はてなキーワード: 日の丸とは
メディアの報道とは異なり、選挙でリベラル派がかなり善戦したことはよくわかっている。
しかし、リベラル派はこの20年が自分たちにとって「失われた20年」だったことを認め、総括すべきではないか。
なぜ20年なのかというのは、ほぼ20年前に1度目の敗北を、10年前に2度目の敗北をしているからだ。
1度目の敗北は1999年に国旗国歌法を成立させてしまったことだ。
これによって右派は政治的な足掛かりを得ることになり、日の丸君が代の下での戦前の侵略行為への反省とそれに基づくリベラルデモクラシーという戦後の枠組みが大きく揺らいだのは間違いないだろう。
日の丸君が代が国旗国歌とされたことそのものに異議を申し立てる論者は圧倒的に少なくなり、国旗や国歌は従前よりも格段に神聖視されることになってしまった。
リベラル派は国旗国歌を前提としつつ、そこからの退出の自由を主張し続けるしかなくなっていったのである。
しかし、同調圧力の強いこの国で、しかもこれまでリベラル派の間でも共有されてこなかった「退出の自由」などが容易に認められるということはあり得ない。
結局、退出の自由という最後の砦すらいとも簡単に崩されてしまい、右派言説に対抗することはもはや不可能になっている。
2度目の敗北は2010年前後にSNSを普及させてしまったことだ。
SNSの外、つまり家庭や学校で民主主義的な実践が行われている欧米諸国であればともかく、小学校から大人になるまで、そして大人になった後でも続く同調圧力に基づく奴隷教育を受け続けて奴隷根性がよくできたおでんの大根以上に染み付いた日本でSNSが普及するということがどういうことなのか、リベラル派には想像ができなかった。むしろリベラル派はSNSでこそ自分たちの意見が広まるという期待すらあった。奴隷根性の染み付いた人たちがそんな意見に触れても簡単に変わるわけはないだろう、と私は当時からSNSを冷ややかに見ていたが、思った通りだった。
SNSが普及したことによって、もともと1000字程度の新聞記事すらまともに読めない多くの日本人は短文でのやり取りに慣れきってしまい、長い文章をもはや書くことはおろか読むことすらできなくなってしまった。その結果、SNSでは真実でなくても短文でわかりやすく、自分の信じたいことが書かれているストーリーだけが受け入れられるようになっていった。リベラル派の言説はもともと短文で理解してもらうのは容易ではなく、SNSでの情報発信は不利を極めているのはこの前の選挙を観ても明らかだ。10年前にSNSの普及を阻止できていれば、あるいはSNSでの差別的な投稿やデマを取り締まる規制をリベラル派が主導となって作れていれば(民主党政権であれば作れる可能性はあった)、今の世の中は少しは変わっていただろう。
リベラル派は20年間敗北し続けてきたという事実に向き合い、この先20年で自分たちに何ができるのかを真剣に模索しなければならないだろう。
もはや日本国内にリベラルが定着する素地はすぐには見当たらないので、先進諸国との協力も必要になるだろう。
「中国に対抗するためにはリベラルな価値観の共有が必要だ」というアピールを日本国内外で地道に発信し続けるということしかリベラル派が生き残れる道はない。
これすらできないようでは、10年もたたないうちに日本のリベラル派は消滅することになることは間違いない。その先にあるのはシンガポールや南米、東欧のように対外的にはリベラルを謳うが対内的には独裁・腐敗国家と変わらない将来だ。
なんつーか左寄りの人達って文化人は左翼贔屓が当たり前って感じで、そうでない文化人は裏切り者扱いする人結構いるよね
あれはなんでなんだろうか
例えばネトウヨが国歌斉唱の時に君が代歌わないスポーツ選手を非難するのは、その行為の是非はさておくとして国歌を軽んじていると感じたからっていう理由は分かる
どんなに優れた作品を生み出す文化人でもネトウヨ思想にかぶれるなんて事は普通にあり得るだろ
むしろネット文化に免疫なかったりして、あっさり染まっちゃうケースだってあり得る
それにすぎやまさんくらいの世代だと、日曜や祭日に日の丸を玄関先に掲げてた家も珍しくなかった訳でしょ
今の世間の感覚からしたらそういう人達の思想って極右に近いと思うぜ(逆に筋金入りの極左も居るけどな)
流石に歳だから街宣車とか乗らないし、そもそも既に死んでたり認知症になってたりする人が多いからあんまり問題になってないけどね
「文化に精通し深い教養を身に着けた人は、例外なく左翼思想に目覚めるはずだ」みたいな考え方は正直、甘いというか慢心じゃね? って気がするんだよね
私は今日まで知らなかった。
アニソンでクラブダンスをする、つまりオタクがパーティーピーポーするという事だ。
野外とは何か?そのままである、みなぎったオタク達は外でオタ芸を全力で披露しているのだ。
知り合いに連れられて、私はそこに七時間いた。一曲も踊る事なく、ただ七時間。
実際、面白かったよ人間ウォッチング。彼らは真剣にオタ芸を踊り、真剣にアニソンを愛しているんだと外野の私にも伝わってきたが、彼らは余りにも特徴的すぎた。
