はてなキーワード: きっかとは
いっそ根掘り葉掘りもっと聞いてみれば?
信じたきっかけとか、いつ頃とか、その頃他に何かあったかとか。
よくある他の陰謀論とかも出してみて、
どれをどこまで信じてるか/信じてないかも聞いてみてよ?
先日の土日にて読了。
いや、メタ的というより、メタそのものが作品の主題といったほうが正確だろうか。
読者を小説の中に引き込み、文字通り「参加させる」という構造を持つ『朝のガスパール』は、筒井康隆が80年代に書き上げた、いわば小説そのものの定義に挑んだ挑発的な一冊であった。
あらすじ、といってもこの作品に「あらすじ」を語るのは難しい。
物語というよりも、筒井康隆が直接話しかけてくるような感覚だ。
そして、そこには作者と読者の境界が曖昧になる仕掛けが満載されている。
章ごとに視点が切り替わり、どこからどこまでが現実でどこからどこまでが虚構なのかが次第に崩れていく。
その結果、「これは読者が読む小説ではなく、読者が小説を構成する存在である」という、今で言うメタフィクションの極北にたどり着く。
感想としてまず思うのは、当時としては斬新だっただろうな、ということだ。
こういった作品は現代で言えば、さほど珍しいものでもないだろう。
そう言った意味でいえば『朝のガスパール』はインタラクティブな物語の先駆けとも言えるが、逆に言えば現代のネット文化における安価スレのようなものと大差ないとも言える。
それでも、この作品をただ「古い」と切り捨てられないのは、やはりその「メタ性」の鋭さにある。
筒井康隆の文章は、単に「読者参加型」を装うだけではなく、小説そのものの存在意義を問う仕掛けになっている。
そして、これが面白いのは、その仕掛けが「自分が今何を読んでいるのか」にまで疑問を投げかけてくる点だ。
たとえば、読んでいる途中で「あれ、これ本当に小説なのか?」と思わされる瞬間がある。
それは小説の登場人物が読者に話しかけたり、読者が物語の一部であるかのように描かれたりする場面だ。
その瞬間、読者である私は「あ、この作品は私の読み方自体をも含めてデザインされているんだ」と気づく。さらに、この文章を書いている私もまた、『朝のガスパール』の読者としてこの文章を書いているのであり、ひいてはこれを読んでいるあなたも、私が書いた文章の読者としてこのメタの構造の一部を担っているわけだ。ややこしいけど、わかる?
つまり、筒井康隆が描いたメタ構造は単に『朝のガスパール』の中に閉じていない。
それはこのエッセイにも、そしてこれを読んでいるあなたにも拡張されているのだ。
このことを表現するのに、わざわざ「メタの中のメタに言及するメタ」などと直接書くのは野暮というものだろう。
ここではあくまでそのメタ的な構造を借りつつ、読者がその構造を意識する形で展開していきたい。
最後に、ひとつだけ言わせてほしい。『朝のガスパール』を読み終えたとき、私は奇妙な満足感を覚えた。
それは「小説を読んだ」という感覚ではなく、「小説という空間で作者と会話をした」という感覚だった。
今こうして私が書いた増田を読んでいるあなたもまた、この瞬間、私と会話をしている。いや、あなたがこれを読んでいる時点で、もう私はここにはいないのかもしれないけれど、少なくともこの文章を通して私たちはどこかでつながっている。
そう書いた瞬間、私はふと、この「つながっている」という感覚について考え始めた。いや、正確に言えば、私がここで「つながっている」と書いたとき、その言葉を読むあなたの頭の中で何かが動き始めているのだと考えるべきかもしれない。例えば、今この瞬間、あなたの脳内には「この文章を書いた人は何を言いたいんだろう?」という疑問が浮かび、あるいは「まあ、そういう小難しいことを言いたいだけだよね」と呆れた気持ちが湧いたかもしれない。
でも、それもまた一つの接触点だ。私が書いた言葉が、あなたの意識に波紋を投げかける。それがポジティブなものであれネガティブなものであれ、私たちは今この瞬間、物理的には別々の場所にいるにもかかわらず、思考の交差点に立っている。これを不思議と思わずして何を不思議と思うだろうか?
ここで気づいてほしいのは、この文章そのものが橋のようなものだということだ。私が言葉を選び、それを並べ、送り出す。それを受け取るのは、何千キロ離れたどこかの机の上に座る、見知らぬ誰か。あなた。私がどんな顔でこの言葉を綴っているかをあなたは知らない。あなたがどんな顔でこの言葉を読んでいるかを私も知らない。でも、それなのにこの文章はあなたの目に届き、私はこうしてあなたに話しかけることができる。
そしてここで、私はある種の実験を試みたいと思う。この文章が、ただの文章のままで終わらずに、私という存在とあなたという存在が、少しだけ近づくきっかけになったらどうだろう。例えば、あなたがこの文章を読んでいるときに、なんとなく「書いているこの人、なんだかしつこいな」とか「もう少し簡潔に言えないのか」と思ったならば、それはすでに私があなたの中に存在しているという証拠だ。言葉を通じて、私の思考があなたの中に入り込んでいるのだから。
もちろん、私はあなたの顔を知らないし、声を聞いたこともない。あなたがコーヒーを飲みながらこれを読んでいるのか、満員電車でスマートフォンを覗き込んでいるのか、それとも仕事の合間にひっそりと目を通しているのかもわからない。でも、どんな状況であれ、あなたがこの文章を読んでいる今、私たちは出会っている。あなたの目がこの文章を追い、あなたの脳がその意味を解釈する。それは、私の言葉があなたに届くことで初めて成立する行為だ。
ただ、それを言葉で「つながっている」と表現すると、どうしても味気ない感じがしてしまう。だからこそ、この文章を書いている私が、あなたの中に何かしらのイメージを植えつけたい。例えば、私が今、画面越しに手を伸ばし、あなたの目の前に現れているとしたらどうだろう。いやいや、そんなのはただの妄想だと思うかもしれない。でも、その妄想の中で、私とあなたが初めて握手を交わしたとしたら、それはただの文章を超えた「出会い」だと言えるのではないだろうか。
読者として、いや、このメタの一部として。
ありがとう。そして、また。
どうか健やかに。
今から10年以上前、職場の4歳くらい年上の男と肉体関係を持つことになった。
その頃、私は田舎の介護系のブラック企業という、この世の最底辺の労働環境で働いていた。
やりがい搾取という言葉がこの上なくフィットする、お金だけは介護系にしてはそこそこ出るけど、定時に帰れたことなどなく、休憩は15分取れれば良い方、3K上等、スタッフ間のパワハラもいじめも無視も横行し、社長と看護婦はデキてて、みんなが看護婦の機嫌を窺ってる、そんなすばらしい職場だった。
そんな中だから、みんな内向きの思考になり、都会に出るどころか、会社の中で交友関係が完結する勢いで、職場内結婚は当たり前、当然のように職場内での恋愛、よくてクリーンな恋愛、大多数は浮気や不倫関係が横行していた。
〇〇と△△が付き合っててどこそこのファミレスで見たよ、とか、あの辞めたスタッフ子どもこないだ連れてたけど××との隠し子らしいよ、とか、そんな話題が飯のタネでした。
そんな魔窟で、私も例に漏れず、その男と関係ができたのは、名ばかりのリーダー職になり、給料はさほど上がらないのに、理不尽な責任と無駄だらけの書類と時間外労働ばかり押し付けられるようになったころだった。
その男には他の職場に彼女もいて、私は私で遠距離恋愛してる彼がいた。もうきっかけなんて忘れたけど、同じ部署になって、ご飯食べにいって職場の愚痴言いながら、田舎の寂れた道をドライブなんてしながら、口説かれたりしたんじゃないかしら。
私も何も考えず、仕事帰りに彼の家に行ったり、ある時はドライブの途中で誰も来ないような夜景の見える林道とかに停めた車内だったり、そんなところで逢瀬を重ねるようになった。
その当時私は生理不順もあってピルを飲んでて、だいたい生中出しで気にせずやってたので、それもあって都合よかったんだろうね、週3-4くらいは関係を持つようになった。
当時20代後半、一番体力もあり肌ツヤもよく、そっちの具合もよかったのか知らないけど、最初はすごく楽しい娯楽感覚で、職場にバレるスリルも楽しみながら秘密の関係を続けてた。
繰り返すけど、他に人間関係も楽しみも、資源が乏しかったのよ。
男はもう今や顔も忘れかけてきたけど、東出昌大をちょっとシュッとさせたような端正な感じだったような気がする。
最初は普通のセックスだったけど、私が生中出しも出来るしどんなプレイでもノリよく受け入れていたら、途中から豹変した。
ドS趣味だったらしく、言葉責めもそうだし、おもちゃ使われたり、手足をベッドに縛られてされたりもした。
思いっきり口に突っ込まれて息ができなくなるまで腰を振られるのもしばしば。
特に前処理もせずに、後ろの穴にも突っ込まれて中に出されたりもした。
未体験のことばっかりだったんで正直気持ちいいより戸惑うことの方が多くて、どうすればいいか分からなかったけど、気持ちいい振りをすれば相手が喜んでくれることもあって、どんなプレイも拒むことはなかった。
相手もそれに気を良くしたのか、ついには家族がいる実家にまで私を連れてきて、聞こえるかもしれないのにそこで行為に及び、仁王立ちで無理やり口に突っ込まれるその様を動画に撮ったりもしていた。
私も私で、ここまで体も心も支配される体験をすると、愛されているような錯覚を起こすし、その頃には遠距離の彼よりその男と連絡をとることの方が多くなっていた。
その頃から、ご飯を食べることに対しての感覚がおかしくなった。
食べてその栄養が体に入り、血肉となることへの抵抗感が凄くなった。
もともと食べることが大好きなのに、1日にカロリーメイト一個くらいしか食べれなくなる時期があった、と思うと、凄い渇望感とともにものすごい量の食べ物を一気に食べて、直後に全部吐き戻すようにもなった。
