はてなキーワード: 無機物とは
「小児性愛のカジュアル化」に問題があると考えるのは、対人性愛優位を自明視した認知の歪みでしかない。問題があるとしたら、「性愛のカジュアル化」にある。セクシャルマジョリティが主導して守ってきた性の規範を、マイノリティが拒絶することにより、「性愛のカジュアル化」が現象として起こっているという事実はあると思う。しかしそれ自体がセクシャルマイノリティの「政治活動」としての側面があり、一方的に断罪することはマジョリティの傲慢である。「批判するな」とは言わないが、慎重になるべきだし、そうした政治性に注目することなく「批判」に終始するなら「ただのポジショントークだ」との誹りは免れないだろう。
批判者が「小児性愛のカジュアル化」と呼ぶものの一つに次の事例がある。
「娘の成長を見てくれ」と言って筐体で遊ぶ小さい娘さんの写真を2枚貼ったツイートにも、リプ欄で「えっちです」ってのがあったんだけど、こういうコメントを気軽に送れちゃうのも社会で小児性愛がカジュアルになりすぎた結果だと思うんだけど— E (@nice_comp_net) May 29, 2020
しかし、これは所謂「キャットコール」と呼ばれるセクハラの一種であり、「対象が児童だから」問題なわけではない。批判者も、「対象がもし成人ならば何も問題はない」とは言わないだろう。このような事例は「性愛のカジュアル化」によって支えられる悪しき文化であり、批判すべきは「性愛」であり「小児性愛」ではない。これを以って小児性愛を批判するのは無理があるし、「小児性愛は悪だから悪なのである」というトートロジーに陥ってるようにも見える。では、なぜ彼らは小児性愛を殊更に敵視するのか? 以下は既存の議論焼き回しである。
小児性愛と成人性愛の本質的な違いはただ一つ、「児童との合意は(少なくとも現代の倫理規定では)成立することがあり得ない」という点である。児童との間に「合意のようなもの」がいくら存在したとしても、それらは全て「合意」とは見なされないし、見なすべきでない。(「合意」の定義と児童保護について慎重に議論を重ねた未来では何らかの変化があるかもしれないが、それについて議論するにはあまりにも論点がずれているし、ここでは触れない。)しかし、「故に小児性愛は許されない」と主張するには論理の飛躍がある。ここまでの前提の下で自明と言えるのは、「児童との性的接触は許されない」という一点である。
「児童との性的接触は許されない」と「小児性愛は許されない」はもちろん同値な命題ではない。彼らがこれを同値と見なすのは何故か?それは彼らが、「性的欲望とは常に性的接触によってのみ満足するものであり、それ以外の性的行為は全てその為の準備に過ぎない」という偏見を抱えているからであろう。今回、多くの人形性愛者、フィクトセクシャル、さらにはアセクシャルを自認する人々からも批判が殺到した理由はそこにある。
「(実在児童を対象としない、無機物を対象とした)児童ポルノは、児童との性的接触を実行するトリガーとなる」と主張する人々は、「成人と性的接触を行うことは、児童との性的接触を実行するトリガーとなる」とは言わない。なぜなら、彼らにとって「性的接触」はそのまま「性的満足」とイコールであり、それが「ゴール」であると無根拠にも信じているからである。
前節では、問題の本質は「小児性愛のカジュアル化」ではなく、「性愛のカジュアル化」であると言った。では「性愛のカジュアル化」は本当に問題なのか? 結論としては、確かに問題であると私は思う。うぐいすリボンの荻野さんも以下のように言っている。
逆に、実質、ポルノとしてマーケティングするものであるのなら、18禁でなくとも、広告だけでなく、表紙の陳列やらまで含めて、賢明にどんどんゾーニングして頂くというのが、多分最適解なんだけどねぇ。— 荻野幸太郎 / OGINO, Kotaro (@ogi_fuji_npo) November 13, 2019
