はてなキーワード: 日本学術会議とは
「反対派はロリコン」への反発が強く、賛成派全体の意見というわけでもないので、分けました。
ただ、「反対派はロリコン」派は、実際に結構な人数Twitterで見かけられますので、消すことはしません。
議論も出尽くした感があるので、この辺で引き上げ賛成派と反対派(慎重派も含む)の意見をまとめる。
性的同意年齢とは、性交渉をもつかどうか同意可能な年齢のこと。
その年齢未満の人と性交渉を持った場合、状況や同意の有無にかかわらず問答無用で強制性交等罪に問われる。
性交渉がどういう意味を持ち、どのような行為をして、どういうリスクがあるのかわからない子どもたちを保護するために、多くの国で設けられている制度で、日本では「13歳」と明治時代に制定されており、中国の14歳よりも低い年齢である。
韓国でも13歳の規定が続けられてきたが、今年5月に16歳に引き上げられた。
日本でもHRNや日本学術会議などが、同意要件の追加などに加えて、性的同意年齢の16歳への引き上げを提言し、法務省と検討会を開いてきたが、どうも実現できなさそうとなり、Twitterで話題となっている。
大人と子どもの性交渉は、子どもの無知や力関係に付け込んだ性的搾取であり、許されない。
青少年保護育成条例はたった2年以下の懲役または100万円以下の罰金刑であり、軽すぎる。
強制性交等罪に問おうにも、暴行・脅迫によって抵抗できなかったことを証明しなければならず、恐怖心から抵抗するが著しく困難な子どもには酷である。
青少年保護育成条例で足りる。
足りないなら、青少年保護育成法のように、法律に格上げして刑を底上げすることもできる。
ただ、暴行・脅迫を伴う強姦と同格にするのが適切な量刑か疑問。
妊娠しても責任をとれないような年齢で、恋愛関係にあっても性交渉を持つ必要はない。
現在でも青少年保護育成条例はその文言上、中高生同士の性交もひっかかるが、実際にしょっぴかれるのは19歳以上のものばかりだ。
テキサス州の「ロミオとジュリエット法」のように、一定の年齢差以内であれば免責する手もある(HRNの提言では、2歳以内の年齢差での免責が盛り込まれていた)。
必要がないということと、刑を科すべきということは違う。現に子どもたちの間で行われていることを刑罰の対象にしても、子どもたちを保護することには繋がらない。
現に18歳時点での性体験率は5割(https://medical.nikkeibp.co.jp/inc/all/hotnews/archives/280555.html)。クラスの半分を刑務所にぶち込むのか?
青少年保護育成条例で中高生同士の性交が引っかからないのは、真摯な恋愛の場合に免責されるからであって、性的同意年齢を引き上げた場合には、問答無用で刑の対象になる。
それに、警察や検察の運用のさじ加減に委ねた立法は危険である。
年齢差要件については、そもそも「子どもは性的な知識がないから同意能力がない」というのが法の趣旨であるのに、年齢差によって有罪・無罪が分かれるのは筋がおかしい。女性が高校生だとして、相手が同級生かおっさんかによって、その女性の性的同意能力が変わるわけではない。
そもそも妊娠は命の危険を伴うものであり、15歳以下の妊娠は早産や帝王切開などのリスクが有意に増す。
それに、実際の性行為においては、避妊をしてくれない男性と、そうした男性に嫌われたくないから断り切れない女性といった状況は少なくない。
性的同意年齢の引き上げと、それによる厳罰化は、そうした状況において女性が断る力となる。
性的同意年齢は、性交に伴う経済的、社会的、身体的リスクを認識できる年齢のことであって、リスクがなくなる年齢のことではない。
リスクがある行為を、リスクがあるという理由で法的に禁止することは、悪しきパターナリズムであり、原則自由なこの社会においては避けるべき立法論である。
リスクがあるから禁止するのであれば、高齢の女性の性行為も禁止すべきとなるし、一方で男性は性的同意年齢を低いままとしてよいということにもなる。
そのためこの問題に対する対応は、十分な性知識を子どもに与えることであって、性行為を行った中高生を刑罰に処することではない。
もし同級生の彼氏を刑罰に処するということになれば、むしろ女性は彼氏を刑務所に入れたくないために今よりももっと妊娠を隠そうとして、手遅れになるケースが増えるのでは。
アフターピルも低用量ピルも処方箋なしでは買えず、ろくに性教育も受けられず、妊娠したら退学、露見するのが怖くてぎりぎりまで病院に行くこともできず、死産してしまったら逮捕。
アフターピルや低用量ピルを処方箋なしで買えるようにして、性教育を拡充すればいいんじゃない?
