はてなキーワード: 地震保険とは
昨日の読売新聞に、高台の地価が高くて移転できないって話が載ってた。
元々の土地150坪は市が買い取ってくれたけれど、高台の土地100坪に移るには300万円だっけな?足りないと。で、家を建てるにももっとかかると。
田舎だから分譲地の大きさが最低そんくらいなのかなぁかわいそうに、と思ったんだけど、ちょっとググると50坪くらいのもあるみたいだけどな。
この辺どうなってるんだろうね。
飯田産業系のパワービルダーに一括してやらせりゃ、各戸40坪くらいで安く仕上げてくれるんじゃねーかと思っちゃうんだけど、なかなか難しいのだろうか。
地震保険は火災保険の半分しか出ないからそのあたりも厳しいんだろうけど、被災者って原発絡まない地域は助成金とかないんだっけ?
・法定耐用年数と、実際の建物の耐久性能は必ずしも比例しない。ローンが付くかどうかは金額と支払い能力と担保価値なので、属人的に、物件的に充分ローン付く可能性はある。
・リスクは当然高くはなるが、「当たり」のマンションだったら割と儲けものではある。
・ただし畜40年だと耐震的に既存不適格なので、出口に難あり&地震保険火災保険は高くなる。耐震改修工事や大規模改修が済んでればまた別。
・償却残が少ない分、税金的な価値は極小化されるので、固定資産税は少なく済む
不動産は現物なので、こればっかりは見てみないとなんとも。広尾ガーデンヒルズは築30年以上だが未だにびっくりする値段で売り出されたりする。
年収500で東京通勤圏に新築戸建てを持つって無理だと思うでしょ? 実は埼玉では新築戸建てがすごく安い。
30坪4LDKでも2,500万あれば志木あたりでも余裕だし、タイミングがよければ2,000万を大きく切るものも見つかる。
低金利の今、2,000万の家を買ったとすると、フラット35で月々の返済はなんと5万円台。ワンルームの家賃並。
貸してくれるかどうかは別として、年収300万だって返せる。今は100%ローンが可能なので頭金すらいらない。
もっとも、諸費用等別途200万ぐらいはかかるので全く貯金なしでやろうとすると難しい。
でも、そのくらいは親のスネをかじっても許される。
で、なぜそんなに安いのかというと、パワービルダー(最近、よくCMやってる飯田グループとか)が安い家を建てるから。
建築費は30坪で850万~と言われている。1,000万の土地に850万の家を建てれば、そりゃ2,000万未満でしょう。
土地の形状に対して既存の建物の設計を割り当てるので、設計費を大きく削減できる。そしてプレカット工法とかで職人の技を必要としない。そのあたりが安く建てられる理由。
その1,000万台の土地が外環から武蔵野線沿線あたりにかけて点在している。乱暴に言うと三郷から所沢にかけて扇状に。和光、朝霞、戸田あたりは高いのだけど、新座なんかは練馬区に隣接してるわりには安い。
そのエリアから山手線まで20キロぐらい。電車で30分程度。通勤圏、といって過言ない。
そんなに安普請の家で大丈夫かというと、これは実際に大きな地震がきてみないとわからない。熊本地震に関しては2000年の基準で建てられた家の倒壊は7軒だそうで、これならば耐震基準を信じてもいいんじゃないだろうか。
耐震基準には等級があって、パワービルダーの中でも最高等級を取っているところもある。
揺れだけでなく大規模火災とかもありうるので、ダメなときはダメとして地震保険と復興支援で888万の家を建てる方針でいいんじゃないかと思う。なんせ土地は残ってる。
どうせ首都圏には近々大地震がくるのだから、持ち家はそれがきてからでも遅くないと思ってるうちに、家賃で1,000万以上払うことになった。払った家賃は家主の財産として吸われただけ。失うだけで、後に何も残らない。
色々安く作ってあるなと思うけど、居住の快適性はほぼ問題ないレベルだと思う。昔の家は高級車品質で作ってある。木造モルタルのみすぼらしい家だって職人の技でできてる高級品。
それに対して軽自動車品質で十分じゃね? というのがパワービルダー。でも、今の軽自動車はそこそこ快適。サスやらボディ剛性やらの乗り心地の差を感じる人は高級車を買うべきだけど、オーバースペックに金を払うのをナンセンスだと思う人はこちらがいい。
例えば、パワービルダーだと屋内の扉はダンボールに近い素材なのだけど、ぱっとみじゃ全然わからない。ネコ用の扉をつけるのに穴開けてみるまで木だと信じてた。扉が本物の木である必要なんてなかった。いわば、ダンボールハウス。
そもそも、ある程度の住宅性能じゃないとフラット35Sの適用を受けられないから、その基準を満たすように作ってる。
実際、省エネ性能は目に見えて高くて、エアコンの電気代とかびっくりするほど安い。エアコン自体の省エネ性能が上がってるのは間違いないけど、家の断熱性が前提。
家の質感とか大事なのはわかるんだけども、倍以上の値段の一流メーカー戸建ての床も合板なので、モデルハウスなんかに足を踏み入れた瞬間の質感に大きな違いを感じない。設備は確実にいいけども、そういうのはあとから必要なものだけ変更できる。
ウォシュレットの使用感は値段に大きく左右されるし、電気代も大きく変わる。安物だと、冬季の電気代は2箇所のトイレで月に千円を超えるからバカにできない。ガスコンロも出力が低い。入居前にアップグレードができるならやっておきたい。
