はてなキーワード: 民主政治とは
以前、立憲民主党が自分たちは反対ばかりしていない、これだけ法案に賛成しているとアピールしていたことがある
https://go2senkyo.com/articles/2021/10/20/63494.html
野党なのに、なんでそんなに反対がすくないかというと、与野党間で法案の内容を調整するから
調整することで野党の主張をある程度与党にも受け入れさせるわけ
野党ってのは与党から妥協を引き出して賛成できる法案に変更させている、これが日本が長く続けてきた民主政治
共産党はこれだけ勝ち取った!みたいなアピールをするのが得意だけど、立憲民主党はそれが下手だから、反対ばっかりじゃない!と法案賛成割合だけをアピールするわけのわからんことになったけど
与党も野党もお互いにそれなりの妥協をして決めていたの、ずっつずっと何十年も
それでも最近まで民主政治は多数決じゃない!ってのを野党支持者が主張していたのに、今ではなぜか民主政治は多数決だ!みたいな主張をしている野党支持者が目立つ
立憲民主党の人が国民民主党は自分たちの政策を進めたいだけみたいなことを言ってネットの物知り顔が怒っていたけど、日本が行ってきた民主的とする政治を考えたら国民民主党の方針は民主的ではなくポピュリズムって呼ぶべきだよね
だけど、多数決が民主政治だ!みたいに国民民主党支持者っぽいひとたちは気炎をあげているけどおかしいよね
だって国民民主党は野党の第3党、多数決じゃ勝ち目ないんだから
国民民主党を蚊帳の外に、立憲民主党が賛成したら法案も予算案も通るし、立憲民主党は85%も賛成していた実績がある
103万円の壁がどうなるかわからないけど、わーわー言ってる人たちは民主政治は全員の妥協で成り立っていることを知った方がいい
増田は批判されてwhataboutismだと反論するのは俺に対する批判は無効イズムだって気付いてるか?
まあ気付いてて無視してるんだろうが
気付いてなくて無視してる本物はせめて今後は気付いた状態で無視してくれるか
これとかミラーリングとか悪口は自分が言われたくないことを言っている論とかDD論とか打ち返しとか
ネットのレスバ民は馬鹿って言ってる方が馬鹿論法がほんと好きだよな
大きな声じゃ言えないが、レスバ民の統計的に低い知能が表れてるんだろうなと俺は思っている
こんなものを大の大人が大真面目に使ってるならやはり民主政治はくだらない手続きで誤魔化してるだけのファシズムなんだろうな
中国の優れているところを話すと必ずこういうニュアンスのこと言ってくる人いるんだけど俺は全然そう思わない。
30年前から日本の硬直化した官僚システムと高齢化社会は問題になるとわかっていたが、結局それは30年以上政治によって是正されなかったわけだ。
今や日本は出稼ぎに他国に行くようになり、高齢化社会 は予想より早く進行している。
経済的にも世界で戦える企業もニッチな技術を持った分野をのそいて、今やなくなっていきつつある。
つまりそれって30年最悪の民主主義を選んできた結果が今の現状なわけでしょ。
一方その頃中国は一人っ子政策をやってブロッキングをやってアリババもウェイボーも自製して日本で爆買いしてるわけじゃん?
