はてなキーワード: 権威とは
「現代アート関係者には批判とさえ認識されない。残念。」が連中の思い上がりを象徴している。
美大出身者の学閥やお友だちごっこ。権威と名声にしか興味のない自意識過剰な学芸員や美術評論家。公立美術館は新聞社の金で動いている商業展覧会しかやらず、たまに反権力的な内容の展示をやれば検閲される。そうした業界におもねる美術メディア(ビテチョーとか)はそうした業界人を褒めたたえるばかりで、業界内での批評精神、自浄作用も失った。税金で雇われたキュレーターが自分たちのことを「アートピーポー」と自称していたが、「アートピーポー」であることに酔っている変わった人々と自分には見えた。
学生の頃、一生懸命アートの歴史を勉強していたが、大人になり、現実のアート業界を知って、ただの茶番だと我に返った。特にここ数年のアートシーンの劣化具合はあまりにひどい。
元増田の「要するに《現代アート》というのはすでに既存の権力になっていて、彼らはそれを無批判に持ち上げることにこそ価値を見出しているわけだ。」に共感する。日本全体を見ても「権力を支持したい。体制側が正義。」という人間があまりに増えすぎている。それは美術業界でも同じだ。SNSでアートやってますと言いながらネトウヨっぽいリツイートをしている人って昔はあんまり見かけなかった。アーティストなら反体制だろというわけではないけど、自分の頭で何も考えていないから体制派を無批判に受け入れるし、自分の考えと異なる意見を知ろうともしない人がアーティストに簡単になれる時代なのだなと思う。
(=自分が大学で勉強するか、大学で勉強した人に手配してもらう必要がある)というのも「大学の先生が言っていることは正しいこと」という思い込みが後ろに隠れているわけだが、大学で学んだ経験がある自分からすると、大人になってから「あの大学教員の言っていることは偏ってた、おかしかった」ということは多分にあった。何も知識のない時は師やメンターの言うことをそのまま学ぶ時期であるが、学びが終わったら、「それは本当にそうなのか?」と考えられるようにならなければならない。
「偉い人がすごいって言ってるから、この作品はすごい」って言っているうちはまだまだ子どもである。そうした子どもばかりになっているのが今の日本のアート業界なんだと思う。海外のことは知らんけど。
キッタネー少女像。
天皇の写真を燃やした後、足でふみつけるムービー。
かの国のプロパガンダ風習
まるパク!
現代アートに求められる
面白さ!美しさ!
驚き!心地よさ!知的刺激性
が皆無で低俗なウンザリしかない
ドクメンタや瀬戸内芸術祭みたいに育つのを期待してたんだがなぁ…残念でかんわ— 貞本義行@腰痛 (@Y_Sadamoto) August 9, 2019
というツイートに対して、
https://t.co/3wqZGCqLzd"所詮個人の(特定集団の、というべきか)感想だし何を言おうが勝手だが、胸の悪くなるような悪意でグジュグジュの言語感覚が本当に気持ち悪いので、人の目に触れるところに文字を書いちゃ駄目な人だな、と思った。
特に胸糞悪くなる様な文章では無いと思うのだけれど、どのあたりがそうなのだろう。もちろん、胸糞悪いというのも、個人の感想なら勝手だし、ブコメを書いちゃ駄目な人だとも思わなのだが。
私の書いたことを反復してやり返されてるあたりに煽りを感じなくもないけど、
上記ツイートを読んで胸が悪くならない人にとっては正当な疑問だと思うので、
説明を試みる。
「キッタネー」なんて言うのは、論評の範囲を外れた軽蔑の吐露でしかないと思うが、
ここは文頭でもあるし、多少どぎつい表現で書き出して読み手を引っ掛けるのは、
ぎょっとするけど、まぁ何を言うのか読んでみるか、と思わされるところはある。
ただし問題は、後段で「キッタネー」と思う理由の言語化を試みていないところにある。
あえて斟酌するなら、技術の不足や表現の杜撰さによって不快を感じた、ということで、
イラストレーターの鋭敏な美的感覚からすればそういうこともあるだろうと思う。
「そんな重いものを表現するのに、そんな適当な仕事でいいのか?」という方向で、
表現の意図を(賛同しないにせよ)酌んだ上で、その実現における難点を、