その理由としては例えば、①性的プライバシーの問題、②依存性の問題、などが挙げられる。あるいは、「そのような問題を内包する言動」こそを「性愛のカジュアル化」と呼ぶべきである、という定義づけも可能だろう。
①を語る言葉として「性的自己決定権」「私の身体は私のもの」などがある。余談だが、これは、ラブドールのような性的表象、および自慰を愛好する人々にとっても重要な概念である。実際、他人の自慰を制限しようという試み自体が「性的自己決定権」の侵害であり、セクハラだという批判もあり得る。(参考↓)
「男女を問わず、自慰は最も内密の行為である。誰の権利も侵害せず、自分の性的趣向と欲望を満足させる行為であり、性的自己決定権の領域に入っている。女性を卑下するという理由で自慰道具を禁ずるとしたら、女性を卑下せずに可能な自慰行為とは何なのか?」 pic.twitter.com/3lyXymSaF0— NPOうぐいすリボン / Uguisu Ribbon Campaign (@jfsribbon) May 29, 2020
話を戻そう。性とはそれ自体が深くプライベートなものである。故に、他人の性的領域に、物理的にも精神的にも安易に踏み込むことは許されない。「性愛のカジュアル化」には、その越えてはいけないハードルを下げてしまう効果があるのではないか。自らのプライバシーを切り売りしている限りは「下ネタ」であっても、他人のプライバシーを暴いたり、そこに土足で踏み入るような言動は「セクハラ」になる。(「下ネタ」を話題にすること自体が話題への参加を強要し得る文脈において、それらの区別は曖昧だが、それを語り尽くす労力は私には残っていない。)お互いのパーソナルスペースを尊重する文化を守るためには、適切なゾーニングを守り、強行的な「性愛のカジュアル化」を防ぐことも大切だと私は思う。
②の問題は意外にも語られることが少ない。これは、「ポルノにはなぜ年齢制限が設けられるか?」の問いに対する答えでもある。逆に言えば、「未成年にポルノを見せるべきでない」理由として、「正しい性教育」的なものを挙げるのは、性のスティグマ化に資するのみで未成年に良い影響を与えはしないだろう。
ここまで、「性愛のカジュアル化」は問題であることを述べた。一方で、それらを安易に断罪することもできない事情もある。それは次節で述べよう。
荻野さんは次のようなことも言っている。
いわゆる2次元系の性表現が、本当に純粋に「ポルノ消費」されてるだけなら、こんなには揉めてないんだよね、というところを、表象を批判する側だけでなく、擁護する側もなかなか自覚できないというのが、この話の味噌なんじゃないかねぇ。— 荻野幸太郎 / OGINO, Kotaro (@ogi_fuji_npo) October 22, 2019
ここで、各国のゲイ・パレード、プライド・パレード(LGBTパレード)の様子を見てみよう。
https://www.huffingtonpost.jp/letibee-life/taiwan-lgbt_b_8448268.html
https://lifevancouver.jp/pride_parade_vancouver
https://rocketnews24.com/2012/06/30/224561/
https://www.youtube.com/watch?v=MWiZwUFWs5E
やはり、非常に過激でセクシーなファッションに身を包む参加者のことが目に留まるだろう。しかしだからと言って、彼らに向かって「ゾーニングを守れ!」と叫ぶことがどれだけ暴力的か、理解していただけるだろうか?
