はてなキーワード: 作品とは
『記録に残るゲームより記憶に残るゲームだよな』 平野耕太氏の名言だが正にバーチャロンがそうなのではないだろうか。
健康器具やホテルなどゲームと全く関係の無い界隈から作品の存続を引っ張る人物が次々出てくるのはバーチャロン以外で見た事無い。
アーマードコアでさえクラウドファンディングするユーザーとか見た事無いもんな。
「アーティストとか作家の思想なんてどうでも良いじゃん、作品だけを評価すれば」って思ってたけど、「でもアパホテルは経営者の思想性がアレだから泊まりたくないだろ?アレが無ければ選択肢に入るだろう」と言われて、それはそうだなと思った。
30代既婚子なし。
資産が5000万超えたので人生を楽しむためにお金を使う方にフォーカスしようと思ったんだけどいざ使おうと思うとなかなか難しい。
趣味が映画鑑賞、読書、美術館巡り、飲酒、スマホゲームってとこなんだけど、
映画鑑賞→年に数本しか映画館で観たい!って思える物がなく、過去の有名な作品や気に入った監督の作品をサブスクで観る方がいいのでお金かからない。
読書→買ったら置き場に困る(売るにも近所にブックオフとかがない)ので図書館で借りてきててお金かからない。最新作や人気作じゃなくても好きな作家の著書を片っ端から読めるので充分。
美術館巡り→2ヶ月に1回ぐらいの頻度なのでチケット代、ランチ代、交通費入れてもたかが知れてる。
飲酒→自宅で飲むのが好き。若い頃より弱くなったので週1.2回ビール1本程度でお金かからない。
服買うにもインドア派だからたくさんいらないし、美容も無印良品の化粧水とかマツキヨに売ってるようなメーカーのメイク用品で不満ないし、ネイルや髪は職場の規定で何もできない。
がんばって出かける回数増やしたけど月5万ぐらいしか使えない。
削ぎ落されたのは〇〇や△△をめぐる本筋外のエピソードだけじゃなくて映画出演する権利を与えられたメインキャラクターの性格描写となる部分も、であって
おかげで一部のマッチョ志向増田の琴線に触れた「男性キャラクターは男らしさを降りないと存在を認められない」という特徴は、映画だけを観ている限りではほぼ消臭されている。瀬戸康史演ずるキャラクターは普通の優しくかっこいいおじさんだ。
それは新垣結衣演ずる槙生も同じで、最初からやたら「良い人」だ。原作だと変人でとっつきにくいキャラクターが15歳の少女を引き取るという思いきった行動に出てくるというギャップが存在する。
だが、嫌々ながら売り言葉に買い言葉でやむを得ず引き取ってしまった後悔を内に秘めた「キツい」性格のワーキング成年女性である描写は映画では存在しない。(執筆中は邪魔をするなと釘をさすくらいのやりとりが最初くらいはあってしかるべきだろうが、意外なくらい主人公二人の間には壁(映像表現では、部屋と部屋の間の扉にあたる)がない)
いきなり両親を亡くした中学生を引き取るのだからどう考えても善人に間違いないのだが、少女に、私を引き取ったのは自己満足のため?(大意)と問われて違うよ、愛しているよ(大意)と答えるのだからこてこての善人である。
新垣結衣(槙生)は自宅を汚部屋にしていた。これを「良いのよこれで、私には」と開き直って見せれば傲岸不遜なキャラクター付けになるのだが、なんか申し訳そうな反応(てへぺろ系)を示すので、むしろメシマズキャラクター同様の「欠点のある女性カワイイ」描写になっている。
そういったわけで観賞していて「ピンチの予感/ストレス→緩和」のふり幅が小さく軽い、低ストレスで見ることのできる映画となっている。去勢された男性や自信満々の女性を観たくない自分と向き合いたくない、という男性にも安心だ。
ブス腐女子の妄想だろうから、そんだけラブライブが嫌いなんだろうな。
性格最悪のルッキズム糞ブス女が嫌いなコンテンツが、男キャラ出ない作品。
男キャラ出さないことによって、こういう屑ブス女に報復できる。
やらないと、どこまでも増長していくよ、こういうブスどもは。
ソーシャル メディアで存在感を示すことは、今日では重要ですが、投稿するだけでは十分ではありません。オーディエンスを増やすことも必要です。以下は、オーディエンスを増やすための簡単なヒントです。
1. ニッチを選ぶ
まず、自分が得意なこと、情熱を注ぐこと、世界にもっと貢献できることは何かを理解しましょう。何かに秀でているということは、そのニッチを知っているということであり、自分の情報で人々を教育することができます。それは、アート、絵画、描画、料理などです。今日の人々は、常に何か違うユニークなものを求めており、それが好きなことで創造的になるきっかけになっています。覚えておいてください。常に得意なことに集中し、流行っているからという理由だけで何かをしてはいけません。確実に結果は得られますが、結果の一貫性は同じではありません。
