラス3人くらいがいいなと思った。

それと舞台の美しさ

真っ暗の中に輝く、屏風と座布団には感動した、

2024-04-07

笑える記事の書き方

北海道の美味しい牛乳を飲んだ体験談を書くとします。

この牛乳、美味しかったです。

これだとつまんないじゃん。

大笑いできたって人

人生めっちゃ楽しそう

うらやましい

面白い記事を書くなら

参照したらいいかなって。

体験談レビューしてる記事

落語芸能漫画ドラマなどなど

コメディを見る

みて、要素を真似する

2024-04-03

anond:20240403160911

弱点を公言すると嫌がらせしたいやつがやってくるって饅頭怖いの落語だな

2024-03-19

ダンジョンズ&ドラゴンズ落語とか

上手くそういうの取り入れて題材にした落語あったら普通に面白いと思う。

現代落語でそういうのやってる人居ないのかな?

意外と面白そうじゃない?

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