もともとがかなりの健康体型だったので、痩せたといってもちょっと細いかな?くらいのものだけど、今より10キロ以上一気に落ちて、仕事中に倒れるようになった。
その頃になると流石に職場から心配の声が聞こえたんだけど、その職場の中の男とデキてて、それによって病んでるんだから誰にも相談できるわけない。
多分私は、体を重ねすぎてその人のことが好きになってしまい、その人が結婚を前提に付き合っている彼女がいて、その彼女には完璧なアリバイを作りつつ、職場でもそつなく業績をあげつつ、私に鬼畜の所業のようなプレイをしながら楽しんでいるそのギャップに風邪を引いたんだと思う。
片手で彼女と電話しながら、私のことをもう片手で攻めながら、「シー」とジェスチャーして声を出さないように我慢させながら攻め上げられるとか、そんなプレイもよくしてた。
そして痩せ型の女が好みだったその男は、フラフラ倒れるようになった私のそのスリムな体型を気に入って褒めてくれるばかりだった。
より一層私の過食嘔吐はひどくなった。
私は男の愛情を取り込みたいのに取り込めなくて、代わりに何かを取り込みたいけど、取り込んでしまうと身の破滅になるから、吐くしかなかったんだと思う。
関係が終わったのはいたってシンプル、その男がいよいよ結婚することになった時だった。
しかし男はその報告と共にこともなげに
「まぁ、これからもバレなければやっていけばいいしね」
と言ってきた。
そこで嘘のように魔法は解けた。
法的にも、肉体的にもより強い関係の婚姻関係がありながら、私がその人と健康を損なうような関係を続けていくメリットはゼロだ。
きっぱりと、もう終わりにしたいことを告げ、私とその人の爛れた関係は終わった。
そのあと程なくして、私の摂食障害の症状も消えた。
その後関係がなくなっても、その人との職場でのスタッフどうしとしての関係は普通に続いたし、私が結婚して、私がその職場を去る時は、そっとハグしてくれて、私の幸せを願ってくれた。
今となっては良い思い出だけど、あのとき良いようにおもちゃにされて摂食障害にまでなった瞬間的な熱量は、そのあとの価値観にも影響してると思う。
具体的に言えば今でも無理やりされるようなシチュエーションは嫌なのに興奮してしまう癖が残ったし、愛着的なところで不安定になると、つい過食の癖が出そうになる。
あと、ハメ撮りさせたのまじで後悔してる、あれ絶対職場の人とかで回して見られたにきまってるなー。
思うことは、ブラック企業は人を狂わせる。
大学時代にバイト先の先輩から告白されて、それを断ったら毎日LINEを送ってくるようになって、終いには定期的に家まで来るようになった。バイト先の人たちはみんな優しくて好きな仕事だったから半年後にお店を閉めることが決まってたのもあってただ耐えた。
でも家がバレてていつ来るか分からないって結構精神的にしんどくて、どこにも安心できる場所がない。大学生でお金もなかったから簡単に引越しなんてできなかったし。毎日送られてくるLINEも「今家の前にいる」とか「どこで(私)を見た」とか来るから動向確認のためにもブロックできなかった。
そんなことがあって、まぁその前にもいろいろあったんだけどそれをきっかけにより男性が怖くなってしまって、大学を卒業して社会人になっても数年はできる限り男性と関わらないように生きた。けど、ある日ひょんなことから男性の友達ができた。
取引先ではないけど同業者で、ある会社関係の集まりで出会った。お互いあまり大人数が得意じゃないのもあって、テキトーに2.3人で集まって挨拶して、話して、解散しての繰り返しに疲れて隅で休んでいる時に、「こういうの、疲れちゃいますよね」なんて言ったのが最初の会話だったと思う。
その時は仕事の話がメインだったけど、少しだけ趣味の話もして、それで連絡先を交換した。
LINEでやりとりをはじめたら映画の話ですごく盛り上がって、今公開されている映画を後日2人で観に行くことになった。お互い1人で観に行くタイプで、感想はフィルマークスに吐き出すしかなかったから映画を観た後にその話ができるのが楽しくて、映画館のあとに行った飲食店ではひたすら話をした。
それからはお互いが好きなものを勧め合ったり、日常的に連絡を取り合いながらたまに会うような関係になって、お互いの趣味以外の個人的なことも話すようになって、真面目な話もバカみたいな話もできる友達になった。お互い今までの友達に話せないようなことでも話せて「1番の友達だわ笑」とか言って笑いあってた。
2.3年その関係が続いて、ある日その人の家でとあるシリーズ作品の一気観をすることになった。もしかしたら俳優か監督の縛りだったかもしれない。どちらにせよそういうことは前にも何度かしていたし、別にいつも通りのことだった。
何本か映画を観終わって、休憩を挟んでいたときに急に告白された。
タイミングが意味が分からなかったし、そもそも向こうにそんな意識があるなんて思いもしてなかったから驚いた。私にはそういう気持ちがなかったからすごく申し訳ないと思いつつ、この後どうすればいいんだろうと考えながら、このまま友達でいようと返事をした。
そこからは最悪だった。
とにかく目が怖かったし、力は強いし、知らない人に見えて、でもこれもこの人の一部なんだというのが受け入れられなかった。今ならまだ冗談で済ませられるって何故か私もへらへらしてしまったり、本当に気持ち悪い空間だったと思う。
終わった後に、私にこんなことをしておいてそれでも尚好きだと言ってくる心理が分からなくてただただ怖かった。
その日その後どうやって家を出たのかは覚えてないけど、後から懺悔のようなLINEが来て、もうこのまま会わない方がお互いのためだと思ったし連絡を返すことはなかった。それで終わり。
自分に非はあると思う。
これまで異性の友達を作ったことはなかったし、男性を避けていた期間があったせいで余計に適切な距離感が分かってなかった。これまでに好意を寄せてくれた人とも付き合ったことはなかったから交際経験もゼロだし。でもこの経験をこうやって出会いから書き出してみると、最後に付き合っていればよくあるハッピーエンド。私がフラグを折ったから脚本がバグった。
そんなことがあって、昔語り合った映画や勧められた映画、その当時自分が好きだった映画は色々思い出してしまうから観れなくなって、映画を観ることは趣味じゃなくなった。
でも数年経って、最近ふと映画が観たくなってそのままの勢いで映画館に足を運んだら本当に面白くて、それから時間を取り戻すようにサブスクに登録したりしてまた映画を観漁ってる。
映画を観るたびに当時のことを思い出してしまったりするんだけど、自分の中で消化できている部分とできていない部分がある。
あの日彼が私の気持ちを考えずにあんなことをしたことに対しては怒っているし悲しいけど、それまでは人として尊敬していたし、なにより一緒にいた時間は楽しかったし、でも私の中でどうしても人と付き合うっていうことに抵抗があって、もしそんな私じゃなければ相手もあの選択をしなかったかもしれないと思うと申し訳ない気持ちになったり。
自分が友だちだと思って信頼してきた人が、あんなことをした時点であの人は所詮そういう人だったんだと思いたくないのかもしれない。
趣味がきっかけで親友ができて、親友じゃなくなって、もしかしたら向こうは最初から友達だと思ってなかったのかもしれないけど、でもあの時本当に楽しかったことだけは事実だった。
◾️追記
自分がはっきり書かなかったせいで解釈の違いとかで変に対立させてしまったのが申し訳ないです。
告白を断った後に、向こうから一回だけさせてほしいって言われて断ったけどそのままされただけ。相手の力強さとかこうなってしまった悲しさとかで正直途中から諦めてたところもあるし、避妊具を付けずにされるのが1番怖かったから自分から伝えたし、"無理やり"っていう言い方は適さないかも。
コメントの方で書いたんだけど、相手も私と同じく恋愛が苦手って言ってたことを真に受けて勝手に仲間意識持ってたから裏切られた思いが強かったのと過去に色々あったせいで男性が苦手だって話をしてて経験もないって言ってたのにそこに踏み切ってきた失望があって少し被害者意識も強くなったんだと思う。
とにかく怖かったし悔しくて涙が止まらなかったんだけど向こうは私がはじめてだから痛いのかもしれないってやけに身体を気遣ってて、そんなこと思えるなら今すぐやめろよって思うのにやめる気はないし、その状況で勃つのが信じられなかったし軽蔑した。当時はそんな怒りでいっぱいだったんだけど、その怒りの熱も冷めて、時間を置いて今思い出したら楽しかった思い出もたくさん出てきてしまって心情がぐちゃぐちゃだったから書いた。
この出来事自体は2.3年前のことで、直後はまた男性不信になったりしたけど皆が皆性欲をぶつけてくるような人じゃないって少しずつ進んだり戻ったりしながら今は割と普通に接することができてると思う。割り切れたとも言えるかも。今でも付き合うとかは抵抗感があって相変わらず恋愛経験はゼロだし今後もないと思うけど。
男女間の友情なんて成立しないんだって怒って、でもそれって捻くれた考え方なのかもしれないなって思って。でもそれを確かめるためにまた異性の友人を作るほどの勇気はもうない。次に同じようなことがあったら私は今度こそ男性を信じられなくなってしまいそうだから。友人になったところで私相手だとその先で付き合えないし、セフレにもなれないから向こうとしても良くないと思うしね。
でも今後異性と関わる際はちゃんと距離感を意識します。私と相手のために。
※こういう話現実で話せないし、ただ書き散らした文章にせっかく意見貰ったので返信とかしながら改めて考えたりしてたんですが、勢いで書いて後悔してるのでもう返信はしません。ありがとうございました。
で?何が言いたいの?