妊娠による退学の強制は、そもそも違法なんで、そんなことを強いる学校を訴えなよ。
露見しても問題なくなれば、隠して出産して逮捕される女性も減るんじゃない?
子どもの権利条約に基づいて、大人たちだけで議論しないで、子どもの話もまずは聞いてみましょうよ
13歳の子どもが、性的なことで自律した意見を言えるわけないだろ。ほんとに子どもの法的保護にかかわってるのか?
は?ロリコンか?
引き上げに反対とか言ってねぇだろ。
反対派はロリコン
黙ってろ
黙ってろ
引き上げには賛成だし、他の国では引き上げできてるんだから、日本でも引き上げできるんじゃない?
ただ拙速に引き上げると社会的混乱がでかすぎるので、性教育の拡充と、避妊手段への容易なアクセスを確保してから数年後とかが前提として必要だろう。
同じだね。
日本語の「したがって」はその前後の因果関係を示す接続詞だけど、日本大好きな人たちによるとそうでない使い方もあるようだ。
問題を矮小化するための根拠として別の瑕疵を持ってきてセメダインCでくっつける、ということを彼らはよくやるけど、いやそれはそれ、これはこれでしょ、っていつも思う。これにもちゃんとした日本語があって、是々非々っていうんだけどね。
ナイキのCMメッセージを称賛している人は、ナイキがウイグル族の強制労働に加担していたことに対して肯定的なわけではない。それは間違ってるが、CMメッセージは真実を含んでいる、という是々非々の評価をしているわけだ。学術会議も同じ。まあ組織の内情が腐敗しとるっつーならそうなのかもしれんし本当なら是正されるべきでしょう。それはそれとして、任命拒否の理由くらい説明しましょうよ、是々非々でね。
ナイキの反差別メッセージをとにかくなかったことにしたい、なるべくくだらないことのように見せたい・思いたい人々がウイグル強制労働だの宮下公園だの(こういう時だけ都合よく)持ち出して「でもナイキの言うことだからな~、だってあいつらってほら(略)」「でも学術会議の言うことだからな~、だってあいつらってほら(略)」
これ常套手段なんですよ。
日本学術会議の件でいろいろと炎上しているが、学界の片隅に身を置く人間として言っておくと、学者は公正中立でもなんでもないからね。
もちろん特定の政党にどっぷりコミットするような学者は学界でもあまり評判は良くないけど、それでもみんな何らかの「政治的」なポジションを持ってる。
政治的っていうのはどの政党を支持するのか、どんなイデオロギー的位置づけなのかということももちろんそうだけど、学界内での力関係という意味もある。
例えばこんな話がある。
今から50年くらい前、とある権威ある大学で優秀な成績を修めた学生がいた。この学生は学者になろうと思い、その大学の教授の研究室に入った。そこで真面目にコツコツ研究していたが、その生真面目さが災いして教授と衝突することもたびたびあった。月日がたち、研究業績も残したその学生はアカデミック・ポストを教授に斡旋してもらうことになった。学界内でも研究室内でも当然、あれだけの優秀な学生なら教授の後を継ぐために大学に残るのだろうと思っていたが、教授は遠くの地方の大学への就職を斡旋した。生真面目な彼はその話を受け、一生その大学で務めた。しかし、彼の恨みは燻り続け、彼の門下生にまで波及した。さらに門下生の門下生、、、と連綿とかの教授に対する恨みは受け継がれている。彼の生真面目な性格もあり、門下生を多数輩出し、その中には彼の出身大学に並ぶ有名大学の教授にまで登りつめた人物もいる。その人物の論文も、かの教授に対する怨念のようなもので書かれている。その門下生の論文も同じ…そしてさらなる世代交代を迎えつつある今も…論文だけではない。怨念に憑りつかれた教授たちは学内運営や人事でもその力を存分に発揮している。業績があれば採用されるわけではない。
