はてなキーワード: 大宮駅とは
(´・ω・`)「…麹町の宝島社が間借りしとるビルの地下の博物館でワイにとっての「知の巨人」高島鎮雄さんのコレクション展示を観て、十年ぶりくらいの訪問になる東大宮のジャンクガレッジ本店で調子にノッて前回の倍量のまぜそば頼んで残り1/3で絶望しそうになり、日帰りの元気なくなってビジホに泊まろうと駅まで戻ってたらJAさいたま本店のキテレツ建築にビックリ、駅近のSEIYUが24時間営業なのにビックリ、でもホテルは無かったので大宮駅まで移動して飛び込みで入室したとこで腹を下しながらyoutubeでcity popのライブストリーム流してスマホで昨夜から読み始めた なろう みてる今」
旅先でディナーに腹に悪いメシ(とか呑み)喰って宿で排出しとるのはこの二、三年の独り旅のデフォなんよ(´・ω・`)ヤメラレヌ
存外、「大宮駅の咲コラボ広告」って知らない人いるみたいだから、書いた方が反応違うかもね
どこをどう切り取っても、咲が性的じゃないって人は居ないでしょう
この辺、新聞広告では無難に落とし込んだ、たわわとかとは違う部分よね
で、背中が見えるとか、バニー衣装だとか、そういうのを「未成年を性的に消費している」と断じて
「未成年を性的に扱う閾値は世界的に厳しくなっている」と出羽守も持ち出して
とにかく、「人が集まる駅と言う場所で未成年と定義されたキャラを性的に描いた広告はさすがにNGだろう」という理路なんだよね
これは、梅田ロフトの件と似てるけれど、あれとは違う空気を出している
もうとにかく女性問題として、うきーーーとヒステリックに炎上させるんじゃなくて
もうすぐ神楽坂ゆか生誕祭である。昭和のアイドルっぽさを感じさせる彼女は、もともとは「田村ゆかり」という名前でデビューしたと記憶している。
ところで、たまたま先日購入した1978年10月「ゴーサントオ」の時刻表復刻版がある。
https://jtbpublishing.co.jp/topics/CL000461好評の「時刻表復刻版」第6弾 特急時代の幕開け!「ごお・さん・とお」(1978年10月号)ダイヤ改正号 『時刻表復刻版 1978年10月号』 2022年5月23日(月)発売 | 株式会社JTBパブリッシング
https://www.amazon.co.jp/dp/4533149782/
この年は音楽番組「ザ・ベストテン」の放送開始の年でもあり、「レッツゴーヤング」「トップテン」「ヒットスタジオ」といった番組がゴールデンタイムを彩った時期でもある。キャンディーズが解散し、レコード大賞をピンクレディーが獲得し、山口百恵が活躍していた。
いま挙げたようなレジェンドともいうべき女性アイドルたちが全国ツアーを開催していたかどうかは定かではないが、もしもそんな昭和時代に我らが田村ゆかりの全国ツアーがあったなら、皆どういう感じで移動していたのだろうか…などと、時刻表を見ていてふと考えてしまったのが懐古鉄オタの性というもの。
そんなわけで「もしも昭和のトップアイドル・田村ゆかりが全国ツアーをやっていたら王国民はどうやって民族大移動したのだろうか?」というテーマこそ壮大ながら実際は老眼に抗って縮刷版の時刻表とにらめっこして連敗した駄文をそっと放流したいと思った所存。
今年もツアーはあったが、過去最大25公演を誇る2021年の*Airy-Fairy Twintail*の開催地からいくつか選んで当時の時刻表に沿った旅程を考えてみたい。
なお毎日運転ではない季節列車・臨時列車は極力排した。仕方ないね。
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当時はソニックシティはまだなく、大宮商工会館なる施設が同じ場所にあったらしい。1979年にはサザンオールスターズが公演しているらしいので、昭和のトップアイドルもひょっとしたらステージに立っていたかもしれない。
https://www.livefans.jp/venues/1204
この頃は上野東京ラインも湘南新宿ラインも、埼京線さえも存在しなかった。国電京浜東北線の103系か東北本線・高崎線の115系で到着した大宮駅の片隅には首都圏色の川越線気動車が、反対側には東武野田線の吊り掛け駆動車が見られたはずだ。