曖昧こと言って延々粘る構えに入った感じ?
何かのきっかけで法律が出来る→aiきっかけで法律が出来るっていいたい?
それはもう出来てるし、君が望む形になるとする根拠は無いよ
これも解釈が違うかな?何がいいたい?
誤魔化さずに言ってみ?
それ言う奴よくいるけど、LGBTは同じグループだからまとめられてるんでなくて、これまで一緒に差別と闘ってきて、今も共に活動してる歴史があるからまとめられてるんだよ。ストーンウォールでのゲイ解放運動のきっかけになったのはトランス達だったし、そもそもトランスとゲイがきちんと区別されるようになったのは比較的最近で、以前は一緒くたに攻撃されてた。
娘の通う小学校が150周年だということで、記念のクリアファイルを持って帰ってきた。
ふと印刷されてる校歌の歌詞が目に止まり、自分も同じ学校に通ってたので「懐かしな」と眺めてたら、記憶に無い四番の歌詞があることに気が付いた。
「そうそう、四番はなんか歌わないことになってんだよね」と娘。
そういや体育館に校歌のプレートが掲げてあるけど四番の歌詞もあった気がする。でも歌った記憶は無くて、存在すら認知してなかった。
改めて歌詞を見ると『郷里とお国のために尽くせ』という内容で、あーこれは…となった。
なぜか家にあった郷土史を引っ張り出して調べると、前身となった学校から現在の名前になったのが120年前。
校歌の成立がいつかは不明だが、戦後になって「流石にこの歌詞を子供に歌わせるのは不味い」となったのは想像に難く無い。
ただ歌詞の変更や抹消までしなかったのは、歴史を忘れず考えるきっかけを得られるという点において慧眼だったと思う。歌詞としては存在するし特に隠しもしないが、歌わない。
恐らく消極的な落とし所として「歌わない」となっただけと思うし、なんなら「長いし、昔から歌うのは3番まで」という可能性まであるが。
これからお目にかける雑文は、データにもエビデンスにも専門知にも基づいたものではない。
むしろ一市井の人間の有限(どころか乏しい)観察と未熟な想念、そして「何か書かなければならない」という衝迫のみを支えとしている。昔風に言えば標題のとおり印象批評だし、現代風に言えば単なるお気持ちである。
それでも、虚言や流言、罵詈雑言が猖獗を極めるクソッタレインターネットへ供する一服の清涼剤たらんという意志を持って草した文であり、そのように読まれることを希う次第である。
以下に続く文章は、主語がデカすぎるだの、事実認識がお粗末だの、構成がなってないだの様々な批判に晒されるであろうことは最初から織り込み済みである。いずれも筆者の能力の至らなさに起因するので「ごめん!」としか言いようがない。
もっとよりよい認識や知見の給源は他にあると思うので、それらに接するのが一番いいと思う。そのような批判を恐れずにあえて書く理由は、まさに標題で仄めかした「民主主義を虚無に捧げてはいけない」という信念を擁護するために自分でできることをしようと思った、ただそれだけである。
この文を書こうと思った直接のきっかけは昨日の兵庫県知事選挙である。
つい1週間ほど前に太平洋の向こう側でトランプが当選し、「MAGAくんさぁ……」という軽侮の念を抱きつつも、どこか他人事の如く受け止めていた自分がいた。
しかし、メディアやネットでパワハラ野郎だの私利私欲を極めたゴミだのサイコパスだのさんざん叩かれた斎藤元彦がメイク・ヒョーゴ・グレート・アゲインした途端、愚かな民衆なる集合は爆弾ゲームよろしく我々にヒョイと手渡されたというわけだ。
尤も、自分の最初の認識がそもそも間違っていたというのは認めるにやぶさかでない。要は愚かな民衆も、賢明な民衆もどこまでいっても抽象概念で、そのような概念で語れる事柄には限界があるという単純な原則をしばし忘れて物を考えがちというだけのことだ。
このような間違った考えで一喜一憂しているのは筆者だけはないらしい。
選挙結果が出てから、兵庫県知事選は立花某にハックされたということや、あるいはネットで真偽不明の奇々怪々なフェイクニュースを浴びせられて正常な判断ができなくなった結果だとして、SNSと選挙の結びつきを否定的に見ている向きがある。
もちろん、我々はアメリカの大統領選にロシアやイランが介入しようとしたという事例を知っている。ならず者国家の裏工作を挙げるのが極端だとすれば、ケンブリッジ・アナリティカのような倫理観の欠片もない連中がいることも知っているはずだ。
しかし、現段階の情報でもって、兵庫県民は騙されたのだという前提で話を進めるのは問題だろう。それをもってしても社会の底が抜けたとか、もはや民主主義は終わりだという悲観的で短絡的な発想に至りがちということを見ても、この種の作業仮説は民主主義に有益どころか有害であることは明らかだ。そういう人たちがエピストクラシーを実現するのか、リベラルな思考をもった等質的な市民たちによる思想のゲーテッド・コミュニティを作るのかは知らないが、それはきっと非民主主義的な操作で行われるものではないか。筆者はリベラル嫌いだが、それでも自分たちの理念に後ろ足で砂をかけるような彼ら・彼女らは見たくないというのが嘘偽らざる思いだ。
各種報道を見る限りでは、兵庫県民は普通の民主主義国家における市民と同じくらいの能力や感覚を持ち、それなりに各候補者を比較考量した上で投票に臨んだと考える方が現実に近い、と筆者は考えている。
ここでは斎藤や稲村の政策についてどっちがいいとかいうことは考慮の埒外に置くが、少なくとも「何かいじめられててかわいそうだから!」とか「メディアの一辺倒な報道が気持ち悪いから!」だけで110万票も取れるんだとしたら、残念ながら民主主義以外の選択肢の有効性も検討すべき時期が来ているのかもしれない。もちろん、実際のところそうではないのではないか、というのが筆者の見立てだ。
何が斎藤元彦に再び県庁の敷居を跨ぐことを許したのか。それを考えるために補助線を引きたい。もちろん、論理的必然性をもった操作ではない。何故ならこれは印象批評にすぎないので。
少し前に国民民主党の玉木代表の不倫問題が報じられた。不倫の責任の取り方は様々だろうが、代表を続投しこれからも頑張っていくということが比較的多くの人に受け入れられているように思った。
その方策の是非はともあれ、手取りを増やそうというストレートな訴えが若者を中心に多くの支持を広げていて、それに水を差すような報道を苦々しく思っている、あるいはある程度「相対化」可能な事柄だとして脇に追いやってもいいという雰囲気があるように筆者の目には写った。
筆者個人はこの種の思潮には到底賛同できない。不倫するような人間に増やしてもらう手取りなんぞはこちらから願い下げである。議員辞職するまでではないとしても、代表を辞任し一兵卒として政策の実現に邁進するということだって責任の取り方としてありえたのではないかと思っている。
どれだけ政策を懸命に訴えても、政策を進める当事者の「人品」というのは、決しておざなりにしていいものではない、と個人的には思う。実際、自民党の政治資金収支報告書不記載の問題に端を発する「裏金」逆風はそのような考えから生まれたわけだし、与野党伯仲という結果に実を結んだと考えれば、個人的かつ奇異な考えではないとも思う。であれば、妻子ある男性が別の女性に懸想することを問題視しなくていいのだろうか(妻子にとっては経験しなくていい嫌な出来事であるし、相手方の女性が公党の代表者と不倫したことがバレればその社会的地位をも脅かしかねないという帰結を予想できなかったのであれば、政治家どころか責任ある社会人としても御しがたいレベルの不見識なのではないか。)。
とはいえ、上の筆者の考えは少数派に属するものだと思う。不倫は家族や当事者の間で解決されるべきでダメだったら家庭裁判所へどぞ、というような私的な話で、こんなことのために俺たちの手取りが台無しになってたまるか、玉木はきっちり反省してその後頑張れという意見が大勢を占めているのではないか。
そしてこれは、斎藤が公益通報制度を度外視して告発者を袋小路に追い込んだことや、トランプが弄する信じがたい人種差別的・性差別的言動によって当事者が傷つけられることを等閑視するメンタリティと相通ずるものがあるのではないか。
もちろん、そういった非倫理的な行いに諸手を挙げて賛成するダークトライアドガチ勢のような人間ばかりではないだろう。しかし、それはそれとして、というような相対的態度をとらざるを得ないのは、言い換えれば自分たちにとって焦眉の問題が別にあるということにほかならない。
