はてなキーワード: 通知表とは
とは言ってもネグレクトまではいかない。超手抜きの最低限の炊事、洗濯、掃除はしていた。
自分が幼稚園の頃から共働きで、両親ともに帰りは夜中。自分が家を出るまで、平日の夜は3つ上の兄と二人だけで過ごすのが普通。寝ろ、という大人がいないので、小さい時から24時くらいまで起きているのが普通。11PMとかよく見てた。
料理は超適当で、白飯、インスタント味噌汁(あさげとかそんな高級なやつではなく10個入り100円とかの不味いやつ)、何かを炒めたものに醤油をぶっかけたやつ、が定番。白飯の炊き方は昔ながらの、適当に米を入れて研いで手を置いて手首まで水を入れるやり方だったので、固かったりビショビショだったりでまともに炊けたことがほぼない。しかも1升くらい炊いて4、5日もたすから後半はご飯が黄色くさらに不味く臭くなってる。
食材の管理も適当だったので、何度も食中毒で救急病院に行った。その時に車の中で父親が苦悶する自分に対して「吐いて車汚すなよ」と言ったことは今でも良く覚えている。中3の時に体育の授業で骨折した時は心配するより先に「大事な時期に何やってるんだ!」とまず怒られた。子供の生育には興味のない親だったが、中学に上がってからは通知表の数字にだけは関心があったらしい。
部屋掃除は月に1度あるかないか。風呂、トイレ掃除は年に数回。洗濯は最終的に自分の分は自分でするようになった。
「風呂入れ」と言われるのが週に1回くらいだったので、風呂入っていいのは週1(それ以上は贅沢)と思っていた。普通毎日入ると知ったのは中学生になってからだ。だから下着も大抵1週間は替えなかった。
親は学校行事にはほぼ参加しない。運動会だけはさすがに来ないと世間体が悪いのか、一応11時くらいに来て、会場から遠く離れた誰もいないところに陣取る。当然見てなどいない。一応カメラは持ってくる。フィルムは入ってないけど。
どこかに遊びに連れて行ってもらったことはない。せいぜいあるのは祖父母の家だけで、しかも着いてから特に何のイベントもないので、とにかく暇だった記憶しかない。人生で最初の遊園地は、高校の修学旅行で行ったディズニーランドだ。
そんな家庭だったので、家には帰らず友達の家に入り浸っていた。おそらく友達の親も可哀想な家庭の子と思っていたのか、良くご飯をご馳走してくれた。悪い仲間もいたが、成績優秀なアニオタ仲間もいた。最終的に、アニオタ仲間といたほうが面白かったので、悪い仲間とは遊ばなくなりひどいグレ方をせずには済んだ。そのアニオタ仲間と同じ学校に行きたくて勉強を頑張り、高校、大学はアニオタ仲間と同じ進学校に進むことができた。
前向きに楽しく生きることを教えてくれたのは間違いなくそのアニオタ仲間だ。そいつらに会わなかったら、今自分はクソみたいな人生を送っていたか、とっくに自殺してたと思う。
自分が大学生だったある時、母親が電話で子育てに悩む友達の相談に乗っているらしき会話を聞いた。「子供はほっとくのが一番なのよ〜」と得意げに語っていた。さも、こうして私は子育てに成功したと言わんばかりに。
違う、それは違う、今の自分があるのはあなたの功績じゃない、あなたは何もわかっていない。
ひどく腹が立った。
高嶋ちさ子さんの子供たちも、子育てに関して得意げにツイートしたり新聞に寄稿したりしている自分の親に対して今そう思っているんじゃないかなと思い、自分の過去をなんか思い出したので記念カキコ。
家族にダイエットするって公言してたらラウンドワン的なところに連れて行ってもらえました。
人生で初めて行きましたよ、ああいうとこ。その場の全員がリア充っぽいオーラ発散しててびびった。
そしてデブが私しかいなかったよ。悲しいぐらいに私しかいなかった。
関節等に負担かけないように比較的運動量が少なそうなスポーツってことで、卓球をやりました。中学の体育以来だったのかも。
始めた当初は2ラリー未満ぐらいで取りこぼしたもんだから球拾いが辛いのなんの。汗だくでした。私一人だけ。
やってるうちにだんだん慣れてきてラリーを続けられるようになり、小一時間経つ頃には駆け引きめいたことも少しはできるようになりました。
もちろん相手の手のひらの上で転がされてただけなんですが、我ながらなかなかの上達スピード。
思えば通知表の体育の成績は常に1とか2とかだったけど、アラサーにして新たな才能が花開いちゃったかもしれないです。
卓球って100m走るのに24秒かかる人間でも戦えるやつかな?
