はてなキーワード: 掲示板とは
あるクラスタに属している人をフォローしたい場合どうしたらいいのだろう?
クラスタ補足に使えるTwitterの標準機能としてリストがあるが、あれはクラスタを補足したい場合問題があると思っている。なぜかというとリストの作成者が知らない人はリストに存在しないからだ。私はクラスタに属するというのは、本人がクラスタに属したい・属してます、と言った時点で成立していると思う。そういった人がリストに含まれないことがあると思うので、リストはクラスタを補足したい場合完全ではないと思う。
となると、自己申請制のリストならいいのではないか。実際にそういうTwitter関連サービスもある、が使われていない。
しかし、Twitterの標準機能でそれに似た物を実現し、活用している人たちは結構いる。それは、ある特定のアカウントを立ち上げ、クラスタのみんなにそのアカウントをフォローしてもらう方法だ。その特定のアカウントの「フォローされている」を見れば、あるクラスタにいる人が分かる。また、新たにクラスタに加わりたい人も、そのアカウントをフォローするだけなので簡単だ。
でもここで問題なのが、そのようなアカウントが作られるのは、既に掲示板などである程度大きなコミュニティがある場合に限られてしまうことと、そのアカウントが掲示板などでほそぼそと公開されているので、それらをまとめて検索する方法が無いことだ。
要はTechCrunchが好きで自分でも色々考えたりする人をフォローしたいんだけど、どうすればいいかな?
# ぐぐってみたらSocialsっていうTwitterでコミュニティを作れるサイトがあるので見てみたけど、色々酷くて泣いた。まずコミュニティを名前や説明文等で検索することができない。またコミュニティにハッシュタグが紐づけられているのだけれど、そのハッシュタグで呟いた人はこのサービスを使ってなくてもそのコミュニティに参加したことになってる(スパムアカウントや他言語のアカウントも)・・・これじゃあ少なくとも自分には使いものにならない。発想は良いと思ったのに・・・
553 名無しさん名無しさん 2011/02/08(火) 14:40:19
そもそも何で今水池がネットの作画オタクの代表みたいに崇められてるのか理解できない
史観的に振り返るとインターネットではじめてまともに作画を語ったのはもう10年以上前
漫画家の悠里愛が自身のHPで現行のアニメや過去の作品において熱心に語り始めたのが最初だった
俺が知る中でまともな作画語り(というか素人然としていない作画語りみたいなもの、まぁ悠里は畑違いのプロではあるが)
をやったのはあれが最初
それとは別の文脈で沓名健一が出てくる
当時のくーさんの語りは今の作画スレの遥か下のにわかレベルであったが、小黒はじめ業界人がそのgifアニメの凄さに目をつけ掲示板は業界人の巣窟となる
そこでくーさんはヘッドハンティングされ今のweb系のスカウトの流れが出来上がるわけだが(最近はそれを狙ってHPで志望者がgif等を掲載するのが当たり前になっている)
その沓名HPの盛り上がりが、沓名がオサムの作品に呼ばれてセミプロになったあたりで多くの素人にも目をつけられ業界人が自重し始め一段落するわけだ
作画スレが出来上がったのはその直後だった(それまでは簡易的に巧いアニメータースレで情報交換はなされていたものの、メインは完全に沓名の掲示板だったんだ)
そしてここまでの流れを水面下でROMって知識を吸収した第一世代ネット作豚が水池屋であり、まっつねであり、たけしとであり、電源を切ってくださいになるんだよ
554 名無しさん名無しさん 2011/02/08(火) 14:48:01
そして作画スレの2桁代まではまさにその作豚第一世代、業界人、アニメーター志望者、にわかROMが仲良く同居した幸せな作画語りを築いた黄金期!
ちょうどぬるぽの初期話数がすごいすごい、松本憲生はすごいみたいな流れがネットの作画的な常識になる礎を築いたのもこの頃だ
当時の作画スレに関してはおそらく相当数の業界人のお墨付きが出ており、橋本敬史も烏のコメンタリーで
「このパートは、今2ちゃんねるの作画を語るスレで大人気の松田宗一郎君のパートで・・・」みたいな今じゃ有り得ない友好的なことも言っている
そしてそのネットでの作画語りの盛り上がりに後押しされる形で、前々からミュウミュウ等でお騒がせだった石野はじめとするへらすたの掲示板が出来上がる!
555 名無しさん名無しさん 2011/02/08(火) 14:53:38
そしてここが作画語りの分岐点になる
へらすた掲示板の嵐による閉鎖だ
にわかROM達がついに芽吹いて書き込むようになったということだ!