それってどうなんって思うのが普通だと思うんだけど。
でも一党優位よりは正しい民主政治なんだよね
人間どこかで思考停止しないと絶対的な価値は得られないですよね。
カレーが好き。なぜ好きなのか?スパイスの風味が好きだから。なぜスパイスの風味が好きなのか?好きだから好きとしか言えない。強いて言えば、舌と脳みそがそう感じるようになっているから。なぜ舌と脳がそうなっているのか?そういんもんだから。
なぜ芸術を追求するのか?それが人生を意味あるものにするように思えるから。なぜ人生を意味あるのにしたいのか?人生の無意味さは苦痛だから。なぜ人生の無意味さは苦痛なのか?そういうもんだから。
なぜ民主政治を行うのか?個人の自由と尊厳を保つための利害調整をするのに、それより良い方法が見当たらないから。なぜ個人の自由と尊厳を追求するのか?よく生きたいから。なぜよく生きたいのか?そういうもんだから。
日本社会党中央執行委員長、議員淺沼稻次郞君は、去る十二日、日比谷公会堂での演説のさなか、暴漢の凶刃に倒れられました。
私は、皆様の御賛同を得て、議員一同を代表し、全国民の前に、つつしんで追悼の言葉を申し述べたいと存じます。
ただいま、この壇上に立ちまして、皆様と相対するとき、私は、この議場に一つの空席をはっきりと認めるのであります。私が、心ひそかに、本会議のこの壇上で、その人を相手に政策の論争を行ない、また、来たるべき総選挙には、全国各地の街頭で、その人を相手に政策の論議を行なおうと誓った好敵手の席であります。
かつて、ここから発せられる一つの声を、私は、社会党の党大会に、また、あるときは大衆の先頭に聞いたのであります。今その人はなく、その声もやみました。私は、だれに向かって論争をいどめばよいのでありましょうか。しかし、心を澄まして耳を傾ければ、私には、そこから一つの叫び声があるように思われてなりません。「わが身に起こったことを他の人に起こさせてはならない」、「暴力は民主政治家にとって共通の敵である」と、この声は叫んでいるのであります。
私は、目的のために手段を選ばぬ風潮を今後絶対に許さぬことを、皆さんとともに、はっきり誓いたいと存じます。これこそ、故淺沼稻次郞君のみたまに供うる唯一の玉ぐしであることを信ずるからであります。
淺沼君は、明治三十一年十二月東京都下三宅島に生まれ、東京府立第三中学を経て早稲田大学政経学部に学ばれました。早くから早稲田の北沢新次郞教授や高校時代の河合栄治郞氏らの風貌に接し、思想的には社会主義の洗礼を受けられたようであります。
当時、第一次大戦が終わり、ソビエトの「十月の嵐」が吹いたあとだけに、「人民の中に」の運動が思想界を風靡していました。君は、民人同盟会から建設者同盟と、思想運動の中に身をゆだね、検束と投獄の過程を経て、ごく自然に社会主義運動の戦列に加わったのであります。
大正十二年母校を卒業するや、日本労働総同盟鉱山部、日本農民組合等に関係して、社会運動の実践に情熱を注ぎ、大正十四年の普選を機会に、政治運動に身を挺したのであります。
すなわち、同十四年農民労働党の書記長となり、翌十五年日本労働党の中央執行委員となった後は、日労系主流のおもむくところに従い、戦時中のあの政党解消が行なわれるまで、数々の革新政党を巡礼されたのであります。
君が初めて本院に議席を占められたのは、昭和十一年の第十九回総選挙に東京第四区から立候補してみごと当選されたときであります。以来、昭和十七年のいわゆる翼賛選挙を除いて、今日まで当選すること前後九回、在職二十年九カ月の長きに及んでおります。
戦後、同志とともに、いち早く日本社会党の結成に努力されました。昭和二十二年四月の総選挙において同党が第一党となり、新憲法下の第一回国会が召集されますと、君は衆望をになって初代の本院議運委員長に選ばれました。書記長代理の重責にあって党務に尽瘁するかたわら、君はよく松岡議長を助けて国会の運営に努力されたのであります。幾多の国会関係法規の制定、数々の慣行の確立、あるいは総司令部との交渉等、その活躍ぶりは、与・野党を問わず、ひとしく賛嘆の的となったものであります。
翌二十三年三月、君は、日本社会党の書記長に当選、自来、十一年間にわたってその職にあり、本年三月には選ばれて中央執行委員長となり、野党第一党の党首として、今後の活躍が期待されていたのであります。
かくて、君は、戦前戦後の四十年間を通じ、一貫して社会主義政党の発展のために尽力され、君自身が社会党のシンボルとなるまでに成長されたのであります。淺沼君の名はわが国政治史上永久に特筆さるべきものと信じて疑いません。