最低限住めるようにするのに、新築戸建はカーテンとか網戸(付いてる場合もある)とかアンテナ(今の時代いらないかな)とか、一部の部屋にエアコンを入れて、30万。家に合わせたちょっといいダイニングテーブルとか食器棚とかソファーとかを買うと20万は軽く飛んでゆく。で、イケアとかニトリとか中古家具屋とかにしばらく入り浸るようになる。まあ、楽しい出費だけど。
床のコーティングは永久のやつとかあるが、数十万。高いけど現実的に入居前にしかやれないから、すぐに決めなくてはならない。数十万は出せなくても、最低でも耐久性2年とかのウルトラタフコートなワックスを塗っておきたい。コーティングなしだと床は10年と持たない。
問題はといえば駅までの距離で、安い土地を狙って宅地開発をやるので、必然的に遠くなる。
パワービルダー系は駅まで徒歩20分以上。通勤は自転車とかでなんとかするとして、生活の足として車が欲しい。
車の維持費で大きいのはなんといっても駐車場代なのだけど、戸建ての場合はこれが永久に0円で済む。
軽自動車なら税金、車検点検整備、保険合わせても月1万ぐらいだろう。車両費も10年乗り潰すとすると月1万。ガソリン別。
月2万を高いとするか安いとするか微妙な線だけども、首都圏でも車があった方が楽しいし、便利。2万の価値はあると思う。
車にプラスしてスクーターがあれば5キロ半径が日常行動圏になる。125ccなら、20キロぐらいの遠出もこなせるから、電車に乗らないで池袋に行くこともできる(駐輪場は探せばそこそこある)
今後、人口減少してゆくので、資産として持ち家の価値が上がる可能性は皆無といっていい。
35年後(繰り上げ返済で20年後)お金を払わなくても住める場所を確保することに魅力を感じる人向け。
賃貸では家賃に含まれているので意識しなかった出費として、固定資産税とか家の維持費とかかかってくる。
固定資産税は10年間住宅ローン減税分でほぼ相殺できる。期間終了後でも、家屋の価値が減少してゆくので安くなってゆく。大した金額ではなくなる。
急に駅ができて、土地の価格が跳ね上がるとかであれば無視できないくらい上がるかもしれないが、そういうところはそういう情報を握ってる人が先に買い占めるので安心してよい。
維持費は屋根とか外壁とか給湯とかで定期的に100万の単位でかかってくることを覚悟しなければならず、それに備えて月に1-2万は貯蓄しておかなければならない。
2,000万の家なら、ローン返済とその他経費を足しても、賃貸に比べると、それ以上の金を節約できてる筈だから、問題ないだろう。
スーモを例にとると、埼玉の新築戸建で2,500万以下、土地、建物面積をそれぞれ90m2以上の条件を入力すると、リアルタイムで地域ごとに登録件数が表示されるので、そこからアタリをつけて。
実際私も、大学生まで10万円も貯金したことがありませんでした。
http://kabooo.net/archives/cat_1007758.html
貯金は不測の事態で「保険」になるということです。お金に有効期限はないので、急いで使う必要はありません。
大学卒業後20年間に、起こった「貯金という命綱で救われた想定外の出来事」を思い出してみました。
(20-30歳)
①交通事故で半年間リハビリ、私をひき逃げした相手側と裁判、弁護士費用。
②就活で連敗、入社した販売店がブラックで逃走。再就職活動費。
③彼女がマルチ商法にはまり、知人の間でトラブルに巻き込まれる、弁護士費用。
④大失恋一度目、人心を取り戻すのにしばらくかかる。旅費。
⑤再就職先で早期退職制度(リストラ)、転職活動費。大学の奨学金返済が結構きつくなる。
⑥大失恋二度目、人心を取り戻すのにしばらくかかる。旅費。
30-40歳
別の方と結婚すると言われ、人心を取り戻すのにしばらくかかる。旅費、諸費。
⑨老化現象からか、目、歯、鼻、耳、内臓に今までに起きたことのない病気の症状が次々起こる。
体調悪化にともない、メンタルも悪化、うつ症状により通院療養費用。
ふう~以上です。20年間でざっと思い返していて、かなり大きな出費でしたが、心労は幾分とカバーできました。
両親にお金がなかったり、「借金」を頼れる親族や知人がいなかったというのも大きな要因ですが、
ともあれ、なるべく「リスク回避」な性格の私が、20年で起きた予想外の出来事でした。
大学生のころには順風満帆と思っていましたが、やはり困難もトラブルもない人生を歩める人は、ほとんどいないでしょう。
今思い返せば不運なのかもしれませんし、私自身の責任要因もあったかもしれません。
なんとか乗り越え、そのたびに、「不運が不幸」な出来事になる前に、食い止めてくれたのが、こつこつ貯めた「貯金」だったと思います。
大学卒業時から年100万円以上は倹約生活で積み立て、問題発生時には、けちらず一気に事態を収拾する為の費用をねん出できたました。
「貯金って意味なくね?」その意味が分かった時「あの時のお金があれば」ではもう手遅れです。
もし早いうちに気づいて貯金を始め、不測の事態で人生の難を逃れる方がいらっしゃれば幸いです。
追記
夜、見ましたらこんなブックマークがついてましたのでコメントがあった分にご返事させてください。
不運すぎるってコメントがありますが、不運でも人生が不幸になったとは思ってはいません。
30過ぎたあたりから、失ったものや手に入らなかった事より、まだあるものやすでに得たものに感謝して生きて行くようになりました。
あと20代後半からの失恋は、結構ダメージ効きますよ。その度に沖縄旅行に行ってました。青い海と空で現実逃避です。