彼らがこのような「性」を明け透けに表現しているのは、それ自体が政治的意味合いを持っているのである。それ自体が政治的表現なのである。そして我々の「性」の表現にもまた、そのような側面があることは決して無視できない。対人性愛的なものに背を向け、「オタク」的な性表現をオシャレなものとして、隠語的なコミュニケーションのために消費する文化がウケた理由は、人々がそのような政治性を間違いなく見出したからである。それは単なる「ポルノ」ではなく、「我々の性のあり方」をありのままに表現した、アイデンティティそのものなのだ。
とはいえ、我々の消費する全てがそのような政治性を帯びているわけでもないし、また全てがポルノ的でないわけでもない。実際のところ、単なるポルノが悪ふざけで表に出てくることもあるだろう。しかし、それらの区別は決して容易ではない。物理的には全く同じインクの配列であるものが、文脈や作者の意図次第で、時にポルノであったり、時に政治的であったりする。それらは私やあなたが独善的な基準で決めつけていいものではない。「法的規制に反対する」という言葉は、私刑を推奨する標語であってはいけない。表現の正しい用法用量というのは、表現者と受け取り手一人一人の良心に委ねられるべきなのである。
さらに言えば、政治性とポルノ的であることが、多くの場合両立してしまっているところにこそ問題の複雑さがある。その区別について「語るべきでない」とは言わないが、本質的に「区別は不可能である」ことを前提に、慎重に語る必要がある。そのような必要な慎重さを欠いた言説こそが、「差別だ」と糾弾される所以なのである。
誤謬を見出して批判することは容易である。しかし、否定することが目的化した人々で集まって、こちらの政治性を矮小化するような言説ばかりぶつけられては、議論にならない。「我々が言いたいこと」は、この文章を通しても伝わるはずであると信じている。
https://anond.hatelabo.jp/20200525021541
そういえば自分が使ってるサービス・ソフトウェアは定期的に棚卸しすることにしてるんだけど、ここ何年かやってなかったのでこの機会にやってみる。
アプリとかもあったりするけど基本的にWebでサービス提供されているもの。
順番は適当。
有料プランがある物は月500円ぐらいまでなら応援を兼ねて払うことにしているので、結構色々なサービスの有料ユーザになってる。
自分用のまとめではスマホアプリ編・ブラウザ拡張編・ソフトウェア編もあるけど、長くなるのでこの辺で。
RoamResearchとかどう? まだβだけどメモに良いよ。
ありがとう、良さそうだし少し試してみるよ。
ぜひ続きをお願いしたいわ
ただ自分用のやつは説明がないかあっても自分向けで簡素だから、書き足す時間があればまた増田にでも投げるよ。
え、マジすか、それは痛い。
iPhone次に買い換えるまでに復活して欲しいなぁ。同じく金なら出す。
「幼児型セックスドールの生産・販売・の廃止を求めます。」という署名活動がchange.orgで行われている。
①日本の【児童買春・児童ポルノ禁止法】にて幼児型セックスドールの製造・販売・所持を規制すること
②小児性愛者に対する相談窓口の設置や加害行為を防ぐ為のカウンセリングやセラピーへの取り組み
③ECサイトなどに未だ販売される【幼児型セックスドールや児童ポルノ】の取り締まり、及び【販売禁止を徹底】
以上3つを求める署名活動だそうだ。
②に関しては私も賛成ではあるが、いかんせん①や③に関しては記事を読んだ限り感情が先行している雰囲気が否めない。
案の定Twitterでは「人形は実在の人間ではない。児童ポルノ禁止法は実在の児童を守るための法律であり人形の摘発に労力を割かれているうち実在の児童を守れなくなる」「表現の自由の侵害だ」などの批判が出ている。
