はてなキーワード: ありすとは
最初に書くことではない気がするけど。
「1話目でどれだけ視聴者を取り込めるか」って昨今のアニメではかなり重要視されているのに、ケムリクサには1話目に大きな山場があったようには思えない。
敢えてそうしたのかは分からないけど、確かにこの方がリアリティがある。
謎設定でリアリティを追求するのは構わなくて、視聴者の目線でそのリアルを見る役が登場すれば問題ない、ということで、わかばに視聴者の代わりをさせるんだろうけど、くどくない?語彙力なさすぎじゃない?精神年齢低いわりに冷静な判断力ありすぎじゃない?という疑問が湧いた。そういうアニメじゃないのかな。
いま3話目なので、設定の謎が解き明かされるところに面白さがあると信じて見続けてみる。
外部ライブラリが果てしなくあり、
← それはPythonに限ったことじゃないでしょ。JavaでもRubyでもPerlでもCでも同様。主要言語はほぼそうでしょ。
それはむしろ逆。Python のスローガンは There's Only One Way To Do It で、これは Perl のスローガン There's more than one way to do it. を意識したもの。
https://wiki.python.org/moin/TOOWTDI
なお、個人的には C# は良さそうだなとは思うけど、Windows以外のプラットホームではどうなんでしょう。(よく知らない。) これは Visual Basic についても同様。
外部ライブラリが果てしなくあり、似たような機能を実現する方法が複数あるので、本によって書いてあることが違ったりする。
逆説的ではあるが、初心者は、Visual BasicやC#あたりから入るのがいいような気がしてきた。
逆引きハンドブックのような本を片手に、チュートリアル本を手打ちでコードを動かしながら読了すると、Visual BasicやC#の世界は一通り把握できる。わからないことは索引を見ればだいたい出ている。Visual BasicやC#があんまり尊敬されてなくて、限界や不満もあることもだんだん理解できる。
Visual BasicやC#でも相当なことができるし、そこからスマートな言語に移行すれば、比較対象となるものがあるので、守備範囲を自分のペースで広げていける。
あのGoogleも採用したとかいうOKRとかいう目標設定フレームワークで仕事してんだけどおそろしくつまらなくて面倒くさい。
というかやりたいことが全く出来なくていらいらするだけ。
現場で困っていたり苦しんでいたりする、ツールの改修とか開発環境の改善とかは、「それOKRに関係あるの?」って自問自答するとアッハイみたいな感じですすっと消えるんよね。(こじつけて関係あると言えなくもないけどそんなの欺瞞だよって思う)
それによって非効率でストレスフルな環境を我慢して使い続けることになる。正直くそだるい。
OKRの目標値って結局売り上げだから、それに沿った改善ってやつを目指すと結局お客様が第一、というより売り上げに直接関係ないものは我慢しろみたいな感じにしかならなくて日々の業務がつらい。
自主的にお客様に忖度しているウォーターフォールみたいだ。いっそウォーターフォールで指示出せよ。
思うに、OKRとは全く関係がなくても、現場目線で困っていることを改善したりとか、現場目線でやりたいことをやる裁量みたいなものが現場にないと、やらされている感じだけしかしないんじゃないだろうか。
本来、基本的な足回りを改善していくことは地道にパフォーマンスがあがって、結果的にはお客さんに届けられる価値も雪だるま式に増えていくと思うのだけど、ひとつひとつの改善案を「それOKRに関係あるの?」って言われるとなんかもうバタフライエフェクトなみに説明がめんどくさくなってアッハイカンケイナイデスヤメテオキマスっていうほうが楽になるの。メモリ4GBじゃ駄目な理由を説明するようなものに近い。
やはりウォーターフォールが良い。あれの欠点は最初の皮算用に説得力がありすぎて期日が延びないことだけだ。そこさえ調整が利けば明瞭で良い。
