はてなキーワード: 作品とは
キャンセルカルチャーって「俳優がTwitterで問題発言したせいでテレビドラマから降板される」みたいなイメージだった
今ググったら「特定の人物・団体の発言や行動を問題視し、集中的な批判や不買運動などによってその対象を表舞台から排除しようとする動き」と出る
俺は作者の性別を知りたい派なんだ。
なぜかって、俺は作品を通して作者を知りたいと思うタイプだから。
作者のことを知りたいんだから、性別という情報が知りたいのは当然だろう。
「作者と作品は別」という人がいるけど、俺は違うんだ。
たとえば、女性としてこの漫画を書いてるんだとかいう情報が、作品を読むにあたって重要な情報となる。
隠さないでほしい。
これって手間がかかるし、個人的には省きたいんだよね。
小説とかだったらこんなこと少ない気がするのに、漫画はなんで性別隠すんだろうなぁ。
なんか色々あるんだろうなぁ。残念
オッペンハイマーは非常に真逆の作品で、事実を元にし、原爆の開発者がそれを後悔する話でもある
扱われている題材だけの問題ではなく、「それをどう描くのか」「どんなメッセージをもつことになるか」の自覚性の問題や、「ポップでファンタジーならいいだろう」「視聴者にうければいいだろう」という制作認識の甘さの問題でもある
いや、マジで本気でそういう話?
コカ・コーラがタイアップしたのは楽曲としてのコロンブスだけで、MVはコカ・コーラと一切関係なくバンドのみで企画制作した純粋なバンドの作品なんだけど…
200とか300とかブクマついてるエントリを平気で消しちゃう人ってどんな考えなんだろう
こっちは1週間寝ないで必死に考えてもセルクマしか付かず惨めに消すのが日常で
100超えたら嬉しくてパンイチでストゼロ3本一気飲みして「俺はこのためだけに生きてるんだー」とか叫んでるのに
推敲するとわかりづらくなってしまいそうなので、というコメント付きで「脚本懸念点について」というタイトルで本件原作者の言葉通りそのまま Word文書にしたものをメールで送ってきた。
オリジナルのセリフやり取りが挟まっている点について、冗談とはいえ、ふつーに感じ悪いなと思ってしまう、一連のセリフの流れが意味不明、こ
んな短いシーンでも理論立てて説明できないキャラの言動の不一致が起こってしまう、他人をディスる言葉の扱い方と、文脈やキャラの言動の破綻が気になる、切り貼り挿入も前後の意味が繋がっていない等と指摘のうえ、「原作があるうちは、失礼だと思いつつ事細かに指摘して修正してもらうことも可能だけど…、オリジナル展開の 9話 10話で、収拾つかなくなっちゃうんじゃないかと、不安に感じてます。 」
と
記載されていた。この時、A 氏は、C 氏が今までは表現を柔らかく変えて本件原作者からの指摘を自分に送ってきていたことを認識した。
この Word文書の各指摘点については既にプロットで修正済みであったこと、
本件脚本家に対しかなり厳しい表現であったため、A氏はこの Word文書は本件脚本家には共有しなかった。
しかし、コアメンバーに対し、本件原作者がキャラクターがブレることについてコアメンバー
が思っているより、気にしているとの趣旨の話はしていた。
「修正について」と題する本件原作者作成の Word文書が添付されていた。内容は以下のとおりであった。
漫画とドラマは媒体が違うので、本当はドラマ用に上手にアレンジして頂くのがベストだって事は、私も良く理解してるんですよ。
(中略)
でも、ツッコミどころの多い辻褄の合わない改変がされるくらいなら、しっかり、原作通りの物を作って欲しい。
(中略)
これは私に限らずですが…
作品の根底に流れる大切なテーマを汲み取れない様な、キャラを破綻させる様な、安易な改変は、作家を傷つけます。悪気が全くないのは分かってるけれど、結果的に大きく傷つける。それはしっかり自覚しておいて欲しいです。
最終的に意にそぐわないモノが出来ても、多くの作家は公に文句が言えないです。莫大な数の役者さんスタッフさん達が、労力や時間を使って関わってくださってる事を知ってるので。その事に対しては、本当にとても感謝をしているので。なので、闇雲に原作を変えるな!と主張しているわけではなく、よりよいドラマになるように、自分を守るために、現段階で出来るベストを尽くし