実物に即したかたちで(つまり実際に観察した上で)言語化しているのであれば、
「キッタネー」と文頭で言うことぐらいは許されると思う。
でもそれをしないで「キッタネー」とだけ言ってるので、やはり論評とは言えない。
単に政治的文脈に対する不快感を、仮構した芸術的不備に転嫁しているように読める。
ただしこれだけなら「感想」の範囲ではあって、明確な悪意までは感じない。
単にぶっきらぼうで露悪的な言動を好む人なんだな、と思うだけ。
「天皇の写真を燃やし〜」という作品についての論評として書かれているのだが、
ここで「風習」という語を選択するところには、明確な悪意が込められている。
この文脈(作品の表現の引用元を指摘する)で「プロパガンダ」と連結しうる語は、一般的には
「手法」、次点で「技術」「様式」、あるいはちょっと意味を拡大して「文化」といったところである。
しかしそれらの語を選ばず、あえて非標準的な「風習」という連結語を選ぶことの含意を分析すると、
「プロパガンダ」に「風習」という語が含む土俗的、前近代的なイメージを付着させ、
かつそれを、発言者が揶揄の対象としている(おそらく)東アジアの一民族が古来から持つ習俗、
と考えていることが見て取れる。
言い換えるなら、特定の民族に対して「未開人」「土人」などと呼称するのと同型の差別的な認識を、
しっかり内面化し、かつ機会があれば表現するのをためらわないからこそ、
「風習」という語が(「手法」や「文化」を押しのけて)ここで選択されているわけである。
作品についての論評の一部(引用元の指摘は端的な論評と言える)ということで、
ギリギリ許容されうるのかもしれないが、婉曲的なヘイトスピーチである。
婉曲的、は外してもいいかもしれない。
「現代アートに求められる」もの(あまり一般的ではないようだけど)を列挙して、
これは個人の感想であって、自由に発言されるべきものだとは思う。
より辛辣にすべく「低俗な」と付け足すところに、悪意の奔出が感じられるのだが、
「発言者がウンザリすること」自体を「低俗(下品で程度が低い)」だと言っている、
とも解釈しうるので、「(作品が)低俗なことにウンザリ」と補うべきだったと思う。
悪意が先走りすぎて言語が崩れている箇所、と言える。
「胸の悪くなる」とまで言ったのは、こういうところである。
4)「育つのを期待していたんだがなぁ……」
言うまでもなく、展覧会の将来を勝手に先取りして否定して悲観してみせるのは、
現在行われている展覧会あるいは個別の表現の評としては、意味のあるものではない。
発言者としても「これは良くないな」と思ったからこそ、自己リプライで要望を書いて、
自分の望むようなものであれば応援したいのに、というポーズを見せているのだと思われる。
あと、ドクメンタや瀬戸内芸術祭にだって、発言者が不快に思うような
プロパガンダと解釈しうる展示がまったくないとは思えないけど(なにしろ大きいから)、
それはまた別の問題である。耳に入らなければOKなのかもしれないし。
ただし、勝手によその芸術祭の権威を借りてきて論難の武器に使うようなのは、
あまり責任感のある言動とは言えない。虎の威を借るなんとやらに見える。
名前を出すなら、せめて一つくらいはモデルケースを挙げて論じて欲しいところである。
ついでなので、上記ツイートに自己リプライで書き足されている部分についても、
悪意を感じる箇所を指摘しておく(埋め込みは省略)。
どのメディアを指していってるのか知らないけど。
6)「プロパガンダをアートに仕込む行為も全く否定しないけど正直
アートとしての魅力は俺には全く響かなかった」
アートとして失敗してると思うなら、プロパガンダとしても効力は薄いと予測できるわけで、
ひっそり敵失を喜んでいればいいんじゃないでしょうか。
そういうわけにもいかないのかな。
以上のようなわけで、拙ブコメの
「人の目に触れるところに文字を書いちゃ駄目な人」
というのは不当で過剰な個人攻撃だったかも、という視点から再検討してみたんだけど、
主に2)の理由によって、撤回するほどでもないな、という結論になりました。
もちろん露悪的な言い方であることは進んで認める。
なんか「甘え」ってよく言うけどさー、それ何なんだろう?