このような相対化を導くに至る根源的な不満の存在それ自体は目新しい指摘でもなんでもない。ラストベルトの労働者も、閉塞感を感じてきた兵庫県民も、手取りが増えない若者のいずれも「古くて新しい問題」であり続けている。目新しいことでもないのに、定期的にこの種の話が出てくるのは、解決が困難なことの証である。そもそも解決可能な話なのか? 全てのステークホルダーに満足を与えられるほどのリソースがあるのか? 自分たちの満足のために誰かにふるわれる不正義もやむなしとする世界で、オメラスから立ち去る勇気を持つ者たちが果たしてどれだけいるのか? 我々はずっとこの問いかけの中に閉じ込められているし、この困難さを抱きしめることが民主主義の要諦なのかもしれない。
この文では、貧しくあってもせめて人並みの倫理ぐらいは持てよバーカ、とか、人民の悲しいまでの想像力の欠如を嘆かん、という倫理的お説教や慨嘆を述べ立てるつもりは毛ほどもない(そういうリベラルへの嫌悪感を筆者は多くの人と共有するものである。)。政治家に自分たちの方を向いてほしい、助けてほしいというのは当然だし、その願いが届くのが民主主義のいいところではないだろうか。
だが、その時、もしかしたら誰かを犠牲にしているのかもしれないという一抹の不安は感じてほしいなとは思っている。それが望蜀に属する話だとしたら、民主主義の皮を被った椅子取りゲームを続けるべく、我々はいつ鳴りやむか分からない音楽に耳をそばだて、減り続ける椅子を横目に生きていくのだろう。これがいいとは、筆者は決して思えないが。
「あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。」
大人になってから『のび太の結婚前夜』を改めて見た時に、「なんて当たり前のことを言ってんだ。よっぽど褒める言葉が見つからない時用の言葉って感じだ。」という冷笑的な感想を持った。しかし、今ならのび太が全くもって稀有な人間であったと痛感せざるを得ない。
立花が言うように元県民局長がどんなに酷いことをしていても(逆にどんなにいいことをしていても)、斎藤の拙速かつ強引な統治手法(このことは必ずしも立証されていないが、その後の百条委に至るまでの対応を見ればそう思わざるを得ない)に問題意識を感じて声を上げたこと、そして斎藤がそれをこれまた拙速かつ強引に対峙し、県政停滞のハードランディングに至ったのとは別の問題である。その対応に関する法的な問題などはこの際措くとしても、百条委で問われた道義的責任を「わからない」と述べた斎藤が、再選で得た民意を盾にこの問題を「相対化」しようとする危険性がないとは決して言えないだろう(当選後、記者団に対して「知事部局として一緒にやっていくのは公務員としての責務」と述べたのは、県職員に対して「俺は民意を得たんだからお前らがついてくるのは当然だよな?」と釘を刺した形とも言えるし、先行きは不透明だ。)。
斎藤に投票した人は、せめてそういう状況が棚上げになったままであることを認識した上で、自分たちの居心地の悪さに素直に向き合ってほしいと思う。(元県民局長が死んだのは別の理由であるという卑劣な矮小化をするのではなく、)たとえ拙速で強引でも斎藤が自分たちにとっていい兵庫県を作ってくれると信じて投票したのだとすれば、その結果誰かが痛い目を見ることになるかもしれず、それはひょっとすると顔見知りかもしれない。その時、その人の不幸を悲しみ、その人の幸せのために何かできるだろうか。そういった考えを頭の片隅に置き続けることが、民主主義のレジリエンスを形作る重要な要素だと筆者は考える。清廉潔白完全無欠な政治家が存在しない世界で、民主主義を選び取った全ての清廉潔白完全無欠でない我々にとって、「それがいちばん人間にとってだいじなこと」ではないだろうか。
日々の生活に汲々として自分の人生にやりきれなさを感じながら 「人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむ」というのはそうそうできることではない。とはいえ、できていないなと思うだけでも、「あの時できなかったから次こそは」という思いにつなげられるかもしれない。
同大社は「御朱印をきっかけに信仰に興味を抱いてもらえれば」とするが、
中には御朱印帳ではなく大学ノートに御朱印をもらおうとするなど「スタンプラリー感覚」で集める参拝客もいるといい、戸惑いを隠せない。
自分は昔から嫌なことがあったら引きずってしまうタイプで、思い出すと嫌な気持ちになるから、早く忘れてくれと願った記憶が多々ある。
そのおかげかどうかはわからないが、自分は昔の記憶がほとんど思い出せない。
(前後が矛盾しているように思われるかもしれないが、いまあるのは「早く忘れてくれと願った記憶が多々ある」という形骸的な記憶で、その内実がどうだったかはもう覚えていない)
何がきっかけでそうなったのかはいまとなっては思い出せないけれど、過去の自分を記録しておくことに嫌悪感があったことは一因であるだろう。
でもいま思うと、もっと日々の取り留めのないような日常や幸せをもっと覚えておけば良かったように思う。記録しておけば良かった。
一方で、いずれにせよそれは無理だったろうと思う自分もいる。
昔から自分は物事をちゃんと考えるということをしなかったから、誤った行動をたくさんしてしまったし、内向的消極的だったから友人関係を留めておくこともできなかった。
仮に学生時代に戻りそれからまたこの年齢まで生きたとして、じゃあ今度は幸せな記憶を積み上げていられたのかと考えてみると、自信が全くない。
結局のところ自分はこういう人間で、何をしたら楽しいのかも良くわからなくなってしまったいま、これから良い思い出を重ねて覚えていることができるんだろうか。
その自信も全くないけれど、こうやって取り留めのないことを考えたという記録くらいは残していきたいと思っている。
はい、医学部入試における女性差別の問題は2018年に大きく報道され、社会問題となりました。
主な事実は以下の通りです:
2018年8月、東京医科大学で女子受験生の得点を一律に減点し、合格者数を意図的に抑えていたことが発覚しました。
この不正は2011年頃から続いており、女子の合格者を3割前後に抑えるよう調整されていました。
東京医大以外にも、順天堂大や日本大など計9大学で女子差別や年齢差別などの不適切な入試が確認されました。
背景には「女性は結婚や出産で医師をやめるケースが多い」という考えがあったとされています。
この問題をきっかけに、文部科学省は全国の医学部に緊急調査を実施し、入試の実施要項に差別を禁止するルールを設けるなどの対策が講じられました。
既婚、子なし、結婚11年目にして、初めて妻以外の人と不倫関係になった。
俺が不倫をするなんて正直、半年くらい前まで想像もしてないくらい、妻のことは好きだった
今でも大好きだし離婚する気はない。
俺が結婚する前に、婚約までしていた女に浮気され、別れたこともあった。
軽くトラウマになるくらい傷ついて、その傷を癒してくれて結婚したのが今の妻だ。
不倫関係が始まったのは本当に些細なきっかけで、相手も既婚者で、お互いにその関係を崩す気はない。
正直、自分がこんなに器用に不倫関係と妻との関係を両立できるなんて思っていなくて、拍子抜けしているくらいだ。
一方で、バレた時に妻を失う恐怖、バレなきゃいいや、と不倫相手との関係をやめたくてもついやめられない自己嫌悪もある。
良くある話だけど、まさかあんなに浮気に傷ついた自分が浮気することになるなんて思ってなかったんだ。
罪悪感もある、でも、バレなきゃ楽しんだって良いと思ってしまうから、つくづく意志の弱い人間だし、人の気持ちの変化って分からないもんだよなと思う。
TVRって知ってる?
イギリスの小さなスポーツカーメーカーなんだけど、独特なデザインと高性能が特徴。「グランツーリスモ」や「フォルツァ」のようなレースゲームでも時々見かけると思う。
日本だと、西部警察の撮影で事故を起こしたっていうエピソードが有名だけど、TVRが作る車の特徴が現れてると思うので、まずその紹介から。
TVRタスカンを運転していた俳優さんが、見物客の列に突っ込んじゃって、5人が怪我をしちゃったんだ。これがきっかけで、西部警察の制作が中止になっちゃったんだよね。
TVRタスカンって、見た目が特徴的で、絵も映えるんだけど、撮影中に見物客をひくなんて言うあってはならない事故が起きちゃった。
でも、これは車に原因があったみたいなんだ。
タスカンって、車重1100kgなのに350馬力もあるんだよ。
それに、ABSもトラクションコントロールもついてなかったから、本当にベテランレーサーじゃないと扱いきれない車だったんだ。
ただこの事故、TVRの特徴をよく表してるんだよね。パワフルで軽量、でも扱いが難しい。
そこがTVRの魅力でもある。
さて、そんなTVRって今どうなってるんだろう?