ているつもりです。
宜しくお願い致します。
(2023 年 9 月 11 日、C 氏から原作者の意見として A 氏に送付されてきた Word
文書より。)
C 氏は同メール中で、本件原作者が書き下ろした 8~10話に関しては撮影の都合などの理由以外ではできるだけ改変しないでほしいというのがこちらの希望であると述べていた。このメールに対し、A氏はC 氏に電話をして原作をベースにして脚本として再構築する上で必要なセリフ変更は発生する、今までどおり進めさせてほしい旨説明し、C 氏ももちろんわかっている旨回答した。
なお、これらの本件原作者の意見については、A氏はコアメンバーに対してはそのまま伝えたものの、本件脚本家に対してはドラマ化について本件原作者の不満が高まっているという温度感のみ伝えた。
一方で本件脚本家は、8話のやりとりあ
でも、そうした表現をする人らは、しばしばガチの上級国民であり、そこまでいかずとも、労働や真の理不尽とは無縁の生活だったおぼっちゃまやおじょうさまが多い
一方で、どんな出自であれ、多少でも労働や真の理不尽を実体験で知る人らは、言葉選びや歌唱(演技)が軽いことが多い。なんだったら軽薄だったりもする
理不尽を乗り越えてきた人、または常に理不尽が隣り合わせの人の頭の中には、
『なんとかなるだろう』とか『ならなかった時はならなかった時』とか『Shikata ga nai』(サンノゼの日本人街にある石碑にも刻まれている) があるからなんだろうな
これはたぶん無視できない要素だ
あとは表現の深掘りや練度の問題だが、これも労働や理不尽に人生の大半を取られたらそれらにまともに取り組めない
取り組む時間やお金を持てたとしても、ある一定以上の質を求められる場では、才能の話にもなるのだろう
まぁ、とにかく、労働や理不尽さとは無縁の人々以外の表現は、一般的に軽いことが多い
本来であれば、その逆が望ましいのが、もしそうだったら、理不尽が常に傍らにいる側の人らは生きてはいけないのだろうな
つか、タイトルにあげた詞や歌の話とは違うが、理不尽を扱いつつも、それに圧倒されず、かといって軽薄にならず、ユーモラスで人間性を尊重し誇り高い描写をしている作品は、
昔の日本映画やケン・ローチ、アキ・カウリスマキの作品しかパッとは思い浮かばない
(なお、『東京物語』は少し受け止めきれない。それに敬意を表するジュゼッペ・トルナトーレの『みんな元気』はマイベスト映画だが、やはり受け止めきれない)
ーー・・・前置きが長くなったけど、タイトルの話、 "命に付く名前を「心」と呼ぶ" って受けとめときれる?
セルフボースティングで、思うがまま生きるぜ!成り上がるぜ!とかなら、チンピラでも陽キャでもないけどage↑↑↑になるし、
みんな仲良くしようねだったら、そうだねラブ&ピース🕊️だねってなるけど、
これ、
だぞ、ヒョエエエエエエってなるやろ
しかも、
だもんな、かざせだからな。『もうお前は照らすもの持ってるだろ』(前提)だからな
表現能力が高いからただ書けるだけで、犬の話みたいに深刻なやつじゃないのかなぁ、深刻に受けとめていて、果たして生きていけるものなのか?
(とか言いつつ、本人もカバーも聴いてるけど)
書いてる途中で思い出したけど、重たいテーマ扱ってるけど深刻じゃなくてユーモラスなのあったわ、怖いって意見もそこそこあるけど、
「コロンブス」を題材にしている点でもうアウト。
コロンブスは偉人っていうのはもう昔の感性。しゃかりきコロンブスは批判しないでミセスは批判するのかよ!と吠えてるミセスファンもいたが、しゃかりきコロンブスの時代は日本だけじゃなく世界的にもコロンブスは偉人だった。でもそこから見直されて「いややってきた『えらい』ところより悪い意味で『やばい』ことの方が多い」「そもそも昔『えらい』って言っていたことも『やばい』ことだった」ってなって、偉人よりに扱うことはしなくなった。
なので、『コロンブスの卵から云々』という発想の時点でダサいし大分古い感性の持ち主なんですね、と思った。
コカ・コーラは見切ってひどい!知ってたくせに!