自分も 8080 ハンドアセンブルの時代から触っているが、現代は覚えることがたくさんありすぎてあの頃のようにいかないと思ってるよ。
自身が学習すべき範囲は厳選しないと、新しい技術もどんどん出るからそれらを学習したほうがより良い。
自信を喪失した発達障害者には訓練が必要というのが当事者である私の持論だ。
発達障害者には仕事先に似た環境をバーチャルに構築して訓練させるべきである。
似た環境が用意できないならば、仕事内容だけでもできるだけ似せてほしい。
県によってはそのような訓練を受けられる場があるだろうが、事情で受けられない人間もいるだろう。
そこで現実に近い環境でログをとりながらバーチャルの訓練を繰り返し行えば発達障害者の立ち回りの癖などを把握・改善もできるはず。
ランキングがあれば自分がどの程度の仕事ぶりをできているかを把握しやすいかもしれない。
①素人がバーチャルに落とし込んだ訓練が仕事の役に立つ確証はあるのか、確証をとる人間はいるのか
②誰がそんな手間のかかるものを作るのか(モデル・アニメーション・プログラム・仕事のどの流れを移植するか考える人)
①バーチャルに落とし込んだ訓練に効果はあるのか、効果を確かめる人間はいるのか
https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20170902003/
軍の訓練に応用する例もある
https://www.gizmodo.jp/2015/06/soldiers-on-virtual.html
素人が作ったら素人が検証するしかないです(個人の経験だと市販の対戦ゲームが仕事に役立ったことはある)
②誰がそのようなものを作るか(モデル・アニメーション・プログラム・仕事のどの流れを移植するか考える人)
私は作れませんでした。
マイクラやマリオメーカーくらいサクッと作れるようになればそれぞれの仕事先に最適化しやすそう
現実世界の要素を多く取り込むことで発達障害者の症状と向き合いながらプレイすることが大切なのだが課題が多い
フロアや柱のシミ・錆び、色とりどりの花とテレビ、人の雑談と怒号etc....
そこまでゲームに落とし込むことは現実的に難しいし、落とし込んだところで超高画質ゲームを遊べる人間がどれだけいるだろう?
みたいなことを大真面目に言っていた友達がいたが、俺も「全て」は言いすぎにしても一定程度同意できると思った。
正確には「完成度の高い物語は全てミステリの文法に則っている」というのが俺の主張。
たとえばラノベやなろう系であっても、人気のものは基本的にミステリの文法に則っている。
最初にそれを感じたのは「灼眼のシャナ」1巻で相手の作戦を打ち破るために主人公が起死回生の一言を発するシーン。
それまでの話に出てきた要素や説明を全て踏まえて、ちゃんと考えなければ出てこない解決策だった。
「ハルヒ」も「禁書目録」も「サクラダリセット」も「はたらく魔王さま!」も「ロウきゅーぶ!」も「りゅうおうのおしごと!」も、章ごとの核となる部分でしばしばミステリの文法が使われる。
すなわちミステリの文法とは、【物語の転換点に出てくる困難な障害を、それまでの物語に散りばめられた情報だけを使って解決する】ような話作りのことだ。
これに対してその場で急に出てくる設定や、根気と努力、謎パワーなどで乗り越えてしまうのは、ミステリの文法ではない。ファンタジーの文法とでもいうべきか。
俺が思うに、面白い、また読みたいと思うような話は、基本的にこのミステリの文法に則って作られている。
漫画でもそれは変わらない。
「バーテンダー」は1話構成で、毎回異なる客の悩みをマスターが酒や話術さりげなく解決する運びだが、
マスターの使う、客の素性の推理、客が自分からは言わない悩みの突き止め方、その解決方法などは完全にミステリであり、ホームズを彷彿とさせるところがある。
「ドラえもん」もひみつ道具の使い方がミステリじみていることがしばしばある。大長編ドラえもんなどはその典型で、基本的に終盤でぽっと出の道具が問題を解決することはない。
序中盤にさりげなく出てきたなんてことない道具が、最後のカタルシスを導いたりする。これも完全にミステリの話運びだと言えよう。