病気と何が違うの?
社会生活を正常に営めなくて苦しんでるのに、病気と診断されなかったら甘えなの?
だけど、そうやって診断されなくて、あるいは周りの人に「甘え」だって言われ続けて自死してしまった人とかたくさんいるんじゃなかろうか?想像だけど。
「甘え」って何なんだ?
俺は俺なりに精一杯生きてるんだよ。
親が幼少期から自立しろ自立しろって叱りつけて育ってきたからこうやって誰にも頼らずに自立してるんだよ。
メンタル崩壊しそうになりながら折れそうな足で立ってるんだよ。
それを、元増田は「とりあえずいくつかの病院を受信して」っていう前提を付けてくれてるけどさ、「甘え」って一刀両断してくる人もいるんだよ。
何なんだよ甘えって。懸命に生きてるんだよ。
これが甘えなんだったら、せめて甘えを治す方法を教えて欲しい。
あいちトリエンナーレの件。いろいろ論点はあるがとりあえずこれについての違和感を書く。
フィフィなどが言っているこの意見。多くの共感を集めているが、コーランとの類比には無理がある。
この発言は戦前の国家神道を彷彿とさせるカルト的な考えの表出に見える。
天皇を現人神とする国家神道を前提しなければ、こんなことは言えないはずではないか。
天皇制は、少なくとも表向きは、宗教ではないということになっている。
それなのになぜ、昭和天皇の写真がコーランになぞらえられるのか?
それは天皇を人ではなく神のようなものだと考えているからではないか?
Piss Christの例もある。
https://freespeechdebate.com/ja/case/小便キリスト/
少なくとも宗教的権威を例に出しても議論は終わらせられないということは言える。
現代アートについてろくに調べもしていない、感情的な反応の域を出ないだろう。
しかも、(1−1)で確認したとおり、天皇は宗教的権威ですらないのだ。
天皇も一人の人である。その写真を燃やすことは関係者を悲しませる。
これは(1)とは真逆だ。(1)は、天皇を宗教的権威として扱っていた。
これに対してここでは天皇は人として扱われている。
この意見を真に受けるなら、すべての人の写真を燃やす表現はNGだということになりそうだ。
本当にみんなそう言えるか? たとえば元彼の写真を燃やすようなドラマの表現はNGか?
しかもそれはすべての死者にまで拡張して適用されるべき基準なのか?
まして、天皇は人ではあるが、ただの人ではない。
建前上は政治的・宗教的な力を持たない象徴ということになっているが、
実際にはどう考えても権力を持っている。
(今回こんなに大きな問題になっていることがそれを証明している。)
非常に特殊な立場の人であり、しかもその特殊さは権威に結びついているのだ。
天皇制の廃止は主張しないが、通常の人と同じロジックが適用できるかは怪しい。
また、なぜあなたが勝手に家族の代わりに傷ついているのかもわからない。
現上皇や天皇が悲しみを口にするなら、ある意味では理解できる。
(ただし、その場合はその権威の大きさがゆえに別の問題が生じるだろう。)
それに合わない人を抑圧・排斥しようとする人が多数派になりつつある現状には、
それを排斥することは多数派の福祉、あなたの福祉ではあっても、公共の福祉ではない。
こういうときに「国益」という言葉が使われるのも恐ろしい。何が国益かなぜあなたに分かるのか。
「非国民」が投獄されるような社会まであと一歩、いや、半歩の距離しかないだろう。
どう見たってちゃんとしてない。少し小馬鹿にしたような、傘にきたような態度で、誠実さも見えない。
それでも支持されるのは当然の話。潤ってるところは潤ってる。その人たちにとっては、成功のタネ、恵の神な訳で。
これだけ恩恵があるのだから正しいのだと喧伝するだろう。素晴らしい君主、偉い殿様、真面目で賢くて可愛くて面白くて格好良くて、いいセンセイ。権威がある。
文句を言ってくる輩にはビシッと言ってやるんだ。口ばっかりで実力もないくせに。妬みや僻みで偉そうに、セクハラだのAIだのコンプライアンスだの人権だの言いやがって。そんなもん構ってられるか、適当にごまかしておけばいいんだろ。潤ってるんだから。
