はてなキーワード: 生物とは
地球上のあらゆる生命の中で自殺を行うのは人間だけだと言われている。しかし本当にその言説は正しいのだろうか?研究が進んでいる人間の細胞だけでも、遺伝子に異常が生じた細胞は自死を選ぶ作用、アポトーシスはよく知られている。
ダーウィンは進化の仕組みに関して、適者生存の原則を唱えた。多様な個体が産まれ、また自然淘汰によって収斂が起こるというものだ。これはラマルク的進化とは反対に、種々の様々な遺伝子変異を前提としたことが特徴である。ラマルク的進化では、特定の環境に置かれた生物の遺伝子変異は特定の領域にしか意味がないのに対し、ダーウィン的進化ではそれぞれの変異が未来につながるという意味での意味を持っていると捉えることもできる。これらの実績は菌類の実験成果によっても示されている。
さて、ここで人類について話を戻す。人類はその類まれなる創造性から、地球上の万物の霊長たる資格を手にした。その支配領域は他の種を凌ぎ、今や総個体数は80億に達しようとしている。これは昆虫に匹敵する数である。少なくとも先進国において、人間はあらゆる人権を保障され、種々の遺伝子変異は──たとえそれが障害をもたらすものであったとしても──保護されるのがrightとなっている。それは人権によるもので、人権というのは生まれながらにして与えられるらしい。与える主体というのは議論の余地があるが、この世の人類ではない神とするならば、中世の王権神授説と何ら本質的な変わりはない。
であるからして、わたしは人権保障という考え方は実態がなく、一種革命のようなもので覆されかねない概念だと考える。
市民による革命が起こったように、どれほど優れた思想であっても人の内心を侵すことはできない。現代社会、特に日本においては自殺はいけないこととされているが、自殺者が多数いることからもこれを抑制できていないことがわかる。
私たちの細胞は、どのような時にアポトーシスを行うのだろうか?
たとえば、遺伝子の修復ができず、正常にDNAを残せなくなった時
たとえば、ウイルスに感染して、自身を複製するのではなく異常なもの(ここではウイルス)を産生するようになった時
これらが示すのは、すべて正常な子孫が残せなくなった時に自己死を選ぶ、ということである。
人類がここまで発展した以上、このシステムの有効性は疑うべきところがないはずである(ほんと?)。人類をマクロで見た時、アポトーシスを選択すべき人間はここまでの考え方から確実に一定数いて、それは現代の人権思想などでは到底語り得ないはずである。
私はこれまでの人生において、自分が死ぬべきだと思っており、また因果関係は証明できないが異性に求められたこともない。以上よりアポトーシスに値すると考え、これから死に至るものである。
自分自身の身体の行先は自分の脳が判断するものであり、その脳になんらかの異常が起きていたとしても、他の人間にはそれを尊重する義務があると考える。
な
二個体が愛し合った結果発生する交尾ではなく、生殖用の作業として機械的に実施するものなんだよ
そこは全然違う
一般的には、思いやり、尊重、献身、喜びを含まない状態や行動を愛とは呼ばないでしょうね
あと、子どもを愛するのは本能とか主張する、生物の知識から隔離された世界に生きている人とかいるけど、
親個体が子どもを育てられないって判断したら『次行ってみよう』って動物はするよね
人間も平然と自分の子供を愛していないというし、邪魔だの、自分の時間がとかやってるよね
優生思想はよくないよ。
例えば、壁に穴を開けたり物を投げたり、動く物全てを攻撃する遺伝子があったとする。
今の世の中は「凶暴」「迷惑」なんてレッテルを貼られがちだけど、ウクライナや戦国時代みたいな社会になったら、むしろそういう行動をためらわずに実行できる人の方が勇敢で有能な戦士と見なされるかもしれない。
例のプール付き公営公園で"健全"や"卑猥"という指針が出され、この指針に定数も定量も無いなぁと感じたのだけれど、それよりも気になったのが「18歳未満のグラビア撮影を禁止にしたらどうか?」という試み的な提言をされている方が結構居るのが気になった。
ざっくりわかりやすくいうと、人物をメインの被写体として撮影することをポートレート撮影と言うのだけれど「18歳未満のグラビア撮影を禁止にしたらどうか?」を試み的に提言している人はグラビア撮影とポートレート撮影をどうやって線引きするんだろうか?