こんな感じで、公正中立に学問をする研究者なんて実はいない。学派的な対立や怨念から論文を多数発表する学者の方が実は多い。あまり優秀でなくても門下生を多数輩出する教授がいるのはそんな事情がある。税金から研究費をもらっているのにおかしいじゃないかと思う向きもあるかもしれないが、しょせん人間がやる以上、どうしてもこういうことはなくならないんじゃないかな。そもそも税金が公正中立に使われることを強く求めること自体、自分たちの首を絞めることになるわけだし。それくらい割り切って考えた方が世の中生きやすいですよ。
日本学術会議により、性行為を有罪とする案が提唱された。この案から逃れるためには、一度性行為を行った後で二度と相手から嫌われないようにする絶対的な努力が必要だ。数回会ってデートして交際し始めて性行為に及んだとしても、その後縁が切れて別れたら常に有罪からの刑務所送りのリスクを抱えるようになる。例え自分が正常であっても、相手が何か思い込んで「自分は被害者だった!」と思ったり、弁護士が「人権保護のために訴訟手伝います!」とTVCMを始めたら人気ビジネスになっていくのだろう。
これまではリベンジポルノにより、一度付き合ったけど嫌な思いをしたら晒上げてやり返すことができた。はてな村でも大騒ぎになった一件も、この案が通った後であれば有罪にして刑務所送りにすることができるようになる。何ならまだ時効が成立していない気がするし、某氏は今後逮捕拘禁される可能性がでてきた。
いわゆる美人局は、きれいな子と仲良くなってホテルに向かったら、そこにはいかつい人がいて~という流れだったと思う。経験したことがないけど、知人があったのはまさしくそんな感じだった。しかし、今後は違う。マッチングアプリで仲良くなっていい雰囲気になり、デートして性行為をした後にはいつ逮捕・拘禁が訪れるか分からなくなる。
時効が何年に設定されるか次第になるが、一度行為に及んだが最後、事項切れまでは常に逮捕拘禁の恐怖と戦い続けることになるのだ。
この結果が導き出すのは、晩婚化のさらなる加速と少子化だろう。常に逮捕拘禁からの人生終了フラグを抱えながら生きていきたい人などいない。ある程度の地位をえらえるまたは得た人は避けたいはずだ。順調な交際をしたとしても、手を出すことはまずできない。性的な接触をしたが最後、いつ訴えられるか分からなくなる。
覚悟を決められるのは、「この人になら訴えられても人生終わってもいい」と世紀末的な覚悟を決めたときになる。いったいどれだけの男子がこの決断をできるようになるのか?すでに性的な行為を必要としなくなったおじさん的には高みの見物だが、若者たちの未来に光があることを祈りたい。
解釈が変わるってことはコレ以前の任命に関しては「政府(総理大臣)に任命責任がなかった」って事になるんだよ。で、そうなると過去にさかのぼって日本学術会議についての何らかの問題が発覚した時に、推薦者に責任が及ぶことになる。でもそうなった時には十中八九、「いいや、日本学術会議法によれば総理大臣に任命責任が合ったはずだ」ってことになって、それはそれで面倒そうだよねぇ?
今回の件は「早い内になぁなぁなのはもうやめにして、『過去から今までずっと総理大臣は任命責任を果たしてきたんだ』ってしといて今の内からコントロールできるようにしておいた方が、今後面倒が減りそうだよね」って話だと理解した。
学術会議任命問題の本質は、今回の政権の動きを許容することにより、 戦前の「滝川事件」のような
出来事が普通にできるような社会になってしまうか否かというところだと思う。
臨時国会を召集しないのは違憲だとか、日本学術会議の会員任命拒否は違法だとか言うけどさ
本当にそう思うんなら行政訴訟起こせばよくない?