と、こんな感じで、老後?まあなんとかなんじゃね?とか、消費税10%?上がんの嫌だけど計算楽になるわ、みたいな層に支持されているのではないかと思った。
実際そういう人たちの方が社会構造の核になってるから、悲観的な分析や反対意見は広がりづらい。普段から気軽に政治の話を口に出さない現代文化もあるし。
善い悪いではなくて、成功してる人にとっては正しくて、不満がある人にとっては正しくない。成功してる人の方が社会を操作しやすいし、勝ち取った都合の良い状態を手放したくないから保守的になる。
すべて当然の事だし、理想を失った民主主義って金の鉱脈を流し合うゲームなんだよなって気付いた。
正しくないと言い聞かされ、不満を持つのは怠慢だと決めつけられ、傷付いた自尊感情を表現すれば下品だと言われる。劣等生で十分なロクデナシやキチガイは、どうしたらいいんだろうか。逆恨み天誅でもする?耳と目を閉じ口をつぐんで孤独に暮らす?
めんどくさい類の話をしよう。
例えば、教師や先輩といった立場の人間には敬意を見せ従わねばならない。
例えば、場の空気を乱してはならないし、郷に入りては郷に従わねばならない。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、そんな慣習如きで自分の人生を生きてんじゃねーよ、ボケが。
ちょっと考えれば分かる事だが、これアメリカっつーか先進国とは真逆だからな。
外から見れば分かるが、こんなもんは広義の洗脳でしかない。厳密にはマインドコントロールだ。
そりゃ欧米諸国やイスラム圏だって宗教なんつーマインドコントロールに従ってるが、それでも自由主義や道徳規範が大なり小なり機能してるだけマシだ。
それに引き換え日本は、なんだ?無宗教とか言いながら夏にはお盆に祭、冬にはクリスマスに正月。
よくそれで無宗教なんて言えたな……?ってくらい、1976年から日本人は「日本教」に染められてる。
その宗教規範が上述のソレなわけです。
日本教において神などの超常存在は存在しないと思わないといけない……ってのが不文律としてあるんですが。
これが無駄に強固だ。宗教において神の存在は絶対視されるのに、その肝心要の神が「まるで神そのものであるかのように」現実的には居ないものであるとされる。なのに居ると思ってる。
これ、なんか心当たりがないですかね?
「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」
上のを現代風に言うと「天皇と国民とは相互の信頼と敬愛とで結ばれてるもので、それは神話と伝承から生じるものではない。同時に『天皇は現人神!日本人は神の子孫!だから優れた日本が世界を支配すべきなのだ!』なんて架空の観念に基づく結びつきでもない」と言ってるわけですね。
これが「天皇は現人神ではない」と天皇自らが否定した事になる……ってのが普通の受け取り方なんですが。実は、これが日本教のポイントだと思うんですよ。
そう、日本教の正体ってのは本当は「天皇教」なんですよ。それもクッソ強固な。
これ実際に聞いた人間以外は、まあ歴史の教科書で「天皇人間宣言」って見るだけなんで何も思わないんですが。
だけどWikipediaでも書いてあるように「天皇と日本国民の祖先が日本神話の神であること」を否定してない。そして更に疑った見方をすると……現人神である事は否定したが、天皇自身が「神」である事を否定していない。
これを重度の天皇教が聞くと、どうなるか?想像しにくい場合は、自分にとっての絶対者で想像する。
(例えば嫁や夫だとか推しのアイドルやキャラだとかネコだとか、そういう自分の人生を決める最高の存在な)
1. 神は言っている……お前達との絆は絶対的な信頼と敬愛こそが本質である、と
2. だけど神話とか伝承は忘れろ……それは語り継がれることを許されなかった、遙か古の物語……
3. つまり「天皇は神だけど人間のフリをするからオメーら宜しくな」って事か。そんな解釈で大丈夫か?