そんな訳で楽しく運動させてもらったんですけども、ダイエット的にはちょっとアレだったかもしれないですよね。
中二になる息子がいるんだが成績が良くない。通知表は2と3ばかり。
ちゃんと学校にも行っているし、週一で塾にも通ってる。
でも定期テストで30点とか40点とってくる。
自分が中学生の頃を振り返ると、学校に行って授業受けて宿題やってテスト前に復習して、
特別なこともせず普通にやってればどの科目も70-100点は取れて通知表は4か5だった。
俺と息子で何が違うんだろう。
高校受験までに成績が上がって、高校・大学と進学してくれればいいとは思う。
なぜそう思うかというと、可能性が広がるから。仕事の選択肢が増えるから。
それが一番の希望。
でも偏差値高い大学を出たから必ずしも幸せな人生になるとは限らないんだよな。
勉強のことをうるさく言いすぎて、息苦しい家庭にはしたくないし。
どうしたもんやら。
大学生の間に私は成長したのだろうか。 生まれたときから世界には完璧という概念が存在しており 人間が人間であることを放棄しない限り、人間は成長することはないと思っていたので 成長という表現を聞いたときは不快感がずっと存在しておりました。 私の頭の中は、相対評価ではなくて絶対評価であっても、小学生のときがピークでして それから10年以上、ずっと退化するのに耐え抜くだけの時間を過ごしました。 中学受験塾という環境で過ごして、中学受験をしました。 入学した学校は、とある物差しでは関西で5番目くらいの学校 希学園の偏差値表で、灘が63、東大寺が61、甲陽が59、洛南(併願)が58、大阪星光が55 (当時は西大和は52、今はもう少し大きな数字だと思います)(女子は神戸女学院が54) 星光の入試配点は国語120数学120理科80社会80の(傾斜)配点で、合格最低点は7割 7割というのは高い方(6割が平均的)で、得意不得意が日本一レベルだった私には無駄な難関でしかない。 母数のレベルが低いテストによる合否判定は、得意不得意が異常な私は生涯を通して最高でもE判定しか出ないシステムであり 私は当時からその仕組みが理解できたけど、まわりにいた無能たちはそれすらも理解できなくて話が通じることはありませんでした。 そしてその成績の私には、言及するには心理的抵抗が大きかったのですが、灘や甲陽の配点は国語200算数200理科100で合格最低は6割 私の心の奥底には、星光よりも灘の方が簡単ではないのか(妥協して甲陽)と思ったこともあったのですが 灘も甲陽も兵庫県で、非常に残念なことに星光は家の近所にあるという環境の違いもあったりしまして。 当時の私のテストの答案はいつも同じでして 算数は冒頭から順番にすべて正解、一番最後の問題は時間切れ。テストは毎週ありましたが、計算ミスもしないのですべてがその結果になります。 社会も冒頭から比較的には正解率が高かったのですが、正解に自信が持てないので非常に時間がかかり、100点中後半50点ほどは常に白紙での提出でした。 理科は物理と化学は算数に同じ。生物と地学は興味がなかったので社会と同じ。 国語は文章問題2題が多くて、いつも片方しか読む時間がありませんでした。そして常にクラスで最下位。塾全体の公開テストでも下から数人目。 公開テストは600人ほど受けていて、上から10位までは名前が公開されます。(科目ごと+3科目合計+4科目合計) 当時4科目合計で名前が載ってた人は、国際科学オリンピックでメダルをとっていたり、当然のように東大医学部に行ったことまでは把握しています。 そして名前が載るのは「S1クラス」という能力別クラスでの1番目のクラスばかりになるのですが、 算数で時間が足りたことがあって、そのときに「H1」という平均以下のクラス所属で私の名前が載ったことがあります。 すごくどうでもいいですが、能力別クラスでは定期的にクラス替えが行われるのですが、私の成績が算数はクラストップ、国語はクラスビリで安定していて 「H1」という所属クラスってふつうは変動するのですが、なぜか入塾時から小6の途中まですべてH1のままで動くことがありませんでした。 小5までは谷町九丁目教室ではS1からS5とH1からH3、小6からはS0からS8とH1からH6でした。つまりH1っていうのは偏差値では50以下です。 なので志望校として決定されるのは星光になるわけですね。また星光合格者の中では、私が一番下のクラス所属でした。 自分の記憶力が残念なので想定外に長くなりました。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 さて、小6の3月から2年間にもなる長期間、虐待の日々がはじまりました。 その結果、定期テストの前に、勉強するということもしたことがありません。 中3の時の、通知表の成績は、高校への内部進学の基準になります。 全科目の平均が60点が条件で、テストの点数そのままが通知表の点数になる科目もありますが、 平常点を用意したり、救済措置を用意して下駄を大量に用意すう教師もいます。 学年人数は200人で、毎年学校を追い出されるのは10人とか。他の学校よりも多いと思います。 中学受験での話を想定外に長く書いたので、少しここは省略します。 日本語を話してくれない教師への反発もあって、中3での通知表成績はビリから2番目の人(50よりは上)よりも10点くらい下です。 