はてなキーワード: 自由主義とは
でもそのアメリカの左翼でさえ、「マスクって非科学だな」と気がついて付けなくなってる
というのも、その着用文化が「集団主義者」のそれに一致するなどの研究もあって、「ああ、アジアの連中と一緒になりたくはねーな」とかそういう雰囲気もちらほら
「集団主義」強い社会、マスクの着用率高め 米大学研究 https://www.asahi.com/articles/ASP5S4VXVP5PULBJ00L.html
「マスクを着用しない奴が頭がおかしい」のでも「マスクを着用する奴が頭がおかしい」のでもなく、「高まった同調圧力の中で、集団に同調しない人は、何かしらの個性(集団の感情を共有できない or 信念が強い or 論理的思考能力が高い)を持っている」ということ
アメリカならマスクを付ける奴が頭がおかしい認定されるし、日本ならマスクを付けない奴が頭がおかしいと言われてしまう
要は適齢期の男女がまぐわって子供作ればええんやろ。それやったらこれしかないやんけ。
ワイの提唱する少子化対策はポルノ規制や。ポルノを全面的に規制せえ、それだけや。
今の御時世、ネットにポルノが氾濫しとる。小学生でも無修正の男女の営みは見れるし、男児はそれ見てシコっとる。
男の性欲のはけ口が有りすぎるんや。あれを規制せえや。
男の性欲がそういうもので解消できへんようになったら現実の女に向かうわ。シコられへんかったら隣の女を口説く方向に向かう。最初はウザがられたり嫌われたりするかもしらん。そやけど男かてアホやない。女の気を引くように努力しよるわ。女かて男が一生懸命になったら、ちょっとええかも、て思うわ。イケメンやのうても一生懸命になってる男みたらちょっと可愛いかなて思うもんや。
せやからインターネットでポルノを見れへんようにしたらええのや。今はそういうもんが簡単に見れるからあかんのや。AVだけやのうて二次エロも禁止やで。とにかく禁止や。自由を愛するワイにはきつい表現規制やけど君らが少子化少子化て言うから提言しとんのや。こんなもん自由主義の国では有り得へん政策やけど、どうしても言うんやったらそないせえ。ていうか、もう、どうしてもという段階なんやろ。ほなそないせえや。ポルノ禁止して男がシコられへんようにせえ。そしたら男どもの性欲は現実の女に向かう。間違いないからおっちゃんの言うた通りにせえ。これで万事解決や。
よくわからんけどネタにしてる側の人が自由と民主主義の支持者なのかよくわからんしなあ
自由主義弁護士の人はたまたまそうなのかもしれないけど乗っかってる一般人まで全く同じ思想とあまり適当にみなしていいのだろうか
駅ホームから見える線路の塀は、医療機関や冠婚葬祭業、または酒や子供の塾といった看板でほぼ埋めつくされている。電車通勤客である一般的な妻子持ちサラリーマンを呼び込もうというのだ。
しかしながらこれらは、妻子持ちサラリーマンでない者や酒アレルギーがあるなどの者に、自分は望まれない客なのだと感じさせる表現である。子供のいない夫婦も増えている。
「日本はハイコンテクスト」「日本は集団主義」といったことが言われてきているが、端的に言うと以下の要因で同調圧力が生まれるんじゃないかと思ってる。
誰かが道を邪魔すればそいつのせいで「みんな」が損をする。つまり、確率的に言ってそいつが非難される可能性は高くなる。
もしこの非難に対して「そんなの俺の自由だろ」と主張する人間が増えればフィードバックを阻止できるが、どちらかというと「非難されたくない」という消極的な人間が多い。
つまり東京は集団が無意識にフィードバックを与え合って学習するネットワークと化している。その学習が「正しい」という保証はない。
そこで学習された情報が「メディア」「インターネット」を通じて地方にも発信される。
するとどうなるか。心と空間の狭い東京の中でしか学習される必要のないゴミ情報が日本全国で学習されてしまう。
対策する術はあるのかというと、個人レベルでの対策は可能ではないかと思う。
俺の理解は、「ヴィーガンは菜食主義が正しいという仮定の上で生きてるから、その仮定に沿って世の中に菜食主義を広める方が当たり前である。だが仮定が絶対に正しいと証明されているわけではない」ってことと近い。
「ある人が正義の原理に基づいた規範的主張をする」ってのは、「ある人が○○が正義だという『仮定』の上で議論を進める」ってのと近い。
そんで、議論での『仮定』ってのは、『とりあえず設定する前提』ってのと近い。
「ある事柄が本当に真実か証明されていないが、とりあえず真実だとした上で議論を進める」ってこと。