個人的におそらくは無理だと思われる。
何故ならグラビア撮影はポートレート撮影という大きなジャンルに含まれる小ジャンルであり、ポートレート撮影の近接用語は景色を撮影する風景撮影や、香水瓶や人形やガジェットなどを撮る小物撮りなどであり、ポートレート撮影というのははてな界隈で言うところの主語デカ問題だからだ。
グラビア撮影はご存知の通り、別に水着や下着、肌面積の多い女性だけを撮るというものではなく、少年青年漫画雑誌の表紙もグラビア撮影だし、露出とは真逆にライダースーツを着込んでバイクにまたがっている人物を撮影するのもバイク雑誌ではグラビア撮影である(バイク界隈のグラビア撮影には峰不二子的な方向性もあるけれど全体で言えば少数派だ。何故なら峰不二子に比肩できる女性はそう居ないから)。
いや撮り鉄のように特定の被写体が好きな連中も居るけれど、実際のところ撮り鉄が列車ばかり撮ってるのか?と言われると大半の撮り鉄は主な被写体が列車なだけで、奴らは列車の無い風景も撮っているだろうし旅先のメシも撮っているはずだ。
カメコとしてイメージしやすいアイドルの追っかけだってそうだろう。何なら筆者には妻も子も居るし、筆者の主な被写体は妻と子である。妻と子で培った撮影経験をアイドルの撮影に応用していると言っても過言ではないだろう。それくらい妻と子を撮ってる。
カメコへ共通する特徴は何なのか?と言えば、キモデブでオタクなおっさんではなくカメラと撮影の知識だろう。カメコなんだからそりゃあカメラを趣味にしていない連中よりはちょっと詳しい。
近年じゃスマホカメラの性能があがり誰も彼もが気軽に写真を撮るようになったが、女の子をより可愛らしく綺麗に撮るという点ではスマホカメラってちょっと不向きだよなという印象をカメコならば誰しもが持っているだろう。
スマホカメラのレンズはいわゆる広角レンズが大半であり、広角レンズは歪みが大きくて太って写る。標準体型がデブになり、デブはよりデブになる。それがスマホカメラのレンズだ。
世の中にはポッチャリ好きが居るというのは非常に重要な指摘だが今回はそこを問題にはしていない。今の自分よりもスマホカメラは太って見えやすいということを問題視しているのだ。
じゃあどうするべきなのか?と言えばズームするわけだ。最近のスマホカメラは多眼になっているので最も拡大できる望遠レンズを選択して撮影する。
ポイントはデジタルズームは使わないことだな。デジタルズームは単に画像ピクセルを拡大しているだけなのでレンズの歪みに影響しないので意味がない。
望遠レンズは広角レンズと比較して歪みが少ないので、痩せて写るわけではないが広角レンズにように太って写りにくい。
まだ女の子を可愛らしく綺麗に撮るポイントはある。1枚の写真へ全身を収める場合は顔を中心にではなく腰を中心に撮るのだ。
顔を中心に撮るとレンズというのは多少なりとも歪みが発生し、レンズの中央はレンズの端へ向かって歪んでいくので顔がデカくなり首より下が小さく写る。
自分の顔がデカいと悩んでいる女の子が居るとしたらレンズの中央で撮るというのは更にコンプレックスを強調する結果となるわけだ。顔はレンズの端へ持っていけ。
更に良いことがある。腰をレンズの中心に添えることで、前述した歪みから腰の部分が多少広がり相対的に上半身と下半身が細くなる。つまり小顔足長になり女性らしい身体の曲線が強調される。
ほんの少し下から煽るように腰を中心に撮影すると小顔脚長効果が更に増すぞ。
胸が小さめなのが悩み?いや一部に需要あるぞ?えっそういうの良いから大きく写す方法を教えろ?
