はてなキーワード: 劣化コピーとは
その内容は世の中にある課題感とあっていたし、統計的に有意かどうかといった研究はその時点でほとんど行われておらず、これからサンプルリングしてそのことを実証するのは数年ぐらいかかるだろうという見込みは容易に想像できた。そして検証した結果が有意ではないという結果になる可能性もあった。しかし、私が知る限り、世の中で誰もやっていないビジネスアイディアではあった。(素人ながら) 私の感覚的にはいくらか効果はあるんじゃないかという期待感をもてるような内容ではあった。私は起業家のキャリアやビジネスアイディアの斬新さも含めて応援するつもりでアドバイスしていた。そして成功する可能性が1%あると思っていた。
しかし、3ヶ月後にその起業家と会うとピボットしました、前に説いたビジネスアイディアでは融資を受けられないのでまずはお金を稼ぐ現実的なサービスを作ることにしたという。すでにコモディティとなっている web サービスの劣化コピーを特定業界向けに作ると言い出した。web サービスの世界というのは1位が大半のシェアもしくは売上を総取りし、2位以下が残りの少ないシェアを分け合っているという状況が起きやすい。その web サービスになんのノウハウも思い入れもない人が、先行者利益を得ている競合がすでに数社いる web サービスを最後発から起業したばかりの会社で黒字化できるように私からはみえなかった。目的がてっとり早くお金を稼ぐためと話していて、これは99%失敗するなと私は思った。
俺にとって、シンは蛇足だった
というか、旧劇も蛇足であった
が、画面の特に後半の実写パートから庵野氏の煽りが止まらなくなるあたりから、
タイミング悪くてエヴァの劣化コピーみたいに言われがちだけど、
エヴァの面白いところは、破綻してるところ、作者も作品も壊れちゃうところ
まあ、夢オチみたいなもんだ
自然に回帰しろみたいな描写、モヨコの描いた絵本、ごめんなさい、
最後のリクスーで駅の階段を駆け上がって、あの後、新卒入社してベークライトを売り歩くんだろうな、声も変わったシンジくん
違うんだ、俺が見たいのはそんなんじゃないんだ
だから、シンの中で一番面白く見れたのは、シン仮面ライダーの前半だった
ラストののび太ジャイアン戦みたいなところでは、もうすでに寝てた
棒人間は気にならなかった
石ノ森は感じた
でも、トータルで考えると、これもなんか違う気がした、当時の若き日の過ちと悪ノリはどこへ行ったんだ?
本当に暇アンノになってしまったのか、目を覚ませ
時代は胸の大きいいい女なのか
そうだ、ぼくはロリだったんだ
シンロボコンだ
集合知っていうかネットの力とかかな。wikipedia とかもそうだけど、みんなの力で!みたいな顔をしていて実際は数万人とか数十万人に1人のエクストリームな知識と行動力の人だけが動かしてるのが現実だよな。
世界の何十億人が使っているコア技術なのに、ボランティアの1人が全てを背負っている。
あれは自分もOSSだから多くの人たちが力を合わせて開発、運用しているんだ!と何故か無邪気に勘違いいしてたけど、実際は一部のエクストリームな活動の犠牲の上に積み上げられていた。
インターネットの集合知とかも多分嘘で、ネットに出回っている100の情報があったら99.9%は利用者の1/10000くらいの人間だけが出力した内容、またはそれらの劣化コピーの使いまわしな気がしている。
これは元々人間には独自の情報を語る能力、独自の考えや感想とか個人の妄想とか感情とかを垂れ流すインセンティブもないし、会話にそんなものを誰も要求していないみたいな、旧来の社会敵な動きとかが原因な気がする。
口を開けばトムラウシ山遭難の話だとか、三毛別羆事件、福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件。
これら情報は集合知じゃなく、一部の記者の仕事であり。そしてそれをまとめた一部のエクストリームな活動家の仕事であって、集合知ではない。