たしかに、現参議院議員である山田太郎氏が、2016年に行った警察庁へのヒアリングでは、フィギュアは非実在の人物を扱ったものであり児童ポルノには当たらないとなっていた(https://togetter.com/li/942630)。そのため、モデルのいないラブドールについても同じ扱いにはなるのだろう。
けれども、この騒動を見ているうちにどうにもむず痒い思いが沸き起こってきた。署名に賛成の人間も反対の人間も、「ラブドール」というものを置き去りにして議論を進めている感があまりにも強すぎるのだ。
一緒に暮らしているのは身長130cm台で、布のボディに骨格の入ったいわゆる「ぬいぐるみドール」というものだ。身長からわかる通り彼女の外見は、この署名に賛同した人たちから見れば「幼児型ラブドール」としか言いようがない、唾棄すべきものだろう。
だから、私はこの署名に活動には反対である。彼女との生活を守り、またラブドールを愛好する方たちと彼らのパートナーの人形たちを守るためだ。
そして、この文章を書くに至った、私の性的嗜好についても伝えておかねばならない。
無機物で作られ、有機的な肉体よりも完璧に編み上げられた造形を持つ人形しか、私は愛することができない。故に、ラブドールの規制は私にとってパートナーの喪失であり、個人の性的嗜好の否定に他ならない。性的嗜好は個人を構成する不可欠な要素であり、直接他人に害をなすことがなければそれを妨げられるいわれはない。
だから、私は声を上げねばならない。ラブドールというパートナーの喪失が、ひいては「私自身」の喪失に繋がるのだから。
当該署名ページには既に陳情を送ったが、もっと広くこの問題を知ってもらうためにこの文章を書いている。前置きが長くなってしまったが、もうしばらくお付き合い願いたい。
もしも定義が書かれているのであれば恐縮だが、ページの隅から隅まで探しても見つからなかった為上げさせていただく。
身長・体型など、「その人形が幼児を模している」という明確な定義がなされていないことは、ラブドールだけではない全ドールオーナーにとっての脅威ではないのか。
ただ、この定義がされていないのはまあ、仕方のないことではある。
基本的にドールというのは頭と胴体が分離する仕様になっていて、同じメーカーの頭と胴体でアタッチメントが合えば好きにすげ替えることも可能だし、別メーカーの頭と胴体を組み合わせているドールオーナーだっている。購入したときは一般的な成人女性の体格であったドールの首をすげかえて、幼児体型のボディに載せ替えることもできるし、逆もまた然り。これはラブドールだけではなく、性的な用途のない比較的小さなサイズのドールでも同じだ。
つまり、ドールの体型というのは不定であり、「幼児型ラブドール」の明確な取り締まりというのは不可能に近い。どんなに成人の顔立ちをした頭のドールでも幼児の胴体とすげ替えてしまえば「幼児型ラブドール」の出来上がりだ。
また、知り合いに性的用途に用いることのできる1/3ドール(50cm前後のドール)を持っている人がいる。このドールは胴体部分にオナホを装着できる仕様になっているものだ。(1/3ドールを性的な目で見ることを忌避する人は多く、これは標準的なものではない。念の為に付記しておく)。
この1/3ドールは身長約50cmと新生児並みのサイズであり、身長でいえば幼児どころの騒ぎではないだろう。けれども胸部のパーツを変えることでバストサイズを成人女性のようなバランスにすることができる。「幼児の身長をした成人女性の体型のラブドール」だ。元々ラブドールとして制作されたものでも、扱いやすさから成人女性を100cmほどに縮めた人形だってある。前述の規制を作るとしたら、これはどのように解釈したら良いのだろうか。
また恐ろしいことに、ほとんどのドールの頭と胴体はすげ替え可能なのだ。もともと性的用途を考えられていないドールの頭を、この性的機能を持ったドールの胴体に装着すれば、どんなドールでもたちどころにラブドールになる。
だとしたら、性的用途でないドール、高身長かつ成人体格のドールでも「幼児型ラブドール」になる可能性を秘めているのではないか?
