はてなキーワード: 人ごととは
高校時代からの親友という存在。自分のことも、相手のこともすべて知っている…そう信じていました。久しぶりに会って、何気なく貯金の話になったとき、彼は笑いながら「貯金なんて全然ないよ。将来は野垂れ死にかもな」と言いました。その言葉に一瞬胸が痛むほど驚き、そして心配になりました。あんなに真面目で努力家だった彼が、まさか本当に「野垂れ死に」を覚悟しているなんて思いもよらなかったのです。
親友の言葉が頭に残り、家に帰ってから母にこのことを話しました。「彼、貯金がまったくないって言うんだよ。将来が心配だ」と話すと、母は少し笑いながら「そんなわけないでしょ。彼はしっかりしてる子なんだから」と言うんです。その言葉が妙に引っかかり、今まで抱えていなかった疑いが胸に広がっていきました。もしや、彼は嘘をついていたのかもしれない…。
彼の言葉を信じたい気持ちと、どうしても納得できない疑念との間で揺れながらも、ついに親友に内緒で少し調べてみることにしました。共通の知人に聞いてみたところ、親友は実はしっかり貯蓄していて、将来に備えて堅実にやっているという情報が入ってきました。貯金が全くないどころか、自分よりもずっと計画的に生きている彼の姿を知り、心にぽっかりと穴が空いたようでした。どうして、自分にだけそんな嘘をついたのでしょうか。
34歳年収700万の貧困弱者男性として、貯金は3000万しかない自分にとって、親友の「野垂れ死に」発言は人ごとではありませんでした。それなのに、自分が親友を少し見下していたことに気づき、胸が苦しくなります。親友だと信じていた相手が、嘘をついていたなんて、裏切りと感じるのは自分勝手でしょうか。確かに、僕も少し見栄を張って嘘をついたことがありましたが、それでも、彼が僕にだけ嘘をついていたのがどうしても許せないのです。信じていた友が遠ざかっていく虚しさが、今も心に重くのしかかっています。
周りが結婚し始めて久しい。子どもが2人3人の友人も増えてきた。
私も過去お付き合いした人と結婚を考えたことがないわけではない。それと同時に、結婚やパートナーが全てだとも思っていない。
それでも、友人との付き合いの中で、友人といるのにひとりであることを痛感させられることが極めて増えた。
ひとつは話題が合わないこと。子どもの話題になったとき、月齢どのくらいで何ができるとかはむしろ友人たちの子どもと接して詳しくなったが、所詮他人であり二人称で関わる彼らと雲泥の差である。その話題に入るつもりもない。
子どものない二人暮らしの友人であっても、家具のこと、日々のごはんのこと、一人と二人では置かれた状況の違いから同じ地平で話せない場面もある。
もうひとつがでかくて、友人付き合いが基本パートナー同伴がちであること。
家に遊びに行く、飲みに行くとき一緒に来る、もうこれは基本当たり前である。恐らく私が大人数のコミュニティより少人数で人と親しくしてきたことや、割とオープンマインドなスタンスなことにも起因してるという自覚はあるものの、もうパートナーが来ないことが少ない。
オープンマインドだからって、私は今日目の前の友人と飲みながら、追ってるアイドルは相変わらず元気かだとか、今年のクリスマスコフレは何が気になるかとか、そんな話でくだをまいてたいのだ。仕事も忙しくなって話せる日が減ったからこそ、そんなくだらない積もる話をしてたいんだ。
それでもパートナーは来る。ひまだというのに断る理由もない。さすると自然に二人の生活の話や、最近の私の話になる。これは集団で飲んでてみんなパートナーがいるときにもよく起こる。
私の話を求められると、自分の心としては真面目に向き合ってうまくいかなかったような話もすぐネタとして昇華してしまう。むしろ結局人間はゴシップが好きだから、ひとりの私に薄っすらと無意識下にゴシップを求めてる人もたまにいる。そして応えようとなんか頑張って疲弊する自分がいる。
ある種の摂理だと頭でわかりつつ、その友人ごとその日が少し苦い思い出になりそうになるのがつらい。