エクストリームな1人に依存している状況なので、専門家が正しいことを言っていても大衆の騒音にかき消されてしまっている、みたいな集合に潰されてる智慧がある気がする。(具体的な事例は思いつかないけど)
それって多分私が思い描いていた集合知のイメージとはかけ離れている。
気がついたと言うか、認めたくなかった事実というか。
新しい道具には三種類の使われ方がある。
一例としてVOCALOIDを見てみると、それはまず女性ボーカルの伝手などない零細DTMerのためのジェネリック知り合いの女として売り出された。
次いで、零細インドア趣味レベルというより「売れる曲」が書けるクリエイターにより、作者の意図を忠実に出力する優秀な歌手として使役されて人気に火がついた。
そして最後には人間にどれだけ寄せられるかという評価軸と離れて「VOCALOIDという楽器」になった。そうなるとPOPSシーンのありようそのものに、支配的とまでは言わないまでも少なからず影響を与えるようになる。
自分はVOCALOIDメイコとか初音ミクのパッケージを見てアイタタwとしか思わなかったのだが。
流れをまとめるなら
3. 新しいシーンを拓く存在
になったわけだ。
さてAIだが、今のところ(1)の使われ方ばかりが聞こえてくる。
ぜんぜん絵が描けない人でもそれっぽい絵をでっちあげられる。
まともに文章が書けない人でもそれっぽい(略
資料がまとめられない(
調べ物のやり方がわからない(
要するに「既存の工数のかかる需要に応じて、それっぽい体裁の成果物モドキを一瞬ででっち上げる」という、劣化コピー生産機としての使い道ばかりが取り沙汰される段階。
「初音ミクがあれば陰キャオタクでも女性ボーカル曲っぽいものが作れる、すごい!」という。
色々あって地方…まぁ東京から1時間半〜2時間ってとこに越した
…越してみてわかった。東京は人間が住む場所ではない。正確には、人がヒトという種として家族と暮らして増えたりする場所じゃない。狭すぎる、人が多すぎる、ゆえに人権がない。人が人の形をしている為に、金がかかり過ぎる。変な匂いのする加工食品。ペラペラの化繊の服。劣化コピーのコピーのコピー、見てくれだけの偽物ばっかり。
子供を私立中学に入れられなくても、文化が届くのが遅くても、もう戻れない。俺は仕事のために生きてるわけじゃなくて、その前に人間っていう動物なんだよ。広くて緑があってのんびりしてて温泉もあって食べ物がうまい場所がいいんだ。ていうか、そういう場所じゃなきゃ安心して増えられないんじゃないのか、この動物は。
文化とか趣味のために生きてるわけでもないから、時々東京に行ければいいし。
子供が予想より多い。ジジババも多い。東京はおかしい。生命、子供とジジババ、生と死を排している。不自然なんだよ。俺はここでいい。保育園があり、学校があり、でかい病院がそこそこあり、老人ホームが沢山あり、街のはずれの眺めのいい場所に墓地がある。ここは、自分がどこからきてどこへいくのか、はっきりわかるから、不安ではない。
歌が一番わかり易いのだが、音に込める感情の起伏や細やかさといった表現のレベルと、音程や発声といった技術のレベルは正比例していることが多い。
これはまあ当たり前で、表現を突き詰めるために高度な技法があるわけだし、表現の高みを目指すモチベーションこそが、実力を高める原動力になるのだから。
したがって技法の身につけ方も、まず最初に「あるべき理想」を思い、恋い焦がれ、それを実現するために技術を身に着けていく。
音程の正確さだったら、そのフレーズの理想を思い描き、そこにマッチする音をはめ込んでいくことで正確さを実現するわけだ。
そのときの練習の意識は「自分の出したい音のために、ちゃんと音符がハマらないと気が済まない。だから頑張る」という感じ。
そしてこれは歌に限らず楽器もそうで、一番の好例はエレキギターやベースギターだろう。