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北陸新幹線のないこの時代、東京から金沢に向かうメインルートは信越本線だった。
上野発916の特急「白山1号」に乗れば、長野経由でおよそ7時間後の1611には金沢駅に着き、前の年に落成したばかりの本多の森ホールにどうにか開演時刻ギリギリに間に合う計算だ。少し余裕を持ちたいなら上野819発の特急「はくたか1号」で1504金沢着。こちらは長岡経由である。
翌朝、今度は金沢から松本に向かう。筆者はAFTでは北陸新幹線に長野まで乗り、そこから特急「しなの」に乗り換えて松本に向かったが、この時代は乗り換えなしの列車がある。それが金沢949発、おそらくキハ58の、時刻表ピンクのページによれば堂々10両編成の急行列車。後ろ3両が松本行き急行「白馬」、中ほど4両は秋田止まりで前寄り5両は青森までロングランする急行「しらゆき」だ。間違わずに後寄り3両に乗れば、途中の糸魚川で青森・秋田行き「しらゆき」から切り離され、進行方向を変えて大糸線に入って1435松本着だから公演には余裕を持って臨むことができる。編成分割をする糸魚川では正午を挟んで8分停車するから、えび釜めしなど駅弁を買う余裕もあっただろう。
ただ、逆にいうとそれしか手段はない。ましてキハ58はいわゆる「直角椅子」のクロスシートでリクライニングも方向転換もできない。7時間近くも乗っていたらそれだけで相当疲れてしまう。
さらに松本公演が終わった日曜の夜。筆者はAFTのときは最終「しなの」で長野に出て一泊し、翌朝の北陸新幹線で出勤した。しかしこの時代なら松本発2056の普通列車新宿行きがある。423に新宿駅に着くから一度帰宅してシャワーを浴びて着替えて出勤する余裕は十分にある。ただしこれもまた「直角椅子」どころかおそらくセミクロスの115系だったろうから、少しでも居住性を求めたければ2359発の急行「アルプス18号」のグリーン車に乗れば良い。新宿着は500だから余裕を持って出勤できるのは言うまでもない(出勤した後のことは例によって保証できない)。
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新幹線はすでに博多まで開通していたし、熊本空港には全日空の3発ジェット・トライスターか東亜国内航空のDC-9が就航していたが、鉄道好きとしては1645東京発1058熊本着の西鹿児島行き「はやぶさ」か、1700東京発1123熊本着の「みずほ」を推したい。食堂車で夕食・朝食の2食をいただくのんびりとした旅である。
ただ、昨今の「サンライズ」などとは違って当時の寝台特急にはシャワー室はなかった。「はやぶさ」「みずほ」には個室もなければ女性専用車もなかったから、今や全国民の1/4に迫らんとする女性王国民の遠征には不向きだったかもしれない。まして当時の長距離列車は喫煙可能が当たり前で各ボックスシートの窓際に灰皿が標準装備されていた。
しかしもう少し前の1970年頃に青春時代を過ごした我が母親によれば、当時のスキー列車はいつも満席で男女問わず通路やデッキに新聞紙を敷いて座り込んだというから、たくましい遠征女子も実は相当数いたかもしれない。
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東北・上越どちらも新幹線はこの時代は絶賛工事中。開通は4年後の1982年だ。しかし上越線には「とき」、東北本線には「ひばり」というエル特急が毎時1本ペースで運転されていたから往路はどうにでもなる。
新潟の帰路、私は最終新幹線に飛び乗れたが、この当時なら2300新潟発の急行「佐渡8号」で506上野着か、横になりたければ2312の秋田から来る急行「天の川」で555上野着。新津まで普通列車で出ておいて040発の急行「鳥海」で642上野着でもいい。
仙台からは公演後だと2320発の急行「新星」がおすすめだ。仙台駅には早々と入線しており2130から発車前の寝台を利用できるのが嬉しい。上野到着は536だから一度帰って身支度を整える余裕もありそうだ。このほか、仙台2257→上野519の青森発常磐線経由の急行「十和田2号」や、座席車なら仙台2336→上野542の急行「いわて4号」も便利であろう。なお急行「十和田」はこのあとも4号・6号が仙台に停車するし、特急「ゆうづる」2号・4号も利用できる。