「五等分の花嫁」は、零奈が五人のうちの誰かという謎の解決が、物語の主軸となる。伏線をしっかり張った謎と解決は、ミステリの文法だ。
ジョジョやハンタの能力戦で、相手の能力や相性を考えて、どうすれば勝てるのか、単に力比べでない解決を導くところも、もちろんミステリ。
一般小説でも、なおさらミステリの文法は重視される。作例はありすぎるのでいちいち挙げたりはしないが。
何にだって謎があるのだから、ジャンルによらず、それをしっかりと伏線を貼って回収すべきだ。
これをきっちりやっている作品が面白くて、逆に、全てがファンタジーの文法だけで作られた物語は、完成度に欠けるよね、と、そういう話。
(追記)
当然ミステリは読んでるしどちらかというと生粋のミステリ読みに近いよ俺は
でも全ての物語はミステリであるって言う時に本当のミステリの話をしたって意味がないでしょう
それに一般小説は書いたら書ききれないしここじゃ反応も微妙だろうから省略しただけで、中高時代はともかく今はラノベより一般小説の方ばっかり読んでる人間だよ
俺は田舎って程ではないけどけして都会じゃない程度の出身で、学校は高卒後に資格取るために少し学校行ったくらい。別に周りに大学あったし、親も公務員なので大学に行けない環境だったわけじゃないのに高卒になったぐらいなので脳みその出来はお察しください。
その後結婚してそのまま地方都市で自営業を始めて7年、今年収2000万ぐらいなんとか稼げてる。世の中では年収2000万はエグゼクティブ層とか言うらしいから、たぶん東京でもそこそこお金持ち扱いされるくらいなんだろう。
ただ、こんぐらいお金増えても貧乏で毎日うどんに麺つゆかけて食ってた頃とあんまり幸福度が変わった気はしないんだよね。他の人も言ってたけど、生活レベルを上げることを夢見て、実際に上がっていく過程が一番幸福感を感じてた。毎月の収支が少しずつ増えていくのを一喜一憂して過ごしてたけど、今は月の売り上げ500万ぐらいあっても先月より減ったなんて文句言ったりもしてる。
都会の金持ちの子供は確かに環境的には恵まれてるけど、本人の能力以上の下駄を履かされて歩かされるわけだし、そこから更に上に上がるには努力や金じゃ覆せない家柄とかの世界になっていくわけだから後は落ちるか現状維持しか選択肢が無いのはある意味不幸なのかもしれない。
俺は自分の子供はオツムの出来にあった所へ進学させたいと思うよ。お金を稼ぐ術に関しての勉強は別でさせてあげたいと思うけど。別に地方で育って低学歴でも生きるのに十分な金を稼げることは親の俺が証明してる。
教養面だって美術館なり図書館なり目の前の箱なり、今ならいくらでもインプットできる場所はあるしね。親の金で買ったトリーバーチ自慢するより、大人になってから自分の金で初めてブランド品買って、愛着ありすぎてボロボロになるまで使っちゃうような人間に育ってほしいわ。
こんばんは。
身に覚えのありすぎる世界の話だったのでなんか言いたいなと思いました。
私は同じ市内や隣の市の人ぐらいなら皆家族の誰かの知り合いの知り合いで、すぐに情報が得られるくらいの田舎で生まれ育ちました。
母はパートで、父は町工場で働いています。100円の回転寿司チェーン店やファミレスでの食事を特別な日の外食だと思って育ってきました笑
正直、都会から来た投稿者さんが田舎で生活していた当時に身の回りにいたら『うざっ』て思ってしまうと思いました。
親の金で気飾ってることを鼻にかけてる都会から来た何か偉そうな気取った女に見えているからです。
後、お金がないからパス、とか今回は安いとこにしよーというのは、ごくごく普通にありふれた会話だったので、その発想がないこと自体に驚きました。
私たちにとっては、気持ちよく友人関係を続けるための言葉でもありました。気遣いみたいな意味もあったと思います。
あ、そうそう。ブランド品を持っていたとして、田舎でどこに持っていくのでしょうか?
田舎ではブランド品を持っていくのにふさわしい場所も使うタイミングもないです。
だから、田舎でブランド品を身に付けている人や高級車に乗っている人は『意味の無いこと・無駄なこと』をしている人に見えるのです。だから目につきます。
水泳大会でスーツの人で泳ごうとしている人が居たら笑うでしょう?