音程の精緻さという観点で見ると荒削りではあるんだけど、でも圧倒される音/痺れる音を実現するのに十分ハマった音程なわけで。
しかし、このアプローチが全く当てはまらない楽器も世の中に存在するのだ。
その最たるものがヴァイオリンで、次点は吹奏楽の、特にコンクール偏重な環境で管楽器を学んだ人達かな。
どういうことかというと、
「そんな微妙過ぎる表現で、音程だけがそこまで正確に合うはずないんだけどな…」
と感じる演奏が極端に多いのだ。
ちなみに微妙というのは大味or貧弱だけでなく、指導されるがまま演奏してるのが見え見えな、悪い意味で指導者の劣化コピー的なわざとらしい表現も含む。
これは、「表現よりも先に正確さだ!」という方針で、そもそも表現とは?音楽とは?みたいな話を学習者が理解できないうちに、指導者から一方的に芸を仕込まれた結果である。
具体的には、フレーズの中の音譜を1個ずつ取り上げては「高い」「低い」あるいは「フォルテ!フォルテ!」という具合だ。
こういう、学習者の自発的な音楽へのモチベを引き出さないどころかガン無視するような指導は、習う方からしたら苦痛でしかない。
そして上達するために必須の条件というか適性が、この練習の苦痛に耐えることになってしまう。
この時点で多数の脱落者が出ることは確定である。
脱落しなかったとしても、表現と技法がアンバランスな、「普通の下手」よりも聴くに耐えない演奏をする、雑魚奏者を量産する可能性が高い。
音楽を習うのに、音楽を後回しにするんだから当然の結果だろう。
しかも、あるべき表現というセンスの涵養を後回しにしてしまう結果、何かの曲の演奏を完成させるにも試行錯誤の回数だけが桁違いに。
(逆にどう表現したいかが先に定まっていれば、そのために必要な試行そのものはシンプルなのだ。)
この傾向は曲が難しくなればなるほど加速度的に大きくなるため、最終的には百万回さらう体力・精神力が要求されるようになる。
こういう指導で幸せになれる人は、最初から表現のモチベーションに燃えに燃え、あるいは練習の早い段階でモチベに火が付き、それを最後まで絶やさず続けられた人だけである。
飲み込みが早い/要領がいいのも必要条件ではあるが、それだけだと「自分のやりたいことはコレジャナイ」という思いを秘めたたまプロとして食うしかないという、これまた苦しい人生が待っている。
というわけで、ごく一部のモチベーション超人かつ強靭な体力気力の持ち主しか、楽しい音楽家人生を送れない構造なのだ。
とはいえ、少なくともヴァイオリンについてはもう少し本人も周囲も幸せになるような育成をして欲しいと思う次第である。
幼少に初めたヴァイオリンで自らの雑魚な演奏に苦しみ、大人になって再入門後に長い年月を経て、ようやく憧れだった結構難しい曲(音大入試レベル)を心底楽しく学んでいる筆者の、ささやかな願いだったり。
付き合って半年になる彼女がいるのだが、とにかくつまらない人間だと思うことが多くなってきた。
これといった趣味がなく、旅行やカフェ巡りを趣味とは言っているが、有名な観光地やインスタで有名なカフェに行くだけで、自分から何かを探したりするわけではない。
どこかで見たような写真を撮ってインスタに投稿して終わり。会う時に見せてくる写真も、見たことのあるような景色の劣化コピーでしかなく、心にもない「すごいね」という言葉を口にする度に、嘘をついている罪悪感が小さく自分を刺してくる感覚がある。
また、何もない休日はネトフリやYouTubeを観て過ごしているのだが、観るのはランキング上位の作品や有名なYouTuberの動画ばかりであり、これまた面白くない。
動画について尋ねても大した感想は出てこないし、話も膨らまない。
総じて主体性がなく、ただ薦められたものを薦められたとおりに消費するだけの人間なんだなと思い至った。
自分から旅行先や見る映画を選んでいる訳ではないからか、結果として感情もそこまで動いていないようだし、ただただ多数派のテンプレをなぞっているだけの人生を歩んでいるように見えて、本当に何が楽しいのかがわからない。
