はてなキーワード: クレヨンとは
保育園から小学校に行くときつくなり、幼稚園から小学校に行くと楽になるみたいな話があるけれど、幼稚園時代に何を用意していたかちょっと考えてみた。
上履き→毎週持って帰ってくるので洗って週明けに持ってきてね。
給食当番の白衣→給食当番の週に持って帰ってくるので洗って週明けに持ってきてね。
【↑↑↑〜まあこの辺はしゃーないワイが子供の頃も同じだったでの壁〜↑↑↑】
検温表→こんなご時世なので毎日ちゃんと体温測って体調書いて持ってきてね。土日も忘れずに体温測ってきてね。
宿題→平日は毎日音読の宿題を出します。読めたらサインして週明けに持ってきてね。それと別にプリントの宿題も出すのでこっちは次の日に持ってきてね。
水筒→熱中症対策に毎日持っていきますので水か麦茶入れて持ってきてね。
給食用ランチョンマット→毎日持って帰ってきますので毎日洗濯して新しいのを持ってきてね。
水着→帽子と水着の両方に記名したゼッケン縫い付けてね。濡れた水着入れるビニール袋にもちゃんと名前書いてね。毎日検温表で体調チェックしてるけどそれはそれとしてプールカードにもサインして持ってきてね。
【↑↑↑〜マジか今時の子は大変やな〜の壁〜↑↑↑】
体操着→シャツの裏と表に記名したゼッケン縫い付けてね。体操服と帽子のほかに汗拭きタオルを2枚持ってきてください。前側のゼッケンは脱いだマスクを入れられるように上だけ開けて縫い付けていてもらいました(アイロン接着ゼッケンで楽はさせないぜという鋼の意志)が、それはそれとして授業中に脱いだマスクを入れる袋も持ってきてね(←なんで?????)。もちろん毎週洗ってまた持ってきてね。
鍵盤ハーモニカ→毎週吹き口と拭き口を拭くガーゼタオルを持って帰ってきますので家で洗ってまた持ってきてね。
絵の具→使うたびにパレットと雑巾を持って帰ってきます。家で洗ってまた持ってきてね。パレットを入れるジップロックにもちゃんと名前書いてね。
【↑↑↑〜そこまでせんでええやろ…の壁〜↑↑↑】
2人以上子供いるお家の人これ毎日子供の人数分やってんの……? シングルのお家の人働きながら一人でやってんの……? 定型発達じゃない人も頑張って毎日やってんの……? マジすごくない……?(ドン引き)
子供が通ってた保育園は2歳クラスまで連絡帳が面倒でオムツも持ち帰りで面倒臭かったけど、毎日持っていくものが同じなだけまだだいぶ楽だったな。ちょっと前にオムツも着替えも保育園のを使わせてくれる保育園が便利ってバズってたけど、そんなん使ってたら小学校上がった瞬間に心労で死ぬんじゃないかと思うわ。
入学して間もない頃に「けいさんカード(英語の単語帳みたいなやつ)の一枚一枚に全部名前書け」ってプリント見た時目を疑ったけどあんなもんじゃなかったな。
昔はやったネットスラングに「レベルを上げて物理で殴ればいい」というのがあったが、結局レベルを上げるゲームはどれもそこへと収束してしまう。
ゲーム内のあらゆる行為がプレイヤー自身の成長によって成し遂げたものではなく、キャラクターのレベルを上げた結果になってしまう。
それが凄い無駄に感じるようになった。
キャラクターの成長を概念的に感じるためのシステムだと説明されても、俺はプレイヤーとして成長の実感をシンクロして味わいたいと思ってしまう。
勝利とは「レベルを上げたことで物理で殴れた」のマイナーチェンジであり、敗北さえも「レベルが足りてないので物理で殴りきれなかった」となる。
PDCAサイクルを回して試行錯誤しようにもその裏にはいつも「そもそもレベルを上げればいいだけでは?」という疑問と「どんなに頑張ってもレベルが足りてなければクリア出来ないのでは?」という不安がつきまとう。
凄まじいストレスだ。
あんぐりと口を開けてメタルスライムを狩ったり、ポチポチとスキチケを消費してクエストを集会したり、そういった作業の多寡を示す指標でしかないのならそんな攻略に何の意味があるのか。
紙とクレヨンを渡されて紙を全部同じ色で塗れと言われた作業の進捗でしかないじゃないか。
その昔、TRPGにおいて最初に産まれた頃は、それは挑戦の指標、世界における自分たちの立ち位置を示す大事な役割を持っていた。