それと一緒です。
何故かは分かりませんが。
田舎らしくない、TPOを弁えない服装、言動は正当な理由がない限り、受け入れられません。
そして残念ながら、そんな田舎では、人の噂話が最高の娯楽です。
都会の人には信じられないかもしれませんが『村八分』という文化(と言っていいのか?)も未だに普通に存在しています。
不平等ですね。世の中は。
しかし、スローライフだ自給自足だなんだと田舎に憧れをもって引っ越して来るような人たちがあとをたちません。馬鹿だなぁと思ってみています。助け合いでの生活なんて幻想です。待っているのは相互監視と足の引っ張り合いです。おすそ分けにくる優しそうなおばあちゃんはスピーカー搭載のスパイだと思ってください。
どうか騙される人がこれ以上でませんように。
アニメ1期ももうすぐ終わり、現代の零奈の正体も分かったという所で現状で勝手気ままに結末を予想しておき、最終回後に「全然違ったじゃねーか!」となりたいので予想しておこうと思う。
まず結論から言うと、ハーレムENDじゃない限り花嫁は三玖だと思う。別に俺が三玖天下第一なわけではない。むしろ現状最も負け筋濃厚な一花推しだ。
漫画のプロット的に考えるなら、過去の京都の真相を知っているであろう四葉か五月が最終ヒロインなんだがこの漫画の主人公である風太郎のキャラクターを考えるとこの展開はちょっと無いと思っている。風太郎は常に前を向いていて過去を振り返る男ではない。最新話での零奈への態度を見てもわかるように、既に京都の話は彼の中では終わっていて零奈との出会いからの誰かの役に立つため勉強一辺倒だった人生から、その能力を活かして自分自身の夢を探すというフェーズに移行していると思われる。ここで過去の事実を知ってそちらに揺らぐのは風太郎のキャラクターがブレることになるのでこの作者はそれはやらない気がしている。四葉、五月は風太郎が過去を清算して、現代の自分に思いを寄せる女性たちに目を向けるという役割を担っているんではないか?
そうなると花嫁候補は1~3になるわけだが、二乃は家族旅行編で風太郎にキスした五月である可能性がほぼゼロなのと、さすがにこのまま先行逃げ切りはストーリー上無理がありすぎると思う。一花は3年生になるまではまだ目があると思ってたけど、
一番人気の三玖ファンからのヘイトを集める展開を花嫁にさせる展開は作者的にも編集的にもやらないだろうから、残念ながら一花ENDもまあないかなと思ってる。一番生々しいキャラで好きなんだが…
そんなわけで半分消去法で俺の中では三玖が花嫁と予想。ただねー、家族旅行編で三玖がキスをしてる可能性もだいぶ低いは低いんだよね…正直あのキスをした五月=未来の花嫁ってのが明言されてるせいで順当に考えれば心情が隠されてる四葉か五月が花嫁の可能性の方が高い。学校で最初に出会った五月と、実はそれよりも前に京都で最初に出会っているであろう四葉が真ヒロインなほうがベタといえばベタ。
それでも三玖が花嫁じゃないかと思ってるのは、身も蓋も無い話、連載開始当初からずっと人気投票1位を独走してる三玖を花嫁にするよう展開修正するんでないかと思っているからである。
※追記
書きそびれたけど、「負けヒロインの落とし所」って観点でいうと四葉花嫁ラインが強まる。1は女優、2はケーキ屋、3はパン屋(個人的にはケーキ屋とパン屋の店長がくっついて、一つの店舗になる展開が最後ある気がする)、5は教師と未来のビジョンがあるんだけど四葉はそれが無い。過去の京都に囚われてる四葉を未来志向の風太郎が救うという展開も綺麗なんだよなぁ〜
この話題について。
ネットに広まる「魔女っ子は放送禁止用語」説 調査して分かった「放送で扱いにくい理由」と「一般人が納得できない理由」 - ねとらぼ