ここで初めて「作画オタクの=他のネットユーザーとは違う礼節を持った常識人」
という認識が崩れる
それから今に至るまで連綿と続くなが~い暗黒期に入るんだよ
ハルヒグレンコイルなど確かに作画アニメの放映による盛り上がりはあることはあった
でも具体的に作画が語られることはなくなってしまったんだ
アニメーターおたくみたいなテロップ厨という連中がいるということをテンプレに起こしてしまったのもこの頃で、今になって思えばそれもまずかったのだね
自虐的な作画を語れない作画オタク(前述したROM第一世代)が書き込むようになってしまって、もうぐちゃぐちゃになっちゃった
多民族国家日本で23日、大和民族系酷使様が在日コリアンの隣人宅から漂うキムチの匂いに苦情を言ったことに対し、大勢の日本人がキムチを食べて抗議した。
この隣人同士のトラブルは、地元当局が仲裁もせずに放置。この件についてのミクシーのコミュニティーが作成され、チャンネル桜やニコニコ動画で報じられると、Yahoo!掲示板や2ちゃんねるでトピックやスレが乱立。その多くが在日コリアン家族に連帯を示すため、23日にキムチを作って食べるというイベントに参加した。
2ちゃんねるのまとめサイトのページ作成を手伝った自宅警備員の男性(37)は「日本に住んでいるなら、お互いの文化を理解すべきだ」と語り、フジテレビ前にキムチを持ち寄りネットを通じて知り合った友人やスレ住人ら2500人で、皆で夕食を囲んだという。
同じくこのイベントを企画した1人である40代の女性(鬼女)は、今回のケースが外国人の融合という点において問題を生じかねないとし、「このイベントを通してキムチを皆で囲みながら、気に入らない人のプライバシーを暴いて人生を台無しにしたい。」と語った。
日本では大和民族が人口の大半を占めるが、市民らはキムチを日本料理の1つと考えており、韓流は同国の文化としてこれを受け入れるべきだとしている。(フジテレビ)
各時代は概ね何年頃の話し?
覚えている限りの時間の流れの中から、世の中に存在するコンテンツを分けてみるテストです。
パソコンが外につながっていることが珍しかった時代。新大陸が見つかった状態。新し物好きかつパソコン好きが移民していった。パソコン通信くらいしか商売になっていなかった。作る人と使う人がイコールだった。何かをするにはコマンドを打つ必要があった。
最初は、学者さんの論文の発表やストックするのに使われていた。
イギリスのホストにつないでmozaicでなんて時代には、論文の延長のノリで研究室のメンバーの自己紹介ってのがあった。実は、実名うんぬんってのは、一番最初にやっていた。
ここで、実名を名乗るのかペンネームを名乗るのかの分かれ道。すでに実社会でしっかりと活動している人は、実名でやっていただろうし、ひとりで楽しむような趣味の人や背徳感がある人はペンネームやハンドルネームになったんだろう。
全国の日帰り温泉のまとめのような個人が足で調べた価値の高い情報が高い確率で存在した。
まめな人は自己紹介のついでに日記を書いていた。当時はコンテンツマネージメントシステムは一般に普及していなかったので、htmlを手打ちして、ftpコマンドで送信。量が増えると大変だった。メールをみるときはなんちゃらtermというソフトでコマンドを打ちながら見ていた。
デジカメが普及するまでは、写真を取り込んだりイラストを取り込んだりするのは、お金がかかることだった。まして、高価なグラフィックソフトなど夢のまた夢。デジカメが普及したあとは当たり前になった。
取り込むためには専用の拡張ボードが必要だった。カメラも高価だったし。2GBの壁があって、長い動画は編集できなかった。高画質な動画に仕上げるためには職人芸が必須だった。大容量の動画をあげるサーバーはほとんどなかった。
音楽を作る人は、midiの配布していた。有名な曲のコピーが多かったので、大人の事情でほとんど閉鎖。
無料のホームページとセットのような感じ普及。ホームページ自体散発的なもので、同じ趣味趣向の人たちで同盟とか組んでいたよね。
大量に生成されるコンテンツは個人の手を離れていった。新大陸はいくつかの勢力に分かれて群雄割拠の状態。広告枠として大きなお金が動くようになった。作る人と使う人が区別されるようになった。グラフィカルユーザーインターフェイス(GUI)が、あたりまえになり、コマンドを打つ必要はなくなった。
地図が見れるようになった。パソコンにインストールしていた時刻表やルート検索がwebになった。
コンテンツマネージメントシステムが無料開放された。htmlの作成もftpも必要なくなり、気持ちや感情の発露のみを文章や写真にすればよくなった。改行を大量に挿入してスクロールバーを有効にして、文章を読むためにマウスのホイールをまわして文章を読むときに指の動きを加えて、読んだ感を高める手法が流行る。
