はてなキーワード: 矯正とは
まずはじめに「癖毛」と「天パ」を別物だと謎主張する奴がいるが同じだぞ、と。
天パには「波状毛」「縮毛(縮毛矯正の事『縮毛かける』とかいう奴がいるけどそれだと縮れちゃうゾ)」「連珠毛」など様々な種類がある。
俺の場合、剛毛で太い連珠毛なんだけど、これが生かせるってレベルじゃなく酷い。
一本一本がうねってる上に縮れててボコボコしてるんだよ。友達に「俺の陰毛のがマシ」って言われるレベルな。
俺の話になるが、髪の毛の頓着が無かった小学生のころはサラサラだったんだが水にぬれると林家ペーみたいになったそうだ。
思春期に突入した中学生頃から髪の毛が原因で地獄を見ることになる。
膨れ上がり、縮れ、光が反射して汚らしく光る髪は嘲笑の的になった。
最初は笑って誤魔化していた日に日に肥大化していくこのコンプレックスについて調べているうちにもう直らないという現実にぶち当たる。
髪質っていうのは毛穴の形状の問題であって、ヘアブラシを入れようが良いトリートメントを使おうが俺のような髪質はサラサラのストレートにはならないのだ。
「なんだ髪ぐらいで大げさな」と普通の人は笑うし、俺も普通の髪質だったらたぶん笑っていたと思う。
俺にとっては谷底に突き落とされた気分だった。どれだけ頑張っても普通の頭はできないのだと。
同級生がワックスをつけて髪型を気にしているのがとても羨ましくて、次第に普通の髪質が直視できなくなった。
社交的でよく笑う性格だったのだが、酷く内向的になったのはちょうどこの時期だったと思う。
頭が悪い上に髪が原因で社交不安を拗らせるようになった俺は近所の偏差値40ぐらいの底辺高校に進学した。
高校入学を機に縮毛矯正をかけた。長年、憧れていたサラサラの髪の毛を手に入れたのだ。俺は嬉しかった。鏡の前で頭を振って笑っていたのを覚えている。
これで普通に過ごせる。そう思った。しかし入学してから数日、クラスの女の子に言われた。
頭の中が真っ白になった。やっと普通の髪質になったとおもったのに。今思うとそりゃそうだよな、と思う。
俺みたいな剛毛な連珠毛が縮毛をかけると数日で光が乱反射して白光りするようになるのだ。粗悪なカツラのようになる。
ショートヘアにしたかったが、そうすると縮毛矯正の持ちが悪い。
縮れ毛が見えることにおびえていた俺は長めのミディアムを維持しながら縮毛矯正をかけ続けていた。in the soupのボーカルぐらいの長さはあったと思う。
通りすがりに女の子が吐く「キモ」の一声が恐ろしくて恐ろしくてしょうがなかった。
それでも縮毛矯正が精神的な支柱になっていた俺は中学の頃よりかは幾分誰かと話せるようになった。グロメンから雰囲気フツメンぐらいにはなれていたと思う。
ある日、クラスメイトの女の子に告白された。正直嬉しかったが、同時に思った。
「俺の本当の髪質がバレたら嫌われるんじゃないか」
「髪で顔の雰囲気って滅茶苦茶変わるし俺がやっていることは不細工が整形したのとたいして変わらない行為」
「もしも結婚して子供が産まれたら子供が俺と同じ生き辛さを味わうかもしれないそれだけは避けたい」
飛躍した思考だったが当時にそう思った俺は「ごめん」と断った。そして今に至るまで交際経験がない。
縮毛矯正を一度すると手放せなくなってしまう。今年で29歳になるが、今でもかけてる。
すっぴんで人に会いたくない女性の気持ちが俺には痛いほどわかる。
俺もこの頭で人に会いたくないし、高校の頃の友達と会うときはいまだに縮毛矯正をかけてる。
家族からは病気だと言われる。お前の頭なんか誰も見てないし気にしてないと。
ネットでヘアカタログを見ると俺の髪質の人なんてだれ一人いない。
画像検索すると時々出てくるが、縮毛矯正のビフォーアフター画像で、酷い縮れ毛のビフォーが俺だ。参考になる髪型なんて何一つ出てこない。
時々けっこう強い天パの人が天パ対策の方法を自分の写真を上げてやっているがその人たちのが幾分マシな髪質なのだ。柔らかさがある。
未だに心の底から子供は生みたくないと思っていて、やはり理由としてはこの髪を遺伝させたくないっていうのが強い。
入社前に縮毛矯正をかけて2か月たったあたりでひどく癖がでてきて、ストレスと天パでテンパってしまい仕事をバックレたこともあった。
もう何も手がつかなくなってしまう事があるし、いまだに人の目が怖い。堪らなく怖いのだ。
誰かが言う。「天パをネタにすればいいだろ」
この酷いコンプレックスの使い道が道化のネタにしかできないという悲しさがわかるだろうか?
