はてなキーワード: 自由主義とは
女性オタクの「地雷」って、誇張表現じゃなかったんだ……っていう驚き。
「地雷なんです!」っていうの、イキりオタクアピールかと思ってた(狂った行動するほどディープなオタクだと見なされる、みたいなやつ。女性は知らんけど少なくとも男性の社会では道を極めすぎて狂った人は遠巻きに尊敬されるから……)。イキりオタクしぐさはいいけどそれで他人に迷惑かけるの害悪じゃね? って思ってたけど、あれってマジでダメージ食らってたんだ……
自衛ってものに対する認識が女性の場合「殴られないように回避する」なんだけど男性向けだと「殴られてから対処する」なんだもん。
なるほど、嫌なものが目に入る状況を「殴られてる」と感じるのね……いや別に殴られてはいないが? 比喩だとしても「殴る」という能動的な加害が喩えに出てくるのが面白すぎる。男性にとっての地雷とは(人によるだろうが)ゴキちゃんだ。ゴキちゃんが部屋に出るのは不快だし自分の部屋からは排除したいけど、ゴキちゃんが積極的に人間を害そうとしてるとは感じないし、野原で生きている分にはわざわざ駆除しようとも思わないよ……
なんていうか、「見たくない権利」というものはあくまでも見たくない人間がわざわざ個別にやる事であって見たいやつ見せたいやつの邪魔をするのは間違ってるってスタンスで世界ができてる。
それが自由な社会ということだと思ってたので、「いやそれが憲法や法律の定める自由主義社会のルールやろ!?」と思ってしまうんだが、なるほど「好きに振る舞え、他人の行動を邪魔するな」というのは「男性基準でのルール」だったのか……そうだよな、憲法も法律も男性が作ってきたんだもんな……J.S.ミルも男性だもんな……
お互いに地雷を回避するために検索避けとか注意書きとかしましょみたいな女性向けの文脈が一切通用しないのも当然だ。
とりあえず視界に入る、という事を全住民が許容している以上は衝突も殆どないから注意書きなんて付ける意味ないし検索避けも探すのがめんどくさくなるだけ。
薄々思ってたけど、我慢の方向性が違うんだね。女性オタクの文化は「他人を不快にさせないために自由に振る舞うのを我慢する(ので他人も自由に振る舞うべきではないと考える)」で、男性オタクは「自分が多少不愉快な思いをしたとしても他人の自由にケチをつけることを我慢する(ので他人も自分の自由にケチをつけるなと考える)」。
つまり「男性オタクが自由に振る舞っていることに対し女性オタクが文句を言う」状況は、女性オタク側からすれば「私たちは自由に振る舞うのを我慢しているのに、自由に振る舞うあいつらはおかしい」と受け止められ、男性オタク側はそれを「私たちは他人の自由に口を出すのを我慢しているのに、ケチをつけてくるあいつらはおかしい」と解釈する。
いや~、ネット上の女性表象の炎上案件、だいたいこういう構図だったのね。なるほど。そら対話にならんわけだ。お互い「自分たちは我慢しているのに、何であいつらだけ」って思ってるんだもの。そら拗れるわなぁ。
社会的な性規範の内在化されたものを心の性と呼ぶのは大きな誤りを孕んでいる気がしてならない。人間の心がまずあると仮定してもそこに性別があるなんてどう考えてもおかしな話である。これはLGBTの方々への権利の制限に賛成する話ではない。むしろあらゆる権利はあらゆる個人とあらゆる形式の集団に付与されるべきである。
婚姻制度なんてものはあらゆる人間のあらゆる組み合わせに対応すべきであり現在の状況がおかしい。そもそも法の下の平等概念からして法に男女という概念を持ち込んだやつの頭がどうかしている。同性婚を禁止している現民法はどう考えても憲法違反である。そして重婚を禁止するのも、複数人による婚姻を禁止するのも憲法違反である。というのが私の個人的な意見だ。また恋愛感情などという定義不可能なものを前提としない純粋な資本の接続制度に作り変えるべきだと信じている。これはただの意見だ。もちろん国家や宗教のいくつかのレゾンデートルの一つとして性規範の固定化があるのは言うまでもないことであるが、そもそも国家も性規範も大嫌いな私にそんなものを持ち出しても意味などないし届かない。