君がかかる栄誉をになわれるのも、ひっきょう、その人となりに負うものと考えるのであります。
淺沼君は、性明朗にして開放的であり、上長に仕えて謙虚、下僚に接して細心でありました。かくてこそ、複雑な社会主義運動の渦中、よく書記長の重職を果たして委員長の地位につかれ得たものと思うのであります。
君は、また、大衆のために奉仕することをその政治的信条としておられました。文字通り東奔西走、比類なき雄弁と情熱をもって直接国民大衆に訴え続けられたのであります。
よごれた服にボロカバン
きょうは本所の公会堂
あすは京都の辻の寺
これは、大正末年、日労党結成当時、淺沼君の友人がうたったものであります。委員長となってからも、この演説百姓の精神はいささかも衰えを見せませんでした。全国各地で演説を行なう君の姿は、今なお、われわれの眼底に、ほうふつたるものがあります。
「演説こそは大衆運動三十年の私の唯一の武器だ。これが私の党に尽くす道である」と生前君が語られたのを思い、七日前の日比谷のできごとを思うとき、君が素志のなみなみならぬを覚えて暗たんたる気持にならざるを得ません。
君は、日ごろ清貧に甘んじ、三十年来、東京下町のアパートに質素な生活を続けられました。愛犬を連れて近所を散歩され、これを日常の楽しみとされたのであります。国民は、君が雄弁に耳を傾けると同時に、かかる君の庶民的な姿に限りない親しみを感じたのであります。君が凶手に倒れたとの報が伝わるや、全国の人々がひとしく驚きと悲しみの声を上げたのは、君に対する国民の信頼と親近感がいかに深かったかを物語るものと考えます。
私どもは、この国会において、各党が互いにその政策を披瀝し、国民の批判を仰ぐ覚悟でありました。君もまたその決意であったと存じます。しかるに、暴力による君が不慮の死は、この機会を永久に奪ったのであります。ひとり社会党にとどまらず、国家国民にとって最大の不幸であり、惜しみてもなお余りあるものといわなければなりません。
ここに、淺沼君の生前の功績をたたえ、その風格をしのび、かかる不祥事の再び起ることなきを相戒め、相誓い、もって哀悼の言葉にかえたいと存じます。
(中略)党は、この状況を打破して、まず平和で民主的な日本をつくりあげる民主主義革命を実現することを当面の任務とし、ついで社会主義革命に進むという方針のもとに活動した。
(四)第二次世界大戦後の日本では、いくつかの大きな変化が起こった。
(中略)第二は、日本の政治制度における、天皇絶対の専制政治から、主権在民を原則とする民主政治への変化である。この変化を代表したのは、一九四七年に施行された日本国憲法である。この憲法は、主権在民、戦争の放棄、国民の基本的人権、国権の最高機関としての国会の地位、地方自治など、民主政治の柱となる一連の民主的平和的な条項を定めた。形を変えて天皇制の存続を認めた天皇条項は、民主主義の徹底に逆行する弱点を残したものだったが、そこでも、天皇は「国政に関する権能を有しない」ことなどの制限条項が明記された。
この変化によって、日本の政治史上はじめて、国民の多数の意思にもとづき、国会を通じて、社会の進歩と変革を進めるという道すじが、制度面で準備されることになった。
(中略)国民主権の民主主義の流れは、世界の大多数の国ぐにで政治の原則となり、世界政治の主流となりつつある。人権の問題では、自由権とともに、社会権の豊かな発展のもとで、国際的な人権保障の基準がつくられてきた。人権を擁護し発展させることは国際的な課題となっている。
最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、(中略)レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ。「社会主義」の看板を掲げておこなわれただけに、これらの誤りが世界の平和と社会進歩の運動に与えた否定的影響は、とりわけ重大であった。
(中略)
いかなる覇権主義にも反対し、平和の国際秩序を守る闘争、核兵器の廃絶をめざす闘争、軍事同盟に反対する闘争、諸民族の自決権を徹底して尊重しその侵害を許さない闘争、民主主義と人権を擁護し発展させる闘争、各国の経済主権の尊重のうえに立った民主的な国際経済秩序を確立するための闘争、気候変動を抑制し地球環境を守る闘争が、いよいよ重大な意義をもってきている。
(中略)