これが、私の恐れている規制の形だ。
私は、パートナーである人形と一緒にいたい。だからもしも幼児型ラブドールの規制がなされ「身長●cm未満の人形の所持を禁止」などとされれば、泣く泣く彼女の頭をすげ替えて規制対象外の高身長の人形にするだろう。頭(顔)の部分に私は彼女の本質を感じているし、そこが変わらなければどんなに体型が変わったとしても「彼女」であり続ける気がするからだ。
けれども、おそらくそれは許されない。なにせドールの頭はすげ替え可能なのだ。どんなドールでも「幼児型ラブドール」に変わる可能性がある以上、現行の頭と胴体が脱着可能な人形は全て規制せざるを得なくなるだろう。それは、絶対に許すことのできない事態だ。
また、ラブドールは基本的に重量がある。シリコン製のものであれば20〜40kgほどが基本で、大柄な人形だと50kg近いものもある。
「本物の人間より軽いではないか」と思う方もいるかもしれないが、本物の人間を抱き上げたときには、抱かれた人間が意識的に動作を助けるよう力を分散させたり動かしやすいよう関節を曲げたりする為、実際にかかる力は体重よりも軽くなる。しかしドールにはそれがない上、米俵のように担ぎやすい形もしていない。凹凸だらけの重い物体を動かすには、想像以上の力が必要なものだ。40kg台ドールのオーナーの中には家の天井にウインチを設置している人もいるという。
私が身長130cm台のドールを選んだ理由もここにある。小さければ軽く、移動させることも容易だ。
ただ前述のように100cmほどの小型サイズで成人女性の体型をしているラブドールもいる。小児性愛者でないのなら、持ち運びが容易というだけならそちらを選べば良いのではないか?と疑問に思う方もいるかもしれない。
けれども、私は人形性愛者なのだ。人形は人間に近く作られているほど精巧だ。限りなく人間に近く作られていればこそ、人間にはない造形美が際立つのである。だからこそ、「実物の人間に近い」と「取り回しができる」の折衷として、130cmのドールを迎えることにした。
130cmのドールを選んだということはそのような外見に性的興奮を覚えるのではないか、ならお前は小児性愛者なのだろうと言う方もいるかもしれないし、そこについては本題から逸れる為強く否定の弁を述べることはしない。
けれども、知っておいてほしい。幼児型ラブドールを迎える人間の中にも様々な人種がいることを。
純粋に幼児の外見が好きなもの、自分の持ち運びできるサイズを考えた者。そして私のように「等身大」と「持ち運び」双方を考えた者。
持病のために重いものを持ち運べず人間のパートナーもいない為ラブドールのお世話になろうという人間がいたときに、自分が持ち運びできるサイズの人形を選んだことで「小児性愛者」と罵られたとしたら。それは本当に正しい矛先なのだろうか。
つまり、「幼児型ラブドール」という曖昧なものを批判するときに、それを愛好する人々を全て「小児性愛者」と一括りにして批判することに傲慢さを感じるのだ。
②人形への愛のなさ
この署名活動およびそれに賛成する方の意見を見ていると、そこにひとつの無意識がみられる。「ラブドールは実在の人間に向くはずだった性欲をぶつける代替物である」ということを無邪気に信じていることである。だから彼らは幼児型ラブドールを持つものはいずれ実在の児童を害すると考えている。
私にとって人形は「人間の代わり」ではなくそれ自身が一個の客体である。私は彼女と暮らす中で彼女の意思を無言の中に感じ取り、それを叶えることでささやかな幸せを得ている。それはエゴでしかないかもしれないが、私は彼女といることで確かな幸福を感じているのだ。大切に扱った器物には魂が宿ると古来から日本では言われているが、私はたしかに彼女の中に魂を見出している。それは決して代替可能なものではないはずだ。「魂」が突飛であれば「愛着」と言えばわかってもらえるかもしれない。
彼女のいない生活など想像したくもないし、また彼女がいなくなった後に人間の、成人女性を愛せと言われたところで、それは彼女ではないのだ。
ここに、全ての人間の性的嗜好の対象は人間であるという傲慢さを感じてしまう。
