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ようやくジャニーズの性加害問題をnews zeroが取り上げたが、その場面ではジャニタレの櫻井翔が外されノーコメントだったことに賛否の声がある。
[B! 芸能] 櫻井翔、ジャニーズ性加害問題にノーコメント 『news zero』番組側の判断 | RBB TODAY
被害者保護の観点から「彼は被害者かもしれないから無理にコメントさせなくていい」と擁護する声が多いのだが大事な視点が欠けている。
ジャニー喜多川による性加害は現時点でわかっている限りでもとても個人で勝手にやっていたものではない、長年続いた組織ぐるみと言える性犯罪だ。
そしてジャニー喜多川を慕っていたジャニタレのひとりでもある。
どう贔屓目に見てもまず“加害者側の関係者”と考えるべきなのだ。
いつまでも守られるべき「櫻井くん」という先入観で見てしまうのは、ジャニー喜多川が作ったジャニーズビジネスの術中にハマっている。
加害者側の関係者がやるニュース番組に公正な報道なんて期待できるだろうか?
仮に本人が一切注文をつけなかったとしても、周囲の人間が意識的あるいは無意識に忖度して報道は骨抜きにされてしまう。
問題の追求など望めるはずがない。
例えばキャスターが自民党員のニュース番組だったら政府批判などできないとわかるはずだ。
この異常さに気がついてほしい。
「櫻井翔は被害者かもしれないからコメントしなくていい」ではない。
「櫻井翔は加害者側の関係者だから報道に関わらせてはいけない」のだ。
私はジャニーズ潰れろ勢ではないしジャニタレの永久追放を望んでいるわけでもない。
この件の全容が解明され謝罪・補償・対策などの筋道が立てば復帰すればいい。
(もちろん本人の関与度合いによる。現時点では何も明らかになってない)
渾身のデートの誘いをさらりと流され早数日、今日も今日とて飲酒しながら日記を書き連ねる。
近ごろ忙しいのと、散々っぱら書いているように恋の失敗があり、悪天候も重なり、とにかく精神状態が悪い。しばらく使わずに済んでいた頓服を夕方ごろ飲んだ。胸の中に雨雲のようなものがある。重たくて苦しい。ああ、しばらく人生上手くいってたのにな。
月一で心療内科に通っているが、最近は特段医師に相談したいようなこともなく、先々月から減薬が出来ていた。主治医との相性はすこぶる良い。
先生は私の様子を真摯に聞き、しっかりと同意を取ったうえで処方をコントロールしてくれる。
精神医学が未発達な時代に生まれていたら、私はいまごろ座敷牢の鉄格子を掴んでいただろうから、つねづね現代医学には感謝している所だ。
だがこの調子では、減薬の努力も虚しく、ふたたび処方を増やしていただくほかないだろう。
少し上手くいっていた(ように思い込んでいた)男性に軽くあしらわれた位で、ハルマゲドン前夜のような絶望ぶり、我ながら滑稽である。
しかし誓って言うが私は今回の件に限って悲しんでいるのではない。
むしろ今回の件は、大きな大きなコンプレックスが噴出してくる小さな切っ掛けにすぎなかったと思う。
私は幸福ながら、今まで自らのコンプレックスというものに気付いて来なかった、というより見て見ぬふりをしてきたのけれど、よく考えてみれば、私はとても長い間、男性に愛されない=容姿や性格に魅力がない ことに深い悲しみを覚えていた。
驕りかもしれないが、勉強も仕事も人付き合いも、並み以上には出来る、という自負がある。周囲の人や環境に恵まれた部分が大きいものの、やはり自分自身で努力はしてきたつもりだ。その点に関して私は概ね満足するし、卑屈にならない。
天地がひっくりかえっても、人様に認めてもらえるとは思われない。お洒落は嫌いではないし、日ごろメイクも髪も整えるが、どれほど着飾ったとして男の人のお眼鏡には適うはずがない。
思い返してみると、中学校のころには、無意識の中にこのような考えがあった。
何故これほどまでに自己評価がいびつになってしまったのかは分からない。きっと原因があるのだが、今はそこまで思い至らない。
異性に対してあまりに卑屈がゆえに、好きな人から袖にされて、悲しいより先に、「ああ、やっぱり」と妙に腑に落ちた感じがしてしまった。
それが、堪らないほど辛く、虚しい。
私を選んでよと駄々を捏ねてみたかった。もう少し早く出会っていればと悔やめる女性でいたかった。
いずれにせよ手に入らないと諦めているから、そんな感情も湧いてこない。ただ、泥のような自己嫌悪の中に寝転がっている。
こんな思いはいつまで続くのだろうか。
以前の日記にコメントをくださった方々、ありがとうございました。失礼な表現かもしれませんが、まさに心のこもった叱咤激励、と思いました。お言葉しかと受け止めます。
