よく「○○に救われた・共感した」的エピソードを語る人がいる。
(○○は音楽、映画、本etc何でもいい。例えば『高校生の頃に聴いたニルヴァーナは思春期のやり場のない鬱屈した感情を解き放ってくれた』のような)
自分にも繰り返し聴いた音楽、読んだ本、見た映画はあるが、それに「救われた」という感情はなかった。
その時、心奪われたかもしれない。しかし、日々の生活は代わり映えもないものだった。
「救われた」という思い込みが出来る人は簡単に自己肯定のツールが見つかって幸せということなのか。
モノから読み取れる心情や価値観にストレートに自己同一化を出来ることが恥ずかしいという思いが
昔から自分にはあるのだが、そういう感情の動き方はおかしい?
仮におかしいとしても、「共感した」「救われた」なんて簡単に口にしないよね。
Permalink | 記事への反応(2) | 23:28
ツイートシェア
人は人、自分は自分。その人と増田のどっちかがおかしいとかないだろう。 ただ、「救われた」のが思い込みって増田が決めつけるのはどうかと思うが。
人を救うものは単に心奪うというよりは心奪い返すものなんでないの。 ニルヴァーナは「思春期のやり場のない鬱屈した感情」から心を逃がして返してくれた、的な。 共感が救いになる...