きっと同じ天パでも社会生活を全うできる人もいる傍ら俺みたいに腐る人もいるんだと思う。
もしも腐った人、腐りそうな人がいたら少しでもわかっていただけると思う。
たぶん周りは髪ぐらいっていうとおもうけど、俺は君の辛さは痛いほどわかる。
電車で見た君がこれを読むことは無いと思うけど、お互いなんとか生きていこう。
ある人がAという行動をするかしないかは
「Aをすることによる得」が「Aをすることによる損」を上回るかによって自動的に決まる
ここでいう損得には気分が高揚する/減退するといったような感情的なものも含まれる
「タダで物が手に入るから」「成功に快楽を感じるから」「店員がむかついたから」
といった要素があり
「捕まったら刑罰を受ける・社会的に失墜するから」「倫理的に許せないから」「店に申し訳ないから」
といった要素がある
それぞれの要素にどう重み付けするかは個人によって異なっており、それが「性格」などと呼ばれる
言いたいのは、これらの重み付けの結果として万引きの得が損を上回り、万引きを実行するに至った人間を、「悪人」として糾弾するだけでは何の解決にもならないということだ
その人を糾弾するということは、その人の重み付け関数を異常なものとして矯正し、人類平均に近づけるということである
もちろんそれも重要だ
重要だが、その人の重み付け関数が理想化されたとして、次に来る万引き犯はそうではない
真に行うべきことはルールの変更だ。相当クセのある重み付けをされても、それでも得が損を上回らないような、システムの設計をしておく必要がある
たとえば万引きの「得」を減らす対策として、強引に外すとインクの飛び散るタグ、などがあり、
万引きの「損」を増やす対策として、防犯設備の整備や罰則の強化などがある
これらの対策を行わずに「万引きする人間はなんて悪人なんだー」と吠えていても無意味極まりないと思う
万引きの代わりに、政治・外交や、職場の問題、恋愛・友人関係など何を入れても同じことが論じられる
度重なる押し問答の末、シューゴさんはとうとう爆発した。
「もういい! もうたくさんだ! こんな曖昧な基準で、表現が統制されてたまるもんか!」
「ワガママを言わないでください。社会にとって害悪なものは統制される。それが今回はアニメだったというだけの話じゃないですか」
「俺から言わせればな、普遍性のないボーダーラインを大義名分に、表現を統制しようとすることこそ害悪でありワガママだ」
「上等だ! 奴らが文句を言うのはもちろん自由だ。だが、オレたちにも同じくらい尊重すべき自由がある!」
シューゴさんは頑なだった。
「自分にとって不都合な影響を与えたくなくて、躾もロクに出来なくて、その責任をオレたちに擦り付けるしか出来ない。だったら、いっそ何もない家に一生閉じ込めておけ。それが一番確実で健全だ」
「なぜ自分と同じ物差しを、誰もが持っているべきだと思いあがれる? よしんば持っていたとして、同じ物差しで同じ場所に、同じように線を引くとでも思ってんのか。それを踏みこえてはいけないと、なぜ言い切れる?」
父もフォンさんも溜め息をつくが、どこか安堵もしていた。
シューゴさんほどではなかったが、二人とも今回の対応に不服であったのは同じだったからだ。
どこかでシューゴさんが突っぱねてくれることを期待している節があったのかもしれない。
そして、放送後……
「シューゴさん、苦情が……」
「変える気はないぞ。主人公たちの武器はこれまでと同じ、人間相手にもバンバン使っていく」
「いや、今回はそこじゃなくて……」
「ん? どういうことだ?」
「『入浴シーンがセクシュアル的でよろしくない。青少年の健全な成長に悪影響を与える!』……とのことです」