ヴィーガンは、菜食主義が正しいという仮定の上で人生を生きている。
資本主義者も資本主義が正しいと仮定して生きてるし、自由主義者も自由が正しいと仮定して生きてるし、キリスト教徒も仏教ともそれぞれの宗教が正しいと仮定して生きてるいる。
人はみな、自分の人生観や価値観や道徳観を持っていて、それが正しいと仮定しているからその考え方をしている。
ある人の価値観はその人にとって正しいのだから、善く生きようとすれば自分の正しい価値観を世界中に広めようとする方が当然だ。
そうしないのは、善く生きようとするのは面倒くさいという怠惰のためか、既に自分の正しいと信じる価値観が世の中に広まってるから行動する必要がないからのどっちかだ。
だから、勤勉なヴィーガンは正しいと信じる菜食主義を広めようとする方が誠実だし、勤勉な肉食主義者は正しいと信じる肉食主義を広めようとする(というかすでに広がってるから守る)方が誠実だし、勤勉な自由主義者は正しいと信じる自由主義を広めようとする方が誠実だ。
他人の生き方に口を出すべきでないという人も、「他人の生き方に口を出すべきでないという生き方」を広めようとしている。
しかし、我々がそれぞれ持っている正しさは仮定でしかないのだから、絶対に正しいというわけではない。
そして神ではない我々には、何が絶対に正しいかを解き明かすことはできない。
延々と議論をして意見をぶつけ合ってその中でちょっとでも正しそうな方向に向かうしかない。
議論対立を厭うのは知的怠惰である。……が、現実的には、宥和や共生というのは知的怠惰からの方が生まれやすいのかもしれない。
女性オタクの「地雷」って、誇張表現じゃなかったんだ……っていう驚き。
「地雷なんです!」っていうの、イキりオタクアピールかと思ってた(狂った行動するほどディープなオタクだと見なされる、みたいなやつ。女性は知らんけど少なくとも男性の社会では道を極めすぎて狂った人は遠巻きに尊敬されるから……)。イキりオタクしぐさはいいけどそれで他人に迷惑かけるの害悪じゃね? って思ってたけど、あれってマジでダメージ食らってたんだ……
自衛ってものに対する認識が女性の場合「殴られないように回避する」なんだけど男性向けだと「殴られてから対処する」なんだもん。
なるほど、嫌なものが目に入る状況を「殴られてる」と感じるのね……いや別に殴られてはいないが? 比喩だとしても「殴る」という能動的な加害が喩えに出てくるのが面白すぎる。男性にとっての地雷とは(人によるだろうが)ゴキちゃんだ。ゴキちゃんが部屋に出るのは不快だし自分の部屋からは排除したいけど、ゴキちゃんが積極的に人間を害そうとしてるとは感じないし、野原で生きている分にはわざわざ駆除しようとも思わないよ……
なんていうか、「見たくない権利」というものはあくまでも見たくない人間がわざわざ個別にやる事であって見たいやつ見せたいやつの邪魔をするのは間違ってるってスタンスで世界ができてる。
それが自由な社会ということだと思ってたので、「いやそれが憲法や法律の定める自由主義社会のルールやろ!?」と思ってしまうんだが、なるほど「好きに振る舞え、他人の行動を邪魔するな」というのは「男性基準でのルール」だったのか……そうだよな、憲法も法律も男性が作ってきたんだもんな……J.S.ミルも男性だもんな……
お互いに地雷を回避するために検索避けとか注意書きとかしましょみたいな女性向けの文脈が一切通用しないのも当然だ。
とりあえず視界に入る、という事を全住民が許容している以上は衝突も殆どないから注意書きなんて付ける意味ないし検索避けも探すのがめんどくさくなるだけ。
薄々思ってたけど、我慢の方向性が違うんだね。女性オタクの文化は「他人を不快にさせないために自由に振る舞うのを我慢する(ので他人も自由に振る舞うべきではないと考える)」で、男性オタクは「自分が多少不愉快な思いをしたとしても他人の自由にケチをつけることを我慢する(ので他人も自分の自由にケチをつけるなと考える)」。
つまり「男性オタクが自由に振る舞っていることに対し女性オタクが文句を言う」状況は、女性オタク側からすれば「私たちは自由に振る舞うのを我慢しているのに、自由に振る舞うあいつらはおかしい」と受け止められ、男性オタク側はそれを「私たちは他人の自由に口を出すのを我慢しているのに、ケチをつけてくるあいつらはおかしい」と解釈する。
いや~、ネット上の女性表象の炎上案件、だいたいこういう構図だったのね。なるほど。そら対話にならんわけだ。お互い「自分たちは我慢しているのに、何であいつらだけ」って思ってるんだもの。そら拗れるわなぁ。