明らかに違憲、明らかに違法、って言うけど、本当にそうなら裁判すれば勝てるわけでしょ。三権分立なんだから。
なんか学校で習ったことと現実の政治が違いすぎて正直おっちゃんは時代についていけません。
公民の原田先生、元気かな。左寄りを隠そうともしない人だったけど、安倍菅世代の中学生相手にどうやって三権分立や法の支配を語ったんだろうか。
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日本学術会議が推薦した第 25 期会員候補者 105 名のうち、6名が菅総理によって任命されなかったことについて、
明確な理由説明はなく、説明の要求を斥けることは学問の自由の理念に反すると同時に、民主主義に敵対するものであり、
これに断固として異議を唱えます。
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《説明しないこと》こそが民主主義に反する権力の行使(国民に対する暴力)であり、主権者である国民に説明責任を果たすことが
情報公開の制度は古代ローマの時代イタリアの地で芽生えました。イタリア学会としてこれを看過することはできません。
必ず説明責任が果たされることをイタリア学会の総意として要望致します。
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イタリア学会は「日本におけるイタリア学の発展と普及に寄与することを目的としている。」(イタリア学会会則第 3 条)
イタリア学を通じて学び得た知見を社会活動に適用することは、学会の目的に適う実践的行為と判断し、
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菅首相は「(学術会議の会員は)広い視野を持ち、バランスの取れた行動を行ない、国の予算を投じる機関として国民に
理解されるべき存在であるべき」だと述べた。これをテキスト解釈にかけると「国の税金を使っている以上、国家公務員の
一員として、政権を批判してはならない」という意味になる。ここには 2 つの大きな誤謬が隠されている。
学問は国家に従属する《しもべ》でなければならないという誤った学問観であり、国家からお金をもらっている以上、
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学問は、国家や時の権力を超越した真理の探求であり、人類に資するものである。与党に資するものだけを学問研究と
みなすことは大きな誤りである。学問研究によって得られる利益は人類全体に寄与するものでなければならず、
判りやすい例を挙げれば、日本は西洋から数学や物理・化学を始め、あらゆる分野で多大な恩恵を無償で受けた。
万有引力定数や相対性理論を発見したのは日本人ではない。その恩恵と利益を受けながら、その使用料は払っていない。
なぜなら学問成果は全人類の共通善として無償で開放されているからである。
日本国には受けた恩恵を人類に返すべき義務があることは言うまでもない。
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国からお金をもらっている以上、政権批判をしてはならない」というのは手前勝手な考え方である。
公務員は政権の《しもべ》ではないからである。公務員は国民全員の利益のために働く。
政権が間違った判断をすれば、それを国民のために批判することは、むしろ公務員の義務である。
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古代の中国では臣下が君主に行ないを改めるよう諫言することは褒むべき行為とされた。
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翻ってイタリアの地、古代ローマの時代には、時の政権の勝手な振る舞いから国民を守るための公的機関である
護民官が設置されていた。現代の公務員に匹敵する護民官は、時の権力を批判・牽制するために作られた
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次に、菅首相は憲法 23 条が保障している「学問の自由」の意味を理解していない。「学問の自由の保障とは、
学者が学問的良心に従って行なった言動の評価は、まずは学者どうしの討論に委ね、最終的には歴史の判断に委ねるべきであり、
間違っても《時の権力者》が介入すべきではない、ということである。」(小林節慶應義塾大学法学部名誉教授)
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1632 年ガリレオ・ガリレイが『天文対話』を完成させた時、ローマ教会は検閲を行ない、教皇ウルバーヌス 8 世と
ガリレオはローマの異端審問所で証言するよう出廷を命じられ、翌年、6 ヶ月にわたる裁判を受けさせられた。
ガリレオは自分の誤りを認めさせられ、異端審問官の前で研究を放棄するよう宣誓させられた。
そしてフィレンツェ近郊で残りの 9 年の生涯を軟禁状態で過ごすことになる。