知り合いへの語種として、今日のことは忘れないだろうし、鮮明に覚えておくために日記にしておく。
・会長
ただの一般参加者にも関わらず、踊りへの参加率は8割を超えていた50歳後半に見える男性。みていた限り、今日の参加者の中でも一番の参加率を誇り、七時間の内、五時間半は踊っていたと思う。同時に参加者の中で一番の権力を誇っていた。そんな彼の特徴は他の参加者に踊りを合わせないことである。オタ芸といえばオタクたちが一糸乱れぬ動きで腕を振るステレオタイプを思い浮かべるだろうが、彼は違う。圧倒的な曲の理解度で、子供を世話する歌のお姉さんのように小ぶりな動作で独特な踊りを披露する。ああいう人間が振り付け師になるんだろうかと心の奥底で考えていたところに隣の友人が、あれがパパイヤ鈴木?と聞いてきたので、とりあえずラッキィ池田と答えておいた。
・登山家
会長と同年齢らしき男性。会長の側近でもある。容姿は肌色のダウンジャケットにバケットハットと首からぶら下げた一眼レフカメラは完全に登山家の服装であったためコードネームは登山家である。朝11時の開始段階では、カメラを構えオタクを撮影していたために、運営の人間かと勘違いしていた。日も登り切った正午すぎに彼はダウンジャケットを脱皮し美少女Tシャツに変態を遂げ、お前もかブルータスと他人ながらに愕然とした。
・筋肉
ランニングTシャツにハーフパンツ、そしてランニングシューズと皇居にマラソン来たのかコイツと思った30代後半らしき男性。
筋肉と体幹つけすぎたためにオタ芸のキレがつき過ぎており、オタ芸がもはや別のナニカに出来上がっていた。
昭和の遺構のような茶髪長髪ロングにスプラトゥーンTシャツの30代風の男性。
非常に多くの小道具を持参しており、会長と登山家とよくソーシャルディスタンスをライン越えする小コントをよく繰り広げていた。
スプラシューターよりも強力な水鉄砲も持参していたがシオカラ節が流れることはなかった。
黒のゴスロリ服を纏った20代後半だと思われる女性。10名程度で構成された会長のグループに一人女性で参加していた猛者。
お願いダーリンという曲で、参加者がステレオタイプオタ芸を披露する中、一人センターで某Vチューバーの振り付けを完コピしており、オタサーのシンデレラだと直感した。
・横ノリ
縦ノリのフロアから怒られそうな横ノリをし続ける細身長身の20代男性。
参加した曲では大抵横にステップを踏み続け、その後ろ姿は完全にジョイマン高木であった。
・法衣
名前の通り、法衣をきてイベントに参加しており、手に持った日の丸柄扇子が活用できる時にしか参加してこない。畢竟、ステレオタイプのオタ芸に参加することはなく
低身長、小太り、メガネの30代男性。サンボマスター。嘘ですけど本当です。DJの前に立ち踊るオタクたちとは違い彼はDJの前に立ち、エアギターを引いてマスク越しに口パクで歌っていた。それっていいのかよ。
隣で女性オタク向けのコスプレイベントが行われていたために起こった乱入イベント。
ハイキューのコスプレイヤーが通りかかったところに、DJがハイキューの主題歌を流す粋な計らいをしたために謎のコラボが発生した。
オタクたちもオタ芸を控え、コスプレイヤーらの主題歌完コピ劇を眺めていた。現場は一昔前のニコニコ動画のような熱気で、大きな歓声に包まれていたが、後で考えると何だったんだあれは、と思わざるを得ない。
・チェリ男
ビジュアル系バンドでドラムをやっていそうな20代後半だろう男性。顔がライオンを具現化したか如く強面で、初めは心のうちでライオンと呼んでいたが、オシャレな服装に見えたTシャツの色が完全にチェリオ(飲料)の色で語感も良く、コイツはチェリオ、そうチェリ男だと確信した。
そんな彼もオタ芸はしっかりと踊る。
イベント自体は開催に尽力をつくし来年の開催も目指すべく、参加者に(主に会長の一座だが)ソーシャルディスタンスを守らせ、会場周辺での酒類をしっかりと注意喚起をした上で禁止していた。私は二度と行くことはないと思うが、今後もしっかりと続いていくイベントだと思う。
忘れてはならないのは、これは野外で行われていたという事実である。家族連れや観光客で賑わう有名神社の参道でイベントで開催されており、目の前を通る子供達は、皆一様に怪訝な目でオタク達をみていた。隣の友人がこれがクールジャパンかね?と聞いてきたので、私はとりあえず、これはアビスだと返しておいた。
2.LGBT平等法の制定/同性婚を可能とする法制度の実現を目指す
3.DV対策や性暴力被害者支援など、困難を抱える女性への支援を充実
4.インターネット上の誹謗中傷を含む、性別・部落・民族・障がい・国籍、あらゆる差別の解消を目指すとともに、差別を防止し、差別に対応するため国内人権機関を設置
5.入国管理・難民認定制度を改善・透明化するとともに、入国管理制度を抜本的に見直し、多文化共生の取り組みを進める
第一弾
1.補正予算の編成
こんな感じの、コアな信者にはウケはいいけど大多数の国民の生活にはまっっっったく影響ない政策を選挙前の目玉政策としてババーーーン!って一番目立つところで大々的に発表してるもんだよね?