T野(体罰数学教師)の数学で、一番はじめて満点を達成したのは、M君ではなくて私だったりします。 名前が汚いからという減点は毎回受けていましたが。 英語のS水(中1中2での担任)も相当無能でゴミだったし、 国語の学年主任(中3での担任)もゴミだった。愛のかけらなどどこにもなかった。 テストのために勉強する、という行為はしたことがなかったですが、テストの最中は中学受験時代での私の哲学をただただ耐え抜く日々でした。 そして、私の中には中学受験での自己評価をもとにした学力観というものがありまして 勉強したと言えるような時間は、授業中に教師が答える前に自分の脳内で答える予習的学習と テスト時間中における、問題作成者との、問題を通したコミュニケーション、その2つだけ。 私は私自身の美しい過去を尊敬しており、またそう言えるためだけに命をかけております。 信じるかどうかは好きにすればいいと思いますが、勉強したと言えるような時間は上記以外には特にないまま 高校入試を受験するみたいでした。(受け身) 甲陽の高校入試の配点は英語200数学200国語200理科150で、合格最低点は脅威の5割。 西大和の高校入試の配点は忘れました5科目で、合格最低点は7割。 西大和の高校入試の数学はレベルが高くても小6レベル以下の問題でびっくりしました。(過去問とかも知らない)計算用紙にポエムを書きました。(計算用紙も提出です) そういえば、テストの最中にはテストに向かい続けるという呪縛を本当に無駄に守り耐えてきたのですが さすがにあれなので、問題用紙に脳内ポエムを絞り出す習慣が発生していました。 私の問題用紙に書かれた脳内ポエムの絞り出し、見たことある人いるでしょうか。 その一部は高校時代にやっていたブログに模写投稿されていたりします。 といいますか、私は言葉から行動に移すような経験が一切ないと思います。 国語という科目が全くわからなくて、表現能力は障害者でしかないのです。 表現というものに、全く価値を感じる機会が今までずっとなかったのです。 (相手の意思とは関係ない)教えてくれる人間が自分視点の環境には存在しなかったってことです。 この世に信頼できる人間が1人もいなかった。 そうすれば、こうなります。 存在する存在空間の、表面結果が表現されるだけで、それだけでしょ。 伝えたいと本気で思える人間が私の前に現れることがなかった。 脱線しましたけど、西大和は不合格になりました。人生初の不合格です。計算用紙になんだこの数学はアホかやるきあんのか、って書いたのが相手を激怒させたのかもしれません。 入試の科目で満点とれてるのは西大和の数学が人生初だと思う。(大学入試では同志社物理とセンター物理が満点。センター物理って小学生でもry) (大学入試数学は私は全く訓練がされてないので、同志社レベルでさえ時間足りないです) そして、甲陽おちた場合、出願は2校しかしていないので、いく高校がないです。 けど合格してた。勉強して合格したわけではないので、何も感じなかった。 自分の人生は他人事で、どうでもよかった。 人は過去を美化するという表現を見かけることがあります。 この表現の意図はこうです。 そんなわけがない、人間をなめるな。しかしすべてを説明するのは一生かけてもできない膨大さ。情報を努力して絞り、本質的な情報を簡略に表現する意図がある。 人間が人間であるための努力だ。 そして過去が存在しない人たちからの言及をそらし、内心ほくそ笑むための表現です。 人間であることを放棄した人が、人間を舐めるな。 人間は、人間を人間だと信じている人たちだけで暮らせばいいです。(そう信じることしかできないんです。) 脱線の方が長くなってしまいました。ごめんなさい。 高校。高3で人生で初めて、通知表に0がつきました。 英語の定期テストで選択問題が初めて0問で、(授業でやった)東大京大等の英訳和訳問題のみだったのです。がんばったけど0点でした。 けど留年とかされても高校にとって迷惑になるので、卒業という形で平和に追い出されました。 中学では宿題をだす教師はいて、平常点が存在しました。 高校では宿題をだす教師はおらず、自分で勉強する人たちが自分の意志で医学部とかにいってた。 東工大の大学入試の配点は理数系が68パーセントで、合格最低点は忘れました。(ふつうの東大生であれば英語国語0点にしても東工大には合格する程度の合格最低点です) ちなみに早稲田理工は理数系67パーセントで慶応理工は70パーセントです センター試験本番は現役時が47パーセントで、物理に関しても波長って何?λってなんてよむの?らむだってなに?って思いながら知恵とセンスを絞って問題に正解してました。 浪人した時は、波長とはなにか、λがらむだってよむんだって知りました。 一切の本も読まずに、微分とか極限の解釈でただ単に考え事をしていたら、テイラー展開って表現されているものが発見されました。 数学は自分で問題をつくって遊ぶことしかしてなくて、浪人時代の1月も2月も一回も過去問とかやらずに 自分で問題つくっては遊んでました。 (1)30!の一の位は0である。ここから始めて十の位百の位と順に左に見ていく。最初に0でない数字が現れるまでに連続していくつの0が並ぶか。 (2)(1)において最初に現れる0でない数字を求めよ。 (3)ここで「n!は10^kの倍数である」これをみたす自然数kのうち最大のものをpとしてf(n)=10^pとする。このとき以下の数の一の位の数字を求めよ。 (イ)100!÷f(100) (ロ)100000!÷f(100000) (4)100兆の階乗を10進法で表示したとき右から数えて25兆番目にある数字は偶数であるか奇数であるか調べよ。 問題を読んでほしいためこのようにしてみた →方法論は省略して 100兆(10進法)=101101400兆(5進法) 100兆!÷10^(25兆-2)≡2^(25兆-2)×4!1!1!1!1!≡6 …□6が4の倍数なので□は奇数です 普通の電卓を使用して 2の常用対数の小数第10位の値を求めよ。 とかに関しては、あるごりずむとかいうやつっぽい。 AA>Bと同値はA>√BまたはA<-√BまたはB<0(A実数)または-√(-B)<Ai<√(-B)である。ではAA<Bは? とかに関してはすうがくっぽい。 大学に入ってからも痛感しますが、勉強したことがないので、勉強のやりかたが全くわからない。 環境というものは目には見えない力なのです。 クソみたいな社会に適合してたまるか、という環境も世の中には存在します。 社会に適合化された言葉を使ってしまうのは屈辱でもあります。 なにが世界を破綻させているのか。それは現実主義者の存在です。 「数学に対する価値観は、誤答を解答として提出したのであれば死刑にすべき」 の意図している意識が共通認識となれば、世界は平和になるのではないかと思います。 共通認識と共通認識における努力さえあれば、別に死刑にする必要はないです。 いつかきっと、人類が私の意図を理解することができればいいなって。 おなかがすきましたね。 http://anond.hatelabo.jp/20140617174318
俺は高専行ったから通知表のようなものは無くて、単位取れたかどうかだけ書いてあるやつだから高校がどうなってるかは知らんのでその高校での話はなんとも言えんが
今時、手書きの通知表ですか?
申し訳ない。本当に日本ですか?
80年代後半、高校生だった自分はプリントアウトされた通知表貰ってたんで。(つーか、成績管理システムが印字してた代物だから、Excelがどうとか言う次元では無かった)
都会はどうか知らんが俺の地域は通知表といえば手書きに判押しだ。
だから俺は提案した。「通知表をパソコンで打てるようにしましょう」と。
「おおいいね。来年度からやってみよう」とすんなり決まると思っていた俺が馬鹿だった。
「うーん、ちょっと難しいな」
「え、なぜですか?」
「手書きのぬくもりがさぁ」
「え?」
ぬくもりって何?
まぁ確かに、お手紙とかでも手書きの方がなんだかいい気がするのはわかる。
まず労力。PCでぱぱっとやっちゃった方が失敗を気にする心配もないしぱぱぱっと打ち込んでいける。
全然労力が違う。
それはなぜか。
だいたい俺みたいな新人ちゃんは、書いたら先輩に見せる。
それで誤字脱字はもちろん、おかしな表現がないかチェックしてもらう。そこで教師独特の表現技法を学ぶんだ。
それが済んだらだいたい清書をする。
ここが大変なんだが、書けたら校長に提出。
そこで問題が発生する。
先輩先生のチェックはかろうじてくぐりぬけても、校長チェックにひっかかる文章がある。
でも、もうすでにボールペンで書き込んであるので書き直すには全部いちからやり直し。
1学期ならまだしも、2学期3学期なら保護者の判子もあるから一からなんてまず無理。
それがPCだったらどうか。
最終原稿が上がって校長チェックを受ける。そのとき何かまずい文章があれば
「ここ直してよ」
「了解です」
で済む。
いろんな目を通すので文章のクオリティが上がる。
それなら下書きの段階で見てもらえばいいじゃないかという意見もある。
確かにそうだが、俺のような新人ならともかく、ペテランになってくるとあまり人に見せず自分だけで仕上げてしまうことがよくある。
家に持ってかえって(本当はダメだが)仕上げてくる。
調べてみると小学校で通知表のデジタル化に取り組んでいる学校はたくさんある。
コンテストなんかもやっている。
大概のPC通知表はファイルに紙を差し込んでいくタイプになっている。
そこに通知表だけでなく、学校でもらった賞状などをはさんでいくことができる。
卒業したとき、通知表や賞状が1さつの本になっている仕組みだ。
これは子どもたちに大変好評らしい。
その唯一のデメリットも成り立つか怪しい。
ただでさえ教師は多忙で自殺者もでるくらいなのに、もうちょっと労力を削減する方法をとってもいいと思う。
好きで残業するヤツは別として。
学校現場の中でのぬくもりという言葉は、「子どものため」という言葉と同じぐらいずるい言葉だ。
枕詞にそれをつけるだけで、ほとんどの行動が正当化されてしまう。
そう言われた頭ごなしに怒りにくい。
ぬくもりも一緒。
このタイミングで「ぬくもりが・・」と言われたらも言い返せない。100対1でも負ける。伝家の宝刀。
ずるい。
本当にずるい
でも俺は断固として通知表ワープロ打ちを推し進める。誰が何と言おうと。
学級通信でさえ、昔は手書きだった。古い先生に聞くと「ガリ版というのがあってね」と話しだす。
だが今はどうだ。ワードや一太郎(←これも教育界の特徴)で作ってるじゃないか。
手書きしている人の方が珍しがられるくらいだ。
それに小学校以外、つまり中学校や高校ではもうほぼワープロ打ちだ。
ぬくもりが何にも変えがたいかげがえのないものなら、50年後100年後も手書きでしろよ?