先に結論から言えば「放送禁止用語」という言葉は放送局では使われていない。「使用を注意する言葉」というものがあるだけだ。言葉の言い換えかよ、というツッコミが入りそうだが、そういうことではないのだ。以下は、そのお話である。
まずはこれだ。最近はそれほどの差もなくなってきたが、それでもニュースでは絶対に使ってはいけない言葉、というのがある。例えばおおよその量を示す「約」。別に規制する理由もなく普通に使われている言葉だが、これを「やく」と読むニュースは稀だ。おおよその量を示す言葉のあとには必ず数字が来るが、どんなにいい滑舌でこれを読んでも「ひゃく」と聞き間違う人が出てくるから、必ず「およそ」と読むことになっているのだ。だから、訓練されたアナウンサーは完成された原稿でなく普通の文章を読むときもふりがななしで「約」が出てくると「およそ」と読んでしまう。ミステリーなんかの伏線に使えると思うので使いたい人は使って欲しい。
「ら抜き言葉」には気がついている人もいるかもしれない。別に放送禁止用語でもなんでもない言葉なので、街頭インタビューを受けた人でもそれを修正するよう言われた人はいないと思うが、文字起こしでは必ずら抜き言葉ではない表記に修正される。これはバラエティでもそう。お笑い芸人は言葉を使うプロではあるが言葉遣いのプロではないので、ら抜き言葉は時々登場するが、テロップ上では大体の場合ら抜き言葉ではない表記になっているはずだ。逆に訓練されたアナウンサーはら抜き言葉はまず使わない。
NHKが「テトラポッド」や「真っ赤なポルシェ」の出てくる歌詞を規制した、なんて話が過去に言われたことはあるし、NHKは商売抜きでの放送を強いられているのでそういうところに敏感だ、なんて話も聞くことがあるが、この辺実はNHKと民放で差が縮まっている部分ではある。民放は民放でスポンサー競合などを嫌うため、特定の商品紹介でない場面では番組内で商標を使うのを控える傾向にあるのだ。セロテープはそのいい例だろう。ちなみにガムテープも「粘着テープ」という言い換えがまま見られるが、実はその意味でのガムテープは今は商標登録されていない。明治がお菓子の名称として3年前に登録したきりなのだ。明治の「ガムテープ」ってお菓子を見たことはないがそういうアップデートが遅れているところはままあるものではある。余談ではあるが、最近テレビで「無化調」という言葉が特にラーメン紹介で使われているかは調べると面白いかもしれない。
マスコミ、特にテレビは少なくともニュースでは「東北本線」「国道4号線」とは言わない。「東北線」「国道4号」という。これは現場間の用語統一のために決められていることでまあ説得のために屁理屈は付いているのだが屁理屈以上のなにものでもないので記載は省略する。そもそも「東北本線」は他ならぬJRが使っている言葉なのだがマスコミはそれを何らかの事情で使わないことがある。またニュースではないが、商品紹介の際の形容詞まで決められていることもあったりするものもあり、例えばあるビールでは「すっきりしているのにうまみも十分」という表現しか出てこない((この表現で検索するとある1つのブランドしか出てこなくなる))。まあこの辺はまともな事情から大人の事情まで様々ありすぎて一言では言えない。近々近場では「岩手公園」が「盛岡城跡公園」に名称変更されたのだが、これがまた正式名称の変更ではなく愛称として別の名前をつける、という複雑な命名の仕方をされたためNHKと少なくとも地元民放1局は改名前のまま「岩手公園」として呼ぶという複雑なことになっている。ちなみに残念ながらかどうかはわからないが、本名能年玲奈さんはこの辺でも度々テレビに出ているのだが、その時は「のん」呼びされてはいる。仮に何かの犯罪で逮捕されたら「『のん』こと能年玲奈容疑者」呼びになるんだろうなと思うが未だ犯罪では逮捕されていないので蛇足でしかない。
