はてなキーワード: 落語とは
https://twitter.com/shiraku666/status/1822233433948459115
嫌なのがここぞとばかり彼女のこれまでの非礼を取り上げてフワちゃん叩きを発信するタレントやコメンテーター連中。普段から言えよ。卑怯者。まさに水に落ちた犬を叩く。それと批判はいいが、彼女に対してネットで罵詈雑言をいう人々。フワちゃんがやす子に言った言葉とどう違うのか?ちなみに落語は、人間は弱いもの、間違える生き物だと教えてくれる。それを良いと言っているのではない。人間とはそんなもんだと認めてあげる。それが落語。
ネットやメディアが絡まない場面では「ぐうの音も出ないような正論」ではある。
私もぜひこれが正論として成り立つ世の中であってほしい。
しかしSNSが出来てしまい、これがPV至上主義と合体してしまってる以上、もはやこれは正論ではない。
ただのスローガンでしかない。しかも志らくさんのようなエスタブリッシュメントにとって都合の良い、ね。
今の世の中、SNSで影響力に格差がありすぎるから、落ち目でない間はたとえ間違っている人でもケチを付けたらケチをつけた側が殺されるし、言えたとしても黙殺されて終わりだ。
一度水に落ちてくれない限りまともに文句が言えないし言っても意味がない。(森川ジョージ先生みたいに合わせてくれる人もいるが、基本的には無視するかファンネルに叩き潰させるかだ。)
その声が大きくなって無視できなくなって初めて視界に入ってきただけ。
で、無視できなくなった途端に、メディアが手のひら返して騒ぎだしただけ。
そこまでして初めてようやくあなたの視界に入っただけ。
そこまでやらない限り、あなたがたはすべての批判を無視してなかったことにしてるだけ。
今ってそういう構造ですよね。
だから金を払ってでもPVやフォロワーを稼いで、インフルエンサーになりたがる人が多いんじゃないですか。
そういう構造なわけ。
こんなん男女格差とかよりはるかにわかりやすく、誰の目にもわかりやすく数字として示されてる。
しかもこれって今年とか去年に始まった話じゃない。
そういう構造になってしまっているからこそ、暇空さんや石丸さん、トランプさんみたいな人が求められるようになってしまったんじゃん。
こういう人たちが求められる世の中ほんとにやだけど、そういう構造を作ってるの貴方がたじゃないですかヤダー!
上手くいってる間は、PVを稼いで売上に貢献してる間はちやほやしろってこの構造の恩恵をフルに受け取っておきながら何いってんだか。
時代錯誤も甚だしい。
そんなにこの構造が嫌なら、お前が10年前からメディアを批判しろや。Twitterアカウントを一時的に止めて抗議しろや。
お前らの無為のせいで今この状況になってるのに、ほんまなにいってんのこのおっさんとしか思わんわ。
いじめを放置しておいて、いざその学校の生徒が自殺したり不祥事を起こしてから「加害者に対してバッシングは良くない。普段からいじめはよくないと言え」って言ってるようなもん。
普段から言っとるわ。その声を握りつぶしてるのはだれだよお前だろ。
もっと人殺しの顔をしてほしい。 何善人ぶってるんだ。信じられない。
こういう「一見受けが良いことを言って人気を得ようとする軽薄さ」はさすが落語家って感じがする。哲学とかそういうものを一切感じない。
今のリンチはメディアがGOサインを出してることが一番大きな問題なので、一番最初に批判スべきはメディアなのに、そっちはお金もらってるから何も言わない。
一人だけ恥というものを知らないから格好つけて的はずれなことを吠えている。
見ているだけで恥ずかしい。共感性羞恥がすごい。
これ (https://anond.hatelabo.jp/20240702181549) を書いた者だけど、皆さん色々アドバイスありがとうございました。
トラバもブコメも思ったより優しい言葉が多くて良い意味でびっくりした。
休職し始めて一か月くらい経ち、幸いなことに調子は戻ってきて、
会社も復職を段階的に進めてくれるとのことなので、8月後半から復職し始める予定。
休んでみて、休職前の一年は職場環境も自分のメンタルも劣悪な状態だったな…と客観視できて、
それだけでも一旦休んだ意味はあったなと思っている。
備忘として、この一か月でやってみて良かったことと悪かったこと、やらないようにしたことをメモする。
同じ境遇の人が何するか迷った時の参考になれば幸い。