10代学生の時に阪神大震災で被災しました。それも影響が大きかったですね。もちろん地震保険なんて親は入ってなかったですし。
ともかく20才くらいの時には、人生でこんな大変なことが起こるとは思わなかったですが、40にもなると、同年代でも大病、事故、離婚や破産や失業した時に無一文状態だった知人はかなりいます。保険がきかない事もあるので、預貯金は大切です。トラブル時はすぐ現金化できない不動産や株などの資産ばかりだと大変です。
困った時に助けてくれるのが親友や家族ですが、いなければお金が最後の綱です。
いろいろ苦労もありましたが、現在は嫁さんと小さいながらもお店を経営しております。
この先20年後の60才までには、さらに大変なことが待ち構えてそうですが,,,母親が認知症の疑いがあり、特養(老人ホーム)に落ちました。日本し、、、いやなんでもない。あの定期を解約すればなんとか。
皆さんにも幸あらん事を。
地震保険の保険料が上がるとかって言うんで、駆け込みで入ろうとしているヤツが多いから、基本的なこと言っとくわ。
ちょうど、この手の話をするのに、良い日でもあるしな。
地震大国日本で紙と木で出来た戸建てに住みたがるギャンブラーは入れ
それ以外は止めとけ
オマエラが100人居て、うち、90人が60歳になるって統計があるとするな。
で、ウッカリ死んだら3000万円は保証して欲しいとか考えてるとするな。
すると、100人で3億(10人x3000万)貯めておけば、まあなんとかなる。1人頭300万だな。
30歳からやり始めれば、一人月8千4百円くらいで、3000万保証できるな。
300万の損で、何時起こるか判らん3000万の損アクシデントに備える。
これが保険だ。
ただ、この例だと、3年以内に誰か死ぬと、3000万払えない。
55歳で10人目が死んでも、60歳以上で11人目が死んでも、足りなくなる。
だから保険会社ってのがあって、ものすんごく大量に契約者を集めて、資金をプールしてる。
保険ってかなり相互扶助的な意味合いが強いから、儲け過ぎって国から規制されてる。
で、儲け方が、利差、費差、死差って3つに分類される。
運用と費用は取り敢えず置いとくが、ここで死差益って呼ばれてるところが問題で、
保険ってのは破綻しないように、死人が出る数に余裕をもって保険料を設定する。
さっきの例で行くと、統計的に10人ってデータが見えてたら、11人とか12人死んでも大丈夫なように金を集める。
(この統計的ってところのデータが、実はもっと死なないのでは?とか言われてるけど、今回は割愛)
当然読んでから契約してると思うが、生命保険も傷害保険も、戦争その他騒乱によるものは免責事由に入ってる。
これは、例えば60歳までに100人あたり10人ぐらい死ぬだろ、と設計して保険料集めてるのに、
戦争があって爆弾落ちてきて辺り一面焦土と化して100人あたり90人死ぬとか想定してないからだ。
被害甚大なレアケースを被害を受けない大多数とで平均してカネを集めて対処するのが保険なので、
戦争を想定した保険料は(そもそも設定できるかどうかも判らんが)もし設定すると、トンでもない金額になる。
なので、あんまりにもあんまりなケースは「想定外なんでソレについては払いません」と決めてる。
これは、保険料を安く設定するための方法なので、契約してる一般の人にもメリットがある。
一般人が触る保険のほぼ全てに、保険を払う範囲と、払わない場合を設定してる。
誤解を恐れずに言えば、保険料控除がきく「地震保険」ってほぼ「火災保険」だよ。
何言ってんだオマエ、とか思っただろ?
火災保険って、地震が原因で起こった火災に対しては、保険金出さないよ。
かなり裁判で争われて、最高裁まで行った奴もあるけど、知ってる判例では結果は全部、保険金は支払われていない。
(説明が足りなかったんだから慰謝料を払え、みたいな変形戦法で争った奴が有名だけど、あれも負けたな)
ここまでで説明したとおり、保険料を設定する時には、ある程度範囲を決めとかないとトンでもないことになる。
だから、ほぼすべての「火災保険」で、地震・噴火・津波・戦争による火災は、免責事由(払わねえアクシデント)扱いになってる。
要は、保険会社がリスクを計算して金を集めて払うのが、ほぼムリって音を上げてると言って良い。
で、火災保険じゃ払ってもらえねえ「地震による火災」をカバーするのが「地震保険」だと思っておけば間違いない。
まず覚えて欲しいのは、地震保険は、地震で崩れた家を建て直す為の保険じゃない。
地震や津波があった時に、財産を一切合切無くして路頭に迷うことがないようにする、生活再建のための資金だ。
だから、火災保険だと立てなおしたり買い直したりするのまで面倒見る保険があるのに、地震保険だと50%までになってる。
ま、ローン抱えててもいきなりどんづまったりしない為の資金、だな。
んで、保険会社によって差がない理由は、ほとんど国が保険金支払い元になるからだ。いま6兆円ぐらいプールしてる。
で、そもそも地震保険がないとマズイねって話になったのは、さっきの火災保険の免責事由によるところが大きい。
地震だと火災は間違いなく発生して、発生すると紙と木で出来た一戸建てってのはあっという間に燃える。
で、預貯金以外は全部燃え尽きた挙句に保険金が支払われなかったりして、悲惨な事例があった。
だって結局、全壊したって評価額の半分しか保険金おりねえから立て直せねえもん。