コカ・コーラ側は曲については知ってたと思うよ。でもMVという完全ミセス側の作品については知らなかったと思うよ。MVにコカ・コーラのマークとかついてたらごめんね。
で、「コカ・コーラ側が引き上げてミセスかわいそう」っていう人に聞きたいけど……。例えば日本企業の広告に外国のアイドル使って、そのアイドルが「知らずに」広島とか長崎に見える「500万年前の」土地に爆弾放って猿が逃げ回ってるの見て楽しんで、そこにアイドルたちが乗り込んで猿に教育!家も改築!してるMV流したとするじゃん。ハ?原爆投下は正しかったって?いや知らなかったんですよ!土地が広島とかに見える?500万年前の土地って言ってるじゃないですか。猿は人じゃないです。って表明したらどう思う?って話だよね。
そのアイドル使いたい?やめてって思わん?
オタクの同人誌とか文集とかと違うんだよねメジャーアーティストのCMタイアップ曲って。CMタイアップ曲じゃなくてもアウトだけど、よりによって「大企業と契約してる曲」なのがやばいよね。
まだ自分のライブでこういう表現したとかなら「ミセスの自由だろ!」って言えたけどさ、これもう最初から「この広告で使います」っていう契約があって作られた曲でしょ?で爽やか〜な歌でさ、でMVはこれです!っていう出力がやばいよ。「曲とMVは無関係です」なんて言い訳が通用するわけないじゃん。
最後に「もっくんは何も知らない!差別っていってない!差別っていう人が差別してる!」っていう人へ。
差別って「やってる人」が「自分が差別してます」っていうわけじゃないし、一番エグいのは「無意識で行われる差別」なんですよね。こいつを下に見ていいんだって無邪気に思ってるのが一番やべえんだわ。
海外でアジア人に対する侮辱のジェスチャーで「目を指で引き上げてつり目にする」っていうのがあるけど、子供なら無知で通用するけど、大人だと無理。何も知らずにクールだと思ってまねしちゃいましたっていうのはありえない。本当にそれなら自分の推しは子供と同じってこと。
「何も知らないで無邪気に差別的表現やっちゃったんです!」が通用するのって未就学児くらいだよ。
あと今回は「無知」で押し通したいみたいだけど、大分厳しいよ。そもそも「コロンブス」だし、内容もそれで選んでるんでしょ?本人も「燃えるかもしれないと思ったから工夫しました」って釈明してるじゃん。何かしら燃える要素は「ある」って認識してたんでしょ?