それくらい覚悟を決めてつかえよ、ぬくもりを。
周りが始めたから始めたとか言うなよ。
http://anond.hatelabo.jp/20130120121044 発達障害と認定されても何も変わらなかったを書いた
発達障害持ちのにきび跡、肌荒れ酷い、不細工、腎臓疾患持ち、身長170cmどまりの超低スペック高校1年生です。
病院でもらったステラトラという薬を毎日飲んでいますが何か変わった気はしません。
前回の増田で「世の中の発達障害の定義が広がりすぎているだけだから気にしなさんな」というアドバイスを何件かいただきました。
小さい頃から箸の持ち方がおかしい、文字が汚い、自称進学校で成績は底辺、ノートを取るのが苦手、小学校の通知表のお片づけの欄は6年間ずっと△だった、靴ひもが今でもなかなか結べない、通学鞄がプリント、文房具でぐしゃぐしゃ、自分一人で勉強できない
自分の気持ちの中に単なる無能なバカより発達障害の方がまだマシという気持ちがあるのかもしれない。
発達障害だとしても何も変わらないはずなのに
発達障害と認定されたにきび跡、肌荒れ酷い、不細工、腎臓疾患持ち、身長170cmどまりの超低スペック高校1年生です。
代わりに診察室に母親が診察室に入ってWAIS-IIIという知能テストの結果の説明をし、ステラトラという薬の処方せんを渡して診察室から出てきた。
WAIS-3の結果は前に増田で書いた通り
処理速度IQ96
と書かれていた。
医者は母親に僕は物覚えが悪く、これをこうやってこうしろと説明しないと出来ないよって言ったりしたらしい。
その後母親は発達障害の事ではなく息子は普通よりもIQが低いと大騒ぎした。
やっぱり家庭教師沢山つけても出来ないのはIQが低かったからなのか
だとか
だとか
僕が無能な理由は分かった。
しかし、発達障害と判明してこれからどうすればいいのかは医者から自分には何にも言われてない。
どうすればいいんだよ、、
追記
病院ではWAIS-III以外に母親への聞き取りも行いました。
僕は小学校の時の通知表の整理整頓の欄はずっと△だったし、箸もしっかりと持てない、紐もあまりうまく結べない、ノートもしっかりと取れない。
音楽とかもそうなんだけど、技能教科って基礎からしっかり教えるためのものじゃなくて、世の中にはこういうものがあるんですよって体験させるためだけのものなんだよね。
基礎からやりたければクラブチームとか絵画教室とか書道教室とかスイミングスクールとかに行けっていう事なんだと思う。
で、俺の意見としては、体験させるだけにしては授業時間が多すぎ。あと「体験」と「評価」はそれほど相容れるものでもないので通知表に載せる必要なし。
運動の習慣ですらそのやり方を教えないからね。学校は。筋トレならこういう種目をこういう器具を使ってどういうタイミングでどのくらいやっていくのか、とか。基本的に教えない。
「学生は勉強が仕事だ」とか「いい成績をとってればそれでいい」とか言うくせに,
社会人になると「勉強ができるだけ仕事はできない」とか言い出すからこの世界は理不尽.
勉強しかできない風に育った私はどうすればいいんだ,と,途方に暮れながら就活している.
死にたい.
とよく思う.生きていくのが不安で苦しく思う.
*
記憶はないけれど,母はきっと相当悲しんでいたんだと思う.
それが影響してか,母を悲しませまい,苦労させまいと,
自分はひたすらいい子ちゃんに育った.
勉強をがんばって,通知表ではよくオール5をもらった.委員長もやった.
公立の中学へ行き,公立の高校へ行った.
やりたいことも,夢も希望もなかったけど,
そのうち見つかった時のために,選択肢が広がればいいかと思ってた.
3年生までをサークルもせずにだらだら過ごし,
就職活動が盛り上がってきて,なーんにもできない自分に絶望している.
*
やりたいことの選択をいつも先延ばしにしてきた.
そのつけがいま回ってきたけど,やっぱりやりたいことなんて分からない.
集中力がない,逃げてばかり,計画性もない,効率悪い,アイディアも出せない.
研究室は優秀な人が多くて,自分のくずさがよく分かって悲しい.
作業量が多いのもつらくて,進捗報告は毎週すごいプレッシャー.
あってもうまく言えなかったりで,だめだって手応えしかなかった.
こんなくず,入ったってまともに働ける気がしない.
研究室に迷惑をかけてる申し訳なさと,逃げ出したい弱い気持ちでいっぱい.
くずには相応な,名も知らぬ会社にそっと入って,そっと辞めるのが似合ってるのかな.
体を売るか?女を売るか?でも,コミュニケーションだってできないくずなのに.
染み付いた「母を悲しませまい」という気持ちはなくならず,
頼れないな,学費は返さなきゃな,こんなくずに育ってごめんな,と思ってる.
*
いつか,こんな風にくるくる悩んでた頃を,懐かしく思えるのかな.