それを聞いたシューゴさんは大げさに笑って見せ、父は白々しく「あちゃ~」と言いながら頭を抱えた。
「わっはっは。あ~そっちかあ~」
「というか暴力表現に関する苦情はどうしたんです? 今回はアクションシーンが派手だったから、いつもより来ていると思ったんですが」
「恐らく、入浴シーンのほうが気になったんでしょう。性的描写の方を問題視する人って多いですから」
「性別関係なく湯気をこれでもかってくらいつけているんですけどねえ。作画の手抜きを湯気で誤魔化しているんじゃないかって疑われるレベルで。更には放送局がそこに雑な修正まで入れてるほどなのに」
「一番スケベなこと考えているのは子供より、そいつらの方なんじゃねえか?」
「また、そういうこと言う……それに暴力描写と性的描写は別物ですから、判断基準も変わってくるのは当然ですよ」
「どちらも表現の一形態だろ。これは良くて、これはダメ。ここまでならOK、これ以上はNG。それを区別する境界線を誰が、どうやって決めれば正しいんだ」
「それは私も分かりませんが、彼らの主張自体は理解できるでしょう。これはTPOに基づいた、妥当性の問題です」
「その“T”と“P”と“O”とやらを、それぞれ具体的に考えたことあんのか? そんな状態で妥当性なんぞ共有できないだろう。基準が曖昧なままなのに、主張に汲み取るべきところがあるからと受け入れていったら、雰囲気だけで規制できてしまうぞ」
「そうです。都合のいい言説を振りかざしているだけです。主張の内容はそれっぽいことを並べてはいても、象徴的だったり抽象的なものの域を出ていない。とどのつまり恣意的に判断しているのを誤魔化しているわけです。それで表現が統制されるべきとは思えません」
「そんなこと言っても仕方ないでしょ。私たちも上から通達が来たから業務上やってるだけで、それが本当に正しいことか分からなくても、やらないといけないわけですし……」
「ああ、そもそも上の指示に大人しく従ったのがケチのつき始めだったよな。それで安易に変えてしまったら、他の表現も次々とその対象になる。クリエイターを抑圧し、萎縮させて、風当たりだけが強くなっていき、虚構のディストピアが出来上がるわけだ」
「そうして世間の目が矯正されれば、今までは全く問題視されていなかった表現まで規制の対象と認識される。事例や風潮の積み重ねが基準やエビデンスを形作るなら、なおさら現状にNOを突きつけるべきなんです」
この時フォンさんはかなり戸惑っていたようだった。
目の前の問題から目を背けて、二人が不平不満を言っているだけのように見えたからだ。
「二人とも、検閲そのものの是非はともかくとして、結局何らかの対応はしないと……」
「それなら大丈夫だ。今回のエピソードでお上からの指令は来なくなる」
「え、どういうことです? むしろ余計に悪化しそうな気がするんですが」
「“自由の応用”・・・・・・?」
「オレたちは表現の自由を不可侵の聖域だとは思っちゃいない。なぜなら表現の自由は、言論などの“自由”も包括しているからだ」
意見を肯定するか、否定するか、スルーするかという選択はできる。
だが都合の悪い意見そのものを失くそうと黙らせるのは矛盾した行為だという。
「ではどうやってこの流れを止めるというんです」
「直に分かりますよ、フォンさん」
父たちは作り手だからこそ、表現の自由に構造的な欠点があることを知っていた。
それはつまり、“その他の自由”にも欠点があるのを知っているってことだ。
非対称なコミュニケーションしかできない、ということに最近気づいて悩んでいる。
今思えば、育った環境にそのようなコミュニケーションを取る人間が多かった。
双子の兄弟がいた。一般的な双子は気の置けない間柄であると思われることが多いようだが、