ダンジョン飯のアニメは原作を忠実にアニメ化している類の作品だ、こういった作品は原作を知っているとストーリーは既知のものだし、視聴中に原作コマとの比較が脳内でちらつき、24分の尺のためにあそこは削ったなとか駆け足になったななどの評論家みたいな見方になってしまってどうも良くない、頭の中で常に作品を原作からの引き算で見てしまっている、原作を知らなければもっと純粋に楽しめただろう。
一期を通して原作を知ってた方が楽しめたのは11話のレッドドラゴン戦だ。
ライオスたちがレッドドラゴンを引き付けてマルシルが魔法で渡り廊下を落とすシーン、アニメだとマルシルは渡り廊下の屋根の上で直接爆破の魔法陣を発動させているが、原作だと隣の建物の屋根の上から導火線の魔法陣を発動して、それを伝って爆破の魔法陣を発動させている。
なぜこうしたか?の理由はすぐに分かる、ライオスが鍋に乗りマルシルの爆破の魔法陣の爆発力を利用してレッドドラゴンに飛び移るシーンで導火線の魔法陣が伝っていく部分を描写しているが、わりとゆっくり目の伝わり方をしている、このシーンを見た時に
「そうか、導火線経由だと爆破までにタイムラグがある。マルシルは少しでも確実性を上げるために渡り廊下用の爆破の魔法陣を直接発動させる用に改変したのか」
とアニメ化により生まれた弊害を上手いことマルシルが渡り廊下を落とす事への意気込みが感じられるようにアレンジにしたなあ、と感心した。
ダンジョン飯は間違いなくトリガーが原作をとても大切にし、熱意を持って作られている。
だけど忠実過ぎるがゆえに11話のような原作を知っているからこそ楽しめるシーンというのは今後もあるとは限らない、なので原作未読の方たちは二期も原作を未読のままで見た方が楽しめると思います。
今日から公開される映画「ディア・ファミリー」の主題歌(「Dear」という「コロンブス」のひとつ前の曲)を手掛けているからだろう。
この映画は心臓の病を抱えた娘のために人工心臓を作るという目標を経てIABPバルーンカテーテル誕生のきっかけになった愛知県の現役企業の実話を基にした作品だ。愛知県内の多くの企業が協賛に加わっている。主題歌アーティストがクソしょうもない別件で炎上という事で水を差していいような内容の作品ではない。
配給元や主演俳優の事務所に睨まれそうというだけで今後の活動に大きなマイナスポイントを生みかねないから(既に出遅れだと思うが)、格好つけるのを辞めて一応は素直に謝ったんだろうと思う。
映画のために書き下ろされた曲なだけあって「Dear」自体の出来は発表当初から一定層から懸念を抱かれていた「コロンブス」とは違って良かったし、少なくとも今月中はあれ一曲で勝負できたのにタイアップやプロモーションで欲張るからこのような事になる。
そんじょそこらのASMRと自分の声を録音して聞いた時の癒され度があんま変わらんな
それでボイス作品一作につき2000円か、さりとてYouTubeで苦手な声含む色んな声の聴き比べする気になれないしな、年取ったわ
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・
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・最後まで見た
地方住みにはハイソサエティすぎる話だったからバス江と交互にみて「ととのう」しながらみたらちょうどよかった
・opに出てくるMr.パーフェクトと新宿の兄弟子は別の人なの知って驚いた Mr.パーフェクトの過去…的な演出かと思ってたから
・しかし主人公さん、ヒロインちゃんが主人公さんのこと普通に好きになってるのにスルー(あの観察力で気付かない訳ないやろ…)するのはよくないと思います!(学級会)
インタラクティブで、文字のみならず美術や音楽といった総合芸術で訴えてくる豪華な読書。
読書して感性を豊かにしてる暇があるなら実益に直結する作業をするべきっていうなら、学校のカリキュラムですら教養系の科目は不要になるはずだな。
まあ、増田が挙げてるような昔からあるアクション主体のゲームは、どちらかというと読書というより、手慰みな部分が大きいかもしれんが。
現代のゲームは、いわば強制されない部活のようなものだ。部活を通して人と繋がることもできる。
ソーシャルゲームなどと馬鹿にされたりするが、そういうものは確かに昔のゲーム的な手慰み部分、つまりゲーム性は陳腐になっているかもしれないが、逆にハードルを下げているとも言える。