そうして考えてみると、まだまだ高速道路網が未熟だったこの頃、寝ている間に移動できる安価な手段は鉄道しかなかったのだということを改めて感じさせられる。1970年代でも長距離バスは運行されていたが、都内と新潟が高速道路でつながったのは1985年、仙台は87年。歴史でいえば線路の方がはるかに長い。
なおこの当時、上野→仙台が特急「ひばり」で4時間以上かかっていたので、羽田空港から仙台空港への航空便も全日空により1日4往復運航されていた。
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ならばその先はどうか? 札幌公演に行くにはこの当時でも飛行機が当たり前の選択になってきていた。筆者は81年の夏に北海道の親戚を訪ねる旅に出たが、祖父母に連れられて上野駅から青函連絡船を経て親戚の住む苫小牧まで20時間ぐらいかかったように記憶している。まだ青函トンネルは開通していなかった。
それでは札幌公演に陸路・海路で挑むとすればどうなったであろうか?余裕を持って開演に間に合わせるならこのルートである。
2140上野[特急ゆうづる5号]705青森or2221上野[特急はくつる]711青森
1140函館[特急おおぞら5号釧路行き]1550札幌or1145函館[特急おおとり網走行き]1558札幌
急行自由席に乗れる周遊券を利用するなら上野1908→青森617の「八甲田」や函館1150→札幌1630の稚内行き「宗谷」も良い選択肢であろう。
やはり北海道は遠い。時間に余裕のない向きは素直に飛行機を利用すべきであろうが、千歳空港と国鉄の駅が接続されるのは2年後の1980年のこと。この時刻表の時点では札幌駅前からバスに乗るのが普通の手段であった。
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そして福島公演はエクストリーム出勤の宝庫であった。終演後の福島駅発上野行きを見てみると、
2350 急行「あづま4号」437
043 急行「新星」536(寝台あり)
056 急行「いわて4号」542
このほかにも夏休みシーズンだけに季節列車・臨時列車も運転されていたと思われるので、かなりの席数が利用可能であったと推察される。
座席車の特急はいわゆる「直角椅子」であるが、寝台車連結の急行列車では短時間でも横になって移動できる利点がある。これは現代の夜行高速バスでも(実際に運行されてはいるが)まだまだ一般的ではない。バスは鉄道車両よりも小さくて何両も連ねて運転されるわけもないから、寝台は不可能ではなくても困難が多いのであろう。
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国鉄監修時刻表を見る限りでは、東名阪のバスは国鉄ハイウェイバスしか掲載されていない。関西公演からの帰り道は2240大阪駅→815東京駅の「ドリーム2号」か2200京都駅→643東京駅の「ドリーム4号」しか見当たらない。
鉄道ならば京都2237の特急「出雲2号」、同015発の「出雲4号」なら700には、大阪2358の特急「瀬戸」や同005の特急「あさかぜ2号」でも730には東京駅に着けるから、エクストリーム出勤勢の強い味方になり得たと思われる。なんなら関西勢と感想を語り合いつつ酌み交わす余裕は十分にある。しかもこれらは当然寝台車であるから、予約さえ取れれば会場内外で充実至福のひと時を過ごしたのちに千鳥足でベッドに潜り込んで目覚めれば東京駅も間近に迫り、どうかすればまだ夢見心地のまま出勤せざるを得ないベストコンディションを通り越した邪悪な何かを感じずにはいられない有様である。
なぜ新幹線ではなく在来線を推すのかと問われれば、その当時の東京行き最終「ひかり116号」は新大阪2034発であるから、フェスティバルホール(当時は改築前)から終演後直ちに最寄りの四つ橋線肥後橋駅に走ったとしてもけっこうタイトな時刻設定であることが第一に挙げられる。梅田の地下に慣れない関東勢が四つ橋線西梅田を出て乗り換えに手間取ると、最終の新幹線は慈悲もなく出発してしまう…それは正直恐ろしい。