(一一)この情勢のなかで、いかなる覇権主義にも反対し、平和の国際秩序を守る闘争、核兵器の廃絶をめざす闘争、軍事同盟に反対する闘争、諸民族の自決権を徹底して尊重しその侵害を許さない闘争、民主主義と人権を擁護し発展させる闘争、各国の経済主権の尊重のうえに立った民主的な国際経済秩序を確立するための闘争、気候変動を抑制し地球環境を守る闘争が、いよいよ重大な意義をもってきている。
(中略)
日本共産党は、労働者階級をはじめ、独立、平和、民主主義、社会進歩のためにたたかう世界のすべての人民と連帯し、人類の進歩のための闘争を支持する。
(一二)現在、日本社会が必要としている変革は、社会主義革命ではなく、異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破――日本の真の独立の確保と政治・経済・社会の民主主義的な改革の実現を内容とする民主主義革命である。それらは、資本主義の枠内で可能な民主的改革であるが、日本の独占資本主義と対米従属の体制を代表する勢力から、日本国民の利益を代表する勢力の手に国の権力を移すことによってこそ、その本格的な実現に進むことができる。この民主的改革を達成することは、当面する国民的な苦難を解決し、国民大多数の根本的な利益にこたえる独立・民主・平和の日本に道を開くものである。
(一三)現在、日本社会が必要とする民主的改革の主要な内容は、次のとおりである。
1 現行憲法の前文をふくむ全条項をまもり、とくに平和的民主的諸条項の完全実施をめざす。
2 国会を名実ともに最高機関とする議会制民主主義の体制、反対党を含む複数政党制、選挙で多数を得た政党または政党連合が政権を担当する政権交代制は、当然堅持する。
3 選挙制度、行政機構、司法制度などは、憲法の主権在民と平和の精神にたって、改革を進める。
4 地方政治では「住民が主人公」を貫き、住民の利益への奉仕を最優先の課題とする地方自治を確立する。
5 国民の基本的人権を制限・抑圧するあらゆる企てを排除し、社会的経済的諸条件の変化に対応する人権の充実をはかる。労働基本権を全面的に擁護する。企業の内部を含め、社会生活の各分野で、思想・信条の違いによる差別を一掃する。
6 ジェンダー平等社会をつくる。男女の平等、同権をあらゆる分野で擁護し、保障する。女性の独立した人格を尊重し、女性の社会的、法的な地位を高める。女性の社会的進出・貢献を妨げている障害を取り除く。性的指向と性自認を理由とする差別をなくす。
7 教育では、憲法の平和と民主主義の理念を生かした教育制度・行政の改革をおこない、各段階での教育諸条件の向上と教育内容の充実につとめる。
8 文化各分野の積極的な伝統を受けつぎ、科学、技術、文化、芸術、スポーツなどの多面的な発展をはかる。学問・研究と文化活動の自由をまもる。
10 汚職・腐敗・利権の政治を根絶するために、企業・団体献金を禁止する。
11 天皇条項については、「国政に関する権能を有しない」などの制限規定の厳格な実施を重視し、天皇の政治利用をはじめ、憲法の条項と精神からの逸脱を是正する。
(一四)民主主義的な変革は、労働者、勤労市民、農漁民、中小企業家、知識人、女性、青年、学生など、独立、民主主義、平和、生活向上を求めるすべての人びとを結集した統一戦線によって、実現される。統一戦線は、反動的党派とたたかいながら、民主的党派、各分野の諸団体、民主的な人びととの共同と団結をかためることによってつくりあげられ、成長・発展する。当面のさしせまった任務にもとづく共同と団結は、世界観や歴史観、宗教的信条の違いをこえて、推進されなければならない。
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https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/bER2YpZXY3TapXc/status/1591774784060551172
とりあえず最初にコメントしてるのははてな極左のGI17だが批判的な文脈でコメントしてるから違うっぽい。
Gl17 中間選挙はウヨ界隈もあまり話題性無かったが、せっせと選挙否定陰謀論かましてバズ稼ぎする奴はやっぱいるんだよな。戸籍制度があるから日本は不正選挙がない!→別姓は戸籍を破壊する陰謀! …ときやがった。
つまり非公開でコメントしてるやばいやつが3名以上いるってことなのか・・・?