逆に広角レンズを使え!広角レンズは歪みが大きいため、広角レンズで胸を中心に据えて顔もレンズの端に写るように近接撮影しよう。相対的に胸デカ小顔の写真が撮れる。これは逆にスマホカメラが有利だな。
ここに書いた写真撮影術を使えばマッチングアプリのプロフィール写真とかもちょっとは印象良くなるんじゃないか?需要あるか知らんけど。
カメコはこういう知識がある。撮り鉄は主な被写体が列車なのでポートレート撮影の知識がアイドルカメコと比較すると少々乏しいだろうけど、このくらいは知っている。逆に撮り鉄は雄大な自然とか真っ直ぐなものを歪み少なく真っ直ぐ撮る方法とかに詳しいぞ。
このようにカメラと撮影にちょっと詳しいヤツが疑問に思うわけだ、グラビア撮影とポートレート撮影をどうやって線引きするんだろうか?と。
何が健全で何が卑猥か?なんてポッチャリ好きや貧乳好きが居る世界で一定の線引きなんてできるわけがなく、世の中にはおそらく女性用リクルートスーツが性癖ですみたいなヤツとか、北海道とかに居そうなコートで厚着してモコモコになってる女の子良いよねとか言うヤツが必ず居る。そういう連中に取ってみればリクルートスーツもモコモコなコートのポートレート撮影も卑猥な写真になるのさ。
この世界には衣服を燃やす様子を映したアダルトビデオが存在するんだぞ?もちろん女性、というか男性を含めて人間、何なら生物は一切出てこない。本当に服が燃え上がる様子だけが淡々と流れる映像だ。ハイレベルすぎて理解が追いつかないがアダルトビデオとして実際に販売配信されている(一説には服が燃える映像がアダルトビデオとして販売されている事自体に意味があるらしい。こんにちわ宇宙猫)。
最後に蛇足だが、筆者の妻は不定期に筆者が撮影した妻自身の写真をセレクトし「これ遺影に使ってね」と言ってくる。カメコ冥利に尽きるよね。
女性にも男性にもいる「天才」を埋もれさせたくない。同等の教育、待遇にすることで100人に1人の逸材を発掘したほうが人間の発展につながる。
言葉が通じる生物をむやみに悪い待遇にしておくと怒って反乱を起こす、その立場になるかもしれない他の生物が不安になる、同情した人間が解放運動を始める。
人材がアホなんじゃなくて、現代フェミニズム思想が誤っているので、それを擁護しようとするとむっちゃくちゃになるのだ。
女性の選挙権なんかが確保してある以上、現代のフェミニズムはラディカルフェミニズムになるしかなくて
「男女差は存在しなくてジェンダーだからどうとでもなる」だとか
https://comic-days.com/episode/4856001361249018766
(*入れ込むってのは競馬用語でウマが畜生特有の脈絡のない興奮で空回りして自滅へ向かっちゃう状態のこと)
その上で、俺この主人公の黒い女の子みたいなのがすげー納得いかんのな。
この子とそれを取り巻くすべての状況が不条理かつ低能過ぎて呆れちゃうというか。
ここまでで何言いたいかピンと来たって人が居たら教えて欲しい。あんたは俺の仲間だ。
まずさあ、
大事件か?NO。
そもそも文化祭のクラスの出し物なんて初期状態では誰もコミットしてないわけじゃん。
頑張りましょうねなんて誰も思ってないし責任もない。
誰もそんなたまたま選ばれた人に期待してないし、と言うことはその人の責任もねーのよ。
やる気なく流したっていいし、凄いビジョンを持って取り組んだっていい。
LINEでボケーっと何の足場も提示せずにアイデア募集しました、そりゃなんもこんわ。
無能なのはいいけど感情的なのはやめて欲しい。意味わからんから。
「クラスの出し物が一定の成果を出せなければ全員死にます」なんていう
マガジンのクソ漫画みたいな状況にあるならまだわかるよキレるの。
みんな自分の命がかかってるのに人任せにするなよ!ってことだよね。
でもそうじゃないじゃん。
そのことで責めてくる奴もいない(もし責められたらLINE見せて「お前もなんもしてへんやろボケェ!」ってキレ返せばいい)。
どういう感情で「実行委員という役割」や「文化祭というイベント」に臨んでるわけ?