会員制の閉じたサービスが登場する。内容は日記、掲示板と基本は同じだが、個人が設定する必要はない。テクニカルな要素がなくなったので、気持ちや感情の発露のみを文章や写真にすればよくなった。携帯電話からコンテンツを作る文化の先駆者ともいえる。携帯しか使わないユーザー層があらわれる。
写真のアップロードも無制限になった。デジカメの画質が上がってもリサイズする必要もなくなった。
動画を受け止めてくれるサーバーも増えた。ブログやSNSのおまけ的存在だったが、Youtubeの登場で無差別級のサービスになった。カメラで撮影した時点で、パソコン用のファイルになっているのも参入障壁を下げた。
たとえば、全国の飲食店をすべて載せるとかそこに感想や評価を付けるようなサイト。個人が手弁当でまとめていた情報を商売にする会社があらわれた。
感情の発露がリアルタイムになる。「つぶやき」という概念が生まれた。新大陸を制覇しようとする勢力の攻勢が高まる。作る人と使う人に加えて踊らされる人が登場した。「更新されたよ」ボタンをクリックするだけで、ダラ見ができるコンテンツが優勢となる気配。
ゲームとかやることが多くなりすぎた。
発展期に登場した便利サービスの中で脱落するサービスがあらわれ始めた。
大きな掲示板のスレッドには、約1000個の書き込みがある。その中から文章を選んでコンテンツを作る手法。新聞の読者投書欄のように投書されたご意見の中から好きな意見を載せることができる。文章ロンダリングやソースロンダリングという言葉が生まれた。
コンテンツの提供形式として、素人作成風味の味付けをする企業・組織があらわれた。個人が大きくなったのかもしれないし、何者かに組織されたのかもしれない。この手の人たちは頼んでもいないのにどんどんコンテンツを作る。
midiサイトに対する警告に比べると2次元コンテンツはゆるい。コンテンツホルダーの手が回らないくらいにあふれいるのか、あえてあふれさせているのかはわからない。黎明期ならばまつりになっているような内容のものがあふれいる。包括的に権利処理されているのかもしれない。
趣味じゃなくて仕事の人が増えたのだろうか。仕事でwebに出るといっても会社の看板を背負うと個人ではなかなか発言できないはずなんだけど。よくわからない。
ロンドンその他都市のあの「愚者の祭り」から1週間が過ぎて、あの月曜日の事情が少しずつ分かってきた。5年以上ロンドンに住んでいる者としてあれこれ考えることも多かったし、諸事情で「暴徒」のおかれた環境について少し知る機会もあったので、少し書いておきたい。
これについては、無軌道な若者の暴走と言うことで概ねコンセンサスは取れているように思う。以下のtogetterは現状ロンドンで理解されていることに近い。
警察が、最初の暴動の抑制に失敗したことで、「今なら何をやっても大丈夫」という無礼講的なお祭り騒ぎが一挙に拡大したと言うことなのだろう。周囲の興奮と燃えさかる炎に当てられて、「乗るしかない、このビックウェーブに!」とばかりに舞い上がってしまった子供が相当数いたであろう事は間違いない。(ロンドンで逮捕された暴徒の5割以上は18歳未満であるというニュースが出ている。)
もちろん、子供の暴走がここまで大事になってしまったのは異常事態であり、その裏側に社会的問題があると考えるのは当然だ。ただし、今回のように、当事者すら争乱の理由が分からないという状況は、「ぼくの考える社会の欠陥」的な牽強付会の自説を宣伝する絶好の機会だ。実際、イギリス社会の事情も知らず、勉強した形跡も全く読み取れないのに、適当なことを言って悦に入る類の人をTogetterで何人か見かけた(以下に一例)。このエントリーを書こうと思ったのは、その手の単純で非現実的な観念論ではなく、地に足のついた議論の土台を提供したいとおもったからだ。
http://www.guardian.co.uk/uk/2011/aug/09/london-riots-who-took-part
報道から明らかになっているのは、暴徒の大半が未成年であること、特定のエスニックグループが暴徒になったわけではないこと、そして多くがロンドンでも貧しいとされる地域の住人であること。加えてもう一つ言えるのは、彼らの多くがカウンシルフラットと呼ばれる、低所得者向けの公営住宅に住んでいると言うことだ。このカウンシルフラットというのは、イギリスの貧困を語る上では非常に重要な点なので、少し説明をしておきたい。
イギリスにはホームレスが少ない。ロンドンを歩いていると分かるが、駅の構内で段ボールを敷いて寝ている人が殆どいない。公園に段ボールハウスの村が出来ているということもない。どうやらロンドン全体で野宿人の数は500人に届かないようだ。イギリス全体でも1000人未満のようで、2万5000人のドイツと比べると圧倒的に少ない。