かくして、日本教はここに成立する。
ここで仮に時の昭和天皇が神の不在を半端にしか言わなかった為、ヤベー存在が量産されまくるのである。
なにせ、最初に超絶技巧で日本国民をガチ感動させてる訳だからね。神ムーブしまくってるからね。
アイドルうんちしないから……なんてレベルでは到底ない。もっと恐ろしいものを垣間見たね。
理想面である天皇の権威と、現実面である総理大臣将軍の権力。この恐るべき分業によって構成された上意下達の支配構造により、この現人神否定ムーブは「その神意でもって」全体に通達される。
そして、それらがメディアのフェイクタイトルによって教科書へと掲載される。
そうなると何が起きるか?
日本教の隠れた神が人間宣言をするのだ、どうやっても劣化した形でそれは受け継がれる。
だから、日本人は自由を「自分の好き勝手に、自分や日本人が神だと思ってるかの如く、周囲に日本人を人間である事を強要する」のだ。
日本人は神を否定する。だけど、そこには自分達こそが神だと言わんばかりの傲慢さと、矛盾した無宗教への信仰が確かに存在するのだ。
そして、そこには昭和天皇の意図は伝わらない。それは戦前戦中と全く変わらない。
思うに、権威と権力の分業というのは……きっと、世界で最も上手くできたファシズムなのだろう。
欧米人の脱権威/脱権力は、その全てが内部からの撃発によって否定された。
つまり真の意味で民意からの革命であり、それは少なくとも「大衆の主観では」自発的に行われた。
それが一種の虚構である事は今の政治を見ても明らかではあるが、しかし、そこには個人の意思こそが優先されるべきという思想が根付いたのだ。
では、今の日本人は……それができるか?
例えば天皇の踏み絵を用意したとして、それを踏めると言えるか?実際に踏めるか?
まず僕には無理だ。
心理的なもの道徳的なものもあるが……それ以上に、周りが怖い。
そんな事をしたとバレたら、きっと僕は今までに得た人間関係の全てを失うだろう。親でもギリギリ、いや知人レベルくらいに避けられるだろう。
それくらいのレベルで恐ろしい行為だ。そうDNAが叫ぶくらいの恐怖を感じる。
我々は、今もまだ「天皇陛下との信頼と敬愛と」に、結ばれ続けているのだと……
僕は、そう畏れている。
それが良いことか悪いことかは、わからないけど。
まあなんでもいいけど、本当に無宗教って神の不在を確信してるなら「宗教の話がタブー」ってのは異常だと思うよ。
本当に神は不在って思うなら勝手に話させとけば良いじゃん。どうせ入信しないんだし。適当に話を合わせておいて受け流しておけよと思わなくもない。
来月、彼等は結婚式を挙げる。
都内の豪奢なホテルに500名以上の人を招き、祝宴を開くのだ。私自身も参席が認められている。あの病院長の息子と言うだけあって、祝賀ムードに沸き立っていた。王妃となるそのお方はヒラヒラと美しい白衣を纏ってみせた。此方を振り返る様は少女のようだ。最終フィッティングが終われば二人は閨を共にし明日への準備を行うだけとなる。
その最終日にIは私を呼んだ。
「勿論、お祝いして下さいますね」
頭を下げて肯定すれば彼女は和かな笑顔を見せた。花のようなお方なのだ。
「良く尽くして下さいました。勿論貴方にも感謝を捧げなければ」
「私に感謝など滅相もございません」
「では一つだけ、最後にお願いを」
「何なりと」
返答を聞いた彼女はそっと私の手を取り、白き指で指の節をなぞる。
頭が真っ白になり何も言えず硬直する。いつの間にか肘まであるグローブを身に付け
無垢なその言葉は淡々と、残酷に告げられる。無慈悲な美しき乙女は、鈴の鳴るような声で続ける。
「此方へどうぞ、歩いてらして。」