しかしそれはそれとして、心の性などというものは私には看過できない概念だ。そんなものは存在しない。血液型性格分類と変わらない無価値で有害な幻想だ。
近年、ある程度は心の性がない人という概念も広く知られはじめてはいるがそれはあくまで特別な人とされている。多くの人にはどちらかの心の性があると考えられている。これがおかしい。そんなものはある訳がない。常識的に物事を考えろ。心の性なんてものは元々人には備わっていない。これは事実であり現実だ。
心の性概念などというものはくだらぬ性規範が内在化されたものにすぎない。自由主義においては規範の内在化に反抗すべきであり、あらゆる性規範の破棄を求めるべきだ。社会的性などというものは当たり前だが許されない。そして性を前提とされない社会においては心の性なんてものはある意味がない。よって存在しない。そこにあるのはどういった生殖器が付いているかによる機械的分類だけだ。我々は人間である。まともな社会においてはそれより先にはなにも要らない。
女に生まれたが心の性が男である、というのは現在の性規範に縛られた糞のような観念だとあり得る。確かにあり得るがそれは性規範を内在化してしまっている、という意味では従前のゴミのような性別概念とほとんど差異はない。結局のところ自由度が2から4に増えるだけだ。そんなちっぽけな自由など自由ではない。無限のバリエーションのある心を二分法で分類する心の性と呼ばれるものなど許される訳がない。性規範を信じる人間と性差別者に本質的な差異などない。心の性なんてものはその実際として現在の性規範に照らし合わせて自身の価値観をどう縛り付けるかを考えより良いものを選択した結果にすぎない。二者択一のジェンダーのうちより自身にとって有利なものを意識的にもしくは無意識的に選択した結果に過ぎない。
心の性など存在しない。そもそも性別などは付いている生殖器の違いに過ぎない。付いている生殖器によって何かしらの束縛を受ける謂れなど我々にはない。自由主義において我々はこう言い切るべきではないのか。
そしてそもそも人は自らを知り得るのか。
恋愛は性欲の詩的表現を受けたものであると言う。恋愛感情という自己認識としてのその主観事実を否定するべきではないし、当人の自己認識は自由権のもとで尊重されるべきだ。しかし性欲について言及した今もう一度考えてみたい。人は独りでに心の性を持ち得るか?
持たない。上述のとおりである。
人はあくまでも社会的に心の性を与えられるだけである。もちろん心の性というものは確かに存在し得るがそれは生得的なものではなく獲得的なものである。身体機能としての性に一対一対応した心の性なんてものはない。ある訳がない。あるのは社会的性の役割であり、ジェンダーと呼ばれるものだ。
スカートを履き、可愛いものを好み、ピンク色が好きで、私立文系に進み、事務職をする、男に恋愛感情を抱く実存。のようなそういう唾棄すべきステレオタイプの集合を心の性と言っているにすぎない。
人が持つのは極めて純粋な身体機能としての性と、社会的な役割としての性の二つだけだ。そして後者は破壊すべき対象である。心の性などというものはそもそも存在すべきではない。
その通り
被害者のいない2次元の絵にすぎんものすら危険視してそれでもって特定の人間を否定し愚弄し制裁しようという態度は
突き詰めれば共産党のような強権的な思想統制を敷く体制への道をボトムアップで作りかねない、自由主義国としては警戒すべき草の根パターナリズムであるから
半裸の少女絵を町中で見たいわけではないが、そういうのが掲示されてたとしても各個人でそれぞれの価値観に応じた受容やスルーで「ああいうのが好きな人もいるよね」程度で流せるよう学習していかなければならないわけで
弾圧していくことでそういう世の中の清濁を吟味する能力のない白痴の温室栽培人間ばかりになっていくことを助長してしまう
全員が賢くあろうとしなければ維持できない民主主義社会にとって体制の崩壊を招く危険思想だよ過剰な表現の取締りというのはね