「有能な自分がやる以上は何らかの成果を必ず出すのだ」っていう自負があるならそれはいいと思うよ。
そういう自負で取り組んだのに上手く行きませんでした、自分の能力の低さに涙が出ました。
でもこの子ってなんか周りへの恨みみたいなものが見えるじゃん?
いやいやいや、別にクラスメートは文化祭のクラスの出し物にコミットするなんて約束してねえじゃん。
そんな意思表示は一度もしてないわけじゃん。
だから実行委員としてはやるもやらないも自分のコントロールで勝手にやってよって話じゃね?
みんなに合わせて適当に流すのはわかる。
我がこととして主体的に取り組んで失敗して涙もわかる。
でもこの子は変な風に当事者意識は強いのにイベントの行方についてはクラスメートに任せてるんだよね。
でもこういう奴マジでいたよな。
ありもしない責任を捏造して他人を糾弾したがる人間がウザくてたまらん。
実行委員にあるのは(人間にあるのは)自分がやると決めて主体的に取り組んだ時の成功や失敗だけだろ。
実行委員は流すことも出来るしすげー頑張ることも出来る。
だからこの子だけじゃなくて終盤の「いい子になった」描写らしいクラスメートも意味わからん。
黒い子が仮にあんま参加してなかったとして、たぬきちゃんに詫びを入れなきゃいけない理由なんかあるか?
「文化祭のクラスの出し物が成功したらクラスメート全員の口座に100万円ふりこまれます」みたいな
クラス全員、お前も利益を受け取るからにはちゃんと労力分担しろやって感情はわかる。
でもクラスの出し物なんてそうじゃないわけじゃん。
やった人間がまあなんか達成感とか良かったねっていう思い出とかの報酬を受け取るだけ。
どっちも自由であって、どっちかがどっかに怒るとか恨むとか詫びるとかマジで意味がわからん。
黒い子が反省すべき点があるとしたら
LINEで「アイデア募集ー!」ってのは到底コミットが集まるようなアプローチではねーよなとか
やりたそうなやつに目を付けて直で話しに行って折衝すべきだったなとか
全員無理矢理追い込むなら教師を動かして説教させてコミット圧を高める手もあったなとか
そういうことじゃねーの?
俺は学校の出し物のたびに思ってたわ。
ここには感情的にならんといけない要素なんかどこにもねーじゃんと。
楽しく自分の裁量でやったりやらなかったり成功したり挫折したりすりゃいいだけじゃんと。
例えば「私はここで結果出すと内申点よくなると睨んでて私の将来のために協力してほしいの!」ってキレるならそれはよくわかるわけ。
おもしれ―女だなってちょっと協力したくもなる。
でも実際はそんなおもしれ―女もいいなくて、ただぼんやりした他人任せの進捗と挫折があるだけで
なんでそこでいちいち感情を持ち込むの?
あの手の出し物で感情的になる女子を見てた時、或いは俺が直で吠えられた時、
「この低能な生物には何をどうしてあげたらいいのかなあ・・・」という感慨しか湧かなかった。
俺はいい奴だから現実的なアイデア出して付き添ったりしたことがある
最初「大喜利」とか言ってたからこいつらスゲーなどんなバカだよと。
世間にキャラを知られたプロの人気芸人がネタを仕込んで台本組んでようやく面白くなるものをお前等がやってどんな勝算が?