それか,地球はやく滅びればいいのにな.
あぁ,生きるのがツラい.
贅沢な悩みだこと.
(吉本の養成学校(NSC)29期生への特別講義から。2008年収録。自分のために書き起こし。)
「才能はわかりやすくいうと5段階、通知表みたいにあると思うんです。
でも努力も5段階ある。
才能5、努力5の人間がいたら5×5の25で最高点の結果がでる。
売れるか売れないかなんてわからへん、ほとんど売れへんねんから。
だからやってみなかんねん。
ただしやるのに正しくやらなかったらやめれない。
なんでやめれないか。
だから結果には満足せーへんことになるかもしれない。
君ら10年経って、20年経って子供ができて、
「昔NSCおってん、でもな、おれ完璧にやってん、ベストをつくしてん、
才能なかったわ」
って言えたら、実は次へ進めんねんな。
残念ながら才能は俺たちが得たんちゃうねん、親が与えて神様が与えてん。
でもがんばれる「5」を覚えるやろ、ほんならこの世界でダメでも絶対成功するねん。
なんでか。
また違うもん見つけたときがんばる「5」をかければいい。
またダメやったら、また新しいことに「5」かければいい。
そういうことを俺は若い頃からみんなに言い続けてるねん。
だからここにいる人間のほとんどが結果には満足せーへんことになる。
http://www.youtube.com/watch?v=hidSq759hBI
「島田紳助 やるということ」
(吉本の養成学校(NSC)29期生への特別講義から。2008年収録。)
才能はわかりやすくいうと5段階、通知表みたいにあると思うんです。
でも努力も5段階ある。
才能5、努力5の人間がいたら5×5の25で最高点の結果がでる。
売れるか売れないかなんてわからへん、ほとんど売れへんねんから。
でも10年経って、20年経って子供ができて、
「昔NSCおってん、でもな、おれ完璧にやってん、ベストをつくしてん、
才能なかったわ」
って言えたら、次へ進めんねんな。
才能は俺たちが得たんちゃうねん、親が与えて神様が与えたもんや。
でもがんばれる「5」を覚えるやろ、ほんならこの世界でダメでも絶対成功するねん。
なんでか。
また違うもん見つけたとき「5」かければいい。
またダメやったら、また新しいことに「5」かければいい。
そういうことを俺は若い頃からみんなに言い続けてるねん。
だからここにいる99%の人が結果には満足せーへんことになる。
それぐらいやらなあかんねん。
9月30日、母が死んだ。酔っぱらって衝動的に自殺したっぽい。
部屋は綺麗だった。昔からきれい好きだし。一軒目は何処で飲んだのか未だに不明。部屋にも酒は無かった。
とある出禁の店に泥酔状態で行って追い返されて、警察に保護されて深夜の2時頃に自宅に返された。その3時間後に海で見つかった。
その日の朝9時頃地元の警察から電話がかかってきた。最初は前の日に話をした地元の友達かと思った。俺の会社で働いていて色々な人から金を借りて逃げたからだ。半年ぶりに連絡がついてそしてそれを凄く怒った。金のことも怒った。本当に自分もびっくりする位怒ったのでびっくりして警察に駆け込んだのかと思って電話を出た。
海で遺体で上がりました、と警察。頭が真っ白になるってこの事だったんだ。
電話を切って結構ボーとしてた。月末で仕事もまあまあ忙しかった。
近所の公園をふらふらしながら離婚した親父とか、母の弟とかに電話した。人嫌いで親戚・友達づきあいは殆ど無かったから連絡はこれで事足りる。
ボーっとしすぎってチケットを取ったのは夕方だった。すぐに電話すればすぐに帰れたのにボーっとしてしまった。
母とはずっと疎遠だった。ヒステリックで酒乱で本当に嫌だった。
帰ったのは17の時に上京して友達が事故った20歳くらいの時、じいちゃんが死んだ22歳くらいの時、あとは半年くらい前。
近所の習い事の先生に酔っ払って「俺君を返せ!隠してるんだろ!」と。
更に飲み屋で俺の同級生に金を借りて飲んだ事も聞いた。
酔ったら俺に電話してくるのもやめて欲しかった。当たり前のように100回以上は電話が鳴った。留守電もいっぱいになった。
鍵を開けて入っていくと久しぶり過ぎてびっくりした後に大泣きして土下座して謝っていた。痩せていて、老けていた。
部屋を見てみると綺麗にはしているがカップラーメンばかり。薬も色々な種類の薬(うつ、糖尿、痔、等)を飲んでいる。
これはやばいなと思った。
ホテルの厨房で働いていたから飯はめちゃくちゃ旨い。なのに何でカップ麺ばかり食っているのかと軽く怒った。
んで東京に住むか、と誘った。でもずーっと住んでいるこの地が良いらしい。
素面の時ならいつでも電話しろと言った。素面でもこの何年かは話が通じなかった。
内容としては、
・金はあるのか?
・何でそんなに高いマンションに住んでるのか?
・やくざになったのか?
・誰を頼って東京に行ったのか?