筆者は鉄道好きで鈍行やら夜行やら多少は乗ってきた経験とノスタルジーがあるので満更でもない旅行だなとほくそ笑みつつこの文章を書きつけてはいるが、冷静に考えてみれば当時は今よりずっと不便で居住環境は悪かったように思う。なりふり構わぬ男性、特に体力に自信のある若者にはなんということはない行程だったと思うが、女性にはあまり優しくない環境だったし、筆者も若い頃は大きな鞄を抱えて夜行連泊するような旅をしてきたけれど今この歳になってふたたび体験するのは懐古趣味を差し引いてもためらいが多めに残る。
とはいえ不便で時間のかかる旅を楽しみたい向きが今もなお大勢いるのは承知している。そんな黒鉄の人々に机上タイムトラベルを提供できたら幸いかなと。ただそれだけ。
本文に田村ゆかりは出てこずに時刻表を読み解くだけだったが、10月に横浜で公演があるのでよければバスや飛行機よりも鉄道を乗り継いで参加して紀行文と公演感想文を読ませてくだされば筆者はDouble Fascinationになれる。
それはともかくできる限り多くの客席を埋めて盛況の公演としたいので、関心のある方は下記から申し込みいただければ幸甚に存じます。
そう感じている。
毎朝、改札で止まっているおじさんがいる。先にカバンから出すなどして準備しておけばよいものを、必ず直前で立ち止まってガサゴソしているため非常に目立つし、「邪魔だろ」と叫びたくなる。出社すると業務の半分くらいは「てめーがやれ」と言いたくなるようなことであり、会議の9割くらいは「それ今?」と思う。
退社してスーパーで買い物をしていると、お刺身のパックを見て「イカで空いたとこ埋めるんじゃないよ」と思い、広告の品という黄色のポップを見て「いつもこの値段だろうがよ」とパネルになった香取慎吾の胸倉を掴みたくなる。レジではおばあちゃんがリュックサックからセカンドバッグを取り出し、セカンドバッグから巾着袋を取り出し、巾着袋から財布を取り出し、律儀に小銭を探す後期高齢者特有のマトリョーシカを展開していた。帰る前にコンビニに寄ると、いつもいる店員さんに「クイックペイで」と伝え、毎回Edyを用意される。「せめてPayPayとか響きだけでも似てるやつにしてよ」と思いながら、「あっすいません、クイックペイです…」と謝る。袋の有無は聞いてくれないが、本当はいつも欲しいと思っているんだよな。たまに銀行のATMに寄ると、俺が知らないだけでNETFLIXとか観れるの?と思うくらい長期戦の構えを見せているお年寄りがおられる。
帰宅して食事をしながらYouTubeを開くと、ひろゆきの不快な顔がオススメされて「死ぬまで見ねぇよ」とイライラする。そして目当ての動画を開くと、開始前に必ず脱毛を5秒間オススメされ「必要なのは増毛だが、どんな検索結果を基に表示を?」とキレそうになる。
要約すると、私は1日の中でかなり頻繁に「ア゛ー!!」と絶叫したい状況に出会いながら、それをしないことによって「こっち側」に留まれている。それはインターネット上でも同様だ、ということである。
一方で、Twitterなんかを見ていると企業の公式アカウントに謎のリプライを吊るしている方や、増田で突然関係のない話題からレスバを開始される方、もはや私人となられた元皇族の女性の去就にキレ散らかしている方、他人の食事や生活にひたすらケチをつけておられる方などがたくさん居る。また、私の会社に特定の番号で毎日あることないことお叱りの電話をくださる方、落語やってんのかと思うくらい長時間大宮駅のみどりの窓口で何かを訴えている方、とくに重要な機密を抱えているようには見受けられないが集団ストーカーから被害を受けていると毎日私宛に長文のメールを下さる他部署の事務の方、などなど、世の中を見回してみるとけっこう多くの方が"イカれたメンバー"として紹介して差し支えのない仕上がりを見せつけている。
おそらく上述の中でも少ないくない方がなんらかの精神的な疾患を抱えていて、それに関しては単純に適切な医療につながって欲しいと思うだけなのだが、そうではなく単純に性向あるいは思想信条としてそういった状況にある方に対して最近の私が思うことは「この方達と自分を分かつ差はどこに…?」という、純粋な不安だ。たまたま私は口に出していないが、何かのタイミングで普段のほんのちょっとしたイライラを口に出した瞬間に「あっち側」のメンバーになる感じ。その「何か」が何なのか、そうならないためにはどうすればいいのか。インターネットやめますか、それとも人間やめますか…?何となく、自分が一応「普通の人」側にいる(と少なくとも思っている。まあ狂人はだいたいそういうことを言うもんですが…)ことが、たまたまに思えてならないのだ。