実はね、TVRは2006年に経営破綻しちゃったんだ。でも、2013年に新しいオーナーが現れて、ブランドの復活を目指してるんだって。
2017年に新型スポーツカー「グリフィス」を発表したんだ。これがTVR復活の象徴になるはずなんだ。
ただ、生産開始がどんどん遅れちゃって、2024年、つまり今年になっちゃった。
TVRも時代の流れには逆らえないみたいで、電気自動車にも手を出すみたい。
自分のようなファンとしては、TVRが復活するのを心待ちにしてるんだ。
でも、新しいグリフィスやEVモデルが、昔のTVRみたいな魅力を持ってるかどうかが気になるよね。
TVRらしい個性的で高性能な新しいモデルが出てくる期待が止まらない。
みんなはどう思う?
TVRの復活、楽しみにしてる?
それとも、もう時代遅れだと思う?
そのさ、6%ないし3%を無料石の数十連分で運良く引き当てられないと天井9万円(実費で7万くらい?)コースに突入するか掛けた石が無駄になるかの二択を迫られるガチャシステム、もう耐用年数過ぎてると思うんだよね。
そのシステムだと、どんだけ新キャラをコンスタントに実装してても、結局みんなフェスまで溜め込んで同じようなキャラ引くことになるし。非フェスで推しが来たら、ほぼ確で愛のために9万近く取られることになるわけでしょ。異常だよ。
グラブル確かに絵はいいしキャラストも読み応えあるのは分かるんだけど、どう考えても釣り合ってないんだよね。思考が昭和バブリーすぎるというか。
原神以後の中華ガチャゲーみたいにしたほうが絶対いいと思う。具体的にはね…
基礎確率0.6%でまず運頼みでは引けないんだけど、74連から確率が6%ずつあがって大抵みんな80連前後で星5出ます、星5天井は2万くらいです、ただし50%ですり抜けて非ピックアップが出ます、
ただ一度すり抜けたら次の天井では確定でピックアップ(PUは常に1人)です、最大約4万かかりますが平均的には2.2万くらいで引けます、天井まで届かなくても次以降のガチャバナーにカウント引き継がれるのでどんな引き方しても必ず一定間隔で星5やPUは取れますって感じ。
石はログボ配布は1バージョン(6週間)で10連程度だけど新規コンテンツから回収できる分あわせると80連分(実質1天井=2万相当)くらいあって、1verに新規キャラは1~2体。課金は星5の獲得周期を狭めることで実質時短課金みたいなイメージだね。
あえて確率を絞って収束させやすい設計で、原神に関しては2連続/3連続ですり抜けると次が50%/100%ですり抜け阻止する仕組みも入ってて、本当に運による不幸や不公平感を低減しつつガチャ的な楽しさを残す意図が見える。
この仕様のおかげで、運に頼ってる感なく、狙ったキャラは無課金者だろうとほぼ確実に引いていけるんだよ。引けるタイミング(PU確定80連前後)を狙ったキャラの実装時に合わせるだけだから。ガチャが計画性の機能するゲームになってる。むしろ運よく早く引けると計画崩れるっていうね。
ただ、ガチャが優しいのは、ゲーム設計がスタミナ石割り前提の育成リソースきつめになってることも原因で、石も割らずバトルパスも買わずだと本当に追いつかない。
といってもグラブルみたいに素材あつめのために長時間周回が必要なことはない。スタミナさえあれば数分で終わるのは中国の未成年ゲーム規制(1日2時間)のおかげかもね。
あと、グラブルは武器といっしょにキャラがついてくる形だけど、武器ガチャは別になってるんだよね。これが沼で、中には鳴潮みたいに天井=PU武器確定になってる優しいゲームもあるけど
これは基本的に、ネットゲームで言う性能つきアバターガチャみたいなもんなの。キャラに見た目も性能もマッチした武器を持たせたいという欲に負けた人が回すガチャ。
コストはキャラと同等かちょい安くらいだけど、冷静に考えるなら、このガチャは月に万単位課金できる人でないと回さない方がいい(星4武器で間に合わせられる)んだけど、ここの自制心が効かない人は旧式ガチャゲーと大差ない金ドブ具合だね。
とはいえキャラさえ確保すれば追加コンテンツ的なゲーム性要素は9割体験できるようなもんだから、欲を出す段階が細かく分かれてるのはいいことだと思う。
そういう根本的なゲーム作りの違いがあるとしても、真似できる部分はあると思うんだよね。見習うならフェスみたいなのは廃止することになると思うけど、中華ガチャに慣れた人がグラブル等の旧式ガチャゲーに戻れない最大の理由が、ここにあると思うから。
ガチャがしんどい部分をどうにかすれば、コラボとか何かのきっかけで復帰できる人は多いと思う。コンテンツ力はあるからね。
グラブルって全キャラ所持してる人が中村悠一氏ただ一人なんでしょ?それもガチャシステムが誘引してるゲーム設計のせいだと思う。
逆に原神系は、月平均4千円くらいの微課金勢にとっては、全キャラ確保こそがもっともコスパよくゲームをしゃぶりつくせる引き方で、現実的に達成できるんだよ。だから全キャラ確保志向のユーザーは比較的多い。
ゲーム開発者の視点から見ても、せっかく作ったキャラなんだからなるべく多くの人に触れてほしいはずだし、全員がフェスの強キャラ性能を頼りにするよりも、いろんなキャラを確保して遊びの幅を拡げたほうがエンジョイできるゲーム作りにする方が理想的だと思う。
まあ引退ユーザーが偉そうになんか言ったところで何も変わんないけどね。
現実的にガチャ周りを変えられるとしたらグラブル2みたいな新アプリにして引き継ぐ感じになると思うけど、息が長いわりにそういう話聞かないよね。スピンオフは凝ったもの作ってるのに。
増田のダメなところを教えてやる。まず、感情を整理せずに感情的になるだけでは問題の解決にはならないぞ。時給が上がった理由や、クビになった具体的な理由をまず確認すべきだ。勝手な憶測で不満を抱くだけでは、同じことが将来再び起こるかもしれない。
次に、社長に頼んだ結果としての時給アップとクビという展開だが、他の人がどういう状況なのかを確認することが先決だ。なぜ時給が上がったのか、その裏にある事情を理解しようとしないで、一方的に憤慨するのは未熟だ。
また、親に言われたことについてだが、「働け」と言うのは経済的な自立を促すことだ。親の心配はありがたいが、泣いて終わらせるのではなく、自分の行動で示すことが大事だろう。
友達との関係についても、気まずくなるのは、勝手に自分の感情を想像してしまっているからだ。友達に対して正直に話すことで、状況をわかり合い、協力して状況を乗り越えることができるかもしれない。
そして、社長に対する怒りについては、感情を抱くのは当然かもしれないが、その先に冷静に考えることが求められる。これをきっかけに、自分の働き方や職場をどう選ぶべきか、もう一度考え直す時期だと思わないか?
妻は毎朝六時になると素振りを始める。
気付いたときにはリビングの端に、見たこともないバットが一本壁に立てかけてあった。
新品のバット。
きっかけはバッティングセンターに行ったことらしい。
初めてのバッティングセンターはとても緊張したらしく、それでも非常に楽しかったのだと言っていた。
上手く打てなかったんだよね、でも一球だけ打てたの!と妻は嬉しそうに話した。
とっても気持ちよかった、と妻。
それ以来、妻は朝になると素振りをする。
ブン、ブン、ブン、とリビングで鋭い音を立てる。
その音を、寝室にいる俺は耳にする。
猫は怯え、俺の傍から離れない。
ブン、ブン、ブン、と鋭いスイングの音が聞こえてくる。
あのバットは、いったい何を打とうとしているのだろうか
なぜか自分のことを何倍も何倍もよくしたセルフイメージに取り憑かれてることが多い。
「ホストみたいっていわれたww」とか絶対誰にも言われてないであろうただのチーの者とか…
自己愛が強すぎるというかなんというか、自分の妄想に取り憑かれるがあまり、自己の認識を改変してるオタクの痛々しさよ……
「まあ、どこかしらで自分のイタさに気づいて社会生活に溶け込むようになるのが大半だろ」と普通思うよね?
でも、その自己愛強めの痛々しい言動が治らなかったのが30代の私の友達である。
かれこれ長い付き合いの友達だが、最近はもう、イタイを超えて、【ヤバい】言動が増えた。
最近はもうフェードアウトして関係を終わらせることを考えているほどである。
夢女子ということもあり、自分が作った推しと恋愛する時用の女キャラの設定がそのまま自分であると誤認識している。
以下、彼女がよくいう「自分ってこうだからさ笑」という設定である
・剣道をやっていたからキレると棒状のものを探してしまう。なければ素振りみたいな動きをして相手を威嚇する
・座る時はうんこ座りが基本。癖になっているので周りから「元ヤン」といわれている
・元ヤンだが生徒会に入るぐらいには先生からの評価も高い。裏番長的な存在
・長女気質でしっかりもの(これが増田的にめちゃくちゃやっかい)
なぜ最後のが厄介なのかというと、
旅行に行って、
「あそこにお団子屋さんがあるよ」と増田が右を指差せば、
「お団子屋さんはそっちだよ」とさっき増田がさした右を指差してくるからだ。
頭がおかしくなりそうだよな?