等。
母の中では金持ち=ヤクザらしい。儲かったってヤクザなんてやらないのに。
なので一度でも俺の会社を見て欲しかった。色々とやっていてひとつひとつ見せながら説明したかった。
そこで2時間位で家を後にした。
そんな事が前にあって、飛行機に乗って帰り、警察が空港に迎えに来ていた。
母の死体が警察署にある。当然見ることになる。隣には一緒に来てくれた彼女がいるけど、ずっと緊張、というか過呼吸になりそうな感じだった。なったことはないけど。
上記に書いた時系列を説明してもらい、発見地点など地図に書いてもらった。
母と対面した時には冷たくなっていた。冷蔵してるし当たり前かと考えていた。
1分ほど見つめて、後にした。司法解剖に行くことになった。事件性の有無を調べるためだ。
でも俺はそんなものは無いと思ってるし今でもそう思っている。それは間違いない。
地元の街中の殆どの店を出禁になり、飲む所がない。1件だけあってそこによく行っていたようだ。葬式にもいきなりそこのママが来てくれた。
その後隣町の実家に帰った。ひどく部屋は綺麗だ。いつも通り。
彼女が台所を見て言った。歯磨きに俺が小学生の頃に作った焼き物の湯のみを使っていた。そこでその日初めて泣き崩れてしまった。前の日にも彼女の胸で泣いた。泣き顔は5年のうちで初めて見せた。
家中探してもやっぱり酒を飲んだ形跡はない。やっぱり何処かで飲んだんだ。未だに判明してないけど。
とても自殺した人の家とは思えないくらいに綺麗で、色々と行き届いていた。生活感もあった。
ふと思った。冷蔵庫を閉めた後に。ちゃんと色々買って自炊している。言うことを聞いている。カップ麺は一個もない。
携帯電話を見た。全く何も入ってない。俺の携帯に電話をしてみた。鳴らない。通話ができません、と。
他の携帯にかけてみた。鳴った。どうしようもない気持ちになった。
母は俺に迷惑をかけまいと俺に電話できないように設定していた。
でも10日前くらいに公衆電話から電話があった。病院からかけていると。
何で携帯からかけて来ないのか不思議だったけど、特には聞かなかった。これで謎は氷解した。
その電話の時もやはり話題は誰を頼って東京に行ったのか。前までは素面でも話が通じなかったけど、多分今回の電話は電話する理由が欲しかったんだと思う。ちゃんとそこは説明している。
それが最後の電話になった。もっと話しておけば良かったと眩暈がするくらい後悔してる。
というか、親孝行をもっとしたかった。これは一生後悔し続ける。
日本中の殆どの人が、世界中の人かもしれない。日常的に言っている「親孝行は生きているうちにしておけ」と。
何でそんなことが、そんな簡単でいつでもできることが俺には出来なかったのか。
いつかは思う存分孝行しようとしていた。というかその時期だった。
ある程度東京でも成功し、月収も1000万を超えた。なんでもできるはずなのに。なんでだろう。そればっかり考える。
ビジネスは成功して、親孝行は失敗する。親孝行のほうがはるかに簡単でいつでもできるのに。
俺の存在意義を疑う。何の為に生まれてきたのか。
小学生になる前にはママ、ママと呼んでいつもおやすみのキスを求めていた。
小学校低学年になったら取っ組み合いの喧嘩をするようになった。習い事も初めて色々な賞を取って喜んでいた。
小学校中学年は他の習い事も始めた。その習い事は世界大会でベスト3に入るまでになった。本当に誇りだっただろう。
小学校高学年は両方の習い事でグングン伸びて全国をかけめぐっていた。これは中学校も続く。ママと呼ぶのが恥ずかしくて母さんと言うようになった。
中学1年になって初めて喧嘩に勝った。蹴りがみぞおちに入って唸ってうずくまってしまった。これからは手加減しないとまずいと感じた。
中学2年は包丁を投げられて必死でかわした。この頃からお前というようになった。毎日夜遅くまで友達の家で遊んだり泊まり歩いたりが始まった。
中学3年は同上。もっとひどくなっていった。
高校1年制は不良友達のたまり場になった。6畳の部屋に10人はざらだった。彼女もできて家には殆ど帰らなかった。
高校2年制は停学3,4回目で首になった。もうこの頃はほぼ帰らなかった。母が知っている友達の所にいるといきなりやってきて窓を全力で開けて叫び始めるからだ。
溺愛されていた。でもその愛情の表現の仕方が本当に常識とかけ離れていた。俺もわかりつつも心から嫌いになっていった。
17歳の時に求人誌を取り寄せて片道の飛行機代で上京した。本当につらい毎日だった。
家の引き出しを見てみるとその頃に振り込んでもらった振込用紙が出てきた。勝手に出ていったくせに。俺に関連するものはどんなものでも綺麗にとって置いていた。
アルバム、学校の通知表、習い事の全国のおみやげ、インテリア、載った新聞の切り抜き等。
彼女も溺愛しているのは簡単にわかると言っていた。友達達も溺愛しているのは言うまでもないと。