今のゲーム業界の市場規模中、運営型ゲームが8割を占め、人々がゲームを通して感動をリアルタイムで共有していく体験を重視していることから考えるに、手慰み性に執着せずに物語やキャラクターといった共有しやすい読書的感動にシフトしているのは、正しい方向への進化だと俺は思う。
ラノベの魅力というのはある種の時代性と限定性だと思うんですよね。
特定の時期の特定の界隈以外ではあまり評価されていないようなものほど、ラノベとしての良さがある。
時代を超えて評価される作品は単なる「名作文学」でしかなくて、それはライトとは呼べないと思うんですよ。
『ライトノベルの定義』なんてものは、どうせあと30年もして5chも滅んでしまったら皆忘れてしまうでしょう。
その昔、そんなネットミームがあったという思い出の中に消える。
この「思い出の中に消える」という部分こそがラノベのラノベらしさだと思うわけです。
ある種の時代性と限定性とさっき言ったばかりなんですが、たとえば人類全体の中で感染症が途切れることなく飛び交い続けるかのようにいつも誰かが罹患している中二病があったとしたら、それは個々人の感覚では「アーサー王がめっちゃ好きだった限定的な時代」として存在すると思うわけです。
人類の中にいつからかずっとアーサー王伝説は存在するんですけど、それはいつの時代においても子供時代に憧れる英雄譚でしかなくて、大人になったらごく一部の人間を除けば自然と卒業するような物語だったと思うわけです。
魔術師に導かれ伝説の剣を引き抜いた若き王、奇跡と魔術と剣と聖杯、魔女の陰謀、集う仲間、崩れ去る絆、誰もが一度は憧れるような殿堂入り中二ストーリー。
どれが一番好きとは言わないんですが、ラノベの本体は読後に読者が綴る怪文書だと思っております。
子供部屋に籠もって妄想たくましく自意識をこじらせた者たちが、インプリンティング効果やウェルテル効果で電波ゆんゆんになって書き上げる承認欲求ダダ漏れのレビュー。
遊びの本を読んで、特に責任もないままに、勢いだけで一気に書き上げて、翌朝になって恥ずかしくなって消そうとするも、レビューにいいねがついているので消さずに残す。
そういった諸々に宿る安易でジャンクな薄っぺらさこそが最もライトな文芸なわけです。
しかもこれ全部ここ1ヶ月で起きた話。
推しキャラの声優が不倫して相手を中絶させて暴行も加えたらしい。(推しが登場している)アニメの公式は未だだんまりで、今後どうなるか分からない。そんで1ヶ月も経たないうちに、今自分が1番ハマっている某音ゲーに楽曲を提供してくれた人が殺人未遂で捕まった。そのゲームに収録されていた曲は先日消された。
おいふざけんなよ某声優!おいふざけんなよ某ボカロP!お前たちはどういう気持ちで一緒に仕事した仲間たちやファンのことを踏み躙ったんだ?
おいそこのお気持ち表明オタク!「公式(運営)さんは悪くありません…」じゃねーんだよ!当たり前だろ!!庇おうとするな、運営は元々悪くないんだから!悪いのはこいつら本人だけだ!!
おいそこのポリコレが気に入らないオタク!「良い作品を作ってくれればそれでいい」「作品を生み出した人の性格や私生活なんてどうでもいい」じゃねーんだよ!!なら1人でやっとけ!誰かに支えられて、誰かと関わって、誰かと何かを作って、それを世に出したんだから、もう1人の問題じゃないんだよ!プロ意識待てよいい大人だろって言ってやれよ!
おいこれを見たそこのお前!週刊誌やネットにばら撒かれると他人に迷惑が掛かるようなことをしてるなら今すぐやめろ。それが辞められないなら仕事を辞めろ。いちオタクが言いたいのはそれだけだ。
※それぞれの事件に関して、部外者からは詳細なことが分かりかねるため、被害者の方や事件の内容に対するコメントは差し控えさせていただきます。
ソーシャル メディアで存在感を示すことは、今日では重要ですが、投稿するだけでは十分ではありません。オーディエンスを増やすことも必要です。以下は、オーディエンスを増やすための簡単なヒントです。
1. ニッチを選ぶ
まず、自分が得意なこと、情熱を注ぐこと、世界にもっと貢献できることは何かを理解しましょう。何かに秀でているということは、そのニッチを知っているということであり、自分の情報で人々を教育することができます。それは、アート、絵画、描画、料理などです。今日の人々は、常に何か違うユニークなものを求めており、それが好きなことで創造的になるきっかけになっています。覚えておいてください。常に得意なことに集中し、流行っているからという理由だけで何かをしてはいけません。確実に結果は得られますが、結果の一貫性は同じではありません。
