はてなキーワード: 無視とは
なんでもかんでも不機嫌でコントロールとか言われるのも言うのもなんかおかしいよな。
正統な理由があって不機嫌ならノットギルティってことにしないとな。
・服が裏返しのまま洗濯に出してたら怒る
→裏返しのままでも干す手間・収納する手間は変わらない。着る時に表にする手間なんか数秒なのに怒るのは自分の思い通りにならないから怒ってるだけなのでギルティ
→LED化してたら電気代の損失はほぼ無視していいので怒るのはギルティ、白熱電球だったらややノットギルティだけどそもそもLEDにしない時点で別のギルティ
言いたいこと:「少女小説をラノベに含めても無視してもボコボコに叩かれる」という難しい状況がある。
いま、ライトノベルのオールタイムベストを選出する作業が進められている。
ラノベが社会に認められるためには、売り上げだけが唯一の評価軸である現状では差し障りがある。文化としての成熟には体系化と批評の存在が必須であり、その一歩としてたいへん意義のある活動と言えるだろう。
あくまで叩き台であり、作品数的にもより拡張した形を目指していくようだが、現時点でも各年代に目の行き届いた、ラノベの歴史の流れを俯瞰できる内容となっている。
ただ、この手の企画はどのような基準で選んだとしても、あれがないこれがないという不満はどこかから出てしまうものだ。ラノベ150選も例外ではない。
その中で今回特に目についたのが、「女性向け作品がない」という声だ。
これに対する企画者の返答は、女性向け作品については単独のガイドブック等が先行して存在しているから、というものだった。
合理的な判断だと思うのだが、これでも納得していない人は多い。少女向けをないがにしろにするのか?と憤慨し、容赦なくボッコボコである。
増田は、ライトノベルや少女小説(もしくは「女性向けライトノベル」)の歴史そのものについてはともかく、ライトノベルと少女小説との関係性についてはちょっとした知識がある。
今のままでは企画者氏があまりに不憫なので、これについて簡単に解説しておこうと思う。
ニフティサーブのSFファンタジー・フォーラム内で増えてきたある種の若者向け小説の話題を別会議室に独立させるにあたって、管理人の神北恵太氏が命名したものである……
もちろん名前はそうでも、ジャンルとしてのラノベ自体が90年に突然生まれたわけではない。起源をいつとするかは諸説あるものの、ラノベ的作品はそれ以前から存在していた(存在→命名の順であってその逆ではない)
そのようなラノベ的小説群は「ライトノベル」が定着する以前には、個人やコミュニティごとにさまざまな呼ばれ方をしていた。そのうちの一つに、ジャンルの代表的なレーベルから取った「ソノラマ・コバルト系」というものもあった。
言うまでもなく、コバルト文庫は少女小説の代名詞というべきレーベルである。つまり、命名の時点では「ライトノベル」は少女小説(の少なくとも一部)を当然に含むような形で規定されていたということだ。
(ここでの「少女小説」とは当時のコバルト文庫やティーンズハート文庫などのことであり、たとえば吉屋信子や創刊直後のコバルトシリーズなどは当然ながら想定していない)
以後、他メディア化の機会などの関係で男性向け作品の方が存在感はあったものの、ライトノベル(的なもの)は女性向けを含めたひと塊のカテゴリとして扱われていく。
2000年代に入り、語としての「ライトノベル」が一般に定着して以降も、この認識はそれほど変わっていなかったはずだ。
この状況に大きな変化をもたらす出来事が、2010年代前半に起こった。
まずは2013年、とある文学研究者がツイッターでこのような発言をしている。
少女小説・ラノベそれぞれのジャンルについての価値判断を含んでいるとまでは言わないが、これが少女小説の側に立った発言であることはまず間違いないだろう。