前にツイッタランドで「『友人は季節に咲く花だ』という言葉がある」みたいなことを見た。人生の置かれている状況が変わり、一時は会わなくなっても、また季節が巡れば会うようになる、的な素敵な言葉っぽい響きに感じた。
きちんと調べたら、これは深沢七郎の「人間滅亡的人生案内」(※以下、"〜"は同書引用)という「話の特集」の誌面で受けた人生相談をまとめた本で見ることができる、"友達というものは花のようなものです。"という言葉のようだ。
その後に続くのは以下のとおりである。
"そのとき、そのときの時季、状態で友達はそこにあるから眺めたり、飾りものにするのです。友達などというものはそのときどきに自分のために存在するのだからそんなものに負担を感じたり、たよりにしようと思うことは悪いことだと思います。"
要は友達は自分の都合で生じる存在だから、気にしすぎず捨てるなり飾るなりすればよいという、まあ突き放した感じだった。けど、そんな捉え方もアリだなって少し気が楽になった。
大事に愛でつつ、でもそれを理由に傷ついたり凹んだり無理したりする必要はない。当たり前っちゃ当たり前だけど、孤独故にたまに違えてしまっていたような気もする。
旧い友人でも双方の認知が一致することなど極めて少ない、人間と関わる限りう〜〜〜〜んという瞬間は尽きない。友人と会うときにこれからもパートナーは同伴率高いだろうが、途中合流にしてもらうとか2人まとめて仲良くなるとか、私の心地よく生きられるよう頑張らないよう努めたい。
エイリアン楽しみにして一番後ろのど真ん中取れたのに隣が老害ジジイ。
白髪の60代くらいのじじい。
風邪ひいてるのか持病があるのか常に席してる。
常に息がゼェゼェいうのが聞こえてくる。
マスク取ったりつけたり痰をティッシュにはいて床に落としまくる。
帰る時みたら30個くらい床に落としてた。気持ち悪すぎる。
エイリアン見ながら痛い痛い、だめだ、ゴーストバスターズみたいとか1人ごとしゃべる。
はぁ、本当ついてない。
人に迷惑かけるなら来るなよな。彼女と見に行ってたからグっと我慢してたけど1人だったらどついてたわ。
実際に映画を見る前には、ポリコレへの反動で受けているらしいと聞いていて。見始めた段階では主人公の少女ライリーの親友二人がアジア系とアフリカ系で、
主人公が憧れるホッケーチームのコーチは黒人、憧れの選手ヴァルも(おそらくは)アフリカ系の混血、チームメンバーにもアラブ系など有色人種が多数なので
実際に最後まで見て分かった。これは紛れもない反ポリコレ映画だ。白人至上主義者に受けるのも納得。
何故ならこの映画全体をもってして、
「白人は有色人種から物を盗んでも許される」「白人は有色人種よりも優れている」「有色人種は正しくなければ許されないが、白人は正しくなくても許される」
といった、白人至上主義的なメッセージを力強く発しているからだ。
話の作中で、主人公が参加した合宿の様子によって高校のホッケーチームに入れるかが決まり、コーチのノートにはその情報が書かれている事が分かる。主人公は夜中に抜け出して、コーチの部屋に侵入してそのノートを見ようとする。
普通はやめると思うでしょ!?実際、主人公の頭の中の感情達は止めようとして頑張っていたし。でも、感情達の奮闘空しく、ライリーはノートの中身を見てしまう。
で、見てしまった以上はその事実を告白して懺悔し、チーム入りは辞退するのかと思いきや……何と特にそういう事もなく、普通に高校に入学しておそらく選ばれたのであろうという所で終わり。
ノートを見てしまった事実は、エンドロールで両親に話そうかと迷う程度で終わり。えーー???他人の執務室に不法侵入して業務用のノートを勝手に見るという行為は、この子にとってその程度の認識なの?憧れの職業の中には最高裁判事もあったのに……?
これって、白人にとって黒人の物(この場合はノートに書かれていた情報)を盗む事ほ何でもないという意識の表れなんじゃないだろうか?コーチが白人でも同じ事をしてたか?
