はてなキーワード: 自己同一化とは
もともと会津藩は領民から嫌われていた。親藩で家格が高いため石高以上の出費があり領民に重税を課していた上、最後の藩主松平容保が京都守護職に任じられるとその負担でさらに年貢が上昇、会津戦争でも農民は新政府軍側について会津藩士と戦ったぐらいだった。
明治維新後も会津藩士に対する反発からヤーヤー一揆という大農民一揆が起きた。明治政府は会津藩士に会津に留まるか、青森県の下北半島に新たに藩を作って移住するかを選択させたが、地元で嫌われていた会津藩士たちは下北半島への移住を選択、斗南藩が新設され会津藩士は斗南藩士として下北半島に移住した。
会津地方の一般人が会津藩士と自己同一化して薩長に恨みを持つようになったのは、戦後会津若松市が戊辰戦争の史跡を観光資源化しようとして会津藩の悲劇を郷土史として広めたのと、司馬遼太郎の小説が原因。
なんで国や性別の単位での批判があると、自分が批判されたように感じるのか?
自分が属するグループが攻撃されると、自分自身が攻撃されたと感じる。昔の武士みたいに、自分の「領地」を守らなきゃならないってね。
考えてみろ。国や性別なんて、ただの社会的なラベルに過ぎない。
生まれた場所や性別で、自分の価値が決まるわけじゃない。それなのに、批判されると自分の存在そのものが否定されたように感じる。
これはもう、アイデンティティが脆弱だからだよ。自分の中身がスカスカだから、外側のラベルにしがみつくしかなくなってしまう。
広く、自分が属するグループの批判を個人の攻撃と感じるのは、集団心理の一部だ。
人間は社会的な生き物で、集団に属することで安心感を得る。だから、集団が攻撃されると、自分の安全が脅かされたと感じるんだ。本能的なものに近いだろう。だが、それが今現在の人間として本当に必要な感情かどうかは疑問だ。
自分の属する大きいグループへの批判があった時、それが事実であるかを考え、自分がそれにどれほど関与しているかを捉え、自分の考え方との距離感を測り、集団と個人の問題を切り分けることが必要だろう。
そして批判がもっともだと思えば、賛同することすらできる。それが何かの改善に繋がることもある。
批判すなわち個人的な攻撃と感じるのは、その問題の切り分けが不十分であること、自分の未熟さを露呈しているに過ぎないんだ。
自分のアイデンティティはもっと複雑で多面的なものだし、外部のラベルに依存する必要なんてない。
美術部あがりのインドア腐女子がラウダモンペしてカワイソカワイソしているがラウダを可哀想がるポイントがズレてるから反省しろ
パイロット科なんて若い男のなかでも特に負けず嫌いなほうのやつしかおらんだろ(※シャディク・ゼネリを除く)
現実にいるやつに例えるなら野球やサッカーのスポーツ特待で進学する奴だったり
ゲームもエンジョイ勢じゃなくガチってeスポーツの大会出るような勝負師メンタリティしとると考えるほうが自然
(だいたいお前ら腐女子は中学や高校で男子生徒がジャンプ読んでも教室で強さ議論ばかりして、「男同士の激重感情がどうの」みたいな話してたのが美術部か演劇部の腐女子しかいなかったことを覚えてないんか。陰キャ男ですらポケカの強さ議論しかしとらんかっただろ。人間関係ないがしろにすると人生が本当にやばいと気づき始めるのはだいたい大学以降や。それより前は強えヤツか雑魚かしかない。「ざぁ~こ」とかいう発想はメスガキやなくてリアル男児脳。それが気に食わないなら架空男性と理解したうえで商業BL読めや!)