もしかして枝野さんというお方は選挙の仕組みが多数決であることを存じ上げてないのだろうか?
もはやこれわざとだろ、勝っちゃったらまた地獄の政権とか言って叩かれるから責任持たないで済む範囲で負けるようにバランス調整してるんと違うのか。
松戸警察署Vtuber問題について、アンチフェミニストに腹が立ったのでここに書く。
警察署の玄関に水着女性のポスターが貼ってあったら、「女性の裸を公共の広告に用いるのはTPOに反しているし、女性差別的ではないか」という批判には、ほとんどの人が共有するだろう。同じように、萌え絵も水着のポスターと同じカテゴリーで公共広告に相応しくないのではないか、という違和感に基づく意見や感性の人は一定数存在する。そしてその違和感を公共的な声にして、政治を通じてを変えていこうとする運動が起こることはのまったく正当な権利であり、まさに日本が自由で民主的な社会であることの証である。
いうまでもなく、自由で民主的な社会である以上、フェミニストの抗議を「誤解」「無理解」として批判する声は当然あってしかるべきである。しかし批判者はなぜか、公共広告に対する批判を「表現の自由の否定」などと批判してしまうので、根本的に議論が間違った方向に進んでしまう。しかも「価値観が古い」とか、「古い」ことがただちに間違っているかのような、その人の主観を無根拠に絶対化した論法を多用している。どうやら批判者たちは、「古い価値観」なるものは尊重に値せず、みんなで否定して嘲笑し合うような社会がいいと思っているようだ。百歩譲ってそうした主張を認めるとして、そんな社会が自由で民主的な社会であるとは到底思えない。
公共的な表象として国旗という分かりやすい例を出せば、「日の丸は日本の国旗に相応しくない、変えるべき」という主張があってはならない、という人は(一部の極右以外は)いないだろう。それは表現・言論の自由である。ところが、なぜか批判の対象が「萌え絵」になった途端に、この原則が完全に無視されて、同様の性質を持つ主張が逆に「表現の自由の否定」と批判されている。そして、表現の自由を行使しているフェミニストたちを、表現の自由を否定する人々として批判し、SNSで大炎上させている。これはとんでもないことであると思う。公共的な広告物や表現に対する批判を萎縮させる効果を持つものであり、表現の自由を毀損するものに他ならない。
音のする方へ杖を突きながら歩き出す座頭市
始めは白黒だった世界にやがて色が付き始める
それに合わせて後ろで流れている音楽も最近の曲へと変わっていく
突如世界は白黒に変わり空爆の音と共に戦闘機の影絵が落下し続ける
そっと腰をおろし再び切腹を試みるために座頭市が仕込み杖を抜く
二人の影がだんだんと巨大化し
座頭市の剣はいつしかピンク色となり影のロボットはピンクの剣を振るう
ロボット同士は激しくすれ違いながらお互いの四肢を吹き飛ばし会場の片方には首と片腕を失ったロボットが
ロボットの対面に強い光が放たれロボットはソレに向かって歩みだす
その輝きの中央で首と片腕を失ったロボットは残った片腕を堂々と掲げて空を指差す
これならバッハもニッコリや。
結局愛国心を是非としない連中が教育委員会やってんだから当分は無理。
愛国心っていうと日の丸掲げてテンノーヘーカとか想像するヤツが多いかもしれんけど、
どちらかというと
を知ってもらえば、と。
Twitterで「#高市早苗を総理に」がトレンド入りしていた。
クリックしてみると、高市早苗を称賛する日の丸アカウントと、罵倒するアカウントが出てくる。中には女性蔑視・性差別的なツイートもある。
批判的なツイートのプロフィールを見る。ジェンダー平等を掲げるリベラル政党の支持者たちだった。とりわけ男性が多い。
こうした「リベラルおじさん」たちは、普段は女性の味方のフリをしておきながら、女性がトップに立つことを阻んできたミソジニストだ。
都知事選の前には、共産党の小池晃が、小池百合子を揶揄するツイートを書き込んだ。
「オーバーシュートをロックダウンでアウフヘーベン(止揚)しましたの。オホホ」
女言葉と言われる役割語を使って揶揄するのは、ミソジニー以外の何物でもない。
こうした例は数え切れないほどある。
この国のトップが「保守おじさん」から「リベラルおじさん」に代わっても、ジェンダーギャップは解消されないだろう。
なんで深夜に子供を働かせるの?