それまでの一般的なラノベ定義・史観を覆す、非常に大胆な主張である。
ただ、一部のラノベ読者が過敏に反応はしたものの、この時点ではアカデミシャンとはいえあくまでいち個人の主張に過ぎなかった。
それが正式な形で世に出たのは、2014年のことになる。著書としての刊行である。
この本で研究者氏は丹念に事実を積み重ねた論証により、まさに「少女小説が歴史的にライトノベルではない」ことを証明してしまったのだ。
詳細は省くが、
少女小説は戦前からの少女文化独自の伝統を直接的に受け継ぐ文学ジャンル、ライトノベルは戦後のマンガ文化等の影響から新たに生まれた新興の娯楽であり、その出自からして全く異なる別物である
ということだ。
この、市井のオタクではとうてい太刀打ちできない完璧な形の少女小説≠ラノベ論の出現により、少女小説⊂ラノベ派の多くは白旗を上げて沈黙することとなる。逆に、少女小説がラノベの枠内で扱われることに不満を感じていた少女小説業界関係者・読者は、我が意を得たりと快哉を叫んだ。
日本文学研究者による恐らく初めての本格的なラノベ論ということもあり、この本はもともとラノベや少女小説に興味のあった人間にとどまらず、幅広い層の人々に読まれていった。今やラノベ関連の研究ではほぼ必ず参照される一冊となっており、アマチュアでもラノベの定義や歴史を語るなら必読と言っていいだろう。
これによりパラダイムが決定的に転換し、少女小説をラノベに含めるような人間は、もはやそれだけで時代遅れな「分かってないやつ」の烙印を押されるまでになったのだ。
(フェミニズム的な意識の高まりにより、女性文化(少女小説)の功績を男性側(ラノベ)が都合よく収奪してきた、という構図に気まずさを強く覚えるようになったのも、この傾向を後押しした)
この空気の変化は以前/以後と呼んでいいほどに劇的なものであり、刊行から10年経った2024年の現在にいたっても、更新される気配は特にない。
お分かりだろうか。
つまり、少女小説は「ライトノベル」ではない、というのは、もともと少女小説サイドが言い出した主張なのだ。
現在では、ラノベの定義・歴史との関連で(特に男性の論者が)少女小説に触れる際には細心の注意が要求されるし、実質的にはほぼタブーに近い。
企画者氏がラノベ150選から女性向けを除外したのも、世間のその暗黙の風潮におとなしく従ったという側面がやはりあるのではないだろうか。
加えて企画者氏の場合は、かつて不用意にレジェンド少女小説作家を「ライトノベル作家」と呼んで、少女小説側から激しい批判に晒された当事者でもある。そのため今度は、なおさら慎重に配慮したつもりだったのだろう。本人としては。
結論として今回の件は、気遣いがすれ違ってしまった悲しい事例ということになる。
少女小説読者といっても一枚岩ではないし、自分はそんな配慮ぜんぜん嬉しくない。多数派がどれだけ否定していても自分は少女小説もラノベに含めるべきだと言い続けるぞ。という人もいるだろう。その気持ちもよく分かる。
分かるが、少女小説をラノベに含めても無視しても必ずどちらかからボコボコに叩かれることになる、板挟みの苦しい立場のことも少し考えてみてはもらえないだろうか。
オールタイムベストの企画者氏は現在、文化としてのラノベ保全のため「ライトノベル図書館」の設立計画を進めており、クールジャパン予算を獲得すべく自民党の国会議員に働きかけている。ラノベオールタイムベストはその陳情の材料にもなる予定らしい。
こうした活動の文化的な意義を踏まえた上で、できれば多少の意見の相違は呑み込み、振り上げた拳をどうかそっと下ろしてはくれまいか……
長え! 一番言いたいことを最初に置いとけよ。
追加しときました。
核心部分が何で匿名やねん
「ラノベのルーツの1つは少女小説である」と「少女小説はラノベである」は意味が全然違うと思うが(後者を主張してる人いる?)