メインでやったことの1つ。やったことなかったけど海釣りにチャレンジした。主にシーバスを狙って、場所探したり釣り方をyoutubeで見たり。
全然釣れてないけど、潮の満ち引きとか釣りスポット探しとか、トライ&エラーが楽しくて良いリフレッシュになった。
完全に一人で行ったので、同行者の時間や釣果を気にせずに「今日は上手くルアー投げれたからよかったな」「魚は居たからスポット選びは合ってる」とか自己満足できたのも良かったかもしれない。
ただ、朝マヅメを狙ってほぼ徹夜で釣りに行ったらそこから3日間体調を崩した…。体力的に無理は出来ないことも実感できたのが副産物か。
あとは、管理釣り場の釣りもまたやろうと思っているので道具を買ったり。釣り楽しいね。
これもよかった。大学時代や転職前の友人、昔のバイト先の人と会ったりした。
仕事で疲弊することや休職が特別ではないことを感じられたり、自分では考えてなかった楽しい活動をオススメしてくれたり、前向きになれた。
「仕事に関わらず個人として気にかけてくれる人が居る」と実感できたのも、肩の荷がおりる思いだった。
エアロバイク、腕立て伏せ、スポーツセンターのジム、Fitボクシングなど、ほぼ毎日どれか1つは実施した。
ゲームや読書しながらエアロバイク30~60分→終わったら腕立て、のセットが一番やりやすかった。
あと、プライムデーで安くなってたからプロテイン買ってみたけど、最近のプロテインは滅茶苦茶美味くなってるのに驚き。10年前はもっと粉っぽかった。
全くコミュニケーション出来なくなっていないか心配だったけど、まぁまぁ話せてよかった。
こういう「何かタメになりそう」感がある活動は心の慰みになる。
今まで読みたかったけど保留していた漫画・本・ゲームを進めた。
コロコロ無料開放してたから色々一気読みしたけど、ゴクオーくんがすごく面白かった。青年漫画や少年漫画と比べても遜色ない名作。
ゲームはティアキンと、MTGアリーナ。どちらも時間が溶けすぎるのでほどほどにしないとと思って、昼間はあまりやらないようにしていた。
最低限やらないといけないのでやったことでもあるが、社会との接点になってよかった。
落語やミュージカルなど。純粋に楽しいし、一日に時間が定まった予定を入れることで、生活のリズムの補助になる。
ある意味一番大事だったかも。どんなことも、無理しすぎないでやりたくなったらやる。
家族と買い物したり、ゆっくり過ごしたり。仕事なんかより家族が大事だなぁと改めて感じた。
一回外に出て日光を浴びると一日が始まる気がする。
休職始めの1~2週間は「転職も考えてみるか」と転職サイトやエージェントとの面談を何回かやってみたけど、調子が戻ってない状態で転職理由を説明したり相手から値踏みされるのはメンタルが疲労してしまった。
休職中であることを隠すか、どう説明するかとか余計なことを考えないといけないのも疲労の一因だったので、休職中の転職活動は自分には向いていなかった。
負けた。やらんほうがよかった。
折角だから遠出の計画を立ててみたけど、暑すぎる&ゲリラ豪雨が怖いので断念した。昼間は一時間走るだけで頭がゆで卵になりそう…。
同上。やるなら春と秋だね。
やろうと思えば朝から飲み始められるが、一段とマズいことになりそうなのでやめておいた。
働いてた頃より酒量が減ったのはよかった。
ChatGPT
はい、「まんじゅうこわい」は古典落語の有名な演目の一つです。この物語は、ある男が「まんじゅう(和菓子)が怖い」と嘘をついて、他の人たちがその嘘を信じてまんじゅうを彼のところにたくさん持ってくる話です。彼は実はまんじゅうが大好きで、この嘘を利用してまんじゅうをたくさん手に入れます。この話は、欲張りや嘘の愚かさを面白おかしく描いています。
「まんじゅうこわい」に完全に一致する英語のことわざや言い回しはありませんが、似たような概念を持つフレーズとして「Reverse psychology(逆心理学)」があります。これは、人が望んでいることを手に入れるために、あえてその逆のことを言う技術を指します。
例えば、「I don't want any chocolate, it's too sweet for me」と言って、本当はチョコレートが欲しいことを暗に伝えるような状況です。「まんじゅうこわい」の場合も、主人公がまんじゅうを怖がるふりをすることで実際にはたくさんのまんじゅうを手に入れるので、逆心理学の一例と言えるでしょう。
Claude
はい、「まんじゅうこわい」という言葉を知っています。これは日本の有名な落語の演目のタイトルです。