この手のパターナリズム拡大の根源には他人は愚かであるに違いないという傲慢さがあるわけで、そういう人々を利することがまず健全な社会形成の障害なわけ
政治右派は国家主義的で排他的。移民や夫婦別姓、外国人参政権の付与に反対する。自国で新憲法を制定すべきとし、自衛隊を国軍として日米同盟に依存しない防衛を目指す。狭義の右派はこれ。日本会議など。
政治左派は日本国憲法原理主義的。男女間や国籍などあらゆるものに平等を求める。日米同盟にも自衛隊にも反対し憲法改正を許さない。狭義の左派はこれ。共産党、市民連合など
政治中道はその中間。日本国憲法は尊重しつつ改正が必要なところは改正する。国防は日米同盟を基調とする米国依存だが、集団的自衛権を認め、自衛隊に対しても日米同盟の片務解消と国際社会の一員としてより踏み込んだ役割を果たすことを求める。自民党の大勢。
経済右派は自由主義。政府の介入を好まない。市場原理主義で市場の失敗による貧困層には最低限度の社会保障で対応する。規制や税金の少ない自己責任ベースの夜警国家(小さな政府)を良しとする(アメリカ型。公平重視)
経済左派はその逆。政府が規制で積極的に介入して、高い税金をとって社会保障が充実した福祉国家(大きな政府)を目指す(スウェーデン型。平等重視)
経済中道はその中間。自由経済がベースだが福祉も積極的に行う。現金を配るよりも公共事業によって仕事を配ることで所得の再配分を達成しつつ社会資本を整備していく福祉国家を目指す(自民党型。失業率最小化)
これを踏まえて各党見ていく
自民党は政治、経済とも右派と中道が混在。日本会議寄りの議員が政治右派、竹中平蔵寄りが経済右派。公明は政治経済ともに中道路線
立憲民主は自民の逆で政治経済ともに中道と左派が混在。泉代表は政治経済ともに中央寄りだが、福山哲郎や菅直人あたりは政治経済ともに左派。
資本主義・自由主義陣営と共産主義・社会主義陣営の対立のなか自由主義を掲げるアメリカで社会主義≠共産主義を掲げる思想家が差別・排除されないために自由主義を騙る「アメリカの」社会自由主義(リベラル)が自由主義にカテゴライズされるのは
↑左翼
左翼。
資本主義は格差が激しくてついていけないから、もっと平等で公正な社会を目指そうぜ、という感じ。
資本主義によって、土地や工場などを私有する資本家が労働者をこき使って搾取するようになったので、それを打破して平等な社会を目指す。
そのためには、労働者自身が土地や工場などを管理する体制(プロレタリア独裁)を武力を用いてでも築くべきだ(暴力革命)、という感じ。
暴力革命を志向するテロリストや、スターリン・毛沢東のような独裁者を生み出した。
マルクス主義を反省して、暴力革命やプロレタリア独裁を否定し、民主主義を通じて政府に働きかけ、平和的に社会主義を達成しよう、という感じ。
政治面においては「俺たちには自由に生きる権利があって国王や貴族でさえそれを侵害できないぜ」という感じ。
民主主義や共和主義を志向する。フランス革命時における「左翼」。
経済面においては「俺たちが自由に商売すれば自然とバランスが取れるんだから政府は余計な口出しすんな」という感じ。
資本主義や市場主義を志向し、個人の権利を重視して「国家権力は小さくあるべき」と考える。
「社会自由主義」の台頭後は、区別のために「古典的自由主義」と呼ばれる。
古典的自由主義のように野放しにしていると、差別や格差が広がって個人の自由が制限されるから、むしろ国家権力が介入して積極的に差別や格差を是正すべきだ、という感じ。
社会自由主義の反動から、一周して古典的自由主義に戻ってきた感じ。
自由な市場を実現するために、規制緩和をしたり、法人税を下げたり、国営企業を民営化したりする。
右翼。
何らかの急進的な政治運動に対して、それに反対する立場が「保守」と見なされる。
それぞれの政治体制や歴史的経緯によって何が「保守」となるかは異なってくるが、現在の日本においては、政治的には「国家主義」を、経済的には「新自由主義」を指すことが多い。