“ラノベのオールタイムベスト”に、ある少女小説を推すとした場合、(少女小説全体やレーベル全体ではなく)少なくともその作品は「ラノベ」で(も)あることが自動的に前提となるのでは。
逆に言うと、ラノベではないがラノベのオールタイムベストに入れろ、は通らない。
排除ではなく、少女小説の側がラノベに括られることを拒否した運動があった、という話です。
クール・ジャパンから公金を引っ張るために少女レーベルや未分化期を無視するのは仕方ないキリッ されて、納得は出来ないですけど………
リストから少女向けを除外した理由(と思われるもの)と、批判のトーンをなるべく抑えてほしい理由は、別々に書いたつもりです。
wikipediaより「1990年初めにパソコン通信ニフティサーブの「SFファンタジー・フォーラム」において〜「ソノラマ・コバルト」などのレーベルからの出版物に「ライトノベル」と名付けたことが始まり」コバルト入ってるやん
はい。
その話を本文に書いています。
その、とある文学研究者って誰だよ。名前を出してくれないと分からないよ。2013年の事なら記憶にありそうなものだが思い当たる人がいない。
ツイートの件はともかく、著書の話を見ても心当たりがないなら、たぶんそもそも知らないんじゃないかな……
その「知らん研究者のお気持ち」が定説化して力を持ってしまっているという現実があるのです。
たとえとして適切か分かりませんが。
ナンパを不快に感じるA子さんと、女をナンパしない男は無礼だと信じるB子さんがいるとします。二人のナンパに対する意識は、事前に外からは判断できないものとします。
公開年: 2023年
「関心領域」は、街中で淡々と駆除される弱者男性たちと、それに見向きもせずに日常生活を送る女性たちの冷酷さを描いたサイコロジカル・ドラマです。映画は、眼の前で悲劇が起こっているにもかかわらず、全く関心を向けない女性たちの無関心と冷淡さをテーマにしています。弱者男性たちが駆除されるシーンは直接描かれず、セリフや背景から暗示的に伝えられます。映画のラストには視聴者に対する挑発的なメッセージが込められており、観る者をもその冷酷さに同調しているのではないかと問いかけます。
物語は、都会の無機質な風景から始まります。主婦の美奈は、平凡な日常を送っています。彼女の生活は、家事、買い物、友人とのランチといった普通のことに満ちています。しかし、街中では、弱者男性たちが駆除されているという不穏な噂が流れています。
観客は、駆除される男性たちの姿を直接目にすることはありませんが、背後にある会話やテレビのニュース、そして女性たちの無関心な態度から、その存在を感じ取ります。美奈とその友人たちは、この問題について全く触れることなく、日常を過ごしていきます。
映画の中盤では、美奈が日常の中で幾度となく駆除の痕跡を目にするシーンが描かれますが、彼女はその度に意図的に無視し、話題を変えます。街の雰囲気は次第に冷酷さを増し、観客はその不気味さに引き込まれていきます。
美奈の演技は淡々としており、無関心な主婦を見事に演じています。彼女の表情や態度から感じられる冷淡さは、映画全体のテーマを強調しています。友人たちも、それぞれが無関心な態度を自然に演じ、物語にリアリティを加えています。
監督は、視覚的に直接的な暴力を避けつつも、観客にその不快感を巧妙に伝える手法を用いています。背景のディテールや登場人物の何気ない会話を通じて、物語の裏にある冷酷な現実を描き出しています。
音楽は控えめで、むしろ静寂が多くのシーンで支配的です。これにより、日常の中に潜む不安感が強調され、観客の緊張感を高めます。
映画は、視聴者に対して強烈なメッセージを投げかけます。ラストシーンでは、観客自身が映画の中の冷酷な女性たちと同じ無関心な立場にいるのではないかと問いかけます。この挑発的な結末は、観る者に強い衝撃と反省を促します。
「関心領域」は、現代社会における無関心と冷淡さを鋭く描いた作品です。直接的な描写を避けながらも、そのテーマを強く観客に伝える巧妙な手法は評価に値します。視聴後に残る不快感と自己反省の感情は、この映画の最大の特徴であり、サイコロジカル・ドラマとして非常に成功しています。
このレビューが参考になれば幸いです。「関心領域」は、視覚的な暴力を避けつつも深いテーマを持つ挑戦的な作品です。観客に強い印象を残すこと間違いありません。
歯の再生医療については、そのうち実現する実現するって言われている割に一向に具体的な話を聞かず
自分が生きているうちにはもう無理かと思っていたけれど。
以前から噂だけはあった歯生え薬、
とうとう今年中に治験開始って事で、実現の目が見えてきたのが本当に嬉しい
とにかく歯についてはちゃんと歯磨きしろとかフロス使えとか定期検診受けろとか、そればっかりが言われてきた
生まれつき歯がない、先天性無歯症の人の存在が無視されている。
生活習慣病一般に対する自己責任論はそれなりに批判されても、歯については当然のようで自己責任論で語る人が多すぎるんだよ。
自分は30過ぎて初めて、奥歯の一本が乳歯ですと言われ、本当に心の底から絶望した
「歯科医としての夢」欠如歯が再生する“歯生え薬”の治験を9月に開始…虫歯で失った歯にも応用できるか聞いた
https://news.yahoo.co.jp/articles/b723982bffff20a202b3e02a12053d9ab7b8c3d6
北野病院の高橋克・歯科口腔外科主任部長によると、先天性無歯症全体では発症率が全人口の1%と言われているため、日本には患者が120万人いると推計している。
幼少期から歯が欠如しているとオーラルフレイル(歯・口腔の虚弱)となり、成長期の長期にわたり生活に支障をきたすという。
今回治験を進める“歯生え薬”とは、永久歯や第3生歯などの歯の芽(歯の原器)に作用し、歯を再生することができるものだという。
言ってる事は理解できるし、殊勝な考えだと思う。
だけど今回みたいな母親の子殺し以外の事件でも同じ主張ができるだろうか?