どのニッチを選ぶべきかがわかれば、同じような好みを持つ人々を見つけられます。彼らはあなたの作品を高く評価し、その評価はオーディエンスにもっと貢献する意欲をかき立てます。何に重点を置くかを理解していなければ、オーディエンスが何を好むかを理解することはできません。オーディエンスが好むものを把握できれば、あなたの仕事は簡単になります。必要なのは、主要なオーディエンスについて、たとえば彼らの悩み、類似した特性、好みなどについてリサーチすることだけです。
コンテンツが鍵です。だからこそ、彼らはあなたのオーディエンスになるのです。オーディエンスに焦点を当て、型破りな素晴らしいコンテンツを作りましょう。最初はさまざまなコンテンツを試して、どれが自分に合っているか理解しましょう。写真、動画、ストーリー、アンケート、ライブ ストリームを試して、オーディエンスの関心を維持しましょう。オーディエンスが求めているものでなければ、オーディエンスはコンテンツに関心を寄せません。また、クイズやアンケートを実施してオーディエンスの関心を引くこともできます。プロフィールを定期的に更新しましょう。週に数回でも、一貫した投稿スケジュールを目指しましょう。こうすることで、オーディエンスはいつ新しいコンテンツを期待できるかを知ることができます。もちろん、頻繁に投稿することは重要ですが、品質も重要です。時間をかけて、オーディエンスに価値を提供する、視覚的に魅力的で有益なコンテンツを作成しましょう。
3. より社交的になる:
オーディエンスと交流し、オーディエンスとのつながりを築きましょう。より社交的であるように自分を表現して、コメントやメッセージに返信し、オーディエンスに気を配っていることを示しましょう。批判的なものであっても、コメントやメッセージには速やかに返信しましょう。こうすることでコミュニティ意識が高まり、さらなる交流が促されます。オーディエンスに質問して会話を盛り上げましょう。アンケート、クイズ、自由形式の質問は、人々の会話を盛り上げるのに最適です。良い景品を嫌う人はいないでしょう。コンテストや景品の開催は、新しいフォロワーを引き付け、エンゲージメントを高める楽しい方法です。
探索されるのを待っている素晴らしいソーシャル メディア コミュニティの世界が広がっています。Facebook グループ、LinkedIn グループ、サブレディットは、ニッチなコミュニティを見つけるのに最適な場所です。ディスカッションに参加し、専門知識を共有し、志を同じくする人々とつながりましょう。自分の分野で成功している人々が何をしているのかを見てみましょう。彼らをフォローし、彼らの戦略から学び、可能であれば協力しましょう。ハッシュタグはソーシャル メディアのキーワードのようなものです。関連するハッシュタグを使用して、新しいオーディエンスにコンテンツを見つけてもらいましょう。
5. 待つだけ:
忠実なオーディエンスを構築するには、時間と献身が必要です。一夜にして結果が出なくても落胆しないでください。価値あるコンテンツを作り続け、オーディエンスと常に交流し、その過程でマイルストーンを祝いましょう。オンラインの世界だけにとどまらないでください。名刺、Web サイト、メールの署名にソーシャル メディアのハンドルを含めてください。あるプラットフォームのフォロワーに、別のプラットフォームでも活動していることを知らせましょう。これにより、リーチを拡大し、より統一されたオンライン プレゼンスを構築できます。ほとんどのソーシャル メディア プラットフォームには分析ツールが用意されています。それらを使用して、オーディエンスの共感を呼ぶコンテンツを確認し、それに応じて戦略を調整してください。
ReferenceReference: https://fly-social.com/
『聖剣伝説 ヴィジョンズ オブ マナ』発売日発表トレーラーが6月12日19:45よりYouTubeにてプレミア公開 | ゲーム・エンタメ最新情報のファミ通.com
『聖剣伝説 VISIONS of MANA』は、約17 年の時を経て王道ファンタジーRPG として原点回帰した、「聖剣伝説」シリーズ完全新作です。
自然や精霊とのつながりを感じられる世界観、豊かな色彩と温かみのあるグラフィックなどは本作でも健在!