自分が性に目覚めたのは小学生の頃に遡る。親のエロ本を探し当てて読み耽っていたのを覚えている。
性行為に興味津々だった。
しかし、中学生で電車通学するようになってから、頻繁に痴漢に遭うようになった。始業に遅刻したくないから黙っていた。露出狂にも何度か遭遇した。
大学に入ると、いきなりモテるようになった。その頃には「男性は誰もが自分のことを性的に見ている」という感覚を持つようになった。
当時の自分が、「新入社員に元気になってもらうために『月曜のたわわ』の広告を出したそうです。こちらがその本です。あなたはどう思いますか?」と聞かれたら、多分「え、何の問題が?」と答えただろう。
男性が若い女性を性的に見るのは当然のこと。電車の中にもコンビニにも、自分と年齢の変わらない女の子のグラビアが溢れている(当時)。道ゆく名の知らない人も、同級生も、大学講師達も、バイト先の人も、男性は皆、自分のことを性的な対象として見ているのだろう。
そう思っていた。
そんななか彼氏ができると、性的なことには変わらず興味があるのに、その機会を全力で避けてしまった。彼氏が見知らぬおじさん(他人である自分の体をいきなり触ってくる人)と同じになるのが怖かった。
それでも、誕生日に旅行に誘われたりすると断る理由がなく、何度かセックスしたが、気持ち良くないし好きになれなかった。最終的に別れた。
一方、社会人になってから出会った夫は奇特な人で、私が好きになるまで待ってくれる人だった。元彼は何かと泊まりに誘ってきたが(いま振り返ると理解できる)、夫はただただ一緒に過ごす時間を重ねてくれた。その結果、自然と自分から最初のきっかけを作っていた。夫とのセックスは気持ちいい。積極的に楽しんでいる。
思い返して考えると、性嫌悪は相対的なものだったり変化する可能性があるものなのではないかと思う。
分かりやすい例で言えば頻度。
そもそも、毎日性行為をするのが標準なのか?週一がちょうど良い人、あるいは月一がちょうど良い人はどうだろうか。極端な話、毎日したい人から見たら、週一でしたい人は相対的に性嫌悪だ。
大学生の自分は「彼のことは好きだけれど、性犯罪に晒されてきたので体を求められることが苦手」だった。それはトラウマの一種だと思うのだけれど、自覚が無かった。性犯罪ではなくても、「元彼が激しく突いてくるのが痛かった」というような経験が無意識にトラウマになっていることもあると思う。
その場合は、逆のアプローチをすれば癒されるので、性嫌悪でなくなることもある。
彼氏との性行為は辛いけれど、性的な関心は持ってる場合は?男性の場合、妻(彼女)だけEDという症状があるけれど、女性にも精神的なEDのようなものはあるのではないだろうか。もちろん勃たせる必要はないのでセックスはできるが、苦痛を伴うという‥
しかしその場合に、なぜ苦痛なのかを言語化することは、日頃から抑圧されがちなので難しいと思う。もしかしたら体臭が合わないのかもしれないし、体位が辛いのかもしれないし、前戯が不十分なのかもしれない。あるいは、セックス以前に関係構築が上手くいっていなくて、それが影響しているのかもしれない。
仮にそれらを自覚したとして、相手に伝えるのもまた難しいと思う。とてもデリケートなことなので。
そこで経過として、
◯◯さんと初めてしたけれど、緊張したからか何か違和感あったな
→なんだかセックスするのが辛い気がする。我慢できるかな(言語化できない)
→やっぱり無理。私は性嫌悪なのかも(原因を自覚できない・あるいは自覚したけれど伝えられないので性嫌悪ということにする)
という流れを経ることもあるだろうと思う。
そしてアセクシャルについて。
性的な触れ合い自体が苦手だと言う人も一定数いるだろう。物心ついた時からアセクシャルだと自覚があり、心に沿った行動をできた人は良いが、最初は気付かずに人との関わりを通して自覚する人もいるだろうと思う。その場合は、性嫌悪へと変化する?経過を辿ることになる。
何が言いたいかというと、付き合い当初から「自分は性嫌悪です」と申告するのは難しい場合もあるのではということだ。特に、抑圧された状態では言語化できないし、言語化なくして自覚することはできない。
そして検索エンジン、
使い物になったとき、
あのとき、それまで無意識に感じていた迷子のような不安感から解放されたような記憶がある。
とにかく、ネットが使い物になるようになる前というのは調べ物が捗らなかった。
なにか知りたくても、その前提となる知識がないから本屋に行って調べることも難しかった。
しかし、グーグルが登場して検索すればある程度のことはわかるようになった。
この考え方が国をより駄目なものにしている
