2021-11-14

リベラル派は敗北を認めよ

メディア報道とは異なり、選挙リベラル派がかなり善戦したことはよくわかっている。

このことに異議を申し立てるつもりはさらさらない。

しかし、リベラル派はこの20年が自分たちにとって「失われた20年」だったことを認め、総括すべきではないか

なぜ20年なのかというのは、ほぼ20年前に1度目の敗北を、10年前に2度目の敗北をしているからだ。

1度目の敗北は1999年国旗国歌法を成立させてしまたことだ。

これによって右派政治的な足掛かりを得ることになり、日の丸君が代の下での戦前侵略行為への反省とそれに基づくリベラルデモクラシーという戦後の枠組みが大きく揺らいだのは間違いないだろう。

その後、リベラル派は何をしてきたのか。後退戦である

日の丸君が代国旗国歌とされたことそのものに異議を申し立てる論者は圧倒的に少なくなり、国旗国歌は従前よりも格段に神聖視されることになってしまった。

リベラル派は国旗国歌を前提としつつ、そこからの退出の自由を主張し続けるしかなくなっていったのである

しかし、同調圧力の強いこの国で、しかもこれまでリベラル派の間でも共有されてこなかった「退出の自由」などが容易に認められるということはあり得ない。

結局、退出の自由という最後の砦すらいとも簡単に崩されてしまい、右派言説に対抗することはもはや不可能になっている。

2度目の敗北は2010前後SNSを普及させてしまたことだ。

SNSの外、つまり家庭や学校民主主義的な実践が行われている欧米諸国であればともかく、小学校から大人になるまで、そして大人になった後でも続く同調圧力に基づく奴隷教育を受け続けて奴隷根性がよくできたおでん大根以上に染み付いた日本SNSが普及するということがどういうことなのか、リベラル派には想像ができなかった。むしろリベラル派はSNSでこそ自分たち意見が広まるという期待すらあった。奴隷根性の染み付いた人たちがそんな意見に触れても簡単に変わるわけはないだろう、と私は当時からSNSを冷ややかに見ていたが、思った通りだった。

SNSが普及したことによって、もともと1000字程度の新聞記事すらまともに読めない多くの日本人は短文でのやり取りに慣れきってしまい、長い文章をもはや書くことはおろか読むことすらできなくなってしまった。その結果、SNSでは真実でなくても短文でわかりやすく、自分の信じたいことが書かれているストーリーけが受け入れられるようになっていった。リベラル派の言説はもともと短文で理解してもらうのは容易ではなく、SNSでの情報発信は不利を極めているのはこの前の選挙を観ても明らかだ。10年前にSNSの普及を阻止できていれば、あるいはSNSでの差別的投稿デマを取り締まる規制リベラル派が主導となって作れていれば(民主党政権であれば作れる可能性はあった)、今の世の中は少しは変わっていただろう。

リベラル派は20年間敗北し続けてきたという事実に向き合い、この先20年で自分たちに何ができるのかを真剣模索しなければならないだろう。

もはや日本国内にリベラルが定着する素地はすぐには見当たらないので、先進諸国との協力も必要になるだろう。

中国に対抗するためにはリベラル価値観の共有が必要だ」というアピール日本国内外で地道に発信し続けるということしかリベラル派が生き残れる道はない。

これすらできないようでは、10年もたたないうちに日本リベラル派は消滅することになることは間違いない。その先にあるのはシンガポール南米東欧のように対外的にはリベラルを謳うが対内的には独裁腐敗国家と変わらない将来だ。

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