どのニッチを選ぶべきかがわかれば、同じような好みを持つ人々を見つけられます。彼らはあなたの作品を高く評価し、その評価はオーディエンスにもっと貢献する意欲をかき立てます。何に重点を置くかを理解していなければ、オーディエンスが何を好むかを理解することはできません。オーディエンスが好むものを把握できれば、あなたの仕事は簡単になります。必要なのは、主要なオーディエンスについて、たとえば彼らの悩み、類似した特性、好みなどについてリサーチすることだけです。
コンテンツが鍵です。だからこそ、彼らはあなたのオーディエンスになるのです。オーディエンスに焦点を当て、型破りな素晴らしいコンテンツを作りましょう。最初はさまざまなコンテンツを試して、どれが自分に合っているか理解しましょう。写真、動画、ストーリー、アンケート、ライブ ストリームを試して、オーディエンスの関心を維持しましょう。オーディエンスが求めているものでなければ、オーディエンスはコンテンツに関心を寄せません。また、クイズやアンケートを実施してオーディエンスの関心を引くこともできます。プロフィールを定期的に更新しましょう。週に数回でも、一貫した投稿スケジュールを目指しましょう。こうすることで、オーディエンスはいつ新しいコンテンツを期待できるかを知ることができます。もちろん、頻繁に投稿することは重要ですが、品質も重要です。時間をかけて、オーディエンスに価値を提供する、視覚的に魅力的で有益なコンテンツを作成しましょう。
3. より社交的になる:
オーディエンスと交流し、オーディエンスとのつながりを築きましょう。より社交的であるように自分を表現して、コメントやメッセージに返信し、オーディエンスに気を配っていることを示しましょう。批判的なものであっても、コメントやメッセージには速やかに返信しましょう。こうすることでコミュニティ意識が高まり、さらなる交流が促されます。オーディエンスに質問して会話を盛り上げましょう。アンケート、クイズ、自由形式の質問は、人々の会話を盛り上げるのに最適です。良い景品を嫌う人はいないでしょう。コンテストや景品の開催は、新しいフォロワーを引き付け、エンゲージメントを高める楽しい方法です。
探索されるのを待っている素晴らしいソーシャル メディア コミュニティの世界が広がっています。Facebook グループ、LinkedIn グループ、サブレディットは、ニッチなコミュニティを見つけるのに最適な場所です。ディスカッションに参加し、専門知識を共有し、志を同じくする人々とつながりましょう。自分の分野で成功している人々が何をしているのかを見てみましょう。彼らをフォローし、彼らの戦略から学び、可能であれば協力しましょう。ハッシュタグはソーシャル メディアのキーワードのようなものです。関連するハッシュタグを使用して、新しいオーディエンスにコンテンツを見つけてもらいましょう。
5. 待つだけ:
忠実なオーディエンスを構築するには、時間と献身が必要です。一夜にして結果が出なくても落胆しないでください。価値あるコンテンツを作り続け、オーディエンスと常に交流し、その過程でマイルストーンを祝いましょう。オンラインの世界だけにとどまらないでください。名刺、Web サイト、メールの署名にソーシャル メディアのハンドルを含めてください。あるプラットフォームのフォロワーに、別のプラットフォームでも活動していることを知らせましょう。これにより、リーチを拡大し、より統一されたオンライン プレゼンスを構築できます。ほとんどのソーシャル メディア プラットフォームには分析ツールが用意されています。それらを使用して、オーディエンスの共感を呼ぶコンテンツを確認し、それに応じて戦略を調整してください。
ReferenceReference: https://fly-social.com/
ああいう露悪的だけど実は深い、みたいなのは80-90年代が最盛期だったように思う。
あの頃のMVは今じゃ無理だなって思うけど面白いのが結構ある。