そいつが後輩の女の子に機体完璧に整備しときましたよ!言われて寮全体から応援されて送り出されながら
「ガン!うわ〜!」で終わり、失神したところを後輩の女の子とアーシアンに庇われてましたってプライドズタズタだろ
かわいそうに……かける言葉もねえよ
そこのガノタは今すぐにカミル・ケーシンクの気持ちになってみろっていうんだよ
カミルの立場になってこのときのラウダになんて声をかければいいか考えてみろっていう話だよクソどもがよ
ラウダディランザはグエルに勝手に使われてエラン4号君にボコボコにされたときにしろ
ランブルリングでラウダがワンパンされたときにしろ噛ませ犬ばっかで可哀想なモビルスーツではあるんだわ
ファラクトもソフィのルブリスもガンダム禁止や決闘仕様の出力制限など無視したルール破りのモビルスーツだし
どっちも不正して高性能のMSにボコられてはいるけど、晒し者みたいな酷え負けっぷりだっただろ
グエルは4号にだいぶ憎まれてるのか執拗に毟られてたし、逆にラウダはワンパン(ソフィがラウダに一切興味がないから)っていう方向性の違う尊厳破壊
しかしどうして腐女子は強い弱いとか勝ち負けを徹底的に無視してメソメソして男から男への執着とホモセックス可能性のことばかり考えるのかね
ラウダがなんで可哀想かってずっとルール守って、身内も自分もルール違反者にボコられてプライドズタズタにされて耐えてきたのに
最後の最後に彼女意識不明説で錯乱してシュバルゼッテ乗ったのが「えっ、何?」「今それどころじゃねえんだよな~」「シンプルに邪魔」「グエルディランザと盛り盛りの最新鋭機シュバルゼッテでやっと釣り合うほど兄弟で実力差あったのかよ」と言われてしまうことやろが
しかも一方的にグエルに喧嘩売ったせいでもう賞賛されている兄と自意識同化することもできなくなった
「メッシ来たから俺らマイアミ最強!」みたいな帰属意識が異常なスポーツ観戦者のように、強者と自己同一化してプライド守るやり口が、もう使えないわけだわ
─3年後─と丸々スッ飛ばされたけどこの飛ばされた期間の適応や成長がラウダにとっては大変だったやろなまあメインキャラではないから丸々カットも当然の処遇ではあるが
ラウダ腐女子は自己憐憫の投影が強すぎるのとインドア文化部の発想の限界のせいでキャラクターの心情エミュレートにフルスロットルで大失敗しとると思うわ
【前編】
https://anond.hatelabo.jp/20221005025202
【父親について】
体罰で息子を殴ってたら包丁で刺された悲しい過去――(ネトゲ戦記第二話)
包丁は自身で研いでいたらしい(https://ameblo.jp/kuuhaku-bura3/entry-10903882283.html)
「小学生のころ、珍しい知らないものを食べるのがその時から好きで、肉屋についていったときに買ってもらい、食べて気に入ったから毎週のように遠い肉屋までいって買ってきてくれと父親にせがんだ。たしか車で片道一時間くらいだったはずだ。家の庭で七輪に炭火をおこしてくれて、それで腹いっぱい食べていた。片付けを自分でした覚えがないから、父親がしていたんだろう。」(https://note.com/hima_kuuhaku/n/n5c8a7f78dc17)
【出身地について】
「奈良が異常な田舎だと言うへいとすぴーち 俺じゃなきゃ見逃しちゃうね」(https://twitter.com/Z4mibyc8FYL06mB/status/1545586722897264640)
「異常な情熱と練習しまくっても気づかれない異常に田舎な環境の両方が必要なのでやっぱ普通は無理でしょ。」というツイートへの反応。
元は山上烈士の射撃練習についての言及らしい。単なる当てこすりか地元愛の発露か