ここまで挙げた例はおそらく一般の人が思い浮かべる「放送禁止用語」とは違っていると思う。だから「使用を注意する言葉」は「放送禁止用語」とは別物であると言ったのだが、「使用を注意する言葉」とみんなの思い浮かべる「放送禁止用語」が重なる部分は存在する。それが「蔑称」である。被差別階級や身体障害などに関わる話だけなら判断は簡単そうだが、何らかの職業の後に「屋」をつけて呼ぶような、後から蔑視の意味で使われるようになった言葉まで考えるとどこからどこまでが明らかな「放送禁止用語」かは言えず、だからこそ「放送禁止用語」ではなく「使用を注意する言葉」なのである、とも言える。
実際「魔女」が蔑称なのかと言われると確かにそういう場面もありそうだが日本ではまだそういう場面は少なそうでもあり、昨今は例えば百姓、みたいに自称の場合は問題ないんじゃないかとか、「めくら」みたいに過去許されても今許される表現ではないんじゃないかとか、有料視聴の場所なら但し書き付きでいけるんじゃないか、いや但し書きつけられるならどこでもいけるんじゃないかといろんな異説が生まれつつリアルタイムで揺れ動いている話題であり、個々の言葉ごとに注意度にもグラデーションがあり、少なくともこれらはなんの留保もない「禁止用語集」みたいなところでまとめられるものじゃない、ということは繰り返し言っておきたい。
今書いたことを、そのまま伝える。攻撃的すぎるように感じるかもしれないが低学歴が察することは絶対にない。
そのうえで今後の数十年を一緒にどう生きていくかを話し合ったほうがいい。
ただ、そもそも論を言わせてもらうなら、そこまで知能が違う女と結婚したことが信じられない。
価値観は違ってもいいが、知能に差がありすぎると会話が成立しないじゃん。
あと低知能は、なにかに依存する確率が高いからスマホだったり、テレビだったり、宗教だったりと影響されやすい。
長い結婚生活を低知能と生きていくなんて考えられないな。知能の差は少ないほうがいい。
頭が悪い人の気持ちがわからない程度の人の事を頭がいいと言うのか知識がありすぎて知識のない人のことがわからないという事はその有り余る知識の中にあたまのわるい人のサンプルはないのか知らないけど
あたまがわるくて知恵がないから怒るというところまでの一連の流れに近い位置にいるなら、もっといえばその怒りの結果まで見届けることができる位置にいるならどうしていいのかわからなかったりどうしてなのかを考察できないわけではないから知識は蓄積し解決方法は熟成されていくんじゃないの?
それを理解しようとしていない原因は「妻のあたまがわるい」という評価が結論になって結果から考察し手段を選択し取り組むがなされていない、レッテルはる作業完了したら僕の作業は終わりだと言ってる所なのではないかと感じるんだけど
妻と同じ目線にたって妻の視野から見た世界では障害物がとんでもなく大きく迂回ができずだれかに大声で訴えないとその障害を乗り越えられないと思い込んでいると分かれば迂回路を教えられるんじゃないの?
上から見て左だ左にまわれいいからそこからみえてなくてもこっちからみていればみえるから左に迂回しろいいからだまって考えずにとりあえず従え、といったようなアドバイスが壁しかみえていない妻にとどくと
壁をみつめてるこっちの気持ちもわかれよ人の話をきけよ左とか行けねえんだよだまって助けろ思いやれ、と思ったりしてるかもしれないじゃん?正論述べて正解教えただけで解決しそうかどうか妻視点と視野でみないとわかんないじゃん?
それを対面でおまえがとかこっちがあわせてやるしかとか対処って形で寄り添うことがなければもうだめじゃない?
あたまのいい人ってバカの使い方を知ってるわけじゃなくてバカの思考回路をバーチャルで組み立ててそれになって見てその再現がリアルだからその先を一度ためして先回りして誘導できるところなんじゃないの?