私たちの場合は違った。小さい頃は、互いが常に相手より上の立場でないと気がすまなかった。
人を小馬鹿にするような、常に上から見下すような接し方を、私たちは父親から学んで、兄弟でそれを増長させた。
兄弟間の異様なコミュニケーションのプロトコルは、普通なら小中学校で矯正されるべきところであるが、
私の場合に関しては、治ることは無かった。
だいいち、矯正を施されるほど、同級生と深く喋らず、仲良くもならなかった。
いくつかの能力に運良く恵まれていたこともあって、友人を作るとか、人当たりを良くするといった努力を経ずとも、
クラスの中心では無いにしろ、得意な分野に関わる範囲、ほんとうに狭い輪の中では誰よりも卓越して、尊敬されることができた。
ある程度年をとると、関わる世界が広がってくる。
私が得意であることにはいくらでも上がいて、大したことではなくなる。
それ以前に、何かに秀でているということが、小さいときのそれほど絶対的な評価を得ることが無くなったように思う。
会話を、自分が上から目線で気持ちよくなるための手段としていた私は、
必然的に口数が減った。
対等なコミュニケーションのために何をすれば良いのかも分からないし、
誰かと喋っても、居心地の悪さばかり感じるようになった。
私も人を避けるし、他人も私を避ける。
治したいなあ。
みたいな経験がしたい。
一人では、こんなにつまらない自分だけでは、この先生きることもできない。
どうすればいいんだろう。
本当に文章力落ちてきてる。
ネットに転がってるようなくだらない文章ばかりよんでここ20年ぐらい過ごしてきたのがボディーブローみたいに効いてきた。
ワロスだの(核爆)だの草生えるンゴギザヤバスだの言ってりゃコミュニケーション取れてしまう世界に長くのは不味かったらしい。
定期的にちゃんとした文章が書かれてる物を読んで、どういう文章がまともなのかを認識し直さないとあかんね。
ラノベやエッセイレベルでもいいから、一応は校閲通過済みの文章をもうちょい読むべきだった。
あの頃は週1冊は本読んでたから、どういう文章を書けば少しはマシに見えるかがすぐにイメージ出来てた。
頭の引き出し開ければ少し前にインプットしたまともな文章のパターンがいくつも出てきたからなあ。
最近は句読点省略してるような文章やビックリマーク多用してるような文章ばかりインプットしてるから引き出しの汚染が進みすぎて使い物にならない。
ガベージインガベージアウトの法則だね。
いやいや人間やっぱ本は読んどけですよ本当。
本読んだ所で一見何の役に立たないように見えても、最低限度まともな文章はどう書けばいいのかが無意識レベルで修正されるから。
まともな文章を一行読むたびに、微粒子レベルで自分の文章構成における微妙なズレが矯正されていくんだよ。
その重要さが改めて実感できた。
昔から、勝手に顔だけで近しさのような何とも言い難い感情を抱いてた人らが、こんなに普通の顔だったっけか、と新聞のインタビュー写真二度見してしまうようなことがここ最近立て続けにあった。
平野氏、別に島田雅彦みたいなんではないけど穏やかでとっつきやすそうな丸顔になってたし、世耕氏はどことなしすっきりしてオタク感薄れてるし、ケラ氏はアク強いカエルのイメージが優しそうなおっさんに後退トランスフォームしてた。
ベニントン訃報から久しぶりに洋楽ニュースをスクロールしてたら気のいい兄ちゃんといった風情の黒髪、誰これ?うおっピート・ウェンツぅ?フォールアウトボーイの。ゴスって絶対顔面にコンプあるよなー、デブの方はよく見りゃイケメンだもんなと失礼にも思っていた10数年前から遠くここまできて、近所の三十路の善人感をスナップされたその笑顔をしばしぼんやりと眺めてしまった(その後引っ張り出して聴いた、シュガー、ウィーアー…)。