俺の為だけに生きていた。99%。それ以上かも知れない。
生活保護を6年ほど受けていた。俺は生活保護の手紙みたいなものを受け取ったが関わりたくないので面倒見切れませんと返信した。
引き出しには通帳が入っていた。
6年間で120万程度貯めていた。実際使えるお金は6万程度なのに。光熱費とか食費とか色々あるのに。その中から月に15000円以上も貯めていた。
よく見てみると、大きい買い物はテレビだけだった。チラシも、領収書も入っていた。俺に言ってくれればそんなものすぐに、もっと大きい、もっといいものを買ってあげるのに。
もっとよく見てみると、服も、布団も、何も新しいものがない。全部見たことがあるものばかり。
何を楽しみに生きてきたのか。
涙が止まらない。
今日の朝、いらないものは全部捨てた。捨てるのを迷うものばかりだ。
全部持って帰りたい。
このまま部屋を借りるかどうか迷う。
全部このまま残したい。
今もまだ考えている。
形見と呼べるものは少ない。
遺体が発見された時も小銭入れと、部屋の鍵とタバコだけだ。今乾かしている。
取っ組み合いの喧嘩をして父親替わりもしてくれた。
全ては俺が最後まで素直になれなかったのが原因だ。
東京に来いといったが完全に命令口調でいった。
久しぶりに会ったからと肩でも揉んでやればよかった。
東京に来て生活するよりも、そのほうが嬉しかったかも知れない。
会社の人間には言ってない。下手な気を使わせたくない。俺も気を使われたくない。
1年間は何も言わないつもりだ。
うつでアル中で親の事を好きだけど素直になれなくて、でも何かしてあげたい人の為に。
もう俺みたいな一生後悔するような事は誰にもさせたくない。
今日さっきまでお通夜だった。母だけの知り合いは一人だけ。上記の唯一飲みにいける店のママだ。
そこでも喧嘩して出禁になりかけたらしい。でも素面に戻って飲む所がないと泣きついてきたらしい。
大人たちが帰って、地元の友人10人程度で飲んだ。こんなに皆が集まるのは高校生以来だ。腹を抱えて笑った。ずっと皆で笑ってた。母もそのほうが喜ぶだろう。
このまま保存できるならずっと保存したい。ずっと一緒にいたい。俺が死ぬまで一緒にいたい。
でもそんな事は叶わないから焼く。
生き返るなら全財産出しても借金してもいい。そんな気持ちになったのは初めてだ。その為に人生を賭けてもいい。
本当に母が好きだった。なのに優しい言葉をかけたのは記憶がない。
どれだけ母は俺の優しい言葉を望んだだろうか。
別れた父もお通夜も来なかった。母の弟は遠くで死ねばいいのにといった。完全に回りの鼻つまみものだった。
俺もそういう気持ちだったはずだった。なのに何でこんなに愛おしくなるんだろう。
金を稼ぎたかった。だから親は後回しにした。でも本当にいい暮らしをさせてやりたかったからなのに。
増田はいつも見ていた。でも俺が書くとは思わなかった。たまにホッテントリで見るくらいなのに。
でも何処かに吐き出したかった。今の気持ちも忘れたくなかった。だからこの場を借りる。
【追記】
本日、火葬を無事終えました。本当にありがとうございました。お骨ってあんなにもろくなるものなんですね。
・爺ちゃんが亡くなって10年近く経つんだけど、亡くなってからずっと行っていなかったお参りに今年は2回も行っている。
・今年の7月頃親友のお母さん(母の同級生でもある)に素面で電話して、出なかったので役所で働いている旦那さんにまで電話をしている。同級生と久しぶりに話したかったのか?
とか色々。
何らかの予感があったのかも知れない。
1980年代大阪府北摂地方の話。その後卒業と同時に関東に引っ越したのでその後不明。
職員室には、日教組の団結旗?が飾ってあり(おそらく教職員)の名前が書いてあった。
担任やってた先生が、いきなり担任外に外され、子供ながらに何が変だと感じていた。
相対評価の5段階評価でも3段階評価でもなく、絶対評価の2段階評価だった。
○と◎、できたか良くできただったと思う。×はあったかもしれないが、覚えが無い。
部落とか在日への差別を無くしましょうとか、彼らは弱者だから日本人が守る必要がありますとかそういった内容。
でも子供の間ではチョン校とむやみに関るなというのがルールだった。
何でかというと電球口にくわえさせたまま顔殴るとか、俺らのルールでは禁じ手とされている内容を普通に使うのが、彼らのやり口だったから。
なので、差別してはいけませんと言われても、無理だよという空気。
今思うに、土地のルールを守らずに自分勝手に振舞えば、そりゃ元からいた連中に嫌がられる訳だし、そこにいるならルール守るようにするのが先だろうと。
いやなら帰れなんだから。
少し前まで出ていた帰国船に乗らずに残ったのだから、土地のルールは守るべきだよな。
指導要綱には無いと思う、どこぞにハングル教えている小学校があるそうだが、そういったものは裁量の範囲で教えていると思いたい。