だからまあ「火災保険の変種」は言いすぎだとしても、地震・津波&そいつら原因の火災で、家がなくなった時に路頭に迷わない為の保険なワケよ。
火災保険+地震保険に入ってれば、大抵の場合でドンづまったりしない。
一戸建て所有者。
ソモソモ論で行くと、地震大国日本に住んでて、木軸構造の戸建てに住むとか正気の沙汰じゃない。
鉄筋コンクリの建物と、木造の建物って、耐震も耐火も天と地ほども違う。
地震が怖い火災が怖いってやつは、そもそもマンションに住め。それだけでリスクは段違いに低くなる。
だから、「地震が怖いから(積極的に)地震保険に入る」じゃなくて「戸建てに住んでるから(已む無く)地震保険に入る」が正しい。
んで、1982年以降の鉄筋コンクリのマンションってのは、地震で躯体が全壊することはほぼ無い。
さらに、火災発生のリスクも戸建てに比べて低いし、ほとんど類焼しない。
で、実際に壊れるのはエレベーターだの手すりだの扉だので、こういう時は保険金がほとんどおりない。
命は助かったし躯体も無事だけど、住むには困るって状態の回復に地震保険は役に立たない。
地震保険って、ほとんど「国」の保険で、地震が起きた時の火災対策がメイン。(あと全壊対策)
で、今の保険料設定だとマンション住まいの奴は無駄金払うことになる(と、個人的には思う保険料設定)。
結果、地震の起きやすい地域、ハザードマップで津波のおそれがある地域の戸建ては、入っとくと他に比べてお得ではある。
年間5万(控除でほぼ3万5千円)でも50年で250万(控除込みで175万)だから、地震で全焼した時に途方にくれないための保険料としては、妥当な気がするな。
つーか、保険金1000万あたり年間保険料が3万超えてる地域の戸建ては、入るのほぼ義務だろ。
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20130507
共感できる部分もあるのですが、事実誤認が多いので補足します。
マンションの地震保険って、管理組合で入る共用部分向けの地震保険と、個別の家庭が入る占有部分のための保険があるんですが、どっちにしろ個人的には、「なんでそんなもんに入ってんの?」って感じです。
区分所有住宅には、「上塗り基準」と「壁心基準」というものがあります。それを区別せずに一括りにするのは乱暴すぎます。
火事で自分の部屋が丸焼けになっても、修理すればまた住むことができます。修理も、業者に依頼すればすぐに始まります。
ですが、地震で鉄筋コンクリ建てのマンションが半壊や全壊になる時は、地域全体が甚大な被害を受けてるはず。平時のように、建設業者に電話したらすぐに見積もりに来て、来月から工事が始められる、なんてことにはなりません。
建物を再建しなければ、保険金が支払われないと勘違いしているようです。確かに、火災保険に新価特約を付帯した場合などは建物を再建しないと保険金は支払われません。しかし、地震保険は可能な限り素早く支払われます。被害地域を空撮して被害があった住所を特定したり、全国の損害保険会社から職員を動員して被害があった建物の調査を行ない、保険金を迅速に支払うようにしています。もちろん建物を再建しなくても保険金は支払われました。
それに鉄筋コンクリマンションが全壊・半壊になったら、たとえ地震保険に入っていても、保険金だけで修繕や立て直しが全額カバーできるとは思えません。
そりゃそうですよ。地震保険金額は火災保険金額の30%~50%です。また、地震保険金額の支払いの総額は6兆2000億円です。その金額を超えると按分されることになります。契約書に比較的大きな字で書いてあります。
もちろん個人に関しても、そんな面倒な保険に入る必要は全然ないです。大災害に遭うと、住む場所を探すところから始め、日々の生活がぐちゃぐちゃになります。ましてや家族の誰かが被害に遭ったりしたら、それどころではありません。
保険料の支払い方法を口振にしておいてください。被災者になったら自動的に支払われますので契約者は何もする必要はありません。
たしかに充分な貯蓄があるひとは保険に入る必要はありません。しかし、はてなのブログを読むような財産が少ないカテゴリーのひとに地震保険に入らないことを薦めるのは無責任ですよ。
たしかに、地震保険料は高いです。金融商品としての魅力が低いと考えるのは間違ってはいないと思います。しかし、それが全てのひとに当てはまるかというとそれは違います。例えば、35年ローンでマンションを買ってしまった若い人は地震保険に入っておいたほうが良いでしょう。(そんな無謀なローンを組むのがよいかどうかはさておき)
もともと金融業界にいたはずの人なのに、地震保険金がすぐに支払われないと思い込んだのはなぜなんでしょうね?生命保険などと混同しているのかもしれませんね。損保は生保と違いますよ。
「控除対象配偶者や扶養親族がなく、かつ、あなた自身が障害者、寡婦、寡夫又は勤労学生のいずれにも該当しない」ので、上の方だけ書けばOK
特に加入していないので記入の必要なし。申請する場合は、控除証明書の原本を提出する必要があることに注意。
本年中に支払う(予定)の金額を記入する。本年中に過去の分を遡って納付した場合、それも控除対象となることに注意。
口座引き落としやカード支払いにしている場合は、11月上旬に郵送されてくる控除証明書を添付すればよいようだ。
支払先名称:市区町村
本年中に支払う(予定)の金額を記入する。
以下については確定申告にて申請することになるようだ。