しかももちろんネタも出ないしろくに練習する予定もないうえにネタ候補ってのが内輪ネタばっかなの。
それを誰に見せる気なんですかウギャーと。お前等のことなんか何も知らない人達がくるんですよと。
なのに上手く行きそうにないことや狭い友達以外積極的でないことに感情的なの。
んでえーそれは難しいよーつって何で暴発するかわからん感情を刺激しないよーにやめさせて
元から高校生レベルじゃない芸を持ってるやつがいたのでそいつを頼ることにしてそいつ中心の指導で地獄大喜利改めお遊戯発表会くらいにはなって
高校生がみんなで努力した跡は見れるから結構評判が良くてみんな達成感出ましたねーみたいになった。
軌道に乗って以降のクラスには最後までこの漫画みたいな低能丸出しの感情が横溢してた。
いい人とか悪い人とかじゃなくてその低能さと混乱しきった感情を何とかしてくれってずっと思ってた。
最終的にその女子やそいつの友達から「増田くん有難う!」とか言われちゃったんだけど
この低能な生物達とは最後まで疎通が出来なかったなという挫折が俺の手にしたものだった。
俺にとっては自分のミッションとして頑張った結果の挫折っていう満足のいく成果だったからいいんだけど、
自分が一体何に対して感情的になってるのか、一度でいいからきちんと整理してみて欲しいんだけど
一生そういうこともせずにああいう感じに生きていくんだろうな。
日本生物物理学会も “材料的には生命と非生命の物質の間に本質的な違いはありません.それでは,「生命」と「物質」の違いはどこにあるのでしょうか?“ とか言ってる
一点の損傷も無い死体(そんな仮定が成立するかは知らない)と生きてる人間の違いって何?
超技術で生きている状態の細胞と全く同じ物質を作り上げてプラモみたいに組み立てたらそれはひとりでに動き出すの?
核がどうのゴルジ体がどうのは習うけど、DNAの転写やらタンパク質の合成やら、それって何のパワーで動いてんの?ってずっと思ってた。
ある仕組みの中で、ひとりでに動くモノを知らない。常に何かの力に動かされている。
川に浮かんだ葉っぱは水の流れに任せて動く。
車は人間がエンジンをかけてアクセルを踏みハンドルを切って動く(内燃機関の仕組みもイマイチ分からんけど)。
そしてそういうミクロな部分での話はそのまま生物ってなんで動いてんの?という疑問に拡大する。
なぜ筋肉を意思通りに動かせるのか。そもそもなぜ筋肉を動かそうとする意思が発生するのか。
タンパク質だかの粒がひとつひとつ意思を持ち、自分の使命を理解して動いているとは思えない。
ふとある時、それはドミノ倒しみたいに連鎖的な動きなのではないかと思った。
ひとつ前の動作によって次の動作が必然的に定まり、それを無限に繰り返していく。
何かのアクションがあって磁石と砂鉄がくっつくみたくアデニンとチミンがくっついて、それがまた次に何かしらのアクションを呼ぶ。
この例えが適切かは知らんけど、そうやって連鎖的に動きが繋がっているんだろう。
しかし物事には始まりがある。ドミノは並べて一押ししてやらねば始まらない。
つまり、やることやって受精した瞬間からドミノ倒しが始まるのだと思うとなんだか非常にしっくりきた。
いわば受精した瞬間に車のキーを回すようなもので、一度エンジンが止まってしまえば再度始動する事は二度と出来ない。
限られた知識や認識の範疇でアナロジーを多分に使ったものだし、果たして適切な理解であるかは知らんけど、腹落ちはした。
より具体的な話を理解するには基礎なし生物なりをやればいいんだろうけど、取り敢えずの納得は得たしそこまでするのは面倒くさい。
まあもっと言えばそのドミノはどうやって用意されたのとかはあるんだけど。
火の鳥にポストアポカリプス世界で不死身の主人公がなんかの物質を海に撒いて、そこから新しくナメクジみたいな知的生命体が現れる話があったな。