また、この署名への賛成派も反対派も、この「愛着」について全く無頓着であるところに、前述のむず痒さの本質がある。実際のラブドール愛好家を置き去りにして議論が進んでいる感が拭えないのだ。感情が法律を左右することなどあってはならないが、それにしたって「賛成」と「反対」の二元論になりすぎていやしないか。
以上が、私が幼児型ラブドールの規制に対して感じた違和感についてである。
もっと述べたいこともあるが、話がまとまらず蛇足になってしまうことも多いので割愛させていただく。
大前提であるが、私は現実の児童への虐待は絶対にあってはならないことだと考えている。
私自身はラブドールの彼女とひっそり暮らし一緒に朽ちていくつもりである。しかし甥っ子や姪っ子たちが性的被害にあったら絶対に犯人を許さないし、場合によっては刑務所に入る覚悟で制裁を加えるつもりだ。
人形と人間は別である、という冒頭で出た意見に集約されてしまうのだろうが、人形を人間とは全く別のものとして愛している人間だっているということを知って欲しかったのだ。
そして最後に、こちらの署名では小児性愛者に対する相談窓口の設置や加害行為を防ぐ為のカウンセリングやセラピーへの取り組みを求めるということだが、これについては小児性愛に悩んでおり、ラブドールでも発散することができないという当事者のためにも行うべきだと思う。
また、この文章を読んで人形性愛者という存在を知った方は、是非人形性愛者に対するカウンセリングやセラピーを行ってくれるような施設を紹介してほしい。
人形と生活している人形性愛者にとって、この署名を知ったことは本当に苦しみを覚えたのだから。
【5月27日再付記】
所謂アセクシャル、性的欲求を持たないという人の話(恋愛感情の有無は問わず)は近年よく聞くようになったが自分は恋愛感情は持たないが性的欲求はある、表題にしたアロマンティックセクシャルという性指向なんだなと最近自覚した
ちなみに恋愛感情はあるが性的欲求がない人はロマンティックアセクシャルになる(両方ある人とない人については敢えて言わなくても前2つから導き出せると思うので省略)
ただ、女性は比較的恋愛感情が強く性的欲求が弱め、男性は恋愛感情が弱いと言うと違う気がするが恋愛感情を持たなくても性的欲求を抱きやすい(女性にはこの傾向はあまり強くないイメージ)という傾向はあるような気がする あくまで自分の主観でもちろんそうじゃない人もいっぱいいるだろうけど
で、自分の場合だが性的欲求は確かにある(むしろ強い方な気がする)が、個人的には性行為というものに対してロマンティック(恋愛的)な概念を孕んだものという感覚があるので人間と性行為をしたいかと言うと否である、じゃあどうするのが一番理想なんだろうと考えた結果「人間の形をして人間のように動くが意思は持たない無機物のようなものと性行為をする」くらいが一番近いかな……と考えてなんかこれだとどっちかって言うと特殊性癖拗らせた人って感じだな……となんとも言えない気持ちになった(これが言いたかっただけ)
幸い満員電車に乗る機会は少ないが、たまに当たると汗と吐き気が止まらない、
毎日悪夢を見て叫んで中途覚醒する等、メンタルヘルス系の病気一歩手前にいるのがしんどかった
長いことそんな時期があったけど、この度ポケモンの新作を購入してやってみた
最後にやったのがルビーだったかで、初めてすぐ立体的なグラフィックに感動した
ポケモンは立体的なだけでない。まるでリアルに生きている動物のように感情を表現してくれる
キャンプという機能を使うと、自分と一緒に冒険してくれてるポケモンたちがにこにこと遊んでいる様子が見れる
ポケじゃらしを振ると「!」と発見して笑顔でこちらに寄ってくれる
これの なんとかわいいことか
正確にいうと、嫌なことや悲しいことを脳内で反復する回数が減った
そんなことよりヌメラちゃんとバチンウニちゃんのことを考えたいのだ
犬や猫のような姿のポケモンはもちろん、どうみても無機物なデザインのポケモンにも感情がある
ボールを投げればニコニコして追いかけて、こちらに持ってきてくれる
おいしいカレーを作ってあげれば(おいしーーーーーー!!)みたいな顔でばくばく食べてくれる
共に戦い、強くなり、時に挫折し、そんな時はポケじゃらしで遊んで、カレーを食べて寝る
ただそれだけなのに、慈しみの目を向けてしまう
ゲームにハマったのは久しぶりだ