この落語は、まんじゅうが怖くて食べられない男性の滑稽な物語です。主人公は、子供の頃にまんじゅうを喉に詰まらせた経験から、まんじゅうに対する強い恐怖心を持つようになりました。
物語の中で、主人公はさまざまな状況でまんじゅうに遭遇し、それを避けようとする姿が描かれます。この落語は、不合理な恐怖心や固定観念をユーモアたっぷりに描いており、聴衆を楽しませると同時に、人間の心理についても考えさせる内容となっています。
Gemini
「まんじゅうこわい」は、古典落語の演目の一つで、広く知られた噺です。あらすじは以下の通りです。
長屋の若い衆が集まって、「怖いもの」の話をしていました。へび、たぬき、クモ、こうもり、毛虫、アリなど、様々な怖いものが話題に上がります。しかし、松つぁんだけは、怖いものが何もないらしいのです。
ところが、松つぁんには、なんと「まんじゅう」が怖いという秘密がありました。名前を聞くのも、見るのも、言うのも、触るのも、全てが怖いというのです。
この話を聞いた若い衆たちは、松つぁんをからかおうと、まんじゅうを使って様々ないたずらをします。障子に穴を開けてまんじゅうを見せたり、まんじゅうを投げつけたり、まんじゅうを枕元に置いて寝かせたりと、松つぁんを次々と恐怖に陥れます。
しかし、松つぁんは必死に我慢し、ついにまんじゅうを食べる決心をするのです。そして、一口食べてみると、まんじゅうは想像以上に美味しくて、松つぁんの恐怖は消えてしまいます。
こうして、松つぁんはまんじゅうの恐怖を克服し、若い衆たちからも尊敬されるようになったというお話です。
「まんじゅうこわい」は、ユーモラスな語り口と意外な展開で、多くの人々に愛されている落語作品です。また、克服できない恐怖心を持つ人間心理をコミカルに描いた作品としても評価されています。
一言では何も表してないし解らないから聞いてきてるのだろ?称賛してるブクマカ大丈夫か?
相手の目線にすら立てない人間が「人として接する」ことを語ってるのだけど、俺は落語でも見せられてるのか?
わからないと聞いてきた相手に返す言葉じゃないし、そんな言葉から始まったら書いてある内容なんて素直に頭に入るわけがない。
「厳しさは愛情」とか言うなよ。それはハラスメントをする側の常套句でしかないからな。
元増田もこんな増田の書いてあることなんて鵜呑みにせず、わからないならわからないままでどうすれば「人として接すること」ができるのかを悩み続けることが一番大事だ。
なぜなら、人には育ってきた人の数だけ歴史があるし、それにあなたのそうした良心を利用して騙そうとしてくる人間だっているからだ。
あなたが心底大事にしたいと思えた相手がいれば、その相手の歴史や背景を、聞き出すのではなく行動から見極める。
話しかけた言葉の一つ、プレゼントしたときのリアクション一つ、他人と自分に対する反応の違いの一つ一つをじっくりと観察して、相手に寄り添うとは何かを考えれば良い。
ただ、1点、注意すべきことがあるとしたら、相手の言葉だけを信じてはダメだ。何を言ったかより何をやったかを積み上げていこう。
言葉は嘘を付く。行動も嘘を付くがその積み重ねは本当になる。
そうやって不器用ながらも積み重ねて作り上げるものが「人として接する」という結果になっていく。
人には得手不得手があるのは仕方ない。
苦手なら人よりもじっくり時間をかければいい。
得意な人と同じだけの人間と仲良くなろうなんて考える必要はない。
相手の感情も好き嫌いも権利も尊厳も無視して、自分の都合のためだけに扱うこと。
ブクマカからのしょうもない承認欲求欲しさに、君という尊厳を踏みにじってモノ扱いした。
世の中は、こうやって口ではわかったようなことをいいながら自らの行動の矛盾に気づかない人間ばっかりで本当にうんざりする。
老婆心ながら一つアドバイスをするなら、相手を大切に思いたいなら、相手の大切に思っているものを大切に思ってやってくれ。
なぜなら、あなたのその大切にしたい相手は、その相手が大切にしてきた色々なもので作り上げられているからだ。
それができるようになれば「人として接する」を超えて「大切な人として接する」ことができるようになる。
相手の心を開くことは簡単ではない。ダメなときはダメと諦めることも肝心だ。
どちらにしても、何かを押し付けているようであれば、それは「ものとして接する」以外にはならない。
そこに男女の差はない。
とっかかりの部分では多少なり異性、同性の抵抗感はあるかもしれないが、人の心の深い部分に限ってはその差は存在しない。