ホッケーは白人のスポーツと言われているらしい。黒人の身で名門チームのコーチにまで登り詰めた彼女の人生にはどれだけの苦労があった事か。
また、主人公の憧れの先輩ヴァルはかつて合宿の最後の練習試合でシュートを2本決めてチーム入りしたんだけど。主人公は練習試合で最低でもそれと同じ2本か、もしかしたらそれ以上のシュートを決めている。コーチのノートでは「実力不足」と書かれており、メンタルがガタガタで、試合中に誤って友達に接触するミスをする程だったにも関わらず。
さらに、話の途中で主人公はそれまでに確立されていた「私は良い人」という自我を引っこ抜き、駄目な部分も含めた多面的な自己を確立させているけれど。
だけどこの、良い子でなくても許されるっていうのがまさに白人特権なんだよね。バッドガールでいても身の危険に晒されないのは、白人の中流以上の家庭の出身で帰る所がある身分の特権。
映画の冒頭でライリーの友達になったアジア系の女の子グレイスは、学校で貧困のための募金活動をしていて小銭をバラ撒いてしまいクラスメイトから笑われている。これって彼女がアジア系で被差別人種の女性だから、当然のように「良い人」でないと生きていけないって事ではないだろうか(そして、それだけ頑張ってもなお笑い物にされる)。
もう一人の友達についても同様。同い年の女の子なら彼女達だって思春期で、ライリーと同じように不安定でもおかしくないのに、作中の二人はライリーの不安定さを親のように優しく受け止めるだけ。思春期の少女同士ならばあってもおかしくはない、対等な感情のぶつかり合いなんていうものは描かれない。
映画のエンドロールにおいてもライリーの両親の頭の中は描かれるが、友人達の頭の中が描かれる様子はない。有色人種の友人ごときは白人美少女の承認欲求を満たすための道具であれば十分、独立した自我など不要、と言っているかのよう。
『インサイド・ヘッド2』は、表面上は人種差別が存在しないかのように見える社会で白人が有色人種を踏み台にして無双する、絵に描いたような反ポリコレ映画だと思った。だからトランプが再度大統領候補になるアメリカで受けたんだろうな。
結局、ポリコレかどうかを決めるのって単にマイノリティを出すかどうかではないんだよね。マイノリティをどれだけ出した所でその扱いが白人の踏み台にすぎなければそれはポリコレとは言わない。
単に有色人種のキャラクターが数多く出ている理由でもってこの映画をポリコレ認定するのは、男性主人公にハイスペックな美女が群がるハーレム作品をもってフェミニズム作品と認定するも同様だろう。
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ハテラボの登録名はNoralemontan、ノラレモンタン、になっていて変ですが、Tanを付けないと、当時のGoogleがなぜかアカウントをくれなかったからです。
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ここには、ある場所の過去ログを溜めていたので、3つずつ載せて行きます。
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https://5502r4gengoka.seesaa.net/
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ブログ記事の中にも、ユーチューブミックスリストのリンクあります。
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発達障害GZ(グレーゾーン) Noralemon見た後のリスト
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6rI5QtoBePzBZK17qNPaYJE9GcZ5pX3v
ここの説明文の過去ログを、ここに3本ずつ置いていきます。不定期です。1~2カ月に1~2回ぐらいにしようかと考えてます。
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ユーチューブに自動設定で付いている『後で見る』を公開しようか考えたことがきっかけで、やはり私が一度以上は見て、健全か、恐くないか心配事を確かめてからが良いだろうと考え、『見た後の』リストと名前を付けました。
通常は10本前後の動画と、説明文を入れ替え、入れ替えしているので、2本目のSNSのように利用しています。
無料、安全、難しい手続きなしで使えるらしいのでね。リストに載せたものの感想や連想や思い出や言いたいことを、書きまくった場所。
その説明文を、全部じゃないけどログを取っておきました。3本ずつ載せます。元の動画、URLがあるものも、無いものもあるけどごめんなさいね。
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●可愛くて笑えて背景にも笑いが仕込んであっていい!