1人で遊ぶゲームにおいては序盤に出てきた護衛隊のレベルが10なのに魔王城の前の村人はレベル100で、もはやレベルなんてものはゲームの進行度以外何も示さなくなっていく。
ネットゲームですらレベルキャップに対してカンストした状態になってからボスに挑むのが当たり前になり、そこに挑戦の難易度を示す要素なんて消え失せているのだ。
もうだめだ。
簡単に「ゲームとして成立させた感」を出せる魔法の薬に依存しきっていまや多くのゲームが壊れてしまった。
もういらないんだ。
戦後の小学校が帝国陸軍を真似て運動中に水を飲むなと命じた無意味なルールのように、やってる感を出すためだけの無価値なごっこ遊びにいつまでも付き合わせないでくれ。
マリオを見ろ。
スプラトゥーンにはウデマエというレートはあってもレベルはない。
偽物共よ、消え去れ
給食とか事実上、スケジュールに組み込まれている「教育」なんだから無償にしろよ、と思うのだが、がっつり教育と言うか授業に必要な物品も、家計負担になっていることが多い。
私が小学生だったのはもう40年前なので、今の学校がどうなっているかは分からないのだけど(子供もいないので、本当に分からない)、自分のことを思い出しても、あれやこれやの出費があったと思う。ソロバン、定規、コンパス、水泳着、水着袋、水泳キャップ、運動着、帽子、画材、絵の具、クレヨン、リコーダー、鍵盤ハーモニカ、諸々諸々。授業に用いる器具まで私費負担を強いていながらどうして義務教育無料と言えるのかさっぱり分からない。私には子供はいないけれど、その辺をきちんと支出してくれるなら、税金が1割2割上がっても構わないと思う。まして中学になったら制服制帽などの出費もかかってくるわけで、教師や教育関係者、教育官僚、誰もおかしいと思わなかったのか。本当に不思議で理不尽な話だ。
ジェンダーレス水着の採用のニュースを聞いて、それはそれで結構な話だと思うけど、また、買い替え費用を家計に押し付けるつもりなのかと思えば、よくそんな他人のカネを当てにする政策をたてて、「よいことをしましたっ!」と鼻の穴を拡げていられるなと呆れる。
私の歯がなくなっても誰も困らないけど、推しの歯にくすみ一つあったら大問題だ
私の顔は元々崩れてるからどうでもいいけど、推しの顔に何かあったら大変だ
私が着倒して縒れたシャツを未だに着倒している頃
推しのSNSにはブランドもののシャツを纏った自撮りがアップされている
私が何を着ていようと知ったことではないけれど、推しは時にプライベートも人に晒さなければいけないのだ
虫歯の治療費に頭を悩ませながら、安いスキンケアで事を済ませながら、洋服代をケチりながら、私は今日も推しの現場のチケットを手にする
虫歯の治療費に充分な額が、デパコスでもルームウェアでも好きに買える金額が、推しの立つ舞台へと溶けていく
クレヨン全部折られた日のこと
それから小学校でも中学校でも高校でも大学でも、罵倒も嘲笑も暴力も無かった時代はなかった
時に道行く知らない人から
やっとこさ社会に出ても当然のごとく、毎日お局様にイビられたり同僚に陰口を叩かれたりしてた
『この人の努力のお陰で、私は今こんなに楽しめてるんだ』って
今までの悲しいも苦しいも辛いも、『推しと出会えたこと』一つで全て精算できてしまう程に、ただただ推しが愛おしい
ただただ推しが、私の全てになった
『推しがいる世界なのだから、推しが愛おしいのだから生きよう』って
そうやって今の私がいる
人付き合いは全て絶って、学生時代の同級生の連絡先は誰のものも知らない
ただただ変わらず、どうしようもない人間がここにいるだけ
いっそ『どうせ死ねばいいんでしょ』なんて、投げ槍に卑屈になってた方が楽だったのかも
でもよかったね、前向きになれて
前向きなことはいいことだ
私は推しのおかげで、生きようと思えてる
推しの姿のなくなった世界は、ただただ辛くて苦しくて悲しいだけのものだって知ってる
追いかけるのをやめたら、きっとまた希死念慮に追いつかれてしまうから
逃げるように推しを追うのです
推しに大切な人が現れる頃
私も幸せだと笑っているはず
どうかどうか、ご自愛してください
美味しいと口に合うをごっちゃにしないでクレヨン
フォロワーが増えない、いいねやRTがされない、と愚痴ったり卑下したりする前に、以下に目を通してみてくれ。
おっかなくて関わりたくねーわ!