もとは自由主義と連動していて、誰かに支配されたりするのではなく「俺たち」が中心となって行動すべきなんだ、という感じだった。
しかし国民国家が成立して「俺たち=国家」となると、「おまえも俺たちと一緒だよな」と均質化を強要したり、「おまえは俺たちと一緒じゃない」と排外主義になったりした。
「俺たち」を結びつけるものは「民族」「家族」「宗教」「伝統文化」などであることが多い。
さらに行き過ぎると「個人の権利よりも国家の利益が優先される」という「全体主義(ファシズム)」となる。
↓右翼
言うか言わないかが重要ではなく、受け取る側がどう受け取るか、表現をどう受け取る人が多いかで世の中の正常さが担保される世界のあり方が健全な自由主義社会なわけ。
つまり、アホなことを言えば相応に無視される、白眼視される、そういう論がどんだけ頑張っても決して支配的になることはない、そういう盤石さがあるから(あるべきだから)、発言の内容自体は好きにすればよくなるわけ。
反対に、発言の内容自体に干渉するようになるってことは、どんな論でもワンチャンそれが拡大しちゃうほど大衆が白痴化しているってことで、逆説的に言論を制限すればするほど人間は判断能力が衰えていくことになる。温室の中で「安全」な言論だけを食って育つことになるからね。自分のアタマで考える能力がなくなるわけ。
そもそも結党の経緯がそれだからね。55年のいわゆる保守合同は左右社会党の統一で社会党が巨大化したのに対抗してのことだったわけだし。
なお、自民党も決してガチガチの保守でないことは明らか。自民党の自由(リベラル)は最近の左翼が言う「リベラル」じゃなくて、古典的なリベラル(自由主義)だから、むしろ資本主義と相性が良いわけで、財界も当然こっち寄りになる。
そういう意味の自由主義政党の中では日本の自民党はむしろかなり共同体主義的(コミュニタリアン)であって、社会保障制度などに力を入れてる方だから、社民的な要素も強いんだよね。解雇規制の強さなんかもそのあらわれかと。
そうなんだ。知らんかった。
そのたびに俺らの社会保険料を削り取っていくわけじゃん。
生きていたってすることなんて、どうせ薬自慢だろ?
うざくね?
あなたがうざいと思うのはまったくの自由なんですけど、まあうつ病の人たちはこれ見て真に受けない方がいいと思いますよ。
実際はうつ病の人たちに社会的コストがかけられているというより、「人権」というイデオロギーに社会的コストがかけられているんです。
誰もが健康で文化的で最低限度の生活を送るべきであるという理念に共感するもしないも自由ですが、今の日本は一応そういう理念で動いています。
まあ、お金の流れ上は、「非うつ病からうつ病へ」となっていますが、それほど構造は単純ではありません。あなた方にかけられるコストがなくなれば、
それだけ「人権」というものに対する信頼が減ります。ひいては自由主義自体が崩壊するかもしれません。(もちろん、崩壊しないかもしれません。)
で、そんな社会のダニが、なんでわざわざネットでアピールに来るの?
慰めてほしいの?
そうなんじゃないですか?私もその欲望はどうかと思いますけど、病気だからある程度はしょうがないでしょ。
そんな糞は、みんなでたっぷりと可愛がってやろうぜ。
可愛がるといってもアタマをよしよしとなでたり
「生きてるだけでいいんだよ」「何もしなくていいんだよ」等と優しい言葉を掛けるということじゃないぞ。
痛めつけてやるということだ。
鬱病なら、静かに休んでプライベートに治療に専念していればいい。
ネットで「鬱病!」「鬱病!」とアピールしてくる糞雑魚ゴミムシは、
みんなで「頑張れ!^^」「もっと頑張れ!^^」とどんどん励まして、自○に追い込んでいこうよ。
まあ、この発言は論外として。
うつ病の人たちも、インターネットはこういう人たちが多い場所なので近づかない方がいいです。
「インターネットにこういう人が多いから近づくな」と「実際にこういう人がこういう振舞をすることは悪くない」はまったく別の話ですが。
じゃあなにがあるのよ?