と思ったがこちらを見ると、GI17とquick_pastとzyzyの極左トリオがブックマークしている。まーた気に入らないやつをさらして「これだからミソウヨは」ってやりたいのか。
いい加減はてなブックマークをお仲間の寄り合い所みたいにつくるのをやめて、TwitterでDM部屋でも作ってそこで仲良くやってくれませんか?
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/bER2YpZXY3TapXc/status/1590158246920466433
zyzy ウヨミソの特徴って「カラスと白鳥、どちらも羽をよく見れば虹色に見える」とかいうこじつけ方ではなく「カラスは白いのが大半で、白鳥は黒いのが大半という事実があります」くらいの完全虚実反転に行くところだよね ネタ
quick_pastquick_past 妄想乙
Gl17Gl17 ウクライナはクリミア以後軍拡し続けたし、常備軍規模もあり、国力的に限界があったに過ぎないのだが。外交でも米欧支援を獲得してた。そも国力が弱かったのも権威主義の非民主政治が長かったからで、今の露もそう。
575川柳
ようするに、定番の各局放送スクショくれ、という話じゃないんだが、
空気を大切にする感覚、あるいは、一斉に同じ方向を向こうとする感覚、
この日本人の底に流れている感覚ってどうしたら克服できるのかな、と考え込んでしまうわけだ。
https://twitter.com/ochyai/status/1545282099963625472
政府で働く人の悪口をみんなで言うと,その悪口を聞いた誰かが,日本を良くしようと思って銃でその人を撃ったりするんだよ.その人が撃たれた後にみんな暴力はいけない断固として許せないって言うんだよ.言葉の使い方は気をつけようね,みんなの悪意の責任はみんなで取ろうね,メディアも個人も.
主語と述語を入れ替えたら、戦前のぜいたくは敵だ、というスローガンとなんら変わらないメンタリティ。
このツイートをみて、表現の自由について少しでも考えたことがある人なら、すぐさま、この発言の危うさに気が付くんじゃないかと思う。
「政府で働く人の悪口をみんなで言う」空気への落合氏の懸念は、「みんなの悪意の責任はみんなで取ろうね」という形で、一億総ざんけにつながってゆく。
しかし、こうしてあるべき「みんな」がひとつのツイートに4回も強調され、プレッシャーになってゆく社会の危うさに気が付いていても、あるいは
表現の自由が脅かされると気が付いても、
残念ながら、というか、ひとたび憲法に結び付けて議論するやいなや、普通の人の感覚から離れたズレた議論になってゆく。
日本の憲法学は腐っているので、公共の福祉論などをいくら学説や定義を整理してきれいに論じてもほとんど生産的な議論はできない。
むしろ、ただ単に、ヤバいぞ、と気が付くだけで正直、十分なのだ。その感覚は戦争中に起きたことなど過去の思い出から引き出されるものかもしれない。
戦前の痛みを受け止めていれさえすれば、それが原点となる。共有できる、歴史という思い出が必要なのだ。
しかし、実のところ、それも心許ない。
増田でこれ以上、脱線した演説をしたくはないのだが、ひとつだけ俺が好きなアメリカ連邦最高裁の判決中のフレーズを置いていく。
空気がときには言葉の不協和音に満ちていることは、弱さではなく強さを表している。
COHEN v. CALIFORNIA SUPREME COURT OF THE UNITED STATES 403 U.S. 15June 7, 1971
アメリカの最高裁で意見が書かれる時には、建国時の200年くらい前の精神をふりかえって書かれることがしばしばある。
この不協和音という言葉も、フェデラリスト81論文(1788)で、A.ハミルトンが書いたとされる、「多くの関係者の不調和は・・討議を進展させるであろう」という言葉に源をたどることができる。
アメリカ建国当時のJ.マディソンは、民主制を擁護すればするほど、多数の圧政を招き、民主制の基礎を掘り崩してしまう、民主主義のジレンマに強い問題意識を持っていた。