時期院長、と一言付け加えて。ぎこちなくなった呼吸を整えると深く息を吸う。ほんの僅かな距離に黒髪の乙女は立っていた。美しい。純白の衣装に身を包んだ彼女はマリアとも見まごうような光を発している。ベールを下ろし表情は隠されてしまっているが、その輪郭は華奢そのもの。
コツ、コツと床が音を立てる。期待に満ちた瞳に自分自身が映っていた。
命じられた通りに差し出された白魚のようなか細い手を取り、口付ける。貴方を裏切らないという忠誠の証。見上げれば彼女の笑みが降り注ぐ。
それも全て明日から袂を別つ事を約束している身だった。決意を固めた彼女は、少し寂しそうにも見える。不安も期待も入り混じる表情で立ち上がった私をみつめた。
そして彼女は私の名を口にする。
「怖くはありません。」
「ええ。何の不安が御座いましょう」
彼女は、底知れない物を抱えている。それが何か解き明かしたかったのかもしれない。
果たして全てを払拭して差し上げる事が出来るだろうか。乙女は瞳を閉じて口付けを待つ。顔を近付け、唇が触れる寸前で止める、つもりでいた。
柔らかな唇の感触に思わず言葉が途切れてしまう。それは、私ではなく院長に捧げられる筈の純潔だ。
「言わないでください、何も。震えてしまいそうです」
あつい熱が喉奥から込み上げる。この方は自分の物では無い、筈なのに。何故こう悲しみとも苦しみともつかない感情が押し寄せるのだろう。契約一つで関係性に何か変化が訪れる訳では無い。秩序の保たれた今迄通りの関係が続いていく筈だ。それなのに、何故。肩を知らず抱き締める。
「…離したくありません」
離してしまえば、貴方はきっと遠くへ行ってしまう。私は一人取り残された心地で祝福するのだ、二人を、遠くから幸せそうに。それが出来たらどんなに良いかと思う。二人の幸せな結末に彩りを添えられる存在であれたら、どんなに。唇を噛み締めた。
浅ましい感情を隠していたのに。一度矜持を失えばどれだけ虚しさが胸を占拠するか分からないのに。そんな私の心を察したのか緩く背中を撫で始めた。
「御免なさい、無理強いを致しました。私の過ちです。どうか許して」
一つ口付けを頬に落として白衣を纏いし娘は去って行く。光だと思われたその姿はいつの間にか影で覆われて、此方を振り返りもしない。明日、貴方は私と同じように同じ唇で院長に口付けをするのですか。愛を誓うのでしょうか。女々しい想いに嫌気がさす程。気付けば首元には汗が流れ「どうぞ、逝かないで下さい」と叫ぶように懇願していた。
そこで、私の目は醒めた。はあはあと乱れる吐息。指先は闇の中で情けなく震えている。
それは現実を映した悪夢だった。記憶を辿ってみても愛したその人がどんな結末を迎えたのか思い出せそうに無い。まるで穴が空いたように、一部分だけが脳裏から欠けてしまっているのだ。無理に思い出そうとはしなかった。
私が秘書を務めるあの医師も夢を見るのだろうか。例えば、オペ中に失敗して権威を失う夢など。その喪失感は計り知れないだろうと想像し、また瞳を瞑った。今日のうちは眠ってしまうに越したことはない。先程の夢も、緊張が見せた物に違いない。だが、意識すればするほど睡魔はどこか遠くへ行ってしまい目が冴えるばかりだった。
そうして俺が目的地へ走っている時、兄貴は乗り物で優雅に移動していた。
「それで弟は、『“M”の話を鵜呑みにする人間が多いのは奴が“インフルエンザ”だから』って言ったんですよ」
乗り合わせたセンセイとバスに揺られながら、なんだかユラユラっとした会話を交わしている。
「どうしてあんなものを信じるんでしょうね。知識や読解力がなくても、そもそも匿名の文章って時点で疑ってかかるもんですが」
「恐らく、そこはどうでもいいのだよ。彼らにとって信用できるか、情報が確かであるかなんて重要なことじゃない」