「カラスミ太郎の由来は、「シュナムルさんの検証ブログ」を見て、「こいつの考察はガバガバだ」って言ってたやつがいたから、「何がガバガバか示せもせずに適当言うなアホ」ってレスしたら、俺のTwitter掘ってカラスミに飽きてカラスミを茶漬けにしてキーボードの前に置いてる画像をさして「キーボード飯のカラスミとかカラスミだけが自慢のカラスミ太郎www」とか言ってきた感じだと俺は認識してます。違ったら訂正してください」(https://kuuhaku2.hatenablog.com/entry/2020/06/04/074133)
カラスミ太郎はどうでもいい情報を誰も聞いてないのに丁寧に解説するようなところがあり
文章を読みづらくしている一因でもあるが、後追いとしては分かりやすくてありがたい
一応、自作するくらいにはカラスミが好きっぽい(https://note.com/hima_kuuhaku/n/nd7d176e8b1a6)
【文章について】
短文のレビューは割といいんだけど
長文になると説明過多ってのもあるけど
自画自賛とか媚びみたいなのがちらついてくる
https://kuuhaku2.hatenablog.com/entry/2020/01/07/012254
短命のデビルハンター=ジャンプの新人作家って解釈はちょっと面白いけど
この解釈であればこう読める、って新しい見方を提示するんじゃなく
「作者の考え」を読み取るのが正しい読み方って価値観も根本にあるのではないか
もし作者の考えが正しい読みだとしても、それは作者本人が開示しない限りは他人には答え合わせできないはずだが
(またそれは、考察など不要、作者の自作品解説を読めばよい、という考え方にも行きつくわけだが)
主人公の状況を作者の状況に重ねて単純化し、自分が作者の状況ならこう考える、だから作者もこう考えているのだ、という自己同一化を経て
自分の読み方(考察)こそが作者の考えであり正解なのだ、という錯覚に陥ってるように思う
でもシンエヴァ考察で、内容はともかく鈴原サクラに触れてたのは偉い
感想とかでもマイナス宇宙とかサクラ関連はスルーしてるのが多々あったし
【カラケー】
カラスミ太郎ははてなID持ってるし、通報されたら消されちゃうんだよな
なんで掲示板建てました
SF評論家の大野万紀は『S-Fマガジン』1997年12月号掲載の「ティプトリー、この3篇」において前述の書評家の評を紹介すると共に、本作のストーリーと作者であるジェイムズ・ティプトリー・Jr.の自殺(日本語訳掲載後の1987年5月19日に自殺。ジェイムズ・ティプトリー・Jr.#死参照)と関連づけたイメージを思い描いている。
ちなみに「ティプトリー、この3篇」は本人がネットで公開してる。
http://www.asahi-net.or.jp/~li7m-oon/doc/article/SFM9712.htm
「この小説を読み終わる前にハンカチがほしくならなかったら、あなたは人間ではない」というのは有名な書評者のことばだが、ぼくにいわせれば、この小説の最初の三ページを読みながらコーティに感情移入し、自己同一化し、「そのとおり!」と心の中で叫びたくならなかったら、あなたはSFファンではないのだ。
個人的にはやや単純すぎ怪しいと思う
一般に、反グローバリストは当事者性への立場とかやウチ・ソトの区別が単純で
グローバリストはそれがないということだ、という視点は一理ある
でも俺は余り支持していない
支持政策がグローバリスト的でもドメスティック的でも、ウチ・ソトの直感的な区別に起因する好き嫌いは強固で
グローバリストはその基準が国や見た目ではなく、知能指数や道徳的振る舞い、会話の高度さなどで判定されているという結果が出ていた
排他性はどっちも同じぐらいだという
例えば、キリスト教保守の宗教家とかが彼らなりの問題意識で社会運動すると
グローバリストが脊髄反射で「胡散臭い、詐欺だ、偽善だ」と言うパターンはある
要するに、集団全体の利得のために、道徳規範や協力を説く相手を
別に集団に帰属してるんじゃないかとか、個人の利益のためじゃないか、と直感的に反発するのが偽善を感じる機能だ
この判定が厳しすぎたり、単純すぎるのが活動家嫌いだろうか
一理ある
だが逆にグローバリスト活動家は帰属集団を人類全体にとっているだろうか?