落合氏のツイートのような、この空気感が、民主主義をどう動かすかを想像し、多数の圧政を招くメカニズムの克服について考えなければならない、これがマディソンの問題意識だったといっていい。
多数決のもたらす結果を克服しつつ、いかに民主政治を適切な方向に管理・誘導するか、これが匿名論文として執筆されたフェデラリスト論文のポイントだった。
空気の多様性を擁護する、ということのアメリカ的な原点は、ヨーロッパでの苛烈な宗教的な対立にさかのぼることができるが、建国に至る思い出が憲法起草に反映され、代々引き継がれてゆく。
このように、歴史というのは憲法上の原理を考えるうえでとても重要で、原点となる記憶が、その時々の重要な判決で繰り返し呼び戻され、継承されてゆくことが必要なのだ。
憲法の考え方をさかのぼってたどっていったら建国者にたどり着くアメリカと、たどっていっても芦部や清宮の古臭い基本書で行き止まる日本との違いを思う。
日本では、というと、やはり戦前、戦中になにが起きたか、ということをしっかり心に刻むのが重要だと思う。
というか現在の日本社会を方向付ける、歴史という思い出が、それ以外にない。
戦争体験にこだわらず、つくる、という発想もまあ大切かもしれないが、
自民党起草の憲法改定案のように大切な原点となる体験をなかったかのようにしてしまおうとする動きには警戒する。
しかし、原点があったとしても、それを頼りに、社会を同じ空気にしてはいけないと、どこまで切実に思えるか。ここに日本社会の弱さがあるようだ。
安倍さんは、日本の政治を大きく変えた人物。安倍さんだけのせいではないが、小泉構造改革以降、正直、あまりよくない方向に日本が進んでいったと思う。
首相官邸の強化は小泉さんの置き土産、そのおかげで恩恵を受けた第一次安倍内閣から、随分と政治と官僚との関係も変わった。安保法制も最悪だった。
先ほど述べたような憲法改正のその動きの先頭にたっていたのも安倍さんだった。正直、あまりいいことを思い出せない。
哀悼を表する。
アメリカ的なマッチョな男性は女性を守っているが、妻を貶された時に貶した相手の顔を叩くことではなくて、妻が相手を批判できるようにすることが「守る」なのだ。
公然と堂々と貶してきた相手を批判する声を誰にも塞がせないことであり、皆が妻の声にリスペクトを持って受け入れ耳を貸し、妻が相手を批判するときにも心理的な安全を感じられるように、妻がそのことで不当な攻撃を受けないように、守っている。
日本のような、家父長制で権威主義の国では、お上の顔色を伺い、男や上や周りの機嫌を取らずに、皆の顔色を伺わずに妻が堂々と相手の男性に意見を言ったら、「気に入らない」「他人の気分を害した」「空気が読めない」「なまいきだ」「睨みつけ、嫌な女だと八つ当たりされる」可能性があるんじゃないかな?
表現の自由というのは日本で騒がれてるらしいが、俄に信じがたい話である。
民主主義の精神の根付かない国では男が女の代わりに顔を叩かないと女を守らない国に映るらしいが、女をちゃんと守っているので。という話。念のため。
そもそもアメリカのような民主主義国家において、自分の意見を自己主張することは個人の民主的責任。
自己主張をしないというのは、主体性がなく、民主的に無責任な態度であり、幼稚なもので、批判される。
また同時に自己主張することの勇敢さを高く評価し、安全性を担保しようとする動きが強い。自分の意見を必ず聞いてもらえて、安全に自己主張ができて、自己主張を責任感ある勇敢な態度と捉える。そのような土台がなければ国民による政治などできはしないからだ。主権者として人権を享有した存在ならば当たり前である。
だから彼女は大人として、自分自身で異論を唱え、批判し、自己の権利や自己の尊厳を主張する必要がある。
他人は彼女の気持ちや判断を真に知り得ることはない。彼女自身が自分のために立ち上がる必要がある。
誰かの批判の内容について悪く言う人がいたとしても、彼女が立ち上がって持論を述べたことそのものは非常に勇敢であり、讃えるべきことであり、言葉に対して暴力を公然と振るうのはあってはならないことだ。