しかも、「増田しっかりしなよ!まあ長女だからいいけど笑」とかのたまうので、「頭大丈夫か?」といいたくなる。
ここで、「いや、私さっき右刺してたじゃん!」というと、
「えーそうかな?絶対増田が間違えたんだよww」とか、「左に見えたんだから仕方ないでしょ!」など更に頭がおかしくなるようなことを言ってくる。
思えば、昔から私が案内してる道が正しいのに、肩を掴んで体の方向を無理やり変えられることもあった。
昔はまだ謝ったりしてきたが、今はもう現実を改変してまで自分の設定を優先している。
増田「現在地から近い駅が歩いて15分、電車のって目的地までが5分で20分かかるね」
ヤツ「わかった」
ー目的地到着ー
ヤツ「20分じゃなくて5分じゃんww全然違うwwいっつもそうだよねー!笑笑」
ヤツ「いや!絶対言ってない!」
自分の話したいことだけ話したいから、話の前後関係なんか気にしない
誰かが喋っている内容も、自分の話にするために誰も知らない情報だけ話したりする。
どういうことかというと、
A子「最近この映画みたんだけど、めちゃくちゃおもしろかった!」
増田「それ見たかったやつだ!この監督好きだもんね。ホラー得意な人だし」
ぐっさんパイセンが誰かも知らないし、このあとヤツがベラベラ喋る内容の全てが知らない話だった。
相席食堂のエチオピア回で、知らない食材名で知らない料理を完成させるシーン(オフチョベットしたテフをマブガッドしてリットを作ります)があるけど、同じ感じ。
とりあえず話し相手から「なんの話?」「それは誰?」というリアクションが返ってきたら自分の話をしてもいいんだと思ってる。会話泥棒してる自覚なし。
こういう時は発言自体をスルーしないといけないんだけど、普通の人は会話の中で誰かがいった発言をそのまま無視できない。
付き合いの長い私が、
「A子も増田もFGOやってないから!笑 今は映画の話ね!」といって軌道修正するしかない。
3人ならこういう軌道修正は必要なものの、概ね普通の会話ができる。
最近は複数人でしか会ってなかったからヤバさにそこまで気づかなかったけど、2人だと本当にやばいことになっていた
会ってすぐの会話が
私「久しぶり〜!元気だった?」
友「まあね!てか☆☆(人名)の新規絵実装で○○(人名)大発狂でワロww⬜︎⬜︎(人名)もサイコパスすぎるwwwほんまおもろいwww」
である。
「(増田は知らないと思うけど今@@っていうTRPGのシナリオに私や私のTwitterフォロワーがハマってて、そこに出てくるNPCのキャラクター)☆☆の新規絵(がTRPG作者の⬜︎⬜︎さんのTwitterで)実装で(増田ちゃんが知らない私のTwitterのフォロワーである)◯◯大発狂(狂喜乱舞)でワロww(TRPGの作者である)⬜︎⬜︎も(こんなに人をよろばせられるなんてある意味)サイコパスすぎるwww」
trpgは10年前にプレイしたことはあるぐらいで、全く知らないし、私は彼女のTwitterをフォローしていない。
ここに出てきている話の全てを知らないのである。
こんなに相手側の理解力に100%寄りかかったコミュニケーションとってるくせに、
「登場人物すべての思考をリアルタイムで考え続けてしまって疲れるから」なんだって笑
嘘つけよ笑 できてねえよ現在進行形でよ笑
実際、帰り際つかれまくって一人カラオケ行った方が楽しかったんじゃないかとふと思った。
会った後「会わなきゃよかった」と少しでも思った時点で、私の中で友達ではなくなってしまった
半分以上嫌いになりかけてるし、喧嘩別れをいつかするぐらいなら、徐々にフェードアウトしていったほうがいい。
本当に痛いしムカつくしうざいんだけど、善人ではあるんだよな……本当はいいやつではあるんだよ……
だからこそ悲しい。
はてななんて友達は見ることもないけど、これ読んで「自分のことかも」と思ってマジで治してくんねーかな…
もう30代なのにこうなってる友達は、何言っても変わらない。
観測してる限り反AIたちが燃やしたのは生成AIのマスターピースになった(彼らの言葉でいう盗まれた)側の手描き絵師と生成AIを容認している手描き絵師と
オプトイン素材で作られた彼らの言うところのクリーンなAI諸々で
被害にあったっていう人も然るべき専門家に相談することもなくXで悪口大会を開くだけで
どっちがクリエイターの敵なんだ…?という感はあった
数でいうなら実際に一次創作者の権利を侵害している二次創作の数とi2iやLoRAによるなりすまし、著作権侵害、どっちが多いかわかってるんだろうか?
もしかしたら自分の絵柄に似た絵柄を出力できるかもしれない生成AIが存在するかもしれないから法整備しろって、それで影響受ける人がどれだけいるか考えたことあるのだろうか
去年くらいからエロ同人ゲーム(「ジーコ」という業界用語がある)の世界にハマって、DLサイトでバンバン買っては遊んできた結果、これは!と思ったものをリストアップする
なお、俺はショボいMacBookに仮想マシンを入れて無理矢理Windows向けのゲームを遊んでおり、プレイ環境は信じられないほど悪いため、まっとうなスペックが必要なゲームについてはそもそもプレイできていないという点には注意が必要だ
それが俺の目下の目標かもしれない
高校生の魔法少女であるアマネちゃんとなって、怪人と戦っていく その過程で色々とエロい目にあう
個人的には、全体的なバランスを見たときにもっとも出来がいいと思うのがこのゲームだ
ボリュームが高くて、自由度があって(やりたいことがやれて)、エロのクオリティとゲームのクオリティが両立されている
エロ同人ゲームなのに、クリア後にしばらく時間をおいてまた始めたりすることがある
なんなら俺はDLサイト版に加えてSteam版も買って、中国人有志が作った大型modを怪しい海外コミュニティに上げられていた怪しいクラウドから落として、英語翻訳パッチをあてて英語で3週目をやっている そのくらいの熱を注げる作品だ
現代モノ、魔法少女モノとして欲しい要素をほとんど取り揃えている感じで、シチュの網羅性が高く、またエロシーンそのものの質も高くて、端的にいってシコれる
個人的にポイントが高いのが、戦闘に組み込まれたエロや、雑魚的に負けてしまうと見られる、されたことのログがランダムに流れていく形での"敗北者の末路"エロ、自分で匙加減を選べる公園露出イベントや、電車でのミニゲーム的な痴漢エロなど、インタラクティブだったりゲーム要素を取り入れたりしているシーンが多いところ
シーンに入ったら決まったテキスト・CGの紙芝居が再生されて終わり、というだけではないシーンの数がそれなりにあるのが、セレスフォニアの世界に生き生きとした風を吹き込んでいるように思う
舞台となる街のエチノミヤ市とかいうクソみたいな名前もかなり好きです
竿役としてはなにせ種蒔先生がよかった
種蒔先生との一連のシーンはもう、僕の心のど真ん中という感じで、時折思い出してはシーンを見にいくことがある
普通にRPGとしても面白くて、敵を倒して得た、金とも経験値とも違うリソースを使ってスキルや武器を強化していく要素が楽しい
じっくりやれば主人公がクソ強くなり、高難易度でも戦闘で負けようがないくらいになってくるのも愛嬌のひとつですね
そんで、導入のハードルは結構高いんだけど、通称CN modと呼ばれる上述のModもかなり良い
原作では結構、本気で魔法少女としてのロールプレイをやってれば引っかかりようのない罠とか、かけられようのない呪いみたいなのがあるんだけど、そのあたりに手を加えてくれて、クソ強くなってもう負けねえわと慢心してるところでガチの敗北を味わされたりするので、チンチンに良い
余裕で勝つつもりでボスに挑んだらいきなり弱体化の首輪をつけられて追い込まれ、負けたとき、俺の心は完全にセレスフォニアになっていた
今の俺のメインの性癖(誤用)はNTRで、なかでもこう、「男主人公目線で寝取られていることを匂わせるものだけを見せられる」的なのがすげえ好きなんだけど、じつはそれに本格的に目覚めたのはこの作品がきっかけだと思う
素晴らしい作品です
ほぼNTRシーンのみのNTRゲーで、現代の田舎町を舞台に幼馴染と過ごすひと夏の青春、そこに忍び寄る間男達の影……という感じだ
なんせ男主人公で、直接的なエロシーンは回想部屋的なところでしか見られない(寝取られルートに入っていても、ラストを除けば直接のエロシーンを見ずにクリア可能)というところが素晴らしい
没入感が違うんだ
幼馴染をほっぽって村をブラついてたら、幼馴染がきったねえ浮浪者みてえなエロオヤジの住んでる小屋に入っていくのを目撃してしまい、近くに寄ってみると衣擦れの音とか微かな嬌声が聞こえるんだけど、実際に何が起こっているのかは分からない そういうのを重ねていける
チンチンが…爆発する!!