申告に必要な本年度の源泉徴収票は、来年1月末に郵送されてくるはず。
http://www.nta.go.jp/taxanswer/shotoku/1120.htm
医療費が所得の5%又は10万円の安い方を超えた場合に申請する。
http://www.nta.go.jp/taxanswer/shotoku/1150.htm
記入書類のコピーをお忘れなく。
けれども私にできることは少ない。目下のところお金を送ることと、考えることしかない。お金は送った。けっこう懐が痛いほど送った。だから、あれこれ考えることを、どうか許してほしい。
考えているのは、こんなことだ。
「私たちは後の世代のために、M9.0に耐える準備をするべきなのか?」
今回の災害は1000年に一度、あるいは数百年に一度の規模だと言われる。おそらく私たちが生きているうちにもう一度遭遇するかしないかのレベルの災害だと思う。
私たちはおそらく、復興と言えるものを成し遂げることが「できてしまう」だろう。がれきを片付けて家や道路や鉄道を作り直す。それだけだ。みせかけの復興だ。けれども復興は復興だ。「やった。復興した。我々は自然災害に打ち勝ったのだ」と、そう言って災害のことを忘れてしまうことができるだろう。
私たちが天国に行ったあと、きっと津波がまた来るだろう。家や道路や鉄道が砕かれるだろう。原子力発電所から放射性物質が流れてくるだろう。大勢の人が亡くなるだろう。経済が止まり、職を失う人も大勢でるだろう。今回と同規模以上の悲惨なことが起きるだろう。
なんていうことだ。私たちが東京電力に吐いている言葉が、実はブーメランだったのだ。きっと私たちの身体を天国で切り裂くだろう。
残念なことだが、このままずるずると時計の針が進んでしまえば、きっとそうなると思う。それがいやなら、私たちはやり方を変えなくてはならない。
放射線の危険はいやというほどもう知ってしまった。だからすべての原子力発電所を閉鎖しなければならない。放射線の害からもう完全にさようなら、をしなければならない。安定した電力供給のため東西周波数の統一も必要だ。代替エネルギーの開発だって必要だ。安くて良い代わりのモノは今のところ存在しないが、それでも原子力とは手を切らなければいけない。
あの巨大な防波堤でも太刀打ちできなかったのだ。コンクリートで津波を防ぐのは無理と知ったのだ。もう海岸沿いの低地への居住は許されてはならない。
自治体の庁舎がつぶれることは、もうあってはならない。道路網も鉄道網も、より一層強い耐震強化が必要だ。
津波に砕かれた持ち家の住宅ローンを払いつづけなければならない人たちがいる。地震保険なしに住宅を建ててはいけない、という法律が必要だったのだ。ガソリンスタンドから油が消えた。非常時には一般車への給油を規制する、という法律が必要だったのだ。孤立した集落が問題になった。だから人の集まるところに必ず衛星携帯電話を置かなくてはならない、という法律が必要だったのだ。あの日、被災地も東京も通信が麻痺した。あの日のレベルに耐えるための準備が必要だったのだ。いくつもいくつもある。
それらすべての課題を克服しなければ、真の復興と呼べない。少なくとも私は、真の復興と呼びたくない。
だが、そのためには、私たちの財布からそれなりのお金を出さなければならない。金持ちから金をむしり取るだけでは済まないだろうし、薄く広い増税どころでは済む話でもなさそうだ。次の世代のことを思えば国債の発行は論外だ。厚く広い増税が必要だろう。電気料金が上がるだろう。物価が上がるだろう。当然の帰結として、生活は苦しくなるだろう。かなりの苦しいものになるだろう。リーマン・ショックがさざ波に見えるほどの不景気がやってくるだろう。
お金だけの闘いじゃない。強い政治家を育てなくてはならない。スキャンダルを狙うだけの野党も、ばら撒きしかできない与党も役にはたたないのだと、いやほど知ってしまったのだから。私たちは強い政治家が育つ文化を作らなくてはならない。もうスキャンダルに喜んではならない。ばら撒きにだまされてはならない。パフォーマンスに踊らされてはいけない。ウチの地域のために仕事をしてくれる、という人を選んではいけない。茶々を入れるだけのメディアを切り捨てなければいけない。私たちは、政治家の責任は我々の責任だという事実を受け入れなければならない。政治家の決断は我々の決断だという事実を受け入れなければならない。そうしなければ強い政治家は育たない。育てなければ、私たちは何も成し遂げられない。
残された放射性物質の管理のために、原子力技術者を育て続けなくてはならない。しかも、これから何十年、何百年と続けなくてはならない。消えゆく技術のエンジニアになるほど寂しい人生はない。けれども私たちは、若い優秀な人材を差し出しつづけなければならない。人身御供のように。
なによりも、生まれた街にもう住めないという苦しみを、被災地の(とりわけ海岸沿いの)人々に強いなければならない。
でも、後の世代がM9.0に耐えるためには仕方がない。
もちろん、すべてをやるべきかどうかは議論の余地があると思う。でも、それはまず私たちが
「私たちは後の世代のために、M9.0に耐える準備をするべきなのか?」
これに対して Yes あるいは No かを、決めなければならない。
Yes とも No ともつかぬまま進んではいけない。では、どうやって決めるか? 選挙だ。幸運なことに私たちは選挙というシステムを持っている。これしかない。今この手段を使わずにどうするというのか?