例えば、我が子じゃなくて見ず知らずの子供3人を締め殺した事件であっても、その犯人に同情できる?
京アニ放火事件が報道された時、容疑者に真っ先に抱いた感情は同情だった?
おそらく違うと思う。
子供を3人も殺した人間が同情される立場からスタートするのはまさに母親の子殺しのケースだけだ。
そしてその母親信仰が司法にまで及んでいるのは異常と言わずして何と言うのだろうか。
事件の経緯や背景を充分に把握することは、未来の事件を未然に防ぐために必要な事だと俺も思う。
社会的に悪だからぁ!自分の中の倫理観がぁ!とかわめいている奴って馬鹿なの?
お前だけがそんな価値観を持っても無駄だぞ?他の奴は自分のことしか考えてねぇし倫理なんて無視して自己中に生きてるからな。
自分だけ金だけって考えて生きろよ。
清掃とか色んな底辺職のバイトをやったら世界のクソさと人間のゴミさに気づいた
職場の人間じゃなくて赤の他人がやってきたことな。仕事は普通に出来てた。
いきなり蹴り飛ばされる
空き缶を投げつけられる
小銭を足元に投げられて「お前みたいな底辺は金ねぇだろ?欲しいだろ?拾えよw」と煽られる
そりゃ世界が全部敵に見えるわ
こいつらが死のうがどうでもいいって気持ちになるわ
俺はバイトだったから反面教師にして半グレになってでも金を稼いでやろう世の中は金が全てって価値観になっただけだから良かったけど
この生活が続くし抜け出せる可能性は無いって思ったら絶望して無差別テロ起こすわなって思った
でも、お前らは被害者面するんだもんな。自分が加害者で無敵の人予備軍を嘲笑し見下し馬鹿にしたことは一切覚えてないんだもんな。
そいつが異常者だったって切り捨てて終わりだもんな。世界ってクソだわ。人間ってゴミだわ。
何かバズってるけど思ってた反応と違ったな
そうだよね!あるある!みたいな感じかと
港区とか千代田に住んでいる、強者男性・女性のはてなの人達じゃ分からないんだろうな
ちょっと治安の悪い場所でバイトをしていたのと、俺の見た目が低身長チー牛だからってのが大きな原因だと思う
とりあえず見た目と言動を輩っぽくして格闘技始めたわ。いつでもクソどもをボコボコに出来る状態にしねぇと怒りと憎悪で無敵の人になっちまう
やっぱ世界ってクソだわ。
生成AIの話題を見ていると「生成AIと人間の学習は同じ!」という話を見かける。
同じ、といっても「人間も模写をする」や「他人から学習をする」という理論が主。
聞くに生成AIは58億の画像を学習して成り立っているらしい。
58億、とんでもない数字なわけだが、生成AIの機械学習が本当に ”人間と同じ学習” ならば
あそこまでの画力を出すのに58億。些か ”学習下手” だなと言わざるを得ないと思う。
自分は趣味で絵を描いている人間だが人生の中でいくら絵を見続けていたとして、見た絵は50万も行くかもわからない。
その中で更に ”学習” する為に使う資料となれば5万以下にまで減る。
正直、人間が絵が上手くなる為に必要なのは ”他人の絵(資料)そのもの” ではなく ”理解力” だ。
当たり前の話すぎる。
絵が上手くなりたいならデッサンしろって言われたことはないか?