RPGの形をとってはいるものの、実態としてはアドベンチャーに近いため、難易度とかそういう概念はないんだけど、その中でちゃんと「これは俺の選択だ」と思えるようなつくりになっていて、この形式の作品としてはちょっとこれ以上の正解は出せないんじゃないかと思う
しかし名作とされていて、なにせ内容がいい
内容がいいっつうか、まあ、エロいですよね
毎朝電車で乗り合わせる美少女をマークして、ひたすら痴漢する それだけだ
ストーリー的にはちょっとしたツイストがあって、シンプルな現実の性犯罪としての痴漢を描いているわけではない
俺は現実にはぜってえ痴漢とかやりたくない(相手の気持ちを思うと申し訳なさすぎてチンチンが勃つどころではない)んだけど、今作では序盤から「これはただ性犯罪者がなんの縁もない被害者を無差別に襲っているわけではなさそうだぞ」というのを感じさせてくれるので、ノりやすかった
実際のところこのゲームですら最初のほうはやや躊躇があったというか、「何もしない」を何回か選択したりもしてたんだけど、そういうこともできる作りになってるのもイイ要素ですよね
通学電車という限られた時間の中で、また衆人環視という制限された条件の中で、こっちを敵視している相手を少しずつ懐柔していく まあファンタジーなんだけども、ファンタジーとして乗っかれるだけの強度があるんですよ
チンチンが勃つんですよ……
選択肢(どこをどう触る、あるいは何もしないなど)を選んで痴漢をしていく、ひとつ行動するたびに時間が経ち、また周囲からの注目度も変動する
周りにバレないように、限られた時間のなかで何を成せるか そういうゲームだ
ループものでもあるので、一回あたりの時間は限られているとはいえ日数は無限で、ゲームオーバーにもなり放題 かなりforgivingな作風だ
難易度設定は「じっくり」がおすすめで、それはエロには「溜め」が大切だという俺の信念に基づくものだ
同棲モノの雄だ
同棲モノのジーコには四天王的な存在があり、その一角なんだが、俺にはこれが一番刺さった
同棲モノにして妹モノだ
昼のパートで妹との心理的な距離を縮める一方、寝ている間に身体を触ったりもする(睡眠薬を飲ませて無理やり襲うみたいなこともできるらしいが、俺はやってみたことがない)
ファンタジー世界に生きるカスの兄となって、冒険者をやりつつ妹を手籠めにする そういうゲームだ
全然手籠めにしないこともできる それもいいところだ
わかりますかね 妹に手を出してるのは不可抗力でもなんでもなく、俺がクズだからなんですよ そこが徹底されてるのが嬉しいですよね
ときメモとかパワプロ的な感じなんだと思う(どっちもやったことない)
日数経過式で、選択肢を選んで能力を高めたりしつつ、要所要所のイベント(バトル)をこなす
それもやりつつ妹にも手を出さなきゃいけないってのがツライところだな
実際バトルのバランスは結構シビアなので、妹に手を出してたら強くなりきれずに詰む、みたいなことは全然ありうる感じがする
性欲に負けず、鍛錬に励め!
レジェンドってことはまあ、古いってことでもあるんだが、いまでも全然現役でいけると思う
女騎士ルナとなって(なお、エル・ブランカという家名には個人的に思うところがないでもない…)、攫われた主君兼親友である王女を救う、という王道ファンタジーだ
全体としてTRPGとかDRPGとか、そういう昔の(古き良き)ゲームの影響を感じるのが特徴だ
これがいいですね
シチュの数とかはそんなに多くないんだけど、なんというか精選という感じがする
心に響くシーンがあるだろうと思う
ジーコとしては歯応えがあるほうだと思う
しかし、やっぱ、普通に真面目に戦ってギリギリ負けてエロシーン、というのがいちばんチンチンにくるから、ホントいいバランスだと思う
自分は普通に戦ったらまず負けないクソ強魔法少女なのに、卑劣なエロ攻撃で少しずつ戦力を削られて、気がついたら手も足も出なくなってしまっている
戦闘エロ(戦闘中に敵からエッチな攻撃をされる要素) これにつきる
コンシューマーゲーでもあまり見ないような、コマンドバトルとテキストのシームレスな融合がポイントだ
長いダンジョンに、敵の仕掛けた罠を解除するための仕掛けが散財している
解除して回るのは正直めんどくさい(多分意図的にめんどくさくなるように作ってある)
めんどくさいから横着する 俺はクソ強いんだから、多少の罠くらいなんとかなるという慢心が裏にある
はたして罠を使われて、少しずつ追い込まれる
アレ…これやばくね?となる
そのとき、チンチンが勃っているのだ
純粋なRPGとして見るとめんどくさい部分もあるが、そのめんどくささにも意味がある
これはかなり最近出た作品で、広く知られた名作ジーコというほどの知名度はないが、俺には刺さった
NTRゲーだ
その一方で、俺はあきらかに怪しいサキュバスっぽい女の子に誘惑されて、愚かにも籠絡されてしまう
エロ要素も大きいが、その裏でけっこう骨太なファンタジー戦争を描いているのもイイ
①ふたりとも心を乱されない正規ルート ②ヒロインだけ寝取られるルート ③主人公もヒロインも寝取られるルート の大きく分けて3つがある
主人公を操作するパートとヒロインを操作するパートがあって、それぞれの選択によって話が進んでいくんだけど、あまり厳しいフラグ管理なんかはなくて、ルート選択は俺の胸先三寸だ
ヒロインがバンバン汚されていくのを楽しむこともできるし、逆にヒロインは意思を強く持ってるのに俺だけ敵にアッサリ籠絡されて、それでヒロインの方も結局堕ちてしまう…みたいなシチュエーションをやることもできるため、一粒で2度美味しい
エロステータス的なものも完備しており、男主人公もののNTRのよさ(夜寝たら、翌朝ヒロインの性経験が増えてる…!)も味わえる
ファンタジー世界で、俺のことを好きなヒロインが、俺の見ていないところでチャラいクズにヤられてしまう…という感じだ
NTR展開は不可避で、そんなにボリュームがあるわけでもないが、俺には刺さりました…
部屋にいるはずのヒロインが見当たらないな
しゃーないから寝るか…
その美しい流れをこれでもかというほど味わえる
このゲームもまた、回想部屋でしかエロシーンを直視できないタイプだ
ヒロインの性経験回数という、プレイヤーだけがメタ的に見られる数値で興奮する その素養が求められる
俺にはその素養があった
君はどうかな?
内部告発〜パワハラ問題あたりからはてブで氏の名前を散見するようになり、観測範囲の限りでははてブではほぼ批判一色だった。
一方で、最近目にしたYouTubeやTikTokの動画では、氏を擁護する論陣一色であり、そのあまりのギャップに困惑した。
なので、ある程度自分で調べてみようと思った。なおほぼ備忘録である。
模写するほど絵柄に惚れ込んでいた。
とあるイラストに目立たないレベルで「AI学習禁止」というウォーターマークがあったのを見かけた。
イラストの色味的に拡大してやっと分かるレベルのウォーターマークで拡大するまで気づけなかった。
気づきたくなかった。
でもLoRAなどで個人に学習されないようにと警告する意味で付けたんだろうと思い込むには整合性が取れなくてモヤモヤしている。
なんで目立たないようにつけた?
どのような葛藤を抱えていたのだろう。
ある日突然イラストに「AI学習禁止」のウォーターマークをつけ始めた。
もしかして反AIの言うことをまんま信じてしまって、全く意味のない対策をし始めた?
ウォーターマークはなんのためにつけるべきで、アカウント名などのサインを入れる意味を理解した上で、あえて目立たないようにしている?
AIに学習されたくないならもっと目立たせていいんじゃないの。
ウォーターマークって目立たせてなんぼじゃないの?
むしろ素材サイトのSAMPLEレベルで全画面に埋め尽くすべきだと思う、ウォーターマークってそのためにあるはずで。
そのくらいした方が学習妨害になれるだろうくらい目立たせれば理解はできた。
目立たないようにウォーターマークをつけて何をしたいの?
形だけでも対策して自分は学習されないだろうと安心したいだけ?