いわゆる自己責任論。豊かな生活を送りたければいい学校を出ていい職に就いて必死になって稼げばいい
だからいくら国が税金を上げようが物価が上がるのに反比例して給料が下がろうが
「給料が下がるようなところに就職したお前が悪い」で問題と向き合うことなく結論を急ぐ
今"自分は困っていない"から関係ないという姿勢。先天性の病気でも後天性の病気でも「病気になるような生活をしていたんだから結局自己責任だろう」と何故か自己責任という単語だけが美学かるいは壊れたロボットのように繰り返されている
自己責任論を掲げる彼らは果たして裕福な暮らしをしているのだろうか
恐らくは否である
裕福な暮らしを続けるためには、貧困の末に国の保護を受けなければ生きて行けない人を増やすわけにはいかないのだ
自分と同等に裕福にならずとも、最低限の暮らしを保証できなければ自社の社員を増やすことも出来ず、自社の商品やサービスも売れなくなる
それではいくら会社の規模を広げても数を増やしても意味がない。
消費者に最低限の暮らしが保証されないということは、消費者によって支えられている会社の存続も危ぶまれる、
今はどうにかなっていたとしても、先のことを考えるならば自己責任論ほど何も生み出さず現実逃避しているだけの根性論や机上の空想論でしかない
この世の人間がすべて給料面だけを見て仕事を決めていたら社会というものが成り立たなくなるということに気づかないのだから
ただ生活する程度には困らない暮らしの中にいるから、自分はまだ大丈夫なのに不安にさせるようなことを言う奴が許せない、
物事を悪く捉えすぎだということにしたいのだろう
これらを事実あるいは可能性の高い事象だと受け入れることによって、それらが自分の身にも降り掛かるかも知れないという不安を受け入れられない
悪い可能性を言葉にしてしまうと本当になるかも知れないから、それに別の言葉を被せてなかったことにしたいのだろう
それを口に出来ている内は実はまだぎりぎりではあっても、最悪の事態ではない
本当に最悪の事態になったときには、もうそれを語る術すら失っているのだから
自己責任論は裏を返せば「自分はまだ大丈夫」と言いたいだけに過ぎない
そんな人ばかりでは具体的な改善策も解決策も思い浮かばないのは至極当然のことである
ただ気づいて欲しいのは「今は大丈夫だから」を繰り返した先に未来はないということである
真面目に働いているから大丈夫も会社ごと倒産してしまえば通用しない
言霊信仰の末に他人の不安や危惧を火消しのように打ち消すことに必死になるなら
いずれ似たような状況に陥って同じ言葉を口にしたとき、同じように打ち消されるであろうことは言うまでもない
「努力すればなんとかなる」は
行った努力の有用性や価値を見出してくれる人や会社、社会そのものが存在している間でしか口に出せない言葉だ
2023/5/13
食べ放題は様々な種類の料理があるし、量も自分の好きなだけ食べられるから満足感は限りなく大きくなるはずだ。
しかし実際に食べ放題に行ってみるとこれは必ずしも正しくない。むしろラーメンや定食1種類のほうが満足度が大きくなる場合もある。
人間は本能的に食べ物を求め、自己の生存を維持するために食物獲得の戦いを繰り広げてきた。その本能は、現代においても無意識のうちに行動や感情に影響を与えている。食べ放題のスタイルは、飽くまで食べ物がたくさんあることの象徴であっても、その提供形式には人間の根源的な欲望が絡み合っているのである。
大きな塊の料理から自分で取り分けるという行為は、人間の深層心理に強く訴えるものである。狩猟社会では、獲物を狩るという行為が生存そのものを意味していた。獲物を仕留め、大きな塊から自分の分を切り取ることは、その人が優れた狩猟者であることの証しであり、それがそのまま社会的なステータスに結びついていた。そのため、大きな塊の料理から取り分ける行為は、狩猟者としての成功体験、すなわち勝者としての記憶を呼び覚ましているのである。
一方、小分けにされた料理を食べるという行為は、その獲物を分け与えられた者、つまり弱者の記憶を呼び起こす。狩猟社会では、最も大きな肉塊を得ることができたのは強者だけで、それ以外の者はその残りを分け与えられる形で食べ物を得ていた。そのため、小分けにされた料理を食べるという行為は、狩猟の結果として分け与えられたものを受け取る、すなわち弱者としての記憶を呼び起こすのだ。
現代社会においても、この勝者と弱者の記憶は、食事の形式を通じて無意識に表現されている。「食べ放題で満足できない」と感じるのは、その提供形式が我々の深層心理と連動していないからである。つまり、食べ放題という形式が提供する「量」の豊富さという約束にもかかわらず、料理が小分けされているという事実が、我々の根源的な欲求、勝者としての記憶を満たすことができず、結果として満足感を得られないのだ。