この2つで考えていけば、もしかしたら元増田は心優しい人間になれるかもしれない。
落語なら「宿替え」があるのに。
もう人生の折り返し点をすぎて久しい。目を通す文字は、仕事の書類ばかりとなった昨今。
でも小学校高学年から中学生にかけての頃に、文学少女に憧れた時期があった。
書店の奥のほうにいっては新潮文庫コーナーで、適当に数冊手に取っては解説に目を通したりしていた。
生まれて初めて自分で買った詩集は、井上靖の詩集だった。小学校5年生か6年生の頃だと思う。
頁を開いたとき、これは詩なの?というのが最初の感想だった。普通に文章だったからだ。
調べてみると、井上靖の詩は、散文詩という形式らしい。なにが自分の知っている詩と違うのだろうというところで
「韻」という言葉もその時初めて知った。
井上靖の詩集を手に取ったのは、国語の教科書に載っている著者の本でなるべく読みやすそうなものを探したからだった。
というわけで、あすなろ物語のついでに手にしたのが、人生最初の詩集だった。
小中学生の頃、国語の授業で、詩や短歌に少し関心をもった私は、韻を踏む、という作法が苦手だった。
季語などルールがあったり、韻で楽しめなければならない、みたいなものが短歌や俳句だとすると、ちょっと縁がないなと。
特に覚えているのは、中学校の時習った在原業平の短歌に、かきつばたを詠みこんだものがあるが、韻だけでなく、言葉のニュアンスにいろいろな仕掛けを作らないと詩として成立しないのかと思うと到底自分には向いてないジャンルだった。しかし、そうはいっても、短い言葉で何かを表現してみたいという思いは消えず、ひそかに詩集をつくって引き出しの奥底にいれていた。
幼少の頃、川辺の石段の下で手を洗っているとき不意に石鹸が手元を離れ、深みに落ちていったという情景の詩があった。その喪失感をその後の人生でも刻まれているという内容だった。これなら自分でも書けるかもしれない、と思った。
自分の世界の表現の仕方や詩の味わい方を学べたのも井上靖の詩の影響が大きかった。
例えば、雪という詩がある。
雪
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
こういう二行の少年の詩を読んだことがある。
みつけた詩だ。雪が降って来ると、
私はいつもこの詩のことを思い出す。
中学生の私は、なるほどと思った。
詩というのは、雪が降って鉛筆の字が濃くなったという描写やその言葉のなかにあるのではなくて、物語は書かれてない背景のなかにあるのだなと。
鉛筆の字という描写だけだったら、だから何?という感想しかない。しかし、鉛筆を持つ誰かの表情を想像し、その背景を想像して足してあげることで一枚の絵になる。
当時、大好きだった先輩が「友情」を読んで感動したといっていたので、友情ともう一冊詩集を手に取った。その後しばらくして、私の失言が原因で先輩は私からフェイドアウトしていった(つまりフラれた)ので文学をダシに先輩と仲良くなろうという作戦は失敗した。しかし、武者小路実篤の詩はそんな私をなぐさめる言葉にあふれていた。
いじけて 他人にすかれるよりは 欠伸(あくび)して他人に嫌われる也 夏の日。 嫌う奴には嫌われて わかる人にはわかってもらえる 気らくさ。
ほどなくして、種田山頭火という自由律俳句というジャンルを知った。
山頭火は面白い。普通の俳句じゃないところがいい。規律から解放されるってすばらしいことだと。
定型詩嫌いな私にとっては、ある意味で、俳句短歌のエントリーポイントとなって、
しかし俳句は、季語の煩わしさにどうしてもなじめず、自分には遠い世界のままだった。
いつしか手にしていたのは、興津要の解説する江戸川柳 誹風柳多留だった。古典落語にはまり始めた時期だった。
剣菱という酒を飲むことを江戸時代の人が剣菱る(けんびる)と言っていた、など、現代の言語感覚と近い、興味深いことがいろいろと書かれていた。
その後は巴毎晩組み敷かれ
木曽義仲の元を離れ、和田義盛に見初められ身柄を預けられた巴御前、ネトラレ系の元祖ともいうべき味わい。思春期の私はこうした江戸時代の川柳で妄想たくましく想像し、手が動いた。五七五だったら、こっちの世界のほうが楽しい。
一方、短歌のほうは、というと、当時の朝日歌壇は毎週とても楽しみにしていた。
俵万智のサラダ記念日がベストセラーになったからというのとは全く関係なく、プロではなく、市井のいろいろな人が短歌を詠んでいるということが興味深かった。