川に浮かべたプラモのパーツが偶然組み上がるよりもありえなさそうな事だけど、実際そんな感じだったんだろうな。無から有は発生しなさそうだし。
規範を取り扱うならともかく、自然現象を理解するにあたって宗教はお役御免に思えるけど、やっぱり神様の存在を信じたくなる気持ちはあるね。
一般人にはそれかエセ科学が結局一番腹落ち出来る。不条理を不条理のまま受け止めてモヤモヤするのもいいけどね。
こういう話とか、宇宙の端っこってどうなってんのとか、時間って有限でも無限でも矛盾しねとか、そういう疑問はいっぱいあったな。
人間の思考や認識の範疇では理解の及ばん領域もあるじゃろうて、で片付けるつまらない人間になってしまった。
小難しい物理とかではちょっと突っ込んだ話もあるんだろうけど、説明された所で多分理解出来ない。
どうせオチとしては「断言できる事はありません」みたいな感じだろうし。
あと生物の細胞は細胞膜やら核やら、概ね同じ要素で出来ていますって習ったけど、じゃあ異なる役目を持つ器官ごとの細胞の違いは何なんだよって思った。
これはググれば分かりそうだけど、こういう必然的に生じるであろう疑問に対してノータッチを決め込むのが気持ち悪くて勉強嫌いだったんだよな。
まあいちいち突っ込んでたら高校のレベルを逸脱してしまうのかもしれんけど。
しかし生物が自然法則に従った現象に過ぎないのなら、それって運命が存在する事にならないかなって思った。
キャラクターが脚本の存在に気が付くメタフィクションはあるけど、人間が自然法則を理解して世界の筋書きに接近するのも予定された必然なのかなって。
自由意志も何もかも全て脚本の筋書きに過ぎないのかと思うとなんか恐ろしく思った。
世間的な基準では富裕層で成功者といえるんだろうが、それでも現実問題としてそう贅沢なことはできないし悩みも多いよ、というお話です。
【経歴】
子供のころから勉強は得意で、高3のとき秋から3か月だけ受験勉強して東大理1合格。理3も狙える成績だったが、医者になる気はなかったので理1で充分。
その後、物理学者になるかソフトウェア産業で仕事するか迷ったが、金に目がくらんでソフトウェア産業を選択。
最初の4年だけサラリーマンをしたが、同僚がアホすぎるし給料も安いし、自分も協調性に欠ける性格なので辞めてフリーランスのエンジニアに転向。今はともかく、当時は珍しかった。
仕事上では特に最初の数年は波乱万丈でとてもここには書けない。15年前に結婚し、今は4人子供がいて、6人家族である。
【仕事】
月給いくらではなく、完成形のソフトウェア仕様を定めて、開発費と月額保守費で稼ぐのがポイント。いったん安定稼働してしまえば月額保守費で長期にわたって労力をかけることなく収入になる。一番長い案件だと、それだけで累計収入2億円くらいなんじゃないのかな。
開発はほとんど自分個人でやるが、一部は友人に委託することもある。こういう仕事は個人間で長期に形成された信頼関係の中で成り立つものなので、SNSや転職サイトでは絶対に出てこない。
僕の仕事関係者がこれを見ても、僕だとはわからない範囲で書いています。
【家計】
確かに年収は4000万なんだが、お上に2000万はもっていかれる。
お上とは法人税・所得税・住民税・厚生年金・健康保険の合計だ。
自分だけの法人を作ってそこから自分に給料を払っているが、自分の給料を上げると所得税が上がり、自分の給料を下げると法人税が上がるので、トータルではそう大きな差はない。江戸時代と同じ五公五民。
サラリーマンの人に言っておくと、社会保険は労使折半なので、会社として負担する人件費は額面年収+15%くらいだぞ。
つまり手取りは年2000万、1か月あたり160万くらいだ。消費税抜きにすると145万ほど。
そこから、
手取り160万/月でもこんなものです。貯蓄に回す分はあまりない。王族のような生活とは程遠い。
支払いは可能な限りクレジットカードにまとめてて、その支払いが大体70万/月。その明細を見ても、妻が使った分含めて特に贅沢はしてない。