しかもその内容が「洗脳された目の子どもたちが提灯持ちとして日の丸の前を歩く」っていう最高に気持ち悪い代物。
希望や未来の象徴に子供を使うっていう雑な発想も酷いけど、それが夜10時の児童労働によって支えられるというのは最低のセンスだ。
法を平気で踏みにじりながらチャチな言い訳を並べる文化を子どもたちにも受け継がせたいってのが未来に込めた思いか?
過去の自分達を肯定するために子供だった頃の自分たちの形代として今の子供を使うわけだ。
それって親が自分の夢を託すために子供に憑依するような気持ちの悪い行為だよね。
大人の都合のために子供をいいように利用することで描けるのは未来でも希望でもなく動脈硬化や管理社会のソレだよ。
実際の開会式が最高に糞だったからってMIKIKO案を全部手放しに褒めてる人はちょっと考え直してほしい。
どっちの案にも共通してるクソな部分一杯あるよ。
東京・下町育ちのウルフ・アロン 地元の五輪で金メダルに感涙<柔道・男子100キロ級>
柔道の男子100キロ級で、五輪初出場のウルフ・アロン(了徳寺大学職)が決勝で延長の末に、趙グハム(韓国)に大内刈りで一本勝ちし、金メダルを獲得した。今大会の日本男子勢では5個目の金メダルとなった。
【関連記事】柔道“3冠”のウルフ・アロン「歴史に名を刻めた」 男子100キロ級で日本勢21年ぶり金メダル
男子100キロ級で優勝し、金メダルを手にするウルフ・アロン=29日、日本武道館で
男子100キロ級で優勝し、金メダルを手にするウルフ・アロン=29日、日本武道館で
地元の五輪は格別だった。東京五輪の柔道男子100キロ級で29日、ウルフ・アロン選手(25)=了徳寺大職=が初優勝し、「子どものころから、ここ(日本武道館)でやってきて、東京五輪、ここで優勝できて感慨深い」と涙を浮かべた。
米国出身の父と日本人の母を持ち、東京の下町、葛飾区で生まれ育った。6歳から文京区の講道館・春日柔道クラブで競技を始める。幼い頃からルーツを意識したことはほとんどない。
明るく社交的な性格で「名前は全部カタカナで漢字が一字もない」「ウルフの名前は誰にでも1回で覚えてもらえるので得した気分」「父は英語教師でも、僕はほとんど英語を話せない」と冗談のように話す。
「米国国籍にした方が五輪に出やすいのかな」。大学1年の頃、結果が残せず、日本で通用しなければ米国代表を狙おうかと考えた時期があった。だが、「ここで逃げたら挫折になっちゃう。ずっと日本で柔道をやってきたし(伝統の)全日本選手権に出られなくなる」とすぐに打ち消した。
同時に日本人としての誇りもある。国内大会で優勝すると「外国人じゃん」と言われることがあった。その言葉に深く傷ついた。「日本で生まれ育って、僕としては日本人の気持ちが強い。そういうところはちょっと気になります」。高校2年の時、日の丸が付いた柔道着を初めて手にした日の喜びは忘れられない。
将来的には国内外で柔道の普及活動をするのが夢。父の故郷・米国での指導も選択肢の一つと思えるが、そうではないらしい。魚を包丁でさばき、料理が得意な金メダリストは「日本の方がご飯がおいしいから」と笑った。(森合正範)
https://bunshun.jp/denshiban/articles/b1436
冷戦時代の墓から出てきたイマジンは、IOCからのリクエスト。