そして Yes が選ばれて欲しい、と強く願っている。それも、私たちにかなり辛い義務を強いる Yes であってほしいと思う。私は、真の復興のために人生を捧げたいのだ。
業務の前に書店に寄ることが、半ば習慣化していた。
人の声の重なりのような、妙なざわつきを感じる。
地面が揺れていることに気づいたのは、その後だった。
一昨日の余震だろうか?それならばすぐに収まるだろう。
生まれて初めて体験する激震が、我が身を、そして店全体を揺らしたのは、そんな甘い考えが脳裏をよぎった瞬間のことだった。
本を買うより、身の安全の確保が第一だ。
店を出る瞬間に、視界の片隅だけに見えていたものだけど、その光景は良く覚えている。
激しく揺れ動く地面と同様に、あまりにも落ち着きのない思考が私を動かしていた。
だけど私は運が良かった。ガラスが割れる軽やかな音に気づけたから。
目の前で、ガラス造りの街灯が落ちて地面に砕け散った。
あと数秒、私の走りが早かったら、危なかったかもしれない。
まずは身の安全の確保だ。最優先事項にやっと気づいた私は、元々いた書店の入り口近くにある金属の柱にしがみつく。
建物の近くにいては倒壊に巻き込まれるのではないか、という考えもあったが、倒れそうには見えない外見のビルであったし、何よりも、屋根があった。
何かが落ちてきても、屋根があれば最悪の事態を免れることが出来るだろう。
一息ついて油断した、その瞬間を見逃さずに追撃するかのように、それはやってきた。
もっとも、どんな覚悟も、あれの前には無意味だったと思う。
視界に入るもの全てが揺れ動いていた。地面が左右に揺れる、というのを視認したのは初めてだったと思う。
地鳴りと悲鳴が重なる。震度表には「立っていられないほどの揺れ」という表現があるが、まさにそれであった。
銀色の柱にしがみつき、身体を支えること以外、何も出来なかった。
勇気ある人は、危険な位置にいた女の子たちを比較的安全な場所へと誘導していた。
その後、ガラスの街灯がまたひとつ落ちた。ガラスの破片が散らばったけれど、気にしている余裕はない。
私は死ぬのか、この世は終わるのか。本当にそう思った。
長い、長い、私の体感では3分ほど、実際はもっと短いだろう(これを書いている時点では正確なデータがないのです)、
だけど長い地震が終わって、私の思考はまた落ち着きのないものへ切り替わっていた。
そうだ、職場に行かなければならない。
揺れが収まり、身動きが取れることを確認すると、私は職場のビルへと向かった。
エレベーターは動かない。12階立建てのビルの3階に職場はある。
階段の壁は一部が崩れ、破片がそこらに落ちていた。非常灯がなかったので、昼と言えど薄暗かった。
それは階段だけではく、各階でも同様のようであった。日の光が差し込むだけ、階段よりは明るかった。
ドアを押しあけ、オフィスへ入るとほぼ同時に、余震が襲いかかった。あの本震の直後の余震である。実際にどれほどの震度の余震だったのか、これも現時点ではわからないけれど、本震と同じくらい強いものに感じた。
「危ないから入ってきちゃ駄目!」と悲鳴に近い声が私に掛けられたけれど、入ってきてしまったものは仕方ない。
オフィスの中にいた他の方々とともに、私は机の下に身を隠した。
自ら飛び込んできた私はともかく、朝から働いていたオフィス内の人々は、突然の、しかも未曾有の大きさの地震を受け、憔悴しているようだった。
それから、階段を降ってビルを出て、一度は近くの小学校へ避難した。しかし、地域の方々の避難が最優先であるため、解散の命令が出るまで、私たちは歩道で待機していた。
その間も余震はまるで容赦しない。地面が揺れる、街灯や電線が揺れる。大きな看板が地震で壊れていて、たくさんの人が携帯電話で写真を撮っていた。
本震の最大震度が7と聞き、やっぱりね、とか、宮城県沖地震かな、などという話題が上がった。少量ながら雪が降り始めて、とても寒かった。
地震保険の話があった。我が家には適用されるのだろうか。いや、それよりも我が家は無事か。
携帯電話を操作して、自宅に電話をかけるも、繋がらない。当たり前のことだった。
それからしばらくして、今日のところは解散、ということが上司から伝えられた。私は家まで歩いて帰ろうとしていたけれど、同じ方向に住まいがある同僚がいたので、家の近くまで送っていただくことになった。
車道は当然のように渋滞していた。加えて、一部を除いて、信号も動いていない。
仙台市中心部から郊外へ移動しようというのだから、渋滞に巻き込まれるのは致し方ないことだ。30分で100メートル移動出来たかどうか、ということもあった。
正直に言えば、自宅まで徒歩で戻った方が、早く家についたかもしれない。しかし、車で送って頂いて本当に良かったと思う。
そう思う理由はいくつかある。ひとつは、複数の人とともに移動することによって、不安や恐怖と言ったものを少しは紛らわせたということ。また、車にはラジオが搭載されているから、最新情報を確認することが出来たのも大きい。外気を遮断し、暖をとりつつ移動出来たというのもある。被災直後から、仙台市内には断続的に雪が降り、吹雪くことさえあったから。
最終的なマグニチュードが8.8であるという報道を聞き、私たちは笑うしかなかった。この地震で亡くなった方が出るかもしれない、という話題にもなった。これを書いている今現在、確認されている死者は1000人以上であると聞いている。ここまで多くの方が亡くなってしまうとは、あの時、思いもしなかった。