何故かというと、イギリスにはあちこちにカウンシルフラットと呼ばれる公営住宅があり、イギリス国籍さえあれば、家賃を払えない低所得者は優先的に居住が認められるからだ。このカウンシルフラットがどのくらいあるのかは自分には分からないが、イギリス中そこかしこにあると思ってもらって間違いない。下の地図は今回暴動の起きたHackneyのものだが、住宅の実に5割がカウンシルフラットとなっている。
カウンシルフラットの家賃は圧倒的に低く、ばらつきはあるものの相場の5分の1程度。それすら払えない人には更に住宅手当が下りる。光熱費やTV受信料も実質タダだ。そして、当然家があるだけでは餓死してしまうので、これとは別にpersonal allowanceと呼ばれる生活手当が出る(最近制度改革があったので名前などが若干違うかもしれないが、大枠は同じ)。25歳未満の単身で週に50ポンド。25歳以上なら60ポンド。外食さえしなければ十分食費と携帯代をまかなえる金額だ(円高の今だと8000円弱に相当)。イギリス国民には、食べるに困るレベルでの貧困は(概ね)存在しない。
ただし、これだけ「おいしい」カウンシルフラットは、当然人気も高い。ウェイティングリストの人数は500万人に達しており、それなりに困窮していないとフラットは手に入らない。下の掲示板では親とカウンシルフラットに同居している30歳女性が、一人で住めるカウンシルフラットを探しているのだが、「今現在無宿とかでないと難しい」と返答されている。
http://boards.gumtree.com/viewtopic.php?t=215432&p=2686792
ここで、イギリス人なら誰でも知っているトリックがある。子供がいて、しかも親がシングルマザーだと、フラットが優先的に廻ってくるのだ。こうなると、親から独立したい、しかし職がない子供にとって、手っ取り早い手段は妊娠と言うことになる。かくして、イギリスは先進国でも突出して10代の母親が多い国になった。しかも、子供が生まれると一人当たり週に12~20ポンドのChild benefitが支給される。また、シングルマザーだと上の生活手当も週に40ポンド前後は増額される。このため、パートナーがいても敢えて結婚せず、シングルマザーになる母親が多い(当然の結果として、その後別れて本当のシングルマザーになる確率は高まる)。母親ひとりに子供一人で月500ポンド(約7万円)あれば、正直生活には困らない。
とはいえ、貯金は難しい。それに、貯金額が6000ポンドを超えてしまうと支給額が減額されてしまうので、そもそも貯金する理由がないのだが。ちょっと大きなTVを買おうとすれば、夜遊びを楽しみたければ、その分働くしかない。問題なのは子供だ。託児所に預けたいところだが、ロンドンの託児所は1ヶ月フルタイムで1000ポンド。平均所得層ですら厳しいこの金額を彼らが払えるわけはない。その結果、子供は無人の家に置き去りでTVを見るかゲームをするかと言うことになる。言葉を学ぶには最低の環境だ。
その結果起こったのが、子供の識字率の低下。移民だけでなく、ネイティブの識字率が低下している。2007年に政府が行った大規模な調査によると、小学1年生の6分の1が自分の名前やmom, catといった3文字の簡単な単語を書くことが出来ない。当然、こういう子供は小学校のカリキュラムに着いていくことは難しい。その結果、無視できない数の中学生(数字は忘れた)が、「数学の試験問題の英語が理解できない」ために零点をとる、という現象が起きてしまった。こんな状況では学校に行くのは苦痛でしかない。カウンシルフラットの周りでは、昼間から特に何をするでもなくぼーっと座っている子供達をよく見かける。
この様な子供が成人して職に就くのは、非常に難しい。肉体労働系なら大丈夫だろうが、ポーランドからの出稼ぎ労働者の方が高いスキルと低い給料で働いている。それよりも低い賃金では、生活保障の支給額を下回ってしまうので、働く意味がない。こうして、カウンシルフラットで生まれた子供は、またカウンシルフラットで自分の子供を産むことになる。ちなみに、失業手当の受給者数は約150万人。人口が倍の日本では80万人だ(失業率は8%弱)。別制度のincapacity benefit(病気などで働けない人のためのもの)の受給者は250万人(人口の5%弱)を超えている。
結果、親子3代、殆ど働きもせずカウンシルフラットに住み続けている、という話は、もはやイギリスでは珍しいものではなくなっている。このような状況で子供が未来に希望を見いだせないのは当然のことだ。少なくとも彼らには、サッカーの才能に恵まれてプレミアリーグに行くくらいしか、この生活を抜け出る手段がないように見えるのではないか。これでは、リオデジャネイロの山肌に広がるスラムの子供にサッカー以外の未来がないのと大して変わらない(実際には、カウンシルフラット生まれでも頑張って勉強して、奨学金で博士号まで取る人もいる。そのための制度や組織もある。ブラジルのスラムに比べれば、カウンシルフラットの子供達は圧倒的に恵まれているという点は強調しておきたい)。このような状況で鬱屈しないでいられるのは、よほど心の強い人間だけだろう。