そうだとしたら反AIに踊らされているだけに見えて滑稽だ。
ウォーターマークをつける行為そのものが憧れの先生が嘲笑の対象にされるかもしれないという恐怖心を植え付けるには十分だった。
反AIになった漫画家やイラストレーターを見て他人事のように眺めていれたのは心から尊敬していたり、惚れ込んでいた人がたまたまいなかっただけなんだと痛感した。
というよりこれ以上争うのを見たくなかった。
これ以上疑って自分も傷つくのが嫌だった。
そんなことしなくてもSNSから離ればええやんってのはそうなんだよな、今は見てないんだけど…。
反AIは反ワクだったり陰謀論と同じ思考停止の一種だから触れないようにしてた。
これが海賊版とかで注意喚起していたら自分も手を出さないようにとか気をつけてたと思う、何故なら違法であることを知ってしまったから。
しかし学習すること自体は法律的に違法ではないのであれば自分には関係ないからどうでもいい。
やけに騙される漫画家やイラストレーターが多いな、クリエイターってそんなもんかくらいに思っていた。
そうやって自分には関係ないことだしどうでもいいやとスルーしていたのはよくないことだと今回思い知られた。
クリエイターはそういうものだと甘やかしてきたツケが今一気に回ってきただけだった。
無知な漫画家が嘲笑の対象にされて一番嫌な思いをするのは本人だけじゃない、ファンもなんだ。
そのことに気づいた時にはもう手遅れだった。
反AIのやっていることは無知な漫画家やイラストレーターを炙り出して嘲笑の対象にしているだけなんだ。
新しい技術を嫌うだけで法律や技術に歩み寄ることなど一切しない。
きちんと歩み寄ってくれるなら赤松先生の話も聞いていただろう。
漫画家もイラストレーターもSNSの相手が誰かもわからんポストを見て盲信できるのか分からない。
ファンが指摘しても全て「気に入らないからブロックする」と言い出す。
社会に適合出来ないからとか、理解力や読解力がないことを免罪符にしていい問題じゃない。
金をもらって仕事している以上そんな甘ったれた狭い常識は通用しない。
でも自分はあなたのしたことをいつまでも忘れることができない。
某漫画家の脱税問題だってそう、あの先生の関連作品を見るたびに嫌でも出てくる。
そうやって先生の身勝手な行動で呪いをかけられて一生背負わなければいけない。
自分はその覚悟を持って先生をこれからも好きでいれるか自信がなくなった。
先生のやることなすこと全てに盲目でいれるファンになることはできなかった。
自分もリプライや引用みたいに「素晴らしい、好きです」と言えたらどれだけよかっただろう。
そうであるなら自分は先生のファンになる資格なんてなかったのかもしれない。
数日後、何ヶ月後、何年後か分からないいつか、この気持ちに整理がついて先生の作品を心の底から楽しんで読める日が来るのだろうか。
某漫画家でさえ最初は反AI仕草だったのに今や反AIに向かって「馬鹿なことしてんじゃない!」と怒るほどに色んな知識をつけてきた。
自分の好きだった漫画家やイラストレーターが反AIになった時自分はどうするのが正解なんだろう。
かわいそうに、学習されたくないよねと寄り添うだけじゃ甘やかされるだけなのと変わらない。
先生を恨むことも、反AIを恨むことも、作品ごとを恨むことも間違っている。
恨んだところで憧れだった先生はきちんと勉強しようってならないから。
でも自分のような有象無象が先生に「やっていることは間違ってますよ」と指摘しにいくのも難しい。
実際そうして先生は考えを改めてくれるのだろうか?
そうしてくれるならこんな馬鹿げたことに騙されることはないはずで。
どうすればよかったんだろう。
自分にできることは先生がかけた呪いを自力でどうにか割り切るしかない。
何のために法律があるのか、モラルを求めるのか、ルールが作られるのか自分はずっと考えていかなければいけない。
今もまだ混乱していて気持ちの整理がついてない。
たかがAI学習禁止のウォーターマークをイラストに載せただけで?と笑う人がいるかもしれない。
小さなきっかけでその信頼が一瞬で崩れるんだってことを知ってほしかった。
作品に罪などない、先生の絵柄だから買った、作品ごと惚れ込んだファンだからこそこの気持ちをどう受け止めればいいかわからない。
こんなスラムみたいなところで投稿しても笑われるか見向きもされないだろう。
このやりきれない気持ちを言語化しなければ先生を恨むかもしれない。
嫌いになるのも嫌だ、先生を好きなままでいさせてほしい、ずっとずっと憧れの先生でいたかった。
実際書く前はとても苦しかった。
書いてみて先生のことがどれだけ好きだったか、何故こんなにつらいのか少しだけわかってきた。
学習されたくない気持ちはわかったよ、ウォーターマークをつけることは気にしないよ。
あなたの綺麗なイラストがその意味のないウォーターマークのせいで心の底から楽しめなかった。
それがとても悔しくてすごく悲しかったんだ。
きっと自分のように同じ呪いをかけられたファンはたくさんいると思う。
どうやって割り切ったんだろう。
嫌いになったり、恨んだり、作品を見るのをやめることで割り切れた?
それとも自分だけがそうなだけでみんなはそこまで気にならない?
この苦しみもつらさも共有することすら許されない?
当たり前だけど全て主観です。
戦後から現代に至る女性向けのハイファッションのベースを作ったと言っても過言ではないと思う。
ココ・シャネル以降、ハイファッションが多様化しドレス服に限らない仕事や遊びにも使える自由でモダンな服が広がっていった。
彼女がいなかったらモードの世界も欧州に閉じたローカルで予定調和な文化に留まっていたかもしれない。
シャネルのショーウィンドウ見るたびに思うけど分かりやすい流行を取り入れようとしない。
一見するとコンサバに見えるんだけど一方でちゃんと新しさを感じる。
ハイファッションというか上流階級のファッション。ドレスの再定義をした人かな。
実際現役時代の写真を見ると素材使いと仕立てのバランスがめちゃくちゃいい。男目線でもドレスの膨らみと丈のバランスとか神がかったセンスだと思う。
と思ったがサンローランがデザインしてた時代かもしれん。古すぎてよく分からん。
のちにエディ・スリマンのディオール・オムで再ブレイクしたのはもう別物と思ったほうがいい。
あれは元のクリスチャン・ディオールとはほとんど連続するものがない。
80年代から90年代にいたるモード不毛の時代に数々のレガシーブランドを若返らせることに成功したらしいがあんまり知らない。
初代デザイナー引退後にブランドを畳まず再構築するために外部からデザイナーを雇うことは今では当たり前だがこの人がそのテンプレートを作ったんだと思う。
彼がいなかったら業界全体がオワコンになり昨今のラグジュアリーブランド全盛時代(最近中国の不況でまた陰ってきてるみたいけど)はなかったかもしれない。
素っ気ない服でも素材や仕立てによってラグジュアリー足りうることを示した。
「アンコン(ストラクテッド)ジャケット」といって肩パッドが入ってないジャケットを作ったのもこの人。
一度ジャケットを試着したことがあるが軽くて仕立てがきれいで買おうかと思ったけど想像の2倍近い値段で諦めた。
ボロファッション、左右非対称、切り替え、脱色、縮絨、製品染め、ジェンダーレスなどあらゆる手法を使って既存のファッションを脱構築してきた。
パリコレデビューから40年以上経つのに未だ健在。コムデギャルソンのフォロワーも出身デザイナーも多い。
一時期ハマったがジェンダーレス風味が強くなってきて手を出さなくなった。
ハイファッション史上ということでアントワープ勢から一人は選ばないといけないんだけど自分はマルタン・マルジェラでもラフ・シモンズでもなくドリス・ヴァン・ノッテン。
革新性という意味では他の5人と比べると穏やかで分かりにくいが、彼も伝統服やワークウェアの様式を持ち込んでハイファッションとして昇華するという重要な役割を担ってきた。
少しひねりがあるがいわゆる「着れる服」でハイファッションのリアルクローズ化を進めた。
グッチの起用で大ブレイク。80年代完全に死んでいたグッチを蘇らせた。
本人の見た目通り男性向けにはマッチョな服、女性向けにはセクシーな服で現在のジェンダーレスな世界とは一線を画すが、ハイファッションらしく仕立てがよく品が漂うのはやはりセンスの賜物だろうと思う。
日本人の平板な体型には最も似合わないであろうデカいピークトラペルのジャケットには憧れた。
あのラペル見ただけでトム・フォードって分かる。
ハイファッション史上というとちょっと役不足な感もあるが、2000年代のタイトファッションの潮流を作った人で当時抜群の人気を誇ったので挙げざるを得ないか。
オーバーサイズ全盛の今では信じられないが、当時スキニーじゃないジーンズなんてアメカジ好きなコンサバおじさん以外は見かけなかった。
それくらい人気が高くハイファッション内外への影響力が絶大で、セレクトショップオリジナルでコピー商品をよく見かけた。
ディオール評でも触れたがブランド再構築というよりブランドクラッシャーだと思う。
今はセリーヌでフィービー・ファイロ後の後始末をやってて残念な感じ。
ここ10年のモードとストリートファッションのクロスオーバーはキム・ジョーンズがきっかけだったと思う。
単にストリートの形式を流し込むだけのパイプ役に留まらず、非常に有能なデザイナーでもあり固有の世界観とセンスを持っている。
ブランドイメージを壊さないギリギリのところで着地させるセンスはとても現代的でブランドからも使い勝手が良いのだと思う。
マーク・ジェイコブスと似てる。というかルイ・ヴィトンがそういうデザイナーをうまく見つけてるのかな。
今はディオールをリブランディング中でちょっと落ち着いてしまった印象。
もう1人誰だろう?