「豊かな色彩」はわかるけど「温かみのあるグラフィック」はわからん。
https://www.nintendo.co.jp/clvs/img/soft/seiken.jpg
色が濃くて、荘厳で、重く、冷たい空気すら感じるじゃん。
https://www.suruga-ya.jp/pics_light/boxart_a/978108732_2.jpg?v=ddb8e3fae57fd56cac23
キャラデザも、頭身が高くてかっこよくてさ、ビビッドだけど暗めで、はっきりしてて。
LoMでちょっとメルヘンな感じになって「変わったな」と思って、
聖剣4でなんか一気に明度が高くなって「安っぽくなった」と感じて。
言いたいこと:「少女小説をラノベに含めても無視してもボコボコに叩かれる」という難しい状況がある。
いま、ライトノベルのオールタイムベストを選出する作業が進められている。
ラノベが社会に認められるためには、売り上げだけが唯一の評価軸である現状では差し障りがある。文化としての成熟には体系化と批評の存在が必須であり、その一歩としてたいへん意義のある活動と言えるだろう。
あくまで叩き台であり、作品数的にもより拡張した形を目指していくようだが、現時点でも各年代に目の行き届いた、ラノベの歴史の流れを俯瞰できる内容となっている。
ただ、この手の企画はどのような基準で選んだとしても、あれがないこれがないという不満はどこかから出てしまうものだ。ラノベ150選も例外ではない。
その中で今回特に目についたのが、「女性向け作品がない」という声だ。
これに対する企画者の返答は、女性向け作品については単独のガイドブック等が先行して存在しているから、というものだった。
合理的な判断だと思うのだが、これでも納得していない人は多い。少女向けをないがにしろにするのか?と憤慨し、容赦なくボッコボコである。
増田は、ライトノベルや少女小説(もしくは「女性向けライトノベル」)の歴史そのものについてはともかく、ライトノベルと少女小説との関係性についてはちょっとした知識がある。
今のままでは企画者氏があまりに不憫なので、これについて簡単に解説しておこうと思う。
ニフティサーブのSFファンタジー・フォーラム内で増えてきたある種の若者向け小説の話題を別会議室に独立させるにあたって、管理人の神北恵太氏が命名したものである……
もちろん名前はそうでも、ジャンルとしてのラノベ自体が90年に突然生まれたわけではない。起源をいつとするかは諸説あるものの、ラノベ的作品はそれ以前から存在していた(存在→命名の順であってその逆ではない)
そのようなラノベ的小説群は「ライトノベル」が定着する以前には、個人やコミュニティごとにさまざまな呼ばれ方をしていた。そのうちの一つに、ジャンルの代表的なレーベルから取った「ソノラマ・コバルト系」というものもあった。
言うまでもなく、コバルト文庫は少女小説の代名詞というべきレーベルである。つまり、命名の時点では「ライトノベル」は少女小説(の少なくとも一部)を当然に含むような形で規定されていたということだ。
(ここでの「少女小説」とは当時のコバルト文庫やティーンズハート文庫などのことであり、たとえば吉屋信子や創刊直後のコバルトシリーズなどは当然ながら想定していない)
以後、他メディア化の機会などの関係で男性向け作品の方が存在感はあったものの、ライトノベル(的なもの)は女性向けを含めたひと塊のカテゴリとして扱われていく。
2000年代に入り、語としての「ライトノベル」が一般に定着して以降も、この認識はそれほど変わっていなかったはずだ。
この状況に大きな変化をもたらす出来事が、2010年代前半に起こった。
まずは2013年、とある文学研究者がツイッターでこのような発言をしている。
少女小説・ラノベそれぞれのジャンルについての価値判断を含んでいるとまでは言わないが、これが少女小説の側に立った発言であることはまず間違いないだろう。