例えば、こんな一首。
あさま山荘事件を起こした連合赤軍の幹部、坂口弘が収監中の東京拘置所から毎週のように短歌を朝日歌壇に投稿していた頃だ。
朝日歌壇では他にも穂村弘がいた。短歌の表現する世界の幅広さを朝日歌壇で知った。
風花って知っていますか
渡辺松男と太田美和は実社会で互いに関係があるわけではなく、それぞれの思いを歌に込めていたのだと思うけど、なぜか不思議と互いに呼応し合うものがあった。これは当時の歌壇をリアルにみていた人にしかわからないことだけど。雨の森や樹々など独特の世界観を表現する渡辺松男に対して、雨の日に部屋にこもれば憂鬱が発酵すると詠んだりする太田美和。
実生活で恋をしていた私は太田美和の言葉に自分を重ね合わせた。
でもこのころが私の文学少女期のおわりだった。
大学を卒業したものの、就職できずに苦しむ時期がやってきた。就職氷河期というやつだ。
生活が一変した。
書店で立ち寄るのは、奥の文庫コーナーではなく、店の前の新刊コーナーであり、資格取得のコーナーだった。
世の中からどんどんと取り残されてゆく焦りでいっぱりになっていた。
山頭火も武者小路実篤もへったくりもない、そんなことより面接と資格だ!という日々。
就職が決まってからは、病気になったら人生終わりだし、干されたら終わり。もう一歩先に、もう一歩とただひたすら走り、走らされる人生が始まった。
たまに思い出しては、現代短歌の最近の潮流を知りたくなって、枡野浩一の本を手に取ってみたりはしたものの、ピンとこなかった。
若い頃あれほど好きだった渡辺松男も改めて著作をみると作風が変わったのかと思うほど、何一つ言葉にくすぐられることなく、不感症になっていた。変わったのは自分のほうだ。
それから数十年、あるとき気が付くと、新しい家族が増え、家が建ち、旅行などしている。
そういえば何十年も詩や短歌を目にしていない。寺山修司の本は引っ越しのどさくさでどこかにいってしまっていた。
思春期のことを遠く思い出すようになった。実家の部屋の引き出しにはまだヘンな自作ポエム集が眠ってるはずだ・・。自分が死ぬ前にはなんとしても奪取してこないといけない。
中年になっていいかげん自分の限界を悟って、ふっと一息いれた、という形だ。
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
この二行の子供の詩を、何十年も経って思い出す井上靖の感覚がとてもよくわかるようになった。
これは人生の楽しみを食に見出して、ワインをたしなむようになってから思ったことでもある。
詩を楽しむということとワインを楽しむことには、ひとつ共通点がある。
どちらもウンチク語ってめんどくさい奴がいる、という意味じゃない。
鉛筆の字が濃くなる、という情景として、勤勉で真摯な子供の姿を思い浮かべる、という
文として書かれていることと、書かれていない想像の背景の補完的な関係は、ワインと食事、一緒に食事するひととの関係によく似ている。
ワインの味や香りは、それだけで勿論、それぞれのワインに特徴があるし、品種やビンテージ、気候土壌などさまざまな情報がある。
しかしワインのおいしさを決めるのはそれだけではない。過去に飲んだ記憶とか、一緒に食べているもの、そしてそのときの話題、体調などに大きく左右される。
水だって同じことで、喉が渇いているときの一杯と会議中にやり込められているときの一杯は全然違うはずだ。
マリアージュという言葉があるように、ワインは一種の調味料として機能するため、食べ合わせは重要だ。
ブラインドで呑むワインはどんな高級ワインだろうが、初見のワインでしかない。ワインの特徴まではわかってもそこまでだ。
逆に偽の情報を表現豊かに補完してしまえば、コンビニで販売しているワインを高級ワインと偽って出してもたいていの者には気が付かれないだろう。
ワインを色やら香り、余韻など物理的に因数分解した表現ができても、美味しさは客観的な規律として表現することはできない。
詩も同じだと思う。規律ばかりを語るひとがあまりにも多い。本居宣長には悪いけれど、歌をつくるのは道だとしても楽しむのは道じゃないと思うんだよね。
井上靖が「小学校の教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。」というとき、井上靖にとってその詩に初めて出会ってからの何十年間が効いてくる。井上靖は詩は規律ではなく、詩との出会い方だと教えてくれた人だ。
その情景を自分のなかでセットできるかどうかは、鑑賞眼の問題ではない。