物の本質、構造を理解し、それを絵で表現する力を身に付けるためにやれと言われる。
人間は5万も要らずに多くを理解できるのに対して、生成AIは58億を以ってもまだ理解できない部分があると来た。
これを学習下手と言わずになんと言うのか。生成AIと近未来的な名前をしている割には低機能だなと思ってしまう。
いい加減本題に入ろう。
答えは否だろう。
理由は先に簡単に答えたが生成AIというものに ”物の構造を理解する能力” はない。
私はAI技術というものに詳しい訳ではないが、断言しよう。 ”物の構造を理解する能力” はない。
人間の学習というものはそもそも学習内容を正しく理解し自分の知識として蓄えそれを正しく活かせて初めて ”学習出来ている” といえるものだ。
テストの内容を丸暗記して100点を取ったとしても、それを正しく知識として身に付けていないのならばその学習に意味はない。
よく居るだろう、勉強が出来るだけの馬鹿が。テストでいい点を取っていたのに今はしょうもない平社員なんかやってる人間が。
結局そいう人間というのは正しく活かす為の知恵がなかったというだけの話。
生成AIは過去問全部引っ張り出して暗記して80点を取って「出来た!」と言っているだけに過ぎない。
要はただの数に物を言わせたパワープレイだ。
そこに知恵なんかない。
反AIと呼ばれる人々が生成AIを「コピペ」や「コラージュ」と言うのはこういう面にあると思う。知らんが。
要は他人の技術を、意味や本質学び活用し発展させるのではなく、他人の技術をそのまま切って張っただけ。
その範疇をでないから新しいものは生まれずありきたりなものになり、絵柄を陳腐化させる。
こう見るとコラージュよりも出来が悪いな。
そうではない、と言うならば。
上げればキリがない程に破綻が多い。
そしてその破綻をなくす為にはプロンプトだとかいう呪文とやらの駆使が必要になる。
そこまでやって、やっと手描きと見間違う程のものが出来る。
著作権がどうとかAI技術がどうとか、そういう側面のことは詳しくないので語らないがこれだけは確かだと自信を持って言える。
物の構造や、物事の本質、絵を描く事における技術的知識も何もなく
何一つ活用すら出来ない程度のものが、人間の学習と同じな訳がないだろ。
そもそも「学ぶ」ということをなんだと思ってんだ。
ちなみに私はこの話に於いて「著作権がどうの」 「二次創作がどうの」などという面倒な話はしていない。
だというのにも関わらず「人間が少量で理解できるものを」 「何十億と消費できる機械が理解できていない」という客観的事実を無視して
「人間と機械の学習は同じ」という理論が展開されているのはおかしいだろ、という話をしている。
https://www.ntv.co.jp/3min/recipe/20240606/
敗因
・水カップ1/2で蒸し焼くところメモを1(1/2)とメモしていてカップ1近く入れてしまい水餃子っぽくなってしまった
・2度に分けて焼けという指定を無視し1度で焼きフライパンから剥がすのに難儀し、肉が皮から飛び出てグチャグチャ中華風肉団子になってしまった
でもめちゃウマ、みそ大2と1/2、みょうが3個入れたのにどちらも風味を全然感じないってのは新たな発見だった、酢コショウで食うとクドさが消えて美味いね
・キャンセル防止の為、受注時点で先にカード売上処理(モール規約違反)。出荷が終わってから売上処理が絶対のルールだがガン無視。
・輸入製品を検品無しで売る為不良率がめちゃくちゃ高い。体感4割は初期不良でクレームが来る。
・しかしノークレーム・ノーリターンを明記しているからを理由にクレーム電話やメールはテンプレ対応で交換返金一切対応しない。
・商品ページはレビュー件数が多いページを使い回し(モール規約違反)。化粧品のページがDVDプレイヤーのページになったりする。
・別店舗ではアトピーが治る水、がんが治る水、チンコがデカくなるサプリ、豊胸サプリ、海外の気分が良くなるサプリ等を売っている。直接効果は書かないが外部に衛星サイトを作って検索を促す(モール規約違反・薬事法も多分アウト)。