バーみたいなお店のガラス窓の向こうに、映画好きにはおなじみのキャラがしれーっと通行人になって流れていくのよ。このセンスやだ最高ー♪
このゴジラの映画の感想もブログに下書き作成中。すごい真面目な映画よ。
https://www.youtube.com/watch?v=YG7ylJynWKw&list=PL6rI5QtoBePzWlf2h_F2H8EzTP7hhmD9e&index=74
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でも、本気で悩んでる側の人いたらごめんなさい。人ごとながら、イタイタしい……病(やまい)が重いということで、なにか自己ケアしてあげたほうがいい気がするのですが。新幹線が通るようになったらね、雪国には湯治場所がいくつもあります。たぶん若者にあまり会わないから、❝だれか仲良しがいなければならない恋愛強迫レース❞ から距離を置けると思うのですが。雪国の地方のほうのホテルや旅館のスタッフさん、優しいですよ。すごく遠くから、寂しそうに独りで来たら。適度にそっとしてくれるし。高齢者スタッフさんでなければ、方言や訛りもあんまり無いよ。
https://www.youtube.com/watch?v=pESdN20ktl0&list=PL6rI5QtoBePzWlf2h_F2H8EzTP7hhmD9e&index=73
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ブログのほうで、これから観たい映画をズラズラ並べた記事を下書き中なのですが、下書きに入れたばかりでした。上映終わる前に早く観たいですね。
https://www.youtube.com/watch?v=np63Dq4Wgrs&list=PL6rI5QtoBePzWlf2h_F2H8EzTP7hhmD9e&index=69
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☆追記あり
これ見て諸外国ではどうしてるのか気になったので調べてみた。
法務省のHPをみたら“夫婦のいずれかの氏を選択しなければならないとする制度を採用している国は、日本だけです。”
と書いてあり、そこまでだったのは意外。
Q12 外国における夫婦の「氏」に関する制度は、どうなっているのですか。
⑴ 夫婦同氏と夫婦別氏の選択を認めている国として、アメリカ合衆国(ニューヨーク州の例)、イギリス、ドイツ、ロシア、
⑵ 夫婦別氏を原則とする国として、カナダ(ケベック州の例)、韓国、中華人民共和国、フランス、
⑶ 結婚の際に夫の氏は変わらず、妻が結合氏となる国として、イタリア
があります。
https://www.moj.go.jp/MINJI/minji36.html
(ページ一番下から2番目)
また別で調べたところアメリカ、イギリス、ドイツ、中国、トルコは苗字が2つになる複合氏(姓)というものも選べるらしい。
著者名が変わってしまうと不利だから、論文発表するたびに離婚して終わったら再婚してるという例があるのは知っているが。
諸外国が軒並み別姓選択可能となると、他の仕事でも外国と関わる仕事は困る例は色々あるのだと思う。
子供の氏について
アメリカ…憲法上は子の氏に規定はなく、ケンタッキー州ではどのような氏を子につけてもよい。ジョージア州では子の氏は父母いずれか、またはその複合氏に限られる。ルイジアナ州、テネシー州では、子の氏は原則として父の氏とするが、両親の合意の上変更可能である。アリゾナ州、ワシントン州、マサチューセッツ州では、氏の長さの規定がある。テキサス州ではアクセントやウムラウトなどに制限がある。ニュージャージー州では公序良俗に反する氏は禁止されている。
中国…選択制だが伝統的に父親の氏が用いられる。最近では苗字に父親の氏、名前に母親の氏をつける例も増えている。
フランス…父母のどちらかか、両者の氏をハイフンでつないだ複合氏を選択可能にしている。夫婦が子の氏について一致できなかった際は父母の氏のアルファベット順の結合氏となる。2022年に、いかなる者も一生に一度、自身と氏の異なる親の氏に変更、あるいは自身の氏のその氏を追加することができるようになった。
ドイツ…子の氏に関しては、親権が父母それぞれにある場合には、どちらの氏とすることも可能であるが、子一人ごとに氏を変えることはできない。複合氏はできない。離婚しても子供の姓を変更出来ない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E5%A9%A6%E5%88%A5%E5%A7%93
なんだか思ったより色々選択肢があって興味深く読んでしまった。
☆追記
読んでくれてありがとう。
複合氏(姓)自体ピンとこない人もいそうなので、調べた範囲内で説明すると
鈴木-田中というようにハイフンで繋いだり、ハイフンなしで繋いだりするもので、国によって種類があるそう。