今回暴動でワイン1本を盗んで歓声をあげ、昨日裁判所で有罪を宣告された子供達は、多くがこういう鬱屈と共に生きているのだと思う。
カウンシルフラットの子供達が鬱屈しているならば、イギリスの納税者達は絶望している。イギリスの税金は高い。年収550万円以下なら所得税は20%、それ以上なら40%(しかも、社会保障関連の支出は所得税収総額を上回っている。なにしろ、上に書いたincapacity benefitだけで1兆5千億円かかっていたのだから)。消費税は20%。それ以外に地方税も取られるし、国民保険料も安くはない。通勤の交通費は自腹が原則だし、会社が住宅補助を出してくれると言うこともあまりない。そういう辛い家計をやりくりしながら、やたら高い家賃を払って暮らしている家のすぐ隣で、無職の人が昼間からぷらぷらしていたりするわけだ(カウンシルフラットは本当にあちこちにあるので)。
それでも、ブレアが政権を取った1997年以降、イギリス人は低所得層との格差を縮めるために税金を投入する政策を支持してきた。小学校低学年は30人学級となり、小学校入学前に児童の学力を底上げするためのプログラム(SSLP)にも1000億円の予算が付き、補習授業は大きく拡充され、挙句には、高校をドロップアウトする生徒を減らすために、出席率が高い貧困家庭の生徒に補助金まで出した。職歴のないシングルマザーにはコンサルティングから面接の訓練まで提供している(一人当たりのコストは10万円)。
にも関わらず、今回の暴動だ。これを「先進国とは思えない、途上国の光景のようだ」と思った人はイギリスにも少なくない。ブレア政権の教育改革がスタートしたのは99年前後だから、今回の暴徒の大半は改革された教育制度の下で育ってきた子供達である。これだけの負担をしていながら、なぜ途上国のスラムのような光景を見なければならないのか。これに絶望せずにいられるのは、やはりよほど心の強い人間だけだろう。
(1) 警察力の強化。これは言うまでもない。秩序を失えば人間は(誰であれ)動物になりうると言うことを、今回の暴動は証明した。ならば、秩序の維持は至上命題だ。先週キャメロンがアドバイサーに招聘したビル・ブラットンはニューヨークで例の「割れ窓理論」の実行部隊を指揮した人であり、警察官の最適配置システムの第一人者でもある。締め付けは厳しくならざるを得ない。
もしこの手の暴動を放置すれば、被害者は自警団を組織する。彼らは武装し、いがみ合い、それが新たな暴動の引き金になる。そうなる前にキャメロンには何とか手を売ってもらいたいと思う。もしかしたらもう手遅れなのかも知れないが。
(2) 社会保障制度の見直し。これは実のところ暴動前から進行している。上で書いたincapacity benefitだが、悪用して海外旅行まで楽しむ輩が多く出た上、一度受給者になると死ぬまでもらえるので、就労意欲がゼロになる。以前から批判が絶えず、キャメロン政権は廃止を決めた(別制度で代替)。ただし、これらの社会保障の削減が暴動の理由ではないというのはマスコミでも一致した見解だ(まだ削減は殆ど始まっていない上、暴徒の大半は親元で暮らしているのでそもそも受給していない)。
上でも書いてきたように、手厚い社会保障制度それ自体が受給者と、その子供や孫の未来までをも奪ってきたという側面がある。そして、この制度は格差の縮小どころか、治安維持という最低限の目的すら達成できなかった。何より、イギリス経済はこれ以上の負担にはもはや耐えられない。ならば、社会保障は削減しつつ、彼らに可能な限り働いてもらうしかない。Benefit Busters (興味のある人はyoutubeで検索すると良い)などを見ているとなかなかに大変そうではあるが、もう選択肢がないのである。
(3) 納税者の復讐。今日キャメロン首相まで”social fightback”と言う言葉を使っていて驚いた。具体的には、暴動に参加した子供がいる家庭に対する社会保障給付の停止。カウンシルフラットからも追い出す。少なくとも感情的には、そして理屈の上でも、そうすべき理由はたくさんある。それが更なる悪循環を招くとしても、あそこまでやられてしまっては納税者の側も収まらない(ちなみに、オックスフォードケンブリッジ卒のエリートはこの手の復讐にはあまり賛同しない。彼らはびっくりするほど穏健だ。怒っているのはむしろ小商店の店主のようないわゆる中産階級に多いような気がする)。鬱屈した子供の暴発を「社会の歪み」を理由に肯定する人は、絶望した納税者の復讐も肯定せねば片手落ちであろうと思う。