しかし、この考察はあくまで一つの視点であり、全ての人が大きな塊から取ることを好むわけではないかもしれない。個々の食事スタイルは、その人の文化的背景や個人的な好み、そして環境によって大きく影響を受ける。それでも、食事の形式が我々の深層心理に及ぼす影響を理解することは、我々がどのように食事を楽しむか、どのように満足感を得るかを理解する上で有益であろう。
食事は単なる栄養摂取以上の意義を持つ行為であり、その選択や形式が我々の心理状態に影響を与えることは間違いない。食べ放題のスタイルも、その一つの表現形式として見ることができる。そして、私たちはその中で、自分自身の欲求を満たすための最善の方法を見つけることが求められるのだ。
視聴環境は4DX、というか観た後に断言するのであればザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーは4DXを前提に作られている映画だ。
上記をレビューの1番最初へ持ってきたことの意味を大事にして欲しい。レビュワーによれば4DXでなくとも良いと評価する者も居るだろうが、個人的には本作において4DXは無くてはならないものだという印象を受けた。それほどに4DXと相性が良すぎる。
USJなどの体験型アトラクションと比較するレビュワーも多く散見されているが、USJなどの体験型アトラクションと比較しようと多くのレビュワーに思われてしまう時点で本作はそういう映画なのだ。
つまり、裏を返せば2Dで鑑賞してしまった人たちと4DXで鑑賞した人たちに断絶とも表現することが出来るほど評価の差が起きる可能性が十分にある。
そのような意味では、プロモーションの時点で4DXでなければならないと観客へ強く印象付けることは必要だったのではないかと思う。
関連した部分では物販の乏しさも失敗だったのではないか。
ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーを視聴した後に強く思ってしまったのは「USJで買ったマリオの帽子を持ってきて子供に被せりゃ良かった。子供ももっと気分が盛り上がっただろうに」だ。
この映画には身に着けられるスーパーマリオブラザーズのグッズが必要である。何なら応援上映があっても良いと思うくらいにはグッズがもっと充実してても良かったんじゃないか。みんなでフラワーやスターをあしらったキンブレを振ろう。
ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーは親にそう思わせてしまう、そういう映画なのだ。
上映終了後、退館する子供たちのキラキラした瞳は表現しようがないほどの満足感を私たちに与えてくれる。
映画館の通路で片手を挙げピョンっとジャンプする子供が多いこと多いこと、そんなはずは無いのにジャンプと共に効果音が聴こえてしまう。このレビューを読むアナタにも聴こえているんじゃなかろうか。
もしかしたらアナタはザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーをまだ観ていないかも知れない。しかし効果音が頭の中で鳴り響いた。
ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーはアナタのその幻聴を肯定してしまう。アナタが期待したとおりに劇中では効果音が鳴るのだ。
ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーはスーパーマリオブラザーズの体験そのままを映画に落とし込んでいる。
子供たちはマリオが頑張る姿を観てワクワクドキドキし、大人は数多く散りばめられた小ネタに気付くたびニヤリとする。本作はそういう映画なのだ。
このレビューをする筆者は北海道の片田舎に生まれた。北海道民が「あそこは田舎だ」と言うような地域出身である。小学校の同級生は3人だった。
筆者は高校生になるまで遊園地というところへ行ったことがなかった。初めて体験した遊園地はルスツリゾートだ。
筆者は結婚するまでルスツリゾート以外の遊園地へ行ったことがなかった。ディズニーランドへ行ったことがなかった。
考えてみて欲しい、ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーはあの超有名な遊園地であるユニバーサルスタジオジャパンのアトラクションと比較され語られる映画なのだ。USJの、ユニバの、アトラクションとたかが映画が比較されるんだぞ?