日常の会話も消費したコンテンツに対する言及ばかりで、それを受けてどう感じたのか、どこが良かったのかと言うことを訊いても「面白かった」「綺麗だった」程度の小学生並みの感想しか出てこない。
そのような人生を歩んできたからか、人間としても薄く、半年くらい一緒にいるだけでもう底が知れてしまったように思ってしまう。
感受性の薄さも相まって、出会ってからの半年での上積みもなく、無為な会話を重ねているだけにしか思えない。
一方で気遣いができて優しい人ではあり、日常生活でもしっかりした部分が見えるため、つまらない人間である以外は良い人なんだと思う。
結婚も意識する年になってきたのだが、この人と一緒になって面白くない人生を歩み続けるのは苦痛だろうなと思う一方で、彼女以上に優しくてしっかりした人間に出会えるような気もしておらず、どうするべきか悩んでいる。
金をかけたと話題のVIVANTを見て見たけど本当につまらなかった
全てがわざとらしくて金をかけたコントをやっているみたいだ
でもそこそこ視聴率が良いらしい
まともにドラマや映画が見たい層は海外ドラマとかにとっくに行ってる
残ってる層は細かい矛盾とか人間とはどういうものかとかに気づかない鈍重な貧困層で
なろう系とかワンピースとかを大人になっても見ている層に似ている
たまに例外があってまともな脚本家が書いてるドラマはちゃんとドラマとして見れるものがある
そういうのは普段海外ドラマとか見てる層も戻ってくるのである程度話題になったりする
今更MIPの劣化コピー見せられてもな
こういうのって会議とかで誰も突っ込まないのかな?
自分は彼らの事をあまり評価していないのだが、彼らが大量の信者やファンを獲得出来る理屈は分かる。
例えばひろゆき。彼は2chを立ち上げたという「実績」と、「自分は頭が良いと思い込んでいる、そこまで頭が良くない類の人間」が理解出来る程度の概念を言語化するのが非常に上手い。
また若い世代に嫌われがちな左翼を愚弄するスタイルや若者の意見を代弁する様な「若者の代弁者」的な立ち位置に立とうとしている姿勢は、若い世代特に中高生には受けるのは分かる
暇空は高いアジテーション能力で点と点からある程度の人が納得出来る「物語」を作るのが上手い。この辺りは彼のクリエイターとしての経歴が生きているのだろう。
攻撃的な物言いや仲間を増やさないという姿勢は、アンチも多いのも一定数の信者・支持者が出来るのは分かる。
白饅頭は明確に「弱者男性の味方」という姿勢と立ち位置を崩さない点が強い。弱者男性や予備軍の「報われない感」を慰める物語を提供する新手の宗教家スタイルだが
既存のカルト宗教と比べると、せいぜいnoteの記事購読代金ぐらいしか信者から徴収しないのだから遥かにマシに思える。
また自分はまったく評価出来ないし嫌いだが菅野完という男も、敵視する相手を汚い言葉で糞味噌に罵るやり口は、政治思想・党派性が同じ人間にとっては
「自分達の敵を徹底的に論破する凄い人間」に見えるのだろう。理解は出来ないが一定数の信者を獲得出来る理由・理屈は分かる。
要するにアンチも多いが信者やファンの多い人間というのは、何らかの能力や実績があったり、自分達を支持する層に対してのアプローチが上手かったりと、何らかの「強み」がある。
しかし彼ら彼女らの超絶劣化コピー、Twitterのフォロワー数で言うと数千~2、3万程度のフォロワーを持っている、準アルファアカウントだと、質が一気に低下する。
単純に口が悪いし品が無いから頭も悪そうに見える、言っている事も一皮剥けばどっかのアルファの劣化コピーに過ぎず、能力も実績も無いただのノイジーな一般人達。
いわゆるクラシック音楽は他人の書いた曲を演るけど、コピバンも同じ事なのにバカにされがちというか、お遊びとして片付けられがちなのって何なんだろうね。
カバー歌手とかもちょいちょい流行るけど、どうにも一過性のブームになりがちに見える。