名前の部分も国によって前に来たり後ろにきたりらしい。
トラバに両親とも複合氏(姓)だった場合、子供の氏が長くなりすぎるのでは?という疑問があって、これも少し調べてまとめたので興味があれば。
https://anond.hatelabo.jp/20240623161906
同氏、別氏、複合氏についてもっと様々な国による違いを知りたい人のために(いるか分からないけど)読みやすいまとめがあったので載せておきます。
Wikipediaが情報源だけど直接読むよりこちらの方が読みやすいので。
住んでいたのは都市近郊のベッドタウンで、地下鉄と路線バスを利用して生活していた。ジャームッシュの映画『パターソン』はアメリカの路線バスの運転手が主人公だが、そんなバスの話。
地下鉄駅までのバスは1時間に2本しかない。家周辺は治安が良いエリア(つまり金持ちが多い)であるためバス利用者は少なく、乗客はほぼ貧しい人たちだ。お金持ちの家に通うお手伝いさん、店舗の従業員、そんな感じ。白人はほとんどいない。
そんなバスにかける予算は少ないのだろう、運転は荒く、遅延どころか早発もよくあること。『パターソン』のような牧歌的な雰囲気は全くなく、非常に匂う客がいたり、車内は常に小便臭い。
駅周辺は、治安が良いといわれるエリアでも例外で、スリやスマホ強盗がいる。バスターミナルに綺麗な身なりの人はおらず、くすんだ色あいの薄暗いロータリーは、電灯も少なく所どころ天井板が垂れ下がっている。
ある日ターミナルで、通りがかる人ごとに「ティッシュをくれ」と頼んでいる男性がいた。身なりは貧しい。私も一旦通り過ぎたが、彼が「どいつもこいつも冷たい奴らだ」と悪態をつくのが耳に入った。
トイレに困っているのだろうか?駅にトイレはなく(乗客には使わせない)、公衆トイレもないので私も苦労することがある。ふとカバンに日本のポケットティッシュがあるのを思い出し(日本ほどポケットティッシュは身近なものではない)彼に渡した。
間近で見ると、汚れた帽子からはみ出したちぢれ毛は白髪が混じり、黒い肌に刻まれた皺は深い。彼は私の手を取って感謝し、左手に指輪がないのを見て「結婚してないなら付き合ってくれ」と手の甲にキスした。意外なほどに唇の感触は柔らかかった。
適当にかわして立ち去ろうとすると、ナントカという名前でYouTubeをやっているから見てくれという。来たバスに乗り込み、彼が追いかけて来ないのを確認してホッとした。
【追記】
そこまで伸びてないが追記。
他人の褌ではあるが、本紹介なら任せてくれ。
ブコメで俺を叩いてる奴は大きく2種類見られて、
前者はまあ、できるだけ好転して欲しいと神に願うばかりだが
後者は人ごとなのに誰も幸せにならない悪口を吐いてなお健全に生きられるの羨ましいな。
一応サンプル紹介、厳選3つ
・食べものは、本当に「おいしい!」と感じるものを食べるようにします。
「頭」で食べないで、「からだ」で選んで食べるようにします。できれば、できたてのもの、手づくりのもの、旬のもので「おいしい!」と思うものを食べます。
・可能なかたは、ぜひマッサージに通ってください。できるかぎりでよいです。
・しょっちゅう鏡を見ます。そうして、慈愛に満ちた顔で、じっと自分の目を見て微笑みます。これは気づいたらいつも行います。
俺が叩かれるのは平気だが、服部みれいさんにご迷惑がかかったら困るな。
まあ、こういうのは騙されたと思ってやってみることが大事だと思う。
【本文ここから】
俺の経験談からすると、自分を大切にする、というのがファーストステップかな。その過程で人間扱いという概念が理解できてくると思う。
まず反出生主義には、アンチ「出生主義」と、「アンチ出生」主義の2つがある。
そして日本語の「主義」という言葉自体に大まかに「国家や地域の運営方針」「個人もしくは集団の主張・思想」の2つがある。
の2つが存在するわけだ。
そしてこの2つも別に「子供を沢山増やすと国家がたち行かないぞ(一人っ子政策)」 「人間が存在していることが間違っている(ある主の原罪思想)」の2つだけという訳じゃない。
特に主張や思想は多岐に渡り「人生で得られる幸福を不幸が上回ってるから産まれてこない方がマシ」 「セックスはキモいからこんなことをするぐらいな滅んだほうがマシ」 「親ガチャ時代ガチャといった理不尽を子供が許容できる事前承認も得てないのに生命を作るな」 など個々人ごとの多様な考えが展開されている。
そしてこれがアンチ「出生主義」になると出生主義自体をどういうものとして捉えるのかについての議論が始まり更に状況は混沌とする。
なぜなら「出生主義」自体が上にあげた「アンチ出生」主義の様々なパターンを持っていうえに、それに対してアンチテーゼや対立政策を投げかける理由もそれぞれで違うからだ。
つまり、「A」を批判するために「B」を持ち出すという状況における、「A」「B」の中身がそれぞれいくらでも存在しており組み合わせ無限大状態なのだ。
「反出生主義」と一口に言ったときに、それが何を意味しているのかを整理しなければ全く別のものについて皆で議論することになるわけだ。