田舎の流行の発信地と言えばイオンだ、大きなイオンにはイオンシネマがある。
全国津々浦々のイオンシネマでUSJのアトラクションと比較されうる映画が登場した。その作品名はザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー(4DX版)というのだ。
都会人の皆さんは無意識に比較したのだろう。しかし田舎者にとってその比較の意味は計り知れないほど大きなものなのである。
遊園地がオラが田舎に来た。ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー(4DX版)はイオンシネマを遊園地にする。
ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー(4DX版)を体験した子供たちは絶対に「なんまら面白かった!また映画館さ来ようね!」と言うだろう。
そんなの任天堂にとっても映画館にとっても映画業界にとっても大勝利の感想じゃないか。
マリオを楽しんでたボクは、息子がマリオを楽しむ姿を見る親になった。
ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーはそんな体験型アトラクションなのである。
食べ物を粗末すべきであるという考えは持っていないのに、なぜかその反対を主張する人が苦手だ。
なぜ苦手に感じるのかを少し考えてみた。
「食べ物を粗末にするな」という人は強い否定命令系からも分かる通り怒っている。
怒っている人は苦手だ。怒りは強烈な感情であり、対話や理解を阻害することが多い。
自分が正義だと思っている人が起こると手が付けられない。コミュニケーションができない人は苦手だ。
「食べ物を粗末にするな」という人は往々にしてじっくり考えていない。
考えた末にこういうのではなく、システム1の思考、つまり直感的、迅速で無意識の思考を使って発言している。
それが苦手だ。反射的な行動を起こす人とは分かり合うことができそうにないと思ってしまうので苦手に感じる。
食べ物は単に生きるための手段だけでなく、表現や創造性の手段にもなる。
伝統的な料理法への挑戦などは一見食べ物を粗末にしているように見えるかもしれないが、そのような創造性は我々の生活をより豊かにしてくれる可能性がある。
未来を見ずただ慣習に従うだけの思考能力のなさを感じてしまい苦手だ。
目の前の食べ物を見て「食べ物を粗末にするな」というのはたやすい。
しかし、日本なり地球全体なりを見据えた全体的な視点は持っているだろうか。
食物の生産、流通、消費は複雑なシステムを形成しており、一部分だけに焦点を当てることは全体の理解を妨げる可能性がある。
局所的に「食べ物を粗末にしない」ことにより飢える人が出る可能性がある。
「食べ物を粗末にするな」という人が苦手なのは、人間的な深い思考を行わず爬虫類脳を使った局所最適に陥った言動を行っているからと考えられる。
女が書きがちな恋愛指南で「女性が多いカルチャースクールに通い、女性との距離の取り方を測ろう」ってやつ。
なぜこれがダメか教えてやる。
1.学校で彼女ができなかった男が料理教室に通ったところで彼女はできない
普通に考えてこれに尽きる。
運が悪ければ「あの男はキモイ」「キモジジイ」と女集団で共有されるようになる。
詳しくは、NHKの”ダーウィンが来た!「群れの王を目指せ!新米ニホンザル奮闘記」”(再放送があれば)を見てほしい。
ニホンザルの生態だが、群れ下位のオス(ベータ)がメスの集団からどういう扱いを受けるかは参考になる。
2.女(童貞)は女を性的に誘ったことがないので女を誘うスキルがわからない
女がする恋愛アドバイス全部に言えることだが、女は女を誘ったことがないので的外れなんですね。
女のアドバイス=童貞のアドバイス、全部無意味、と覚えておいてください。
3.女の領域に男が踏み入れるとおちんぽ騎士にならざるえなくなる
看護師、保育士の男のおちんぽ騎士の多さが気になった人はいないだろうか?