ついでに特定の政治団体、宗教、主義を攻撃するってことは、その支持者からのフォローやいいねRTを全て捨てるってことだからな。
なんで赤の他人の機嫌を取ってやらなきゃならないんや、友達でもないのに特別扱いされたいならキャバクラ行って金払え。
うっかりフォローしたら、その後もいちいちいいねやRTの有り無しでグチグチ粘着されそうでおっかねーわ。
同じレベルの作品でも好きな人の作品はより好きになりやすいし、逆に嫌いな奴の作品は意地でも認めねぇってなりがち。
何かを誉めるのが一番手っ取り早い。どうしても他人を誉めたくねえ、悔しいってなるなら、ジャンルの原作をこれでもかってくらい誉めとけ。
好きなものを誉めてくれる人は好きになりやすい。もっと褒め言葉がみたくて、フォローしたろって気分にもなる。
どんなにぐちゃぐちゃなクレヨンの落書きでも、我が子の作品なら額縁入れて飾りたくなっちゃうようなもん。
それを高評価するのは忖度じゃなくて、本心からその作品が好きになっているから。
絵神、字神になるしかない。唯一無二で圧倒的な技術力さえあれば、掌ころっころですり寄る奴も出てくると思う。
他のツイートがアレなままだと、匿名掲示板で専用のヲチスレ立てられる可能性は高くなるけどな。
まあ、すでにミュートして視界に入れないようにしてるんだけどな。楽しくなりたくてオタクやってんのに、赤の他人の不平不満愚痴になんぞ付き合ってらんねーっての!
『クイック・ジャパン』『ロッキンオン・ジャパン』以外で、小山田がいじめ自慢していたとされる『月刊カドカワ9月号』の掲載記事について、
メディアが偏向的な切り取りで掲載して拡散され続けているのがずっと気になっていたんだけど、
案の定これを利用して、拡散の元凶となった件のブログが『 小山田圭吾がいじめを語る理由 - 孤立無援のブログ 』という記事で外山恒一氏のnote記事に反論している。
また変な扇動をしかねないので、記事の冒頭から関連する箇所(幼少期から高校時代)までをまるっと書き起こした。
なお、カドカワの記事はフリッパーズ・ギター3rdアルバム「ヘッド博士の世界塔」の発売直後に刊行されたもので、
アルバム発売を受けて、音楽への姿勢を掘り下げるために幼少期から振り返させた全19頁のインタビュー記事のようだ。
月刊カドカワ9月号(1991年9月1日発行)P348〜P352
きっと、ぼくの生い立ちなんて面白くないですよ。やっぱりこういう話が載るんだったら、波乱万丈の人生を歩みたかったですよ。
幼稚園のときに、巨人の土井選手の娘がいてね。土井ヨウコちゃんていう子だったんだけど、餅つき大会があって、土井選手が餅ついててかっこいいって思ったのが最初の記憶ですかね(笑)。土井ヨウコちゃんの顔は覚えてないんだけど、土井選手の顔は覚えてる。今でもテレビで土井選手の顔を見るたびに、餅ついてたなということを思い出しますね。
すみれ三組だった。それは年長組で、その前は忘れちゃった。ぼくはお絵かきを習ってた。シンちゃんていうちょっと知恵遅れの子がいて、クレヨンを投げまくって先生にひっぱたかれていたのを思い出すな。
普通の子だった、おとなしくもないけど。すみれ三組の隣のクラスに「ひらけポンキッキ!」に出たヤツがいて、そういうヤツの悪口を陰で言ってた。出たからって威張るんです、そいつら。ぼくらはイジケたグループで、五人ぐらいいた。女の子もいたな。まだ人間できてませんからね。学芸会も普通にこなしてたな。インディアンの歌を歌うその他大勢の役をやった。
小学校は遠かったんです。同じ世田谷区だったんだけど、私立だったから。それからぼくは高校まで同じ学校に通うわけなんだけど、もうシンちゃんはいなかったんだけど、二年のときにKという知恵遅れの子が転校してくるんです。ぼくらの学校は身体障害者の人が多いんだけど、特別にクラスは作らないで普通に入ってくる。Kは高三まで同じクラスだった。ぼくだけじゃなく、みんなにインパクトを与えたと思う。Kとは小学校のときはわりと距離を置いて付き合ってたんだけど、高校に入ってから意外に密接な関係が出てくる。