移動中、私は家族が心配でならなかった。特に、自宅にいるであろう、母。我が家は築25年の木造住宅である。自宅が倒壊してしまったのではなかろうか、それに母が巻き込まれてしまったのではないか、心配で心配で溜まらなかった。
同乗している同僚は、2歳のお嬢さんを心配していた。夫の実家に預けているのだが、連絡が取れないのだという。
私も母との連絡は取れない。「頼りがないのは良い証拠」であるという、この場にはまるでふさわしくない故事を信じるしかなかった。
被災直後であるから、携帯電話は全く役に立たない。それはとうに承知していても、家族の安否を確かめたいというのは当然のことだ。電話はとても繋がりにくかったが、幸い兄との連絡はついた。それから、機械に疎い家族が見るかどうか分からないが、災害伝言板に書き込みをしておいた。
車に乗っていても、余震は我が身に伝わる。窓から見える外では、多くの人が歩いていた。結婚式の最中だったのか、よそ行きの格好のまま避難する人、スーパーのビニール袋を被る人、クリーム色のカーテンを纏う人、様々いた。
1、2時間も経つと、日が傾き、徐々に日の光が失われていった。明かりがあるのは車ばかりで、どの店、どのビル、どの建物も真っ暗なままだった。唯一、警察署だけは明るかったけれど、自家発電装置はいつまで持つのだろうか。
これだけの巨大な地震であるにも関わらず、高層ビルの倒壊がなかった、このことはすごいことだと思う。
しかし、それは外見の話だ。どこも大なり小なりの被害を受けていて、壁が崩れたり、窓ガラスが割れたりするのは当たり前、水道管が壊れて、水が溢れだしている家もあった。
3時間半ほどの時間を掛けて、自宅の近くまで送って頂いた。ここからは、歩いて帰ることになる。
外はやはり寒かった。実際の気温だけではない。街のどこにも光がない。駅の近くにある大きな交差点、そこの信号は機能していたけれど、他の信号は依然光を失ったまま。これまで車で通り過ぎてきた光景と同じく、街のどこにも灯りはなかった。
この夜の空は、山中で見るもののようだった。星座が確認出来るくらい、綺麗な星空。あまたの星がいつもと同じように、黒のキャンパスの上で煌めき、瞬く。暗い街並みといつにも増して美しい夜空を、私は生涯、忘れないと思う。
さて、この地震では、かなり多くの方が避難所での生活を余儀なくされている。
我が家はかなりましな状況であるということを、ここで記しておく(こうやって被災最中に手記らしきものを書いている時点でお察しの方も多いだろう)。
何せ、不自由なことは多いものの、自宅で生活が出来ているのだ。現在、これを書いている3日目の朝も、白いご飯を食べ、暖かな野菜のスープを飲み、ゆで卵まで頂くことが出来ているのだから。
4時間かけて自宅まで戻ってきたが、電気はついているはずもない。もしかしたらみんな、避難所にいるのかもしれない。あるいは……。
最悪の事態を思い浮かべながら、玄関を開ける。ただいまと誰もいないかもしれない家に声をかける。返事はすぐに戻ってきた。
家族は全員、茶の間にいた。みんな、無事だった。そのことに安堵の息を漏らしつつ、私は茶の間に入った。
意外なことに、茶の間は暖かだった。捨てるつもりでいた石油ストーブを物置から持ってきて動かしていたのだ。停電していても暖が取れるのはありがたかった。さらに、ストーブの上にやかんを置けば、時間はかがるがお湯が湧く。パンを置けばカリカリに焼ける。外は氷点下にまで冷え込む中、石油ストーブで外から身体を暖め、お茶で内からも暖める。とても幸せなことだった。これを呼んでいらっしゃる皆様には、是非一家に一台、石油ストーブの購入をお勧めする。
家の中には、父、母、兄、それに近くに住む親戚の小母さんがいた。小母さんは、この地震で誰とも連絡が取れず、また誰も帰ってこないという。家の中は地震で家具が散乱しており、中にはとても入れない。一人でいるのも不安である。そのため我が家に来たのだという。
自宅へ帰って来た頃、時刻はもうすぐで8時を迎えようとしているところだった。こたつの上には大きな蝋燭が立てられていて、その脇にラジオが置かれていた。懐中電灯もあるにはあるが、あまり明るくないので、部屋全体は照らせない。そのため、トイレに行く時等、移動する際に使われていた。
そういえば、自室に小さなライトがあるのを私は思いだした。いつだかに、ゲームセンターのUFOキャッチャーで取ったものだ。おもちゃに近いが、電球ではなくLEDなので、大きさの割には強い光を出す。
本棚が倒れたため、本で埋め尽くされ、足の踏み場がない部屋へ行く(自室の荒れ方がまた素晴らしかったので、出来ればお見せしたいところであるが、この時既に携帯電話の電池が切れていた。残念である)。机の引き出しの中にライトはあった。スイッチを入れると、白い光が散乱した部屋を照らした。
また、その時の私は、黒いタイツにストッキングと随分冷える格好をしていた。荒れ果てた部屋からジーンズを引っ張りだして着替えた。ついでに、タオルケットと毛布を茶の間へ持ち出した。
茶の間に戻り、ライトで辺りを照らしてみせると、蝋燭や懐中電灯よりも広い範囲をより明るく照らせたので、当座はこのライトで部屋を照らすことになった。裸火がなくなり、火事の可能性が低くなったのでひとまず安心した。
余震は断続的に続いていた。これを書いている今もそうだが、大小の関係なしに、何度も何度も地震に遭っていると、いつも地面が揺れているような感覚に襲われる。恐怖が完全に拭われることはなく、むしろ大きい余震があるたびに増大していった。