「ええ? 最も重要な点だと思うんですが」
「彼らにとって重要なのは、興味深いかどうかだよ。その情報に対して自分が何を語りたいか、他人がどう語っているかだ」
「大衆は愚かではあっても馬鹿ではないということさ。あれを本気で、何の根拠もなく鵜呑みにしている人は少ないだろう」
「ああ……そういえば、クラスメートも『本当だったら何か言いたくなるし、嘘だったらそれはそれで何か言いたくなる』とか話してました」
「まあ、場末のネットに限ったことでもないがな。マスメディアで情報をこねくり回したり、コメンテーターが適当なことを言うのも同じさ」
「それにつけても“M”がインフルエンサーだってのは変な話ですけどね。どこの誰かも分からない人間の言葉に権威があるなんて。ましてや一般社会から隔離された状態で、社会の意見だとかを吹聴するなんて馬鹿げている」
「マスダの指摘は興味深いが、案外“M”当人に崇高な理念や目的はないかもしれないぞ」
「では何のために? 他人にどう受け取られるかといった意図や期待も希薄なまま、わざわざ目につく場所で主張することを憚らない。一体どういった心理なんですか」
「要は独白、“呟き”なんじゃないかな。自己顕示欲、承認欲求といったものすら漠然としている。自分の中にある鬱屈とした想いを、ただ発露したかっただけなのかもしれない。ネットにはそういうタイプが結構いる」
「それじゃあ、まるでガムを道端に吐き捨てるようなものじゃないですか。噛み終わったのなら、紙に包んでゴミ箱に捨てるべきだ」
「ネット社会はそういうのに大らかなのさ。現実の公道とは違う。だから、彼らは自分の口の中にある“ガム”を吐き出すんだよ。それがどういう結果に繋がるかを深く考えないまま、ね」
「うーん……理解に苦しみますが、辻褄は合いますね。ネットだからこそ“M”には権威があり、それに便乗して語りたがる奴も多くいるわけですか」
「実際のところは分からないがな」
そんな感じで兄貴たちは今回の件に関わろうとせず、ただ俯瞰して見ているつもりのようだった。
でも憶測をあれこれ立てたり、自分の物差しで思うまま語っている時点で、騒いでいるだけの連中と大して変わらない気もするけれど。
兄貴がそんな悠長な話をしていた時、俺はシロクロの住み家にたどり着いた。
「ウェルカム! 遊びに来たのか? それともオレの力が必要か?」
「え、ボクに?」
この家に居候しているガイドって奴は、遥か未来からやってきたらしい。
テクノロジーも進んでいるから、きっと未来のアイテムとかで“M”を見つけ出せるはず。
「へえー、この時代の人たちは随分と純粋なんだね。情報に関するインフラストラクチャーが整ってなくても、教養や意志が薄弱なままでも、非論理的なものに身をやつせるだなんて。少しだけ羨ましいよ」
いつも通りウザいポジショントークをしてくるけど、今はそんなことで不機嫌になっている時間はない。
「やろうと思えばできるけど……やるわけにはいかないかな、それは」
しかしアテが外れた。
いや、俺のアテそのものは外れていない。
こいつにやる気がないってだけだ。
「なんでだよ、人が死ぬかもしれないんだぞ」
「だからこそだよ。人の生死が左右されるレベルの過干渉は避けたいんだ。修正力で直せないほど未来が変わるかもしれないからね」
「不甲斐ないぞ、ガイド! お前は何のために未来から来たんだ!」
「少なくとも、こんなことのためではないよシロクロ」
じゃあ何のために来たのかというと、それも守秘義務だとかで答えない。
なんだか、実は出来ないことを誤魔化しているだけなんじゃないかと勘繰りたくなる。
「悪いけど他をあたってくれよ、マスダの弟」
何が「悪いけど」だ。
悪いだなんて全然思ってないくせに。