これはかなり怪しい
「帰属集団を世界全体にとっているというお題目を掲げた、実際には一部の集団」に帰属意識をもっているだけかもしれない
というか教育や親、周囲の環境の影響を受けているだけならそのパターンは実際に多い
グレタさんが活動家になった第一要因は親が活動家だったからだろう
犯罪被害者の手記を毎日読んでいる人間は被害者と自己同一化してしまうことも多い
そうでない人間との違いは、心の傾向ではなく毎日手記を読んだかどうかだろう
活動家嫌いも幼少期から毎日環境保護活動してたら偽善だと感じなくなるかもしれない
決定しているのは生育歴やらの環境要因だ
そういった経験もなく、純粋な共感性しやすさで行う人間も居るだろうが、それは詐欺に騙されるのと外形的には違いはない
共感性が高いと見るか知能が低いと見るか
というわけで俺なりの結論を述べると、特定の活動家に偽善だと思うのはごく普通、正常範囲内の心の動きであり
特定の活動家を支持するような人間も、別の問題には偽善を感じている場合も多いし
それを分けるのは主に、その特定の問題に幼少期にどれぐらいコミットしたかとか教育歴とかなどで
心の性質による傾向の違いだけで説明すべきかと言われると否だと思う
何でも当事者性を感じて、他人の活動に偽善を感じない人がいたら
詐欺に騙されまくったり
むしろ特定の活動家にもなれず、様々な社会問題を毎日気にして精神病になってしまうだろう
だが正常な低さと言えるだろう
http://koshian.hateblo.jp/entry/2018/10/09/184510
こうして当事者である男性オタクたちは「萌え」と「エロ」が違うものだということに気づいていく。それは少女的無垢性への憧憬であり、無垢な少女への自己同一化であり、無垢な存在に受容されることそのものであった。
一方多くの女性オタクたちは「萌え」概念の導入において、おそらく「既存のものに名前がついた」という感覚だったのではなかろうか。彼女らが求めていたもの、それもやはりエロではなく「関係性」であった。鉛筆と消しゴムがいたらその2者の関係性を妄想して2時間は過ごせるという女性オタクは少なくない。そこにエロが含まれることも少なからずあるが、それは彼女らにとってスパイスのようなものだろう。スパイスの効きまくった料理が好物でしょうがない人も少なからずいるのではあるが。
こちらのブログ記事を頷きながら読んでたんだけど、いまひとつ腑に落ちないところがある。
「萌え」と「エロ」は全く違うものなの? 記事では少なくとも切り離せるものだと解釈されているようだった。猫や無邪気な子どもを見たときの可愛いさと通底するというのはよくわかるんだけど…
コメントに、純粋だった「萌え」に「エロ」が途中で混ざったので、それを抜き去って「尊い」概念になった、というような意見があった。ナルホドと思ったんだけど、でも「シコい」もまた「萌え」から生まれた言葉だよね。
http://www.kore-eda.com/message/20180607.html
Twitterとか見ると変な部分に突っかかって是枝監督に怒りをぶつけてる人が多い。
多分元の文章をまともに読んでないせいだと思うので、きちんと整理しておきたい。
一般的には「喜びを祝う気持ち」のことを指すけれど、文脈を見ると
国会の参院文科委員会で野党の議員が「(是枝に)直接祝意を表しては?現場をとても鼓舞する。総理に進言を」と文科相に問いただしているやりとりを目にし、更にその後「林文科相が文科省に招いて祝福したいという意向を示した」と伝えられたとNHKのニュースで目にしました。
実は受賞直後からいくつかの団体や自治体から今回の受賞を顕彰したいのだが、という問い合わせを頂きました。有り難いのですが現在まで全てお断りさせて頂いております。
つまりどこかに呼ばれて表彰、みたいなことは断るよ、ってだけの話なんだよね。
デマ。
実は受賞直後からいくつかの団体や自治体から今回の受賞を顕彰したいのだが、という問い合わせを頂きました。有り難いのですが現在まで全てお断りさせて頂いております。