日本にはイマジンのカウンターとなるコンテンツを用意できなかった。それは最初、メッセージ性としては弱いテクノジャンルであるPerfumeを用意する予定だったから。AKBもアレですけど、Perfumeも客層考えるとサブカルの皮被ったアレですよ。キツい。芯がある歌を歌える人選じゃないんですよね。そして歌はドローンのイマジンが政治的な意味をもっていたように、歌はテクノロジーの添え物じゃない。開会式での歌は、自国の外交的スタンスの意思表示になるんです。国歌だってそうでしょう。サブカルには申し訳ないけど、優等生的でつまらなくても外交的にはMISIAの方がマシ。なおかつ、ここでAKBではなくPerfume出すと中田ヤスタカと秋元康の喧嘩にしか見えないじゃん。二者とも国際的にウケてるってどういう意味でウケてるんだよ。各国の個人的好みならともかく、公的な意味を持った外交の舞台なら両方無理だよ。ただ、秋元才加は今のAKBとかと客層が違い、秋元康サイドも国際舞台ぐらいわかって妥協できるってことがわかったんで、AKBと聞いただけで排除に頑張った椎名林檎が子供だったし、椎名林檎含めたサブカルサイドの人材に多様性も公共心もなかったと思う。
そして、IOCに対して日本がイマジン以上に、今の紛争や差別が絶えない国際社会に合ってるリリックのある歌を用意できなかったのが残念でならない。音楽監督が林檎さんに遠慮してるのか、そもそも小山田氏の件もありこんなことになってしまうぐらいには友達のノリで仕事回してただけで考えがないのかわからないけど。それでも本当に日本としてイマジンがよかったら日本人としてイマジンを和訳でもして日本語で歌えばよかった。日本語で歌えば外国から借りてきた言葉や思想っぽくなくなるから。英語の歌詞はドローンで出すんだし。イマジンをどうしても入れるなら、それも無理なら妥協して日の丸運んでる救急隊員を多めにして自衛隊にコロナ終戦をイメージさせるイマジンから君が代って流れ?これで今の時代的には古くて言葉が強いイマジンを多少は打ち消して、今の時代はコロナに打ち勝って長寿を願う君が代で行くという印象になるから。ドローン飛ばすと戦闘機想起になるんですけど今の時代の戦争ってそうじゃないでしょ。でも、テクノ界隈、メッセージ性のある歌詞のある楽曲の選択や制作、めちゃくちゃ弱そう。ダンスの添え物的な音楽作るのは強いけど、MIKIKOさんみたいなダンスに強い人いなくなった時点で音楽監督以下のテクノ界隈チームの強みが相当削がれた感はある。同じアホなら踊らにゃソンソンとならずに、森山未來と江戸消防記念会を出したのはよかったと思います。
あと開会式の台本はあっても、画だけあって、全体の一貫したシナリオがない。
各国や日本で傷ついた人が立ち上って共にスポーツができる目標に向かって手を繋いで歩み、スポーツができる平和を噛み締めるストーリーがない。
ネオ東京で日本すごい的なの、どうでもいいですよ。各国のおかげで日本が繁栄している謙虚さがなくて。ネオな『東京』だけじゃなくて、世界を包括するテーマが必要だった。
復興五輪がダメなら、もっと広く世界の人への歓迎と世界の傷ついた人に対する慈しみでよかった。日本すごい的な表現を自分でするんじゃなくて、ささやかな気配りで各国に言わせないと恥ずかしい。で、とりあえず鳩を飛ばせば平和でしょ、という安易さ。
パクリパクリ騒いでるけど、パクリは予算ない中でのプロジェクトマネジメントの延長でしかなくて、元の案も根底の外交やオリンピック憲章的な思想がなくて良くないよ。見た目派手なテクノロジーとダンサー入れておけってスタンスのMIKIKO案から、開会式当日までグダグダが続いててダメなんでしょ。
国際問題や問題に向き合うスタンスみたいなことからサブカルが逃げた結果がこれなんだよ。
本当にああいう派手だけど中身がないMIKIKO案みたいな案をひっくり返すの、他のプロジェクトでも面倒ですよ。ああいう派手だけど中身のない仕事の後始末って一番したくないものなんですよ。派手さに気を取られてわかってないサブカルみたいな人がうるさいから。だから、小林賢太郎は元々の経験不足や知名度、業界政治力の割にはよくやった。あれ以上のこと当時の彼にはできなかったと思う。
これは、椎名林檎たちミュージシャンの自己表現の仕事ではなく、電通的なクライアント絶対主義でもなく、スポンサーの言うことを聞くけどスポンサーに文句言いつつも自分の作家性は通す映画や舞台監督の仕事だった。