最後に、下のtogetterで見つけた以下のコメントについて。
火がつけば爆発するしかないほどの不満を溜め、失うものが何もない奴らがこれだけの数居るんだよ。社会がそれを生んだ。(中略)問題は目の前にそのままの姿である。こいつらのYouTubeを見ろ。音楽を聴け。睨みつけてくる視線に自分をさらせ。
この人の書いたラップの話は、今まで全く知らなかった分野な事もあって新鮮で、興味深く読んだが、このコメントには一言申し上げたい。無茶言うな。暴動明けの火曜日の朝にCamden Townの駅で暴徒の一人とばったり顔を合わせたが、彼の睨み付ける視線にどう応えろと言うのか。プラットフォームのあちこちにどかどか蹴りを入れながら、肩で風を切って周囲にガンをたれながら練り歩いていったが、一個人として彼を見れば、まだ自分を抑制できないただの子供であり、仮にポケットの中に盗品が入っていれば犯罪者に過ぎない。彼らをひとりの人間として直視するなら、そういう扱いにならざるを得ない。復讐の対象にならざるを得ない。むしろ、彼らを一個人ではなく社会現象の一部として扱った方が、まだ冷静な判断は下しやすくなるのではないかと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20110814122830
議論には「題」がいるだろ? 好きなモノの話をしているだけなのに、「お題」にされてはかなわない。そういうことは最初から「これについて話し合いましょう」と提示している掲示板でやってくれ。
「一つの事柄について、さまざまな角度から意見を聞き言う」というのは楽しいし面白いよ。でも、それで「深まる」かどうかは疑問だなあ。まして、結論なんて出るのか? 本当に何かの事柄について究めたいのなら、まずは本を読むことをお薦めする。先人に学べ。
充分学んで知識を得たのち、何かについての考えを開陳するならば、真面目に耳を傾けてくれる人も現れるだろうし、同じレベルだと思えば、元増田の言う「議論」にのってきてくれる人も出てくるかも知れない。
議論が好きだ
議論する場合、勝つとか負けるとかじゃなくて、互いの思考を駆使して答えを出すということに意味があると思っている
だから疑問点は全てつっこむ
必死だなwwww
狂信者きめえwwwwwww
食いつきすぎwwwwwwwww
とか。何か作品を話題にするスレッドでは必ずこのようなレッテルを貼られる
別にその作品を全肯定したい訳ではない。言うほど信者でもない。相手の主張に変な点があるから、その表現について突っ込んだだけだ
そしたら何故かこのようになる
議論したいだけなのに、いつの間にか自分の人格が貶められて見下される展開になっている
俺が悪いのか
個人的な見解ですが、梅ラボさんが作ったコラージュと、美味しんぼのコラージュは「やってる事」はそんなに違いが無いと私も思います。
じゃあ、何が違うのかと言うと
前者は製作者サイドが不快感を示している。使用するなと、明言している。
後者はそうでない。
と言う事だと考えます。
日本の場合、著作権による罰則は基本的に親告制なので、著作者が何らかの行動を取らない限り、法的には罰する根拠はありません。
梅ラボさんの件では、コラージュに使用されたキャラクターを創作した掲示板で、大きな騒ぎになりました。
中には「勝手に使うな!」という意見も出ているようです。(ただ、掲示板で自然発生したものだけに「著作者」が曖昧な点、なんともできないようですが)
一方、美味しんぼのコラージュでは原作者の方が明確な著作権侵害として、なんらかの行動を取ってはいませんので、白ではないが、黒でもない。というまぁいわゆるなぁなぁの状態です。
もし仮に、美味しんぼの作者がこれらのコラージュに対して、「著作権侵害だからやめろ」と言ったのなら、その時点でNGです。この手のコラージュを作っちゃ駄目でしょう。(元から駄目といえば駄目ですが)
それを無視してコラージュを作り続けるなら、梅ラボさんと同類です。彼らに梅ラボさんを叩くことは出来ないでしょう。
また別の視点として、単純にそれが好きかどうか、と言う点も大きいのではないでしょうか。
一方は、アートとしても別段優れたものだと(叩いている人たちは)感じない。よく分かんないし、むしろ嫌悪感すら抱くこともある。
一方は、改変ネタは、ギャグとして面白いから受け入れやすい。(別にこれを「自分の作品」として発表してる訳でもないし)
ってのも当然あると思います。
つまり、梅ラボさんは作った人が「やめて」って言ったのに止めないから叩かれてる。しかも、その作品は全然良いものだと思えない。
美味しんぼは(今のところ)言われてないし、単純にネタとして面白いから受け入れられてる。