答え出ちゃったな。
ベートーベンやバッハに原曲もへったくれもないし、曲を書く事とプレーヤーがそれをやる価値が分かれてるのか。
あんまり知らんけど、古典落語や歌舞伎の「型」の話もそういう事を言ってるんだろうか。
クラシックは誰に向けて書いたのでもない曲をプレーヤーが各々解釈するけど、バンドは自分らで書いた曲を自分らでやる事に重きが置かれて、人の曲の演奏だけやるのは片手落ちみたいな扱いになるのかな。
バンドメンバーが自分たちの音を考えた上でフルオーダーした曲を他人がやってもね、みたいな。
おれの場合は単に慣れが大きい気がする。初めて聴いた音源を親だと思う習性があるから。
その辺の話だけで説明のつく事でも無いような気がする。
じゃあいわゆるシンガーソングライターではない、歌うだけの歌手はただのカラオケ野郎なのかよ?って事にもなるし。
自分もそう思ってる節が無い訳でもないが……
もっと突っ込んだ話をしていくと、メインカルチャー、サブカルチャーと差をつける理由って何よ?みたいな所に行き着きそうな気がする。
クラシックとかいう雑な括りをするけど、管弦楽(等)と言い換えれば別に古い事がアイデンティではないのだし、今だっていくらでも曲は書かれてる。
ロキノンの内省的な歌詞とかだって、100年後の10代も 同じ事考えてそうなもんだけどね。
時流だけで決まらないのなら、それぞれを分かつ要素が何かある?
まあなんにしても、他人の曲に乗っかるだけのやる気ない奴は本家の劣化コピーにしかならない。
ファイル共有機能がつかいにくい。どうもファイル共有用のフォルダーかスペースがあってそこに投げ込んだあとでチャット機能かなにかで相手さんに「そっちみて」って頼むのか(・・?
共有リンクのコピーとかいう機能があるけどコピーできてない。コピーでurlみたいなのが取得できるか思ったらそうでもないような。
どないなってんねん(・・?LINEトークはファイルをドラッグドロップで流せるけど、teamチャットはそれができない(・・?チャットだけですべてを
完結させようという考えが間違いか(・・?当環境だけか(・・?
田淵監督としては、つまるところエロ漫画のような現実を作りたい、という意思がある
そこへ来ると、そもそも庵野は超一流のエロ漫画家でありエロ漫画の信奉者だから、現実がエロ漫画の模倣をすることに全く価値を感じない、劣化コピーでしかないと思っているわけだ
今回庵野はエロ漫画ではなくAVを撮っているのだから、企画モノなんかやらずに素人モノを撮りたいんである
『エロ漫画のような現実を作る』のは、それはそれで魅力的だし、必要なテクニック・努力がありプライドを賭けるに相応しい仕事だと思うが……それをエロ漫画の真似事と捉えた場合、本質的に無意味な行為になる 本物はエロ漫画なんだから……
↑の近況報告を書いてから相当に間が空いてしまったが、実はレッスンは続けていたという。
それでいま再び筆を執ったのは、レッスン再開からちょうど10年の節目ということだけではない。
来月のレッスンから、ようやくメンコン(メンデルスゾーンの協奏曲)に取り掛かれるようになったことが、一番の報告だ。
これについては前のエントリで
全てが順調に行けば、年内にも念願のメンコンに取り掛かれる
と書いたけど、その意味では全く順調ではなかったのだ。
そこら辺の話を、例によって長くなるけど書いていこうと思う。
ちなみにメンコンの前準備としてモーツァルトの協奏曲に取り掛かったのは本当。
全5曲ある協奏曲の中でもかなり難しい第5番を、結局全楽章さらう結果になった。
楽章の合間にいくつか他の曲を挟んだ(ベートーヴェンのロマンスとか、クライスラーのロスマリンとか)ものの、モーツァルトに取り掛かってから現在までの7年の多くの時間は、モーツァルトに費やしたと言っていい。
こう書くと、曲のボリュームから言えば「時間かかりすぎやろ」と思うのが普通だろう。