それまでの一般的なラノベ定義・史観を覆す、非常に大胆な主張である。
ただ、一部のラノベ読者が過敏に反応はしたものの、この時点ではアカデミシャンとはいえあくまでいち個人の主張に過ぎなかった。
それが正式な形で世に出たのは、2014年のことになる。著書としての刊行である。
この本で研究者氏は丹念に事実を積み重ねた論証により、まさに「少女小説が歴史的にライトノベルではない」ことを証明してしまったのだ。
詳細は省くが、
少女小説は戦前からの少女文化独自の伝統を直接的に受け継ぐ文学ジャンル、ライトノベルは戦後のマンガ文化等の影響から新たに生まれた新興の娯楽であり、その出自からして全く異なる別物である
ということだ。
この、市井のオタクではとうてい太刀打ちできない完璧な形の少女小説≠ラノベ論の出現により、少女小説⊂ラノベ派の多くは白旗を上げて沈黙することとなる。逆に、少女小説がラノベの枠内で扱われることに不満を感じていた少女小説業界関係者・読者は、我が意を得たりと快哉を叫んだ。
日本文学研究者による恐らく初めての本格的なラノベ論ということもあり、この本はもともとラノベや少女小説に興味のあった人間にとどまらず、幅広い層の人々に読まれていった。今やラノベ関連の研究ではほぼ必ず参照される一冊となっており、アマチュアでもラノベの定義や歴史を語るなら必読と言っていいだろう。
これによりパラダイムが決定的に転換し、少女小説をラノベに含めるような人間は、もはやそれだけで時代遅れな「分かってないやつ」の烙印を押されるまでになったのだ。
(フェミニズム的な意識の高まりにより、女性文化(少女小説)の功績を男性側(ラノベ)が都合よく収奪してきた、という構図に気まずさを強く覚えるようになったのも、この傾向を後押しした)
この空気の変化は以前/以後と呼んでいいほどに劇的なものであり、刊行から10年経った2024年の現在にいたっても、更新される気配は特にない。
お分かりだろうか。
つまり、少女小説は「ライトノベル」ではない、というのは、もともと少女小説サイドが言い出した主張なのだ。
現在では、ラノベの定義・歴史との関連で(特に男性の論者が)少女小説に触れる際には細心の注意が要求されるし、実質的にはほぼタブーに近い。
企画者氏がラノベ150選から女性向けを除外したのも、世間のその暗黙の風潮におとなしく従ったという側面がやはりあるのではないだろうか。
加えて企画者氏の場合は、かつて不用意にレジェンド少女小説作家を「ライトノベル作家」と呼んで、少女小説側から激しい批判に晒された当事者でもある。そのため今度は、なおさら慎重に配慮したつもりだったのだろう。本人としては。
結論として今回の件は、気遣いがすれ違ってしまった悲しい事例ということになる。
少女小説読者といっても一枚岩ではないし、自分はそんな配慮ぜんぜん嬉しくない。多数派がどれだけ否定していても自分は少女小説もラノベに含めるべきだと言い続けるぞ。という人もいるだろう。その気持ちもよく分かる。
分かるが、少女小説をラノベに含めても無視しても必ずどちらかからボコボコに叩かれることになる、板挟みの苦しい立場のことも少し考えてみてはもらえないだろうか。
オールタイムベストの企画者氏は現在、文化としてのラノベ保全のため「ライトノベル図書館」の設立計画を進めており、クールジャパン予算を獲得すべく自民党の国会議員に働きかけている。ラノベオールタイムベストはその陳情の材料にもなる予定らしい。
こうした活動の文化的な意義を踏まえた上で、できれば多少の意見の相違は呑み込み、振り上げた拳をどうかそっと下ろしてはくれまいか……
長え! 一番言いたいことを最初に置いとけよ。
追加しときました。
核心部分が何で匿名やねん
「ラノベのルーツの1つは少女小説である」と「少女小説はラノベである」は意味が全然違うと思うが(後者を主張してる人いる?)