そういう事なんじゃないかなーと、私は考えました。
不特定多数の人物が作ったキャラクターを、梅ラボという特定の作家がコラージュした、現代アートと
特定の作者が作った美味しんぼという作品を、不特定多数の人物がコラージュした、改変コラっているのは面白い対象だな、と思いました。
某掲示板の某板に、
(年収200万以下の人「世の中はやはりお金だと感じている」)
というスレッドが立てられ、お決まりの如く金銭と幸福感への不毛な議論が繰り返されました。
個人個人によって異なるのは当たり前。
高額年収でも、更に金を求める者もいれば現状に満足する者もいて、
中には半額以下に年収が下がってもよいから自由と時間が欲しい者もいる。
低額年収でもっと金を求めたい気持ちを抱いてる者、現状に満足している者。
個人例を挙げればキリがないほど、価値観や思想は個人個人で異なる。
それなのにこういうテーマが出来ると、毎度の事不毛な議論は続く。
低収入でも満足している者を見下し否定し、金を求める自己を肯定しようとする者、
自分の例を出し「金なくても幸せだよ」と偏見を解こうとする者。
思想が違う者同士、相通じ合うことは困難だ。
また、お金は最も大切か否かを語る際に
どの方向から捉えるかでも異なる。
どちらも大事で、どちらを欠いても生きていけない。
しかしお金という価値は動的なものなのでお金そのものに価値がなくなる時代もあり得る。
お金が一番大事派は、もちろん「現在に限定して」が前提でしょう。
・この時代の、この国の、この社会においてという視点からなのか
・時代関係なく地球上の1生物である人間としての視点からなのか
根本はこの違いではないでしょうか。
社会全体には必要だという相対的な関連性から語っているのかでも異なる。
自身の収入は低いが自分は幸福であるという感情は前者での視点。
世間に金があり、どこかしらでその恩恵を受けているから収入が低くても幸福でいられると考えるなら後者の視点。
とにかく、物事の捉え方や見方によって意見は異なるし、
個人個人の思想や価値観によっても当然の如く異なる。
だからこそ相手にレッテルを貼り、自分の思想が世間的にも正しいと思おうとするが
どちらの価値観が正しくもあり、間違いでもある。
物事や事柄においては世間の一般的共通価値観というものは存在するが、
ことお金と幸福の度合いに関しては共通価値観というものは存在しない。
結果論でいえば、資本主義で世の中がお金至上主義で動いてるが、
それは個人個人の思想や価値観と=ではない。
今私は、鬱状態で仕事を休んでいる。フリーランスのアーティストとして10年ほど。その半分以上を海外でくらし、今もヨーロッパの片隅にいる。
カオスラウンジというグループ、全く知らなかったが、なるほど、人々の怒りがよく分かる経緯だった。
面白いので、コラにはコラに対抗ということで、代表藤城嘘の作品や彼の写真をphotoshopで10分ほどやっつけでコラした絵をPixivに投稿。説明なしのアカウント削除→IPアドレス指定拒否→串刺しIPでの再UP→瞬殺アカウント死亡 などを繰り返して遊んだ。
http://www.rupan.net/uploader/download/1311933348.jpg
で、私の意見。
これ、日本の芸術にたいするマーケットのあり方や、芸大における教育とか、そういうことが根本にある。
まずマーケット。
これは日本だけでないけど、マーケットって、ようはお商売の世界。売れればいいの。芸術家も、批評家も、生活あるから、お金にしなくちゃいけない。
で、やっぱり、売れたものはみんな金魚のふんみたいについていくの。それは仕方ないこと、どこでも。
そのために役にたつのが権威(power)。カオスラウンジは村上隆と美術手帖がそのicon。
私は両方とも死ねと思っている。(殺害予告ではありません… 念のため) 正直。
村上隆は売れた。それはいい。オメデト。尊敬。でももともとサブ・カルなのに、権威的にふるまう?どうして?
本流に対してのalternativeなありかたとして出した、その経験の意味は?
美術手帖。いつも売れ線をおっかけ。責任おわない。コンテクストが脆弱(消極的な取材が透けて見える)。しょうがないけど。お商売だし。でももうちょっと、光を見せてよ、せっかく日本のマーケットで権威もっちゃったんだから。
僕は90年代に青春をすごしたから、今の日本の若い人とちょっと感覚ずれてるかもわからないけど、その時の感覚からすれば、分かる。
日本の人って、権威に弱い。テレビとか、どっかの大学の先生とか、批評家とか、マーケットとか、あとは身近な友人や家族なんかの意見にも。
もちろんどこでもそうだけど、日本はちょっと過剰だなーっておもう。
今自分が見てるもの、聴いているもの、食べているもの、感じているものを、どうやって、「いい」か「悪いか」判断できるだろう?