確かに今思えば自分が先を急ぐあまり、少なからず荷が勝ちすぎる曲だったのは否定できないが、それでもここまで時間がかかった理由としては十分な説明ではない。
荷が勝ちすぎた曲だったことは前提として
という2点が大きいので、それぞれ説明しようと思う。
幼少からヴァイオリンを習っていた、いわゆる「アーリー組」の読者諸兄ならほぼ全員通ってきた道だと思うが、ヴァイオリンのレッスンというのは基本的に
ことで、「曲を弾ける」ようにしていく。
でもこれ、言葉を選ばずに言えば「先生の劣化コピー」を作っているに過ぎないわけだ。
もちろんそうやって一曲仕上げる際に得たノウハウを、他の似たような楽曲に応用できればいいが、学習者にそこまで耳やセンスが育っている保証はどこにもない。
実際、「よくわからないけど先生の言う通りに弾けるようになったからいいや」で済まし、結果「お前先生がいないと何も出来ないのか」みたいに、解釈力が全く育たないまま放置されている人は非常に多い。
何よりこうしたお仕着せまがいの教え方は、学習者が難しいことを前向きな気持で克服するのに必要な「憧れ」をしばしば忘れさせ、嫌々お稽古ごとコースに陥らせるわけで。
そしてモーツァルトのような、奏者への要求レベルが相当に高い曲をやる頃になるとそのレクチャーというか諸注意は微細を極める(それこそ音符単位)ため、
「もういいです勘弁してください!」
(それを踏まえると辞めることを許されない、プロを目指す子達がどんな気持ちでヴァイオリンをさらっているかは、想像を絶するものがある)
「自分が弾きたい音で弾く=弾けるようになるまで絶対に妥協しないことを基本にしなさい」と。
そのうえで
「増田さん、その解釈に基づく演奏でステージに上がったら恥かくよ(変人ショーになってしまう)、なぜなら(以下説明)」
「その部分が無味乾燥に聞こえる時点で解釈が足りてないと思う」
「それだと増田さんの弾きたい音は出ないから、これをこうする練習をしましょう」
という、クラシック=最上のものと定義される音の有り様を、懇切丁寧に教えてくれた。
お陰様で、モーツァルトの協奏曲5番は「本当に難しい」と思ってはいてもモーツァルトを嫌いにはならなかった。
気がつけば音楽に対する集中力と解像度は飛躍的に上がったし、なんなら
「アニソンやボカロみたいなポピュラー楽曲のカバーでありがちな、ポルタメントや過剰なトリル/アクセント/ビブラートに頼らない、あくまで上質なクラシックの弾き方で弾いて喝采を浴びてみたい」
みたいな新しい夢も出来た。
時間はかかったけど、その分より大きな高みに登っていける基礎体力は間違いなくついたと思う。
結局、能力に大きなばらつきがあることが先生はもちろん自分自身も、諸々の見通しを大いに誤らせる結果になった。
何に苦しんだかというと
これだと親指以外の4指を自由に動かせないのを無理やりコントロールする=コントロールできるまで途方もない練習量が要求される。
なのでこれ以上難しい曲に取り組むのであれば先がない(最悪弾けないまま体を壊しリタイヤ)という、致命的な問題だったのだ。
これについてはヴァイオリン以外の、逆上がりや二重跳びができないのはもちろん、ボール投げもバレーのサーブもヘボかったりとかも踏まえると、もう間違いなく自身の神経発達に問題があると確信させられた。
結局、なんとか「左指がデフォで緩んでいて、他の4指の力の入り具合に連動して自然に屈曲するように力が入る」動きを無意識にできるようになったが、もしこれが体得できなかったらと思うと、今でも怖くなる。
他に楽器を常に鎖骨の上に置く、右肘が後ろに逃げないよう腕を重力に任せて落とすといった基礎もツッコまれたが、どちらも10日程度頑張ったら治ったので軽症で済んだ。
なお、今もメンコンの最初の方だけしかさらえていない。納得できる音が出ないので先に行けないし、先を見ても意味がないからだ。
こうやって一歩ずつクリアしていけばいいと思えるくらいには落ち着いた。
正直とても難しいけど楽しい。