おそらく当事者の方に聞いても全員おそらく普通の人側だと思っているだろうからあまり参考にはならないだろうし、先行研究の文献は中島敦『山月記』とかになる。ただ、私は怖くて仕方がない。いつかインターネットを彷徨うヤバ・オジサンに自分がなってしまうその日が…。なんなら、この文章を増田に投稿する時点で既に虎でいえばちょっとシッポ生えてきちゃってるような気もする。今やポル・ポトみたいなことを言い出している藤田孝典も最初はまともな感じだったし、元々は学識のある人だろう。反ワクチン界隈の医者とかも最初はまっとうに優秀な人だったんだろうな…と思うと、この「虎になっちゃう」トリガーが何なのかが非常に気になる。中島敦先生、または、はてな諸賢の御見解を賜りたい。
まず前提として、事情も知らぬ一般人に暴言吐くような集団は趣味趣向がどんなものであれ批判されるべきである。
それを含めても「鉄オタの民度が近年から急激に悪化したわけではない」ことが抜けてる人間が多い印象。
鉄オタ側からすればもう彼らの改善は見込めないので、会社側からの規制なり逮捕なりでさっさと排除してくれってのが多数派。
関西最強と称される鉄オタ集団。ネタがある日にJR大阪駅の11番線に鉄が群がることが多いことが語源となっている。
RSEC、鉄道友の会と並び証される撮り鉄集団。軍団員は11歳~20歳が多い。
お - 2ちゃんねる鉄道板用語辞典 - atwiki(アットウィキ)
まだツイッターもスマホも存在してなかったころにこれである。むしろよく当時のマスメディアの標的にならなかったのが奇跡ともいえよう。
さらに遡れば線路乱入は当たり前、架線柱によじ登って撮影したり、車両基地に侵入した挙句感電してお陀仏になったりした例も実在する。
有名なレイルライターでも、部品盗難や不正乗車経験を公言した人物は存在している。
しかしソースは当時の鉄道趣味誌になってしまうので、非オタがそれらを目にすることは存在しない(当時の写真があってもソースはオタクなので取り合ってもらえない)。
まとめサイトが氷山の一角をあざ笑ってたが、本当に氷山の一角なのである。
ちなみに大宮レイプ軍団は動画が残っている。ぜひこちらも参照の元。
こういった土壌の上にヤンキーに憧れるタイプが入り込んで害悪行為をかっこいいと思ってやってしまう。
さらにはインターネットの普及で手軽に拡散でき、逆に同業間で晒すこともできる状況となり、害悪行為が広めやすい、いわば蟲毒になってしまったのではないか。
それらを無視して発達障害が云々言ってる連中が多いのは、私見となるが「アニオタは鉄オタ嫌い」ってのが根底にあるのでは。
同族嫌悪なのか、宮崎勤の際に差別されなかったからなのか、ヒキニートでも見下せるからなのかは知らないが、とにかくアニオタは鉄オタが嫌いなイメージ。
自分は中学高校と鉄道研究部に所属し、自他ともに認める「鉄オタ」だった。
入学祝いに買ってもらったEOS Kissで近場の跨線橋や踏切、駅に写真を撮りに行ったり、北は北海道、南は鹿児島まで、日本全国に撮影旅行にも行った。使ったのはもちろん青春18きっぷ。
同じ趣味の仲間と普段は見れない車両の写真を喜んで撮ったり、北斗星の最終運行を撮りに朝4時から大宮駅に行ったり、部で貸切列車の運行をしたこともある。
だが今は、自分がかつて鉄オタだったという過去すら消したいと思っている。
最近、有名ポイントでのやまぐち号の撮影に関して津和野町からマナー啓発が行われたことに対する撮り鉄の反応が話題になっている。
「二度と行かない」「もう撮らない」はどうでも良い。勝手にしろ。で済む話だが、あろうことか「強行撮影する」「放火する」という過激な意見まで飛び出している。
どうせやらないだろ、で済むならいいんだが、撮り鉄にはたくさんの「前科」がある。
邪魔な草を引っこ抜く、草どころか鉄道会社の設備である柵を引っこ抜く、敷地に立ち入って列車を緊急停車させる。
ワケわからん。お前らが撮りたいのは何なんだ?