教会の決定に疑義を挟むことなどあってはならず、時の権力に反する主張は時の権力の判断によって封殺された。
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「今回、菅首相は、特定の学者の言動について《広い視野を持っているか》《バランスの取れた行動であるか》
について自分の権限で判断した」と告白し、その結果、《国の予算を投じる機関(の構成員)として国民に理解され
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問題は、仮に菅氏が高い実績のある学者であったとしても、同時に、《首相》という権力者の地位にある間は、
そのような判断を下す《資格》が憲法により禁じられているという自覚がないことなのである。
にもかかわらず、高い実績の学者たちが全国から会議に集まるために 1 人につき月 2 万円余の交通費を用意する程度の
ことを逆手にとって学術会議に介入しようとするとは、《選挙に勝った者には何でも従え》という、政治権力者の思い上がり以外の
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私たちが最も問題とするのは、《説明がない》ことである。憲法 63 条は「答弁または説明のため出席を求められた時は、
国会に出席しなければならない」と義務付けている。この趣旨について政府は「首相らには答弁し、説明する義務がある」(1975 年の内閣法制局長官)
と見解を示している。
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しかし、菅首相は官房長官時代から記者会見で「指摘はまったくあたらない」と木で鼻を括った答弁を繰り返して憲法を無視してきた。
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世界で初めて情報公開制度を始めたのはイタリアである。「執政官に就任して(前 59 年)、まずカエサルが決めたことは、
元老院議事録と国民日報を編集し、公開する制度であった。」(スエートーニウス『ローマ皇帝伝』第1 巻「カエサル」20)
それまで国民は元老院でどんな議論を、誰がしているか知る術もなかった。
議員が私利私欲で談合を行なっても、知る由もなかったが、議事録が速記され、清書されて、国民に公開されるようになったおかげで、
貴族の権力は大いに削がれた。隠れての不正ができなくなったからである。
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一方、その時代から 2000 年以上経った今の日本では、安倍政権下で情報は秘匿され、文書は改竄・捏造、削除され続けてきた。
確かに、日本では民草に説明をするなどという伝統も習慣もなかった。江戸城で開かれる老中会義の内容が知らされることもなければ、
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おそらく安倍・菅首相が目指す世界はこうした江戸時代のものなのであろう。人事で恫喝して従わせる手法は、一種の《暴力》とみなされる。
紀元前 5 世紀のアイスキュロスの作品『縛られたプロメーテウス』には権力の何たるかが活写されている。
この劇は二人の登場人物がプロメーテウスを連行する場面から始まる。
プロメーテウスは絶対君主であるゼウスの意向に逆らって、天上の火を盗み、人類に与えたために、
暴君ゼウスから罰を受けて、スキュティアーの岩壁に磔にされる。
この時、彼を連行する 2 人の登場人物の名前に作者の意図が巧みに織り込まれている。
二人は Kra/toj(クラトス)と Bi/a(ビアー)という名だが、ビアーの方は劇中で一言も言葉を発しない。
ギリシャ語でクラトスは「権力」を、ビアーは「暴力」を意味する。無言の暴力を用いて他者を従わせるのが権力であるという寓意である。
ギリシャ語のビアーやイタリア語の violenzaは単に武力による物理的な暴力だけではなく、圧力や強制を意味する。
ビアーのように《説明しない》ことが権力(クラトス)なのである。
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同じく、カフカの『審判』では主人公ヨーゼフ・K は、ある日見知らぬ 2 人の男の訪問を受け、何の理由も告げられず、逮捕される
(この 2 人の男はまさに「クラトス」と「ビアー」を暗示している)。
その後、何の説明もなしに、有罪とされ、「犬のように」処刑される。この小説でも《説明しない》ことが権力であるとして描かれているが、
ソルジェニーツィンの『収容所群島』にはまさに何の《説明もなしに》逮捕され、強制収容所に連行される日常が記録されている。
逮捕するのは決まって深夜である。深夜に訪れることで逮捕者を恐怖させる効果を狙ってのことだが、
また同時に、近隣住民が翌朝、隣人が忽然といなくなったことを知って恐懼するよう仕向けるためでもある。