どちらかというと、そのような情景がセットされてしまう、長年の思いの蓄積、その詩と出会ったときのメンタル、いわば偶然の力だと思う。
渡辺松男と太田美和が並んで歌壇に掲載されていたあの空気感にしても、あのとき限りのものだったのだろう。
失恋をして武者小路実篤の詩に慰めれられた思い出もそう。まさに一期一会。
そのときに自分が置かれれる状況やそれまでの経験によっては、詩に対して、鈍感になることだってあるのだ。
ところで、先日、Yahooの芸能ニュースをみていたら、TBSのプレバトというバラエティー番組で、俳句を競う企画があって、ある芸人が俳句の先生から5点と酷評されたと報じていた。
消しゴムが 白き水面に ボウフラを
というもの。作者は「頑張って勉強して、消しゴムを何回も消すと、消しカスがたくさん出る。それが白いノートにたくさん積もっていると、ボウフラのように見えるという句です」と意味を説明したものの、腹が立つ、とまで評者先生にののしられている。
ちょっと間抜けた感じはするものの、正直、なんでそこまで素人の俳句が酷評されなければならないか理解できなかった。だが、番組の演出・脚本としてはそれがオチなのだろう。
演出もさることながら、これは、他の出演者の俳句が以下のようなものだったことも影響しているように思えた。
虹の下 クレヨンの箱 踊り出す
天王山 黒ずむ袖に 薄暑光
薫風や 隣の君と 教科書を
こんなふうに優等生を気取った俳句がずらりと来たら、それは「お約束」として、こき下ろすしかないのかもしれない。
バラエティー番組のなかで俳句を味わうということはつまり、こういうことなのだ。その芸人に対するイメージで作品のクオリティが補完されてしまうのだ。
しかし、この句が仮にお笑い芸人ではなく、どこかの学校の児童生徒が作ったものであったとしたらどうだろう。
消しゴムをかける姿は、情景としては授業中であることを示唆している。5月の番組で文房具だからまだ気持ちはフレッシュだ。だけどがんばろうという気持ちは長続きしない時期でもある。
ぼうふらにみえるほど消しゴムをかけるくらいだから、授業中、何度も消していて、その間、ノートをとる手が止まることになっただろう。
それでも授業はお構いなしに進んでいく。溜まってゆく消しごむのカスからは、授業についていく焦りとともに、生徒のひたむきさ、間違って消すことが多い生徒のどんくささも垣間見られる。
いいかげん疲れたかもしれない。めんどくさいと思ったかもしれない。
一方で白い水面(ノートの隠喩)は、清潔さや純粋さを象徴している。
ふと手を止めた瞬間に、そこにボウフラがいるようにみえた、というのは、一瞬立ち止まってボウフラ?などとくだらないことを想像してしまった自分の不純さや切れた集中力で抜けてしまった気力(投げ槍感)との鋭い対比となっている。
と、このように解釈すれば、俳句としてむしろ「ボウフラを」で間抜けた形で止めた意味が出てくる。そこから先は、苦笑いなのだ。
ボウフラを季語と認めるかどうかはわからない。しかし、純粋に詩としてみれば、消しゴムとボウフラという組み合わせは非常にユニークだ。
また、どんくさいもの、弱者がボウフラというノート上のより小さい存在に視線をフォーカスする、という手法は小林一茶の方法とも通じるところがある。
番組の評者は、この芸人の俳句を酷評したうえ、次のような添削をしたという。
夏休みかよ。口論の途中で勝手に話の前提を変えられたときのような不快感を覚える添削だった。消しかすって文房具じゃないし。
しかし、誰しも詩に対して鈍感になる、そういうことはある。端的にあれバラエティ番組だからね。
ただ、私の場合、やっぱり俳句には縁遠いのだろうと思った。俳句がメインのカルチャーであろうとする、優等生を選ぼうとする、そのいやらしさも嫌だ。上品そうな季語を競うかのような世界は一種のルッキズムだ。夏休みとかいって勝手におめかしさせようとするんじゃねーよ。
そういうところがまさに、かつて私が川柳などのサブカルに引き寄せられるひとつの動機だった。ボウフラにシンパシーを感じる感受性は恐らくはかつて親しんでいた落語や川柳で身につけたものだろうから、ゆりやんの一句を悪くないと思うのは邪心かもしれない。そもそも番組ADがテキトーにつくりましたってオチかもしれないんだけどね。
ふっくらすずめクラブがリニューアルをして早くも1ヶ月以上が過ぎた。
これまでのふっクラを眺めてきて、率直に思うことを書いてみたいと思う。