「顕彰の問い合わせ」に対して「有り難い」って書いてあるじゃん。
何を勘違いしたのか
親から仕送り貰って、大学卒業したり優秀な成績残した時に親からおめでとうと言われた際に「親からの言葉は受け入れない」とか言ったら批判されるよね。
親からの「おめでとう」を断るのがカッコイイとか、それが許されるのは反抗期まで。 成人でもみっともないと言われるのに、還暦近い人がそんなの言うとか流石に度を越している。
国から給料貰っておきながら、国家も歌わず日の丸に敬意を示さないどっかの教員連中も同じ精神構造なんだろうね。いつまで経っても反抗期の子供なんだよ。
親と子供の関係に例える人なんか特に多いが、その例えは明らかに間違っている。
(文化庁は親ではないし、お金の出処は税金または文化庁への寄付であって"親"が汗水たらして得た金ではない)
まず、「告発を目的とした映画ではない」と発言していることは知ってもらいたい。
この「公権力を批判」というもの。人によって想定してることがぜんぜん違うんだけど。
「公権力そのものを否定する」というようなアナキスト的思考ならともかく、「社会の問題点を指摘する」レベルのことは独裁政権以外なら誰だってやっているよね。
以下の文にあるように、是枝監督が「映画を撮りながら考えていたこと」は「それほど目新しいものではない」。
「単身者が孤立」とか「自己責任論」とか、多くの日本人がすでにテレビや新聞、ネット上で共有している。
助成金もらっているからってこのレベルのことも言ってはならない、なんてことはないはず。
取材の中で「何故社会からこのような“不可視の”家族が生まれると思うか?」と作品の背景としての社会的、政治的状況を聞かれた。その告発を目的とした映画ではないことを前提に自分の考えを述べた。あくまで私見としてではあるが。今回僕が話したのは「共同体」の変化について、であった。日本は地域共同体が壊れ、企業共同体が壊れ、家族の共同体も三世代が一世代、単身者が増えて脆くなっている。この映画で描かれる家族のひとりひとりはこの3つの共同体「地域」「企業」「家族」からこぼれ落ち、もしくは排除され不可視の状態になっている人たちである。これが物語の内側。そして孤立化した人が求めた共同体のひとつがネット空間であり、その孤立した個を回収したのが“国家”主義的な価値観(ナショナリズム)であり、そこで語られる「国益」への自己同一化が進むと社会は排他的になり、多様性を失う。犯罪は社会の貧困が生むという建前が後退し、自己責任という本音が世界を覆う。恐らくあの「家族」はそのような言葉と視線によって断罪されるだろう。…ということも話した。これが背景。これは『映画を撮りながら考えたこと』という拙書でも既に述べている考え方である。まぁそれほど目新しいものではないだろうことは自覚しているが。
中原麻衣、雨宮天、名塚佳織はキャラ-自己への感情流入にたいし「転換点」がなく、自分=キャラであるため演技がとてもナチュラルであり、かつその感情表現は豊穣である。ひぐらしの竜宮レナ、CLANNADの古河渚、刀語の七実……どれをとってもそこにいるのは"中原麻衣"ではなく"そのキャラクター"である。自己を押し出すのではなく、架空の存在の輪郭を描き、なりきり、自己同一化するの演技は魅力的。
田村ゆかり、花澤香菜、生天目仁美、福圓美里らはとかく「熱量」がすごい。感情表現の幅がおどろくほど広く、深く、そして時にはこちらを焼き尽くすほどの一点集中型のエネルギーをぶつけてくる。スマイルプリキュアのみゆき(=福圓美里)の高らかな希望の叫びに、涙してしまったものも多いだろう。ああいうふうに、あてられたものは感化される。されてしまう。彼女たちの演技はとかくアジテーション的であり、拒むことさえ難しいものだ。それゆえに声優としてはピカイチであろう。