イケメン見てあーあ!と思う怒りのないまぜになったやっかみと同様に、才能も努力もあまりに及ばないであろうこの人らに、顔面は同じようなもんなのに!という嫉妬感じてたのだろうか?いやむしろハラハラしていたんだと思う、この顔を出して、非難されないだろうかという、それこそ自分の強迫的容姿コンプの内面を勝手に投影した思いで。メディアで顔見るたびちょっとドキっとしてたもんな。
そして非難されてほしいという、再矯正か自罰みたいな気持ちもあったんだと思うわ、今にして思えば。誰も彼をも自分の中で基準を容姿だけにおいて、知らず可・不可に選り分けていたんだな。
容姿ディスが日常の親の下でだいぶん強迫観念的に自分を卑下してて、無駄に卑下してるのは分かってたけど、周りの反応見るにそれが不当なものとも思えず、鏡の前、電車の窓に映る姿でいつまでもうだうだ己の顔を眺めていた10代、20代だった。髭と眼鏡と髪型で誤魔化し隠して防御して、今じゃいつの間にか気付けば鏡を見るのは顔洗う時と歯磨く時ぐらいに減っていった。ヒゲ可の職場でよかった。
もし今自分が高校生なら年中マスクしてる自信がある。ガエル・ガルシア・ベルナルの顔に生まれたかったと今でもふと思う。
宇多丸氏の映画評論が下品で、本人ごと嫌いなタイプだったんだが、CSのミニ番組で、10代の自分について、不細工で運痴で冴えない俺は映画館に座ってこの暗闇にこのまま溶けていきたかったという回想独白してたの聞いたとたん急激に好感度が上がったし(だが評論は好かんまま)、変態仮面の人、誰だっけ、鈴木亮平か、俺は顔で勝負するタイプじゃないんだと若いころ悩んだ末に悟ったとインタビューで語ってたり(いやいや明らか男前っしょとは思うが)、こう自信ありげな人が容姿について自覚してる過去を吐露してるの見ると誰であっても切なくなってしまう。
年取るとみなよい顔になるということもあるのか?人前に出ることが多いから顔がキリッとしてくるのか?写真に写るからには美しく撮るためのお膳立てにたけた様々な人が周りにいるのか?いろいろ謎。
社会的成功も、人を魅了する才能の生んだ果実の数も、美しい伴侶(世耕氏は知らん)も自分にはないが、単に彼らも自分も同じ分だけ年をとって、努力の多寡はあるかもしれないが足掻きはして、美醜より他に考えないといかんこと山のようにあって、人生でいろんな人間の顔を見てきて、皆よい顔に見えるようなここに立っているのか?まあこんなことたらたら書いてる時点で自分はコンプ吹っ切れてはないんだが、10数年前の、今よりずっとずっと悩んでたことと、他人を無闇に顔だけでジャッジしてたことを思い出して、なんかしんみりしたので書いた。いや違うな、「思い出す」ほどには離れてたのかと思って、そこにしんみりしたんだ。
この人らの仕事も性格も知らずに顔面だけうんぬんするなとか、この人らは別に不細工ではないでしょとか、偏見内面化を上乗せしたルッキズムの極みとか、能力があれば顔は関係ないなら能力ない不細工はどうやって尊厳保ってんだよとか思われるかもしらんが、それでも持ってる自分なりの自尊心とコンプとの長い葛藤というか、言及するために挙げてしまった、許してくれ
刑罰は犯罪者を矯正し社会的制裁を与え犯罪を抑止するためのもので、被害者の復讐心を満たすためのものでは無い
人間には理性がある。
だが、”お前も同じ土俵に立つ” お前のレベルが下がるからやめとけ」と言うタイプが居る。
言いたい事は分かる。
でも、「なんでやられた側が我慢しないといけない」んだ? ガンジーなの? 痛みを感じない神様なの?
