舞城王太郎の小説を読むのは初めてだった。ブックオフで著書がたくさん並んでいるのだから、面白いのだろうと長年思っていた。それで、代表作であろう阿修羅ガールを読むことにしたのだ。
面白かった。ただしそれは小説全体の中盤、具体的には第一部が終わるまでだったが。主人公(アイコ)のキャラクターがしっかりと立っていて、貞操も倫理観も欠如した主人公が感情のままに刹那的かつ本能的に振る舞うのが一人称でまくしたてられていて、読んでいて心地よかった。
ストーリーも着々と盛り上がっていき、今後の展開に目が離せなくなる。主人公と肉体関係を持った佐野が失踪した理由は何か、アルマゲドンと匿名掲示板で呼ばれる青少年の暴動に主人公が巻き込まれていきどうなっていくのだろうか、といった具合にである。
しかし、第二部が始まり芸能人や政治家が何の脈絡もなく突然に登場してストーリーをひっかきまわしていくので、作者はヤケクソになったのではないか、ストーリーを収束させるつもりは無いのだろうかと困惑する。私は、00年代初頭に2ちゃんねる上で流行したガクトスレ(『はっきり言って、ガクト気持ち悪いです。』URL→ http://news4u.blog51.fc2.com/blog-entry-1371.html )を連想した。作中の匿名掲示板(2ちゃんねるが元ネタなのは明らか)でのスラングの再現ぶりからして、舞城王太郎はガクトスレに影響された可能性は高いと思われる。その後の展開でも第一部で描かれた丁寧な描写と打って変わって、リアリティの無い夢や妄想のような世界を大型文字を交えて描かれたり、突如主人公が変わって架空の世界でのホラー調ストーリーがファンタジー風に展開されたりと、メチャクチャな展開になっていく。例えるなら、リレー小説でそれぞれの作者が我を強く押し通して話を作り、落丁などをほったらかしにしたままに話をそのまま繋げたという感じだ。連載小説なら、設定やストーリーの根幹を軽視してその場の盛り上がりを重視するというのも分かるが、どうやらこの阿修羅ガールはそういう訳ではないらしい。
そして、第三部では第二部でのハチャメチャな展開を無理やりにまとめるが、それまでの展開を夢オチとするも同然の扱いだった。そうでもしなければ、話を収束させられないから仕方がないけれども。とはいえ、失踪した佐野に関するオチが全く無いのもどうかと思ったが。そして最後まで読んで、こんな小説が賞を受賞したのかと愕然としたが、三島由紀夫賞というのを目にして納得した。三島由紀夫の著書はまだ一作も読んだことがないけれども、WikipediaやYouTube動画から読み取れる三島由紀夫の人格を推測するに、思想の根幹が弱いわりに伊達な人生を貫いた人という印象だ。伊達な人生に命を懸けたという点で、ある意味では思想が強いとも評せられるけれども。それだけに、この阿修羅ガールは三島由紀夫賞に相応しいのだろうと、読了後に感じたものだ。
まあ、文学というのはこういう物なのだろう。「文学」というよりは「文楽」だろうと思ったけれども。つまり文を「学ぶ」のではなく、文を「楽しむ」だ。音楽を論理的に作ったり分析したりしている人を見ると、「音楽」というより「音学」という言葉がふさわしいのではと思うことがある。しかし、出版社主導によって商業的評価をもってして誉めそやされている「文学」という代物は「文楽」という言葉の方がふさわしいだろう。当作『阿修羅ガール』でも同様だ。
阿修羅ガールは、作品の根幹を成すストーリー・思想・価値観よりもその場限りでの文章の修辞的な技巧に重きを置いて、その技巧を楽しむエンタメ作品だ。こうした小説こそが、出版社主導の賞にふさわしいのだろう。そして、こうした小説を生み出せる人が、商業作家として大成していくのだろう。
なんだかんだと文句を書き連ねたような感想になってしまったが、それも最後まで読み切ってしまう楽しさを持つ小説だからこそだ。楽しさの無い小説など、途中で読むのもやめてしまい感想を書く気にもなれないのだから。