店舗運責任者に記載している名前は全部偽名だし、住所もダミーオフィスの住所だし、本当よくここまであくどい商売をできるなぁと呆れ返っている。お陰で入社一ヶ月でもう転職活動を始めることになったよ。
ただ、在阪のネット通販の会社って、アトピーが治る水、がんが治る水、チンコがデカくなるサプリ、豊胸サプリ、海外の気分が良くなるサプリのいずれかを扱ってるところが多いんだよな。10社受けて4社は、実は~みたいな感じで面接で明かされてこちらからお断りしたし。
それほど昔でもない昔、あそこの道路標識違反が多発してるー、と何度も警察にうったえていた人がいました。
しかしその場所は、どちらかというと標識が不合理で、皆が暗黙に無視している場所でした。
その人は何年も粘り強く訴え続けました。警察はとうとう標識を撤去しました。もう違反はありません。
訴えていた人はたいへん悲しみました。「警察に正義はないのか!」
おしまい。
そんな発表を受けて、既存のシステムは復旧不可能なくらいに汚染されているのではないかとの推測もで始めているけど、ニコニコと言えば、プレミアム会員数も売上もずっと下がり続けていて、先日は、アドブロックを使わないよう技術で対策する前に「お願い」するような凋落ぶり。
ニコニコは正直、いつどう言う形でサービスを閉じるかが焦点と言うところまで来ており、本来はもっと時間をかけて徐々に縮小すべきではあったが、だからと言ってその為だけに壊れたシステムを復旧させるのは正しい経営判断とも思えない。
元々、人権軽視や著作権無視のコンテンツが横行するサイトであり、現代の権利基準にも追いついていないのような平成の遺物でもあり、ここら辺りでインターネットの歴史の一部となった方がいい。
子曰く、「昔者鄭人使程鄭喻於晉,曰、我雖以尺地加於鄭,若其僨也,若其猶也,不越五六年而鄭必有亡矣。鄭人以此五年不改其政,於是乎其國亡矣。」(孫子・作戦篇)
増田よ、エスカレーターでのルールと車の法定速度についての議論は、実に複雑な問題である。
孫子の例にもあるように、鄭の国が小さな過ちを続けた結果、その国を滅ぼす事態に至った。
すなわち、我々が小さな規則を無視し続ければ、大きな混乱につながる可能性があるのだ。
エスカレーターや車の運転には、それぞれ異なる社会的規範とリスクが存在する。
エスカレーターの片側利用の流れは、ある程度の効率性と安全性を保つために守られるべき一方で、法定速度の厳守は重大な交通事故を防ぐための重要な措置だ。
増田が指摘するように、エスカレーターでの片側利用が「背中押される」といった危険を避けるための自己防衛策であるという主張も一理ある。
しかし、それが必ずしも法や規則の優先度を低める理由にはならない。
全体の安全性と効率を保つためには、基本的なルールを守ることが不可欠である。
「流れを守ること」の重要性も理解できるが、「流れ」が全てのルールに勝るわけではない。
皆さんは車の法定速度厳守してませんよね?
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/nigenige110.hatenablog.jp/entry/2024/06/09/120640
市街地くらいなら守ってる人も多いけど、県道に出た途端に制限速度50kmのところを60kmくらい出してますよね。
車の流れを守るためとか言ってルールより重要なはずの法律は無視しだしますね。
で、その話すると「メーターの50kmは制限より低い」とか言い出すんだけど
制限はMAXの値であってそれ以下にするのが当然なんですけど。
守りたくない法律の話になると無視していいんですね。ルールは守れっていうくせに。
「流れを守らないと逆に危ない」
なるほど。世間の常識となってる片側乗りの流れを無視したら「おっさんに背中押される」とか危ない目に遭いますが
危険を避ける為に片側乗りを維持してる人達も一切悪くなくなりましたね。
効率が悪い?