小学校のときは成績は良かった。運動会のリーダーとか、班長とか。それから、物が流行るじゃない、スーパーカー消しゴムとか怪獣の消しゴムも流行ったしね。そういう物のコレクトに関してはいつでも一位にならないと気が済まない男でね。それで人気を博してたからね。相撲の消しゴムも流行った。貴ノ花とか高見山とか。ガチャガチャでも、十円入れてガチャガチャでカプセルを出すと効率悪いのね。
ちょっと遠いところに駄菓子屋があって、その店では中身がドンと箱に出してあって、自分でスーパーカー消しゴムを選べる。友達とその店を発見して、他の友達には言わないで、自分らだけでコレクトして・・・ジャーン!!(笑)
小学校のときって、足の早い人とか人気があるじゃない。そういうタイプじゃなかったから、物で誤魔化したり、人気のあるヤツの足ひっぱったりとか。陰で悪口言ったり、変な噂流したり。こすいヤツだったな(笑)。だからすごく嫌われたりすることもあったな。いちばんショックだったのが、小学校五年くらいのときに文集を作ったんだけど、みんな普通のことを書いてるのに、「小山田くんの嫌なこと」とかいうタイトルで作文書かれてね(笑)。別に人気者じゃないヤツに書かれたからね、よけいにムッときて。親にその文集はみせられなかった。ぼくがそいつをいかにして迫害したかっていうようなことが切々と書いてあってね。でも、事実なんです(笑)。まさか文集にそんなタイトルで書かれると思っていない。ちゃんと印刷されてるもので、先生が見るだけじゃないの。みんなに配られちゃうの。けっこう挫折だった。だからそいつには、小学校人生全部かけて復習した(笑)。
運動会のリーダーも五年のときかな。仕事はそんなにしなくて、自分の好きなようにやってた。学校に遅くまで残れたり、プリント刷ったりするのがすごく好きで、そういうことができたからやってた。運動が得意だったていうわけじゃなくて。
音楽は幼稚園から。アニメとかのコレクトがすごかった。幼稚園の頃はコレクトって意識じゃなかったけど。水木一郎って知ってるでしょ。あの人が近所に住んでたの。それで家族でどっかに旅行に行ったら仮面ライダー・ショーをやってて、司会が水木一郎で、うちのお母さんが仲良くなって、家に来たことがあった。そのとき『イナズマン』のLPにサインしてもらった。やっぱり子門より水木だよ、とか言って。ウルトラマンからマイナーのものまでLP集めてた。「鉄人タイガーセブン」とか。よく一緒に歌ってた。その頃から歌手になる資質があったんですね、ねえよ、そんなもん(笑)
超テレビっ子。家に帰ったら、ずっと。アニメの再放送とかゴールデンタイムも。でも三年生ぐらいから「ザ・ベストテン」が始まった。大好きだった。チャートを全部メモるの、点数まで。二十位から十一位まで久米さんが早口で言うんだけど「『いい日旅立ち』山口百恵、九千何百何十点」とかいうのを、早くて書けないから「いい日、山」とか書いて後で清書する。それで学校で「昨日、何位だったよな」って言ってメモ見せて威張るというのが流行った。あとになって小沢もそれをやってたって話をきいて。他にもいろんなチャート番組きいて、どのチャートが信憑性があるとかって。オリコンもずっと読んでる、細かいチャートまで。地方別チャートだとフリッパーズ・ギターは四国が全然ダメなの。だからこれから四国を強化したいなと。
あと、「カリキュラマシーン」が好きだった。鉛筆のジョーとか宍戸錠とか吉田日出子とか藤村俊二とか。変な歌があった。「ねじれてねじれてシャシュショミャミュミョ」とか、そういうねじれる言葉があるでしょう。そういう言葉を覚えさせるためにその曲がある。一緒に歌ってた。それから、「三は嫌いだよ、いつもいつも、二人仲良くなると、ひとり仲間外れ〜」とか言い終わると、二人が真ん中のひとりをギターでボコボコにしておしまいっていうような(笑)。強烈なの。コント55号はもう欽ちゃんがソロでやってたけど、ぼくはダメだった。ドリフの志村のほうが好きだったけど、それより「カリキュラマシーン」のほうがずっと好きだった。よくギャグを覚えてる。ギャグともとれないようなギャグだったけど。きっと当時は笑ってはいなかったと思う。『天才バカボン』の第二巻もすごかった。
中学になると、人当たりが悪くなって。クラスに友達があまりいなくて、すぐにイジケるタイプに変わったんだよね。あまりしゃべらなくなった。休み時間は仲のいい友達とクラス出て、他のクラスの仲のいい友達と遊ぶみたいな感じ。中学になると音楽がすごく好きになって、そういう話もできる人としか話さなくなった。
