コミュ力は大事だ。コミュ力があれば、仕事も友人関係も上手くいく。コミュ力を身に着けたい、という人は多く居るのではないか?
自分もそのうちの1人で、何故コミュ力が高い人といると楽しいのか、なぜそうなのか考えていた。
テンションを相手より少し上に合わせる、笑顔が多いだとか、反応がオーバーリアクション、身体動作が大きい、そういう技術力も大切だ。
傾聴する姿勢、聞き上手なんかもコミュ力の1つだ。だが、コミュ力強者には届かない。
聞き上手を自称する人が多い。それはそれで、大切なスキルで、持てない人は持てないスキルである。
しかし、聞き上手は同時に、「これってコミュ力強者ではないよな……」という悩みがいつもあるだろう。
聞き上手は、聞くのが上手いのである。しかし時折、全くコミュニケーションをとれない人とであう。
それは話さない、若しくは聞き上手の相手だ。そういう人に出会うと、沈黙が生まれる。いたたまれない雰囲気が生まれる。1つや2つ、思い浮かぶのではないだろうか。
これを解決しなければ、コミュ力があるとは言えない、そういう風に思う人は多いだろう。
まず、コミュ力がある人を定義したい。ひとまず考えてみて欲しい。
コミュ力がある人はどんな人か。それは「話だけで場を持たせることができる」人だ。
もちろん、これが海外だったり、外だったりすれば話は異なる。「これ美味しい」とか「これ不味い」「内装綺麗」だとか、酒があるだけでテンション高く交われる。
最後に出会った、話したことのない人と初めて話した場所を思い出して欲しい。
社会人となると多くの場合、何もない会議室や、殺風景な空間が思い浮かぶのではないだろうか。
コミュ力がある人はまず、テンションを相手より少し上に合わせる、笑顔が多いだとか、反応がオーバーリアクション、身体動作が大きい、そういう根底技術がある。
ここらへんができていれば、「聞き上手」にはなれる。
しかしそういう人を見て、「コミュ力があるなぁ」とは思わないだろう。
コミュ力がある人は「話し上手」だ。この「話し上手」はとても難しい。
例えば落語的に、面白いネタの1つや二つを話すとする。これができる人はある程度いるが、持ちネタが尽きると何も話せなくなる。
コミュ力がある人が何故いくらでもベラベラ話せるか。それは「つまらないネタをある程度面白く話す」方法を使っているからだ。
まず、コミュ力が無い人の話し方を見てみたい。
「昨日猫が歩いていたんだけど、三毛猫だったのね。寄ってきたから触ろうとしたら、シャーってうなって逃げたんだ。僕は傷ついたよ」
よくあるコミュニケーション本にある、具体的なイメージを想起させる技術を使った話し方だ。
この話に、「聞き手」が居ないからである。一人で壁に話していても成立する。これはコミュニケーションではない。
オタクの話がつまらない原因として、会話では無く「説明」「講義」をしてしまうことがある。
説明や講義は、相手が求めていて初めて成立するのである。知識ベースで交流するオタクはこれでも交流できるが、非オタクだと対応しきれない。
コミュ力のある人は、これをどう話すか。
先ほどのオタクが猫に牙を剥かれたエピソードを、コミュ力のある人に置き換える。
「昨日歩いてたらさ、帰り道、A君もしってるよね?」
「えーっと、どこ」
「家の前のあそこだよ、川の横のさ。あそこに猫が居たんよ。猫居るとテンションあがるくない?」
「あがるあがる」
「A君はどんな猫がすき?」
「えー、スコティッシュかなぁ?」
「ほら、ヒカキンの」
「あーわかるわかる、ヒカキンすきなの?スコティッシュだったけ?」
「おれもよく覚えとらん」
「まぁとにかくさ、猫居て、可愛くて、寄ってきたのよ、にゃーんって……」
「……うんうん、それで?」
「それで、可愛いからさ、触るのよ。そしたら何されたと思う?」
「近い!噛まれはしなかったけどシャーって!」
「威嚇されたのね」
「もう大ショックよ、女の子が気がある風に近づいてきて、LINE聞いてみたらLINE持ってませんて言われるみたいな」
「猫を触ろうとしてシャーっとされて傷ついた」
という結論の、一瞬で終わる話を、ここまで引き延ばせるのである。
この話の中で、A君は自分が猫がそれなりに好きで詳しい事、ヒカキンを見ていること、などなど、自分の話ができてしまっているのだ。
みんなも使ってみて欲しい。