日本の人は、まず周りをみる。周りの様子にノル人、ソル人…
僕が暮らしいるところの人たちは、まず自分のフィーリングを聴く。で、それから周りの人も見る。それから、どうするかと考える。
yap, subjectは結局おなじなんだけど、順番が違うんだよね。僕がくらしている人たちは、まず自分の意見が先にくるんだよ。
例えば、スーパーマーケットにいって、入り口に物ごいがいる。ああ、かわいそうだなって思ったら、こっちの人はお金渡す。
日本の人は、まず、お金わたす自分の姿が周りからみてカッコワルイ、アタマヲカシイ?、ってかんがえて、無視する。
全員がそうでないけど、そういう傾向が、ある。
この順番が、カオスラウンジの人たちの行動にもよく見える。
http://d.hatena.ne.jp/lie_fujishiro/20110625
端的にいうと、ダサい。カッコワルイ。
同じ芸術家として、引用とかサンプリングについての立場はちょっと分かるよ。ちょっと。
でもさ、想像力って彼らは持っているんだろうか?
例えば満員電車の中で私が突然うんこしたら、みんな嫌がるだろーなーって、なんか創造できる、だから私はうんこしない。
やべぇ、うんこもれそう、もうしぬぅーーーーってなっても、みんな嫌がるだろーなーっておもうから、我慢して、次の駅までまって、でダッシュ。
ま、動機はカッコワルくなりたいってのもあるだろうけど、まぁおんなじように。
で、カオスラウンジの人たちは「ウンコしたい」で、すぐウンコしちゃってる。ブリブリ。
ネットのオタク文化いけてる、売れそう、俺好きやし、カッコええやん、よっしゃ、これで俺の作品つくったろ。
一方的。想像してない。それで誰が傷付くか。
みんな同じようなネタをずーっと話してたり、コラしてたり…。純粋だなーって思うのと、あと普通だなーって思う。
世の中の多くの人たちが、文化については保守的。日本をみたら、なんで演歌や歌謡曲が未だに紅白で重要な立ち位置を持っているかということ。
そういう人たち(=普通の人たち)の気持ちに思いを巡らすのが、やっぱり普通の人であるところの、普通の芸術家でないの?
少なくとも、私は自分自身芸術家としてそういうスタンスを譲らない。
あるいは、もし自覚的にそうした『普通』に対する反抗であるなら、最後までヤリきらないと。
炎上したから?ビジネス・パートナーが予定していた商品をキャンセルしたから?周りのエラい批評家にお説教されたから?
本当に反抗したいなら、まず梅沢ナントカという友達の作品を正当化して、ウルセェ、テメエラなんもわかっちゃいねぇんだよっていって、もっともっと同じ手法で作品を創らなくちゃ。で、その路線で別のパートナーをみつける、そこまでいかないと。
この謝罪、カッコワルイよ。
たぶん村上隆が翻ったのも、この日和見的なところ(態度)で、ア、コイツラ、シロウト。ってみやぶったんだと思う。
で、彼らがここまでやってこれたのが、日本の芸大etc.における芸術教育の影響だろうなぁと。
「売れる」ことを考えすぎ。たぶん、日本におけるfine artの伝統の不在が起因なんだろうけど。
自分が、一人の人間が、今思い、考え、感じていること、そしてそれによって目の前にある作品や起きている事象にたいする疑問を素直に「どうして?なぜ?」と問いかけること。こういう当たり前の姿勢がどうして求められないんだろう?
タマタマ自分がやっていることが売れ線だと。で、エラい批評かなり、curatorなりが、ヨイヨイ、といって、金だして、仕事なりコンタクトわたしたりして、ま、同業者として分かるっちゃ分かるけど、それで、自分がやっていることは全肯定できるのだろうか?
酔いが回ってきたので、またそのうち続きを書こう。
した、らしい。完全にいちゃもんだけど。
以前に自分の考えを話す時にある商業作品を具体例に使ったのがいけなかったらしい。
その作品をけなしたりほめたりする意図はまったくないし、
実際そういう文章にもなってないと思う。
なのに「お前の考えに利用された」「けなされた」とさんざんわめいたあげく、
ついでに自分の作ったものを載せている場所まで荒らされてる次第。
(この辺詳しく書くと特定されそうなので省略させてください)
もうその掲示板参加者もそいつの頭がおかしいってことでほとんど一致してるんだけど、
(それ以外にも一日中延々と差別的な発言を書き込み続け、聴く耳を持たない感じだし)
先に言った通り管理者が放任主義なので利用者が無視するしかないって状況。
正直、数千円か数万円程度で解決するなら法的手段に出てもいいやって気持ちすらある。