服はユニクロかしまむらだし、ワインも1本2000円以下のしか買わないし、外食も月1回程度。大した余裕はない。
旅行は年1回行くが、6人家族なので、国内でも100万、海外なら200万かかる。なかなかの出費だ。
都心に住まなければ生活費は圧縮できるが、子供がある程度大きくなると友人関係などから引っ越しは容易ではない。最初の子が生まれる前に郊外に引っ越しておけばよかった、と思わなくもないが、ケチケチしてても自分の寿命が尽きるほうが先だろうからバンバン使う主義だ。
なお、スポーツ選手や漫画家など、人生の総収入がごく短い期間に集中する人はこの不公平感が僕よりさらに大きいと思う。制度がクソすぎる。
【行政へ】
年間2000万納めつつ子供4人育ててるんだから、児童手当の所得制限がどうこうとかで揉めてるんじゃねーよ。誤差の範囲だろうが。
少子化の原因は、産業構造の変化とかもあるが、消費税と社会保険料率の上昇ですよ。これを10年前の水準に戻してくれれば僕の手取りは年300万増えるし、それなら子供もう一人追加してもOK。
それだけの負担をしても、僕は子育て大好きだし、子育ての喜びは生物的本能だとも思うので、これが一部の特権的階級だけのものになっているのが本当にもったいないと思う。
じゃあなんで生物はあんなにも繁殖しようと身を賭して命懸けで戦ってるの?
血みどろになってまで戦ってメスを得ようとしたり、生存に不利な美しい飾りバネを持ったり、ただ自分の身のかわいさだけじゃ理屈に合わないことを平気でやっちゃう
生態系全体から見れば性淘汰の中で大多数は繁殖できないのが普通であり、勝者のみ繁殖するさだめですが、それら生物の個体一つひとつはやはりその遺伝子を後世に伝えることを使命として産み落とされているので使命で間違いないかと思います。実際生物たちは自然界で繁殖するためなら理屈を超え命懸けで戦います。
ただし、人間社会は過度に分業化や格差が進んで自然の法則とは乖離しているので、子を産むことはもはや人間としての使命ではないとは思います。でも人間の多様な価値観の一つとして、あえて苦しい道を選んででも生物としての使命に従うというのも良いかと思います。必ずしも悲惨な結果になるとは限らないですし。
僕の知っている人で死を体験した人がいない。
どんなことだって、あらかじめ先人の知恵を調べて準備をするが、この世のすべてのアドバイスは死の際までしか教えてくれない。
宗教は教えてくれるが、あれは願望だ。当てにはならない。
だから、なるべく死を後回しにして、おそらく辛いと予想される死に方を回避するしかない。
でも、死後何がおきるかはわからない。もしかしたら死後の世界があったらどうしよう。その死後の世界は今よりも楽とは限らない。
生前の行いに関係なく地獄と呼ばれるようなところに行くかもしれない。
もしかしたら輪廻転生するかもしれない。記憶がなくなるなら別の人になることだからそれはそれで怖くないかもしれない。
人間は単なる生物で、僕の自意識は僕の体、脳に依存しているからだ。
停止するだけならばいいが、もしかしたら死の間際に主観時間は引き延ばされるのではないかという懸念がある。
それと同じように極限状態で脳の主観時間が引き延ばされて、極限まで引き延ばされて死の際を無限の時間に感じていつまでも死なないということもあり得る。
第三者から見れば、僕は死んでいるが、僕は死んでいる時間まで到達することができずずっとそこにとどまってしまうこともあるかもしれない。
死んだ昨日の僕は、無限に死なない時空で閉じ込められたり、地獄のような場所に転送されたりするかもしれない。
寝た後、知らない場所に行き苦行を強いられるかもしれない。
そして僕は「なんでこんなところに来たんだ?死んでしまったのか?家族にお別れを言いたかった」と思うが、別の僕はまた生まれて家族には無事な顔をみせていることをしらない。