あと題材もちょうど今、パレスチナウクライナ台湾問題、どこも植民地政策が発端でずっと揉めてることがここにきて急にどれも大きく燃え出してるとこだから、真意はどうあれ、少なくない人がそれを茶化す感じに見えるものがでるのは、タイムリーといえばそうだけど間が悪いといえば間が悪い。
ちゃんとした機材を使って光の向きとか種類とか当て方とか工夫して、撮影後に加工して手間ひまかけて作品として仕上げた写真である程、AI感が出てしまうの残酷さすらあると思う。
舞城王太郎の小説を読むのは初めてだった。ブックオフで著書がたくさん並んでいるのだから、面白いのだろうと長年思っていた。それで、代表作であろう阿修羅ガールを読むことにしたのだ。
面白かった。ただしそれは小説全体の中盤、具体的には第一部が終わるまでだったが。主人公(アイコ)のキャラクターがしっかりと立っていて、貞操も倫理観も欠如した主人公が感情のままに刹那的かつ本能的に振る舞うのが一人称でまくしたてられていて、読んでいて心地よかった。
ストーリーも着々と盛り上がっていき、今後の展開に目が離せなくなる。主人公と肉体関係を持った佐野が失踪した理由は何か、アルマゲドンと匿名掲示板で呼ばれる青少年の暴動に主人公が巻き込まれていきどうなっていくのだろうか、といった具合にである。
しかし、第二部が始まり芸能人や政治家が何の脈絡もなく突然に登場してストーリーをひっかきまわしていくので、作者はヤケクソになったのではないか、ストーリーを収束させるつもりは無いのだろうかと困惑する。私は、00年代初頭に2ちゃんねる上で流行したガクトスレ(『はっきり言って、ガクト気持ち悪いです。』URL→ http://news4u.blog51.fc2.com/blog-entry-1371.html )を連想した。作中の匿名掲示板(2ちゃんねるが元ネタなのは明らか)でのスラングの再現ぶりからして、舞城王太郎はガクトスレに影響された可能性は高いと思われる。その後の展開でも第一部で描かれた丁寧な描写と打って変わって、リアリティの無い夢や妄想のような世界を大型文字を交えて描かれたり、突如主人公が変わって架空の世界でのホラー調ストーリーがファンタジー風に展開されたりと、メチャクチャな展開になっていく。例えるなら、リレー小説でそれぞれの作者が我を強く押し通して話を作り、落丁などをほったらかしにしたままに話をそのまま繋げたという感じだ。連載小説なら、設定やストーリーの根幹を軽視してその場の盛り上がりを重視するというのも分かるが、どうやらこの阿修羅ガールはそういう訳ではないらしい。
そして、第三部では第二部でのハチャメチャな展開を無理やりにまとめるが、それまでの展開を夢オチとするも同然の扱いだった。そうでもしなければ、話を収束させられないから仕方がないけれども。とはいえ、失踪した佐野に関するオチが全く無いのもどうかと思ったが。そして最後まで読んで、こんな小説が賞を受賞したのかと愕然としたが、三島由紀夫賞というのを目にして納得した。三島由紀夫の著書はまだ一作も読んだことがないけれども、WikipediaやYouTube動画から読み取れる三島由紀夫の人格を推測するに、思想の根幹が弱いわりに伊達な人生を貫いた人という印象だ。伊達な人生に命を懸けたという点で、ある意味では思想が強いとも評せられるけれども。それだけに、この阿修羅ガールは三島由紀夫賞に相応しいのだろうと、読了後に感じたものだ。
まあ、文学というのはこういう物なのだろう。「文学」というよりは「文楽」だろうと思ったけれども。つまり文を「学ぶ」のではなく、文を「楽しむ」だ。音楽を論理的に作ったり分析したりしている人を見ると、「音楽」というより「音学」という言葉がふさわしいのではと思うことがある。しかし、出版社主導によって商業的評価をもってして誉めそやされている「文学」という代物は「文楽」という言葉の方がふさわしいだろう。当作『阿修羅ガール』でも同様だ。
阿修羅ガールは、作品の根幹を成すストーリー・思想・価値観よりもその場限りでの文章の修辞的な技巧に重きを置いて、その技巧を楽しむエンタメ作品だ。こうした小説こそが、出版社主導の賞にふさわしいのだろう。そして、こうした小説を生み出せる人が、商業作家として大成していくのだろう。
なんだかんだと文句を書き連ねたような感想になってしまったが、それも最後まで読み切ってしまう楽しさを持つ小説だからこそだ。楽しさの無い小説など、途中で読むのもやめてしまい感想を書く気にもなれないのだから。