まずはじめに、私はふっくらすずめクラブに対して元々そんなにいい感情を抱いていなかった。
オモコロチャンネルが軌道に乗った所で、姉妹チャンネル?として大々的に始めた第二のバーグ社員のチャンネル。
率直に言うと、オモコロチャンネルに比べてパッとしない面子だと思った。
まあでもそれは仕方ない。一軍はオモコロチャンネルに集められているのだから。それに動画になったらまた違う良さがあるかもしれない。かまどがオモコロチャンネルで無茶振りされる苦労人として輝いていたみたいに。
そう考えながら視聴したふっくらすずめクラブは、あんまり面白くなかった。
メンバーのオモロへのシナジーもなく、ツッコミもなんだかギクシャクしており、おまけに編集のクオリティもオモチャンに比べてあからさまに低かった。
企画だけならオモコロチャンネルよりよっぽど面白そうな物が多かったのに、パッとしないやり取りでぼんやり進んでぼんやりと終わっていく動画たち。この企画オモチャンでやったらかなり面白そうだなって何度も思った事がある。
今日のオモチャンつまらなかったなと思っても、ふっクラを見るといやこれよりは面白いなと思える。要するに私にはふっクラはあんまり合わなかったのだ。合わない物は仕方ない。
私にとってふっクラは、気が向いた時にたまに見て相変わらず面白くなりそうであんまりならないなって思う程度の存在だった。
そんなふっクラも、ほのぼのして仲良しで好きと言ってくれる独自のファンを獲得し、オモコロチャンネルのコネをフル活用して、低空飛行ながらもじわじわ成長していった所で例の騒動は起こった。
ただでさえうっすらつまらなかったふっクラが、どストレートにめちゃくちゃつまらなくなってしまったのだ。
4月1日のいう日付、週2からいきなり毎日投稿宣言、あまりにもあんまりな改名、露骨に安っぽくなった動画のクオリティ。きっとこれが合わさってのモキュメンタリー騒動だったのだろう。
私はモキュメンタリーなわけねえだろと思ってはいたが、かと言ってモキュメンタリー派を馬鹿にする気にもなれなかった。
だって、何の意図もなくただ急に好きなチャンネルの全てのクオリティが下がるなんてあまりにも残酷すぎるだろう。
モキュメンタリーって言い出した人たちも、ただふっクラを信じたかっただけだろう。いくらふっクラでも、ここまでつまらないのにはきっと意味があるはずと思いたかっただけだろう。
ふっクラになんの思い入れもない私ですら引いたくらいだから、ファンからしたら相当ショックだっただろう。
ふっクラだからいや純粋に滑り散らかしただけだろと冷静になれただけで、オモチャンが同じようなリニューアルをしたら私もモキュメンタリー説に縋っていたかもしれない。そのくらいには酷い有様だったと客観的に見て思う。
お気持ちがどうこう繊細だなんだとかファンが叩かれてたけど、そりゃ騒ぐだろあんな惨事になったら。穏やかに全てを受け入れろ、嫌なら静かに去れなんて無茶だろう。
逆に騒ぐのがおかしいって言ってた人達は会社にしか友達がいないをいいと思ってるの?マジで?どさくさに紛れて気に食わないファン層叩きたかっただけでは?
まあ感性は人それぞれなので(旧ふっクラが好きってのも個人的にはマジで?って思うし)そこは仕方ないけど、騒いだおかげで会社にしか友達がいないがふっくらすずめクラブに戻ったんだから、今回に関しては騒いで正解だったんじゃねと思う。
だって本当にろくでもないし。会社にしか友達がいない(笑)。大喜利で「嫌すぎるYouTubeチャンネル名、なーんだ?」ってお題の回答として出しても違和感ないレベルじゃん。
ふっくらすずめクラブがいいチャンネル名なのか?って言われたら別に…とも思うけど少なくともうわぁ…とは思わないからなあ。その差はでかい。
あんまり好きじゃないはずのふっクラにこんなつらつらと色々お気持ちを書いてしまったので、なんだかんだで私はふっクラに思い入れがあるのかもしれない。この感情がかまどの言う落語なのだろうか。わからん。
オモコロチャンネルにこんな長文書く気一切おきねえもん。だってオモチャンは面白いから。週5で面白くなるって言って、今の所本当に面白いから。
方向性を全く変えずに数だけ増やした。これこそふっクラの行くべき姿だったんじゃないだろうか。今の動画なに?内輪受け特化に舵切ったの?なんで?それで人気出るほどメンバーに華ないだろ。
YouTuberである前に会社員だし、動画なんて裏方の存在もかなりでかいから内部で色々あったのかもしれないけど、それにしたってあんまりだろう。