これらは女の領域に男が踏み入れると女の味方にならないと生き残れないんですよね。
フラワーアレンジメント教室に行こうものなら牙は抜かれ、女に都合のいいような行動しか身に付かなくなるわけ。
ぬいペニになりたければどうぞ。
女性に好きなタイプを聞くと「(口が上手で稼でて)嘘つかず優しくて誠実」とカッコを抜かすことは知れ渡っているし、
年配女性が、Vtuberやアニメ絵や若い女性に対し、社会正義の皮をかぶって口を出すのは、自身の性的魅力の市場価格が下がることに対して無意識に反抗しているのも世間は承知しているよね。
また、恋愛アドバイスする女性に付き合ってと言っても、絶対に付き合おうとしてはくれない。
では、どうするか。
英語に【Alpha male of the group】通称AMOGという言葉がある。
力のあるアルファ男を集団から引き離すという意味だが、これが使える。
非モテ男はアルファ男のいない女の多い集団で地位を得るしかない。
バイトリーダーでも、飲食店の管理職でも、バンドのリーダーでもいいが、とにかく比較的地位があるように女に見せるしかないわけです。
結婚して子供を産むのが正しいの、生まないのが正しいのでケンカしてる光景はインターネットでザラだ。
そんなもの正しいと思ってる人には正しいし、そうでない人にはそうでないだけの話で。意味があると思ってる人にはあるし、無いと思ってる人には無いだけ。
当然の話で、人が生きるのも、社会に参加するのも、生物が種を残すのも、理詰めで言えば何の意味もない。存在の話ではなく当為のそれなんだから。
大人の義務や責任?どこから湧いた?生産性?何の為の?社会の維持?何の為に?人権思想?何の為に?生きるため?なぜ?
子供を作る事に限らず、人の営みはリンゴが上から下に落ちていくのと本質的には何も変わらない。
現実的な議論としては、人権思想が公理であり土台となっていて、そこで一旦は打ち切られる訳だけど。それにこれはあくまで「お気持ち」や「主観」から離れた場合の理屈だ。
まあ人権という公理から導き出される規範も一義的なものではなくて、それぞれの解釈が対等だからまた言い合いになるんだけど。
その対等な言い争いは民主主義と呼ばれて割と尊重される。しかし人権を認めるのであれば、人に結婚出産をするな、しろと強要できる道理はどこにもない。
そもそも社会を生き長らえさせる意義を感じていない人間に対して、子供を持つ事がいかに社会の持続に必要かを説いても無駄。
人生に先立った苦しみなどなく、行い次第で如何様にも幸せになれる。と信じている人間に対して、辛く苦しいだけの生を生み出す残酷さを熱弁するのも然り。
前提が揃っていない段階で話をしてもボタンの掛け違いになっている。
共通認識を揃え、対等な異なる意見を持ち寄って考えを深める事はあっても、最終的にどちらに転ぶかは自分の納得の問題だ。
全ては無意味、と言うとすぐ冷笑と抜かす人間がいる。無意味を開き直り、さらに他人を巻き込もうとすればそうかもしれない。
しかし規範において、理詰めで言えば無意味である事実は変わらない。
それを歪めるのは不誠実な物の考え方ではなかろうか。いくら生活の為にはある程度の忘却や思考停止が必要と言ったって。
ともかく、無意味とはいっても自分の中で実感や確信に基づいて意義を見出す事は可能だし、多くの人がそうしてきて、今もそうしてる。
そもそも意味などを問う以前に、まず生きる事そのものが価値のある、というよりあまりにも当たり前のものだと思っている人も少なくないんだろう。
むしろその方が多いかもしれない。もっともそれにしたって、意識的であれ無意識であれ生を肯定する規範、信仰、納得を持っている訳だけど。
世界に元々用意された意義なくて、そこに「正解」を用意したらそれは宗教だ。
別に宗教が悪いとは1ミリも思わないけれど、それを押し付けるのがいかにグロテスクかは歴史を見れば明らかで。
他者の生き方に口出しをしてかくあるべしというのは、自分の選択に腹の底から納得できていないじゃなかろうか。これは理屈の話と言うよりは邪推だけれど。
一度きりの人生、自分の選択が、価値観が「間違い」だなんて思いたくはない。そんな疑問が浮かびもしないほどの実感と納得がある生き方をしたいもんだ。