こんなのは「田中ってヤバいよな」といきなり語りだして、どの「田中」を指しているのかを誰も確かめることなく延々語り合うようなものだ。
話す内になんとなく「あれ?俺の考えてる田中と違うんじゃね?」と違和感を覚え、確かめてみたら結局全員が違う「田中」について愚痴や擁護をしあっていたという虚無空間が誕生する未来は確定事項とさえ言える。
マジで、何度でも言うが、「反出生主義について語りだすときに、その反出生主義の内訳を最初にちゃんと定義しないやつは相手にする価値のない馬鹿と断じてしまって問題ない」が現状だ。
妹の誕生日にどこかに食べに行こうかという話になったのだが、私はその選択肢に食べ放題を挙げることに賛同し難い。食べ放題というシステムが個人的に嫌っているというわけではない。むしろ自分の好きな料理だけ、自由にたらふく食べられるし、欲望に塗れた和洋中と料理のサラダボウル(アメリカ?)と化した自他の皿を見ながら食事にできることが長所だなあ考えている。お祝い事というのは会話などのコミュニケーションで会食ベースな雰囲気であることでお祝い事の機会となるのではないか 会席料理だとかフランス料理は、(私はまだ人生で数えられるほどしか経験したことがないけれど)、皆が同じペースで食事を進めていく丁寧さ、献立に料理長の名前が書かれるのが小説作品に作者の名前が書かれるようなストーリー性と感情を帯びていて、こういう機会にぴったりの選択肢ではないかなあと考える。結局のところ私個人が食べ物に研究的になって嘆美を見出すことに楽しさを感じているだけだなあと 食事ってその人のバックグラウンドとかでその人ごとの普通の基準があるから面白いね〜
パン工場で働いてた60代女性が事故死したニュースを見てつらい思いをしている。
自分のところは労災で死んじゃうとかはないけど、全然人ごとじゃない。
自分のいのちが会社という、単なる金儲けが目的の、全く血の通ってない、そんな組織に依存しているっていう事実が恐ろしい。
女性の社会進出が進んでる以上、勤めている企業に加害される女性が増えてくるのは流れとしてあるだろうし、
今の「転職すればいい」とか「運が悪かったね」みたいな空気はセクハラ被害者が受ける仕打ちと同じだし許せない。
そもそも企業による労働者への加害が起きないようにするには法律とか権利とか仕組み作りだけじゃ駄目で、
なんでかというと法律に反して無いからセーフみたいな表自みたいなことをやってるのが今の企業だからで、
フェミニズムを労働の方向にも進める感じで、人々の倫理観に訴えかけて弱者である労働者を尊重し、企業の振る舞いをみんなで監視して、みんなで声を上げてくような世の中にしていかないと駄目だと思う。
「女の方が得だよな」でも実態は逆ですよね…男の自覚なき特権とは
https://www.tokyo-np.co.jp/article/90239?dicbo=v2-52br3Wy
―男性である清田さんがそれに気付くことができたのはなぜですか。
僕自身もおおむね「標準」の男性として生きてきて、特権を無自覚に享受してきた側だと思います。
なのでまったく人ごとではないのですが、たまたま大学時代に始めた、恋愛の話を聞くユニット活動を続けてきたことが、ジェンダーの問題を考えるきっかけになったのは事実です。われわれのところに恋バナ(恋愛話)をしに来る人の95%が女性かつ異性愛者の人なので、必然的に「彼氏が」「夫が」という悩みをたくさん聞くことになります。
たとえば謝らない、話を聞かない、すぐ不機嫌になる…。
そこで、ハッとさせられました。
ハッとさせられる構文だけども
ここで出てくる「謝らない、話を聞かない、すぐ不機嫌になる」ってのはさ
女の側も普通にあるわけよ
ここで
私は不利益を被っている
私は不当に扱われている
って外に零せて
実際そのように思って暮らせるのが「女の方が得だよな」なんだよね
昨今はこのような事を吐露する男も増えたし
そうして、個になった時は、男の方が外聞の面でも生きやすいとは思うんだけど
「女の方が得だよな」って言われる背景は
寿退社って男は出来ないじゃん
松本関連のニュースで、文春は払えるのか、女性側は責任取れるのか、二毛作、これだから女はなどぶつぶつ私に文句を言ってくる。旦那はアンチフェミである。ガレソや暇空をフォローして勝手にイライラして私に意見を求めてくる。ちなみに発達障害のサイコパス型である。人の心はわからない人間である。
私は職場でパワハラを受けて10年経った今、ようやく弁護士に相談することができたし、時効が成立していて何もできない悔しさを抱えている。
当時どうして何もしなかったのか、自分の心も体も疲弊して精神科に通うしかできなかった。
労基や裁判で争うなんて頭にもなかった。とにかく仕事ができない自分を責めていた。
だから、松本の件を訴えた女性に対し人ごととは思えない。そんなにすぐに警察とか裁判とかできるはずない。時間が経ってから、あれはおかしかった、と気がつくことがたくさんある。