たいして佐倉綾音は感情がこもっていなく、あるいは表面的で、全く心に響かない演技の数々だ。これは感情精査が他と比べるとうまくいっておらず、またそれを表現することに関しても幅が狭い要因となっている。正直薄っぺらいんだよ。演技は毎度のごとくテンプレであり、同じやり方を、同じふうに繰り返すことばかり。キャラクターを演じるのではなく、自分を押し出すような、自己でキャラを塗り替えんとするそれは演技でもなんでもない。ただの自己表現だ。しかし『オカルティック・ナイン』の成沢稜歌に関しては「表面的」であることが有利に働いている。このキャラの場合、本心を隠し、「ガワ」であることが作品的に重要なので、佐倉綾音の表面的な演技とがっちり結びつく。そのシンクロ率がかえって成沢稜歌という魅力を高めてくれていると言えそうだ。
個人的にはそれが小学生における「馬鹿という奴が馬鹿」と同様に、反論が容易では無く、なおかつ世間からの立場に対する格差があるからだと思う。
例えば、他人をクズ呼ばわりする人間もどうかと普通なら思われる(上記の理屈の反論しづらさもそこに一因がある)、しかし相手がオタクだとかニートだとかなら言い過ぎても許されるので、思想的に対立する立場の人間にそのレッテルを貼ることに執着する人たちは後を絶たない。
最近では、寛容やリベラルや反差別の立場に立つ人間のネットウヨ叩きには反吐が出たものだ、彼らはネットウヨと社会的弱者と結びつけ。にもかかわらず彼らの救済などは気にせずに美学的な醜悪さを強調して叩き台にするだけと来た、しかも、ある種の悪者のステレオタイプを着せられ言ってないことや読み取れないことまでも言っていることにされているのだ。(例えばネットウヨは韓国が経済成長をして生意気だと感じるから差別しているそうだ、しかし、実際にそういう人たちの言論は歴史や文化に関する捏造や、いい加減な日本叩きに対する文脈の中で行われていて、これを差別問題だと思う人間はちょっと信用できない)
前置きが長くなったが、以下の記事もその種の無自覚に依拠していると思われる。
一見高い理想とプライドを持っているように見えるが、他人をクズ呼ばわりしたり馬鹿にすること自体には無頓着で他人を見下さなければプライドを維持できない人間の典型だ。
http://anond.hatelabo.jp/20081206220423
日本と自分を同一化し、日本すごい=俺すごいとオナニーしている。しかもその自覚すらないのないのだからよけい醜悪だ。
本人にそれを言うと必死に否定するが「日本SUGEE!」と言っている人間を馬鹿にすると何故か「日本はキミが思っているよりもすごい。日本を悪くいうな」と返ってくるので苦笑してしまう。「自分」への批判が「日本」への批判へと直結してしまっている。これは日本と自分を同一視しているからに他ならない。
何故かも何も、「何かに」ついて語ることや評価することを一足飛びに話者への人格攻撃にしている時点で彼の方が論点の同一視を始めているし、こういった場合一般社会の言語活動に置いて、論点が「何か」を巡る事は極めて自然なことである。
言語活動が必ずとも理路整然と行われない事は彼自身が証明しているし、言語が文脈によって論理の事実性以外の含意を持つのも学者達によって散々言われてることだ。この場合、彼が日本SUGEEへの攻撃として人格攻撃に走ったと見なされるのは不自然な事ではない。
そもそも、彼のロジックでは過去の偉人以上の人間で無ければ「SUGEE」の一言も言えず、言えばクズだという論理になる。こんな馬鹿な話はないだろう。(しかも上記の彼は「SUGEE!」を言う人を、これからの結果を出そうという努力を放棄しているとほぼ決めつけている、後ろ向きな考えだとまで言ってる)
こういう思想の方がよっぽど現在進行形で差別を振りまいてるとしか思えないし、こういう発想を現状打破的な指向で打ち出されても蒙昧主義にしか見えない。
……まあ、いいけど。
「実際は助けてくれるかどうかわからないけれども最後には国にすがるしかない」、みたいな切迫した気持ちが変質して国への自己同一化を促してるんじゃないかな。ストックホルム症候群ってそういう防衛機制じゃないっけ。
鸚鵡返しでしてやったり、と思ってるところに野暮かもしれんが。