「右翼が言う愛国心があって左翼はない」とかいう寝言を言うんじゃないだろうな。
それとも、急激な変化を好むか(革新左翼)徐々な変化を好むか(保守右翼)?それも自由主義からの急激な変化がマルクス主義で、徐々な変化がケインズ主義だけどケインズ主義VSマルクス主義は冷戦終結と新自由主義の勃興で成り立たないってのは述べたとおり。
改革だ改革だ言ってる新自由主義は保守か革新かどちらかね?革新左翼?まさかね。強いものよりだから右翼と見るのが正解でしょ。
日本の左派ってあんまりリベラル(自由主義)的じゃあないんだよね。どちらかと言うと自称リベラル。以前はリベラルと言わずに革新勢力とか言ってた。保守対革新とかね。
彼らがリベラルと自称しだしたのは割と最近のことで、アメリカの「リベラル」勢の真似なんだと思う。紛らわしいったらありゃしない。
今でもイギリスだと古典的な意味でLiberalという言葉が使われる事が多いし、ホントはやめて欲しいんだよね。ああいう「リベラル」の使い方は。
ちなみに日本で Liberal を党名にうたった政党は、有名なところだと、自由民主党(Liberal Democratic Party)や、吉田茂の自由党(Liberal Party)や、板垣退助の自由党や、小沢一郎の自由党などがある。
もちろん俺も全くもって分からないんだけど、そのうえで直観を言わせてもらうと「近代」自体がぶっ壊れる危機だと思っている
理由としては、
「これまではデマを広めるとしたら国家やメディアだけだった。彼らは確かにろくでもないが、彼らの利益を維持するためには社会の維持は必要不可欠だった。だから彼らは少数を切り捨てるような方向に世論を誘導しても全部ぶっ壊そうとはしない。しかしインターネットの言論が影響力を大きく持ち始めてきた状態では、破滅的なテロリストであろうとその種の才能があれば一言語圏の世論を席捲できるかもしれない。さらに言えば学者などの権威はどんどん落ちていき、いよいよ公式な事実というもの自体が消滅する。情報空間はこれまでになく民主化されたことによって大きなリスクとなっており、いずれ匿名インターネットを規制しなければ社会はもたなくなる可能性が高い。しかし国家などによる規制は必然的に言論の自由の致命傷となる。よって民主主義、自由主義などの『近代』は終了する」
まあどこにでも書いてあるような平凡な論だが
もうじきに、左右のあほみたいな陰謀論者によるテロが恒常化する社会か、中国みたいな言論統制の社会かを選ぶしかなくなる可能性が濃厚。自由主義を守りたい人はとにかくネット社会に合わせた「言論の自由」を再構成するのがお仕事だと思う
他人を「無能な働き者」認定して文句を言うことしかできないくせに、それを自分の使命かの如く思い込んで、行動する人に必死につきまとい嫌がらせを繰り返す奴をこそ本当の「無能な働き者」と言うのだ。
元増田ではない。
【すべてが半世紀前と異なっている】
市中での犯罪はもちろん騒音や有害物質やら、県民を守るものは何もなかった。
だって被占領地だぞ。琉球政府が存在すると言っても力関係的に無理だろ。
だから反米・反基地・共産主義への傾倒という土壌が必然的に醸成された。
じゃあ本土復帰後はどうかというと、事件事故は減りまくっている。
米軍側が地元の反米感情に危機感を持って統制に努めた結果もあるだろうし
騒音等々の基地被害だって現に普天間基地の近所に住んでる俺が大したものだとは思っていない。
米軍負担が結構減ったにも関わらず、県民に世論調査で選挙の争点とかを聞くと必ず基地問題がトップに来る。
これさ、地元マスコミはもうほんと執拗に毎日毎日反基地の記事をほとんどのページに載せてくる結果に過ぎないわけよ。