Kはね、体がでかくて、小学校のときは突然牛乳ビンで人を殴ったりしてたんだけど、中学になるとそういうことはしなくなった。大人になったみたいで。
同じクラスにひとり仲のいい子がいた。その子のお兄さんがパンク系が好きで、ぼくもその人の影響でそういう音楽が好きになっていった。その子にテープ録ってもらったり、貸しレコード屋に行ったり。その頃、ウォークマン・ブームで、そういうのはいち早く察知して、お金なかったけど小六のときにウォークマンⅡを買った。ボディが青くてヘッドホンがオレンジ。すごく大事にしてたんだけど中一のとき電車に置き忘れちゃった。ショックだった。で、二台目はアカイやつ。電車の行き帰りで聴いてた。最初に行ったコンサートは、中二のときのクイーンかな。
その頃、初めてエルヴィス・コステロ『インペリアル・ベッドルーム』を借りて、すごく好きで、そのちょっと後に『パンチ・ザ・クロック』ってアルバムが出た。音楽雑誌のグラビア見るのも好きで、"イアン・マッカロクのお部屋"とかいって、奥さんと一緒に写ってる写真の中にレコードがダーッと並んでて、いちばん前にアズテック・カメラの『ハイランド』が置いてあった。それで貸しレコード屋に行ってアズテックの「思い出のサニービート」の12インチ・シングルを借りて、その友達と二人で「いいね」って聴いてた。それからそっちの方面の音楽にどっぷりいった。
そういうふうにして中学生のときに洋楽を聴いてると、みんな馬鹿で自分は頭いいって思いがちでしょう。案の定、そういうふうになっていた。
ギターは中一から。いとこが弾いてて、クイーンとかディープ・パープルを教わった。教則本とか見て普通に弾けるようになったんだけど、アズテック・カメラは弾けない、コーが難しくて。いろんなコードを知らないから、コピーして一生懸命した。だから我流で、コードの名前なんて知らなくて、指の形で覚えた。
高校になると、すごく仲良かったヤツが違うクラスになっちゃった。そうしたらKが隣の席なの。アイウエオ順で、小山田の次がK(笑)。クラスにいるときは、Kとしか話さなかった。Kって特技がひとつだけあって、学校の全員の名簿を暗記してるの。バスの中で一緒になったとき、「あいつの住所は?」ってきくと、ペラペラペラって出てくるの。見たこともない下級生や上級生の電話番号とか兄弟もわかってる。で、高校になるとみんな色気づいて下敷きの中にアイドルの写真とか入れてくるじゃん。Kも突然入れてきた。何かなと思って見たら、石川さゆりだった。「好きなの」って言ったら、「うん」。それから、Kは鼻炎だから、いつも鼻かんでるんだけど、ポケットティッシュだとすぐなくなっちゃう。だから購買部で箱のティッシュ買ってきて紐つけてあげた。それでKはいつも首から箱をぶら下げてた。難しい漢字にもすごく詳しかった。暗記には異常に強かった。俺はいつもビクビクしてたの。ある日、突然キリッとした顔して真面目なこと言い出したら怖いなって。「本当は俺は・・・」って。だって下敷きに石川さゆりを入れてるのも、ギャグなのか本気なのかわからないじゃない。ギャグだとしたらすごいじゃない。で、ずっと観察してたんだけど、そういうことはなかった。だけど風の噂だと、Kがどこかで森鴎外の小説を読みながら歩いていたという話をきいた。
ぼくは浮きまくりっていうか、クラスのみんなが和気あいあいでやってるんだけど、クラスの集合写真にいなかったり。文化祭の打ち上げとか、集まるときに呼ばれなかったり。でも別に平気。人に相談とかしないし。高校になると他の学校の友達とかいたから。
変な高校でさ。普通、レベッカとかBOØWYのコピーバンドとかが主流としてあるんだけど、先輩が変わってて、メテオーズのコピーバンドとかよくわかんないバンドが多くて、レベッカとかやってると迫害されて潰しにかかられる。学園祭で体育館でやるコンサートにはオフコースとかニューミュージック系のコピーしか出られなくて、パンク、ニューウェイヴ系は音楽室。そこにアズテックとかスミスのコピーやって出てた。授業中はウォークマンのヘッドホンのコードを袖に通して手のひらに隠してきいてたりね。