そういう「許しちゃう自分偉い」的な事を言っている奴らに限って
「やられたからやり返す!!」と敵意むき出しにして攻撃しに行くんだと思う。
相手の気持ちを汲むことが出来ないんだ。自分が実際にその状況にならないと。
性犯罪者には、同等の性犯罪をあてがう。二度とそんな気を起こさないようにトラウマを植えつける。
何の理由も無く苦しんで殺した人は、同じ苦しみを味わい"心が死ぬ"状態にする。
[追記]
精神的におかしかったので刑を軽くします!っていうのは分かる気もするけど
やったことは殺人だったりするから復讐する権利はあっても良いと思う。
あとから頭おかしくなりました演技する人も居そうだから、ホント悪いよね。
> cloq 人は殺してはならない。ならば、やられてもやられてなくても、そのことに変わりはないはずだ
先に相手が「人は殺してはならない」という基準を守っていない場合、こちらが守る理由はあるんでしょうかね。
重大犯罪は防げないかもしれないけれど、ほかの人が答えてくれたように再犯はなくなる。
特に、性犯罪については再犯率が高いと聞く。どうにかして欲しいものだ。
>刑罰は犯罪者を矯正し社会的制裁を与え犯罪を抑止するためのもので、被害者の復讐心を満たすためのものでは無い
とはいえ、「再犯を防止できているか」といわれたらYESとハッキリいえないと思う。
いじめをした奴は、心の底から反省したわけではなく再度行う事だってある。
自分は偏食が激しい。
詳しくは書かないが一般的な料理によく使われるような食材でも食べられないものが多い。
「食べられない」というのは飲み込もうとするとえずく、最悪後で吐いてしまうレベルの「食べられない」だ。
特にアレルギー等といった診断は受けていないが、幼少期からずっとそう。
別段甘やかされたとも厳しくされたとも思っていない。
母親は料理が好きだったので食卓に並ぶ食材のレパートリーは豊富だったし、
基本的に料理を残すのはやはりNGだったので嫌いな食材があっても頑張って食べていた。
ただ、母親の方も嫌々食べているのを見るのは辛かったらしく、
中学に上がる頃には自分の分の食事からは特定の食材だけ予め抜かれるようになった。
この時点で頑張って苦手なものを食べ続けることを辞めなければ、
ちなみに離乳食の段階で色々なものを食べさせるのが重要という説もあるが
ある時は「頑張って克服しよう」と言われ、
どうにか数ヶ月ほど食べ続けたこともあったが、全く克服出来なかったので諦めた。
色々と思い悩んでいたんだけど、最近になって、食事の好き嫌いってそこまで悪いことなんだろうか?と思う。
よく偏食の人間に対する意見として「わがまま」というのがある。
食事にありつけるのは有り難いことであるという前提がまずあって、
自分も流石に飢餓状態であれば目の前にあるのが苦手な食材であっても迷わず齧りつくと思う。
こういう都合の良さが「わがまま」なんだろうということは、理解できる。
要するに、食物に対する不誠実さ。感謝の足りなさ。
食べ物がいつでも手に入る恵まれた環境で育った生っちょろい贅沢な若者の意見だけど、
味覚って、視力とか、嗅覚とか、聴力に並ぶほど千差万別なもので、
目が悪くても、耳が悪くても「親の教育が悪い」という人は偏食に比べたらあまりいないだろう。
(たまにいるんだろうけど)
味覚に関することだけ、家庭環境の否定、人格の否定が当たり前になってくるの、結構辛いと思う。
好き嫌いのない人が羨ましい。
人が美味しいと思っているものに対して平気で
「それ嫌い」「よく食べられるね」という言葉を投げつける人が
結構いるっていうのもあると思う。
http://b.hatena.ne.jp/entry/topisyu.hatenablog.com/entry/2017/08/06/073000
これに関して。
「女子学生の射精に伴う経験は、性的にあまりいいことではないのは当然じゃないのか」というのは、男性を悪者にしているのではない。
まず、女子学生は射精しないので、自分の射精に伴う経験は、男性と違って、ないわけだ。(当然)
それ故、それはあくまで他者の射精なわけで、そう身近にすぐ発生することではないし、発生するというのはそれだけである程度のっぴきならない状態なんだよ。
(男性だって、「他者の射精に関わる体験」とか「女性の月経に関わる体験」とか、他者の身体に関することが自己の体験として発生するのは、ちょっとイレギュラーな状態だろう)