これが不安をかき立て、恐怖を蔓延させる。いつ自分が逮捕されるか人々は戦々恐々とし怯えるようになる。これによって国民は心理的に権力によって完全に支配される。
つまり、《説明しない》ことこそが権力の行使であり、国民を無力化させる手法なのである。こうして国民は恐怖と不安から権力に従うようになる。
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こうした事例からも民主主義がいかに「説明すること」にかかっているかが判る。
説明と情報公開が民主主義を支える命であり、それを破壊する手段は《説明しないこと》、《情報を秘匿する》ことなのである。
たかが 6 人が任命されなかっただけで、ガリレオを持ち出すのは大げさであり、学者はそうした政治的な喧噪から離れて研究をしていれば、好いではないかと思う人がいるかもしれない。
ましてや一部の学者の話であり、自分たちには何の関係もないと思っているかも知れない。
しかし、問題の本質は、時の権力が「何が正しく、何が間違っているかを決めている」点において、ガリレオ裁判と変わりない。
科学分野の基礎研究の予算は削られ続ける一方で、軍事研究には潤沢な傾斜配分がなされる今の日本にあって、
また軍事研究に手を染めない学術会議の方針を苦々しく思う自民党政権においては、杞憂で終わらないことを心得ておく必要がある。
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実際、すでに文科省は今月17日に行われる中曽根元首相の内閣・自民党合同葬義において弔旗を掲揚し、葬儀中に黙禱するよう、
国立大学や都道府県教育委員会、日本私立学校振興・共済事業団、公立学校共済組合などに通知を送っている。
国民全体の奉仕者である公務員を、自民党のための奉仕者に変えようとする暴挙は許されない。
かつて次のように臍をかんだマルティン・ニーメラーの轍を踏まないためである。
(文責:藤谷道夫)
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ナチスが最初、共産主義者を攻撃した時、私は声を上げなかった。
私は声を上げなかった。
私は声を上げなかった。
ユダヤ人が連れ去られた時、
私は声を上げなかった。
そして彼らが私を攻撃した時、
私のために声を上げてくれる者は誰一人残っていなかった。
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通常の娯楽に加えて、(古代)ローマ人の労苦に満ちた厳しい生活を陽気なものにしてくれるものに、
凱旋式があった。
(中略)民衆は大喜びで拍手喝采していた。だが、部下の兵士たちから将軍に向けて罵詈雑言を浴びせる習わしがあった。
将軍の弱みや欠点、愚行の数々を公衆の面前であげつらうのである。将軍が高慢にものぼせ上って、
自分を無誤謬の神(絶対に正しい偉い人間)だと思い込んだりしないようにするためである。
例えば、カエサルには、部下たちがこう叫び立てていた。「禿げ頭の大将よ、他人の奥さんたちを物色してんじゃねぇぞ!
あんたは商売女(淫売女たちで)で我慢してりゃいいんだ!」1現代の独裁者たちに対しても同じように言うことが
できたならば、きっと民主主義にとって怖いものは何もなくなるだろう。
(Indro Montanelli, Storia di Roma, Rizzoli, Milano, 1969, pp. 141-142)
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「犬儒派(キュニコス派)のディオゲネース(前 400/4 頃-325/3 頃)は、
《何でも言えることだ(言論の自由 parrhsi/a パッレーシア)》と答えた。」
この増田が書いていることってのは、概ね同意出来るし、そういう傾向があるのは事実だと思うけど、フェミニストって限定できる傾向じゃなくて、日本を含めた世界に蔓延してる反知性主義だと思うんだが。
たとえば日本で言えばネトウヨやパヨク、政府や野党ですら同じような傾向を持ってるし、今話題の「日本学術会議」の問題についても結論有りきの批判と結論有りきの擁護が溢れかえってる。
この傾向は昨日今日始まったことでもない、少なくとも私が子供の頃から存在するし、そういうお手本を見て育ってる我々がそういった「非論理性」をもつのは自然なことだろうと思う。
それをフェミニストって枠にパッケージングしただけであって、ネトウヨやパヨクのパッケージに同じものを詰め込むのは容易いことだと思う。
そもそも「論理性」や「知性」が幅を利かせる社会であれば、民主党政権は誕生しないし、安倍政権の長期化もしてなかった、森友問題や公文書偽造の問題も有耶無耶にされてないだろう。
力こそが全てであり、力の前には「論理や知性」なんてものは吹けば飛ぶ程度の障害でしかない、そもそも我々が「論理や知性」を重視せずに「共感と直感」を重視してるわけだから、政権運営したり社会運動したりする人達が「共感と直感」に訴えかけた内容で力を得ようとするのは当然だし、そういった組織やグループが幅を利かせてるのが少なくとも日本の現状であろうと思う。