母は、少し昼寝をしようとしていた時に地震に見舞われたそうだ。これほど大きな地震であれば、逃げることをまず第一に考えそうなものだが、母は42型の液晶テレビが倒れないか心配だったらしい。テレビを支えつつ、近くの柱にしがみついて、本震を耐えきったそうだ。
兄は仕事をしていた。オフィスの中にあったパソコンは全て倒れて使えなくなったそうで、しばらくは仕事にならないだろう、それどころか解雇されるのではないか、と心配していた。
父もまた、仕事をしていた。スーパーでカゴ集めのパートをしている父は、地震の瞬間に店内にいた。これは危ない、と思い、しかし出口からは遠い場所にいた父は、普段は閉じられたままのガラス張りのドアをこじ開けて外に出たという。後から聞いた話によると、父の勤務地のスーパーは、天井が落ちてしまったそうだ。
ラジオから聞こえてくる男性の声が、この地震による被害の状況を伝える。泉区で家がひとつ倒壊した、壁に挟まれて死んだ人がいる、火災が発生した、津波で何もかも飲み込まれた……。いつもの夜のラジオなら、軽やかな音楽や楽しげに話すDJの声が漏れてくるのに、今宵は厳しい現実と、それを乗り越える手段が、無機質に流れ出ているだけだった。
私が自宅に帰宅して、1時間ほどして、親戚の小母さんの娘さんが帰ってきた。
この時、電話はまともに使えなかったが、メールやインターネットならば使用可能な状態にあった。
機械音痴らしい小母さんは、メールを打てない。私が代わって、娘さんに「小母さんは我が家にいる」との内容を打ち、送信したところ、娘さんはすぐに我が家に駆けつけた。それまでは近くの避難所を当たっていたらしい。
娘さんの勤め先は、長町にある。我が家は仙台市泉区に位置しており、長町とはかなりの距離がある。娘さんは同僚の方から自転車を借り、ここまで帰ってきたのだった。それまでに1時間半の時間を要したそうだ。
午後の10時頃に、小母さんの旦那さん、つまり小父さんが帰ってきた。小父さんは地震発生直後に車に乗ったのだけど、ひどい渋滞に巻き込まれて、この時間に帰ってきたのだという。実に7時間もの時間をかけての帰宅だった。
先にも述べたが、被災はしたものの、我が家はかなりましな方だった。屋根瓦が吹っ飛んだり、壁に多少のひびがはいったりはしたけれど、とりあえず住める状態にはあったのだから。停電していて茶の間以外は真っ暗だし、ガスも当然止まってはいるけれど、この時点で水道は使用できた。トイレも流せる。これだけで、精神に随分と余裕ができた。とは言っても、時間が経つにつれて水圧は低下していき、2日目の昼には断水になってしまうのだけど。
しかし、断水前に風呂に水を貯めておけたのは良かったと思う。おかげで、今のところ、トイレの水には困っていない。流石に大しか流せないので、そこらへんの節約は必要だ。
とにかく、電気とガスが使えないのが痛い。そうは言っても、ライフラインが回復するまでは今ある環境で耐えるしかない。母に菓子パンを食べるように勧められたが、遠慮して、お茶だけ飲んでいた。……皮下脂肪が厚いので、少しの間飲まず食わずでも耐えられる。
夜の11時を迎えたところで、両親に就寝するように言われた。どうせ、余震が続いて眠れないので、次の日の夜明け、6時50分頃まで起きているつもりだったが、せめて横になるように、と言われたので、茶の間の畳の上に体を横たえた。今夜は座布団が枕の代わりだ。寝転がり、目をつぶるだけで、少しは休むことができる。
形だけの就寝をし始めて1時間。日付が変わった後、ふと母の携帯電話を見てみると、2、3時間前まであった電波がなくなっていた。メールやネットならば使えたのに、それすら出来ない。ラジオ以外の情報獲得手段がない。ニコニコ動画やユーストリームでNHKの放送をしている、とラジオは伝えていたけれど、そんなもの役に立たない、と思った(もちろん、まだ電池のある携帯電話等を持っている人には重要なのだと思うけど)。ちなみに、家に帰ってきた時点で、私の電話の電池は切れてしまった。
日の出まであと6時間。ラジオは伝える。どうか日の出まで、希望を持ってと。ラジオは伝える。現実を。荒浜に、200から300の遺体が流れ着いたとの報を聞き、涙が頬を伝った。
3時か4時になった頃、NHKのラジオが音楽を流した。2曲流れて、1曲は確か「カノン」だったと思う。そのおかげがどうかは分からないが、私は少し、眠ることが出来た。余震がある度に起こされはしたものの……。
長い、長い夜を過ごしているうち、私はひとつ思いついた。
被災している最中から、忘れないうちに、体験談を記しておこうと。
携帯電話は使えない。iPadは不向きだ。だから今、pomeraを使って書いている。我が家にて、単4電池を使う懐中電灯等もなかったから、こうやって書いている。
これは被災してから2日目に書き始めた。現在荒削りながら、被災当日のことを書き終えて、5日目である。出来れば電気が繋がった3日目のことまで書いて、増田に上げられれば、と思う。私なんか、とてもとてもましな方だったけれど、千年に一度とも言われる天災の体験談は書いておかなければならないと思った。……エゴイストで申し訳ない。
また、普段は趣味で小説のようなものを書いているので、そのような表現があり、読みにくい箇所も多々あったかと思う。このことについてもここでお詫びする。
私が住んでいる仙台市泉区のとあるところでは、3日目で電気が繋がり、4日目で携帯電話の通話及びメールが使用可能に、そして現在、5日目の朝にネットが復旧した。