「女子学生に起こる射精に伴う経験って、電車でつけられたり、フェラしたら飲まされたりするやつでしょ」っていうのは、
そういう意味で、「まずそういったことが起こりにくいし、起こった場合もそういう嫌なシーン以外で射精はなかなか登場しないでしょ」って言ってるの。
その上で、痴漢は本当によくあることだし、交際相手との性交渉の経験の中で「嫌だな」と思うこともあるし、好きな人との幸せなセックスだったとしたって妊娠したら高校退学させられちゃう世の中なんだから、射精は(例え生命的な意味で重要なものだとしたって)やっぱり汚いし恐怖の対象なのは自然なのではないかと思うし、個人的にはそれを別に教育で矯正する必要もないと思う。
大体、他者の身体からの排泄物は、うんこだっておしっこだって汚いし、汚くて普通だと思うし。
まして、それが性的欲望を伴って、自分が対象だとなれば恐怖心を抱く場合もあるだろう。
実際、そんな若い頃に女性が体験する「良いイメージの射精」っていうのが、私には実例が思いつかないわ。
年取ったら、「うちのかわいい赤ちゃんが、元はといえばあの精子から生まれたと思うと、感無量…。生命の神秘…」とかはあるかもしれないけどさ。
て、まあ「射精に対するイメージ問題」はさておき、もっと気になったことは、「なんで、女性が性的に嫌な思いをしていることを表明すると、『男性を悪者にしている』と言って、それは嘘だと言いたがるんだよ」ということだよ。
痴漢は実際によくあるし、そういった性犯罪が中高生女子が初めて性的なものに接触する機会になってしまうのは、本当に由々しき問題だと思う。
でも、これは、男性を責めてるんじゃないよ。性犯罪者を責めてるの。
思いやりのないセックスをする交際相手だっているし、それが嫌なイメージになることだってあるよ。
でもそれはその男を責めてるの。(あるいは自分の見る目のなさか)
なんで、「痴漢は頻繁にある性犯罪で、卑劣だ」って言うと、『男を悪者にするな!』『これだからフェミは』になるのよ。お前は痴漢なのか。
痴漢じゃないんだったら、「たしかにその通りだ。同じ男として、俺だって痴漢は許せない。見かけたら捕まえてやるくらいの気持ちだ」って言えばいいだけじゃないのですか。
こういう話で、「こういう性犯罪は卑劣だ」「こういう性的に嫌な思いをした」というただの事実を言うたびに、男性全体への攻撃だと思う男性の気持ちが全然わからんわ。
実際に、多くの女の人は、性的に嫌な思いをした経験が多かれ少なかれ、あるのよ。嘘じゃなくて。
そして、それを「嫌だった」って表明したっていいし、それは「男性」を責めてるんじゃないでしょ。
だから、「嘘つき!どこにそんなやつがいるんだ!男が悪いっていうのか!」とかいちいち言わなくていいんだよ。もしあなたがその加害者でないならね。
今更かよって感じだけど、あれは非モテが恋愛の何が欲しいのかってところを理解しないといけない
非モテが恐らく恋愛や結婚を究極の承認と見なしているであろうことすら分からないのなら駄目駄目だ
人の評価は間違ってるということを
人の評価を正すことや努力を減らし極力自然体で生きてもいいってのは
評価は括弧付きの動物的本能を超えて相対的に、そしてなによりフェアなるべきだというのが彼らの主張だ
んで、それに対して、努力しろよだとか社会に併合しろというのは
私はサンクコスト払ったんだからお前もやれよという横暴でしかない
そう言った態度は極端にいえば結局恋愛工学を肯定することになる
社会に併合し、努力するってのはシステムの一員たれということだし
エマ・ワトソンの周りにはセレブしかいないからエマ・ワトソンはセレブと付き合ってるだけなんだと言えばいい
セレブは歯の矯正する金も肉体改造に勤しむ時間があるからカッコよくマッチョなだけで
もし、あなたと私に交流があって気が合えば私はあなたの恋人だったかもしれないから
そして話し合いましょうと
ちなみに私はというと嫌々合コンにでて適当に話していたら恋人ができた、3度も
盛り上がろうぜという場所で黙ってるだけで出来るんだぜ恋人なんてそれもポンポンとさ
だから、余計に努力しろとか社会に併合しろとか、システムにハックしろとかアホらしくてしかたない
一応、非モテの皆さんにも理解して欲しいが恋愛は究極的承認ではない
あらぬ誤解で恋人になろうとする人もいるのだから結局スタートは自己満足で、恋人を選ぶのは相手への承認じゃない
それは確かに酷く加害的でどうしようもないことだが