小沢は中学だけ同じ学校だったんだけど、別に仲良くなくて。高一くらいのときにたまたま友達の家で一緒になって、ぼくの持ってた編集テープ聴いてからそういう音楽を好きになったみたいで電話かかってきた。それから学校の帰りに待ち合わせて、お茶の水のジャニスって貸しレコード屋に行ったり。そこはイギリスのインディーズとかヨーロッパものが置いてあって、泊まって、学校行かないでレコードを全部テープに取って、返しに行って・・・そういう生活してたな。その頃の経験てでかいかもしれないな。エスカレーター式だから大学の試験はそんなに難しくないんだけど、遅刻とか欠席が多かったから一年生の時点でダメだとわかってた。だけど小沢は学校に行くの。ぼくは小沢の家で寝てたり(笑)。
※このあと、音楽の話からフリッパーズ・ギター結成までのエピソード、アルバムに対する思いなどが語られるが、問題となっているいじめに関係する箇所は上記だけなので以降は省略。
読んでわかると思うのだけど、ここでも小山田は外山恒一氏の読みどおり、過去を振り返るときは一貫して”自分自身を自虐的で自嘲的なニュアンス”で語っているんだよね。
そして問題の記事から遡ること3年前にもかかわらず沢田君の話が出てくることから、彼に対しての思い入れが深いのもわかるし、
自分自身を嫌なやつと言ながら、”イジメしていたことは認めたくないけど認めざるを得ない葛藤があったのではないか”とする外山氏の下記視点は、なるほどなと腹落ちする。
まず第一に、これは小山田氏が、自分がいかに情けない人間か、いや、〝情けない〟を通りこして、もはや〝卑劣〟で〝ろくでもない〟と云ってよいぐらいの人間であるか、自虐的に語り続けている過程でこういう話になっているのだ、という点を見逃してはいけません。活字に起こすと単に「(笑)」となってしまいますが、少なくとも小山田氏のセリフに付け加えられている「(笑)」は、ニュアンスとしては完全に自嘲的な「(笑)」です。イジメをやっていた当時の気持ちに戻ってしまって、「楽しかったなあ」と笑っているわけではありません。
ーーー(省略)
それにしても驚かされるのは、小山田氏がイジメの始まりとエスカレートの過程を、事細かによく記憶していることです。さんざん云われるように、イジメた側はそんなことはやがてすっかり忘れてしまって、これほどまでに、「ああ、そういう展開はいかにもありそうなことだ」と情景がまざまざと思い浮かぶような語り方をしうるほど詳細に覚えているというのは、イジメた側としては極めて例外的なことなのではないかと思うのです。このことはむしろ、世間で云われているのとは逆に、小山田氏が自身のイジメ加害経験と真摯に向き合ってきたことを示しているのではないでしょうか? それも極めて稀なレベルで、です。小山田氏の云うとおり、そもそもの最初は〝ちょっとフザケていただけ〟、〝ちょっとからかっていただけ〟なのでしょう。それがいつのまにかエスカレートして、ヒドいことになっていく。小山田氏は「決してイジメているつもりはなかった」という線を頑なに守ろうとしていますが、内心ではおそらく当時リアルタイムで、「これはもうイジメと云われても仕方がないレベルなのではないか?」と不安になってもいたように感じられます。高校生になってイジメっ子を卒業してからか、あるいはイジメっ子時代の末期からのことなのかもしれませんが、「どういう経緯でこんなことになってしまったのか?」ということに強くこだわって、よくよくそれを思い返し、もちろん少なくとも『ロッキンオン・ジャパン』や『クイック・ジャパン』でそれを語ることになる20代半ばの時期まで、何度となく反芻してみたのでなければ、なかなかここまで詳細に記憶していられるものではないように思うわけです。
また、件のブログの反論としては、”自分の判断で「障害者を虐待できる俺ってかっこいい」というブランディングを行っていたのである”ということだけど、
フリッパーズ・ギター解散前にそんなリスクの高いブランディングを行う必要はないでしょ、と。
下手したら、「障害者虐待をアピールするから小沢に捨てられた」というような負の印象を残しちゃうわけで、ダメージの方が大きいことは想像できるし、いくらなんでも無理筋すぎる。