“ラノベのオールタイムベスト”に、ある少女小説を推すとした場合、(少女小説全体やレーベル全体ではなく)少なくともその作品は「ラノベ」で(も)あることが自動的に前提となるのでは。
逆に言うと、ラノベではないがラノベのオールタイムベストに入れろ、は通らない。
排除ではなく、少女小説の側がラノベに括られることを拒否した運動があった、という話です。
クール・ジャパンから公金を引っ張るために少女レーベルや未分化期を無視するのは仕方ないキリッ されて、納得は出来ないですけど………
リストから少女向けを除外した理由(と思われるもの)と、批判のトーンをなるべく抑えてほしい理由は、別々に書いたつもりです。
wikipediaより「1990年初めにパソコン通信ニフティサーブの「SFファンタジー・フォーラム」において〜「ソノラマ・コバルト」などのレーベルからの出版物に「ライトノベル」と名付けたことが始まり」コバルト入ってるやん
はい。
その話を本文に書いています。
その、とある文学研究者って誰だよ。名前を出してくれないと分からないよ。2013年の事なら記憶にありそうなものだが思い当たる人がいない。
ツイートの件はともかく、著書の話を見ても心当たりがないなら、たぶんそもそも知らないんじゃないかな……
その「知らん研究者のお気持ち」が定説化して力を持ってしまっているという現実があるのです。
たとえとして適切か分かりませんが。
ナンパを不快に感じるA子さんと、女をナンパしない男は無礼だと信じるB子さんがいるとします。二人のナンパに対する意識は、事前に外からは判断できないものとします。
公開年: 2023年
「関心領域」は、街中で淡々と駆除される弱者男性たちと、それに見向きもせずに日常生活を送る女性たちの冷酷さを描いたサイコロジカル・ドラマです。映画は、眼の前で悲劇が起こっているにもかかわらず、全く関心を向けない女性たちの無関心と冷淡さをテーマにしています。弱者男性たちが駆除されるシーンは直接描かれず、セリフや背景から暗示的に伝えられます。映画のラストには視聴者に対する挑発的なメッセージが込められており、観る者をもその冷酷さに同調しているのではないかと問いかけます。
物語は、都会の無機質な風景から始まります。主婦の美奈は、平凡な日常を送っています。彼女の生活は、家事、買い物、友人とのランチといった普通のことに満ちています。しかし、街中では、弱者男性たちが駆除されているという不穏な噂が流れています。
観客は、駆除される男性たちの姿を直接目にすることはありませんが、背後にある会話やテレビのニュース、そして女性たちの無関心な態度から、その存在を感じ取ります。美奈とその友人たちは、この問題について全く触れることなく、日常を過ごしていきます。
映画の中盤では、美奈が日常の中で幾度となく駆除の痕跡を目にするシーンが描かれますが、彼女はその度に意図的に無視し、話題を変えます。街の雰囲気は次第に冷酷さを増し、観客はその不気味さに引き込まれていきます。
美奈の演技は淡々としており、無関心な主婦を見事に演じています。彼女の表情や態度から感じられる冷淡さは、映画全体のテーマを強調しています。友人たちも、それぞれが無関心な態度を自然に演じ、物語にリアリティを加えています。
監督は、視覚的に直接的な暴力を避けつつも、観客にその不快感を巧妙に伝える手法を用いています。背景のディテールや登場人物の何気ない会話を通じて、物語の裏にある冷酷な現実を描き出しています。