最後に、改名が滑ったとふっクラ側は認識しているっぽいけど、それは違う、全てが滑ってたから炎上してあんな露骨に再生数下がってんだぞと言いたい。
けっこう前に見に行った舞台に出ていたへっぼこ役者の愚痴が今さらふつふつと再沸騰したので吐き出し。
推しが「ハンサム落語」というシリーズ企画の舞台に出たので見に行った。事前発表のビジュアル写真も衣装も素敵で、落語を俳優二人組の掛け合いで演じるというコンセプトも気になった。
舞台当日は推しのいろいろな側面や、様々な役を演じ分ける演技力の高さや、好みのビシュをバッチリ堪能した。その舞台ならではの企画もあり、舞台そのものはとても楽しめたし行って良かった。演出と音楽と美術もすべてが最高だった。
ただ、共演者に何人かへっぼこ役者がいたことだけがずっともやもやしている。悪ふざけが過ぎる連中だった。その場のノリで悪ふざけをして姑息に場を引っ掻き回せば「ウケる」と思っている連中だった。
彼らの演目は酷かった。舞台のコンセプトとして落語を演じる以上は、その元ネタに敬意を払って欲しかった。
古典芸能には「守破離」があり、習熟度に応じて型を守る、型を破る、型から離れる、という段階がある。その舞台シリーズに何度も出演経験があるらしいへっぼこたちは、「今さら真面目に演じてもサムいだけ」とでも考えていたのだろうか。それとも生来の悪ふざけ好きなのだろうか。
とにかく落語の登場人物を茶化し、その型を破ることに腐心していた。
そしてその悪ふざけはあまりにもサムかった。古典芸能は、洗練されているがゆえに古典となっている。長い年月を経ても消えなかった落語たちを、小手先で姑息にイジって面白くなるわけがない。そのイジり方で面白くなるのであれば、先人たちがすでにそうしている。それでは面白くないからこそ、今の型で伝承されてきているのだ。
古典という根のしっかり生えた樹齢数百年の大木を相手に、枝葉を追って笑いを誘うような真似はあまりにも無様であり、気分が悪かった。
リハーサルと異なる演技をしたり、女性役をオッサン風に演じてみたり、悪ふざけのすべてが「出オチ」でしかなく、出オチで一瞬の笑いを取った後はひたすらに寒かった。
私の推しは初心者らしくしっかりと型を守って演技をしていて、生真面目なその役者としての在り方を見てまずす好きになった。
そしてさすがは落語、見よう見まねでも初心者でも、きちんとやればそれなりに面白くなる。役者さんが演じるから演技はうまい。しかも企画が素晴らしく、掛け合いを二人組で演じるところがミソで、初心者の役者でもちゃんと落語として見られる仕上がりになる。
真面目に演じればそれだけできちんと面白いものになる舞台だ。しかも落語にはさまざまな登場人物が出る。推しが一舞台でいくつもの役を演じ分ける様を見られたのは大満足だった。
へっぼこたちはそんな推しを巻き込んでくだらない悪ふざけをした。そしてへっぼこたちの演目は余りにもつまらなかった。
だから推しの活躍には満足しつつ、ずっとがっかり感を抱えている。推しが良かったんだからいいじゃないか、と思う一方で、古典落語を粗末に扱うへっぼこ役者を目の当たりにしたのが残念だった。
舞台のコンセプト、企画、演出、脚本、美術、音楽、衣装もグッズもなにもかも素晴らしかった。和洋折衷の色っぽい衣装も、演目を切り替えるときの演出も、お洒落な照明も、客入れの案内からグッズ販売のスタッフまで感じが良かった。
だからこそ、悲しい。
へっぼこ役者たちはこの舞台の常連らしい。つまりあれだけの舞台を作り上げられる企画グループが、あのへっぼこ役者たちの悪ふざけを良しとして、繰り返しオファーしているのだ。
私は「あのへっぼこ役者さえいなければ素晴らしかったのに」と思っているが、へっぼこ役者たちの悪ふざけが企画者の本意ならば、この舞台に関しては私の方こそ「お門違い」なのだ。
あの素敵な舞台から「お前はうちの客じゃない」と言われた気がした。好きになったから、悲しかった。
どんな漫画もドラマも小説も舞台も、自分が楽しめなければ悪いのは自分だと思っている。ただ、Not for meなだけだ。作品に「私好みじゃなかったんですけど!」と言っても意味はない。ただ去るのみだ。
多分もう見に行かないと思う。すくなくともあのへっぼこ役者が出ている回は。
今日たまたま配信で見た舞台作品に、一番へっぼこに悪ふざけが過ぎた役者が出ていた。やっぱり悪ふざけしていて、そのくせ声量がなくてダサくてやっぱり寒かった。第一印象が悪すぎてもうよく見えることはなさそうだ。