政治というものは経済とか医療とかいろんな分野があるわけで、地元ごとに更に具体的な課題がたくさんあるわけよ。
毎日の新聞やテレビラジオの報道の大半が基地問題で塗りたくられててそれ以外のトピックスが脇に寄ってるようじゃ、
「あ、基地問題が大変なんだね」って思っちゃうじゃない。現に沖縄で生活している人間ですら。
基地がほぼ無い那覇市や周辺市町村では基地被害なんて感じようがないぐらいだぞ。
それでも基地問題が最大のトピックになって反基地勢力ワッショイしちゃうのは、実態にそぐわない。
が、ふんわりしたワッショイとはいえ第一トピックなので県民も本土の奴も沖縄=基地問題という認識になってしまう。
普天間基地なら滑走路の延長線上、嘉手納基地ならジェット機が主な関係で嘉手納町全域はマジの騒音被害を被っている。
あと沖縄戦経験者な。これは理屈抜きで強固な反米感情を抱くのも仕方がない。
このへんの補償は防衛施設周辺交付金とかで手当てはされてるけど市町村役場向けのものだったりで補償を受けてる感は薄いと思う。
あと最近ではヘリからの落下。小学校にヘリのドアガラスが落ちたのは映像が残っていて明白。
こういう事故は実際に存在するんだから、住宅街の真ん中にある普天間基地を辺野古なり馬毛島に移転するのは妥当ではあるわけ。
イデオロギーで反基地やってる勢力が目立つせいで、政府も米軍も基地被害自体に懐疑的で、基地に対する反感は全てイデオロギーに基づくものと勘違いしている節がある。
実はそうじゃない。ここのズレが政府の沖縄対応の下手糞さの根っこになってる。
ケアすべきものもケアしてないんだから、沖縄で本来大多数を占めるであろう基地問題中立派を味方にできていない。
【実情は化石化した反基地勢力vsふんわりした政府のだらしない社会資本の浪費】
反基地勢力の言う「軍備があるから戦争が起きる」的などうしようもない主張はどうしようもない。放っておくしかない。
でもな、「基地は違憲」とか「体を張って基地建設を阻止」とかいうアレには政府としてちゃんと対応できるはずなんだよ。
今まで何度も何度も在沖米軍基地は裁判で争われてきて、騒音被害について賠償を認めた例はあるものの
基地の存続や辺野古移設については最高裁も認めている状況じゃない。
ならば粛々と進めるのが法治主義国家として当たり前のことだろう?
なんで数々の明らかな実力での建設妨害活動を検挙しないかっていうと、
「辺野古建設が延びても普天間基地の移設が伸びるだけなんで、成田闘争みたいになるリスクを冒してまで事を進めるメリットが無い」だけだろう。
今までも沖縄県知事選挙や名護市長選挙で基地賛成派が勝ったことは何度もあるぜ?
だけど地元メディアは
基地容認派が当選→今回は基地問題は争点にならなかったので基地反対が民意だ!
という具合なのでどうしようもない。こいつらと話をしても意味がない。
【でもそろそろ中国ヤバくない?】
沖縄は必然的に巻き込まれるわけだけど、地元メディアも玉城デニーを頂く革新勢力はほんとにもう心からピュアに「話せばわかる。米軍は悪。」の精神なのでどうしようもない。
自由主義国家の一員である台湾が一党独裁国家の中国に占領されて甚だしい人権侵害が生じる事態を容認するんですか
とか訊いても「そうならないようにするのが政治の責任です^^」「沖縄と先島に米軍がいるから悪いんです^^」とかマジで回答する連中だからね。
いざ台湾で事が起きたら地元自治体がこんな状態で政府も米軍も対応できるのか。
マジで自衛隊や米軍の足を引っ張る連中がいるし、このままじゃ中立派の県民もそれに影響されるぞ。
それなのにこないだの知事選なんだあれ。
元宜野湾市長のあの人ってカリスマ性とか全然なくて選挙に勝てる人間じゃないって。絶対。
もっと手を打て。考えろ。