音楽は控えめで、むしろ静寂が多くのシーンで支配的です。これにより、日常の中に潜む不安感が強調され、観客の緊張感を高めます。
映画は、視聴者に対して強烈なメッセージを投げかけます。ラストシーンでは、観客自身が映画の中の冷酷な女性たちと同じ無関心な立場にいるのではないかと問いかけます。この挑発的な結末は、観る者に強い衝撃と反省を促します。
「関心領域」は、現代社会における無関心と冷淡さを鋭く描いた作品です。直接的な描写を避けながらも、そのテーマを強く観客に伝える巧妙な手法は評価に値します。視聴後に残る不快感と自己反省の感情は、この映画の最大の特徴であり、サイコロジカル・ドラマとして非常に成功しています。
このレビューが参考になれば幸いです。「関心領域」は、視覚的な暴力を避けつつも深いテーマを持つ挑戦的な作品です。観客に強い印象を残すこと間違いありません。
あるキャラクターをマスコット化したファンアートを何ヶ月単位で描きつづけて元キャラクターや作品とかけ離れた要素を付加していく延長で、虹色モチーフを使ったイラストも描くのは二次創作の範疇ではご自由に、と思っている。
だがそれに対してつっかかって来た匿名メッセージへの回答が「このマスコットは単為生殖(分裂)個体だから」は気持ち悪すぎる。
いわゆる毒マロが送られることには同情するが、元ネタキャラクターの名前を継承したマスコットでやることじゃない。
某ジャンルのキャラクターを擬獣化したファンアートを延々と書き続けた結果、オリジナルですとガワ変えて連載だか商品化だか?してたやつを思い出した
高校の進路指導の教師が生徒の「無茶な夢」に現実をつきつけていくマンガ、「夢なし先生の進路指導」が今日までキンドル無料なのだけど、
ぜひ無料のうちに読んで、ブクマや増田に感想を書いてみてほしい。
個人的には、思春期の頃の「夢」(多くはあこがれの職業に就くことでしかないけど)って、「無意味な人生を生きる理由(目的)」になることも往々にしてあるから、一概に「夢はいけない」とはいえないけど、
面白いだろ!と思って書いたら大不評でテンションダダ下がりなのが絵柄から判る。絵が死んでるもん。
人気作品だから編集に書かされてるんだろうけど、やる気無いなら編集長に土下座して1部ラストからやりなおせば良いのに。
次の瞬間には忘れているくらいだった断片的な違和感の全体像が作品内では明確に示されていて、私にとっては悪い意味で相手方の価値観について符丁が合った。
こういうことが向こうでもあったんじゃない?
輝きながら繋がる
というフレーズがあるけど、このようなことがネガティブな方で起こってしまうきっかけがあったんじゃないかな。
単一では断片的で意味をなさないサインが点在してるだけのうちは深く考えなかったものが、相手の行動をネガティブに解釈するスイッチが入ることで悪い一貫性が見えてくることってある。
きっかけは流石に強い違和感を覚えざるを得ないひとつの出来事かもしれないし、アレルギーの発症のように小さな負の蓄積が閾値を超えたのかもしれない。
往々にして相手を美化しがちだった関係で起こるよ。相手の行動をネガティブに考察する発想がない期間が長いとそうなる。気付いたら手遅れの量が一気に来るからね。逆に初めから清濁併せ飲めたら中々起こらない。