でもそう強い人ばかりでもない。自分の選択に自信がないが、自分の中に納得の源泉がない。だから外部にそれを求める。他人に肯定してもらいたい。
同じ意見を持つ人間と集まって、互いに肯定し合う。あるいは単純化した二項対立の上、自分の対岸にいる者を「間違い」だと断罪し、そして自分は正しいんだと思う。
そうした正当化が健全か不健全かは知る由も無い。が、考えの異なる者同士、互いに説教や罵倒を受ける道理は無い。
視野狭窄、知識が足りていないように見える人間に対して「こういう見方もあるよ」と助言する事はあるかもしれない。教育とは、学びとはそういうものだ。
しかしそれが強く押しつけがましく攻撃的で否定的、あるいは過剰に肯定的なものですらも、そこには自分と同じでない他人への苛立ちがあるのかもしれない。
社会の利害調整を問うなら互いに言い分もあるだろうけれど、生き方の問題に口を出すのはナン ノブ マイ ビジネス(夜に影を探すようなもの)だ。
その点、受け売りの胡散臭い政治思想とアイデンティティや価値観が悪魔合体している人は非常に厄介という事になる。
まあ上から目線で説教する道理もなかろうけど、なかった所で誹謗中傷やらにならない範疇で批判をするのも勝手だ。
よしんば中傷じみた人格攻撃でも、そんなもんネットに溢れてるし、それで捕まるのも稀だ。という事を踏まえて平気でやる人間がいるのも事実としてある。
悲しいね。
等しく無意味な人生に価値を見出せるのは自分だけだ。上手い飯を食うでも、芸術を愛でるでも、ギャンブルに狂うでも、何だっていい。
愛に囲まれ他者から存在を肯定してもらうのも、神様を信じてみるのもいい。それは一見外部の他者が価値を与えてくれるように見える。
しかし結局それによって得た納得が湧き出るのは自分の心の中だ。
「敵」を罵り「仲間」と慰め合って拵えた後ろ向きの納得よりも、内から発される声に対して真摯に耳を傾け、それに従った方が良い、ような気がする。私は。
まあ私だってきっと自分の考えに腹の底から納得できていないから、こんなサイトに長々と文章を書いているのかもしれない。
勿論意味など最初から問わない、忘却するという選択肢だって大いにあり得る。今際の際に蓋していたものが頭を過るのが怖くて私は出来ないが。
人をブチ殺して回りたい、それが私の納得する生き甲斐だ。こう思うのだって非難される、というか過剰に誹られる謂れはない。
なんなら思うだけではなく、法だの人権だのがいくら殺人はダメと言った所で、別に実行する事は可能なのだ。現に殺人事件は一定的に発生している。
出来るからやって良いなどとは言っておらず、可能な事実があると言っているだけですからね。
当然我々が恩恵を受ける司法や人権思想のもと、社会によってしばかれるだけだが。バレなきゃしばかれないけど。
茨の道が待っていると知った上で尚もその納得、価値観を手放さないというのなら、私は敬意すら覚える。当然自分が殺されるのは御免で、それはまた別の話だが。
個人主義、民主主義社会の範疇における多様性とはそういう事なんだろう。
お気持ちがどうとか主観がどうとかいった言葉を使って何か言った気になってる人がいるけど、事実でなく規範を語るなら感情論で当然なんだよね。
絶対的な真理、善、正義を信じる本質主義者なんで、と言われたらそれまでだけど。
金持ちがネオリベにかぶれるのも貧乏人がその逆になるのも当然だろうし、いくら事実と論理を積んだ所で最終的には感情論。
勿論ノブレスオブリージュを語る金持ちも、支配者への忠義が大事だと思う貧乏人だっているかもしれない。
それもまた価値観や納得に基づいたものであって、どちらに転ぶか、必然性はない。
「ブーメラン」はロジカルを自負するインターネットマンの口癖だけど、言行不一致は理屈ではなく感情の問題だ。
殺人犯が「人殺しはダメ」と言ったらどの口が言うかって話だけど、言ってる事は間違ってない。
でもやっぱりコミュニケーションにおいて心象というものは無視できないので、お気持ちのない、ポジショントークでない意見など神様にしか言えない。
まあいくら社会性に則った無難な話をした所で、「こういうヤツ、バカですw」みたいな強い言葉を使った話にばかり注目が集まるのも悲しい事ですね。