F1レースを撮りに来た人は柵を乗り越えてコースに入ったりしないし、航空祭の会場でコーンバーを乗り越えて滑走路まで撮りにいく奴はいない。
何故鉄オタだけなんだ?
撮り鉄の悪いイメージばかりがどんどん大きくなっているせいで、最近では駅でカメラをぶら下げて歩くこと、鉄道車両にカメラを向けることすら恥ずかしい。そういう奴等と同類に見られるのは死んでもゴメンだ。
そう思って撮り鉄をやめたんだが、今にして思えば昔の自分もそこまで行かないにしろ同類だったのかもしれない。
部活の旅行でも、ボックスシートで大声で話しながら菓子を食べ散らかし、無理な乗り換えでコンコースをバカみたいに走ったり、当時の自分がしていたことを客観視してみたらどうかと思う行為ばかりだった。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO56770290T10C20A3000000/
さて、でかい百貨店で感染者が出ました、ってなったとき、一体検査はどの範囲まですればいいのかな
みんなどんな感じに考えてるんですかね
例:
「店の従業員、警備員など、現場で働いている人全員にやるべき」
「監視カメラでも何でも使ってお客さん探し出してやるべき」
「近隣住民もやるべき」
「駅から半径3kmもない距離にあるんだから、大宮駅使ってる人間は何としてでも探してやるべき」
その他あれば見てみたい
https://twitter.com/tachibana1967/status/1240753112039612416
リベの中にも必要な人物だけを検査すべきと言っている人はいるけど
左「全数検査などとは言っていない。必要な人を検査すべきなのだ」
左「その町に住む人全員だ」
https://anond.hatelabo.jp/20191009223759
立憲県連、国民県連
素直な感想は上田側がカオスすぎ。いきなり平沢勝栄から始まったのにビビったが、その後原口河村って何の冗談か。河村なんてトリエンナーレの話してたし。
で、そのあと民主無所属三人組が短く挨拶のあと大野と連合埼玉、立憲と国民の県連。自民も民主も入り乱れてのザ・カオス。主張は実績アピールと知事からの鞍替えでの新人?アピールのみ。
丸山穂高がスピーチ上手くて驚いた。司会役が合っている。おばさんに人気出そう。その後、渡辺喜美が笑いも取りつつぶっこわーす!連発でベーシックインカム等の経済政策をアピール。立花はこれまでの悪目立ちは封印して、正義対悪を全面に押し出してきた。
その後大宮駅前でも演説。印象的だったのは途中でヤジが飛んだ時に、私人逮捕で有名な松戸市議の大橋が突撃?したため、立花が選挙カーの上からかなり強めになだめていたところ。このコントロールは上手い。初日にこれをやったことで今後のヤジトラブルリスクを減らせたのではないかと思う。
ちだい君もレポートあげてたが、彼の思想的に上田を積極的に推せないのでイマイチなでき。
そもそも、今回の補選に何故他党が候補者を出さないのか分からなかったが、一部理解が進んできた。
自民が出さない理由は二つある。一つは二階と改憲で握れているから。もう一つは仮に当選したときに、次回選挙で現職と議席を奪い合いことになるから(ザ既得権益)。