最近セックスレスの話題がちらほらあってその度に思うんだけど、解決には夫婦で話し合ってみるしかない気がしている。
レスなのを愚痴りたいだけならそれはそれでいいんだけど、解決したいなら話し合いか離婚の二択以外思いつかない。外注や不倫もあるけどバレた時のリスクが高い。時間で解決も分が悪い。
話し合う以前に向こうが取り合ってくれないとか、深刻さをわかってくれないとか、怒ってくるとかあるかもしれない。けど、本気で悩んでいるのに話し合いを放棄するような相手なら、自分が我慢するか離婚届けを差し出すしかないよね。
3大欲求は食欲、睡眠欲、性欲っていうけど、性欲は個人差がありすぎる。
10段階でいうと、食欲と睡眠欲はほぼ5~7段階だけど、性欲は0~10段階でバラバラの印象。生きるために性欲は必要ないから仕方ない。(種の繁栄には必須だけど)
個人差が大きい性欲を相手に察してもらうのはまず無理だと思う。
セックスしないと心が餓死する人もいれば、正直セックスが面倒な人もいる。拒否される側はひたすら苦しむことになるし、拒否する側もあんまり興味ないことを高頻度で数時間やらされるのもしんどいだろう。
別に性欲に限らないけど、結局は夫婦で話し合って、お互いの価値観を共有して、そこから解決のために妥協できる範囲を探して歩み寄るしかないんじゃないかな。理想論かもしれんけどさ。
女性は出産育児でホルモンバランスが変動して性欲が変わるらしいが、それはどうしようもない事だ。男性も年齢で性欲が増減したり、突如新しい性癖に目覚める可能性も考えられる。
状況が変わって何か問題が出てきたら、その都度話し合って歩み寄って……って繰り返すしかないと思う。正直面倒くさいが、他人と暮らす以上は避けて通れないんじゃないかな。
どっちかが我慢するとか、薬で対処するとか、病院行くとか、外注するとか、性欲のわかない理由を考えてみたり、解決策を一緒に模索してさ。
今いるジャンルで愚痴垢という存在が大嫌いになった。コスプレに肯定的ではないからとレイヤー晒しとかの時はなんとも思わなかったのに、今いるジャンルの愚痴垢がやばすぎてガチでバルサン焚きたい。
好きな界隈で小さな問題を積み重ねた結果、大問題が生じてしまった。本当でなくとも取り返しがつかないもので、騒動の超初期からはみてない私でものらりくらりとしていた時期や声を上げた人が叩かれ撤退したときはあった。それでも問題のまずさが他の方面にも広がるにつれ、問題解決に向かおうとする傾向になってきた。解決のためのツイートはrtされやすくなり、その後問題に関わる人が逃亡することはあれど、解決できるんじゃないかと願っていた。諸事情で解決する前に終了宣言が出てしまったけど、今でも解決してほしいと願うことしかできない。
それでも愚痴垢という存在がなければ解決できたんじゃないかなと思ってしまう。自界隈の攻が受にされている超大手の界隈にはいい思いをされてないことは確かだけど、その界隈や他のcp界隈だろうと推測できる愚痴垢ばかりだ。いいね欄や問題が起きた時にあるcpだけ責めないからこそ推測してしまう。こっちはツイッターでもはてブにも自界隈のオーソドックスな風潮として二次創作の嘘を突かれたり、マシュマロという形で突撃されてたりする。
確かに超初期〜初期の頃は追い出したり、発言しないということをツイートしてた創作者もいたし、かつてミーハーなファンが全く関係ない人に凸ったということもあった(その時期いなかったけど)。だから愚痴垢とかいう触れたくないものが嫌いになった。
なのに、色んな愚痴垢を見に行ってしまう。無断転載している垢や自演箱を置いてる垢をみてまだ生きてるのかと残念に思う気持ちが少ししかなくて、どこまで堕ちるんだろうと愉しんでいる自分がいる。潰れたら残念に思うかもしれない。これ以上視界も、脳味噌も、神経の一つでさえ、愚痴垢をみて穢したくないのに、みてしまう。崇高なことを言っていても、その正体は他cp者ということが実際あった。許されないことをした。だから責められるのは当然と考えても、それ自cpに邪魔だから排除しようとしてるんじゃと思ってしまう。真面目に辛い。それでその他cp固定のファンが苦手になったりと影響がありすぎた。でも愚痴垢をみてしまう。やめたいけどやめられない。どうしよう